7 「生命と意識」
近代科学の優れた荷い手たちが自分自身にどんなに狭苦しい制限を課しているかを私は次の最も有能な学者の言葉を引用して示そう。
―科学がその理論をしっかり築き上げて以来、まともな人間では1人として次のようなことを考えた者はなかった。つまりどこからメカニズムはやってきたのか、どうしてここにあるのか、どこへこれから行こうとしているのか、あるいは、それを超えるものがあればそれは何なのか、それと対等に並ぶものがあればそれは何なのか――このようなことを我々が知っているとか、知りうる望みがあるなどと考えた者は1人としてなかったのである。これらのことは我々の感覚で捕えることはできないことであり、科学によっては説明はできず、またできうべきはずのものでもないのである。
(E・R・ランカスター 英国の動物学者)
私は自然科学の世界に関して、狭い意味で考えたにせよこれほど際立った無能宣言をすることにはためらう。しかしこれは一般に科学的唯物主義者とされている著名な学者たちの立っている立場を示し、また個人的なものではないが彼らの示した限界なるものを超えようとし、直接的な感覚で捕えられる範囲を超えた領域のことを探究しようとする他の科学者に対する反感を表わしている。
しかし私は彼の言葉のうち将来も知りえないとする、その将来に関する否定的な議論だけを別にすればこの言葉に同意する。メンタルなものを物理的なものに変換し、逆に物理的なものメンタルなものに変える器官は間違いなく脳髄である。しかしその変換がどのように行なわれるのかに関しては我々は考えの糸口さえ持っていないと私はあえていう。しかし、やがてはサイコフィジック(訳註)なプロセスを部分的に理解するのに役に立つヒントは非常に例外的なケースを研究することによって得られそうである。というのはこのような研究はノーマルなケースを継続的に探究するよりももっと示唆するところが多いからである。
(訳註) 精神物理学、ふつう刺激と意識の関連を問題とする学問をこういうが、ロッジがここで使っている意味はもう少し広く物質と精神の関わり合い全般を対象とする学問という意味である。
人間の意識という問題は確かに非常に際立って難しい研究課題ではあるが、といって全く研究が困難というものではない。それは生命の形態として我々の面前に置かれているものだからだ。生命と物質、あるいは心と生命の関わり合いは同一レベルの問題であって一方について理解の糸口が得られれば他方にもそれが光を投げかけると期待してよい。しかし、我々が もっとも単純なサイコフィジックな相互作用がどのようにして起こるのかという起こり方についてもう少し知識を得るまでは――つまり、我々が明らかに違った存在の形態である心と物質 という2つの存在の間の深淵にはどのようにして橋が掛けられるのかを十分に知るまでは――もっと事実を観察し、収集し、どんなに試論的な仮説でもそれを作るのには極めて用心深く対処することが安全というものである。少しでも有効な仮説を立てるためには、それが如何に試みのものであっても我々はもう少し多くの手掛かりをまだ把む必要があるからだ。
私は注目すべき本『進化と戦争』の著者ミッチェル博士のとっている立場に感銘を受けた。 私はこの著者の説に賛成にせよ反対にせよ性急な意見を作り上げているととられたくはない。それ はこの問題はいずれにせよもっと精細に論じなければならぬものであり、また挿入句的に扱われるべきものでないからだが、といって私は博士の議論に対し論争的な態度で臨む者でもない。この本から心と物質の関係、そして進化の過程で人間が自由意志と意識的選択によって動物とどのように違ってきたかということに関連のある数節を紹介しよう。
博士は意識の起源はその低次の段階において動物やまたおそらく植物の領域の中に根を持っているという説に賛成していない。また初歩的意識とか自由意志をただ人間に結び付けるだけでなく全ての生物に結び付けて考える議論――これらの論者は意志とか知性の基礎を原生動物の中にも認める――には強く反対している。また一方、彼は “極端に科学的" な学者連中の考え――彼らは人間の起源が動物だという意見で押しつぶされていて、人間の性質を原形質からだけ説明しようとする――にも反対している。彼は言う。
ー我々がその起源を生物を発生させる可能性を秘めた泥土の中に持っているという意見がどんなに役に立つもので、また興味あるものだとしても、我々が意識を持っており自由の感覚を持っているという事実は強力で何を以っても否定できない顕著な事実なのだ。 また
ーベルグソン流の解釈には意識や自由がどのようなものであるかについて我々を少しも納得させるものがない。そして彼らは意識や自由を人間だけのものから動物の中にも存在するとして話を拡大していく。しかし動物が自由を持つという云い分はもっとも好意的に評価してもせいぜい推量にすぎない。彼らはこうすることで自由や意識の観念から明確さと実在性をなくさせ、同時に人間と動物の区別をぼやかし科学と哲学のもっとも困難な問題を避けて通るのだ。しかし、このような事実は、動物は本能的で人間は知的、動物は責任能力を持たず人間は持っている、動物は自動機械で人間は自由である、そしてもしお望みなら神は動物に美しい肉体を与え人間に理性的魂を与えた......。というようにいう方がもっと真実なのである。 そしてすぐ続けて、
――物事に対処するのに同時に俳優、観客、批評家としてはせず、過去、現在、未来を分けては認識せず、一瞬のその場のフラッシュの中に生きる......我々が動物の意識に関してそれをもっとも高く評価してもせいぜいこれだけのことである。ここに人間と動物を全く違うものにするはっきりした区別がある。
――我々は南洋のジャングルから楽園の庭園への道程の途中でゴリラのような人間の祖先に外から魂というものが注入されたように考えねばならないのか? 私はこんな考えに賛成しない。しかしこの考えのほうがさっき私が紹介した一般に人気のある説よりは事実に対して正確なものではある。私はダーウィンのように人間の肉体が動物のそれから進化してきたという考えには同意する。そこで人間の知性、情動、道徳的能力も動物のもつ素質から進化してきたものであろう。その進化のプロセスを理解するために私は2つの実際に観察される事実を紹介しよう(その実例は省略)
ーこのあと彼はこの一節を「私の言葉は、もし私がもっと断定的に言えるとすれば人々にはシナイの雷鳴のように響くだろう」と結んでいる。この秀れた生理学者の意見は私がこの本で扱っている多くのことに関して私と同意見ではない。もしそうであったとすれば彼はこんなに弁解的な調子――私はそれは現在の科学の状況からして当然のことと思うが――で語らず、もっとよい著作になったと思う。彼の考えに対して冷たい誤解が生ずるのを防ぐため私はもう少し引用しよう。
―私は1つの生理学的事実として道徳法則は星空と同じような実在性を持ち、また人間の外部に存在するものだと言おう。この意見を私はダーウィン的進化論者の1人、解剖ナイフや 顕微鏡の愛好者、忍耐強い経験科学的観察者でどんな形の超自然主義をも嫌う者、そして思想とは胆汁が肝臓の分泌物であると同様に脳髄の分泌物だという言葉に関わり合うことにさえためらいを感じない者の1人としていうのである。道徳法則は1人の人間や1つの国民の中に存在するものではない。それは人類の長い歴史の血と涙の所産である。それは1人の人間の中に生まれつきのものとしては存在しないが、彼の伝統、習慣、文学、宗教の中に大切なものとして秘められている。それの創造と維持持続は人間の栄光であり、それを彼が意識することは人間を動物の境涯を遥かに超えたものにするのである。人は生き、死ぬ、1つの国民も興隆しほろぶ、しかし1人の個人、1つの国民の闘いは近視的に評価されてはならない。それは1人の人間や国民が人類の偉大な完成にとって、プラスかマイナスか、いずれの方向へ向かったかということで評価されるべきである。
私自身のこの種の問題に関する考えはもっと人間と動物などの間にある類似を認める方向のものである。私は博士ほどに人間と動物いな動物と植物、そしてまた物質からできている生物と非生物の間にすら大きな断絶を認めない。私は ^魂"という言葉の意味をもっと大きな分母として拡大する――すると分母の大きさがその分数をうんと小さいものにする――そして仮説的に単に個人の死後の生存だけでなく全ての生命の形態の死後の生存を認める。個人的人格に関しては、それは、それがすでに存在した場において残存する。そしてその存在はそこに将来に向かって永遠に存在し続ける。しかし個人性、人格性を離れて生命そのものの残存としてはそれはもっと場所的に拡張して考えてよい。
物質は道具、生命を形に顕わす手段であるが、それが唯一の可能な手段や道具だと限ったものではない。我々は体の組織を作り上げるために物質を利用している。しかし体の組織作りが終った時でも生命の持つ形成能かはまだ残っている。そこでその形成能力は物質的な世界以外にも形成能力を行使すると期待することができる。もしこの仮説――これは明らかに仮説である が――が本当だとすれば全ての生命形態が可能となる。進化のプロセスが現在の段階までになってきたことは、現在はまだ知られていない条件のもとで将来の方向へ同じことをなしていくと考えることができる。私は敢えて言う、非物質的存在の世界というものが将来は、いま我々がそう考えるのに慣れているものより遥かになじみのある、分かり切ったことになるかも知れないと。
それに、我々は眼に見える物質的な肉体だけが全ての生命の持ちうる唯一の体なのだとはどうして知ることができるのか? どうしてものは影的世界の中にその物質的な体の影的な片割れを持っていてはいけないか? おそらく全ての存在はその影的な片割れをすでに持っているのではないか、そして我々の感覚はそれの物質的な片割れの方のことだけを知るのであろう。しかし私はそのことを正確には知らない。このような考えは馬鹿馬鹿しいものに見えるかも知れない。しかし証拠がその方向へ私を導いていくなら私は理由のない抵抗をすることなくその 方向へついて行こう。ともかく事実は発見されるのを待っているのである。
(抄録終り)
残存人格の信じにくい理由
―小さな子どものように事実の前に座れ
そして全ての先入観は捨てよ どこのどんな深淵に自然が君を導き行こうとも、そこへ素直に従いて行け
―― トマス・ハックスレー
人々は死後の残存人格を信ずることには大きな困難をしばしば感ずる。同じように“次の世”と呼ばれる世界の存在を信じたり実感したりすることも難しい。しかし、そのようなことを考えると実はこの世の存在を信ずることも、やはり難しいのである。存在というものを信ずることは どんな存在でも同じように難しいのである。存在の全ての問題はまことに人を困惑させるものなのだ。それはア・プリオリ(先経験的に)に断言することは決してできないのである。全てのものは経験の問題、つまり事実の問題だと言える。
私たちは経験によって物事が実際に存在していることを知る。しかしそれがどうして存在しているのか、それらは何のために存在しているのか、それらは他とどんな関連を持っているのかといったことは我々の理解を超えたものである。我々は他のことについては何の経験も持ってはならないという立場を、もし基準として選ぶのでない限り、我々は自分たちのよく知っている種類のもの以外にはどんな種類の存在もあり得ないなどと仮定すべき理由を持ってはいない。しかし、これがまさに現在私が問題 にしていることである。我々はこの世の存在以外に、どんな存在にも直接的にも、間接的にも、何らかの証拠を持っているだろうか? もし持っているとすれば、その存在に対してその存在の実在性を信ずるのは困難だといって云々するのは無駄なことである。我々は事実によって導かれるべきである
人類の現在の歴史の段階では天文学の主要事項以上によく確証され広く受けいれられている科学上の事実はいくらもない。星の大きさや距離、とてつもない多数さ、太陽系のようなものが宇宙中には広く散りばめられていることなどは広く人々に知られた事柄である。しかし物事を想像する力のある人間の心にとっても、もしこれらの事実が本当に手で掴めるようであったとすれば、それは圧倒的なものであってかえって信じ難いことに思われるだろう。
太陽は地球より100万倍も大きい、アルクトウルス星はその太陽より100倍も大きく、そしてニューヨークとロンドンを20分の1秒もかからずに往復する速さの光でもそこから地球に来るには2世紀もかかる――これらの事実は小学生も知っている。しかしこの裸の事実はまさに恐怖さえ起こさせる事実のはずである。
地球は他の星から見れば眼にも入らないゴミくずみたいなもの、我々がその上に住んでいる世界は無数の同じような星の大群の中のほんの1つにすぎない―といった事実は街、汽車、役所といった慣れ切ったものに基礎をおいた存在に対する展望のとるに足りなさを実感させ、日常的経験と窮極的現実との間の比率の感覚を教えるものであろう。ヨーロッパ全体の大問題といえども。それは結局、蟻のわずらい、太陽の100万倍の100万倍の光の輝く光輝の中では......。 ということになるだろう。 しかし、また人間の魂は個々の個人にとって無限の価値、至上の重大さを持つものとして理解されねばならない。そしてまた、存在の可能性を狭く限ることからそれを広く拡げることはもう1つの重要なことである。物質的存在の多様さ、多面性、壮大さは人間の心をいじけさせるものではない。存在の可能性を拡げることは人間ドラマの演じられる舞台を、輝やかしいものとし、そして拡大し、我々にとって如何に大きな可能性の世界が常に存在しているかについて、常に心の用意をさせることになるはずである。
我々がそのような可能性の世界についてほんのわずかしか知らないということは何物をも証明する役に立つものでない―たとえば全ての眼に見える世界の存在、宇宙の存在の途方もない多様さについて我々がどんなに盲目であるかが何と容易にわかることだろう。昼間の仕事が終わるまで、我々の大きな星(太陽のこと)が地平の彼方にその姿を没するまで、そして夜の空が晴れわたっている時でなければ、そのような時以外には物質宇宙の壮麗ささえ我々の注意を惹くことはないではないか。いやその時でさえ、地上の大気がもう少し濃かったとすれば人間は地上の世界以外のどんな世界の存在にも気付くことはなかったに相違ない。こんな状況下―それを逃れることは難しいーのもとで人間の宇宙に対する概念は不幸にも如何に貧弱で狭く限られたものとなっているのか、我々が我々の置かれた状況、環境は宇宙にありうるどんな存在に対してもそれを知る手がかりをすでに我々に与えていると馬鹿な想像をするのならともかく、そうでなければ、不幸にも貧弱で限られたもの、という言葉は宇宙に対する人間の概念の本当の姿なのだと私は言いたい。そしてこれはほとんどためらいなく事実の導く所へどこへでも従っていこうとしてきた人々の概念さえそれは同じなのである。
科学、歴史、文学のどの分野の研究者のグループにせよ、もし彼らがすでに確立され組織立てられた知識の体系に基づいて彼らの視界に入ってくる――その視界は私に言わせれば半分は盲目なものの視界だが――事実について唱導し、存在の限界、ありそうに考えられる境界に関しては根拠のないせま苦しい考えを持っていて、それを自分らの物事をはかる地平線としているとすれば、そのことは嘆かなければならない事実である。これらの研究者は自分らの勤勉さ、精緻な今までの実績を自賛する一方、我々が他の分野の人々とも手を組んで上げてきた成果に対し不平の合唱を浴せるだけなのである。
しかし、この種の不当でネガティブな傾向を持った考えは我々の知らないものではない。 それは1つにはいまは確証された真実の美しい骨格となっているものの回りに寄生虫的にまつわり付いて真の姿をくらましてきた過去の残り滓をきれいに取払い、その真実の姿を明らかにしてきた今までの先人たちの業績に対する信頼から、そして1つには戦闘的な偶像破壊者からの防衛の情熱から生まれているのである。
ダーウィン主義者やその系統の仮説の成功は科学畑の人間だけでなく歴史とか神学とかの研究者をさえ事実に対する過度の信頼、不適当な評価へと導く傾向を持ってきた。そこでこんなことさえ言われよう―私は『ダーウィンと近代科学』という本から引用するのだが―「科学的唯物主義の時代はもっとも事実からは遠い時代であった。そして科学の時代は逆に根気強い探求を もっとも拒否する時代であった」私はこれほど極端には考えない。この説には誇張のきらいがある。しかし、彼ら自身強固なドグマと先入観の中にがっちり身を固めて戦闘的な姿勢をとっている生き残りの科学的唯物主義には嘆くべき傾向があるのは確かなのである。彼らはこの大して堅固でない城を素直に観察され記録された事実に対する防壁だと見なし、そればかりでなくその城を反対の立場の者を打くだくための砦にもしようとしているのである。
超常交信 (死者との交信) の方法
心は他の心に対してどのようにして心を伝えるのか? 私たちが使いなれている方法は奇妙にも一様に間接的な方法ばかりである。 スピーチ(話すこと)は頭脳と神経の統制のもとに口の筋肉を動かして空気の中に濃い薄いの波を作り出すことであり、これは表面的に見れば池の表面に波紋が広がって行くように広がって行く。空気の波はそれ自身としては何も心理的な意味を含んでいるものでなく、池の中の水の波紋と同様に単純にメカニックなものであるにすぎない。ただちょうどレコードの表面に刻まれた波紋のように池の波絞よりは一工夫がこらしてあるのだが これはその中に含まれているコード (通信の信号)の働きである。しかし、このコードは喩えてみれば人が外国語を習う時に感ずるような抵抗なしには習うことができない。音波はある点では無線通信の発信装置によってそこに発生させられる波とよく似ていて同一のカバー領域をもった受信装置に感受され、人工的に作られたコードを伝えるのである。
聞くことは神経の末端を刺激するのに適したメカニズムによっていま述べた空気の波を受取り、最後には脳の中の聴取センターに影響を与え、そして発信者が意図したと同じ意識にその刺激を飜訳させることである。すべてのプロセスはそのために用意されている生理的メカニズムによってあまりに速く、簡単になされるためにこのような間接的で驚嘆に価するプロセスは普通はさして注意されずにいるのである。そしてあまりになじみの深いごくあたり前のこととされている。無線通信はこれに比べてもう少しびっくりさせるところもあり、なじみのあるものでもないために人の注意を少しは余計に惹くというわけである。
紙の上の何かの印を媒介とする「書くこと」「読むことは」空気の代りにそれらの道具を、耳の代りに眼を使うだけで、書かれたものが読まれる時にはそれは頭の中では音で聞いた時と同じに解釈されている。書く、読むの場合はその伝達方法が奇妙なまでに人工的でこみいった間接さをもっていて、書く読むの間、つまり発信、受信の間にはどんなに長い時間の経過―たとえ数世紀でも―も有り得る。
絵画や音楽でもこれは同様である。一方では絵の具のアレンジが、一方ではメカニックな手段によって作り出された手の込んだ振動が画家と鑑賞者、作曲者と聴衆、もっと一般化していえば発信者と受信者の間に意識を伝達するのである。
このように間接的でメカニックな方法で伝達されたり蓄積されたりする考えや感情が受信者の心に間違いのない確かさで影響を及ぼすことは経験の証明する事実である。しかし物質の中に蓄積されたものがこのように純粋にサイキック(精神的)な効果を作り出すということは、心の持つ能力、心に前もって知られていた前の経験ということを除外しては説明できるものでない。物質の領域、物質という術語だけをもってしてはどんな心意的な影響も説明することはできない。
物質は心と心の通信の間接的な仲介者であるだけだから物質による物理的メカニズムの仲介なしにも心と心の間にテレパシー的な直接的交信があってもそれは驚くにはあたらないのである。 それは確かに証明されねばならないことではあるが、その事実は我々があまり慣れっこになっている事実に比較してそれ以上に我々を困惑させるものでもない。
なぜテレパシーは我々になじみのないものなのか? テレパシーはなぜ例外的で時折の通信方法にしか見えないのか? それは多分ベルグソンがいったように今のように通信方法がメカニックで物理的なものに限られている方が、我々人類の現在の発展段階においては有利な点があるからであろう。なぜならこれは人間の筋肉によるコントロールが効くし、それによって刺激や通信を閉め出すことも可能なものだからだ。我々はこれらの通信から自分たちをたとえメカニックにでなくとも場所的に切離すことも、その領域外に身を置くこともできるからだ テレパシーに対しては我々はこのように身を守ることができない。脳髄の実際的な有要さ、つまり抑制と抽象の力はこのためにあるのであって、狂人ではこの力が欠如しているのである。
物理的なものは脳を通じてのみ――もしそれが全てなら――意識に達しうる。我々が他の心からのテレパシーを多分に受け入れることが可能としても物理的なものに関してはこれは事実なのである。また逆に脳を通じてのみ我々は意識的な意図を物質的世界に対して作用させうるのである。他の意識あるいは精神的なダイレクトな交信に関しては我々はもし特別に気付かされることがなければ「死んで眠った者」なのである。トランス状態においてはこの逆のことが起き、普通は休眠状態にある能力が起こされ、解放され、ダイレクトな交信がより可能になる。
ともかくこれはある種の人々には事実なのだ。我々は完全に正気であるが、やや例外的な状態の時には習慣的な脳髄の制約が取払われるか取払われうるというような人々を少数ながら知っている。彼らの心は時には分離された状態でなくなりより、ダイレクトな影響を受取れるようになる。彼らの心の使いなれた部分、いつも習慣的に物質界に働きかけたり働きかけられたりしている部分とは違った部分、心の潜在層とよばれている部分、物理的な物事に普通は使われてない、潜在意識の領域を通じて受け取るのである。
このような人々、つまり例外的で、本当はごく単純な能力を持っている人々に起こる事象は日常的経験の基盤の上では予期も期待もされる種類のものではない。たとえその存在に対する証拠が集まっており、それが日常的な性質のものではないにしても。また我々がそれらの問題を検討することができ、このようにして受取られた事実に対する説明を批評することができるなら、その不可能を主張する先入観念によってこの事実を否定し、その証拠に立入りその結果を判断することを拒否する態度には何の意味もない。
かつて自分の抱く信念の崩れるのを恐れて木星の衛星を見ようとしない者があった。またつい先ごろまで、もし、その実験が失敗したら自分の持つ視覚上の理論が覆えるとして光の円錐屈折の実験を見ようとしなかった数学者がいた。 それと同じで、今日、日常普通の領域外の交信様式やそれで得られた事実に対し、それを拒否し、 研究することすら非難する人々がいるのは奇妙なことである。彼らはその否定的偏見を保持するだけの地盤すら自分では持っていないのだからである。 彼らのシステムは他の小さなシステム同様にそれが謳歌される時もあるが、やがては消え去って行く。
我々はそのシステムにあまりに密着しすぎる必要はない。宇宙の事実が我々の思考の対象領域の中に入って来るとすれば、現在の盲目さが如何に驚くべきものでも、我々がそれに困惑させられる必要はない。それに特有の制約を持ちながらなされたものの物質的側面に対する研究は相応の成果を上げてきた。人間の知的探究の分野は単にこれだけの領域内にのみ限られるだけのものではなく、もっと他の領域にも広げうるのである。
しかし、一方まだ不確実で野心的な領域に対して眼を向けている人々がすでに物質界の領域でなし遂げられた成果に無知で眼が開かれていないなら彼らの主張する新領域への探究、領域の拡大という議論が信頼を受けえないのは止むをえない。そして、彼らが既に確認された自然の他の領域においての知識に関してそのように無知であるとすれば、彼らの前に新しい天地が開かれるということもありそうには思われない。彼らはこの同じチャンネルから同じ様式での情報を得ることはできないだろうからである。このような知識面の分裂、雰囲気の相違、違った態度が2つの異なったグループの間にあったことが――時には同一人物が両グループに属し、2つのグループの空気を吸ったということがあったとしても――相互の理解を遅らせていたのである。どちらのグループにも相手の方法を拒否することで自分たちの立場を強化しようとはかる喧嘩早い人種がいる。だからもし時にウォレスやクルックスのような人間――つまり1人の中に違 った方法でなく同一の方法で得た両方の知識を結合する人間、 彼らの理論は全て科学のグラウンドにおいて実験的探究の方法を通じてのみ正当化されるのである――がいなかったとすれば 新しい領域、そして窮極的には宗教の領域とのボーダーライン上にある、この領域への科学的展望は開かれなかったであろう。
このような人物の存在が世界に休止符を与え、時に陥りやすい間違いを正し、それを顧みる――それは現在ですら部分的にであるが、受け容れやすいムードを作ったのである。我々は急ぐ必要はない。しかし、この新知識が人々の悲しみを軽減するものとすればその進歩の速いことを願わずにはいられない。そしてまた宇宙についての人間の研究の新しい書が開かれるなら、その初めの章はよく精読されるべき時である。
あるいは私は自分がスピリットと交信しその記録を記録するために使った時間とその労力を全ての親しい者を失った者にも求めているのかと問われるかもしれない。もちろんそんなことはない。私はこの問題の研究者であり、そして研究者は特別な種類の細かな労苦をいとうわけにはいかないものである。私は多くの人々には大まかにあなたは、自分の親しい者が現在も生き続けており、その生に興味をもっていて幸福で有用な生を送っているのだ――彼らはあなた方がもう一度一緒になるまで有用な生を送っているのである――ということを知り、事実として実感すべきだと勧めたいと思う。
この心を安める確信を得るためにどのようなステップを踏むべきかは個人の問題である。ある人は宗教に慰めを求めよう、ある人は信頼できる人の証言にそれを求めよう、またある人は時に 自分自身の手による直接の体験にそれを求めよう。そして、この直接体験が外部の者の手を借りずに自分1人で静かな瞑想によって、あるいは白日の夢のような雰囲気で得られるとすればそれが一番望ましい。
人々がするべきでないことは生命の残存の可能性について眼をふさぐことである。そして甲斐のない悲しみに自分を捧げるべきでない。
私はもっと広く確証された、すでに存在するシステムと結合されるなら、今までとは違う領域の活動によって探究され、信仰の領域の問題とされてきた世界にも新しい知識は関連を持ち、 その領域にも影響を与えることを示唆してきた。それなら、この科学の新領域の拡張は宗教の領 域では歓迎されるものになるか否か? 確かに私が1つの探究様式によって導かれてきた結論は もっとも眼の開けた神学者たちの達した結論と対立するものではない。しかし私は過去から伝えられてきた教会の哲学には心霊問題の研究者はほとんど同感を感ずる者でないことを告白せねば ならない。実は彼等は、それらの哲学はもっと高い、ベターな知識に取って代わられ自然に消滅するだろうと考えるゆえに、それら教会の哲学を攻撃することをしないだけなのである。
教会関係者はこのような問題を世俗の方法によって探究することを公式に非難する。そしてこの方法で得られた結果にいい顔をしないものである。
超常交信の内容
スピリット界との超常的な交信に対する確信に対し 現在の科学の世界がどんな受けとり方をしようが、それには一向に関係なく自身の直接的な体験によって2つの世界の境界――もしそれが存在するなら――を距てて交信が可能だということを知っている人々は数多い。その二つの世界とは我々が動物としての本当にわずかな感覚によって把握している世界と我々の知識がまだまだ限られたものでしかないより大きな存在の世界である。
交信は容易ではない、しかし可能である。そして我々は自分自身そのような能力の所有を自覚し、交信の仲介者として我々の役に立ってくれる少数の人々に感謝すべきである。我々の知識の領域を拡大し、我々を単なる動物的領域を超えた世界の物事と関係を持ちうるようにしてくれるこれらの能力は他の何らかの能力と同じように濫用され悪用されることも ある。この能力は単なる興味本位とか現世的で価値のない目的、利己的な目的のために歪めた利用のされ方がなされうるのは他の知識の場合と同様である。
しかし、それは悲しみにくれた者、親しい者と死別した者を慰め、愛情の絆を死によって表面的には越ええないと見られている障壁によって一時的に断たれた者の間にそれを取戻すというシリアスで敬虔な目的のためにもむろん利用されうる。障壁は最後には絶望的に頑強なものでもないということが明らかになる。両方の国の間の交信は人が考えているほどに不可能なものではない。交信に関連して両方の側から何かのことが学ばれうる。そして次第に首肯しうる統一のある知識がたくさんに集積されていくように考えられる。
死によって断たれた愛情の絆の回復がまず交信の第一の目的となる。交信の初期の段階において死者は生者に対して人格の死後の残存を確信させ、変化した状況が決して両者の間の愛情を弱めたり記憶を破壊したりするものでないことを実感させ、残された者の幸福は死別によって取返しのつかないように打壊されるものでないことを頑固なまでに強調するのに力を尽くす。この目的のために親兄弟や友人にどのメディアムを通じて交信しているにせよ、その他界の通信者が他の者ではない1個の特別な関係の知性的存在であることを確信させるのに適した細かな些細な物事や事件が呼び起こされてくる。このようなメッセージはそれまでこのことに 無関心で知識を持たなかった人々をただちに信じる気にならせるものであることがしばしばなのである。
しかしよく考えるとそこに難題と疑いが生じてくる。生者とのノーマルなテレパシーとか、その心を読む読心術とかの可能性が認識されるにつれ、それらのメッセージを争う余地のない死者の人格の残存の証拠と見なすことに躊躇が生ずる――これはもっとも真剣な研究者、考え深い人によって起こされる疑いである。そして、これらの奇妙で思いがけない種類の、そしておそらくは気取った疑いを打ち壊すためには、そこにいる人々の誰にも知られていなくて後から確かめうるといった種類の事実が与えられることが要求される。このような時たまで例外的な交信 内容は心霊問題の研究者には、やや特殊な言い方で、evidential(証拠立てられたもの) と呼ばれている。そして、これが相応な受取られ方と批評的吟味を経た評価を得るには時間とおそらくはある種の幸運も必要になる。なぜなら、2人の友人の間でのせわしない会話で最もよく語られる事柄は大概は双方にとって、共通の話題であって双方の知識の中にある問題についてだからである。クロス・コレスポンデンスの手の込んで入念な方式が発展したのは心霊調査協会の特に経験豊富で、批評的探究家たちの死後においてであった。彼らはこの問題の困難さをよく知っておりこれらの困難を打ち砕きすでに十分強力な証拠力を持つものとなっている証拠を完璧で最終的に決定的なものにするための強力で巧妙な方法をとったのである。
大概のケースではこれほどこみ入った、また血も凍りかねないような完璧な証拠は生じもしなければ必要でもない。これらはまさに専門的研究者以外には吟味もできないし理解もできないほどのものなのである。大ていのケースで効果的な証拠はその残存する者の人格如何に応じて違う種類の様々なものとなる。しばしば得られる証拠は他の者では伝えようのないちょっとしたその者独特の如何にもその者らしい人柄を示す小さな感触であって、これは十分な説得力があり、当然誰でも持つような懐疑の最後の残り滓を打砕く力を持っている。これ以上のものは その人の訓練とか関心の如何にかかっているといえる。
この点において多くの、科学的探究の形をとった探究がなされ交信は普通の考えの情緒的あるいは家族的インターチェンジの中へ分解されていく。しかし数は多くないが新しい情報を与える要求が起こったケースもある。そして十分な愛情がある時、これが重要なことなのであるがありふれたメッセージ以上のどんなメッセージに対しても有能で適切なミディアム能力を持つミディアムがいる場合には、インストラクティブでジェネラルな情報がもたらされうるのである。たとえば他界の者の側から見た交信の方法はどのようなものなのかといった説明や概要、他界の生存の様子に関する情報、時には人間の宗教的信仰上の概念を受入れる困難さを減少させるべき知的試み、そして全体としての宇宙に関するより広い知識を与える試み――これらの試みが全てなされた。しかし他界の彼らの知識は我々より少しも広くはない、彼らも未だ誤りに陥り易く真理を手探りする者にすぎない、その真理に彼らは美と重要さを強く感じそれが無限のものであると実感するが、彼らの精神上の把握能力は地上の我々のものと同じく不十分なものであるなどと彼ら自身言い張っているのである。
我々が 確かめ得ない。交信と呼ぶものがある。なぜなら、我々はそのことについて 他界の彼らを我々がパーソナルなこととか世俗的なことの場合にやるような方法では地上の証言台に寄び出して証言を求めることができないからである。非常に高尚崇高な情報がもたらされることがしばしばあるが、これらはめったに本などに公表されることはない。その理由はこれらのことにどれだけの価値を与えるべきか、どれだけ信頼すべきかを判断することが難しいからである。
しかし私はこの問題の真面目な研究者の増加を見るにつけ、いまや専門的に確かめられない“こと”と呼ばれている事項について討議したりする時期が到来していると思いつつある。これらの事柄をそれ自身の中にある一貫性、統一性とかいった点を基準にしてちょうどベルグソンの言うように“旅人の物語” を検討し検査する場合のように検査し検討するためにである。しかし 人間が全体として最初の一歩を踏み出し、これらの交信内容がありうることの範囲内のものとして認められるようになるまでは、あまりに野心的な方向へ深入りするのは賢明ではないとも思う。
しかし、哲学的な立場からは人格の死後の残存はより厳格には過去の復活(過去の記憶という意味)よりむしろ“旅人の物語”を検査する立場に立っての検査、照合に最終的な証拠のより所を求めるべきだということは示唆されてきた。なぜなら我々が記憶というものについてもっとよく知るまでは確かベルグソンが言ったのだと思うが全ての過去は超潜在意識的な能力によっては掘り起こされることのできるものだと想像することも可能だからである。そこで人は明らかに個人的な回想の記録というものにぶつかった時には懐疑的な態度で、それをこの能力の無意識的な働きのせいにしテニソンにならって「風が過去の記憶を囁くのが聞こえる」と言うかも知れないのである。
しかし私はこの個人を超える記憶というものを承服すべき仮説とは思わない。私はもっと単純な見方の方が本当なもののように思う。そこで私は小さな取るに足りない事項の記憶とか個人の性格を示す感触とかに重要性を認めるのである。しかしそれでも私はこのような確証できないこと、を記録し公刊するのを控えることが、比喩的な言い方ではあるが、誤った情報を知らされる人々を作り出す働きをする、つまりほとんどこの種のことに経験を持たない人々を他界との交信は全て取るに足りないつまらない性質のものばかりなのだという結論に簡単に飛び付く人にしてしまうという言い分には反対するものではない。
超常交信に対する疑問に答える
サイキックな交信で伝えられる交信内容は全てとるに足りないことがら、無意味な話題ばかりだという議論が事実に基づかない虚偽の議論だということは前の項でも述べた。この議論が全く事実でないことはサイキックな交信について経験を持つ者には誰にでもよく知られていることなのだが、私はこの項ではこの議論に関して述べることにする。
サイキックな交信で伝えられる細かな“とるに足りない事柄”は実は人格の残存を証拠立てるための最も有力な証拠であって、人格の残存を証拠立て、その死後人格の人物が間違いなくその者であることを生者に確信させるという大きな目的のための手段となっていることが強調されねばならない。サイキックの入門者や口やかましい批評家連中は記憶され易く、確証のし易い事項を当然のこととして欲する。そしてこれらの事項が有効なものであるためには、それが多くの人の知っているような公共的ニュースだとか、自伝的記録を見ればすぐわかるようなことであってはならない。そこで彼ら(残存人格)は決まったように記憶の片隅にあるようなささいな家庭内のことやユーモラスなエピソードなどを話す。このような事柄は彼と関係のあった人々には愛情のこもった記憶とともに決してつまらぬこととは考えられないし、それが動機となってこの種の事項が交信の中で“再生”されるわけだ。
以上のような特別な目的のためには“とるに足りぬ事柄”は歓迎すべきものであり、これらの事項によって証拠立てられる事柄は決してつまらないことなどではない。死んだ友人はつねに重大な事柄にのみ専心すべきであってジョークやいたずらを憶えているのは怪しからんなどという考えは全くいわれのない勝手な要求であってそれは捨てさらねばならない考えなのである。ユーモアは地上の生活から決してて姿を消すものではないとすれば、なぜ、あの世でもそうであってはいけないのか?
交信で伝えられる深刻で重大な事柄は、たとえそれ自体としての価値もあり興味も惹くものではあっても同一人物性を証拠立てるためには取るに足らぬことの方が役に立つのである。しかし、これら重大事は交信の最初のステップ――つまり確かめうる事柄によっての同一人物性の認識 ――がなされるまでは決して交信の中に出てこないということは興味のあることである。というのは重大事は原則として本質的に確証できない性質のものだからだ。これら重大事の記録は今まで非常にたくさん集められている。私はランダムにその中の1つを選んでこの後で紹介しよう。それは自動書記の記録でその人はケンブリッジ大学のカレッジの校長でサイキック研究の中ではM・A・オックセンとして知られている。ここに紹介する記録は彼が無意識下で自動書記したもので「霊の教え」という名で本になっているものからの抜粋である。
『オックセンの記録』
あなたがたは宗教がいままで人類の上になしてきたこと、それから我らが人間の願い、渇望について説くことの正しさについてほとんど理解していない。あなた方は今のあなた方の状況、考えの様式の中でははっきりとは分らないことについて気付かねばならぬ。あなたがたは、我々にわかっているようには、今まで未来に関して人間が何も知らなかったという不注意ぶりだった ことに気付かない。人間の未来につき考えたことのある者たちは、「それについては何も分らない」という結論に至っただけだった。また、それ以外には未来につき人間が判ったとして述べられた言説は全て馬鹿馬鹿しく、矛盾だらけで不満足なものだったということを知っただけである。彼の理性は彼に神の啓示はただその起源を人間の中に持っているだけだと分からせた。そしてまた理性は啓示の尺度にならぬ、 理性は探究のとば口の役目をするのみでやがては信仰にとって代わられるとする宗教的フィクションはバイブルの中にごちゃごちゃと入っている誤りと矛盾を発見することが人間にできなくするために巧みに仕組まれた狡猾な企みだと解らせた。
理性で考える者はそれをすぐ見出す。だがそうせぬ者は「信仰」(霊の信仰という意味らしい=訳者)を拒み盲信の者、非理性的狂信者、こちこちのこり固りになって彼の教えられてきた溝の中に入り込んだままだ。そして彼らはそれ以外のことを考えようともしないいう単純な理由によってこの溝から抜け出ることができぬ。人間は宗教について考えてはいかぬ、信ぜよ という説教ほど人間の心を歪め、精神の成長をいじけさせる方策は他にあるものではない。これは全ての自由を麻痺させ精神の起ち上がるのを不可能にする。精神は伝統的宗教――それが人間にとって正しい か正しくないかに関せず――に圧服されている。太古の祖先にとって適していた宗教は他の時に生を送る魂にとって適していると限らない。霊の生活もその生まれと地域の如何で左右される。これは彼がキリスト者、回教徒、異教徒、グレイト・スピリット(北米インディアンの守護神)の徒、孔子の徒であろうと彼のどうにもできぬことだ。
だが、いまやその地理的宗派心はもっと開けた我々の啓示にとって代わられるべき時は来たのだ。人類はあなたがた自身が考えている以上にもはやそれに適する段階に来ているのだ。スピリテュアリズムの至高の真理――それが高貴なるものか理性的なるものかは見る者の判断だ―が神の地上から宗教的宗派心、神学的苛酷さ、怒りや悪意、愚行や蒙昧、宗教の名において宗教を汚してきたこれらの一切を放遂する時は来たのだ。人間は明光の中に至高の創造者と霊の永遠なる運命をほどなく見よう。
我れ汝に告げん。時はすぐ近くに来たのだ、無知の闇は去って行く、宗教屋が人々にはめた手枷足枷は破られる。汝は知るに違いない。死者は地上にあった時と同様に生き、汝らに断ち切られることのない愛をもって力を貸し与えていることを!(以下略)
これらの真面目なメッセージはどれもこれも敵意と疑惑をもって指弾することもできるものであろう。これらはいずれも残存人格の第一前提を確証するには適しないものばかりである。もしこれらのメッセージが残存人格の証拠の一部としてでも提出されることがあるとすればそれには敵意をもって指弾する側の方がおそらくは正当であろう。これらのメッセージが口で話す形で受取られたのでないことは確かであり、またそのミディアムの才能、能力などを遥かに超えたものとして受取られたのでもないことは確かである。この種メッセージはしばしば受信するミデ ィアムの能力の範囲を超えたものとして受信され、また、その送信者(スピリット)と想像される者を我々が知っている場合には非常にしばしばその死者の性格的特徴を表わしているケ ースが多いのだが、いま引用したケースについてはそのどちらもあてはまらない。ただし、どんな種類のメッセージでも、これらのメッセージの送信されてくるチャンネルによって多少の変型を受け、また多少にかかわらず交信が緊張したものになったり、また受信者の能力の限界や不完全さのために元のものとは幾分か違ったものになるのは避け難い。
しかし、それはそれとして、ここに引用したような例は時には紹介するほうが適切だと私は思う。それはそのメッセージが特別に深いことをいっているという理由のためではなく、自動書記とかミディアムの口から話されることは決まって無意味でつまらないことばかりだという単なる想像に基づく間違った説に対する反証としてだけの理由によってである。このようなメッセー ジは――どのような価値がそれにあるか、また逆にどんなに価値がないかということとは関係なしに――いま述べたような根拠のない無知な偏見に対しての強力な反証であることは明白であろう。この種のメッセージをどんなふうに人々が考えようとも、これらは誠実な気持で、宗教的と呼んでよい真摯な気持と熱情を持って受取られているのである。
さっき引用したオックセンの自動書記の後半には彼自身の神学上の疑問や困惑、またこの自動書記自体に対する懐疑も出てくるのである。長くなり過ぎるので引用はしない。しかし、このようなメッセージに関してもっとも悪くいえば、それはミディアム自身が意識的か無意識的かは問わないが、教会の説教集かなんかを読めば自分で創作してしまうことだってできるということである。そして、ミディアムはこの議論に対してある点ではそれを認める傾向もあるのだということだ。つまりこれらのメッセージは普通の夢の中に出てくる思いがけないメッセージと大して違わない種類のものでもありうるということになる。この種のメッセージを受取ることと夢の2つの現象に関しては同じ説明もなされうる訳である。ただし私はその説明はどのようになされるべきなのかということに関しては何も分からない。
超常交信の実際
超常的交信の方法のうちもっとも一般的で易しくもあるのは自動書記といわれる方法である。 前に引用したオックセンのメッセージもこの方法によって得られたものである。自動書記は「無意識の知性 を通じてなされるものである――これを行う者は自分の手を自由にしていてどんなメッセージがやって来ようがそれをそのままに書き出し、メッセージをコントロール しようとか、何が書かれるかなどといったことに特別の心構えをしたりすることなく書き出すのである。 自動書記でもこれを初めてやる者などは普通何を書き得ないし、単なる無意味な殴り書きか何かになってしまう。もっとも注目すべきことは、ある種の人々はこの方法によって意味のあることを受信し、自分らの通常の知覚範囲を超えた情報源への扉を開くことができるという事実である。もしこの能力に基本原理というものが存在するとすれば、それは常に期待できるとは 限らないが多分、開発することも可能であろう。ただ、この能力の利用には注意力、根気、知性 が要求されはする。人がもしバランスのとれた精神、自己反省能力を持ち、その上これにフルに専心するのでなければ、それはしないほうがよい。
もう少し程度の高い自動書記になると自動書記者は自分の所へやってきた情報を読み、それに対し口頭で適切な答えやコメントをする。そこで結果として一方の側が話し、一方が書くといった形で全体が一貫した会話となるのである。 ――大ていは話す側はむしろ口数少なく書く方は 自由にフルに書くという形で。
この専門的に自動書記と呼ばれている、潜在意識下の活動の単純な形態を開発することは自然には誰にもできるというわけではないが、おそらくやってみれば、比較的多くの人にも可能なのだとは思われる。ただしある人々にはこのようなことをするのは賢明でもないし、するに価しないことではあろうが。
このプロセスの中で情報を仲介する役目を果たすメンタルな資質は普段は意識の下に眠っている夢のそれに似た意識の層だと考えられる。手はおそらくは普通の生理的なメカニズムに従って動いているのであるが、ただこれを動かしているのは普通に意識して使われている部分とは別の脳の場所にある神経中枢なのである。あるケースでは書き出されるものの内容や題目はこの中枢から流れ出たものばかりで、これは夢以上に価値のあるものではない。しばしば、もっと初歩的な自動書記用具で初心者に使用されるプランシェットとかオージャといわれる道具を使っての自動書記は大ていは、このようなものである。しかしメッセージが“証拠力のある”ものになる時には、それは、今言った自動書記者の潜在意識的な部分がテレパシー的な、あるいは何か他の仕方でかは兎も角として、他の別個で通常的には交流の可能なはずはない知性的存在と接触をするからだと考えられる――その他の知性的存在とは遠く離れた地にいる生きた人間と か、あるいはもっとしばしばはそれよりも接触し易い死者の残存人格なのである。死者の残存人 格のほうが遠くの生者より接触し易い理由は、前者の場合には普通にいう意味での距離というも のはほとんど存在せず、その者の他者との関係の持ち方は空間というものとは違ったものである ためである。この種の交信の存在は証明されねばならないということはむろんいう必要もないことである。しかし経験はそれを証明する完全な証拠は日々いくらでも集まっていることを示して いるのである。
次にもっと強力な交信方法には、自動書記者が自分の身体組織を通じてもたらされる情報に 完全に注意を払わなくなってしまうだけでなくて、はっきりと無意識に、トランス状態になって行なう交信である。このケースでは彼の生理的メカニズムはもっとコントロールに従い易くなり、彼のノーマルな知性によって歪められることが少なくなる。その結果、より重要性とプライバシーを含んだメッセージが伝えられるようになる。しかしメッセージは他の者によって受取られ、他の者がそれに従いて行く必要が生ずる。というのはこのケースになるとトランスが真正であればその状態に陥った者はそれから醒めたときには書いたり、言ったりしたことを全く記憶していないからである。
この状態ではスピーチが書くことと同じように一般的なものになってくる。いやスピーチの方がむしろより一般的になる。それはそのほうが受信者、つまりメッセージが送られてくる対象になる友人や親兄弟などにとってより受け取り易く面倒が少ないから であろう。トランス状態の時に通信を送ってくる送信者はトランスでない状態で自動書記者の手を動かして送信してくる人格と多分同じ人格であろう。そして送信の全体的な性格もやはり同じ性格のものなのである。この時、意識は完全に死んでいるわけでなく一時的に部分的に休止して いるのである。トランス状態の時には普通コントロールと呼ばれる1つの人格が登場してきて非常にドラマティックなものとなる。コントロールはミディアムの肉体をその通常の “所有者”による支配が明らかに休止してしまった状態の中で支配し使うのである。つまりコントロールがミディアムの肉体の主人公としてその本来の“所有者”にとって代わるわけである。このコントロ ールという特異な人格についてはトランス状態に陥っている人間の潜在意識的な自我であり、それがしばしの間、夢の中のように表面に現れてきて解放されドラマ化されたものにすぎないという説もある。
また、医者や精神病医たちには2重人格ないしは多重人格として知られている多かれ少なかれ病的な現象に基づく人格の変種であって、健康で管理も可能な1つの人格なのだとする説も言われる。しかし、また完全な別個の知性、別個の人格として十分な実在性を持ったものであってミディアムの人格や精神の中にあるものでないとする人々もある。 しかしこの問題に関しては如何に多くの異った意見が過去にも唱えられたり書かれたりし、これからもされえようとも広く認められているのはコントロールのドラマティックな外観は疑いなく別の人格――そして他界の側に存在する者であって、ミディアムが我々人間界で果たしている役割と同じ役割を他界の側で果たしている者だろうということである。ミディアムをコントロールし、メッセージを伝えるのは彼に課された1つの義務のように見える―それを喋るのが彼の仕事なのだ。コントロールの持っているドラマティックな性格は非常に生き生きしていて 統一された人格を示す。
そこで彼らの本当の性質は何なのかということについてシッティングの参加者や実験者が感ずるものがどのようなものであり、またそれが本当であったとしても彼らの気嫌をとるもっとも素直なやり方は彼らを額面どおりに評価、別個の人格、責任能力も実在性も ある真の人格として取扱うことなのである。確かに一部のメディアムの場合、とくに彼が疲れたりしている時にはコントロールは消えやすかったり、また逆にとても出しゃばり振りを発揮したりすることがしばしばある。だが、これはさほど重大視すべきでもない。コントロールを本当の人間のように取扱うことは確かに滑稽であろう。しかし真面目なコントロールは彼ら自身の性格、人格、記憶などを持っていて、また人が時々に会って話をかわす相手のようにちゃんとした人格の継続性を持っているように思われるのである。彼らは中途で止めた話を次の機会 にはその次の所から始めるし、会話で言われたことは相応なコントロールなら実によく記憶している。しかも、その一方同じミディアムが複数のコントロールを持つ場合、同じメディアムの コントロールでも他のコントロールはそのことを記憶していないが、これはむしろ自然で当然のことというべきであろう。そしてミディアム自身はトランスから醒めた時にはこんなことは一切知らないのである。
最良のケースではコントロールの持っている人格性は非常にはっきりしたものであり、また同時に彼が親切に伝えてくれる他界の送信者のメッセージも極めて明瞭なものであるため、彼らは実在の人格であるとするこれらのスピリットの送信者の断言を受け容れたくなる。そしてコントロールを束の間の気まぐれな人格化現象などでなく、我々の側でメディアムと呼ばれている人間と同じ種類のもので向う側に住んでいる者なのだと考えたくなるのである。
普通の交信のプロセスには――ひどい悲しみを味わっている者に時に特権的に恵まれるもっと 直接的なケースを別にすれば――通信のための仲介者が2人、それと幾人かの、人物が含まれるのが一般的である。まず初めに他界側の考えやメッセージの送信者ないしは発案者。そしてメッセージを受け取りこれを伝達するコントロール。彼はその交信の間、自分に貸し与えられた生的組織(ミディアムの肉体のこと)を「オン」 (送信中の状態) にセットすることで今のことをやるのである。そしてもう1人はミディアム。受信中は彼のノーマルな意識は休眠して生理的組織だけが利用される。そして最後にシッター(シッティングの出席者)――何やら奇妙な名前だが――彼はメッセージの受信者であり、メッセージを読むか聞くかして、それに答えたりするが、この送受信の一連のシステムは彼のために 設置されるのである。このほか多くの場合に筆記者がシッティングに出席する。
科学的な実験やその他より細心の配慮が必要な場合には、このほかに経験の豊かな実験者という者も出席する。彼の役目はこの一連の送受信システムに眼を配り、その設営をし、またミディアムの健康などにも注意したりすることである。
それからこれは、超常通信になれない人には興味もなく理解もされにくいことだが、他界の送信者がプライベートなことを送信しようとするときにもミディアム――つまり我々の側の交信の仲介者――の存在は送信者にとってほとんど、あるいは全く邪魔にはならないということである。ミディアムはいないものとみなされ、実際に送信中は彼は一時的に存在しないのである。これに対し、他界の送信者に時にまず初めに嫌われるのはコントロール――つまり他界側の知性的存在――ちょうど文盲の人の恋文を代筆してやるためにそこに控えている東洋の書記のような存在で他界のメッセージを受け取りこれを伝える役割の存在――なのである。
また真に信頼すべき種類のコントロールは実在の人格なのだと考えさせるケースは時々、ある程度の経験を経た他界の送信者が彼自身でミディアムをコントロールする場合である。この時、送信者は第一人称で語るべき事柄を第一人称で語るだけでなく、時には、その語る事柄に合った人称で語るのであって、その上彼の生前に持っていた性格的特徴もその中に出てくるのである。そこで、もし1人のコントロールが実在の人格であるとすれば私には他のコントロールはそうではないと否定する理由は見出せない。私は声の調子、文字の書きっぷりなどがしばしばこのように再現されるとはいえない――確かにそのようなことは特別な努力によってほんの短い時間だけ起こることはあるけれども。しかし、他の時間に見られたり、聞かれたりする残存人格本人の声や文字との相違は、交信に使われる生理的組織がミディアムという別人のものだということで説明はできる。またこれらとは別に性格上の細かな特徴、マナーの感触、態度といったものはそのメディアムが送信者本人を知らなくてもしばしば多かれ少なかれ忠実に再現されるのである。また送信者本人がミディアムをコントロールする場合には、コントロールがそれをやる場合に比べてメッセージの性格的特徴、話される話題などはより一層本人らしさの目立ったものになるのである。
サイコ・フィジックの方法
私は理論化の困難さという逆毛を立てているけれども、手を付ける必要のある1つの風変りな 問題を避けて通るわけには行かない。それはごくノーマルな通信のもっとも初歩的方法の基本原理でもあり、この方法は多くの人々がそれから始めるのがもっとも簡単だ としているものである。
手で鉛筆を持つ代りにものを書くには適しないもう少し大きな木片の上に手を置くことによってもある種の通信をすることはできる。この場合、木片の動きは雑であり通信用コードは初歩的なものにはなる。しかしその手順、やり方を分析してみれば基本的な原理として本質的には鉛筆でものを書くのと違いがあるわけではない。それは信号を送ったり旗を振ったりする信号機の腕とよく似たものだと言える。しかしメンタルな活動力を物質、ものの動きに変えるための方策は意識的な行動の場合と同様に潜在意識的な行動にもちゃんと役に立つのである。テーブルをティルトさせることによって送るメッセージは粗雑で初歩的なものではあっても、ちょっと見た時にそう思われるほどには本当は驚くほどのものでも馬鹿げたものでもない。
無線通信の送信用キィの動かし方はテーブル・ティルトよりもっと限られたものであるが、それでも役に立つ。ペンや鉛筆は指によって動かされる生命のない物質の一片なのである。プランシェットはただの木片であるが、手を触れるときには筋肉の動きによって動かされているものと推定される――生命のない木片が何らの筋肉の動きの仲介なしにダイレクトに動かされているかのような、ちょうど水脈探査人の小枝の場合と同じような錯覚がしばしばなされているが......。そこで我々はテーブルや他の家具もノーマルな筋肉の力によって ティルトされるのだと推測することができよう。それはメディアムやシッティングの参加者などそこにいる者のエネルギー以外のものによっては動かされるはずはないのである。しかし、この場合にはテーブルのティルトによって伝えられるメッセージはテーブルに手を触れている者の意識の範囲には属さないものなのである。そこでメッセージに意味と適切さを与える指令はその人々自身の意識によってなされてはいないこと になる。
テーブルその他の道具が使われる時には他界の送信者は他界側の仲介者ーコントロール― を通じて送信する時よりももっと直接的にシッターと接触しているように感じると言っている。 そしてこのため彼らはよりプライベートなメッセージを伝えることができ、また名前とか特殊な言葉とかをずっと容易にずっと正確に伝えることができることを発見する。この方法で言葉を書 き出すのは非常に遅い速度でなければできない―それは書くことより遅い―この点でこれは 大きな弱点を持っているのだが、ある点ではそれを相殺する利点もあるのである。
この方法が信ずべきものに思われようが、思われなかろうが、ともかくそれは驚いていいこ とではある。私は物がこの方法でコントロールされた時は、その物は情緒的感触や声の抑揚に比べていいものまでを非常に見事に伝えることができるのだと証言して差支えない。無線通信の送信用キィはこれに比較するとその動きの範囲ははるかに限られていてオンとオフのぎくしゃくした動き方で作動するだけである。これに反し、コントロールされた時の軽いテーブルはもはや生命のないものとは見えず、生き物のように行動する。しばしの間それは生命を持っているのである――どこか腕の確かな音楽家によって生命を吹き込まれ、彼の意思に従うように訓練させられたピアノやヴァイオリンのようにである――そして、このようにして得られたドラマティックな動きにはまさに注目すべきものがある。それはためらいや確信を表し、情報を探し、それを伝え、答えの前には明らかに考え、新来者に歓迎の挨拶をし、喜びや悲しみを示し、楽しさや壮重さを表し、コーラスに加わっているかのように歌に合わせて拍子をとり、そして最も驚くことにきわめて確かな様子で愛情さえ表現するのである。
自動書記中のミディアムの手はやはりこのような行動をすることができる。また普通の人の身体が情緒を表現することができるのはごくあたり前のことである。これらのものはしかし、他のものより幾分持続的に生命を吹き込まれているとはいえ全て物質の一片であることに変わりはない。だが、全てのものは一時的に生命を吹き込まれているのである――どれ1つとして永久にそうなのではない――そしてそこには両者を明確に区別する境界線があるとは思われない。我々が知らなければならないことは、どんな形の物質、ものといえども魂のエージェントとして行動することができるのだということ、そして物質、ものの助けによって多種多様な情緒も知性も一時的に形を与えられ、外に表現されることができるのだということである。
音楽にはふさわしそうでない品物――たとえば台所道具のようなもの――から初歩的な音楽を作るというのはよく知られた舞台の見せ物である。 今まで考えられなかったかも知れないが、とてもそれにふさわしくなさそうな品物を通信の目的で使うというのも同じカテゴリーに属することである。
ヴァイオリンから人形芝居の人形までその目的のために作られた品物によって人間の単純な情緒が表現されたり引き出されたりすることを我々は知っている。しかし全く違う他の目的のために作られた品物の中にも同じ種類の可能性が存在していることはいま明らかになった。
テーブル・シッティングは古くからあってむしろ軽く見られてきた娯楽の一種であり、多くの家庭に知られ、また賢明にも捨てて顧られなくなっている。しかし注意深さと沈着さ、真面目な気持をもってこれを交信手段として利用することはできる。サイキック活動のこの初歩的フォーには他のもっと手の込んだ方法よりミディアム的な能力は少ししか必要でないように思われる。
我々がここではっきりと知り、認めなければならないことが1つある。それはつまりその道具が鉛筆であろうが木片であろうが品物が人の肉体と直接に接触して動かされるときでも全ての場合、無意識的な筋肉の動きがそれをしているのだということである。そしてまた参加者に知られているのか、予期されているような種類の情報がやって来る時にはそれは割引して考えられねばならないということもである。しかしながらメッセージは時に予期されない、人を困らせるような形でやってくる。そして時にそれは彼に知られていない情報をもたらす。その超常的価値 はその通信の内容によって評価されなければならない。
私はこの本の中ではダイレクト・ヴォイス (直接対話)、 ダイレクト・ライティング(直接書記)とか物質化現象と呼ばれるより人を困惑させるものであり、より直接的で非常に特殊な物理 現象にはふれていない。これらの珍らしくもあり、1つの観点から見ればもっと進んだ段階―― 違う意味から見ればより低い段階のものだが――の現象の中では生命を持たない物質が生理的組織の直接的な介入なしに作動されるように見える。しかし、この場合でも生理的メカニズムはそのすぐ近くに存在しているのに違いない。私はこのような不思議な現象も、もしその本質が確かめられれば、それは私がいま触れた方法の中に吸収されるものだということが明らかになるだろうと考えている。それでも両方のものについてもっとよく解るまでは完全な説明はその2つのもののいずれについても与えられないであろう。私が全ての運動はそれがたとえ直接人が手を触れているものでも筋肉の働きによって起こされているのは確かだということを断定しない理由の1つはここにあるのである。私はここでは早まった結論に対しては警告を発しておくだけなのである。サイコ・フィジックな相互作用やその活力という総体的な主題はもっと然るべき時、然るべき場所で注意が喚起されるべきものだと思うのである。だが、地面はいまでも余りに不安定で落とし穴が多い。そしてその領域は多くの人々を惹きつける魅力も持っていない。組織的な大軍勢が召集されて進撃を開始するまでは、長い射程をもった大砲が幾つかの頓固な要塞を突き崩すのを待つことにしよう。
スピリチュアリズムに対する正しい態度
私はこの項の初めにマイヤーズが自分の著書『生者の亡霊』の前書きで言っている言葉を引用しよう。マイヤーズは言う。
――新しい探究領域に付き物の把み難さや混乱は、すでに堅固に築き上げられた領域の豊かな知識の蓄積に慣れっこになっている、大学者。連中には自然の成り行きとしてあまり好感をもって迎えられるものではない。だから彼らがこの本を読むとすれば、彼らは有能な指揮官と 性能のよくわかった武器、弾薬の十分に揃った大軍団から引離されて頼りない小舟に乗せられて訳のわからない海藻でいっぱいの不案内な海に投げ出され、そこで自ら航路を探りながら進まねばならなくされたような気がするに違いない。私はこの比喩はまさにそのとおりだと認めよう。しかし、その一方私は彼らに次のように言いたいのである。すなわち、訳のわからない見たこともない海藻がその海に漂っているなら、それは新たな大陸がその近辺にあることを示すものであり、コロンブスがサーガソ海(藻海。北大西洋西インド諸島の海域で海面一面に海藻が蔓延っている海)を苦闘して乗り切った航海は人類にとって大きな利益をもたらすものであったのだと――
マイヤーズが何を言おうとしているかは私が余計な説明をするまでもあるまい。多くの人々にとって単純であたり前の事実だと思われていることに対して、知識層といわれる人々の多くが心を閉じていることはひどく注意を惹くことである。これに対してスピリチュアリストを自任している人々は、単純で平明な自分たちの信念を披歴し、自分らの経験を率直でありのままの形で語る。しかし、歴史の経験に照らしてみると単純、率直な心を持った民衆の方がつねに新しい事実を受け容れる能力を持っているものなのだと言える。
確かに一部の民衆は時には不徳な者たちによって容易くごまかされて誤りに陥る軽卒さを免れないのは事実であるが、それでも、今のことは歴史の示す法則なのである。新しい知識の領域が広げられ、新しい知見が人類にもたらされるのは、常に理論的な類推によってではなく、直接的な経験によってであり、この経験を最初に受容れるのは“賢者”ではなくて単純で素直な民衆たちなのである。しかし、 からといって、単純で素直な人たちは誤まってもよい、感覚的な印象にすぎないものをさも絶対確実なものとして受取ってもよい、そして知識層は彼らのそれまでの知識の枠組みと飛び離れたものに眼を閉じてもよいということが正当化されるわけのものではない。なぜなら新しいものは常にそれまでの秩序とは飛び離れたものであり、また単純な人々に容易く現を抜かせさせるものだからだ。
私はここで「常識」を巡ってのシャスター博士の面白い比喩を紹介しよう。博士は常識とは訓練を受けない知性のことだが、その最良の機能は問題の結論は、もっとも明瞭な結論が大体において正しい結論なのだということを理解する能力なのだと言った後、次のような話をしている。
―例えば、皆既日食の時に太陽の周囲に見える炎に関しては、もっともはっきりした説明は、それは太陽から噴出される大量の蒸気によって起こされている現象で、それは実在の現象だというものである。これに対し、学のある友人が私にそれは変則的な反射が原因で起きている視覚上の錯覚にすぎないのだと言ったとしよう。そこで私はその説明は自分の常識と相容れないとして反対する。だが彼はなお自分がなぜそう結論するかという理由を上げて私にまた反論する、しかしそれでも私の常識が彼の議論を承服しないとすれば私は、単に私の常識を満足させるだけのもの以上の確たる根拠を示して彼に反論しなければならないことになる。
厳密な議論に関しては常識というものは何の役にも立たないものである。しかし一方、それは依然として世間の人々を正しく導くか、あるいは誤りに導くかのいずれかの働きをする有用でありながら、また誤り易い指標としての働きは持っているのである。 この話の意味を要約すれば、つまりは常識的説明とは正しくない場合も少なくなく、それに反証する完全な理由のある場合には、存在価値を持たないものであること、しかしその一方、それに代わるべきものが不明瞭な仮説などである場合には、より単純で明瞭な常的説明の方がより真実である場合が多いということなのである。言葉を変えて言えば単刀直入な説明は必ず誤りだなどとは言えないのだということになる。
サイキック研究の分野で出食わす現象に関しては、長い間、生きている人間以外の知性的存在 (死者の人格) がその説明の根拠とされてきており、この現象は霊が下ってくるという意味で 「降霊現象・降神現象」と呼んでもよいものである。この説明に替わるものとしては、生きた人間との間のテレパシーということがどんな説明でもその根拠として唱えられてきた。このような態度はぜひ必要なものであり、完全に至当なものではある。しかしよく考えてみればテレパシーなるものは、この現象の説明としては「降霊」という説明と同様にやはり常識的視点からすればオーソドックスなものではない点では同じものなのである。テレパシー的説明が永続的な生命を持つものであったとすれば、それはそれでよいであろう。しかし私の判断ではテンパシー的な解釈では説明のできない現象は多く、これに反して「降霊」的説明によれば実際上ほとんど全てが説明しうるのである。この結果、私は再び自分自身で「常識的説明」と名付けてもよい地点に戻ったのである。つまりシャスター博士の比喩で言えば、私は太陽の周囲に見える畑は、実際においても眼に見えるとおりの現象なのだと考えるに至っているということになるのである。今述べてきたことは私自身のサイキック研究の歴史であり、結論である。