モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

心霊研究とその歴史 Ⅰ -死が定めの生き物がそれに疑問を抱くだろうか?

『霊魂の世界 −心霊科学入門−』 (徳間書店 S.42年刊)<著者略歴>
板谷樹(いたや・たつ)

昭和5年 早大理工学部機械工学科卒業。
工大助手,助教授を経て,現在,工大教授
財団法人日本心霊科学協会理事。エ学博士


宮沢虎雄
明治19年,東京に生まる。
明治42年,東大理学部実験物理科卒業。
明治44年より海軍機関学校教官として25年間奉職。
現在,財団法人日本心霊科学協会理事。





 はしがき

 いま著者らが読者の皆さんに、「人間にはそれぞれ自分の心といわれるものが在ると思うが、皆さんはどう思われますか。そして、もしも在ると思うなら、心とは一体、何もので、物質なのか、物質以外のものなのか?」と、質問をしたら、皆さんは必ずむっとして、少し考えてから「心は在るに決まっている。心は何だかわからないが、物質ではないことは確かだ」と、ぶっきらぼうに答えられるに違いない。ところが、わが国では昔から心を発動させる"自分自身”すなわち"自我の本体"を霊魂と呼んできた。皆さんの中には霊魂を否定していられる方も多いと思われるが、「心は存在する」と答えた前記の回答は、目に見えない霊魂の存在を認めていることになるのである。
 まさに霊魂こそは"自我の本体"すなわち"自分自身”のことであり、我々"心”について研究する前に、心を発動させるその根源である霊魂について、もっと早くから、研究すべきではなかったのではないだろうか。
 幸い、1848年、アメリカのニューヨーク州に起きたハイズビュ事件によって心霊現象が科学の対象となりうることが証明されて以来、知名な科学者たちと、これに協力するすぐれた霊媒の努力とにより、心霊現象をその研究対象とする新しい"心霊科学"が誕生し、欧米ではすでに広く普及している。
 そしてこれにより神の概念も明確となり、従来、奇跡とか不思議とか言われてきた現象や、迷信扱いされてきた事柄も、単なる心霊現象に過ぎなかったことが証明され、さらに、科学がいかに進歩しても、人知では解き得ない何物かがあると考える神秘思想も、その姿を消しつつある。今や、正しく養成された霊能者は、死に際して肉体から、霊魂が離れていく様子や、幽霊や夢枕に立つ霊魂を視、霊魂と会話を交えることもできる。そして、このようにして姿、顔形、声、服装その他の特徴をあげ、さらに、故人以外は知らないことなどを聞き出して霊魂の存続を実証しつつあるのである。本書は霊魂と霊魂の働きについて今までに科学的に明らかにされた事項を記述したものである。







 第一章
 心霊に関する記録と文献

 
 初めに
 
 昔から不思議とか奇跡とか言われてきたもの――いわゆる“霊魂”や"神のような万能なあるもの”の存在を認めなければ説明のつかない超常現象は、世界歴史のすべての時期に、すべての国で報告されている、いたるところで人々は超常現象に遭遇し、それらに深く印象付けられてきた。もしも、これらが真実でないとしたら、何千年もの間、世紀から世紀へ、国から国へと語り伝えられ、科学の進歩した今日でも同様に、田舎と都会の区別なく毎日のように超きている現実をどう説明したらよいだろうか。またこれらの超常現象が、すべて統一された類似性をもち、霊魂や神のようなものの存在を暗示しているのはどういうわけだろうか。
 これは、これらの超常現象が約百年前アメリカで発足し、いまだ未完成ではあるが、ほぼ体系づけられた霊魂や死後の世界をその研究対象とする新しい自然科学、心霊科学の法則に従って起こる自然現象にすぎないからである。そして心霊科学は、すでに50年前、わが国へも輸入されていたが、どういうわけか、わが国では普及しないのである。

 著者らが、こうした事実を明らかにしても、人々は、そんな馬鹿なことがとか、霊魂の存在は科学と矛盾するとか現在の科学で説明できないものを信じるのは迷信であるとかいって、先進諸外国では、心霊科学はすでに大衆の常識になっていることも知らないで、なんら根拠のない概念的な言辞を弄し、霊魂の存在を信じる人々を軽蔑する。
 そのくせ、一方では死者に戒名をつけ、引導を渡し、花を供え、慰霊祭を催して霊魂を慰め、墓参をしてその冥福を祈るなど、あたかも霊魂の存在を肯定するかのような行ないをしている。著者らは、これらの人々の軽蔑や、著者らの研究をやめることを望む親族たちの圧迫に遭うたびに、つくづく日本人は不思議な国民であると思わないわけにいかないのである。そしてこの原因は日本人のものの考え方が概念的であり、事実より概念を重要視し、概念によって物事を決めてしまう習慣があるからだと思うのである。裁判の判決にも、そう思われる例がときどきある。霊魂に関する問題もその1つで、日本の大部分の方々は、霊魂や神に関する問題は、自然科学より哲学の領域で討議する問題のように考えているらしい。その証拠に著者らはよく、「自然科学を研究しているあなたが、どうして心霊の問題を研究するのか」と訊かれる。

 人魂や幽霊などのように霊魂の存在によって発生する問題は、人間の出生や死亡と同様に厳として存在する自然現象であって、人間の頭で考えられる形而学上の概念とは違うのである。したがって自然科学者の研究に適した問題であり、概念の討議を専門とする哲学者が扱う問題ではない。哲学者は人魂や幽霊は存在すべきか否かという問題を議論するかも知れない。しかし彼らは、自分の手の中の鉛筆、食べているご飯ですら、その実在を証明するのにめんどうな手続きを経て、これを認識してからでないとできないのである。これに対し、現実に種々の問題を1つ1つ解決し、一歩一歩確実な進歩を遂げて、人類を物質的にも知識的にも今日の水準にまで向上させたのは科学であり、今後、霊魂や神の問題を具体的に解明しうるのも科学だと思う。それは科学が事実を重んじ、事実だけが正しいとして、物事を一つ一つ決めてきたからである。
 レオナルド・ダヴィンチは、500年前にこう言っている。「知識とは事実の集積であり、それは実験その他の合理的な方法で、その事実が確証されるものでなけれぱならない」と。風俗、習慣や物の考え方が世界各地で違うように、霊魂観もそれぞれ違うことは想像されるが、霊魂の否定を文化的と考えているのは日本だけの、しかもここ4,50年の一時的な現象である。著者らは事実より概念を重んじてきた日本人が、今後は概念より事実を重んじる、いや事実だけが正しいのであると考えるよう、心の転換を図っていただきたいと思うのである。

 以上が心霊研究に対する著者らの信念である。それゆえ、あくまで事実にもとづいて、霊魂が厳として存在し、人間生活にいかに重大な影響を及ぼしているかを証明し、既成科学と同様、心霊科学の知織の重要さを述べていこうと思う。




 1.古代の人々の霊魂観
 
 現代人と比べて古代の人々の間には霊能者が多く、したがって霊的体験者も多かったことが想像され、そのためか現在の未開の土地の人々と同様、古代の人々は霊魂と神の存在を信じていたものと思われる。たとえば古代エジプト人は当時からすでに人間には顕在意識と潜在意識に相当する二つの霊魂カーとバーがあり、カーは肉体がその使命を終えたとき、肉体を離れて飛び去るが、肉体が元どおりの形で存在すれば、いつまでも離れずにいると考えてミイラを作り棺の中に『死者の書』(神への讃歌や祈祷文を収録したもの。これは世界で最も古い宗教的文献の一つで、正直、慈悲、不殺生などに関する道徳的思想は旧約聖書中のモーゼの十戒に劣らないといわれている)の写しを入れ、王の遺体の安置場所としてピラミッドを造った。


 次に古代の神託(巫女を使って神殿で行なわれる霊言)としては、アポロ神殿の神託が最も有名である。アポロ神殿は音楽・詩・予言などを司る神、アポロンアテネ西方150キロメートルのデルフィーに建てた神殿で、神託はきわめて正確であったため、高度の精神文化をもった当時のギリシャにおいても人々は神のお告げとして、これを率直に受け入れたのである。
 有名な歴史家ヘロドトス(西紀前469〜399)は、リデア王クローサスが数人の神託者に使いを出して、100日後の自分の行動を予言させたところ、一人の神託者の言が事実とまったく一致したことを記している。
 次にアテネの哲学者ソクラテス(前470〜399)は、常に自分の中にいるダイモニオンと称する守護霊の声に従って行動し、また彼の予言はよく適中したが、国家の神々を信ぜず、新しい神を説いて青年を堕落させたという罪を理由に死刑の宣告を受けた。
 また医術の祖といわれるギリシャの名医ヒポクラテス(前475〜377)が、「常に眼を閉じ、霊魂によって診断せよ」と説いたことは、最近の医学図書にも載っている。このように昔の人々は霊魂の存在を信じ、霊魂に対するその考えは、心霊科学の研究結果に近い。

 

 2 幽霊を見た記録

 心霊に関する記録のうち幽霊を見た記録が最も多いので、本節では幽霊と複体に関するものだけを挙げてみよう。ここに掲げる例は記録されている歴史上の知名人に関するもののうちの、ほんの一部だけで、一般庶民に関するものを列挙したら、その数は夥しいに違いない。
 古い方では、ペルシャ王クセルクス(前519〜465)、スパルタの武将ポーセニアス(〜470)、ジュリアス・シーザ(前100〜44)、シーザーを暗殺したブルートス(前85〜42)、ローマの武将ドルーサス(前38〜9)、同皇帝トラヤン(西紀後52〜117)、同カラカラ(188〜217)、同ユリアン(331〜36)、同テオドシュース(346〜395)は、それぞれ幽霊を見、深い印象を受けたことや、これに関連した恐ろしい出来事が記録されている。その後12、300年間はキリスト教の影響のためか、他の一般事項と同様、幽霊の記録はあまり見当たらない。
 ダンテ(1265〜1321)の『神曲』最後の13編の原稿は、彼の死後、一夜、ダンテが息子の夢枕に現われて、その在り場所を正確に教えたため、彼の息子によって発見されたと伝えられている。フランス王ヘンリー4世(1387〜1422)夫妻は、リヨンの大司教および3人の女官と、ある枢機官の幽霊を見たが、それはその枢機官の死亡時間と一致していた。スコットランド王ジェームス4世(1473〜1522)は、幽霊の警告に従ってイングランド遠征を思い留まり、イギリス王チャールズ一世(1600〜1649)は、幽霊の警告を無視したため、ネスビの戦いで敗れた。

 ドイツの宗教改革マルティン・ルター(1483〜1542)は、幽霊を見たことを彼自身で記録しており、イタリアの有名な彫刻家チェリー二(1500〜1571)は、生前しばしば彼を訪ねて激励してくれた青年の幽霊の指示によって自殺を思い留まり、イタリアの詩人タッソー(1544〜1595)は、周囲の人々には見えない幽霊と常に話をしていた。
 イギリスのエリザベス女王(1523〜1603)は、彼女自身の複体から死を警告され、ブロシャのブルーチャー元帥(1742〜1819)は、幽霊によって死を知らされ、ナポレオン(1769〜1821)はセントヘレナ島で王妃ジョセフィンの幽霊と話をし、死が迫りつつあることを知らされた。

 メソジスト教会創立者ジョン・ウェスリー(1703〜1791)が幽霊屋敷に住み、常に幽霊を見、種々の音を聞き、文豪ゲーテ(1749〜1832)が彼の弟子と散歩中、彼の帰りを待ちわびていた詩人シラーの生霊と街頭で話をしたこと(この時シラーの生霊は弟子には見えなかった)は有名である。ゲーテはまた、彼の横でいろいろな状態で坐っている彼自身の複体を見、晩年、そのとおりになったと人々に話した。
 作曲家モーツァルト(1756〜1791)は、不思議な男から『鎮魂曲』の作曲を頼まれ、何回も督促をうけたが、曲が完成されるとその第は姿を見せなくなった。しかしそのお蔭で彼の鎮魂曲は彼自身の葬儀に間に合った。
 イギリスの政治家ロバート・ピール卿(1788〜1850)は、彼の兄弟とともにロンドンで詩人バイロン(1788〜1824)の姿を見たが、その時バイロンアテネ西方200㎞のバトラスで危篤状態だった。バイロンの生霊は同時に他の人々の許にも姿を現わした。
 その他イギリスの哲学者フランシス・べーコン(1561〜1626)、血液の循環機構を発見したイギリスの医者ウイリアム・ハーべイ(1578〜1657)、クエーカー教の創立者ジョージ・フォックス(1624〜1691)、奴隷解放運動者ウイルバー・フォックス司教(1759〜1833)、フランスの女流文学者スタール夫人(1766〜1817)、イギリスの女流小説家マライア・エッジロース(1767〜1849)、同海洋小説家キャピテン・マアセット(1792〜1848)、同化学者ハンフリイ・ディヴイ卿(1778〜1820)、スコットランドの著述家で地質学者のヒュー・ミラー(1802〜1856)、カトリック枢機官ニューマン(1801〜1890)らは、それぞれ自分で幽霊を見たことを書き残している。




 3 キリスト教関係の心霊の記録

 聖書には死後のイエスの幽霊がたびたび姿を現わしたことや、イエスその他の人々の行なった多数の奇跡が載っている。これらのうち、心霊科学に照らしてみると明らかに誤りと思われる個所もあるにはあるが、イエスの行なった奇跡の大部分は、心霊科学で説明でき、イエスが偉大な霊能者だったことを示している。これらの聖書に載っている心霊現象を、心霊科学で正しく説明するだけでも、優に一冊の部厚な本ができそうである。
 ジェスイット教団の創始者イグナチウス・デ・ロヨラ(1491〜1556)は、祈祷中、彼の体が、地上30センチほど浮上したといわれるが、聖者たちの身辺に起こった物品移動、音、声、光、香気に関する記録は非常に多い。心霊史上の汚点は、中世紀における魔法使いへの圧迫である。これらの罪のない多数の霊能者は、神と同様、奇跡を行ないうるという理由で、魔法使いの汚名を着せられ処刑されたのである。
 またフランス東北部の僻村ドムレミーの農家の娘ジャンヌ・ダルク(1412〜1432)は、幼時から常に天使の声を聞いたといわれるが、百年戦役の後半フランスの国運が危くなったとき、十六歳の彼女は神の命に従い、白馬に跨り陣頭に立って祖国を勝利に導いた。


《ルールドの奇跡》
 
 ルールドは南フランスのピレネー山脈の北麓にある小さな町に過ぎなかったが、1858年、以下に述べる奇跡が起きてから一躍有名になり、その日から1958年までの百年間に、世界の各地から集まった巡礼者は一億に達するといわれている。生まれつき病弱で、しかもときどき発作を起こした少女ベルナデッタ・スービルーは、幼いころから変わったところがあり、恍惚状態でローソクの炎の上に手をかざしても火傷を負わなかった。ある日、彼女は村はずれの洞窟の入口で聖母マリアの姿を見、それ以後たびたびマリアの姿を見、その指示によって洞窟内に湧く泉の水を飲み、浴することによって病気が癒されることを教えられた。そして爆発で眼をつぶした石工が、泉に浴し、眼が治ったことを聞き伝えた人々が次々と集まり、みな病を癒やされ、このようにして閑村ルールドは一躍キリスト教のメッカとなったのである。
 
 フランスの著名なノーベル生理医学賞受賞者アレキシス・カレルは、自著『人間−この未知なるもの』の中で、リヨン大学教授時代に患者に付き添ってルールドに行き、その奇跡を目の当りに見た体験を語り、次のように述べている。
 「自分が1902年に神秘的治療の研究を始めた頃は、整理された資料も少なく、またこのような研究が自分の将来に禍を及ぼす危険もあったが、今では医師は患者とともにルールドに来て病人を観察し、医務局に保存されている記録を調べることができる。ルールドには国際的た医学協会が組織され、たくさんの医師が会員となっており、文献は豊富で関心のある人々は、さらに深い研究を続けつつある‥‥」
 著者の1人も5年前、ローマからスペインに向かう飛行機の中で、ルールドに向かう黒い衣をまとったメキシコの巡礼者の一団と同席し、彼らのルールドに対する強い憧れを知って驚いたことがある。





 4 わが国の心霊に関する文献

 わが国にも心霊現象に関する記録や文献は多数あるが、その中から、古く、かつ心霊科学的に興味あるもの2,3挙げてみよう。


 《神功皇后の霊言》
 
 『古事記』に載っている有名な神功皇后の神託の記事の始めの部分に、次のような個所がある。
 仲哀天皇筑前の香椎の宮に着いて、熊襲の国を平定しようとした時、天皇が琴を弾き、皇后が巫女となり、武内宿禰審神者(出てきた霊と問答する役)となって神の心を伺った。すると皇后は神がかりして
「西の方に国があって、金銀はじめ目の輝くようないろいろな宝物がたくさんあるから自分が今その国を帰順させよう」
と言った。ところが天皇は、
「高い所へ登って西の方を見ても、そんな国は見えず、見えるのは海ばかりです」
と答え、この神は偽りを言うと考えて琴を押しやり弾くのを止めてしまった。神は大層怒って
「だいたいこの国はおまえの治める国ではない。おまえは黄泉の国へ行く道に向かえ」
と言う。驚いた武内宿彌が、
「恐れ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾きください」
と言うと、天皇はいやいや琴を引き寄せて、しぶしぶ弾き始めたが、そのうち琴の音が聞こえなくなったので、灯火を近づけて見ると、既に崩御あそばされていた‥‥というのである。


 
 《複体の記録》
 
 複体に関する欧州での記録については前に述べたが、わが国での複体の最も古い記事は『今昔物語』の中にある。
 
 平安朝頃、女御の許に仕える小中将という若い女がいた。容姿も心ばえも美しかったので、美濃守藤原隆経に愛されるようになった。
ある日の暮れ方、小中将が灯をつけていると、灯の許に、着衣も容姿も小中将と瓜二つの姿が現われた。傍にいた女房たちが、「あやしくも似たるものかな」と騒ぎ興じるうち、小中将が手を挙げて、あやしい姿をたたき捨てるようにすると消え失せた。そこで女房たちが、小中将に「なぜかき落としたか」となじると「賎しい姿をよってたかって眺められるのが恥ずかしかったので」と答えた。
 それから二十日ばかり経って、小中将は風邪気味で二、三日、局で臥した。が治らず、親の許へ保養に行くと暇をとって太泰へ帰った。そこで隆経は小中将に逢いに行き、両人まめやかに語り睦んで明け方に遠る途中、後ろから使いがきて小中将が死んだことを知らされた。
 灯の前に姿が立ったとき、よくよく祈らねばならないのに、かき落としてそのままにしたからだ、と語り伝えられたということである。






 第2章 催眠術の起源

 1 スウェデンボリの霊能

 エマヌエル・スウェデンボリに関しては、わが国はもちろん、世界各国にスウェデンボリ研究会があり彼の名はよく知られている。彼は在世当時から有名人だったため、彼の超常的な行動については多くの記録がある。
 彼は1688年ストックホルムで生まれ、ウプサラ大学卒業後、ロンドンで5年問、物理学者のニュートン天文学者のハーレー、数学者のラ・イールらについて研究し、帰国後、王立鉱業大学の副校長に任名され冶金学の権威となった。この間、天文学(星雲説を初めて発表したのは彼である)・鉄・銅に関する有名な論文を発表し、後に人体生理学の研究によって、性格の相違を発見しようとし、頭脳・感覚・皮膚・血液・舌などに関する解剖学的・生理学的な多数の論文を発表し、科学者・行政官として業績を挙げ、31歳で貴族に列せられた。
 彼は若い頃から超常現象を行なったが、彼の言によれば、55,6,7歳のとき3回、それぞれイエスの姿を見、それ以来、千里眼がきき、また霊魂たちと話ができるようになった。特に3回目にイエスを見たとき以来、イエスの命に従って一切の実務をやめてキリスト教関係の著述に従事した。これらの文章はすべて神の啓示により、驚くべき速さで書かれたもので、人間技とは思えない膨大な量のものである。
 
  次の2,3の挿話は、彼の霊能を示すものとして有名である。
 それは彼が71歳の時、イギリスから母国に帰る途中、ストックホルムから直線距離で420㎞離れている港町ゲーテンボルグに上陸し、知人の家で晩餐会に招かれた時のことである。ちょうど、そのとき発生したストックホルムの大火を千里眼で手にとるように見、人々に伝え、さらに翌朝、同地の総督に詳しく話した。これは2日後に到着した飛脚の報告と完全に一致したので、彼は一躍有名になった。
 その翌年のことである。ストックホルム駐在オランダ大使の死後、同大使夫人は貴金属商から銀製食器の代金支払いの請求を受けた。
夫人は大使から支払った旨の話を聞いた記憶があるのに領収書がみつからないので、スウェデンボリに相談にきた。3日目に彼は同夫人を訪ね、階上の一室内の机の引出しのうしろに、特別に作られた大使以外は知らない秘密の箱の在り場所を教え、そこから大使の私信とともに入れてあった領収書を発見して、貴金属商の二重横領を防いだ。また彼は前々から、自分は1772年3月29日に霊界入りすることを人々に伝えていたが、その日、84歳で死んだ。
 哲学者カントもスウェデンボリについて研究し、『霊界予言者の夢』なる論文のなかで彼の超常能カを認めている。



 2 メスメルの催眠療法

 スウェデンボリの死後数年を経た1778年、ウィーンの医師アントン・メスメルはパリに出て新しい病気治療法を宣伝し、大評判となった。彼は動物磁気と称する一種の宇宙生命が人体に満ちており、術者の接触や手の動きで、これが作用して痛みを除き、全身の感覚を失わせて無痛分娩や無痛手術が行なえ、またあらゆる病気が治ると称し、また事実、多数の患者の病気を治したが、医師団の強硬な反対にあい、パリを離れざるを得なかった。しかし彼の弟子たちは彼の意志を継ぎ、メスメリズム(メスメルの学説による催眠療法)は、ますます普及した。興味あることには、特殊な被術者は深い催眠状態に陥って、施術者の言うなりに種々の行動をし、さらに千里眼・患部の透視・病気の治療法・予言や目かくしで町のなかを歩くなどの超常現象を示したが、催眠状態から覚めると何も記臆していなかった。
 その後、メスメリズムの学問的研究は、イギリスの各大学で取り上げられ、1841年、ジェームス・ブレイドは、催眠術論(暗示などの心理的過程によって被術者を術者の意志のもとにおく現在の催眠術)を発表し、またこれとともに、人間の心の奥には、自分には意識されないもう一つの心、潜在意識のあることが知られるにいたった。
 メスメルの病気治療法はエーテルクロロホルムなどの麻酔薬の発見によって大いにその利用価値を減じたが、催眠術の普及と、人間に潜在意識のあることや、超常能力を持った人のいることを明らかにした点で、心理学および心霊学史上、重大な役割を果たしたのである。

 アンドリュー・ジャクソンデイビスは、アメリカ・ニューヨーク州のハドソン河に沿う小さな町の靴屋の子として牛まれた。家が貧しくて家業を手伝っていたため、学校へ通ったのは2〜3週間だったといわれている。
彼が17歳の噴、町へきたメスメリズムの施術者の実験台となり、彼に千里眼その他の超常能カのあることが認められたため、しばらく施術者の助手をして病気治療に従事した。しかし翌年、彼の言に従えば、ある夕、突然、半悦惚状態となり、気がついたときは家から60kmもある荒涼たる山の中にいた(わが国にもこういう例はいくつもある)。ここで彼は2人の老人、ガレン(解剖学の祖といわれるローマ時代の名医・哲学者)と、72年前に他界したスウェデンボリの霊に会い、医術と道徳について教えを受けた。
 それ以来、何物かに憑かれたように著作の欲望にとりつかれ、催眠状態にある発言(霊言現象)を筆記してもらった。その内容は、ずばぬけて優れたものであったため、次々と多数の知名人がこれに立ち合うようになった。1846年、『自然の神の啓示』『自然の原理』『人類に与う』なる3部作が刊行された。その後は、施術者や立会人のカを借りないでも、ひとりでに手が動いて文章を書くようになリ(自動書記現象)、次々と30冊以上の秀れた箸書を刊行し、ロングフェロー、エマーソンなど多数の人々に愛読された。エドガー・アラン・ポオは、しばしば彼を訪ねている。

 以上において興味のあることは、無教育で一冊の本さえ読んだことのない彼の文章中に、言語学・考古学・歴史・地質学・医学その他のすべての分野に対していかなる天才も及ばないほどの正確で豊富な内容を蔵しているといわれていることである。この現象はスウェーデンボリ、その他の高い霊が彼に書かせたと考える以外に説明がつかない。なお、彼が催眠状態中に書いた『自然の原理』の中で、彼は、「人間は霊界に住む霊魂」と交わることができる。今や霊界からの呼びかけが殺到しており。、近く霊界との通信が確立されるだろう」と述べたが、まさにその2年後、彼の予言にたがわずハイズビュ事件が起きて、霊界との通信の道がひらけ、近代心霊科学発足の動機となったのである。



 3 霊魂の著述
 
 前節と同じ例はハドソン・タットルにも見られる。彼の父は、百姓をやるかたわら巡回説教師をやっていた。彼は少年時代の大部分をアメリカ北部のエリー湖西岸の荒地で過ごし、学校へ通ったのは11カ月だけだった。あるとき、父の同僚の牧師がロチェスター市の叩音の話を聞いて降霊会を催し、当時16,7歳だった彼も招かれた。ところが間もなく彼は悦惚状態となり、自然に手が動いて(自動書記現象)、霊界からの通信文を書き、その後盛んに文章を書き始めた。

 彼が書くのはラマルクという名の霊の指示によることを彼はよく知っていたが、ラマルクこそは23年前に死んだフランスの有名な生物学者で、進化論の先駆者であることを彼は知るよしもなかった。彼の著作中、最も有名なのは『自然界の神秘』『心霊学説の神秘』『心霊科学における諸研究』である。これらは1853年、彼が18歳のとき書かれたもので、当時としては驚くほどの科学的材料を含んでいたといわれている。ドイツの極端な唯物論者で哲学者で医者であるブュヒナーは自著『カと物』の中でタットルの『自然界の神秘』中の文章を、また、有名なイギリスの博物学ダーウィンは彼の著書『人類進化の歴史』の中でタットルの著書『自然人の起源と古代の風習』中の文章を引用ている。
 これによってもタットルの著書が高く評価され、欧州においても広く読まれていたことはわかるが、2人の知名な唯物主義の学者は、彼らの引用した文章が、霊の口述により(霊聴現象)無知な18歳の農民の子によって書かれたことは、少しも知らなかった。

 イギリスの有名な小説家デイッケンズは、生前から霊魂の存在を信じ、心霊実験会を催したこともあったが、彼が毎月継続して発表していた彼の最後の小説「エドウィン・ドルードの神秘』は1870年7月8日、彼の死によって中断された。ところがアメリカ・バーモンド州ブラットボロの無教育な一工員T・P・ジェームズは、自動書記でデイッケンズという署名のある霊界よりの通信文を得、それによって1872年(デイッケンズの死後2年後)のクリスマスの日から始めて、翌年の7月8日、すなわち、彼の命日までに前記の小説の未完の部分を完成した。この自動書記で書かれた部分はデイッケンズが生前書いた部分よりも長く、考え方、文体、綴り方の癖まで驚くほどよく連続している。この2つの部分はデイッケンズの霊の指示により1874年ジェームズによって前記の題名で出版されたが、このことを知らぬ後世の一般読者や英文学研究者には全編デイッケンズ作と考えられている。







 第3章 心霊研究学会の創立

 ケンブリッジ大学の亡霊学会

 ハイズビュ事件の3年後の1851年、ケンブリッジ大学内に、亡霊学会(Ghost Society)が結成された。後にカンタベリー寺院の大司教になったエドワード・ベンソン教授が主導者となり神学教授ライトフット、同ウェスコット教授、同ホルト教授(以上は西洋人名辞典に載っている)、マイヤーズ、ガーネイ、有名な哲学教授ヘンリー・シジウィック、大科学者で物理教授のレーリー卿、バルフオア嬢(大政治家バルフォァ伯の妹、後にケンブリッジ、ニューハム・カレッジの校長となる)らが参加し、1882年に創立された心霊研究協会(S・P・R)の前身的役割を果たした。
 一般に大学内に作られる小グループの学会は長続きしないのが普通であるが、亡霊学会は設立の時期がよく、かつ外部の支持を得て長く続いた。すなわち翌年の1852年にはアメリカから優秀な叩音専門の霊媒ヘイデン夫人、同55年には物理的心霊現象を現わす大霊媒D.D.ホーム、同64年にはダーベン・ポート兄弟、同71年にはケイト・フォックス(前出)、同76年にはマーガレット・フォックス(前出)が次々にアメリカから来て、欧州各地で実験会を開いたため、はじめは賛否両論に分かれて激論を闘わした新聞紙上の論説も、次第に心霊現象の実在を認めるようになり、知名なロンドン大学の数学教授ド・モルガン(デ・モーガン)、社会主義者ロバート・オーエンほか多数の学者、政治家、知名人もこれを支持した。大政治家グラッドストンも公式の席上で「心霊現象の研究は、現在、最も急がねばならぬ重要な問題である」と演説している。
 
 亡霊学会の最初のまとまった仕事は、"幽霊"や"お化け屋敷”のように偶然に発生する心霊現象の資料を巡回して調査し収集することだった。この仕事はオックスフォード大学の"現相学会"のほうが着手は早かったといわれているが、1882年のS・P・R創立後も続けられ、1888年『幽霊』という本が出版され、当時、確実な証拠があった数百の幽霊とお化け屋敷の例が集められている。なお、この本はその後も補充され、1923年版の複製本が1962年にも発行された。




 オックスフォード大学の現相学会

 ケンブリッジ大学の亡霊学会にすこし遅れてオックスフォード大学にチャーレス・オースマン卿を指導者として「オックスフォード現相学会」が発足し、これには同大学出身の博物学者、思想家として知名なアルフレッド・ウォレス、ステントン・モーゼス司、バーレット教授、大科学者サー・ウィリアム・クルックス教授らが協力した。
 心霊研究の主流は、たしかにケンブリッジ大学にあったといえるが、オックスフォード大学関係者の研究が心霊知識を普及せしめ、S・P・R創立の機運を盛り上げた功績は高く評価されている。
 
  例えばクルックス教授は、当時イギリスの一流学者によって結成されていたロンドン弁証学会の「心霊現象調査委員会」が、心霊現象を認める方向にあるのを知り、科学者として、それらが馬鹿げた原因に基づくことを発見して心霊問題の混乱を一掃しようと思いたち、1870年、『クォータリー・ジャーナル・オブ・サイエンス』誌に「科学の光を浴びる心霊現象」という表題で、「どんな結果になるかわからないから、先入観をもたないで研究を始めるが、いろいろな科学的方法を用いで、正確に観察すれば、たぶん心霊学説の無価値な残滓は、魔法と降霊術の未知の淵へ追い落とされることになるだろう」
という一文を載せ、心霊反対論者の大喝采を浴びた。
 
ところが翌年、有名な物理霊媒D.D.ホーム(前出)の調査に着手して以来、彼の先入概は完全に覆えされ、彼の言によれば「心霊現象は従来の科学的常識に反する異常なもので、既知の科学的概念からは不可能だと断言したい気持と、事実として忠実に認めなければならないという理性との対立」に悩んだ。しかし彼はついに意を決し、1871年以後『新しいカの実験的研究−心霊カに関する実験」「心霊力と近代心霊学説」など、心霊現象を認める報告書を次々と発表した。むろん、彼は、著名な科学者であったため、その報告はまたまた大波乱をまき起こした。すなわち心霊主義者は双手を挙げて歓迎したが、反対者は彼の名誉を傷つけるような記事まで書いて攻撃した。しかしクルックは、これらの悪評をものともせず、実験を続け、1874年、その結果をまとめて長文の論文を発表した。
 その内容は真摯な科学者である彼が納得行くまで実験し、その真実であることを確かめた物品移動、人体浮揚、叩音光球の出現、手の出現、幽霊の出現、物体通過、物品引寄せ、直接書記(以上後記)等、従来の科学では、とうてい考えられない現象に関するものであった。




 3 クルックスの研究

 つづいてクルックスの名をいやがうえにも高めたのは、フローレンス・クックという当時15歳の少女霊媒についての報告である。これは『フローレンス・クックの霊能』『幽霊の諸現象』『ケティー・キングの最期』という3つの報告書に記載されたもので、これらの報告書から興味のある部分を抜粋してみよう。
 これらは一度も実験を見られたことのない方々には、到底信じられないことと思うが、あくまで事実であり、後に述べる説明によって理解されるものと思う。
霊媒フローレンス・クックによって出現した物質化霊は、300年前、時の英国王チャールズⅡ世からジャマイカの総督に任命された元海賊ヘンリー・オーエンス・モルガンの娘ケティー・キングだと自称した。ケティーの物質化霊が人間らしく親しみのあったことは、たとえばクルックス夫人がコナン・ドイルに送った手紙によってもうなずける。
「私の息子の一人は当時、生後3週間の赤ん坊でしたが、物質化したケティー・キングはその赤ん坊をおもしろがり、自分で抱いて軽くあやしたりしました‥‥」またクルックス教授の令嬢の1人が、「キングは自分ら子供たちを集めて南洋の面白い物語をしてくれました‥‥」
と往時を回想していることでも分かる。



 《タップ氏の記録》
 ある晩の実験会で、私は許されてキングの腕に触れた。それは大理石か蝋のように滑らかで体温も人間のようであったが、不思議なことに彼女の腕には骨がないので、このことを訊ねた。キングは微笑したが、1、2分すると、また、その腕を差し出したので、握ってみると、今度は骨らしいものが感知できた。またあるとき、すこし冗談を言ったらキングは拳を固めて私の胸を打ったので、思わずその腕を握ったらクシャクシャにしぼんでしまった‥‥。



 《マリアネット女史の記録》
 
 私はクルックス卿がキングを秤にかけるのを見ていたが、キングの物質化が全身に及ぶ場合は、霊媒クック嬢の平常の重さのちょうど半分あった。またある実験会で、列席者の1人がキングに向かい、「なぜ、あなたは1個のガス灯だけより明るい場所には出られぬか」と問うと、キングは、「理由は私にはわかりませんが、どうしてか出られないのです。今夜ひとつ試してごらんなさい。その代リ今夜はそれきり出られません」と答えた。
 そこで一同で実験の準備をし、3個のガス灯を一度にパッとつけた。部屋は白昼のように明るくなった。キングは両腕を広げ、痛ましげな表情をつくっていたが、一秒、一秒と、その体は消え始めた。その光景は、あたかも蟻人形が熱火の前に溶けるがごとくで、目鼻の輪郭が崩れ出したと見る間に眼窩だけとなり、鼻が消え、手足がなくなり体はだんだんと降りながら消滅し、ついに床の上に頭骸骨の残骸が残るのみとなり、それも間もなく白煙のごとく消えていった。
 キングの衣服はつねに白色で、布地は時によって異なり、木綿のように見えたり、毛織のように感じられたり、時としてレースのようなこともあった。実験ではしばしば衣服の端を記念にと望まれ、切って与えるが、貰った人がどんなに厳重に密封して持ち帰っても、自宅で改めると消えているのだった。
 あるとき、一同の前で私はキングの頭髪を切り取るよう言いつかったので、一生懸命でその毛を切ったが、切られた毛が床に落ちるか落ちないうちに切跡には元どおりの毛が生え、同時に落ちた毛は消減してしまうのだった。
 こうして生ける人のように我々と親しんだ彼女も、ついにこの世から永遠に去る日がきた。彼女は前から1874年5月以後は出ないと言っていたが、いよいよその月に入ると21日を訣別の日と決めた。その日、彼女は特に親しくしていた地上の友を集め、あらかじめ頼んで用意した数種の花とリボンで、手ずから花束を作り、一人一人に記念として与えた。私は鈴蘭と葵の花束を貰ったが、それは今なお私の手許にある。去りゆくキングを惜しむ私たちの気持は、ちょうど親しい者に死別するのと同じだった。そしてクック嬢には間もなくメリーと呼ぶ、ぜんぜん別の物質化霊が現われることになった。




 4 ケティー・キングの最後

 《クルックス教授の記述》

キングが、われわれ地球人の前から永久に消えることとなった前の週に、彼女は毎夜のように私に写真を撮らせてくれた。写真機は5台で、撮影は私と助手の2人で行なった。過去6カ月間、私の家の実験室の電灯の下で、キングとクック嬢を並ばせて実験したこともあるが、恍惚状態のクック嬢は不安らしく動き、ときには唸ることもあった(霊媒は光を当てると苦しがる−著者註)。
 いよいよ別れの時刻が近づいたとき、キングは私を暗室内に招き入れ、いろいろと語り、それからクック嬢の横たわる床のところへ行って彼女の体をゆすり
「覚めよ嬢よ、私は今、あなたと別れる時期が来た」
と言った。クックが目を開いて、涙ながらに、もうしばらく目を延ばしてくれるように哀願すると、
「親しき友よ、私の仕事は終わった。神はあなたを祝福してくれるであろう」
と言い、その後も私と数分会話を続けたが、クックは涙にむせんで泣きだし、ついに床の上に倒れた。私はキングの言いつけに従い、クック嬢を助け起こそうと1,2歩前に進んだ瞬間、キングはこの世から姿を消した。
 
 クルックス教授はタリュウム原子を発見し、輻射計、クルックス管を発明し、1863年王立協会員、1875年国王メダル、1894年ナイト爵位、1910年には有功勲章を受賞し、王立協会会長、化学協会会長、電気学会会長を歴任した英国きっての大科学者であるが、彼が1899年、大英帝国学術協会会長に就任した時の就任挨拶の辞中に次の句がある。

 「私の生涯中、私が世の中でいちばん評判になったのは、私が心霊の研究に従事したときのことであります一我々の科学的知識以外に、ある未知のカが存在することを証明する種々の実験記事を私が発表してから、すでに30年の年月が経っています。むろん、このことは今回、私を本会会長に選挙された皆さんのよく知るところであり、本日、私がこの点に言及するか、または、これを黙殺するかについては、たぶん、皆さんは好奇の心をもって聞かれていることと思います。しかし私はたとえ簡単でも、これについて一言したいと思います。心霊問題を無視することは卑怯の行為で、あえて私のとらぬところであります。」

 テーブル・ターニングの最初の研究家、フランスの大臣ガスパラン伯は、1853年パリ、1857年ニューヨークで『心霊学説の科学』を、ペンシルバニア大学の化学教授ロバート・へーア博士は『霊の出現の実験的研究』を、ニューヨーク州最高裁判所判事で上院議員ジョン・エドモンドはニューヨーク・トリビューン社から心霊シリーズを出版するなど、欧米ではすでに百年以前から、多数の心霊関係の印刷物が続々発行されるようになった。






 第4章 心霊科学について

 霊魂によってひき起こされる現象を心霊現象といい、心霊現象と霊界の事象を系統的に研究、整理して、一般約法則を見いだし、これを応用する学問を心霊科学という。


1 常識という壁

 人間の常識は、個人によって相当違うが、宗教や国や時代によっても非常に違う。ところが人間は現在の自分の常識こそ唯一の真理と思いこみ、これと違う事柄を誤りと考えることが多い。政党や宗教の宗派間の闘争などは、その代表的な現われの1つと思う。

 今でこそ、科学知識が普及し人々が当り前と思っている事柄でも、それが発見され、人々の常識となるまでには、いろいろな悲喜劇、深刻な問題をひき起こした例が極めて多い。そしてその事柄が重大であればあるほど、世間の堅固な常識の壁を破るのに永い時間を要したのである。
 
 昔、ギリシャピュタゴラス派の学者たちが地動説を発表したとき、プラトンアルキメデスのような大学者までが、「地球が回転すれば、人間は逆立ちになってしまう。それより真っ先にピュタゴラス派の連中が気狂いになるだろう」
と言って嘲笑した。その当時の地動説の反対者は、それから2000年後、ガリレイを宗教裁判にかけたローマ法王ウルバン八世たちと同様、地球が回転することなどは真にありえないと信じていたのである、

1750年、ベンジャミン・フランクリンが初めて雷は電気であるという論文を発表したとき、ロンドン学士院会は悪罵を浴びせて、雷の電気説を誰も信じなかった。

1769年、バリの学士院会は、リュッセに落ちた隕石を、「天から石が落ちるはずがない」と言って否定した。その翌年、フランスのジュリアック村役場が、畑や屋上に降った多数の唄石の調査書を作ったところ、当時の新聞は一斉に、その馬鹿らしさを論評した。

1772年、ラボアジュが空気は酸素と窒素が主成分であることを発表した時、有名な液体比重計の発明者ボーメまでが2,000年前からの火、土、水、空気の4元説の正しいことを主張して、ラボアジュの説に反対した。

1786年、蒸気船がフィッチによって発明され、試運転も成功したが、フランス科学協会は火と水とを結合した発明の馬鹿らしさを嚥笑し、政府に不利な上申をしたため実用化されなかった。またアメリカ人フルトンも、フランスで蒸気船を発明したが認められず、アメリカヘ帰って実現できた。

1786年、フランスのルボンはガス灯を発明したが、人々は「灯心のないランプが燃えるはずはない」と言って使わなかった。ロンドンにガス灯がともったのは、それから20年後である。

1796年、ジェンナーが種痘接種法を発見したとき、学者、友人に嘲られ、民衆の激昂にあって一時は外国へ逃避することも考えた。人々は種痘した子どもは顔が牛に似、声まで牛に似てくると真面目に考えた。

1878年、バリ科学協会の講演会で、エジソンの発明した蓄音機の紹介者が、演壇に登ろうとしたとき、ある学者が、「この大嘘つきを引きずり下ろせ」と叫んで殴りつけ、一騒ぎが起きた。そのとき会員のゴイヨー博土は、
「金属が人間の声を発するなどということはありえない。したがって蓄音機は耳の錯覚である」と演説して大喝采を浴びた。

 その他、この種の例は枚挙にいとまない。これによっても一般大衆は、、正しいか正しくないかは別として、その時代の常識を唯一の真理と信じこみ、これと違う事柄は常識の壁で遮断して一歩も中へ入れようとしないものであることがわかる。心霊の問題もそのひとつである。



 2 科学的真理とは

 しかし調べて見ると、常識にはきわめて曖昧なものが多い。最近の科学の進歩の状況をみて、科学は人間の謎をほぼ解明しえたと考えている人々もあるかも知れない。しかし実はまだまだ、いや永久に解きえないと思われる問題がたくさんある。たとえば我々は地球上に棲息しているが、この地球がどうして出来、将来どうなるのかわからない。また、我々は地球上で地球の引力の中で生活しているが、どうして物質には引力があり、またその引カがどういう伝達機構で他の物質に伝わるのか全然わかっていない。我々は毎日ラジオを聞き、テレビを見、四六時中、電波の中で暮らしているが、この電波がどうして空間を伝わってゆくのか、これもよくわかっていない。それよりも生物がどうして発生し、心がどうしてできるのか誰にも答えられない。
 このように考えてくると、わからないことばかりであるのに、実際は科学者は引カを利用して人工衛星を飛ばし、電波を利用して地球の裏側でもテレビを見えるようにし、生物学を利用して酒やペニシリンを作っている。一体これはどういうわけだろうか。
 それは科学がどうして(Why)という問題の答は哲学にまかせ、どうなっているのか(How)という」問題探究に努力してきたからである。すなわち、どうして物質には引カがあるのかとか、どうして心ができるのかという物の根本に関する、人間には解きえない問題には触れないで、それがどうなっているかということを調べ、それを法則づけ、その利用を考える。これが科学なのである。

 この法則付けは普通、次のように行なう。すなわち、我々が従来の科学的常識では説明できない現象にぶつかった場合、まずその現象は正しいかどうか(錯覚や計算違いや測定機の誤差や、その他の誤りではないかどうか)を調べ、それが誤りでないことがわかった場合には、その現象が起こるために必要な原因を堆論(または仮定)する。この推論、すなわち新仮説は、従来の常識では説明できなかった現象が説明できるようになることが必要であり、これが新しい法則樹立に必要な第一条件である。
 
 次にこの仮説は、他の分野の現象に対しても当てはまること、また、少なくとも他の分野の問題に矛盾を来さないことが必要である。科学法則は科学の全分野に適用しなければならない。これが新しい法則付けに必要な第二の必要条件である。
 次にこの仮説は実験や測定により、誰がやっても事実とよく一致することが確かめられねばならない。これが第三の条件である。
 
 このように、我々は自然科学上で、わからない問題にぶつかった場合、新しい法則を仮定し、その仮説によってその現象が説明でき、他の分野の問題に対しても矛盾をきたさず、実験によってその仮説どおりになっていることが確かめられた場合、すなわち三条件そろった場合はその間題を解決しえたと考え、それが一般に認められるようになると、その新法則は科学上の真理として取り扱われるようになるのである。
 
 例えば、光は細かい粒子が飛んできて物にぶつかり、はね返って我々の目を刺激するため、物が見えると考えられてきた。ところが光の屈折、偏光、干渉、回折等のいろいろな現象は、光を粒子と仮定すると説明できないことがわかり、光はエーテルの波動だという仮説が立てられ、光のエーテル説は長い間、真理と考えられてきた。
 ところがその後、量子論が発表され、さらに、光電効果コンプトン効果等、エーテルの波動説では説明できない諸現象が発見され、わかりやすくいえば、光は粒子が振動しながら飛んでくるという仮説に修正され、これによって現在の光に関する現象は全部、説明できるようになった。しかし、また将来、波動粒子説では説明できない現象が発見されて、さらに新しい仮説が設けられるかどうかわからないが、今のところ、光に関するすべての現象が、この波動粒子説で説明できるうえ、物理学以外の他の各専門分野の問題に対しても矛盾をきたさず、さらにこの仮説に基づくすべての計算は測定結果と一致するので、現在、光の波動粒子説は真理と考えられている。





 3 霊魂の存在に対する科学的考証

 心霊科学もこれとまったく同じなのである。たとえぱ人魂や幽霊や人が死ぬとき現われる夢枕などの現象は、よく調査してみると、決して偶然の一致とか、幻想や錯覚でないことがわかる。そこで、これらの現象が発生するための必要な原因をいろいろ考えてみると、どうしても霊魂のようなものが存在しなければならないという結論に達する。
 そこで人間の死後も霊魂は肉体を離れて存在し、霊能のある者のみがそれを知覚できると仮定すると、心霊現象はすべて簡単に説明できる。また、こう仮定しても物理、化学、生物学、その他すべての分野の既成の法則に対して、何ら矛盾しないばかりか、心理学や精神医学などの分野では、いままで説明できなかった現象も、霊魂説でその原因や理由が、はっきり説明できる。それゆえ、この仮説は科学的真理の第一、第二条件を満足していることになる。
 
 次に、霊魂の存在を証明する第三条件の実験については、守護霊や幽体離脱を見る実験、オーラを見る実験、招霊実験、除霊による精神病その他の病気治療、因縁調査、テレパシーの実験(以上後記)など、いくらでもある。ただ、ここで一言したいのは、以上はすべて霊能者に対しての実験であることである。すべての人に適用できなければ科学ではないという人もあるが、同じ程度の霊能者について実験し、いずれも同じ結果が得られるならば、私はこの実験は普遍性を有するものとして、科学の領域へ入れてよいと思うのである。
 
 さらに人為的実験ではないが、幽霊、夢枕、人魂など、霊魂説の仮説を実証する偶発的出来事が次々と起きており、科学的法則樹立に必要な第3条件は十分満足されているといってよい。それゆえ、霊魂説が普及して人々がこれを認めるようになれば、霊魂の存在は科学的真理であると、はっきりいって差し支えない。そしてこのようにして心霊科学は研究されて体系づけられたのである。
 これに対して霊魂否定説では心霊現象は説明できない。読者のなかには人魂を見られた方や、夢枕、幽霊その他の心霊的体験をお持ちの方が多数おられると思うが、これらの現象は霊魂否定説では1つも説明できない。すなわち霊魂否定説は科学的真理を満たすに必要な第一条件から失格であり、霊魂否定説こそ非科学的な学説なのである。霊魂否定説の支持者たちは心霊現象を、偶然の一致とか、錯覚という言葉で抹殺しようとしているが、これらの言動は科学的探求心の欠除によるものか、前章のクルックス卿の言うように、大衆の常識に従うのを得策と考える卑怯な精神に基づくものと思わざるをえない。
 
 次に、我々は、それぞれ心を持っているが、心とは物質か物質でないか、いったい何であろう。個性と自由意志をもち、将来のことを考え、新しいことを発明し、希望や理想をもつことのできるこの心の発動体すなわち心の持主を心霊学では、魂と名づけている。
 ところが従来、医学の分野では、心が何であるかわからなかったため、細胞が集まればひとりでに心ができるのだと説明してきた。ところが終戦後、アイソトープを利用する道が開け、人体の細胞の寿命が測定できるようになり、それによると、早いものは2 〜3週、骨の細胞のように寿命の長いものでも約7力月で全部新しい細胞と入れ替わることが判明した。
 ところが誰にでも判るように、細胞は変わっても、人の心は進歩はしても、心そのものは変わらない。そのため現在の医学は心の問題で行き詰っているそうだ。さらに人間の細胞、たとえば癌細胞を取り出して、それに適当な栄養を与えると、いくらでも生かしておけることが判ってきた。しかし癌患者はとっくに死亡している。それで、どうしても細胞と心は別だと仮定せざるを得なくなってきたとのことである。筆者らは将来、医学の分野自身でも、心は肉体とは別だと言い出す時期が、必ず来ると確信している。

 テレビがどうして見えたり聞こえたりするかとかは、機械学では説明できない。同様に医学や化学の知識でも説明できない。
 またプロペラを回わせば水や空気が流動する現象は機械学の理論の分野に属する現象で、電気学や医学や化学の知識ではプロペラの理論は説明できない。これによっても分かるように、現在の科学はお互いにその分野の知識がなければ、その分野の現象は理解できない専門分野の集りなのであって、ある分野に属する現象を他の分野の知識で理解することはできないのである。
 
  従って心霊科学の分野の出番は、心霊科学の知識のない人には理解できないのが当然であり、筋違いの他の分野の知識で心霊問題を批判したり、否定することは僭越もは甚だしいと言わざるをえない。そして否定や批判をする原因は、心霊問題を全然教えていないばかりか、逆に否定するように教育しているからであると思う。そのため日本人の70バーセントが、心霊現象を自身体験したり、人から体験談を聞いていながら、幻覚とか偶然の一致で片づけているのである。
 また霊を見たり、霊の言うことを聞いたりできる霊能者が少ないことも、わが国に霊魂否定説者が多い一因だと思われる。我々の調査によると日本人でやや霊能のある者は、1〜2バーセント程度である。これはちょうど色盲とか色弱のバーセントと同じで、現在はさいわい色弱の人が少ないから色弱の人の言うことは抹殺されているが、心霊問題も、これと同様で、霊能者が少ないため、それらの人たちの言うことは否定、抹殺されているのである。
 ところが、外国ではこれが逆で、心霊科学の知識は人々の常識となっており、日常の生活にまで取り入れられている。

目に見えないものだけが実在である

 第3章 「ものに動ぜぬ心」の正しい培い方


 はびこる「社会の駄々っ子」達

 よく巷問には、「不動心を得る方法」というようなことを、安易に書名に謳った本が出回っている。中には、ずいぶん無責任な内容のものを、時々見受ける。酷いのになると、「腹黒くなる方法」などという、実に噴飯物のタイトルの本が、書店に堂々と飾られていたりする。
 もし、そういった類の本を読んで、たとえ一時的にでも、「人生観が変わった」というような気持になった人がいたとしたら、その人の自主性の乏しさを責める以前に、その人自身のために、大変危険なことだと思うのである。
 私は、不勉強にして(?)、そういった類の本は、一切手元に置いていないので、今詳しいことは言えないけれども、早く言えば、自分が痛くなければ、人の足を踏もうがそ知らぬ顔の無神経さ、自分のためならば、順番を待つ行列にも平気で割り込む図太さ、そういった、いわばざるのような目の荒い片輪な神経を以って、「強さ」と錯覚しているのではないか、と疑いたくなるような節も、決してないではない。
言うまでもないことだが、そんな隙間だらけの獣的な神経は、「強さ」でも何でもない。早く言えば、社会に甘ったれているのである。自分の「弱さ」を社会のせいにして、逆恨みの駄々を捏ねているのである。
本当の「強さ」とはまったく正反対の、ひねた鼻垂れ小僧と言うしかない。
 そして、今の社会は、この種の駄々っ子たちに不当に甘過ぎるような気がしてならない。今の時代は、何か「善」が小さくなって縮み込んでいるような気がする。「善」が小さくあっていいはずがない。私は、「長いものには巻かれろ」式の、ずるい“諦念”"は大嫌いである。



 
 「弱さ」は「悪」である

 ひねた社会の駄々っ子がはびこり、人を人を思わぬ無頼の徒たちを、「強さ」と讃美したり錯覚したりしがちな風潮は、1つには、「善良なる人」の側にも責任があると思う。
早くいえば、私たち「善良なる市民」1人1人が、もっと本当の「強さ」を身に付ける必要があると思うのである。不正に憤ることだけならば、簡単だ。
しかし、不正や悪に対して、単に憤ったり、憎んだりだけしていたのでは、不正や悪は追放できないのである。「人間の言葉」というものの通じない、人間の面をした獣には、本当の「人間の強さ」というものを、体で示して見せなければならない時もある。

 すなわち、「本当の強さ」とは何か、ということを、私たち1人1人が、もっとはっきりと自覚し、体覚して、「偽物の強さ」の仮面をはぎ取るだけの決心が、各人に要求されていると言える。
善良なる人ほど、強くあらねばならない。いや、「本当の善」を知り、「本当の善」に生きる人ならば、必ず強くあらざるを得ないのである。何故ならば、「善」と「強さ」とは、本来「1つの人格」の発現に他ならないからである。「長いものには巻かれろ」式の善は、本当の善ではない。もしも「この世は、善良な人ほど、小さく不満だらけに生きなければならない」という人があったとしたら、その人は、「本当の善」というものを知らないのである。「ニセモノの善」を、「善」と錯覚しているのである。

 「本当の善」とは何か? それは、万人の心の奥に宿る「絶対心」、すなわち「神」の御心そのものの、素直な発現に他ならない。もしも、「神」という言葉に抵抗を覚える人は、それはそれでよい。
ただ、私たち個々の肉体存在のその奥に、そのばらばらな存在形式を統べる、ただ1つの「大いなる生命」、ただ1つの「大いなる心」があり、そして、その「大いなる生命」を離れて、私たち「個々の生命」もなく、また、その「大いなる心」を離れて、私たち「個々の心」もあり得ないということを、しっかり再認識して頂きたい。
私たち個人個人の肉体存在という単なる形式に捉われた、個々ばらばらな、小さい「小・燦然我意識」のその奥に、無限の大きさで燦然と光り輝く「大我意識」、それこそ私たちの「本当の心」であって、その心以外の心はすべて「迷い」であり、何ら実在性はないのである。
そして、その「絶対心」は、何度も申し上げて来たように、ただ「生き生きと生きることを喜ぶ」以外のことは知らない。
 
 つまり、真なる、善なる、美なる、勇なる、愛なる、すべてのよき心、それのみがただ「絶対心」、すなわち、私たち万人に絶対に実在する心であって、その「絶対心」にとって、相対的不調和を覚えさせるような心は、いかに“ある”かのように見えても、それは何ら実在性はないのである。つまり、どこどこまでも、“ない”のである。
すなわち、私たちには、いかなる個人といえども、元々、「迷いの心」などというものは、本来あり得ないのである。
 
 ちようど、「光」と「闇」とは、なんら相対的存在ではなくて、ただ「光」のみが絶対実在で、「闇」とは、単に「光」が届いていないという消極的な状態に過ぎないのとまったく同じように、「迷いの心」とは、単に、私たち人間本来の「絶対心」がまだ完全に発現されていない状態というに過ぎないのである。
「光」の向くところ、一点の「闇」も寄り付けぬのとまったく同じ“原理”で、私たちが、この自己本来の「絶対心」を発現する時、そこに一切の「迷い」は照破されずにはいないのである。
恐怖、不安、悩み、などのぐらぐらと揺れる心は、あなたの本来の「絶対心(光)」の微妙な動きの下にできる、単なる「影絵」に過ぎないということを知らなければならない。





 「不動心」は今あなたの内にある!

 寸毫も揺がぬ心、それこそ、あなた本来の心、あたたの内に燦然と光り輝く「神の御心」そのものに他ならない。それ以外に、「不動の心」などは、どこを探しても見付けることはできない。あなたは、「不動心」を外から得るのではない。
あなたの内に、いま燦然と光り輝いている「あたた本来の心」を、ただ素直に発現するだけなのである。
「揺がぬ心が欲しい」という願いは、あなた本来の揺がぬ心の自己発現要求に他ならないということを知らなければならない。それを外から得ようとするから、あなたはますます迷うのだ。
「本当の不動心」と、いわば「ざるのような神経」との区別が付かなくなるのだ。
大体、「ざるのような神経」を得たいという想いは、それ自体、自己の内部に宿る自己本来の絶対心を押し殺そうとすること、いわぱ、「自然の法則」に強引に逆らおうとすることであるから、本来の不動心を得るよりも、どれだけ困難で苦痛を伴なうか、計り知れないのである。
そして、その結果がいかに惨めなことであるかは、私自身、古臭い一連の「虚無思想」にとり付かれた、荒れた一時期があったので、痛いはどよく知っている。私は、もう2度と、そんな隙間風にさらされるような心に戻ることは、願い下げである。結局、「ざる」は、ただ「ざる」であるだけである。
「虚無」は、「虚無」にしか過ぎない。
「動かざる心」とは、何に動かざる心か?
それは、偽なるもの、悪たるもの、醜なるものに寸毫も譲らぬ心ということである。そして、それは取りも直さず、真なるもの、善なるもの、美なるものに満たされた心のみに可能なことである。
 ただ光のみが、闇を照破し得る。
 ただ真のみが、偽の仮面を暴き得る。
 ただ善のみが、悪を駆逐し得る。
 ただ美のみが、醜をはねのけ得るのである。
そしてまた、ただ真のみが真を知り得、善のみが善に触れ得、美のみが美を感じ得るということである。
 真、善、美、とは何か?
 また、「神」とは?
 そして「生きる」とは?
 「人間」とは?
それは、あなた自身の内部に向かって問うしかなく、そして、それをどこまでも真剣に問い続ける時、否が応でも答を得ざるを得ないものたのだ。そして、その時に初めて、本物の「ものに動ぜぬ心」というものを、あなたははっきりと知るだろう。








 第4章

 「自信がない」という変な“自信”が曲者だ

 「自信」と「不安」は思考方向の紙一重の相違
 
 自分を信頼し、自分に安心して寄りかかって生きられる人は幸せである。しかし、そのように、自分に完全な信頼を置いて生活していける人が、一体どれほどいるだろうか? 多くの人々は、多少の差はあれ、必ず、自己に対して何らかの「不安」を持って生きているのが、むしろ普通である。
 そして、「生きる」ことに真剣な人ほど、人生について人一倍悩むのと同じように、誠実な人、向上心の旺盛な人ほど、わずかの失敗、ちょっとしたつまずきに捉われて、自信を喪失したり、くよくよと自分を責めたりしがちである。
 「自信」というものも、「ものに動ぜぬ心」などと同じように、決してそれは外部に求めて得られるものではない。すなわち、「自信を持とう、自身を持とう」としている間は、永遠に、本当の自信は得られることがない。
 私には、禅は、真似事程度の体験しかないため、その「悟り」の境地などというものは、知る由もないが、本当の「空」の境地とは、「自分はいま空だ」という意識ももちろんあってはいけないばかりか、まして、「空になろう」という意識がある限りは、それは、もはや既に「空」の境地とはほど遠いものだと言えよう。「空になろう」という意識は、「自分はいま空でない」という意識を、そのまま裏返しにしたものであるからである。
それとまったく同じことで、「自信を持とう、持ちたい」という想いは、「自分には自信がない」という“確固たる自信”(?)に発していることを知らなけれぱならない。
「自信」を持つことと、「不安」であることとは、あなたの心理の中の、ちょっとした傾きの方向の違いである。
「何々することに対して自信がない」
というのは、あなたが、その「何々をしたい」という欲求が、あなたのどこから来るのかということを、よく知らないからである。思春期の男女が互いに異性を意識し始めるのは、彼(または彼女)らの内部に、性能力が完成されつつあることの証拠であるのと同じように、私たちの内部に湧き上がって来た「何々をしたい」という欲求が、もしも「燃えるような願い」であるならば、必ず、私たちにはそれをする能力が立派に備えられているのである。


 
 「願望」という心理の正体

 つまり、早くいえば、肉体的能力、精神的能力を問わず、ある人に本来できないものは、その人の内部に、決して、「それをしたい」という欲求を持つことはあり得ないのである。犬がキャッチボールをしたいとは思わないのである。幼稚園の子供が、「本物の自動車を動かしてみたい」とか、「英語の百科辞典を買って」とは、決して言わないのである。女性が、ジャイアント馬場のような筋肉美を得たいと思うこともないのである。
 もし、あなたが男性で、どうしても自分の子供を自分のお腹から産みたいという「燃えるような願い」に明け暮れているとすれば、一度、精神科の精密検査を要するのである。成人した女性が、「子供を産みたい」という「願い」を抱くのは、彼女が完備せる当然の能力がそうさせるのである。
だから、もしあなたが、「俺は、仕事ではあいつには絶対に負けたくない。あいつに負けることは死ぬより辛い」
と、本当に思っているならば、「あいつに勝とう、勝とう」という、不自然な力みは、絶対に禁物である。
「あいつに負けることが、本当に、死ぬより辛い」のであるならば、あなたには、「あいつ」を凌ぐだけの能力が、立派に完備されているのである。要は、それをどこまでも信じ、自分に絶対の信頼を置くことだけである。
その時の、自信に満ちた、悠然たるあなたの態度は、ただでさえ「あいつ」を威圧せずにはおかないだろう。
 ただ1つ注意しなけれぱならないのは、それは、いわゆる、一時的な単なる「衡動」と、本当の「願い」とを混同するようなことがあっては大変だということである。(これだけは、くれぐれも、御注意申し上げておきたい。)
 くどいようだが、ただ言えることは、あなたが寝ても覚めても、「こうしたい」「ああなりたい」という、「燃えるような願い」に明け暮れているとしたら、すなわち、「そうできない」「そうなれない」ことに、「たまらない苦痛」を覚えるのであったならば、あなたには、そうでき、またそうなれるだけの能力が備わっているということである。
そして、それをどこまで信じられるかで、あなたのその持てる能力を、どれだけ発揮できるかが決まる。
「能力」を生かすか殺すかは、一にかかって、その「能力」に対する、自己の信頼度如何である。
あなたを、本当に生かせるのは、ただあなただけである。
また、あなたを殺せるのも、ただあなただけである。

 俗に「火事場の馬鹿力」とかいって、火事の最中に、夢中で運び出した箪笥などが、火事が収まって、いざ元の場所へ戻そうとすると、どうしても持ち上がらなかった、というような体験を、よく耳にする。
これなど、いかに私たちが、普段、その持てる潜在能カを自己制限しているか、ということの1つのいい実例である。
私たちには、普段ちょっとやそっとでは持ち上がらぬ箪笥のようなものでも、自己の能力を制限する邪念がなくなると、何なく運び出せるだけの力が、本来、内部に宿っているのである。
私たちの手足を動かしている力は、本来、この大宇宙を動かしている力と同一のものなのである。私たちの内部には、本来、「神」(無限力、無限の英知)が生きているのである。
 何事によらず、“超人的”と言われるような仕事を成し遂げた人物は、必ず、何らかの形で、この「自己を生かす無限力」と一体になり得た人々に違いない。
既存の常識的な人間観からは、結局、常識的な力、常識的な価値しか、生まれないのである。私たちは、過去の体験常識を超えて、もう一度、「神」というものを、各人の奥に、勇敢に、そして真剣に、探求する必要があると思うのである。それは、何よりも「あなた自身のため」でもあるし、また、同時に「世のため」でもあるのであるから。






 第5章
無神論者」は間違っていないか?

 自分を守る眼に見えないカ

 私は、物心ついた頃から、何事によらず、新しい物事にぶつかって行くのに、割合、物怖じしない方だった。それは、「神」というはっきりした概念までは行かなくとも、ともかく、自分は、自分だけは、「眼に見えぬ何ものかの大きな力」によって固く守られている、何故か、そんな気がして、常に、「俺だけは大丈夫だ」という自分に任せ切った態度でいられたようである。
ところが、やがて成長して、次第に世間というものをおぽろ気ながら知り始めた時、私は、その「何ものかの加護」を、今だ信じ続けている自分が、何か、1人だけ甘い幼稚な夢から未だ覚めやらぬ、というような、一種の「世間に対する気恥しさ」のようなものを覚え、それからは、無理して、その「何ものかの加護」から逃れようと努めるようにしたのである。

 つまり、手っ取り早く言えば、愚かにも(実に愚かにも)、「対岸の火事」を、無理して明日の我が身と思い込む訓練をした、といってもよいであろう。今から思えば、考えられないことをしたものである。



 誰にもある「まさか自分だけは…」という心理の意味するもの

 ところで、幼い当時の私には、その、不可視の何ものかの加護を身内に感じているのは、自分だけだというような気がしていたのであるが、その後になって、(当然のことではあるが)実は誰でも、多少の差はあれ、何らかの形で、そういうものを感じているということを知った。
私は実は、その感じ、そういう「直感」を、各自の胸中に常に大切に温めておきたいと強調したいのである。
新聞に総理大臣の写真が出ない日はあっても、交通事故のニュースが報ぜられない日はないという、今日のこの「交通戦慄時代」にあっても、私たちは、
「まさか、俺だけは」
「自分の家族に限っては‥‥」
という、漠然とした何ものかが心のどこかにあるからこそ、意気揚々とまではいかなくとも、ともかく、さしたる不安も感ずることなく、「街路戦場」に乗り込んで行けるのである。
確かに、「注意一秒、怪我一生」であって、用心するに越したことはない。しかし、あらゆるものにあまり神経質になり過ぎて、この、
「まさか自分だけは」
「うちの家族に限っては」
という、「不可視の加護力」に対する「直感」までも、1つ1つ疑ってかからなければならないようになると、この世は、かなり住みにくいものになるであろう。




 楽天的であることに“根拠”が必要か?
 
 確かに私たちは、多少の差はあれ、誰にも、この「不可視の加護力」に対する、理屈を超えた「直感(予感)」があるからこそ、こうして生きて行かれるのであって、もしも、こうした「直感」を1つ1つ疑ってかからなければ気が済まない、ということになった人がいたとしたら、かなり気の毒なことになると思う。「直感」などと言うと、いわゆる「知性派」と自認する人々たどからは、一笑に付されるかも知れない。
「"自分だけは絶対大丈夫だ"という、その"根拠"は一体どこにあるのだ」
と、彼らは言うであろう。
私は、そういう人たちに対しては、こう言ってやりたいと思う。
「あなたが今現に生きている、その“根拠”とやらは一体どこにあるのだ」と。
そして、さらにこうつけ加えよう。
「あなたは、自分の心臓、自分の肺臓、自分の胃腸を、自分で1つ1つ動かして生きているのか?」
と。
「それは自分の自律神経がやっているのだ」
と言う人もあるかも知れない。
では、
「その自律神経とは何か?」
また、
「そのあなたの自律神経を創ったのは、一体何者なのか?」
彼らは、おそらく、ここで答に窮するしかないのである。
みずから「科学的」たること、あるいは「知性派」たることを認ずるような人々は、さすがに、諸々の現象の奥に潜む「原因」の探求には旺盛な好奇心を惜しまない。しかし、肝心の私たち自身の存在、「生命の根源」については、恐ろしく"非科学的"な発言を平気で行なっていることには、自らは気が付かない。
「生命の起源は謎だ」
と言うのなら、未来は明るい。
しかし、
「生命に原因はない。それは、無原因に原因を発している」
というような、自分でも分っているのかどうかも分らぬ、何とも切れ味の悪い発言を平気でするに至っては、すべては“それまで”ということになる。



 
 「無」は「有」を生み得るか?

 「生命の原因は無原因である」、すなわち、無生命が生命を生んだ、というのである。とにかく「死の世界」が、気も遠くなるような極微の確率で生命を生んだ、というのである。いかに気も遠くなるような確率とはいえ、とにかく、「偶然」という、恐ろしく"非科学的"な形で、「死」が「生」を、「無」が「有」を生み得たというのである。
それは、川上から流れて来た桃を割ってみたら、中から赤ん坊が生まれて来た、というような生易しいことではない。とにかく、無限億年の彼方からずうっと眠り続けて来た岩が、ある日突然、真っ2つに割れて、中から「おぎゃー」という元気のよい産声が飛び出した、というのである。「気も遠くなるような確率」だと、死者が子供を産む可能性があるというのである。
 私は、ふと今この言葉を書き終って、思わず全身に鳥肌が立つようた寒気を覚えた。「死」が「生」を生む、これほど身の毛のよ立つような「思想」が、一体あるであろうか。
とにかく、「死の世界」とやらに、なんらかの形で「可能性」というものがどかーんと宿っているというのである。言い換えれば、「“死”は生きている」というのである。
そういう言葉を平然と発するその同じ口で、「幽霊を見た」という話を笑い飛ぼすという、唯物論無神論者とは、まことに奇っ怪な思想の持ち主というしかない。
しかし、そういう思想と、実際のいわゆる「幽霊」の存否ということとは、本質的にまったく別の問題である。



 
 「幽霊」の話はなぜあんなに怖いのか?
 
 私たちが、本能的に幽霊をこの上なく怖れるのは、「死の世界」とやらが、「生の世界」に何らかの働きかけをするなどという馬鹿なことが、絶対に有り得ないということを、心の中ではっきりと知っているからにほかならない。私たちの心に宿る「神」(宇宙の真理)が、それを、こんなにもはっきりと教えてくれているのである。
死者が生者に働きかける、「死の世界」というものが、「生の世界」に何らかの因縁をふっかける、それは、まさしく天地がひっくり返ることなのである。だから、「幽霊の存在」を理論的に実証するためには、どうしても、肉体死後の霊魂の存続を仮定する必要がある。
 すなわち、人間というものは、肉体は没しても、その霊魂は個性を持ち続けたまま、なお生き残り、肉体の死とは、「人間」(生命体)が、この3次元世界と交信可能な、別の次元の世界(すなわち、別の次元の「生の世界」)へ移り住むことにほかならない、とするならば、私たちにとって、もはや「幽霊」とは、別に怖いものでも何でもなく、“懐かしき"”人生の先輩。に過ぎない、ということになる。
 ところが、唯物論者とか、無神論者とか自他称される人々は、当然、死後の霊魂の存続などはあり得ない、だから、幽霊などは絶対にあり得ない、という。(「自分には分からない」とは決して言わぬ。)そして、さすがに、死後の霊魂は絶対に存在しないが、幽霊だけはあるかも知れない、というようなうかつなことは言わない。
 つまり、彼等自身、完全な「死の世界」が、「生の世界」に何らかの働きかけをするなどという馬鹿なことは、絶対に有り得ないということを、「直感」的にははっきりと知っているのである。にもかかわらず、自分たちだけは、完全な「死の世界」から生まれて来た、といっているのである。
「幽霊はない」というその口で、「自分たちは幽霊である」などと言っているような人々を、私たちは、あまりまともに信頼することはできないのである。




 
 「死神様」の正体見たり!

 あなたが、もしもいままで、いわゆる唯物論者、あるいは無神論者といわれる人々の1人であったとしたならば、いま一度ここで、「自分が生きている」という、どうにもならぬ現実を、よくよく謙虚に考えてみて頂きたいのである。
あなたは、決して、「死の世界」(無機物といい換えてもよい)が、「気も遠くなるような確率」で生んだカビかぼうふらから、「気も遠くなるような"偶然の継続"」で、今ここにあるのではないのである。
「死」は、決して「生」に相対して“ある”ものではないのだ。「死」とは「生」の単なる1つの"認識形態"に過ぎない。つまり「死」とは、「生」自身が生む1つの"観念"に過ぎない。
それを、「死」が「生」を生んだなどという、ひっくり返った“妄想”から、人類の全ての不幸はスタートしているのである。「無」から「有」が生まれるということはあり得ない。空っぽの瓶から、空っぽのグラスにウィスキーを注ぐことはできない。
ただ「有」のみが「有」を生み得る。「無」とは、単に「有」のない状態というに過ぎない。今、私の眼の前のグラスの中に、空っぽというものが“ある”のではなくて、それは単に、そこにウィスキーが入っていない状態ということである。もし、グラスの中に、既に空っぽというものが“ある”のだったならば、もはやそこにウィスキーを注ぐことはできないのである。
 もし、「死」というものが、「生」に相対して厳然と“ある”ものなのならば、何で私たちが人生の最後にそこへ入って行くことができるのだろう。「死」とは、あるべき「生」のない状態ということに過ぎない。ちょうど「光」が「影」を作るように、「死」とは「生」が作る“影絵”である。
「死」が「生」を支配するのではなくて、「生」こそが「死」を支配するのである。ちょうど「光」が「影」を支配するようにである。
「死」が「生」の支配のもとに任意であることは、誰よりも自殺者自身が一番よく知っていたはずであるが‥‥。もし、本当に「死」が「生」の“生みの親”であるとするならば、「死」こそが、積極的に「生」に働きかけずにはいないであろう。
 つまり、いやな言葉で言えば、生かしては殺し、また生かしては殺して、1人の人間の生涯を、生死の両世界を往ったり来たり、きりきり舞いさせずには置かないはずで、そうしたら、私たちはうっかり、一度死んだ人を手厚く葬ってやることもできないのである。
 ところが、私たち生を持つ者は、そんな、死神様の御機嫌次第になるようなタマではなく、一度死んだからには、それこそ、死んでも二度と立ち上がるような醜態は、絶対に見せないのである。私たちは、「死」に踊らされる存在ではないのである。
「死」こそが、ちょうど、光の加減に操られる影のように、「生」の隙間を、こそこそと踊る“影絵”なのである。
肉体が揺れる時、その影も揺れるように、私たちが、自分の生命の光源(神)というものを見ずに、「迷い」の心でその光源を遮る時、その足元を「死」の影法師がちらちらと踊るのである。
 私たちの肉体としての存在が、時間の上で有限であるのは、人類の進化のための“大自然の摂理”である。それは、永遠という時の流れの上に、無限価値(「神」の理念)を展開して行くための、最も合理的な(というよりは、必要欠くべからざる)手段であると言えよう。(ただし、「個」としての生命が永遠であるかどうかということは、ここでは問題にしてはいない。)



 
 「生命」のみが「生命」を生む

 「死」とは、その無限生命の自己展開形態の下にできる影である。空っぽのグラスは、ウィスキーを満たすための形態である。ウィスキーを注いでやるには、グラスという、中が空っぽの形態を必要とするのである。
もし、そのグラスの中に、ウィスキーと対立して存在する、空っぽという何物かがあらかじめ実在するならば、もはや、そこにウィスキーは注ぎ得ないのである。
「グラスが空っぽだ」ということは、そこに、「空っぽというものが“ある”」のではなくて、単に「ウィスキーが“ない”」という消極的な状態に他ならない。
「無」とは、あるベき「有」のない状態ということである。
「死」とは、あるベき「生」のない状態ということである。
「無」は、どこまで行っても、ただ「無」である。0が、例えどんなに「気の遠くなるほど」並んだとしても、そこに、「可能性」とか「確率」などというものは、絶対にあり得ないのである。
「生命に原因はない」そこまでは正しいのだ。誰でもそこまでは「直感」として知っているのだ。
 ところが、「直感」こそは生命の根源から来る"真理の言葉"であるということを知らぬ、あるいは、認めようとせぬ無知な人間は、「直感」などというと、せせら笑うのである。そして、自分では「純粋に、客観的に」推理したつもりで、実は、その"真理"を、暗い「迷い」の心で覆い隠すのだ。

 自己の内部に信頼を置けない弱い人間に限って、“主観”というものを一方的に軽蔑し、「科学的」とか「客観性」とか称して、外部の現象のみを有難がる。内部よりも外部、「心」よりも「物質」を先に立てるのである。「生」の前に「死」を立てて、深刻ぶった顔をして見せるのである。
 まず、自己の内部に誰でも持っている「生命に原因はない」という、どうにも動かし難い、「直感」を、本当に、「純粋に、客観的に」判断してみたかったならば、なぜ、自分が母親の胎内から生まれてきたという、素朴極まる、しかも、のっぴきならぬ“客観的事実”を、もう1度素直に考え直してみないのだろう。そこにはただ、「生命のみが生命を産み得る」という“真理”がどかーんと横たわっているではないか。「死の世界」が生命を生んだなどという、まるで「自分が見てきたような」たわ言の、一体どこに、真の「科学性」「客観性」があるというのだろう。





 あなたの内にいま眠っている「無限の可能性」!

 そう、ただ「生命」のみが「生命」を生み得るのである。そしてまた、「真理」のみがただ「真理」を解し得るのである。「真理」を解し得るのは、ただ私たち人間の「心」だけである。外部には決して「真理」はないのである。だから、「生命に原因はない」という"真理の言葉"の解釈は、それをただ外部にのみ求めても、決して得られることはないのである。それを、ただひたすら外部(現象)のみを追って行けば、生命の起源の果つるところ、結局は、「死の世界」とやらにぶつかる以外にないのである。それでもし、そのぶつかった「死の世界」とやらが、本当に私たち「生命」の生みの親である
 とするならば、私たちは、それより一歩も前へ進むことは、決してできないのである。何故ならば、生命を生み得た「死の世界」とは、当然、私たち「生命」よりも一層厳かに、この「生の世界」と厳然と相対して存在していなければならないからである。ところが、実際はどうだろう。私たち生命の持つ「推理」という働きは、お望みとあらば、その生命の起源以前の「死の世界」とやらを、どこまでも突き進んで行くことができるのである。
「死の世界」とは、“人間の幼さ”が生む1つの「観念」に過ぎない。「死の世界」が、生命以前にあったのではない。生命以前の「死の世界」とは、「生命」という光が、一瞬、"過去"という暗闇をさっと照らしてみるということに過ぎない。「生命」が、自らの存在しない状態というものを、"過去"という観念形態で一時的に持ってみることなのである。「生命以前」などというものは、本来あり得ないのである。生命に「過去」などというものは、本来“ない”のである。それが「生命に原因はない」ということの本当の息味である。生命それ自体が「原因」なのである。他の何ものかにその存在原因を負う、相対的存在ではないのである。生命それ自体「絶対存在」なのである。

 唯我独在、とにかくただここに在る、すべてのすべてを持った「絶対自我」が今ここにある、言葉で言えば、そういうしかないのである。その、すべてのすべてたる「絶対自我」の自己発現、自己展開が、この私たちの住む世界のすべてのすべてということである。その「絶対自我」の存在以前とか、自己展開以前などというものは、どこにもあり得ないのである。
 何故なら、この「絶対自我」こそ、すべての「原因」(出発点)であり、この大宇宙の創成以前とか、無限過去の「死の世界」とかも、とりもなおさず、ここから出発するのであるから。「過去」というのも、「未来」というのも、すべては、「現在」というこの一瞬からスタートしているという、ごく身近な真理に気が付いて欲しい。
 
 とにかく、その「絶対自我」こそ、私たちを含むすべての存在、すべての生命の根源であり、また、私たち自身なのである。 私たちの肉が、同じ肉を持った両親から分けて貰ったように、私たちの心は、「神の御心」をそのまま授けられているのである。そして、その「心」こそ、未来永劫、すべてのすべての根源であるのである。「生命」の以前に「死の世界」があったのではない、「無限の初め」たる"絶対自我"が、今ここにただあなたと共にある、そういうことなのである。 あなたの心は、今現在「無限の初め」「無限の可能性」とがっちり一体であるのである。
 ただ私は、今まで、一々このように、「無眼の初め」とか「無限の可能性」、あるいは「すべてのすべての原因」などという、回りくどい言い方の代わりに、「神」という言葉を使い、あなたの中に「神」が生きているということを強調して来たのである。




 「神」は何故あなたに“沈黙”しているか?

 「自分は何も、死の世界が生命を生んだなどと言ってはいない。ただ、もしも、本当に“神”が我々の生みの親であるとするならば、我々の逆境にただ"沈黙"している、そんな"神"などは信じられぬ」というのは、いうならば「寝言」に等しい。私たち人間には、「自由意志」(創造性)というものが与えられているのである。「神」は、私たち一人一人に、「神」自らがこの大宇宙を創成したのとまったく同じ、その「創造力」「創る喜び」を分け与えて下さっているのである。「創造性」こそ、人間の本性である。そして、「創造」とは、くどいようだが、「無」から「有」を生み出すことではなくて、「有」による「無」の征服のことをいう。ビルディングの「無」い空間に、ビルディングを「有」らしめ得るのは、初めにそのビルディングの原型が、がっちりと「有」った心の所有者のみに可能なのである。初めからビルディングの原型が「無」い心は、永久にビルデイングを「有」らしめることはない。まして、その心は、そのビルディングが「無」い状態に、不満を持つこともあり得ない。そして、私たちは、初めから「神」の手によって完全に作られたビルに安穏と住むよりも、自らの住むビルは、この自らの手でそれを作り上げることに、掛け替えのない喜びを見出すのである。

 私たち人間が、もしも、元々不幸な境遇に甘んじて生きるような存在として、この世に送られて来ているならば、私たちは、自らの不幸に、本来、不満を持つはずはないのである。本来、幸福を生み出せる資質(可能性)のまったく「無」い存在が、幸福の「有」る状態を望むはずはあり得ないのである。
 そして、私たち人間が、本来、ビルを建てる資質も、満ち足りた生活を自らの手で築き上げる自主性も持たぬ、単なる「神」の被造物たる犬猫たちと根本的に異なるところは、この大宇宙の森羅万象を創成した「神」の創造力そのままを、私たち各自に与えられているということである。私たちは、ただ大自然に与えられた環境に、満も不満もなく、刹那的にその日その日を送ることには、本質的に耐えられない存在なのである。
「神」の無限の創造力、無限の内容そのものを内部に宿している私たちは、この自らの手で、「無」の状態を「有」の状態に変え、“不幸”という、“幸福”の「無」の状態に、この自らの手で“幸福”を「有」らしめるところに、生き甲斐を持つように作られているのである。



 “不幸”を「神」が救ってくれぬ、のではない。
 
 「神」の絶対心、普遍心のひと筋が、あなたという一個の肉体存在を通して、今、そのあなたという肉体の眼の前にある、幸福の「無」という状態に、「神」の無限内容には既に「有」る幸福を、具体的に「有」らしめようとしているのである。
 あなたが、いま、自らの眼の前の不幸に不満を持つ、それは、あなたの中に本来宿る「無限幸福への可能性」が、そうさせるのである。
「神」の無限創造力が、今、あなたの肉眼の前の、不幸という「幸福の“無”の状態」を、「幸福の“有”の状態で征服せんとしていることに他ならないのである。
 そして、あなたという肉体を通してキャッチされた“不幸”は、ただあなたの肉体を通してしか、それを征服する方法はないのである。、そしてまた、その“不幸”を、“不幸”だとキャッチできるあなたは、幸いにして、それを克服するだけの力が、本来、あなたの内に宿っているということに他ならないのである。“不幸”を、「神」が救ってくれるも、救ってくれぬもない。あなたにとっての「神」は、ただ、あなたの肉体を通してしか、発現する術はないのである。
 天上遥かにまします「神」を、ただ天上に仰いでいても、「神」は、どうしてやることもできない。昼間から雨戸を閉ざして、「太陽よ、我が身に照れ」と念じても虚しいように、まず、“心の扉”を「神」に向かって全開することが必要なのだ。そして、文字通り、全智全能自由自在身たる「神」は、あなたが、「神よ、我が身を通して、その御力を発現し給え」と念じた瞬間から、即刻、雲の上から天降って、あなたを通して、その「無限力」を発揮し給うのである。



 「見えるもの」だけが「実在」だろうか?

 私の悪い饒舌癖で、なかなか、本稿のテーマに入れないが、それというのも、あなたの内に「神」を生かして頂きたい、という私の切なる願いの前に、今まで、あまりにも軽々しく弄ばれてきた“常識としての神”が、重々しく立ち塞がるからである。そこで、ついでにもう1つ。「神は見えぬから信じられぬ」という、ごく"常識的"な反論に対して一言。
「見えぬものは信じられぬ」という人。
「見えぬものは実在しない」という人。
その人が、そういう言葉を発する時、それは、その人の一体どこから出るのだろう。言うまでもなく、その人の「心」がそう言うのだ。
「心」という「見えぬもの」が、そう言うのだ。

「彼女が、じっと私の眼を見る」
という時、彼女は、ただあなたの肉の眼、レンズとしての瞳を見るだけなのだろうか? その肉の眼、レンズとしての瞳の奥にある、あなたの「心」、それこそが、彼女の欲するものではないのだろうか?
また、その「じっと私の眼を見る」彼女の瞳を、あなたは、ただあなたのその肉の眼、レンズとしての瞳で認識するのだろうか? あなたのその肉の眼、レンズとしての瞳の奥にあるあなたの「心」が、彼女の瞳の奥の何ものかを、感受するのではないだろうか? 2台のカメラのレンズを、互いに向かい合わせた時、その時、その2個のレンズの間に、何ものかが、取り交わされているであろうか? 私たちが、互いに手を握り合う時、それは、単なる2つの肉塊の接触に過ぎないのだろうか? 死者同士の握手に、そこに、何ものかが交流されているのであろうか? 私たちが、互いに相手を見交わす時、互いに手を握り合う時、互いに言葉を交わし合う時、それは、「心」と「心」という、見えぬもの同土の見えぬ接触に他ならないのである。
彼女が私ににこっと笑いかける時、私はそこに、彼女の肉の内側にある、彼女の「心の笑み」を感受するのである。彼女は、肉の笑みを通して、「心の笑み」を表現するのである。そして、私も、彼女の肉の笑みではなくて、「心の笑み」を欲するのである。なぜなら、肉ではなくて、「心」こそ彼女の本体であることを、私は知っているからである。「心」こそ人間の本体、「心」こそ"いのちの本体”である。
「心」という、見えぬものこそ、本当の実在なのである。絶対実在なのである。




 あなたの熟睡中に起こる出来事
 
 肉眼で見えるもの、心の外部にあるという客観的事象というものは、何ら「絶対実在」ではあり得ないのである。その分りやすい例が、例えば、あなたが熟睡している時のことを、ちょっと考えてみよう。
 あなたが熟睡している時、つまり、あなたの意識(心)が、あなたのボディを離れている時、そこには、あなた自身の存在は元より、この全世界、全宇宙が存在しないのである。つまり、あなたの心が“ない”時には、何ものも“ない”のである。そのあなたの熟睡する肉体を、そこに“ある”と認めるのは、ふと真夜中に眼を覚ました、あなたの奥さんの意識ある心である。自分が熟睡している間でも、そんなことには関わりなく、この客観世界はなお「確固として実在する」と、断言ができるのは、他ならぬ、あなたの覚醒している意識、すなわち、あなたの「確固として実在する心」である。夢は覚めてみて初めて夢だったと分かるように、あなたは、眠りから覚めて、初めて、自分は今まで眠っていたのだと知るのである。眠りながら、自分の眠りを意識する、というのは、本当の眠りではない。ただ意識のみが自らの意識を、ただ心のみが自らの心を、認識し得るのである。
 そして、私たちには、いわゆる「無意識」という観念は理解できても、「絶対意識」という言葉は理解できない。すなわち、意識(または認識)という働きは、本質的に相対性の上に成り立つということが分かる。つまり、意識(認識)という行為は、意識(認識)する主体と、意識(認識)される客体との、相互間の働き合いということになる。
「無意識」を意識するのは、「無意識」状態にある当人ではない。ちょうど、眠れるあなたを認識するのは、眼覚めた奥さんだけであるように、「無意識」状態の人を認識するのは、意識状態にある人のみに可能なことである。




 「無意識状態」の肉体に働きかける別の「意識」
 
 眠りも無意識も、それは「死」ではない。眠れる人も、失神状態の人も、その肉の裏では、心臓が静かに脈打っている。ということは、彼らの心臓を動かしているものは、彼らの肉体意識ではない、ということになる。つまり、彼らの肉体意識が不在の間にも、なお、彼らの生命体の機能を司る「何ものかの意識」が厳然として働いているということである。では、その無意織状態の肉体に働きかける「意識」とか何者か? それこそ、私たち万人の生命の根源、生命の主体、意識の主体、すなわち「神」である。私たちが、
「これは俺の意識だ」
とか、
「これは私の肉体だ」
と意識するのは、私たち万人に共通の「意識の主体」(すなわち「神」「普遍意識」)が、私なら私という肉体を1つの客体として、その客体を「自己」とし、「私」として認識するということに他ならない。私たちが「客観的事象」と称して、外界に共通の世界を認識し得るということは、私たち個々の肉体に、その肉体の相対性(ばらばらな存在状態)を超越した、共通普遍の「ただ1つの意識主体」が働いている、ということに他ならないのである。
 もしも、私たち個人個人の心というものが、一部の唯物論者達の言うように、単に、肉体頭脳という一種の「精密機械」の自己操作に過ぎないとするならば、早い話が、飢えた人には靴がパンに見え、守銭奴には石ころ道が金貨の山に見えなけれぱならないのである。私たち、他の「機械」には、それを「幻覚」と決めつける資格や根拠は、どこにもないのである。殺人現場を写した1枚のネガが、法廷で動かぬ証拠となり得るのは、それは、「健全な意識主体」を持った複数の人間が、そこに、同一の黒白陰影を見るからである。そしてさらに、現場に残された指紋を突き出された時、犯人がぐうの音も出なくなるのは、「同じ指紋を持った肉体が、この世に2つと存在しない」ということが、彼(犯人)とまったく違った指紋を持つ裁判官の心にも、厳然たる真理であることを、彼(犯人)は知っているからである。
 もしも、「心」というものが、単に肉体頭脳という「精密機械」の営みに過ぎないのであるならば、まさに、指紋の異なる2人の人間が同一の「頭脳装置」を持つはずがない、という明確さにおいて、2人の人間が1枚の写真に同じ映像を見るということは、永遠にあり得ないのである。これは、あまりにも解かり切ったことである。

「天にひとつの陽(ひ)があるように この世に道理がなくてはならぬ」
という文句の歌謡曲がある。こういう歌を、ただ「低俗だ」とかと一方的に決め付ける前に、この世がどうにか「修羅場」と化さないで、何とか保っていられるのは、私たち個々の「心」と「心」とを繋ぐ、眼に見えぬただ1つの「大いなる意志」が、天に燦然と輝いているからに他ならないということに気が付いて欲しい。

無神論と有神論

 

ご紹介するのは、市井の思想家である吉田忠雄氏の『無神論者は損をする? 知っておきたいあなたと宇宙の関係』という著作です。人間という存在についての深い思索が綴られています。



 「人間」─ この底知れぬ神秘なる存在

 「生命」の神秘

 私たちは、普段、この自分という一個の肉体を、自分の「意志」で完全に統一し、支配しているように思いがちであるが、しかし、よく考えてみると、実は、それはとんでもない「思い上がり」であることに気が付かれるはずである。
 まず、あなたは、自分の「意志」で、自分の手足の爪や頬の髭、あるいは頭髪を自由に伸ばしたり縮めたりすることができるだろうか?
自分の身長を自分の意のままに調節することができるだろうか? それぱかりではない。私たちは、自分の肉体の活動力、生命力の根源ともいうべき、自分の心臓の働きの調節すら、自分の「意志」ではままならぬのである。
 つまり、私たちは、自分自身の肉体の「生命そのものの営み」に関しては、この「意志」は、まったくの無力なのである。私たちが、普段、自分のすべてだと思いがちなこの現在意識は、実に、その現在意識を外部に表現する能力、つまり、単に肉体を心の「道具」として使用する能力しかないのである。「生命そのものの営み」を司るものは、この薄っぺらな「私」という現在意識ではないのである。
 つまり、私たちは、「自分の意志」というもので「生きている」のではなくて、眼に見えぬ何ものかの力によって「生かされている」という厳然たる事実に気が付かれることと思う。その、眼に見えぬ「生かす力」、つまり、私たちが睡眠中にあっても、心臓、肺臓等々の内臓諸器官を活動せしめ、私たちの「生命」を、黙々と維持してくれている有難い力、これこそ「潜在意識」という偉大なる力の営みなのである。



 「潜在意識」─ この神秘なるもの

 さて、一口に「潜在意識」とはいっても、実は、1人の人間の潜在意識の奥行きというものは、到底、私たちの人間知では測り知ることのできない、深さと広さとを持っている。何故かと言うと、個人の潜在意識というものは、その奥では、「人類意識」とでも言うべき、全人類共通の大意識に繋がっていると言われており、さらに、またそのずうっと奥の最も深いところでは、在りとし在らゆるものを存在せしめている「宇宙大意識」(すなわち「神」)という“超意識"に繋がっているからである。
 すなわち、私たち人間1人1人の心の奥の奥は、大宇宙の森羅万象在りとし在らゆるものと、本来1つに溶け合っているのである。これを、分かりやすく言うなら、私たち個人個人の現在意識を、海面の「波頭」の1つ1つに喩えれば、潜在意識の世界というのは、その個々の波頭の下に脈打つ「大海」のようなものであると言えよう。大小様々の無数の波を、私たち人間を含むこの大宇宙の万物万象とすると、それらはすべて、その底では、大海という底知れぬ大きさで1つに繋がっているのと、ちょうど同じことである。
 私たちが、現在意識を離れて、深い催眠状態に入った時(つまり、潜在意識の深い世界へ没入した時)とか、あるいは、特殊な能力を持った人が、トランス状態(一種の“無我状態")に入った時などに、「透視」「千里眼」「テレパシー」等の、五感を超越した、いわゆる「超能力」を発揮することがある事実は、潜在意識という「大海」においては、人類同士は元より、万物が1つに融け合っているという、この“宇宙の真相”をよく証明している。
 すなわち、人間も物質も、潜在意識という世界では本来1つであればこそ、時間空間を超越して、密閉された箱の中の品物を言い当てたり、あるいは遠方にいる人に自分の想念を伝達せしめたりする(いわゆる「虫の知らせ」など)ことが可能なのである。話はちょっと脇道にそれそうになったが、実はこの潜在意識という世界では、万物万象が一如であるという真相を知ることが、「人間の真実の姿」を理解する上で、極めて大切なことなのである。




 大宇宙と一体の「あなた」

 さて、今までは、人間というものを「肉体および現在意識」→「潜在意識」→「宇宙大意識」(神)という順序で見て来たわけであるが、これは、人間のこの地上への出現過程というものを、ちょうど逆に遡ったわけである。つまり、人間というものは、その発生過程から見ると、大きく分けて、「宇宙大意識」→「潜在意識」→「現在意識および肉体」という順序でこの地上に誕生したのであり、そしてそれらが一如に合体して、現在のあなたが存在するわけなのである。
 これを、もっと分かりやすく述べてみよう。まず、私たちの周囲を見渡してみて判ることは、ある物事が発生するには、必ずその「原因」がなければならないということである。つまり、ある1つの現象(「結果」)を表わすには、必ずその背後に、その「原因」となる力が働かなければならない。すなわち、自然科学的にいわゆる「原因結果の法則」、または、哲学的にいわゆる「因果律」というものは、大宇宙の森羅万象を貫く“鉄則”であるということである。
 そして、私たち人間自身の「存在」もまた、この厳然たる“鉄則"の外に決してあるものではないのである。つまり、私たち人間の「存在」にも、それを存在せしめている「原因」となる力が厳然としてなければならず、そして、その「原因」は、この大宇宙を創成し、存在せしめている「原因」と決して別のものではないのである。
 すなわち、私たち人間を存在せしめ、その生命を司り、この肉体を動かしている「力」は、この大宇宙を整然たる秩序のもとに動かしている途轍もなく雄大たる「力」と、その根源においてまったく一つのものであるということである。


 
 
 この大宇宙を創成した者は何か?
 
 さて、私たちが現在住むこの大宇宙を創成し、さらにそれを一分一秒の狂いもない大調和のもとに動かしている遠大なる「力」と、私たち人間自身を存在せしめている「力」とが、まったく同じものであるとすると、次に、この偉大なる「力」とは如何なるものかということについて考えてみなければならない。この「力」こそ、私たちが日頃漠然と「神」と呼ぶものであり、在りとし在らゆるものの存在の根源となっている不可視の「無限力」である。

 それは、すべての存在の窮極の「存在」であり、その「存在」を存在せしめたそれ以前のものを持たない、とにかく「無限の初め」からただ「在る」、唯一絶対の「存在」、いわば「存在そのもの」である。つまり、それ自身の「存在」の「原因」を他に負わない「絶対存在」である。それは、宇宙創成以前からとにかく「存在」し、やがて自らの手で大宇宙を創成して、その中に万物万象を存在せしめている窮極の原因者、いわば「第一原因者」である。それを私たちは「神」と言っている。
 
 「神」は、当然のことながら、私たちの如何なる言語形容をも絶した存在であるが、とにかくそれは「自己意識」を持ち、無限の叡智を包蔵した、無限の生命力(生きるエネルギー)である。その無限たる叡智を備えた無限なるエネルギーは、自らがただ「生き生きと生きる」ということを最大限に楽しむことを欲する存在である。その他の目的を持った存在ではないのである。そこで、その「第一原困者」(神)は、まず、自らが「生き生きと生きる」ことを静かに「自己瞑想」(自己発想)したのである。
 「神」は、自らの存在を他に負う相対的存在ではなくて「絶対存在」であり、その他の存在は一切ないのであるから、「神」(宇宙大意識)の「自己瞑想」は、そのまま絶対の「実在」である。「神」が「かく在れ」と想えば、直ちに「かく在る」のである。ここで、「神」の「かく在れ」という「自己発想」は「絶対理念」である。
 「絶対理念」は、「絶対原因」でもある。すなわち、「神」の「自己発想」は、「絶対理念」として、また「絶対原因」として、絶対の権威をもって、直ちに「実在」(結果)に至らしむるのである。
 すなわち、旧約聖書の創世記第一章の、「元始に神天地を創造たまへり。‥‥神、光あれと言たまひければ光ありき」である。
 その「実在」こそ、私たち人間を含む、この大宇宙の万物万象にほかならない。すなわち、この大宇宙の万物万象、在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」の「理念」の「具象」である。
それ以外のものはないのである。
それ以外のものは、何ものも存在に入ることはできないのである。
 いわば、森羅万象、在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ための「自己発現」以外のなにものでもないのである。




 
 ダーウィンの「進化論」の背後にあるもの

 「神」(宇宙大意識、宇宙大生命)は「無限」の存在である。「無限」とはまた「無形」ということでもある。無限(無形)なる存在(理念)は、有限(有形)なる実在(具象)を必要とするのである。すなわち「神」(無限の存在)は、自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ために、有限(物質−肉体)として具象化することを欲し、それによってはじめて満足を得るわけである。言い換えれば、この大宇宙の万物万象は、悉く「神」自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ために必要不可欠のものとして存在しているのであり、「神」そのものの「自己発現」以外の何物でもないのである。
 「神」は、まず初めに大宇宙空間を「自己発現」し、次いでその中に諸々の「天体」として自らを発現し、さらに、それら諸天体の上に、例えばこの地球でいえば、単細胞→植物→動物と、次第に高次な自己発現を続けて、そして最後に、自らの本来の理念に最も近い私たち「人間」として、「生き生きと生きる喜び」を最高度に享受する最高次の自己発現を遂げたのである。
 すなわち、私たち人間は、「神」のこの地上における最高の自己顕現であるのである。私たちのの生命は、「神」そのものの生命であり、私たちの肉体は「神」の理念の具象であるのである。私たち「人間」とは、こんなに素晴しい存在なのである。
 人間というものは、単に無目的にこの地上にウジ虫のごとくわき出たものではないのである。「進化論」(ダーウィニズム)以後の自然科学は、ただこの「神」の理念が低次より高次へと発現されて来た、その「現象過程」のみを見て、生物(あるいは生命)というものを論じているのであり、その「現象過程」の底を脈々と流れる遠大なる有意図な力を見ることを忘れてはいはしないだろうか。つまり、現象(結果)のみを見て、その現象を現象せしめている肝心の背後の力(原因)を見ることを忘れてはならないのである。





 この世でただ1つのあなたという「個性」
 
 ここまで述べて来れば、先に述べた、人間を含む万物はその潜在意識という大海においては一つに融け合っている、ということも当然のことと肯かれると思う。すなわち、この大宇宙に在りとし在らゆるものは、ことごとく、「神」という無限内容を包蔵した「ただ一つの心」の自己発現(自己展開)であるから、当然、その根源においては万物一体であることは言うまでもないことである。

「神」は無限内容であるから、森羅万象として文字通り無限の様々な発現形態を有し、さらに、同じ人間としても無限の様々な「個性」として発現するのである。つまり、私たち人間は、同じ指紋を持った人がこの世に2人と存在しないのと同じように、まったく同じ個性を持った人も存在しない。つまり、すべての人間は、ことごとく、「神」という「唯一つの心」の自己発現でありながら、それぞれまったく異なった「個性」(性格をも含めて)を持っている。
 それはなぜかと言うと、「神」は、自らのその贅沢極まる無限内容を、「人間」という有限なる存在を通して、時間的空間的連続の上にその全相を絢爛と発現展開しようとするものであるから、当然、まったく同一の発現を繰り返すというような、そんなみみっちい、“非合理的”なことは、絶対にする訳がないからである。それは、「神」自らが定めた大自然の創造原理に背くことである。
 この意味で、人間は、「個性」はまったく異なるものではあるけれども、それだけに、一個の個性は、それ自体が「神」の自己発現の一相(1つの表れ、姿)として、他の類型のない絶対の価値を持っているということである。
 つまり、例えあなたが信じようと信じまいと、そんなことには一切関わりなく、あなたという一個の個性は、それ自体、他の何ものにも換えることの出来ないものとして、「神」にとって絶対の存在価値であるということである。それが、「あなた」の、また「人間」の本来の姿である。





 「存在」イコール「生命」
 
 さて、私たち人間を含むこの大宇宙のすべての存在は、宇宙大生命(神)自らが「生き生きと生きることを喜ぶ」ための自己発現及び自己展開に他ならないのであるから、当然、その地上における最高次の発現である私たち人間の人生にあって、少なくとも「マイナス」と働くようなものは、本来どこにもあり得ないという“真理”を納得して頂けると思う。
「存在」ということが「生き生きと生きることを喜ぶ」ことに他ならないのである。
私たち人間は、その喜びを最高度に享受する中心存在以外の何ものでもあり得ないのである。その他の目的で存在するものは、何ものも“ない”のである。それ以外の目的のものは、一切「存在」に入り得ないのである。
 
 「全存在」イコール「生き生きと生きることを喜ぶ」ことであって、この「自然の法則」の等式を破るものは、いかに存在するように見えても、それは、私たち人間の一時的な「幻覚」に過ぎない。「妄想」に過ぎない。「迷い」に他ならない。だから、私たち人間の存在目的、人生の目的は何かと言えば、それはただ一つ、「生き生きと生きることを喜ぶ」こと以外にはあり得ないのである。
 たとえそれは「重い荷を背負って長い坂道を行くが如きものであったとしても、その坂道を自分の足で一歩一歩征服して行くことに喜びを見出せない人は、どこかに「迷い」があるのである。「坂道」は、自分の脚を鍛え、自分がそれを征服して行くためにあるのだと思える人は、「真理」を知っている人で、それは健全だといえるのである。逆に、「坂道」は自分を苦しめるためにのみあるのだと思っている人は、自分の口は愚痴や不平を言うためにのみあるのだと心得ているような人で、そういう人は永遠に「本当の幸せ」をつかむことはできない。

 よく「ものは考えようだ」たどというが、私たちの人生の途上に表われて来た「坂道」を、それは自分の脚を鍛え、自分が征服するためにあるのだと思える人と、それは自分を苦しめるためにのみあるのだとしか考えられない人との違いは、単たる「見解の相違」なんかではあり得ない。
もはや、「人間」が根本的に違う。“真理”を知っている賢者と、“法則”に支配されている愚者との違いである。幽霊の正体を枯尾花と知っている「大人」と、闇夜の物干し台に取り残された1枚の洗濯物を見て泣き出す「子供」との違いである。子供の恐怖心は、取り残された1枚の洗濯物に幽霊の幻覚を見る。
それと同じく、「全存在」イコール「宇宙大生命が生き生きと生きることを喜ぶための自己発現」という永遠の真理を知らぬ人は、その「真理」を侵す如くに見える何物かの幻覚を見て怯え苦しむ。





 あなたが幸福であるのは「宇宙の法則」である。

 ここで、人生の目的は「生き生きと生きることを喜ぶ」こと以外にはないという言い方は、あるいは、誤解を招く恐れがあるかも知れない。しかし、賢明なあなたには、私の言いわんとすることは、正しく理解して頂けると思う。あなたが、弛(たゆ)みない創造に「生き生きと生きる喜び」を見つけるか、あるいは、豚のように、ただ与えられたものを享受することにのみそれを見出すかは、それはもう「あなた自身の問題」という以外にない。
 
 いずれにせよ、私たち人間は、この大宇宙の全存在の中心存在として、他のいかなる存在よりも最高度にその「生き生きと生きる喜び」を享受する存在であるということ、私たちは決してそれ以外の何らの目的でも存在しているのではないという、実に狂おしいばかりに有難く尊い“真理”に目覚めて頂きたいのである。私たち人間は、本来、みな幸福な人生を営むようにしか定められていない。もし、人類に「宿命」というものがあるとするならば、それ以外にはあり得ない。あなたの現在のいかなる「不幸」も、それは、あなた自身の「迷い」の心が生んだ一時的な「幻覚」に他ならないのである。





 「人間は皆同じ」ではない

 あなたの価値の二面性

 やや固苦しい言い方になるが、まず、普通言いわれる「人間の価値」というものには二面性があると思うのである。すなわち、「消極的な面」と「積極的な面」とである。言うまでもなく、私たち人間は、時間空間の上で有限で相対的な存在である。ただ「神」のみが無限で絶対的な存在である。私たち人間は、その「神」の無限価値を、時間的空間的連続の上に展開発現して行く意識的中心存在である。つまり、肉体としての人間は、「神」の発現形式と言うことができるであろう。
 有限は無限の発現形式である。あるいは相対性は絶対性の発現形式であると言うこともできよう。すなわち、∞(無限大)はどこまでもただ∞であって、そのままではその内容価値を発現することができない。「7」と表われ「8」と限ることによって、∞はその内容価値を発現する。この場合、7という数値も、また8という観念も、ともにooの内容価値発現のためには不可欠の「形式」であって、両者間には純粋にその存在価値という点で、なんら優劣はあり得ない。
 つまり、「7」も「8」も、「百」も「千」も、ともにみな∞の内容価値発現形式として、その存在価値はあくまでも平等である。
早い話が、1円玉も1万円札も、通貨としての存在意義に、両者間にはなんら優劣はあり得ない。1円玉も1万円札も、「お金であることに変わりはない」ということである。私たち人間も、すべての個人がそれぞれ「神」の無限価値の発現のためには絶対不可欠の存在であって、いかなる個人と個人の問にも、本質的にその存在の絶対性という点で、なんら優劣はあり得ない。つまり、いかなる個人といえども、その存在価値はあくまで絶対である。「個人の尊厳」が叫ばれるのは、この理由による。これが、人間の価値の絶対性という一面である。






 大統領もギャングも「同じ人間」か?

 しかし、「7」という数値は、ooの一発現形式として絶対の存在価値を持っているとはいえ、7が7だけで孤立していても何の意味もない。8もただ8という絶対観念に留まっている限りは、何ものも生み出さない。
「個人の尊厳」が不可侵であるのは、いかなる個人といえども、絶対性(神)の発現形式としてその存在は絶対であるという理由によるのであるが、しかし、単なる価値の発現形式たることと、「価値を発現する」ということとは、自ずから、まったく別のことである。
ルンペンも大会社の社長も、ギャングも大統領も「皆同じ人間だ」というのは、人間の価値というものを、単に一面から見ているに過ぎない。これは、人間の価値の消極的な一面である。
7という絶対数値は、7の持つ価値の消極的な一面である。8もただ8として孤立して存在する間は、その存在の絶対性という点で、7との間に何ら優劣はあり得ない。
 私たち個人も、「自己の存在の絶対性」という消極的な価値面にのみ留まって甘えている限りは、生まれて間もない乳呑み児も、20代、30代の血気盛んな青年も、すぺて同等の価値だということである。極端な話が、小学生の息子が自分の父親に向かって、「俺もお前も同じ人間じゃねえかよ」と、開き直ることである。この小学生は、間違ったことは言っていないかも知れない。しかし、幼ない彼は、不幸にして、人間の価値というものの一面だけを強調しがちな、この頃の甘ったれた風潮に他愛なくなびかされてしまっているということである。

 いかなる個人といえども、確かに、その存在という消極的な面では絶対性を持っている。しかし、絶対性たることと、絶対性を発現するということとは、自ずから、まったく別のことである。言い換えれば、「存在する」ということと、「生きる」ということとは違うということである。例え、同じ空間に存在していても、茶碗と、それを使う人間との存在性は、まったく別だということである。「犬も動物、人間も動物」という人は「2=9」という数式に何の違和感も覚えない人なので、もう一度、幼稚園から数字の勉強をやり直す必要があるのである。


 
 「2=9」この奇妙なる等式?
 
 絶対性(個人の存在価値)は、相対性(社会性)を持つことにより、初めて発現される。これが、いわば先ほど仮に述べた人間の価値の積極的な面ということになる。ここにおいて、初めて、父親と小学生の息子は「同じ人間」ではなくなる。「2=9」が“真理”でないことにも気が付く。そして、「2=9」は間違いであるが、「「2:9」あるいは「「2<9」とという数式があることを、小学生の彼はやがて学ぶ。そして、「2=9」は間違いであるが、「2=9」は「11」という新たなる高い価値を生み得ても、「「2:9」あるいは「「2<9」という数式は、何物も生み出さないという新しい“真理”も知る。つまり、単なる「相対性」ということと、「相対性を持つ」ということとは、自から、まったく別のことだとも、彼は知るのである。
 「2+9=11」という数式において、これらの数字の相互間には、その存在価値という点で何ら優劣はあり得ない。2あるいは9という、どちらの絶対数値が欠けても、11という新しい価値を生み出すことはできない。
私たち人間の価値の積極的な面とは、この「2+9=11」という数式に自らが組み入ることをいう。ただ、数字と私たち人間との違いは、数字は人間に使われるもの、人間は数字を使うものという違いである。
 言い換えれば、死物である「2+9=11」という数式に私たち自身(生命)が、自ら組み入ることにより、11をひたすら∞に近づける喜び、それが、数学という高等概念を駆使することができる、「理性」の中心的存在たる人間という生き物の面目である。






 1人で走って一着になるのは当り前
 
 要は、私たち個人個人が、お互いに自らの、2なら2、9なら9という絶対価値をフルに発現し合うところに本当の「価値」があるのであって、自分が9よりもいくつ少ない、あるいは俺は2よりもいくつ偉いという相対性そのものは、あくまでも無価値である。マラソン競技で1番になりえたのは、2番以下のランナーがいたからで、1人で走って颯爽とテープを切っても、それは無意味である。まして、自分がもし、死力を尽くして走り抜いたのであったならば、その結果が例え2着に終ったとしても、それは決して恥ではない。
 恥は、1着の栄光に酔って、自らの∞へのひたすらな挑戦を怠ることと、2着という結果を「敗北」として、クヨクヨと明日への挑戦を怠ることで、いずれもスポーツマン精神に反する男らしくないあり方である。
私たちは、9の力を7しか出さない人よりも、持てる4の力をフルに出し切る人に、当然軍配を上げる。そして、その結果たる「7:4」という数式そのものは、私たちにとって問題ではない。
問題は、私たち人間は、その「7:4」、あるいは「7>4」という数式に支配される存在ではなく、その数式を動かして行くのが、生命を持つものの本来の面目であるということである。
「7:4」というのは、あくまでも「結果」である。

 「生きる」ということは、常に自らが新たなる「原因」であるということである。常に新たなる「原因」であるということは、言い換えれば、常に新たなる「結果」を生み出して行くということである。
つまり、「7:4」という、死物たる今日の「結果」は、私たち生命を持つものには何ら問題ではなく、問題は、明日の「結果」のためには、自らが今日、いかなる「原因」であるべきかということである。「7:4」という数式は、あくまでも「死物」である。しかし、今日その「7:4」という1つの「結果」を生んだ2人の人間は、自らは、「7>4」という数式の意味を理解できる高等な生き物である。そして、「7>4」の意味が理解できるということは、自らが、ひたすら∞を指向する「可変価値」」的存在たることを自覚しているということに他ならない。






「価値」を知る者みが「価値」を生む

 先ほど私は、単なる「存在」ということと、「生きる」ということとは違うと述ぺ、単なる存在を「消極的価値」、生きるということを「積極的価値」という風に述べて来たのであるが、しかし、厳密に言えば、当然のことながら、私たち生命を持つ人間に、決して「単なる存在」などという言い方が成り立つわけがない。
いかなる個人といえども、生まれた瞬間から(ロビンソン・クルーソーや、仙人でもない限り)、必ず何らかの形で杜会的(相対的)存在に入るわけであるから、その意味で、人間の価値というものを、このように2つの面に分けて捉えるということは、本当はとてもおかしなことであって、人間に、元々「消極的な価値」などというものがあり得るはずはない。
 ただ私は、先ほどの、小学生の息子が自分の父親に向かって、「俺もお前も同じ人間じゃねえか」と、開き直るという、極端な例に象徴される、この頃のふざけた風潮は、私たち人間の本当の存在目的、本当の価値というものを知らないところに原因を発しているような気がしていたものであるから、敢えて、このような極端な表現の仕方をさせて頂いただけのことである。
 
 ルンペンも大統領も「皆同じ人間だ」という言葉は、常に、ルンペン側の口から吐かれる。
しかし、「犬も人間も同じ動物じゃねえか」と、犬側は言わない。
それは、犬には元々、「7>4」という数式の意味すらも理解できないからだ、とも言えよう。その意味では、もし、前述のような意味の発言を平気でするような人間がいたとしたら、彼は、「7>4」の意味すらも分からぬ、犬と同等、あるいはそれ以下の生き物だと言われても仕方がないのである。
7も4も、同じ数字じゃねえか」と言う人間に、「7>4」の答を出せる道理がないのである。ただ「価値」を知るもののみが「価値」を産み出し得るのである。

 私のこんな文章よりも、太宰治が『斜陽』の中で、今私が言いたいことを、スカッと次のように語ってくれている。

 「人間は、みな、同じものだ。何という卑屈な言葉であろう。人を卑しめると同時に、自らをも卑しめ、何のプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめるようた言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「ヘヘ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねぇえか。」
なぜ、同じだというのか。優れている、と言えないか。奴隷根性の復讐。


 人間は所詮この社会の「風景」に過ぎないのだろうか?「人間は皆同じものだ」、太宰はこれを「あらゆる努力を放棄せしめる言葉」と言っているが、私は結局、「生きる」ということを放棄させる言葉と言い換えてもよいと思う。

あるいは、同じ太宰の作品名を借りるたら、『人間失格』の自己宣言であるといってもよいと思う。「7も4も同じ数字だ」と言う時、私たちは、ooの内容価値発現形式として、両者間には優劣はないという意味でそう言う。つまり、早く言えば、7も4も、価値発現の「手段」として、「記号」としてのみ見るならば、その存在価値は平等だということである。

 それとまったく同じことで、「ルンペンも大統領も皆同じ人間だ」というのは、人間を、「神」(無限価値)の内容発現形式としてのみ捉える時に成り立つ発言であって、肝心の価値発現主体という生命本来の働きには、眼をつぶってしまっているのである。
人間は、所詮「神」の発現形式に過ぎないではないか、つまりは、「神」に動かされる単なる「数字」であり、「記号」ではないか、というのである。
人間は自ら生きる生き物ではないというのである。「神」の発現形式として、山や草や木と同じだというのである。
これを私は、「人間風景観」と言っている。
「てめぇのような半端な人間がいるから、世の中はバラエティーに富んでいて、神様の眼には面白いのだ。」というのである。
「俺のような貧乏人がいるから、お金持ちは優越感を味わえるのだ。」というのである。
まさしく、、奴隷根性の復瞥でなくて何であろう。
せいぜいよく言って、自ら「社会劇場」の背景画たることに甘んじる犠牲的精神とでもいうところだろうか。
それで私は幸せだ、という人には、私は今更何も言う資格はない。
しかし、本当にそう「達観」できた人が、何で今更、「人間は皆同じものだ」などという、陰気なつぶやきをしなければならないのだろう。
事改めて「人間は皆同じものだ」などと言われなければならないということは、彼自身、心のどこかで、人間は「数字」ではない、「記号」ではない、「風景」ではない、ということを、はっきりと知っているからに他ならない。



人間は「神」のロボットではない
人間は「数字」ではない。
「記号」ではない。
「風景」ではない。
「数字」を使うもの、「記号」を駆使する存在、「風景」を嘆賞する自然の主体、それが人間である。
私たちは、「神」のロポット、または、操り人形ではないのである。
私たち自身の中で、「神」自らが生きているのである。
無限なる「神」が、自らの「発現手段」として、有限(肉体人間)の存在形式をとっているのである。
私たちは、価値発現形式であると同時に、いや、それ以前に、何よりも「価値発現主体」なのである。
私たちは人間は、相対性を通して絶対性を発現して行く、意識的中心存在である。
半端なやくざがいるから世の中は面白い、というのは、世の中の半端しか知らぬ人の台詞である。
貧乏な人間がいるから、一方で、裕福な人間がいるなどという、あまりにも単細胞的で、古臭くて、捻くれたものの考え方が、「思想」めいた仮面を付けているから、世の中の人々はますます戸惑うのだ。
それらは、あくまでも「形式」(現象−いわば「結果」)に過ぎない。
現象(結果)のみを見て、それに囚われている心は、必然、我が身を不自然に息苦しくするだけである。
一度吐いた息(結果)はそこで棄て、次には新鮮な酸素(原因)を吸うのが「自然の法則」である。
よい「原因」さえ持てば、「結果」は否が応でもよくあらざるを得ないのである。

 現在表われている価値発現形式(政治経済体制)がもし悪いとすれば、それは、価値発現主体たる私たち個人個人が間違っているということである。
だから、社会を「革命」したかったならば、まず私たち1人1人、自らの内面を「革命」することが先決なのだ。
「国家は個人の集合体だ」と主張する者が、まず国家体制をどうにかしなければ、個人の自由や幸福がない、とは一体どういうことだ。
そして、本当の「革命」とは、「現在の破壌」や「過去の否定」ではないはずだと思う。
「現在」または「過去」は、あくまでも、既に「結果」である。「結果」に囚われる女々しい姿勢が、決して明日によい「原因」を持てるはずがないのである。
ラソンで2着に敗れたのは、「結果」である。その、今日の「結果」が不本意であったならば、明日によい「原因」を持てばよいのである。実に、それしかないのである。
自己の持てる4の力を全部出し尽して、7の力に敗れたという、その「7:4」という相対性そのものは、ただ「死せる現象」であって、「動く生命」とは無縁である。その「死せる現象」にのみ囚われる時、「7も4も、同じ数字じゃねえか」ということになるのである。
「7:4」という結果を生んだそれぞれ2人の人間は、決して「7」という、また、「4」という数字そのものではあり得ない。まして、その数字に支配される存在でもあり得ない。その数字を、ただひたすら∞に向かって動かすのが「人間」である。




 「価値あるあなた」をここに発見する!
 
 人間を、ただ「肉体的存在」だと見るから、人間は所詮「記号」だ、「風景」だという悲しい見方しかできないのだ。肉体はあくまでも、価値発現の形式(手段、道具)に過ぎない。
「人間」とは、その価値発現形式(肉体)を自由に操作する「価値発現主体」そのものだということである。
私たちは、単なる「形式」として存在するところに何ら価値はない。「価値」を発現するところにのみ、本当の「価値」がある。
そして、自らが、無限価値(神)の一発現主体たることを自覚した人は、当然、その瞬間から、既に、無限価値(神)と一体の存在である。
すなわち、彼は、自らの中に「神」が生きていることをはっきりと自覚する。その時の彼には、今、自分の力が客観的に4しかないということ、あるいは、「7>4」という「現象」そのものは、何ら問題ではない。なぜなら、自らの内に「神」の生き給うことを自覚できた彼は、自らが、ただひたすら∞を指向する「可変価値」たることをはっきりと知っているからである。
言い換えれば、人間とは「神」、すなわち「無限の可能性」そのものだということ、それ以外の何ものでもないということを、彼は知っているということである。
そして、自らの中に「神」(普遍価値)を生かす人は、そのまま「普遍価値」である。これを、本当の「価値ある人」という。
人間は「神」の被造物として、「作品」として平等だという人、つまり、「神」(造物主)と「人間」との相対性を超克できない人、言い換えれば、「神」(普遍価値)を、自己(特殊価値)の中に生かさない人は、当然、その存在は、狭い特殊な価値しか持たない。
だから、これを本当に、客観的に「価値ある人」ということを、私たちはできないのである。
「自分のようた貧乏人がいるから、金持ちがいるのだ」という人は、自分はただ、「金持ち」にとってのみ存在価値があるのだ、というのであるから、当然、何ら社会的に普遍価値たるを得ない。

 また、「俺は、どうしてもあいつをやっつけなければ気が済まない」という人は、ただ、「あいつ」のために自分は存在するのだ、というのであるから、これはさらにちっぽけな男という以外にはない。(そして、こういう人たちには、本当の意味での「自分自身の人生」すらもない。) 要するに私たち人間は、「神」の御心を生きるところに本当の「価値」があり、そして、それ以外に、私たちの「本当の幸せ」は絶対にあり得ない、ということである。「神」の御心とは何か? それは、各自の心の奥に向かって真剣に問うしかない。
万人の心の奥に横たわる「神」の御心(普遍価値)、それを素直に生き切れる人を、私たちは、本当の「価値ある人」と呼びたいと思う。

人格神と自由意志

 9.神の摂理ということ


 神の摂理
 
 これまでいくつかの観点から、神(心的存在、人格神)の存在ということを考えてきたのですが、神がいても、同時にその摂理ということがなくては意味がありません。神がこの大自然や我々人間を創造したという、ただそれだけの考えでは、我々の実生活を動かす底の世界観・人生観にはなり得ないのです。因みに、世界は、神によって創造された後は、神の手を離れて、自然法則だけで運行するといった考えを含む思想を理神論と言います(普通、17〜8世紀に提唱されたこうした思想を指して言います。自然神論等とも呼ばれます。)。ヴォルテール、ルソーなど自由思想家(啓蒙思想家)のほか、ニュートンや避雷針を考えたフランクリン、さらにジョージ・ワシントンやトマス・ジェファソンなどもこの考えだったと言います。そしてこの思想は、このままでは、世界は自然法則と人間だけの、神の与り知らぬところということで、人間界の多くの不合理、不公平がそのままに葬られていくことは免れず、死後の然るべき世界を考えない限り、実質的に無神論に等しいわけです。例えばニュートンなどはキリスト教の信奉者だったわけですが、この点はどう考えていたのでしょうか。
 
 人間の自由意志と自然法則だけの世界では、正義は終に勝つことができないままに終わってしまうことが多いのです。正邪善悪を律する神が存在していて、現世にしろ、来世にしろ、公正な実際の処置が下されるということでなくては、一切の不公平がついには正されるということでなくては、甲斐ある真面目な人生とは言えないのです。
 摂理ということは、我々人間世界にこの現世の場合なら、目には見えなくても、何か超自然的な事が実際に起こり得る、あるいは起こっているということです。神という心的存在が必要に応じ、物質現象なり、我々の脳なり心なりを左右するということであります。そして、科学の関知する限り、こうした超自然現象は今まで何1つ観測測定されていないと言ってよいと思います(よく、事ごとに、これは罰が当たったのだとか、これは神様の思し召しだとか言う人がいますが、こうしたことは論外です)。そしてこのことはそのまま、超自然現象などは存在していないというふうにとられがちです。しかし、観測測定されないからといって、この世界中のいつどこにも超自然現象などまったく起こっていないと断定することは不可能です。
 摂理の存否の考えは、我々の人生観を180度変えてしまう点で、死後があるかないかのそれに似ています。そしてそれは、同じく、所詮、信仰の問題です。可能性がないということなら兎に角、そうでないなら、この「可能性」ということが指摘され、十分に考慮さるべきであります。

 また、自然法則の世界に、摂理という超自然的なことが起こるということは、結果的には、奇跡と共通しているわけです。しかし、神懸かり的な奇跡といったようなこと(こういうと神父様に叱られそうですが)とは違って、摂理は、それがないと、人生に甲斐や意義があり得ない、つまり必須なもの、真剣なものなのです。なお、当然のことながら、摂理は、超自然法則的なものではあっても、自然界を乱すものではないと考えます。
 聖書に、神の許しがなければ、雀1羽も地に落ちることはないだろう、とか、同じくして、たった髪の毛1本でも白くしたり、黒くしたりすることはできない、といった言葉がありますが、これは、摂理に対する信仰を表していると思うのです(聖書に書いてあるゆえに正しいことであるなどと言っているのではありません)。そしてこの考え方は、摂理ということが実際にあるとして、そのあり方をいみじくも穿ったものと思います。全宇宙は、砂1粒、素粒子1個の動きまで、一切は神の完全な摂理下に置かれているような気がするのです(これは、神が全ての物事を1つ1つ手ずから動かしているとか、一々手を出しているということではありません。必要に応じて左右するということ、一切を完全に掌握、管理しているということです)。

 罪もない人間が流れ玉に当たって死んだとして、それを偶然とだけ、運命とだけ見るのでは、ついに人生を真面目なものと考えることはできません。正視できない奇形児が、人類文明の悪の産物というだけでは、運命というだけでは、あるいは、前世の所業の報いといったようなことでは、人生をまともに解釈することは不可能です。全ての人間1人1人に意味の存在を考えようとするなら、いわゆる偶然である出来事も、当然神の摂理下においてのことで、でたらめで無意味なことでは有り得ない筈です。
 この世の中に、実際に神の摂理というものが存在しているかどうか、すなわち人格神が実存しているか否かは、人生における根本的な意味の存否に同義です。心を、脳髄という自然法則下にある物質組織の所産とする考えは、当然、人格神とか摂理といったことには関係しません。
 
 神の摂理ということは、また、天命ということに同じです。そして、自由意志の有無にかかわらず、所詮無力な人間が、神の摂理と無関係の世界において辿ると考える道が運命です。天命と運命、考えてみれぱ、この2つの言葉はおよそ対蹠的な人生観を謳っています。摂理という超自然現象が、果たして簡単に現実に起こり得るものかと、何がしかの抵抗を感じる人は少なくないと思います。しかし、もし神がいると考えるなら、この物質宇宙、そして人間は、当然、神によって創られたと考えているわけで、神はここで、すでに、摂理の前段階をなす創造という大きな「作業」をしているわけです。創造が終わって、世界が平常化している現在だからといって、摂理という「作業」が、今更特に考えにくいはずはないと思うのです。また、過去というカーテンの陰に特に、奇跡とか摂理ということを考えやすく思うのも、これは神懸かり的です。昔も今も自然法則は同じだと思います。
 また、考えてみれば、前にも述べたことですが、我々の「心」も、結果的ではありますが、自分の「脳内反応(物質現象)」を左右する能力を現に持っているというわけです(心が脳髄とは別個の自主的存在であるとして)。
 なお、我々の心が、専ら肉体(自分並びに相手の肉体)や外界を媒介物として、相手の人の心を動かしているのは日常の事実です(自分の心も、相手の人の心によって動かされているわけです)。
 かくしてまた、話はやや飛躍するかもしれませんが、我々の心は(直接に自分の「思い」で、また行動を通して)神の心をも動かし得るのではないでしょうか。



 
 自由意志・霊魂の不滅・神の存在
 
 神の摂理ということに関連して、ここに、これまで考えてきた、自由意志、霊魂の不滅、神の存在という3つの事柄を、一応まとめてみたいと思います。既に述べてきたことですが、責任とか、良心とかいうことは、人間に自由意志(自主)があって初めて言えることです。精神活動を脳の所産と考えることは、人生一切を脳髄中の自然現象に還元してしまうことです。人格即脳格ということです。かくして、この人生が、何か真実の意味(我々にとっての)を持った甲斐のあるものであってほしいというなら、人間はまず、自由意志を持った霊魂でなくてはならないと結論したのでした。
 そして、人間死んで灰だけになってしまうものなら、自由意志があろうとなかろうと、所詮人間がは同じことと考えたのです。全ては肉体の死とともに消えてしまうことになるからです。この人生が、再び、本当に甲斐のあるものであるためには、霊魂は、さらに、不滅(未来は虚無ではない)でなければならないと考えたのでした。
 それでは、我々に自由意志があって、霊魂も不滅なら、人生は意味もあり生き甲斐もあり得るかというと、それでもまだ駄目だということでした。人間の力だけでは、例えば正義にしても、とても保証され切れるものではないと考えたのでした。正邪善悪を律する、一切を保証する、神(人格神)という絶対者が存在していなくては、その摂理が行われなくては、ついに、甲斐ある人生は保証され得ないと考えたのでした。要するに、我々1人1人の人生が、結局諦めに終わるものではなく、真実、真面目で意味のあるもの、甲斐のあるものであるためには、自由意志(自主)、霊魂の不滅、そして神の存在という3つのことが必要であると考えたのでした。

 さてここで、ドイツの哲学者カント(1724一1804)は、道徳命令を成立させる根拠として、自由、霊魂の不滅、神の存在を考えたのです。
カントのこの考えと、今ここでまとめた、私の幼稚で荒削りな考えとは、大体同じことのように思うのですが、私には明確には判断つきかねます。





 
 10.心と心の触れ合い・人間1人1人の人格の絶対尊厳性


 愛こそ心の存在意義
 
 これまで、人生の意味とか価値とかいうことをしばしば言ってきましたが、それでは一体、何がこの人生の真の意味であり、真の価値なのでしょうか。思うに、それは実に、人と人との心の触れ合いにこそあるのではないでしょうか。自分がたった1人で、この世界に取り残されたと考えたらどうでしょう、どのように贅を尽くした、何不自由のない環境に置かれたとしても、そこには最早、何の望みも喜びもあり得ないことは明白です。地位も名声も、もとより意味を成しません。どんな大発見をし、いかに学を極め、どのように悟ったところで、何の張り合いも、そしてついに意味もないのです。
 友と語り、そして、喧嘩をしながらでも、人と交わることこそ、感じあうことこそ、人間にとって不可欠の心の糧であります。これがなければ、人間は、食べて生きて仕事をしていても、動いている屍と変わるところはありません。互いに喜び悲しみを分かち合い、苦しみを訴えあい、思うことを話し合い、信じ合う相手がいなければ、生き甲斐はないのです。まことに、友は、真実、かけがえのない最高の宝であります。人間(の心)より貴いものはないのです。ひたすら仕事に打ち込むことが生き甲斐だなどと、悟ったようなことを言っていても、人と心を触れ合うことなくしては、あるいは、どこかでその仕事が人のためになっている、あるいは評価されている、という意識がなくては、ついに生きている意味甲斐のないことは自明であります。1人で本を読むことも、つまりは、心と心の触れ合いということです。書物はまた、まぎれもない友であります。

 もっと突っ込んで言うなら、愛こそ究極の意味であり、価値であり、目的であり、同時にそれなしでは生きていけない心の糧であると思うのです。1つ1つの愛の行為、思いは、例え小さくても、人生と自他の幸せを築いていくための、唯一の崩れることのない素石です。愛の心は人間の心の体質であると思うのです。喧嘩も、憎しみも、すでに愛の変形の如くに思われます。愛という言葉に臭みを感じるなら、好意で結構です。人に好意を示し与える喜び、それを受ける喜び、楽土は好意という基盤の上にのみ建設され得るのです。



 
 人間1人1人の絶対尊厳性は人生に意義があるための前提
 
 我々人間が、互いに付き合い、愛し合い、あるいはまた怒り合うことができるということは、我々はすでに無意識のうちにお互いの人格を認めているということであります。動物に向かって張り合う気にはなれない理です。この人生の基本である、人間同志の付き合いが、根本的に意義を持つためには、人間はそれぞれ、本質的に尊厳性を持った自主的存在でなければならないのです。人間1人1人が、修飾的な形容詞ではなく、真実「かけがえのない(つまりまた、それぞれ絶対尊厳な)」存在でなければ、人生に本当の意味は成り立たないのです。
 人間の心の体質は愛であるとともに、絶対の尊厳であり、愛が成り立つためには、人間それぞれの人格の絶対尊厳性が必要だと思います。愛と尊厳性は一体のもののように思います。そして、母の愛に尊厳を感じるか、あるいはそこに本能だけを看て取るかです。元よりこうした尊厳性は、王侯貴族に考えるようなそれではありません。単なるムードとも異なったものです。一見どんなに下らないように見える人間にも、どんな悪党にも具わっていなければならないもの、そして、誰もそれを犯し得ないもの、自らの尊厳性にして、自らそれを犯すことのできないもの、と思うのです。
 
 つまり、こうした尊厳性は、人によって格差を付け得るものではないのです。それぞれの人の持つ尊厳性は絶対なものです。聖者も、王侯も、下僕も、いかなる身障者も、そして精神異常者(脳という、与えられた道具(コンピューター)に故障のある人)も、その人格の基本的尊厳性に於いては些かの差もあってはならないと思うのです。人間は1人1人、人間国宝であろうとなかろうと、それ以前すでに、かけがえのない尊い存在であるのです。一切衆生悉有仏性であります。
 人間の本来の素質がまがいものであっては、自らを築き、自らを鍛えるなどということは、土台、無理な相談です。甲斐ある人生は成り立ちません。また教育などということも不可能です。石ころを磨いても、ダイヤの輝きは出ません。素材が悪くては、彫刻はできないのです。




 
 自由意志のないところに、すなわちまた、物質の世界に、尊厳性は関係ない
 
 尊厳性は、自由意志を持った心に関する問題であり、自由意志のないところに、つまりまた、機械や物質の世界(自然法則の世界)に、尊厳性とか、また卑しさなどということは関係ないことです(念のため、今言う尊厳性は、造化の尊さなどという場合のそれとは別です)。脳を含めて人体がまったくの分子機械であることが確からしくなってきた今日、心(精神活動)が、その中枢コンピューター(脳)の所産に過ぎないと考えるなら、純粋な自然現象の結果であるその心は、尊厳性などということとはおよそ関係のないものということです。そして尊厳性という考え自体、これまた脳内反応の写影(造映)に過ぎないもの、単なる架空のムードでしかないことになります。
 心に本然の尊厳性を考えるなら、再び、心は自由意志を持った自主的な存在であって、脳髄とは本質を異にする、まったく別個の存在であるとしなければなりません。愛、尊厳性、自由意志は不可分にして一体です。

 さて、例えば今、まったくの狂人を目のあたりにしたとして、果たして、その壊れてしまった脳髄を超えて、そこに、絶対尊厳な霊魂(心)が隠れていると思えるものか、確かに、考えさせられる問題です。狂人の頭脳は、事実、壊れた機械ということです。もし心が脳の所産であるなら、狂人は人間の屑という他ありません。屑であっても、言うなら人間として、或いは身内として、大切にするというだけのことです。しかし、私は、狂人は、あくまで頭脳の不具者であり、今は隠れていて見えなくても、やはり、健全な絶対尊厳な霊魂を具えている(霊魂であるという言い方が正確)と考えたいのです。そしてこれは全ての人間の人生を真面目なもの、意味あるものと考えるための要請と言うしかありません。




 人間の尊厳性、愛、自由意志は神自身のそれに由来するものでは
 
 私は、人間の心の尊厳性、愛、自由意志は、どうしても神(人格神)自身のそれに由来しているように思うのです。神という心的絶対者を考えることなしに、有限な人間だけからでは、こうしたものは出てこないように思うのです。つまり、人間の心は、元々、神の心に由来しているもの、すなわち、神の心の分身として、神によって創られたものと考えるのです(そしてまた、これによってこそ、人と人、神と人との心の通い合いがあり得るのだと思います)。
 私は、これまで述べてきましたように、神は存在していると考えるので、以上のように考えもし、一方また人間の心の、尊厳性、愛、そして自由意志ということから、再び、改めて神の存在することを考えるのです。




 1匹の迷った羊
 
 聖書に、羊飼いが1匹のはぐれた羊のために、残りの99匹を山に残しておいて探しに出るという喩え話がありますが、これも、人間1人1人の人格の絶対的な価値(尊厳性)というものを教えています。人間1人の体と心は、例え狂人であっても、いかなる国宝にも替えることはできません。それどころか、どんな1人の人間の救出のためにも、全世界を挙げて協力すべき筋合いのものです。
 嘗てテレビの番組に、「唄子・啓介のおもろい夫婦」というのがありましたが、ある時そこに出てきた人妻の話(実話)に次のようなものがありました。「私か貧乏していたさ中のある日のことです、2人のまだ幼い子供を連れて田舎道を歩いていると、ちょうど向うからやって来たお婆さんが、私たちの姿を見て哀れと思ったのでしょう、袂から煎餅を1枚取り出すと、それを路上に投げたのです。私の戸惑いをよそに、無心の兄は走っていってそれを拾い、半分割って弟に分けてやりました。その時の有様が今でも‥‥」と、まことに実感がこもった話でした。
 
 仮初めにも、人に物を与えるからには、例え相手が乞食であっても、投げて与えるようなことをしてはなりません。何がしかの誠意、謙虚さ(相手の絶対尊厳性を考えれば、常に当然であること)に欠けては、愛の行為には結実し得ないように思います。真の愛の心は品性を具えたものです。因みに、施したという考え方自体、実はすでに思い上がっているもののような気がします。自分が今日こうして生きていられるのは、果たして自分だけの力で出来ただろうかを、少し考えてみるなら(実際、ほとんどは周囲の、言葉なき協力、そしてついには他力によっているのです)、例え楽ではない事情の中からしたことであっても、「施し」などとは、そう誰でもが無反省に言える言葉ではないように思うのです。
 また、親切は、戒律に終わっては、その真義は達せられないのです。もっとも、戒律的、半強制的であっても、しないよりはましです。そして、またついでの余談になりますが、このようにして、きめ細かく考え、反省していくこと自体が、また、自分の人間を造っていくため欠かせない大切な修行でもあると思うのです。自分が本当に安っぼい人間だと、心底から思っている人はいないのではないでしょうか。自分なんか、自分などと、日頃やたらに卑下している人でも、自尊心を傷付けられて憤激しない人はいないのです。まことに、自尊心という言葉は、伊達にある言葉ではありません。



 
 再び心は第一義にして、同時に、絶対尊厳な存在
 
 どんなに有難く尊い経典も、聖書も、我々人間1人1人の心のためにこそ書かれたものであります。我々人間の心のためということ以外、それらに本来の意味価値は考えられません、人類の死に絶えた地球上に転がる金塊と同じです。お経が、説法が、聖書が尊いという以前に、まず、我々人間の心が、尊く大切な存在なのです。心は、このように貴く、絶対の価値のあるものだと思います。心は、第一義なのです、絶対尊厳な存在なのです。ここに再び、全宇宙も、我々の肉体も、こうした心のためにこそ、霊魂の成長のためにこそ、備えられ、存在しているものであるように思うのです。
 世間のいかなる毀誉も、また刑罰も、人間の尊厳性を疵付けることは不可能です。人の尊厳性は、自らの悪しき思いによってのみ曇るだけです。人間の造ったいかなる地位階級、名誉、称号、勲章も、それぞれの人間の価値や、尊厳性、品性とは一切関係ありません。




 
 どこまでが本当の自分か
 
 因みに、我々は省みて、どこまでが本当に本当の自分か、本当に自分の、例えば、努力によるものなのか、責任に帰せらるべきなのか、正味での罪とされるべきか、そしてどこまでが遺伝、つまり生まれつきの脳の、体の、作りに帰せらるべきか、例えば、どこまでが天賦の才能によるもので、どこまでが本当に自分の努力によるものなのか、といったようなことについての判断ははなはだ困難です。ノーベル賞を貰ったからといって、おめでとうとは言えても、手放しで偉いとは言えない理です。大罪を犯してしまったからといって、反省は絶対に必要でも、必ずしも自分を一生、責め続けることはないかも知れないのです。
 さらに、心がけと努力次第で脳の造りもある程度改善できるものか、また、心懸けや努力自体がすでに脳の造りによるものか(再び、心は脳の所産か)、といった問題、さらにまた、人の一生を決める要素には、育ちを含めて、環境ということがあり、また、いわゆる運命もあります。しかし、我々にとってこの人生が根本的に意味あるべく、人間を、自由意志を持ったそれぞれ自主的な人格と考える以上は(それがすでにして他力によってあるものであっても)、当然、我々にはそれぞれ相応する自分の責任というもの、そして自分の正味の、心懸け、そして努力というものの存在が考えられなければなりません。
 こういった次第で、人間それぞれの所業が、どのように報われるのが至当か、どのように裁かれるのが本当に正しいのか、ということは、実は大変判断の難しい問題です。人間の本来の評価は、所詮は人格的なものについてであるべきであり、その所業とか技能そのものについてはまた別に考えられるべきです。そして、正確に評価できるのは神様だけだと思います。

 兎に角、生前死後を問わず、人それぞれの行いの正味が、いつかは、正しく公平に、確実に、清算され、報われていくのでなければ、どこかで正しく評価されているのでなければ、これまた、何度も繰り返しますが、真面目な人にとって本当に生き甲斐のある人生などというものは成り立ちません。なおここで、誤解のないように申し添えますが、私は、ただ正しさ、正確さ、厳密さだけが能と言っているのではありません。人間、常に感謝の気持ちが、そして、人から許してもらった以上に、人を許すということが、そして心に寛容と余裕がなければ、人生は干からびたものです。正しさ、正確さが必要ということは、ついに、愛は無条件ではあっても、でたらめの世の中では成立し得ないということです。







 11.宗教について

 宗教とは

 宗教というと、例えば仏教とか、キリスト教とか、1つに、教派や宗旨を指して言いますが、また時には、中味はほとんど空の祭祀祭儀を指して言うこともありますが、もう1つ、あの人には宗教があるとか、あの人は信仰を持っているとか、すなわち、宗教心という意味にもよく使われます。後者の意味において、宗教とは、一口に言うなら、信念ということに近いかもしれません。そして単なる信念と違う点は、宗教では、神の存在が第一の前提に立っていることです(この点、禅(宗)の如き、むしろ哲学色に傾き、果たして純粋に宗教と呼ばるべきものなのか、どうなのでしょう)。
 宗教は、人間が、自らその根源的な無力を悟り、絶対者(人格神)を求めてこれに縋ろうとするところに発しています。したがって、神を信じない人にとっては、宗教は無意味な存在です。人間に苦しみも欲もなければ、自分の無力を悟ったところで、別に何に頼る必要もないわけです。宗教は、苦しみあり、欲あり、死にたくない、いつまでも生きていたい、そして、常によりよき将来を理想して止まないところに発するのです。諦めには宗教はありません。かくして、人はその幸せを約束する全能の神の存在とともに、肉体の死を超越する霊魂の永生を、すなわち現世に続く死後の世界の存在を求め、信ぜんとします。これが宗教です。このようにして、宗教は、単に悟って、安心立命を得るといったようなこととは些か違うように思います。



 真理は1つしかない・宗教の真諦
 
 真理が1つしかないように、宗教も(それが真実なことであるとして)、その真諦は、当然1つしかないはず、それは教派、宗派によって異なるべきものでは絶対にありません。宗派によって、その形式でなく、唱える要諦に差があるとすれば、それはいずれかが、あるいはいずれもが、完全なものではないということです。また、宗教の真諦は、寺院とか、仏像などとは関係のなかるべきものです。仏像や聖者の像を拝むことを一概に悪いと言っているのではありません。そうしたものにその聖者たちを偲び、敬意を表するのは結構です、しかし、そこまでであるということです。偶像となってはならないということです。どんなに立派な寺院も、由緒ある名刹も、いかなる仏像も、国宝にはなり得ても、信心の対象にはなり得ません。同じくして、何千年続いた教派にしても、その歴史の長さ自体は、寺院の建物の古さと同じ意味しか持っていません。建物の立派さや、歴史や遺跡などに威されてはなりません。文化的な価値は宗教の本質には繋がりません。  
 
 御札や御守りにしても、結局は偶像と同じような意味合いのものであり、気休めとか、記念品、せいぜい身辺の自戒など以上に出るものではなく、儲け目当てに売られているものなど、愚劣と言うほかはないのです。こうしたものが真の宗教と何の関係もないことは言うまでもなく、また、こうしたことを僧・神職にある人々が商売にするのを見ては、そこに神仏の信心などとは白々しいと言うに尽きます。地獄の沙汰も金次第と言いますが、まことに戒名の位付けがお金で決まる有様です。死んだ本人とは縁もゆかりもない、お金で雇われてきたお坊さんの唱えるお経を聞いていると、心を隙間風が通っていくのを禁じ得ません。まして、世界にはその日の食物にもこと欠き、病に倒れていく人に与える薬もないという悲境のあることを日常知らされながら、すでに死んでしまった人の葬式に、しかも自分たちの見栄から、巨額の浪費をして、自らも、周囲の人たちもともに省みることのない社会を見る時、そこで上げる念仏の空しさを思わずにはいられません。例えばこうしたことども(もちろん、宗教の本質とは無関係な事柄なのですが)によってもまた、宗教という語のイメージは著しく曲げられていくのです。
 
 話は逸れますが、何年苦行を積もうとも、いかに座禅を続けても、それらによって得られるものは、必ずしも、例えば今ここに述べてきたような虚儀弊風を打破すべく、その実行の1つに踏み切る勇気にもなり得ないのではないでしょうか。大伽藍の中で、訳も分わからない読経のムードに酔うとか、パイプオルガンの音に威圧されて神妙な気持ちになるとか、信者の被る白いヴェールに聖なるものを錯覚するとか、そうしたことを一概にいけないとは言いませんが、宗教や神仏とは本質的に関係のないことどもです。荘厳などというムードはまことに曲者です。例えばパイプオルガンの音と白いヴェールが、わずかでも入信の契機に与かっているのなら、そこには愚かしさがあるというものです。歴史であれ、伝統であれ、そして例え善男善女の何か心の拠り処になっている事柄ではあっても、反省すべき問題は多く残っていると思います。どんなに有難いと言われるお経でも、訳が分からない限り、ただの呪文と異なるところはないのです。何千年経っても、結局、世の中のほとんどの人には分わからずじまいということでは意味がないのです。宗教の教義は、万人のためのものであり、それは当然、我々の1人1人が明快に理解納得し得るものでなければなりません。結局、高僧だけにしか分からないようなものでは何にもならないのです。また、冗談にしても、解らない方が有難味があるなどという言葉には、すでに真面目さがありません。
 
 哲学が科学とは異なっているのと同じ趣に、宗教も医術とは些か違っています。医術の場合は、患者にその知識や技術がなくても、医者は患者を助けられますが、宗教の場合、高僧だけが悟っていても、一向に有難くはないのです。救われる側の俗人も、高僧善知識とまったく同じに悟らなくては救われないのです。思い切って大胆に、徹底して真理を追求して行くべきであります。真理を求めるのに、不敬という言葉はありません。何の遠慮も要りません。そして宗教は、我々の寝起きとともにある、白日下の真理真実でなければなりません。真の意味での宗教というものの、真にあるべき姿を誤解してはならないと思います。目で見、手で触ったものだけが真実ではありません。それらはむしろ諸行無常相です。かといって、見ずして信ずることが宗教でもありません。納得のいくまでは一生涯でも信じないのが、真面目で真剣な人生態度であり、まさに宗教の土台でなければなりません。かくして宗教は、真剣に考え、真剣に生きんとする人間にして、ついに到達する人生態度ということができると思います。宗教は、いわゆる修養でもなけれぱ、苦業でもありません。
 
 以上、こうした意味での真の宗教というものは、私は、人間にとって、人生にとって、必要欠くべからざるものだと考えているのです。我々、殊に日本人は、宗教というと一種の臭みを感じる人が多いかもしれません。また、この宗教という日本語自体、決して今言う宗教の真意に適したものではありません。しかし、今さら変えるべき他に適当な言葉もなく、さしずめこの語を使っていきたいと思います。
 さて、思うに、人間は弱いものであるので、どこか、まともで真面目な教会なり、宗門なりに所属していた方が心強くもあり、信仰心から離れていくことも少なくなり一心の向上を計る上でも良策と言えるかもしれません。しかし、救われるためには、必ずしも形式を踏んだ入信が必要であるとは思いません。洗礼を受けなければ天国に入れないというものではないと思います。教団に所属していないと、国籍でもないかのように思うのは甚だしい見当外れです。人間の本籍は元々万人が神の国です。別に何々教の信者でなくても、教会に行っていなくても、つまり世間の一般常識からは全くの無宗教ということであっても、人はその心懸け1つで十分に救われもするし、信者と何らの格差を付けられることなく、極楽往生もできる、ということでなくてはなりません。天国に手形は不要です、天国はまた、ネクタイを付けないと入れないレストランとも違うのです。




 奇跡
 
 キリスト教にしても、仏教にしても、宗教には伝説とか奇跡が付きものといってよいです。ところで、神が存在し、自然法則自体が神の摂理下にあると考えるなら、奇跡を否定し去ることはできないわけですが、しかしだからといって、いわゆる奇跡を前向きに認めることはどんなものでしょうか。例えば、マリアの処女懐胎にせよ、キリストの復活にせよ、とにかく、自分が信じられないことを信じろと言われても無理です。
 余談になりますが、第一、キリストが我々と同じようにして生まれてきたのでは、一体どこがいけないのでしょう。生殖行為のどこが汚らわしいのでしょう。汚れているのはそう考える人間の心です。また、病苦に喘ぐ者の藁をも掴む気持ちから、奇跡を願うその心理は分かりますが、それでも奇跡は、多くの人を過った方向に導き、邪教にも繋がっていくのです。私は、奇跡を頭から無視したり、人から夢や希望を奪おうというのではありません。歪曲した考え方、馬鹿げた姿勢を正すべきと思うだけです。
 
 万物が厳密に自然法則に従って一糸乱れず現象しているというそのことと、いや、それより第一、ものごと(我々自体を含めて)が存在しているということそのこと自体と、言うなら手品のような奇跡とを比べて、それらの不思議さ、有難さに一体どんな差があるだろうかということも、十分に反省すべき事柄です。が、しかし、その自然法則を超えてさらに、人間が自分に都合のよい奇跡を願うその気持ちも分かりますし、それどころか、こう言う私自身、浅ましくも、奇跡を願う気持ちは十分あるのです。
 しかし、いわゆる霊媒とか、念力とか、机が独りでに躍り上がったとか、怪しげな加持祈祷や念力の類で病気が治ったとか、よしんば中には、偶然でなく、本当にそうした事実があったとしても尚且つ、そうした事柄は今考えている真面目な人生間題にとって髪の毛1本ほどの意味もないのです。よしんば、自分の身内1人が救われたとしても、世界にはまだ、耐えられないような苦悩に喘ぐ数多の人々が救われないままでいることを考えなければなりません。
 こうした奇跡とか異常現象で左右されたり、ぐらついたりすることなく、ひたすら人生を真面目に、地道に考えつつ、自ら打ち建てていく力強い人生観、神観、信念にこそ価値を置きたいと思います。繰り返しますが、奇跡を否定はしません。しかし、キリストの復活がなかったとしても、再臨が起こらなくても、神の存在を信じることはできます、心の不滅を信じることもできると思います、愛の意味価値にも変動を来たしません、つまり、自分の人生を、永生に亘って、希望と力に満ちて生き、自らを、そして良き社会を建設していくことが可能であると思います。宗教は、奇跡を必要条件とするものであっては断じてならないと思います。


 
 祈りということ
 
 宗教は、まず神を信じ、それに縋るということですから、そこには当然、祈りということが必然します。宗教と言わないまでも、無力な人間には、すでに祈りの気持ちが付きものです。祈りに形式は不要です。いつ、どこでなりと、たった1人でも、皆で一緒になりと、ただ誠意をもって、真剣な、善意な願いを、当たり前の言葉で祈り、あるいは念じるだけで十分です。そして後は、応答を期待するというより、神の摂理に任すといった気持ちだと思います。
 それぞれの教派なり宗派なりでの、祈りの形式や、礼拝等における儀式などを不可とか、やみくもに無意味とか言っているのではありません(邪教的なものは別として)。また無教会主義がよいとか、よくないとか、それも人それぞれでよいと思います。ただ、自分の部屋なりどこなりで、真剣に願い祈る真面目な気持ちは、大伽藍でたくさんの寄進をして、あるいは高僧とともに上げるどのような祈りにも勝っても劣ることはないと言っているのです。ついでに、訳の分からないお経を唱えるよりも、眼の前の、小さくても愛の実践です。例えば、爽やかな返事の一声です。




 信仰は難いかな

 儲けが一切の発想原点になっていると極言したい位の、この現実の世界で、しかも胸を張って前進する意気盛んな人種に向かって、宗教だの、祈りだの、愛の実践だのと言っても、事実、馬耳東風の感です。しかしまた、人間はまことに弱いもの、そして浅はかなもので、自分の心身に自信のある時、我が意を得ている時は、神に祈るなどということはもとより、神の存在すら意に介しないのが常ですが、ひとたび形勢が傾いてくると、あるいは死病の宣告でも受けようものなら、慌てて藁にでも縋ろうとし、そしてまた、病気でも治ってしまえば、いつの間にか元の不遜な人間に逆戻りというのが世の慣わしです。
 そして、新薬の出てくる度に一喜一憂する難病患者の姿は、人間の無力をそのままに現わしています。まことに、有効な新薬の一服は、病床に喘ぐ人々にもたらす光明において、百の祈り、千の諭しに勝る観です。信仰(を持つこと、すなわちまた宗教(心)を持つこと)は難いかな、といった感です。




 愛とは

 金の切れ目が縁の切れ目と言いますが、愛に縁の切れ目はありません。母の愛がそれです。自分の身を省みないで我が子に尽す母の愛は、生物本能であると同時に、まさに神の示した愛の生きた雛形です。愛敵などということは、普通にはとても無理なことのように思われますが、無法の我が子のために尽す母の心は、考えてみれば、まさにこの精神なのです。しかし母の愛は、そのままでは本能であるがゆえに、時に反省を欠いて、我が子さえよければという、利己的な盲愛に陥りがちです。そして愛は、報酬を意識しないとか、利己的なところがないとか、ただ親切、好意、誠意というだけでは十分でなく、相手の本当の幸せを考えてする、より高い立場からの賢さを伴ったものでなくては本物と言えません。愛の行為は、多くの場合、努力を伴い、時に苦しみでもありますが、しかしそれは、常に必ず甲斐ある喜びであり、儚く消えていく快楽とはまた異なったもの、しかも、自らの、そして他の人の心をも育てていくのです。
 聖書の喩えにある、放蕩の限りを尽し、ぼろを纏ってしょんぼり帰ってきた息子を、抱きかかえて迎える父の愛は、すなわちまた神の愛です。神は、底無しに安心のできる慈父ということです。なおここで、「父親はしかも、召使達に1番いい衣服を持って来させて着せ、大ごちそうをして皆でその無事に帰って来たのを喜んでいたが、そこへ畑から帰って来た兄息子がこの様を見てひがんで怒った」ということがおまけに書かれているわけです。まことにこのあたり、「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや(親鷺の語録、歎異抄にある言葉)」ということにいみじくも通じているような気がするのです。しかし、歎異抄のいろいろな解説書にしても、私にはとても難解なので、はっきりしたことは言えません。
 
 ここでまた、宗教とは、神というものの本当の姿を、正直、以上のように意識しながら生きていくことであり、感覚的な実感には欠けていても、神と人間との直接の触れ合いであると考えられる日常の祈りは、愛の実践行動に織り成されて、宗教の真骨頂を成すものだと思うのです。愛の実践は、例えば朝の明るい「おはよう」の一語に始まります。友のために命を捨てるのが最高の愛だとか、全財産を投げ打って世のため人のために尽せとか、そうしたことが人間愛の1つの頂点だということもわかるのですが、まずは、嫌な奴にでもなるべく意地悪はすまいという位のところで勘弁してもらいたいです。
 生死のドラマが起こらなくては、愛の真骨頂は現われないわけでも、また愛というものが、どこまで深くあり得るかを測れないわけでもありません。人が普通嫌がってやりたがらないような、例えば長患いの病人の世話を、何年も何十年も変わることのない温かい気持ちで続けている人々のその愛も、第一級のものに違いありません。毎日常在、現に自分の目の前にある問題の1つ1つに、その大小を問わず、常に誠意をもって対していこうとする行動姿勢の如きも同様です。
 そして、こうした行為は、単に努力だけでは不可能であるように思います。前に述べましたように(10章)、誰の心にも、その奥には無条件な純粋な愛の心(幸せの種)が、すでに初めから存在しているのではないでしょうか。そして愛はその実践の積み重ねによって、心にどんな場合にも備えての力と勇気が涵養されていくものです。かくして、派手ではなくても、生涯を貫く日常不断の親切心、不変の優しい心の底流は、すたわちまた、まさかの場合に臨んで人のため命をも投げ出すという、驚くべき勇気に繋がっていると思うのです。

 愛の心はまた、列列たる正義心と一体のものであります。そして口で言うようには実行できないまでも、その真諦はライオン攻めにあっても、礫にされてもたじろがない底のものであるのです。原爆にも動じない底のものです。単なる好意とか、優しさを超えているものであり、単なる無抵抗や妥協とも全く異質のものです。かくてまた、愛と尊厳は一体です。愛には大小はあっても、その質に変わりはなく、すなわち、神の愛に源流を発し、それと同じ水質のものであり、すなわちまた、人間の心は神の心の分身であると考えるわけです。
 愛はまた、全然報酬を求めないというわけではありません。世俗的打算とは無縁であっても、やはり、それによって自分というものが磨かれ、造られていき、かくしてまた、将来(死後を含めて)の何か本物の幸せに繋がっているということでなくては張り合いがありません。


 寺院や教会の中が特に聖域であるわけではありません。そこに愛の息吹がなければ酒場にも劣るのです。戒律を守ることも、ただ守るだけでは、積極的な意味はありません。学問にしても、それ自体は神聖で絶対でもありません。スポーツ精神にしたところで同じです。それらは、愛ということに関係していて初めて、愛の存在する世界においてのみ、真の意味価値が有り得ると断言できます。愛から離れては、一切は何の価値もありません、存在意義はないのです。
 ついでに、恋愛などは、多くの場合、多分に利己的なものを含んでおり、また、自分の愛人以外には無関心といった一方的なところもあり、そのままでは、ここで言っている愛というものとは些か異なっています。

 心が脳の所産なら、当然、宗教など無用です。高僧も呆けてはただの廃人に過ぎないということです。因みに、死後を考えない宗教があるとしたら、それは、結果的に、心を脳の所産とするのに等しく、すでに宗教とは言えません。単たる人生観か哲学に留まるものです。




 12.結び

 今まで述べてきましたように、心が第一義であることは明らかです。意識、心、精神活動というものから離れて、どこにも、何ものにも、この大自然自体にも、何の意味も価値もないのです。また、心というものなしに、人類の文明はあり得ないのです。しかし同時に、少なくともこの現世では、脳髄が、つまりは物質が、心の活殺を握っていることも確かな事実です。痴呆という現実は、狂気という事実は、何を歌っているのか、心は果たして脳の所産か、すなわちまた、物心(物質と心)は一元か、まことに、考えさせられるところです。
 確かに、心を脳の所産と考えることによって、人体の成長に伴う精神的成長、そして脳における神経活動(生理活動)と精神活動の表裏のような関係は、一見、まことに抵抗なく説明されるかの如くです。また、同じくして、原始生物から高等動物へと、脳構造の出現と発達に伴って、意識活動が並行して現われて来ることも素直に理解できるのです。(高等動物に意識があると考えて)。犬や猿にも不滅の霊魂があるのだろうか、などと悩む必要もなくなるのです。ただ1つ、人間の自由意志の存在に関しては、いかんとも説明ができないのです。ついに、その存在を否定しなくてはならないのです。そして、自由意志というものを欠いては、心はその存在意義を失ってしまうのです。人生は、ただ無意味ということです。
 精神活動が脳の所産であるということは、人間世界の全ては、脳の生理活動という純粋な自然現象の一環であり、物質の自演であるということになります。人生を積極的に肯定するためには、どうしても、物質に先行する自主的な心の存在を認めなければならないのです。我々の1人1人は、狂人も含めて、脳髄を超えて、自由意志を持った自主的な霊魂であると考えなければならないのです。かくしてついに、この現世の肉体から解放されての、死後の世界の存在と、そして神の存在を考えないわけにはいかなかったのです。
 
 さてここで、我々人間に真の自由意志を持った心が本当にあるのなら、それは一体いつどこから生まれてきたのかという問題です。はなはだ独断的かつ飛躍的ですが、私はそれは神(人格神)によって、胎児の時期、あるいはおそらくは出生以後、乳幼児の時期に与えられると考える他ないように思うのです。そしてその時が、考えるということの始まり、すなわちまた、人格の誕生する時期でもあるように思うのです。かくして、自由意志を認めることは有神論に通ずると思うのです。
 心を脳の所産と考えるなら、こうした飛躍は確かに緩和されるように思われます。赤ん坊の時の白紙状態の脳の中に((既述13章)のように、ニューロンの数はすでに成人と同じ約140億個になっています。経験とか学習とかによって次第に回路や脈絡化が形成されていくことによって、そこに意識が現われ、さらに自分という意識が形造られてくると考える方が、確かに無理がないように思われます。しかし、こうなると、「故考えるが故に我在り」とは、どういうことになるのでしよう。そして、その「我」とは、一体何者なのでしょう。そして、どう考えても自由意志の存在を考えることはできません。これは余談ですが、そして想像ですが、私は、動物における自由意志の存在を疑問に思うのです。
 さて、霊魂不滅と愛の神の存在を、繰り返し自分に言い聞かせてはきても、ついに消え去らないのは疑いの心です。しかし、人間の知り得るところは、知り得ないところに比べて、永久にまったくの僅かでしかないことは自明であり、第一に、何度も繰り返すことですが、我々を含めて一切はすでに在らされて在るのです。一切存在の奥行は知ることを許されないのです。すなわち、人間には不可知という破ることのできない壁があります。そしてこれを裏返せば、そこには「可能性」が存在しているということです。願望とか信仰ということが、全然馬鹿げているとは言えないということです。人間は現世だけでお終いであると割り切ることは、好むと好まざるとを問わず、できないことです。そして、考えてみれば、我々はすでにどこかで何かを信じて生きて行っているのです。例えば、私たち日頃、友に心のあることを信じて少し疑っていないようにです。


 余生とか、老後とかいう言葉には、すでに未来がありません。いわゆる余生とは、結局は肉体が人間の全てであり、人は死ねば灰になって終わること以上を意味するものではありません。来世などと口では唱えていても、ほとんどの場合、所詮それは口だけの気休めでしかないように思われるのです。たった1度しかない人生をできるだけ楽しくということも、よく耳にするところです。しかし、これも同じく、やがては滅びていく肉体だけに足場を置いた人生観です。まことに寂しいという他はないのです。
 
 悠々自適などという言葉も、すでに感激はありせん。しかし考えてみれば、今を盛りと社会活動している(と思っている)人たちにして、そのほとんどは初めから中身はすでに空な人生送りに身をやつしているというのが実情です。死が人間という高等動物の単なる終末なら、再び、呆けた老人はすでに廃人であり、不治の精神異常者は実質、人間の屑と言うしかないのです。人間は、知能は抜群でも所詮は生物に過ぎないという考えです。
私はそうではなく、人間はこの世で生を終わる瞬間まで奮闘して甲斐のあるもの、そしてまったく老衰してしまっても、呆けてしまっても、そしてまた、生まれた時にすでに狂っていてさえも、それは、永生ということから考えれば、まったくの一時の病気の様なものであって(時にこの世での長い忍耐と戦いが必要でも)、依然、甲斐のあるものだと考えるわけです。繰り返しますが、狂人でさえも(というより当然)、仮に現世で叶わなくても、死後、霊魂はその肉体から離れて、必ずや再びまともな精神活動に復帰するといった世界でなくてはなりません。しかも、この現世で狂人であったという事実が、必ずや自他共の何らかのために、甲斐になっているということでなくてはなりません。
 
 神の摂理下、世の中に本当の無駄や不合理はない筈と考えるからです。もし、事実この様でないのなら、愛の神も何もあったものではありません、今まで述べてきたことも全てまったく空論に過ぎないということになります。徹底してこのとおりでないのなら、宗教などというものは、結局は人間が自分達の御都合主義の気休めのために造ったものということでしかなくなります。
 老化に打ち勝とうとする姿勢、頑張りも大いに結構です。しかしそれより、老化を超越したものを求めることこそが第一義です。それは、永生を控えての、この世での最後まで止まない自分の人間造りです、人格の前進です。省みて、人間は誰しも、聖人といえどもその人格はまだまだ若く、というより、人格は永遠に成長し、形成されていくものだと思うのです。霊魂に老化はないと考えたのでした。そして肉体の老化ということ自体がまた、自分の霊魂のこうした前進のためにあるものでなければならないように考えるのです。死もまたそのためのものと思います。すなわち、老化も死も、そして狂気も、神が我々人間自他共の霊魂の進歩のために、特に備えたものに違いないような気がするのです。人間、体の老化だけを嘆いている場合ではないのです。ついでに、これまで自分に仕えてきてくれた体に不平ばかり言っては気の毒です。こうは言っても、再び、人間、肉体の衰えとともについに襲い来る寂しさに打ち勝つことは甚だ困難です。しかし、再び、人間は皆1人1人、目には見えなくても神としっかり繋がっていて、所詮は心配ないように思うのです。また、人間、一寸先は闇です。若くて屈強な人でも、いつどうなってしまうか分からないのです。しかし、こうしたことも全て含めて、心配はないということです。
 我々の肉体が、その一刻一刻の命を、普段まったく意識していない空気の存在によって支えられているそのこと遥か以上に、我々は、万物は、その一刻一刻の存立を、神によって支えられているということを、神あって我々あることを、改めて悟るべきと思います。

 「諦め」ではない「悟り」ということがあるものなら、それは結局、「信仰」ということであるように思うのです。そして信仰は、手を合わせて拝むのでなく、瞑想によってでもなく、英知と実践行動とともに築かれていくものだと思います。愛は奇跡を産むと言いますが、奇跡ではなく信仰を産むのではないでしょうか。そして、結局は利己に帰着する人生態度に、信仰の入り込む余地はないのです。
 どんなに呆けても、愛の心を手放してはならないと思います。指1本の動きにも、まなざし1つにも、愛は示せます、愛の実践行動は可能です。発想と行動の原点を、愛すなわち神に置くか、利己に置くか、です。すなわち、生命に繋がるか、虚無に繋がるか、です。


 心は第一義の存在であり、愛はそのまた第一義を成すものと考えたのでありました。そして、隣人があって初めて愛は成立するのであり、我々はこの隣人という窓(接触面)を通してのみ、すなわちまた、愛の活動する場においてのみ、神と現実に触れることができるように、あるいは触れているようにも思われるのです。そして我々は現に、この隣人という心の、すなわち生命の窓を通してのみ、生命の日光に浴し、生命の空気を吸うことができているのです。

 人間、生まれる時も死ぬ時もたった1人というのは、当たっていないのではないでしょうか。我々が生まれて初めて気が付いた時は、すでに母の腕の中にあったのです。そして死んでいく時も、人々の中にあって死んでいくのであり、そしてこれは想像ですが、心が肉体から離れると同時に、すでに自分は天国で友の中に置かれている(あるいは、それ待ち)といった按配ではないかと思うのです。

一切は心のためにある ー「天網恢恢疎にして漏らさず」

 6.心は第一義の存在・一切は心のためにある・心は存在の場

 心あっての物種

 人間、意識がなくては、心がなくては、始まりません。どんな学者や宗教家がどんな理屈を付けたところで、永久に眠った状態では、一切始まらないことは明らかです。植物人間を見ればわかります。意味や価値は、意識ある心においてこそ、意識ある心においてのみ、あるものです(例えば睡眠なども大切であるといっても、それは結局、精神活動のためのものです)。例えば人類の絶減し去った世界に、つまり心のない世界に、どのような宝があったところで、それは瓦礫と異なるところはありません。人形には、どんなご馳走もわからないのです。我々は、気の狂ってしまった人を見るとき、そして植物人間を見るとき、心が第一義の存在であることを痛感せざるを得ないのです。物質自体だけでは、意味も価値もないのです。すなわち、生と死の問題です(4章。物質は死とは違います。死はあくまで心の消滅です)。
 そして、よしんば心が脳の所産であったとしても尚且つ、一切はその心あっての物種です。ただし、この場合、すでに述べましたように、その心に自由意志は考えられません。



 一切は心のために存在している
 
さて、我々はよく、人間は一体何のために生きているのだろう、などと言いますが、突き詰めて考えていくと、これは難問です。考えてみれば、すでに在らされてある(一切他力によってある)我々にとって、我々自分自身の究極的な目的といったようなものを考えることはできないのではないでしょうか。それよりも我々人間、そして宇宙一切は(我々人間から見れば無尽の驚きと秘密を蔵したまま)、ただこうあるだけのことなのか、それとも、この世界には何か目的というものが存在しているのか、という問題です。そして、この目的の存在は、すなわち神という心の存在に繋がるものです。
 そこで、およそ「何かのため」という時、それは所詮「心のため」である以外にはありません。これは、意味価値は全て心においてのみあり得るということから当然なことです。
 無心の物質が、無心の物質のために存在しているということは考えられません。無心の物質にとって、ためとか、目的とか、意味とか、価値とかいうことは関係のないことです。また、心が物質のために存在しているなどということも、当然考えられるものではありません。
 
 また、例えば、意識とか心はそれが生物に付与されることで、固体の維持や、ひいては進化が具合よく行われるために生じて来たものだなどというふうにも考えられません。動物に意識や心が発現してきたことによって、遂に人類への進化があり得たのであっても、だからといって、心が進化ということ自体のために生じてきたものだなどとは考えられません。進化自体は、生体という機械の辿ってきた物質現象に過ぎないからです。進化が心のためのものであっても、心が進化のためのものであるという言い方はできません。
 再び、一切の物事は物心ともに、結局はただこのようにあるだけのことなのか、それとも、そこには何か目的が存在しているのかということです。私は、一切は神と人間の「心」のために、神によって創られてあるように思うのです。
 そして、心こそ心のためにあるもの、すなわち、後(10章)でも述べますように心と心の触れあい、ぶつかり合いは、心の存在意義そのものであると思うのです。

 因みに、この世に我々人間の自主的、自覚的な心が現に存在していることは、神という心もまた、存在していておかしくはないことを示すものでもあると思います。





 心は存在の場である

 前に述べましたように、人類の死に絶えた世界に、どんな宝があろうとも、それにはもはや何の意味価値もないのです。心は、意味価値の「存在の場」です。また、すでに述べましたように、我々は、全てのものはこの宇宙の中に存在していると考えているわけですが、その宇宙自体、すでに我々の心によって見られ、考えられているのです、つまり、心の中にあるのです。そして人間はさらに、より深く研究して、より解明された宇宙の姿(物理的宇宙像)というものを考え上げていきます。つまり、宇宙は、よりはっきりした姿で人間の心の中に存在していくということです。宇宙は、人間の心の中で意味を持つのです。しかし、人間の心だけでは、この宇宙一切が完全な意味を持ち得ること(つまりまた、完全に理解されること)は不可能です。神の心(創造者の心)がなくては、所詮一切は闇に包まれたままです。我々が考えようと考えまいと、我々の心と無関係に存在していると考えられる字宙というものそれ自体は、実は、神の心の中に、完全に理解された、すなわち、完全な形として存在しており、そして我々人間それぞれの有限な心の中に、それぞれ完全ではない形として、言うなら半存在 (不完全存在と言う方がよいかも)していると考えるのです。
 
 飛躍的に聞こえるかもしれませんが、全宇宙一切は、もちろん人間の心も含めて、何か大きい意識、心、すなわち、神という絶対である心の中で創造され、現にその心の中に存在し、活動し(得)ているとしか考えられないように思うのです。一切は心の中において初めて意味を持ち得る、という以前に、およそ心というものが、根源的に、一切どこにも存在しない(簡単に言えば、神も人間もいないということ)時には、物質も、したがって宇宙も、一切は存在し得ないのではないでしょうか。つまりまた、宇宙開闢があったということは、神(心的存在)はすでに存在していた、ということになります。字宙一切は、神の心の中においてのみ、完全に存在し(すなわちまた完全に理解され)得ていると思うのです。

 心は、言うなら、空間や時間よりも次元の高い存在の場です。そして、神という絶対の心(自分が何者であるか分かっている。その心自体が、その心の完全な存在の場になっている)が、物心一切の完全な存在の場であると考えるのです。根っから全く意味のないというものは、存在していないのではないでしょうか、存在し得ないのではないでしょうか。存在するということ、意味を持つということ、(心によって)意識され、考えられるということ、これらは切り離して考えることのできたい、一体の関係にある事柄です。


 ここで、因みにに付記しますが、本書で私が述べていることは、古典哲学の主な学説のいくつかと、少なからず通じているところがあると考えます。それぞれの説は、それを述べている本人の哲学者以外、身に体して会得するということはなかなか難しい場合が多いとは思いますが、また1人1人の哲学者自身についてみても、その生涯の間には、考えの修正されたり、変わったりすることも珍しくはありませんが、兎に角ごく大まかに見て、それら哲学説の主なものと私の述べていることを、ここで若干照らし合わせてみたいと思います。
 
 私の述べていることは、まず、デカルト(フランスの数学・哲学者。近世哲学の父とも言われる。1596一1650)のいわゆる物心二元論と共通したものを含んでいると思うのです。さらに、デカルトは神は存在すると考えており、熱心なキリスト教徒でありましたから、この意味においては、究極的には一元論的ではなかったかとも思うのです(神は万物の創造主であるから)。デカルトが神の存在ということから、一切を一元的に見ていたのなら、私の考えもまた同じです。また、ウパニシャッドという古代インドの宗教・哲学書(ヒンドゥー教の経典)を通じている思想は、宇宙、人間、一切を支配する究極原理なるものを考えており(この究極原理はそれ自体、人間個人の自我とついに一致していると説かれ、したがってこの究極原理は人格神的性格のものと考えられます)、この意味で、この思想は前述の神という心が万物を在らしめているという考えと似て一元的であると言えましょう。
 
 なお、一元的と言っても汎神論の如きは、今言っているものとは趣を異にしているものです。汎神論の代表例はスピノザ(オランダの哲学者、1632一77)のそれで、神即自然とする一元論です。私のは一切が、神の心の中で、(創造されるなりして)存在し、活動しているという方の考え方です。しかし、一元か二元かなどということは、それによって我々の人生への姿勢が変えられるような、差し迫った問題ではないように思います。神(人格神)、があるかないか、霊魂は不滅かどうか、といったことが切実な問題です。

 また、私の、心あっての物種などというあたり、そしてまた神の心が存在の絶対の場であるなどというあたり、バークリー(アイルランドの牧師にして哲学者。主観的観念論の代表者。1685一1753)の観念論に極めて共通するところがあると考えています。因みに、バークリーの観念論はそう簡単に評し去られるようなものではなく、その言う「存在即知覚」ということも、その言葉だけからの単純なものではないと思うのです。
 また、私の考えは、後(9章)に述べますように、カントが道徳の根拠として、自由、霊魂の不減、神の存在を考えたことと共通したものを持っていると思うのです。なお、カントの、認識に関する考え方(例えば物自体といった考え)や、前述のバークリーの考え方などと照らして、私の考え方はこれらの哲学と同系色であるので、言うなら観念論的であるということはできると思います(物自体とは、カントの考えであり、我々の感じる、物の感覚や、測定の元となっている、そのものの本体ということで、つまり経験を超越した対象。こうした本体の考えはすでにプラトンに始まります)。
 ただ、唯物論は、一貫して無神論であり、近代唯物論の主流である弁証法唯物論では、精神現象を脳の所産と考えているので、私の考え方とは、根本を異にしています(「弁証法唯物論マルクスエンゲルスによって立てられた哲学説)。なお、近代哲学における弁証法とか、弁証法唯物論といったものは、残念ながら、そしてお恥ずかしいながら、私には難解です。




 7 心(霊魂)は不滅か

 死後が虚無なら悟りを開いて何になる
 
 どのような悟りを開いた高僧も、いかなる価値を掴んだ賢哲も、死後がなければ、小判を握りしめたまま死んでいく俗物と何ら異なるところはありません。人間死んで灰だけになってしまうものなら、聖人の一生の行いも、悪人のそれも、その本人自身にとっては前途一切無効ということであります。死んで報われることもなければ、罰せられることもないというわけです。難行苦行して悟って死んで果てるのと、俗人として気儘に楽しい人生を過ごして終わるのと、一体どのような価値の差があるでしょう。生涯を人のために捧げた聖人と、幸せな俗人と、いずれがより楽しい一生を送り、より満足して死んでいったと言えるでしょう。死んで灰だけになってしまうそれぞれの人にとって、その幸せとか満足に、本物とか贋とか、質の差などあり得ましようか。問題は、それらの人々が、周囲の人々に、そして後の世代へ及ぼす益あるいは害ということだけです。死んでしまえば、本人は虚無であるだけということです。死後がなければ、本人の幸不幸は、要はその本人の考え1つで決まることです。




 死後のない人生に善悪の根拠は結局ない

 死後がなければ、この人生には、拠って考える絶対の根拠というものはありません。出来得る限りにおいて、自分の気の済むように生きていくということに尽きます。狡くて呑気な人間が勝ちかもしれないのです。良心的な行動をしなければ気が済まないというなら、そうすればよい迄のことです。ただしかし、どちらにしても不公平や不正が清算されないままに、そのままに終わってしまい得る世の中ということです。心が脳の所産であろうとなかろうと同じことです。
 道徳などということは、ついには意味をなし得ない世の中です。人間としてこうしなければならない等ということは、まったく考えられなくなってしまうのです。多くの人々の安全快適な生存のため、すなわちまた社会の単なる秩序のためという、まったくただそれだけの根拠から法律という名のルールが作られているに過ぎないということになってしまいます。


 
絶対などということ
 
 死後が虚無であって、友のために命を捨てたからといって、そのことによって、自分に不滅の何かを得て救われるものでしようか。人に幸せを与える喜びも、自分の善行や業績、名声などが後世にまで残るということも、また自分の分身である子孫が存続していくということも、死後がなければ、いずれも自分が絶対をつかむことには繋がりません。死ぬ間際の思いだげで、浮かぶ浮かばれないが決まるという根拠も保証も、どこにもありません。大往生と言われて死んでいっても、七転八倒して苦しんで死んでいっても(苦しむこと自体が厭なこと、そして他から見て気の毒だ、ということだけで)、全てはそれでおしまいということ、成仏するもしないもないのです。中には死ぬ間際に、これで満足だ、もはや思い残すことはないなどと言っている人がいても、そこにはすでに「諦め」があることは自明です。
 考えてみれば、お墓参りをすることも、人間死んで灰だけになってしまうというなら、正直、今生きている自分自身の気持ちの済むためにやっているということです。死んだ人の魂など、最早どこにもありはしないということなのですから。あるいはまた、世に言う、愛するということ自体が絶対であるとか、芸術の極致は絶対であるとか、意味はよく掴めませんが、それで死という不可避の現実を超越できるものでしょうか。今だに、生きながらにして絶対を掴んだ人はいないと思います。死後がなければ、釈迦とて、自身はすでに骨だけであります。



 
 真の救いは霊魂が不滅でなくてはあり得ない

 諦めではない本当の救いは、少なくとも、自分の心が不滅でない限り得られるものではありません。人間この現世だけで終わりなら、そこには、悟りというより、諦めが、観念が、覚悟があるだけです。実際に死後がないものなら、いかに宗教だ、信仰だなどと言ったところで、それは藁をつかむと同じことです。気休めに過ぎません。唯物論者が宗教を麻薬と呼ぶのはまことに当を得ています。
 どんな理屈をつけたところで、霊魂が不滅でない限り、一生修業し、何年瞑想し、いかなる古今の碩学高僧に学び、何を信心したところで、救われるはずはないのです。高僧自身救われるはずもないのです。せいぜい、穏やかな諦めの中に、良いことをしたという満足、安心の中に、あるいは、ありもしない死後を信じながら、あだの喜びのうちに消えていくということです。救いとはそれだけのものなのでしょうか。
 
 これでは、人生は、大自然という神秘の中での、一時の、現実という夢幻でしかありません。あるいは、人間、心身ともにこの現世だけで終わろうとも、なおかつ、この現世に生きている間に悟り得、絶対をつかみ得、すなわち救われ得るものであるというなら、俗物である大部分の人間は救われないまま灰になっていくより致し方ないということです。高僧とか、聖者とか、この現世で悟った人間だけが救われるというのではなく、万人が、1人残らず救われ得るのでなくては本当ではありません。このためには、我々1人1人の心、すなわち、それぞれ自分というこの意識あるこの考える心(霊魂)は、まず第一に不滅でなければなりません。
 救いは諦めにはありません。諦めにはすでに将来はありません。救いは、理想を追及して止まないところにあります。そして、当初(1章)に言いましたように、絶対をつかむには永遠という時間が必要です。
 そして、神は、人間を神自身のためにだけ造ったのではないと考えるのです。もちろん、慰みものに造ったのでもないと思います。神は愛の神であり、真面目になり得るものである我々人間を騙すことはないと思うのです。

 しかし、兎に角、神がいるか、いないか、そして、心が不滅でなければ始まらないと、いかに力んだところで、実際に心が肉体の死とともに消えてしまうものなら、いきりたったところで無駄です。それこそ諦めるほかないのです。しかし、霊魂が不滅か否かは不可知です。死者に口なしです。つまり、人によってそれぞれでしょうが、結局、不滅であってほしいかどうか、信じるか否かの問題です。不可知ということは不滅の可能性が半分はあるということです。信じたり望んだりすることがまったく馬鹿げているとは言いきれないということです。
 わが国の少なからざる科学者は、霊魂などというものは、人間の、死んで無になってしまいたくないという強い願望が生んだ虚像であると考えている如くです。しかし、精神現象と脳の表裏一体の繋がり関係は、あくまで人間が生きている時点、すなわち脳に神経・生理活動という物理・化学反応が行われている状態でのことです。完全な脳死後、すなわちまったく異なった条件下で、物質ではない心が存続するか否かは、厳密に言って不可知です。




 それぞれの個人から遊離して、社会も歴史もない

 さらにまた、故人は歴史の中に、そして現在の我々の心の中に生きているといったような言い回しに、文学的な意味はあっても、それでこの自分自身も同じように永久に失せたいとして満足し、救われるものではありません。歴史的に流れていく社会に、意味価値、生命があるなどと言ったところで、それで救われるものでもなく、死んですでに心のないとする人間に関係はありません。我々は、現在はもちろん、歴史という流れの中で、社会の恩恵に浴してはいても、そしてその意味で社会に価値はあっても、個人から遊離して、社会に浮いた価値とか生命などを考えることはできません。歴史も、それぞれの人の心の中でのみ、その価値を発効し得るのです。



 
 霊魂は永遠にに成長進歩するものでなくては意味がない

 人間、呆けたり、痴呆状態、あるいはいわゆる精神異常を来たすと、まるで人が変わってしまったように見えますが、心を脳の所産と考えるなら、それは、人(心とか人格)ではなく、脳髄が変わってしまった(劣化や異常を来たす)という、ただそれだけのことでしかないわけです。脳格即人格ということです。しかし、これまでにも触れてきましたように、また以下にも考えていきますように、私は、人間の本尊は霊魂であると思うのであり、肉体の脳が老化しても、故障しても、その人の自由意志を持った本来の心(霊魂)は、その脳髄を超えて健在していると考えるのです。ただ現世では、精神活動は、脳髄をはじめ物質に拠ってのみ可能な仕組になっているので、脳髄、つまりコンピューターの老化や故障が、あたかも心のそれの如くに見えるだけのことと考えるのです。老化とか精神異常など、あくまで肉体上の問題であり、死後は、肉体を脱却した霊魂は、再びその本然の活動を開始、成長、進歩していくものと考えるのです。
 
 万人が救われるということのためには、このような徹底した考え方が必要です。さもなくば、霊魂不滅などという考えは不得要領なものと言わざるを得ません。霊魂に老化があっては、死後の永世も意味をなしません。私は、こうした積極的な意味での霊魂の不滅の可能性がゼロではないということを指摘したいのです。
 因みに、死後、霊魂がどんな形態によって(例えば第2の肉体によってなど)活動するかなどということは、せいぜい想像あるのみです。要するに、霊魂の新生および不滅は神によって摂理され、保証されていると考えるわけです(次章に述べる我々の持つ記憶の永久保証について考えるのと同様です)。

 かつて、私の親類筋の若い人妻が亡くなった折のこと、お経が終わって休みの間合に、私はその時のお坊さん(禅宗)に聞いてみたことがありました、「人間は死んで何もなくなってしまうのでしょうか。」大人げない私の質問に、お坊さんはまことに穏やかた笑みをたたえながら答えてくれました、「我々の心の中に生きています。」期待していた訳ではなかったのですが、、やけり月並の答えしか返って来ませんでした。このようた按配に、私は実はこれまで幾たびか、坊さん、牧師、神父様などに、直にこの単細胞的質問を行ってみました。しかし、この、幼稚というより、実は最も切実な人間の関心事に対して、答えになっている答えはついに得られませんでした。中には力のこもった声で私の不信を詰り出す牧師さんもいまして。
 ただ、最近、キリスト教(新教)のある老牧師は、私の、死後があるかないかの質問に対し、真面目にこう答えてくれました、「一か八かです」。感激でした。真実の吐露、誠意には命があります。心の通った感じでした。
 なお、因みに、カソリックでは概して、聖書の記載ならびに教会の伝承を、奇跡を含めて、悉くそのままの形で事実真実と考えているように受け取られました。これに対し、新教ではまちまちの観です。





 8 一切は宇宙に永久記録される・記憶の保持

 宇宙への永久記録

 この宇宙で起こることは、悉くこの宇宙に正確に記録されて消えることがないということを考えてみたいと思います。例えば、池に小石を投げると波紋ができますが、それは間もナく収まって、池は再び元の静けさに戻り、後には何も残らないかのように思われがちです。渚の砂に書いた文字も、一波二波洗われれば跡形もなく消え去ってしまいます。大きい傷跡は残るが、小さいそれは消えてなくなるというのが一般常識です。しかし、これは正確ではありません。微視的に考えると、つまりまた厳密には、例えば池に投げた小石の波紋は、一見消えてしまったように見えても、何らかのエネルギーとか形になって次々に伝わって行ったして、とにかくその効果が消えてなくなってしまうということは絶対にあり得ないと考えられます。つまりその効果は、したがってまた池に小石を投げたという事実は、この物質世界(広くは宇宙)に永久に記録されて(静的にも動的にも何らかの形となって残留して)消えることがないと考えられるのです。効果が広範囲に広がって行って、したがってまた、一見、いかに微弱に、また微視的なものになっていっても、消えてなくなるということは絶対にありません。そして、いかに微弱であろうとも、それが存在するということと、存在しないということでは、まったく事清が違うということを明確に知るべきです。例えば、我々人類や、この地球にしても、全宇宙に比べれば、それは、眼にも止まらないような一点でしかありません。しかし、人間の存在は、大きな事実であるとしなければなりません。
 
 あらゆる現象は、我々の一切の行為、思いも含めて、この宇宙(物質界)という、言うなら動的ディスクに永久に記録されて消えることがたい筈です。我々の心の善き思い、悪しき思いも記録されるということです。人間がものを考える時、思う時は、必ず脳組織内の物質変化がそれに対応して起こっているからです。こうした自然記録(宇宙記録)は、どのような大変化が宇宙に起ころうとも、自然法則が変わらない限り消えることはないように思います。
 例えば考古学におげる遺跡、生物学における化石、あるいは宇宙進化論の拠って立つ現在宇宙の物理的状態の如きは、自然におけるその無尽蔵の記録の中の、氷山の一角にも及ばない徴々たるものであると同時に、人間にとっては最も解読しやすい部類のものでしょう。そして例えば、我々人間の行為、行動、思考(に対応して起こった脳内反応)といった、しかも時代を経たようた、我々人間にとっては到底手の付けようもない、まったく解読不可能な、希薄化された、微視的かつ広汎な自然記録でも、もし全能の神が存在しているものなら、神は簡単明快に読みとってしまうと思うのです。
 神がいるとして、神は実際にこのような自然記録を利用しているのか、あるいは、直接、神自身の心に一切を記憶しているのかといったようなことは兎に角、少なくともこうした完全な自然総記録の存在するということは、神の全知とか、甲斐のある人生とかいった考えに、1つの拠りどころを与えるものです。
 まことに、老子は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と言いました。神がいるなら、神は何もかも知っているに違いありません。完全犯罪は有り得ない、というより、神にとっては歴々たることなのです。そして、一件でも完全犯罪の成り立つ世の中を、甲斐のある真面目なものと考えることはできません。




 記憶をおいて人生は成り立たない・記憶の保持

 意識がまったく存在しないところに、一切は始まらないこと、人生の成り立たないことはすでに述べたとおりです。しかし、いかに意識があっても、また自由意志があったところで、記憶ということがなければ、やはり人生は意味を成しません。このことは、記憶を失った人、例えば、親兄弟の顔も忘れてしまった、いわゆる恍惚の人を見れば分かることです。念のため、今言っている問題は、呆けた人でも、その近しい人にとっては掛け替えのない存在であり、ただ生きてさえいてくれればよい、といったようなこととはもちろん別間題です。
 記憶がなければ、精神活動は有り得ません、足場のない所に立てないのと同じです。嘘も正直もなく、正義とか真面目さとかということなど、もとより成り立ちません。甲斐もなければ、創作もなく、例えば感覚と衝動の世界があるだけといった具合ではないでしょうか。歴史は成り立ちません。自由意志という問題以前に、人格は成り立ちません、人生は意味をなさないのです。
 精神活動こそは我々の存在意義であり、真の意味での生命です。まことに、「我考える故に我在り」です。そして記憶は精神活動をあらしめるものです。肉体(脳)が死んで、一切の記憶が消滅し、あるいはさらに、記憶することもできなくなってしまうものなら、よしんば、死後、霊魂が存続したところで、それは永久記憶喪失、加えるに完全な呆け以上に出るものではありません。

 1人1人の人間にとって、人生が、この現世だけに終わる仮そめのものではなく、何か絶対の意義を持っていて、根底から真面目に考えられるものであるためには、死後における自意識のある心の存続ということと同時に、少なくとも必要な記憶の存続ということが不可欠であるように思います。どんな人にとっても、その人生が諦めに終わらないためには、前(7章)に述べましたように、死後、肉体から脱却した霊魂は、それが生前、呆け老人のものであったろうと精神異常者のものであったろうと、全ての人それぞれにおいて、記憶の保持、復帰をも含めて、再びまともな精神活動が有り得るということでなくては意味がありません。
 ところで、霊魂の不滅とか、まして死後における記憶の存続など、いかれた人間の戯言と、相手にされないかもしれません、そうまでして生きていたいのかと言われるかもしれません。しかしながら、死後について我々の知り得ることは、せいぜい、死体の解剖によって得られる、肉体(脳を含めて)についての科学的情報だけであります。死後における人間の心(霊魂)の存続や活動、したがってまた記憶の存続また復帰を否定する論拠は、まったくどこにも存在していないのです。否定できるのは、精神活動が脳の所産と証明された場合に限ります。そして同時に、肯定する論拠もありません。要するに、どちらを採るかは、それぞれその人自身の考え、人生観による他ないということです。そして、人間の死後が、生命と活動に繋がっているか、あるいはまったくの虚無か、真実は、すでに、どちらかの1つに決まっていることです。
 精神活動が脳の所産であるなら、脳が灰になるとともに一切の記憶も精神活動もろとも消滅してしまうことは自明です。また、記憶が専ら脳における分子メモのようなものであって、これは脳とは別個の心が読みとっていると考えた場合も、その心が肉体の死後も存続したところで、記憶はやはり肉体の死とともに崩れ去ってしまうわげです。忘れっぽい人間が大切な手帳をなくしてしまった格好です。あるいはまた、記憶は脳だけに記録保存されるのではなく、脳とは別個に心(霊魂)にも同時に、潜在的になり記録されているということであれば、霊魂が不滅の場合、記憶は肉体の死後も、兎に角保持され得ることになります。
 
 しかし、こうしたことは、霊魂の滅不滅と同様、不可知の問題です。ただここで、先ほど述べました一切合切の物事の永久自然記録ということが、事実であるとして、ここにもし神の存在ということを合わせ考えますと、この自然記録は、我々各自の記憶の永久保持ということに繋がり得る、1つの実在する足場で有り得るということであります。つまり、神の力(摂理)を介することによって、すなわち、神が自然記録の中から我々それぞれの記憶を読み取ることで、我々それぞれに、記憶を永久保証するということ、必要に応じ、いつでもその記憶を我々に与え得るということです。そして、歴史は消えることがないのです。
 勿論、神は全能であるからには自らの心に一切を収め、記憶なり記録なりしているとも考えられます。そしてこのことも、勿論、人間1人1人の持つ記憶の神による保証ということに繋がります。
 なお、自然記録が神によって実際に利用されるされないは別として、神による我々の記憶の、兎に角保証(次章に述べる摂理ということでもあります)ということは、つまりまた、記憶が我々霊魂にも、潜在的になりと、保持されるということと同じと考えてよいと思います。



 
 過去は単に過ぎ去ってはいない

 過去は、常に現在である自分という心を、意義あらしめるために不可欠な存在です。記録と記億がないところに、すなわちまた、過去のない世界、過去の築かれていかない人生に、再び、意味は成り立ちません。過去は単に過ぎ去ってはいないのです。過去は、現在の自分をかく在らしめ、そしてなお、常に現在である自分の中に生きて働いているもの、そして人生の構築を形造る不可欠の要素です。過去は現在ではありませんが、しかし、事実、悉く現在においてある過去です。現在が続く限り、過去も現在の中に生きて亡びません。過去と現在に価値の差はありません。過去が、過ぎ去った半分夢のようなものであるなら、すでに現在も同類ということ、次々に過ぎ去っていく儚い幻影以上のものではありません。

 想い出は、単に想い出に終わるというものではなく、常に我々の生活の中に働いている、潰えることのない、現に生きている宝石です。そして、歴史は現在に生きているということです。人生は、喩えるなら、自ら自らを彫刻しているようなものです。常に現在、新しく彫っているのであり、過去から彫られてきたところは現在に生きているのです。そして、再び、彫刻は、果たして脳髄(また肉体)にだけされているのでしょうか。人生が単なる夢幻ではなく、そこに、諦めに終わることのない意味の存在を考えようというなら、ここに再び、我々の霊魂は不滅でなければならなく、霊魂の不滅は記録と記憶の不滅を前提として初めて意味が有り得ます。

心は脳髄の所産か?

 自由意志の働き得る世界
 
 自由意志が働き得るためには、すなわち精神活動があり得るためには、完全な秩序のある世界が必須であります。法則のない、言わばでたらめの世界において、ものを築いたり、目的を持って行動したりすることは明らかに不可能です。物質界、精神界いずれにしても、無秩序なところで、自由意志は働くことができません。例えば、自然法則に欠損があっては、第一、脳髄の正常な活動はあり得ないのです。
 そして、自由のないところに、意味というものは存在し得ません。人間に創作活動、建設的行動をあらしめ、そして、純粋に自主行動である愛というものを成立せしめるもの、かくしてこの人生に意味を生むものである自由意志は、自然法則あり、そして秩序ある世の中においてのみ、活動し得るのであります。
 しかし、自然法則と、人間杜会における秩序だけでは、自由意志は甲斐ある人生を産み出すことはできません。人間世界の秩序が、恢恢疎にして漏らさざる、神の掟の中においてあり、すなわち正義が永久に保証されている世界において初めて、自由意志は本当の意味を持ち得、甲斐ある人生は産み造られ得るのであります。そしてこの甲斐という意味において、再び、人間の霊魂も、同時に、不滅でなければならないと考えるのです。まことに、後章(6章)でも述べますが、この自然法則の世界、整然たる自然界の秩序はまた、心のためにこそ、自由意志の働き得るためにこそ、存在しているように考えられるのです。





 4.生命とは一体何か

 生命という言葉の意味・本当に生きているものは心

 すでに述べましたように、生物体の中には、何ら超自然法則的な力など働いてはいなく、生命現象(生物現象)は全てまったく物理・化学反応として説明されるであろうということになってきた今日、これまで生命という言葉が持っていた意味は宙に浮いてしまった感です。
 しかし、我々は生命ということを、必ずしも、この生物現象に考える生命という意味(例えば、種が生えてひとりでに成育していくといったようなところに考える何か不思議で神秘な生命という観念、つまり、生物に特有なものと考えられてきたいわゆる生命力の生命の意味)だけに取っていたわけではなく、生物についても、またそれ以外の場合にも、さらに立ち入った意味をも、この生命という言葉に考えてきているのです。それは、人間の場合を筆頭に多くの生物現象に随伴すると思われている、「心」ということであると思うのです。
 
 生物をまったくの機械であると考えても、我々は依然、そこに何かを感じないわけにはいかないのです。草花1つ見ても、小鳥の足が自分の指を握っても、それを高等な機械とだけ割り切ることはできないのです。これは、前述の、我々が生物に考えてきた何か神秘な生命という観念を捨て切れずにいるためというより、我々がすでにして、相手の動物や植物にも「心」があるのではないかと無意識下に考えていることが大きく影響しているように思うのです。神木などという言葉や、老木を伐った崇りだなどという考えもこれです。生命ということは、根源的に、心ということにも結び付いているように思うのです。動物や草木に、意識や心があるかないかなどということは兎も角として、我々自分が生きているということの真諦は、自分の手足が動くことではなく、その手足が動くと感じ意識する、そのことです。心こそ、真の意味で生きているものです。
 全身麻酔をされている時、自分の心臓は動いていても、自分は一切何も分かりません。体が生物現象しているだけ、脳を含めて身体という機械が物理・化学反応しているだけというしかないのです。麻酔が醒めて、意識が戻って初めて、「自分(心)」は生きているのです、そして自分の体が生理活動していることを知るのです(熟睡から醒めた場合も同じです)。
 また例えば、植物人間を「生げる屍」などと言いますが、これは、体は生物現象していても、魂(心)はすでにないという意味です。これを裏返せぼ、本当に生きているものは心であるということです。
 生物が機械であるということになってきても、生命とか、生きているという言葉が元々含んでいたこの「心」という意味合いは、当然、そのままです。この意味合いで、我々はまた、古来、広くこの言葉を使ってきているのです。感激も感動もなく、人の心を捉えるところのない言葉を、生命(いのち)のない言葉などと言いますが、これもつまり、「心」のないというのに同義です。この絵は生きているとか、いないとかいうのも同じです。



 精神活動こそ生命の姿

 「生き甲斐」を感じるのは心です。自分が死ぬということは、自分の体が死ぬことよりも、自分の心が消減するそのことです。本当の死とは、心の死のことです。体が生きているということは、少なくともこの現世では、心が存在し、活動し得るための、あくまで「必要条件」にすぎません。
 こうして、よしんば心が脳内反応の造映であろうと、心こそ、機械ではなく感じ考えるもの、真に生きているものです。脳髄自体はあくまで物質であり、そこでの反応も純粋な物質反応でしかありません。命あっての物種と言いますが、実は心あっての物種です。
 脳髄が無くても、仮にもし、心が有り得るものなら、意義というものは存在し得ます。しかし、脳髄があっても、仮にもし心がなければ、脳髄という物質組織自体には何の意味もないのです。
 精神活動こそ、生命の姿であり、面目です。心の躍動こそ、生命の躍動です。草木が育ち、花を咲かせ、実を結ぶ、鳥が歌い、獣が走り、子孫を殖やすといった自然界の営み(正確には機械的自然現象)を、単純に生命の躍動などということは、実は、文学にすぎないというわけです。生物現象を生命の躍動と呼ぶなら、天体の運行、星の輝きもまた同じく呼ばれてよい理です。もっとも、こうした自然現象の後ろに、神の御業(みわざ)といったようなことを考えて言っているのなら話は別です。真の生命というものと、心、つまりまた、意味意義ということは一体です。




 ただしここで、精神活動は、それが第一義のものであっても、少なくともこの現世では、肉体の脳から離れてはあり得ないという現実の事実です。これは精神活動が脳の所産なら当然のことなのですが、心が自由意志をもった自主的な実体であっても、少なくともこの現世では、脳髄は、心が「現われ」、「活動」し得るために不可欠の存在(前述の必要条件)です。
 しかし、こうではあってもなおかつ、心の第一義性ということにまったく変わりはありません。それどころか、後に述べますように(6章)、身体は精神活動(したがって心)のためにこそ存在しているものと考えるのです。
 しかし、脳髄が、心の(活動ではなく)存在し得るために必須なものであるかどうかは別問題です。心が脳の所産なら、脳は、心が存在、というより現象するために不可欠であるのは当然です。所詮、物質が心に先行するということです(無神論に繋がる考えです)。また、神という心が物質宇宙の創造主であって、人間の心が神の心と同質のものであると考えるたら、人間の心も物質に先行する存在、すたわちまた、脳髄とはおのずから別個の存在であると思うのです。
 ちなみに、生物学では、生物とか生物現象(いわゆる生命現象。増殖、遺伝を初めとし、新陳代謝や生長、その他を特徴とする専ら物質現象)は研究対象とされてはいても、生命(寿命ではなく)ということについては、元々特に考えられてはいなく、したがってまた定義付けされてもいないのです。




 5.脳髄の働きと心の働き

 心は脳髄の所産か

 我々の体は宇宙の中にあります。そしてその宇宙は、我々の、眼や脳によってではなく、「心」によって見られ、感じられ、考えられているわけです。我々は普段、何事も脳の中で感じられ、考えられていると、当たり前のことのように思っているかもしれませんが、これは大変な倒錯です。脳の中では、物理・化学反応が行われているだけであります。そして心は、脳の中にあるとか、外にあるとかいったものではないのです、また、物質や空間とも、それらの属性とも考えられないように思います。
 我々が、例えば、花を見るといった場合、花から来る光は、まず眼に入ってその網膜に映像を結び、そこに、その刺激に応じた反応が起こり、その信号が視神経を経て脳の中枢に達し、そこに、いまの場合に特有の物理・化学反応が引き起こされるわけです(神経が刺激を伝導する速度は、おおむね秒速数十メートルです。つまり刺激はほぼ瞬間的に届けられます)。問題は、この脳内反応が、心によって、その花のイメージに、翻訳感受されるということなのか(この場合、肉体の脳髄とは別個の、心という、物質系のものとはまったく様子を異にした、独立した存在を考えているわけです。大ざっぱに考えて、ここで脳髄は例えばテレビの受像機に喩えられると思います)、それとも、当初にも触れましたように、我々が精神現象(心)と呼んでいるものは、脳と別個の存在などではなく、その花に起因する脳内物理・化学反応の非物質的な造映(1章)とでもいったものが、すなわちその花という知覚であるというのか、つまり、精神現象は脳の所産であるのか、すなわち、脳髄という、すでに述べたような、無数の神経細胞(ニューロン)から成る複雑な構造(あくまで物質)の中で、特定の生理・神経活動が行われると、その活動が行われている間、結果として現われる何かの現象であるのか、ということです。




 心と物質
 
 前述のように、心(感覚なども含めて)は、それが脳の所産であろうとなかろうと、物質系のものとか、物質現象とは考えられないように思うのです。他人の心はもとより、自分の心でも、直接にも間接にも、観測とか測定は不可能です。脳波などを測定して、人の感じている感覚の強さとか、嘘を言っているかどうかなど、わかるように思われても、それは所詮、身体の状態、脳内で行われている物理・化学反応を測定していること以上に出るものではありません。後はまったくの推測です。後にも述べますように、相手に心があるだろうということ自体、すでに、相手の言語、表情、挙動などから察しての、実は独断というわけです。物質は、例えば電磁波にしても、眼には見えなくても、体に感じなくても、測定が可能であるわけです。


 そして心は、逆に、観測をする方の側のもの、すなわち、感じ、考える主体であり、主観であります。物質は見られ、測られ、考えられる一方のもの、すなわち客観でしかあり得ないものです。さらに、自由意志が実在するか否かの、いずれに判断するかによって、心が物質から由来しているものであり得るか否かは、おのずから結論されます。
 しかし同時に、心を脳とは別個の自主的な存在と考えた場合でも、少なくともこの現世では、精神活動は、脳髄を始めとし、物質なしには具現し得ないのです。そして後で述べますように、精神活動の主題である我々の心と心の間の交流は、もっぱら物質を媒介物として具現されているのです。物質は、心が現われ働き得るために不可欠の存在です。
 また、もし物質から、例えば脳のような構造から、主観であり、自由意志を持った心が生まれる(現われる)というなら、そこで考えられている物質は、すでに科学の立場を超えて定義され考えられているものでなければならないように思います。そして現在、科学で考えられている物質は、そして自然法則は、少なくとも自由意志とは無縁です。




 心を科学的に解明することは不可能
 
 分子生物学者や脳生理学者の中には、脳にあくなき科学のメスを入れていくことによって、将来いつかは、精神現象、そして心の由来を科学の立場から解明できる時代がやって来ると信じている人たちが少なくないようです。しかし、先ほども述べましたように、精神活動は、それ自体を測定することが不可能です。いかに科学が進歩し、脳の構造と機作が、どのように深く掘り下げられていっても、主観であり、物質現象ではない精神活動の正体由来を解明することはまったく不可能と思います。知り得ることは、人間がどのような気持ちでいる時、どのような考えをしている時、脳のどこの部位にはどのような反応が起こっている(またこの逆)、といったようなこと(つまり、対応関係)の、より精細な情報以上に出るものではありません。ただ、次節に述べる脳内における異常エネルギー現象の存否の間題があります。異常エネルギーが検知できたなら、それは自由意志が存在している1つの証拠になり得るというだけです。




 
 脳と心の繋がり
 
 そこで心の正体由来はとにかくとして、心が、肉体の脳とは一見表裏一体の如くあっても、仮にもし別個の自主的な存在であると考えるならば、それぞれの人間の心は、そのそれぞれの脳髄の中の物理・化学反応を操作し得るということでなくてはなりません。物質とはまるで様子の違う心が、脳とどうやって繋がり、これをエネルギー操作するのか、またどうやって脳内反応を翻訳感受するのか、その仕組は不可知の間題です。
 しかし、両者(脳と心)の、繋がり方の仕組ではなく、単に連係ということについては、例えば、デカルト松果体(脳の奥にある小さい構造)を心の座(心との連係の箇所という意味と思います)と考えていましたし(但しこれは誤りと思われています)、また近代では、ワイルダー・ベンフィールド(アメリカ生まれの近代脳医学の大家。1891一1976)が、心を脳とは別個の自主的な存在と考えざるを得なくなり、心が脳をエネルギー操作すると考えているのです。また、オーストラリアのエクルズ(近代における脳生理学の大家。ノーベル医学生理学賞受賞、1903ー1963)は、心(おそらく自主的な心)を脳とは別個の独立した存在と考え、これと脳との連係ということを考えているのです。
 心が、脳髄とは別個の自主的存在であるのか、脳髄の所産なのか、実はこの問題はまったく不可知とは言えないかもしれません。例えば上述のように、ペンフィールドなどは心が独自のエネルギーを有するかの如くに働くことを示唆しているのです。私も立場は違いますが、同じ考え方であり(私の場合は人生には何か本物の意味が存在している、この世の中は真面目な存在に違いないという考えが一切の考えの出発点になっています)、もし自主的な心の存否を決める鍵があるとすれば、それは自由意志を発動している時点で(ものを考えるということはすでに自由意志の働きです)、その脳内反応に異常現象(例えば、エネルギー保存則から外れた反応)が行われているかということ、また行われているとして、その恐らく極めて微細な異常変化の測定が可能かどうかということにあると思うのです。
 また、その測定がついに不可能に終わったとしても、それは必ずしも異常現象の存在していないことを示すことにはならないと思います。人間技では測定が不可能な程の極徴量の異常エネルギーで、脳のどこか要所が操作されているかもしれないからです(ここで要所とは、司令キーボードとでも言ったらいいかもしれません。ただし、今の脳の場合、それは1か所にまとまっているとは限らないかもしれません。脳全体かもしれません。キーボードを操作するのは指先(物質)ではなく、心だからです)。あたかも、巨大な機械が、指先1つのポタン操作で(つまり、僅かなエネルギーで)人間の意志通り自由自在に操られるようにです(脳を巨大な機械に見立てて)。
 このように、物質ではない心というものがあって、それが脳(物質組織)を動かしているとするなら、それは、神があるとして、その神の心(物質ではないもの)が、この物質宇宙の支配を握っているのに、どこか共通するところがあるように思います。しかし、これからただちに、1人1人の人間をミクロの宇宙に喩えることは当を得ていません。




 自分以外の人に心があると思っているのは独断では

 さて、心と心の間の交流は全て物質を介して行われるという前に、我々は、自分は心を持ってい.み、自分は心である、ということを現に自ら知り、自覚できるわけですが、相手の人については、自分と同じように心があると、実は、頭から信じ込んでいるだけです。我々が、相手も心を持っていると思うのは、もっぱらその相手の人の肉体にかかわる物質現象から推してのことです。以心伝心などということは考えられません。極端に考えれぼ、相手の人間ははたはだ精巧な増殖型ロボットかもしれないという訳です。
 この自分を含めて、人間は全て同じ造りの頭脳を持っているのだから、この自分に心があるからには、他の人々にも自分と同じような心があると考えるのは当然のように思えるかもしれません。しかし、科学的には、他人の心は、直接に感じたり、観測や測定したりすることは全く不可能なのです。心は物質ではないのです。他の人々から得られるものは、全て物質現象だけなのです。他の人に心があると思っているのは、厳密に言えぱ、あくまで類推であり、独断ということです(少なくとも前述の脳内異常エネルギーが検知できない限り、まったくの独断と言わなければなりません)。今この私がこのように述べているのも、すでに読者の皆様に、この自分と同じような心があると独断してやっているということです。人間は、極めて精巧なロボットに接していると、それに心があるように錯覚しかねないのです。精神活動が脳組織の活動の所産であることが、証明されるのなら話は別です。
 自分以外の人も、自分と同じように心を持っているだろうと考えることは、例えば、ここにある種子も、今までの種子と同じものだから、蒔けば必ず芽を出すだろうと考えるようなこととは、その考え方において趣を異にするものです。種子の場合は、全てが物質の行う自然現象であり、全てを現実に確認し得るのです。自然法則に従って起こるべくして起こることを予言し得、かつ、その結果が観測測定され得るのです。他人が、自分と同じょうな造りをしているから、やはり心があるだろうと考えることとは、似て非なことです。心は観測測定すること(掴むこと)が不可能なのです。
 真に、我々は、宇宙万有については、神というものの存在を信じ難くても、相手の人間に心のあることは、少しも疑うことがないのです。





 自分という心は、他人の心に入り込むことも、他人の脳に乗り移ることも不可能

 さて、自分以外の人にも心があるとして、我々は、他の人の心を直接に感じることは、すなわち、その心に直接触れるとか、その中を覗くとか、その中に入り込んで行くとかいうことは、例えば、仮に将来、脳内反応の測定によって人の心が読み取れる時代が来たとしても、まったく不可能なことです。早い話が、我々は相手の痛みを、察することはできても、直接に感じることはおよそ不可能なことです。こ
のことはまた、言葉どおりの以心伝心ということが有り得ないことに通じています。人間の心は、専ら物質を(物質からと言った方がよいかもしれません)感じ得ても、そして物質を介して相手の心を察し得ても、相手の心を直接に感じることは不可能です。そして、逆説的ですが、これは心を脳の所産と考えるなら当然なことなのです。
 そしてまた、人間それぞれの心(物質である脳髄とは別個の、自主的な存在であるとして)は、それぞれの特定の肉体(脳髄)に限ってだけ結ばれていて、他の人の脳髄には移れない(他人の脳髄は借りられない)ということです。そしてこのことも、それだけとしては、確かに、精神現象を脳の所産と考えることの合理性を思わせるものです。





 肉体の脳と別個に独立した心(霊魂)は存在するか

 心の消長消息は、自由意志という問題を除けば、どうみても脳髄という物質組織自体のそれを映した如くです。例えば、麻酔の注射1本で自分はスイッチを切ったように消えてしまい、麻酔が醒めれば意識は忽然として蘇ります。熟睡している時の無の状態、醒めて再びこの自分に復帰する現象です。そして、幼児から少年、成人、そして老年へと、その人となりの形成と移り変わり、それは果たして人格形成なのか、それともただ単に脳髄という物質組織の形成、あるいは変移ということなのでしょうか。人間形成などということも、結局は頭の体操といったようなことと同類のものでしかないのでしょうか。人格すなわち脳格ということなのでしょうか。
 自由意志の存在問題を省みることなしに、ひたすら以上のような脳と精神現象の表裏一体の関係のみに足場をおいて考えている人たちにとっては、肉体の脳(つまりまた物質)を超えて独立した霊魂(心)の存在を考える人間がいかれて見えるのは当然です。しかし、こうした人たちは同時に、現に存在している精神現象も肯定するために、物質について、より幅広い定義を新たに加えなければなりません。そして、自由意志についてはどう考えるのでしょう。

『脳と自由意志』−脳と精神

 1.初めに
 
 人間は、死ぬと本当に灰だけになってしまうのでしょうか。我々人間にとって、死後の情報は永久に途絶しています。この自分が何処から来たのか分からないのとまったく同じにです。どんなに幸せな人生も、いかに功成り名遂げても、そして聖人でさえ、死後が虚無なら、それは、所詮、明日のない幸せ、満足でしかなく、どのみち、結局は諦めに繋がっていくということです。また、耐え難い苦悩や惨めさが死ぬことで消え去り、死は、あるいは、生きていて苦しむよりはましであり、その意味では救われるかもしれませんが、死後がなければ、それはやはり未来のない解放、終末でしかありません。いずれにせよ、それっきりの寂しいものです。我々が願うところは、叶う叶わないは別として、真実、希望あり、発展ある永遠の未来、永遠の活動的生命ではないでしょうか。
 諸々の不公平、不運、不合理の多くが、そのままに終わってしまう世の中、例えば、冤罪で死刑にされた人、天災人災を被った罪もない人々、或いは脳の狂ってしまった人、あるいはベトナムの畸形児、或いはまた古代文明社会における悲惨な収隷たち、例えばこうしたことどもをどう考えたらいいのでしょうか。こうしたことが、この自分自身に、或いは自分の身内に起きたとしたら、私たちはどう考えるのでしょう。人ごとでは済まされないのです、
 世の中の多くの割り切れない不公平がそのままに葬られていくということです。もし、こうした人生が花火のような一時の夢に終わるもの、この現世だけで終わりというなら、多くの人間にとって、人生はふざけた悲劇と言うほかありません。到底、甲斐のある人生とは言えません。もちろん、死後が事実虚無であるのなら、愚痴ったところで致し方のないこと、そこには所詮、諦めがあるだけです。万葉の和歌にある、酒を聖と呼ぶことが、本当の本当にもなってきます。死後があるのかないか、科学は一言も答えてくれません。そして、死人に口なしです。


 さて、わが国の科学者の多くがそう考えているように、人間の精神活動(すなわちまた心)は、はたして単に、脳の所産(唯物論の考えるところ)なのでしょうか。すなわち、脳髄の神経活動なり生理活動(つまり脳内の物理・化学反応)の結果として、心が現れているのでしょうか。ここで一言断わっておきますが、所産といっても、脳で心が産み造られて、それが脳とは一応別個のものとして存在していくといったような意味合いはありません。意識をはじめ精神現象は、脳の中で行われる特殊な物理・化学変化(反応)が、それと同時に造り出し映し出しているもの(造映とでも言いましょうか。物質系のものとは考えられません)という意味です(どんな脳内反応でも全てが精神活動に対応しているというわけではありません。例えば、熟睡中、脳内に生理活動は行われていても、意識はありません)。

 確かに、麻酔薬1つで、我々はたちまち意識を失ってしまいますし、脳細胞の老化脱落で人間は人が変わったように呆けてしまうことは、特に今の高齢化社会において我々が眼の前にする現実です。脳のわずかな故障は、たちまち精神活動に支障を来たします。植物人間でなくても、精神異常者を見ていると、時に、生ける屍の実感に襲われます。精神活動は、まったく脳髄によってその活殺を握られているのです。心はそのままでは確かに、脳の中での物質反応の造映である観があります。

 ところで、どう見ても、脳はまったく物質だけから出来ています。そのままでは、そこで行われる反応は、全て物質の法則、すなわち、自然法則に従っているわけです。髪の毛一筋ほどでも法則から外れることは許されないはずです。一方、因果の法則だけでは全ては決まらないと言う人がいるかもしれません。しかし、例えば不確定性原理といったようなことを考慮に入れても、要は、なるようにしかならないということです。物質脳に関する限り(つまり精神活動を2次的な現象と見る限り)、そこは自由意志とは無縁の世界です。なお、申し添えますが、ここに言う自然法則があるということは、自然界は、いわゆる自然法則から概念されるような秩序によって運行しており、でたらめな現象は1つも起きていないという意味であって、人間によって発見された、何々の法則といったようなものが、そのまま完全な形のものであると言っているのではありません。

このように考えてくると、脳内に起こっている物理・化学変化に、自由意志などというものの介入する余地はまったくないはずです。したがって、精神活動を脳の所産と考えた場合、反射運動とか、本能による行動とか、そのほか無意識下の所作行動などは別として、我々は普段、自分にあたかも自由意志があって、それによって自主的に考え、自主的に行動しているかの如く錯覚しているのか、という問題が提起されます。あるいはまた、本当に真の自由意志というものがあるのなら、脳の中では自然法則から外れた現象が起こっていなければならないということになります。言うなら、自由意志によって強制され、方向を変えられた反応がです。言い方は良くないかもしれませんが、脳の中では常に奇跡が行われているということになります。

 自由意志の存否は人生観に関わる深刻な問題です。自由意志は人格の土台です。その否定は人生の否定に繋がります。我々人間は、本当に、有意的な、自主的な、すなわち自分という存在(自分という心)であるのか、それとも、脳というコンピューターの、つまりまた脳内反応(自然現象)の操り人形なのか、本当は自分などという人格はありはしないのか、という問題です。

 精神活動が脳内反応(自然現象)の造映といったような随伴現象であるなら、生涯掛かってその心を磨き鍛えた聖人も、実は専ら脳髄を磨いていたことになるわけで、少なくとも原理的には、脳外科手術1つで、一夜にして悪人に変えられてしまい得るということ、またその逆も可能ということです。また例えば、死刑を行うより、脳外科手術ということです。我々は何をやっても責任はない、責任は自然法則にある、ということです。精神異常者に法が適用されないという以前に、人間全てがすでに、自由意志、良心、判断力(自主的な、真の意味での判断力)などとは関係のない、したがって、刑法などの適用範囲外の対象であるということになってきます。

 この自分という本尊は、この自分の手足でも、内臓でも、脳髄自体でもなく、つまり肉体ではなく、こうして考える「心」自体であることは現に事実です。再び、問題は、この自分(心)というものが、脳髄の生理・神経活動の造映(物質系のものとは考えられません)なのか、あるいは、そうではなく、脳髄と緊密に連係はしているが、それとは別個の、自由意志を持った独立した存在(やはり物質系のものとは考えられませんが、この場合は、脳内反応を支配する能力を持っている超自然法則的「存在」と考えられます。(5章)であるのかという点にあるのです。

 そしてもう1つの問題は、前に述べた、死後はあるかないかということ、すなわち、脳の所産ではない自主的な心(霊魂)があるとして、それは死後も存続するものかどうか、の問題です。人間の死後が虚無であるなら、心が脳の所産であろうとなかろうと、どうでもよいことです。なお、心が脳内反応の所産なら、脳死が心の消滅を意味することは当然です。

 死後が虚無であるなら、例え、自由意志を持った自分という心が実在し、甲斐のある人生が成立するように見えても、ついには、責任を問われることもなく、死とともに、多くの不合理がそのままに葬られてしまい得るのです。また、死後がなけれぱ、同じくして、神がいようといまいと同じことです、ついには、裁かれることもなければ、報われることもないのです。
 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」ということがありますが、死んで何もなくなってしまうものなら、悟って死んで、一体何が可なのでしよう。悟りとは一体何でしょう。それが長い年月の修行によって得られたいかに尊いものであろうとも、誰がいかに絶対なものであると言おうとも、死後がなければ、それは脳髄が灰になるとともに消えてしまうということです。絶対とか、永遠などといった言葉も、無責任なもの、空なものでしかありません。
 また、愛は絶対だとか、芸術の極致は絶対だなどと、いかに力んでみても、人間、死んでそれっきりなら、これまた絶対などといったものは、所詮、どこにも見出せないと思います。そんな言葉で救われるものではありません。絶対を掴むには、永遠という時間が必要です。つまり、心が不滅でなければ、絶対などというものはどこにも有り得ません。
 この人生が、ついに諦めに終わるということではなく、そして全ての不公平がいつかは償われて、泣き寝入りという人がたった1人でも出ないためには、まず、人間の霊魂が不滅でないと始まらないことは自明です。諦めか、希望か、人生観はこのいずれかに尽きます。我々人間1人1人の未来には、あるいは、無限の可能性が秘められているかも知れないのです。




 2.人間の限界

 人間の頭脳は人間の作品ではない

 科学の進歩は確かに驚異です。しかし、人間ははたしてこれを誇り得るものでしょうか。この進歩があり得たのは、まさに、人間の持っている頭脳があったからです。その頭脳はしかし、人間の創作ではありません。自分のこの肉体、頭脳、そして自分という心は、すでに初めから、他力によって在る、ということを見逃してはなりません。他力という考えに問題があるというのなら、人間にはどうすることもできないものが、あるいは、与えられたものが、まずある(先行している)、と言うことができます。人間の知能と能力には初めから絶対の限界というものがあるのです。人間が、単純に手放しで自らの文明を誇るとしたら、それは新幹線に乗って自分が速いと威張っている馬鹿者と同じです。人知の進歩を眺めることは、そのまま自然の驚異を眺めることに等しいわけです。



 科学技術の限界

 さて、人間がすでに他力によってあるという現実はそれとして、ここで、人間の、科学技術においての、いわゆる常識的な意味での力の限界について考えてみたいと思います。自然科学は常に事実と照らし合わせながら考えを進めていくだけのことはあって、誤りは別として、我々を騙したり、嘘を言うことがありません。どんな加持祈祷でも治せたかった結核の如きも、いまや文明国からはほとんど姿を消してしまったのは、何といっても科学のお蔭です。科学は核爆弾のような罪深いものを造るではないか、といったような議論はさておき、どれだけ多くの人々が今の医学によって救われているかという現実にも目をつぶることはできません。とにかく科学は、昔は想像もできなかったような物質文化の革命を、数多く、それも加速的に成し遂げて来ました。ハイテクといい、宇宙への進出といい、今や人類は、大自然に対して、物質界に対して、「征服」の言葉を高言しかねない勢いです。

 しかし、だからといって科学が将来、想像を超えるような進歩をしても、人間から不可能がなくなるということはついに有り得ないのです。例えば、たった1粒の原子にしても、何もないところからこれを造り出すことは、例えどのような偉い科学者が出てきても、全世界の知恵と力を寄せ集めても、永久に、そして絶対に不可能なのです。また、そのたった1粒でも、それを他の姿に変えることなく(他の形の粒子や電磁波などのエネルギーに変えることなしに)、本質的にこの世から消し去ることもできません。前にも言いましたように、人間は自然法則を髪の毛一筋ほどでも動かすことはできないのです。憲法改正はできても、大自然の前にはお手上げです。
 
 21世紀を迎えんとして、科学者たちは生物をさえ合成しようとして意気盛んです。またその自信に満ちています。そしてこれは可能かもしれません。しかし、その元となる材料はどのみち結局は、全てすでに天然にあるものを用いなければなりません。しかもその合成に当たっての設計図は、これまた結局において、全て自然から学んだものです。もっとも、人間が将来、天然にはないような新機構の生物を考え出さないという保証はありませんけれども、しかし、人間は、結局はどこかで天然に学び、結局は天然を利用し、これに頼らなくてはならない運命におかれているのです。そしてまた、こうした合成に当たって、一切の反応は物質自らが自然法則に従って行う自演であります。人間は考え、計画し、工夫、配材し、自然法則に拠って仕事を進めていくというだけです(ただし、この考え、工夫という中には、有限な人知による、自然の無尽蔵の秘密の無限の開発利用ということも含まれます)。




 宇宙がたった今消滅しないと人間に断言はできない

 さらに突っ込んで考えてみますと、我々人間が頭から信じ切っている自然法則自体が、いつ何時崩れ去ってしまわないとも、我々には知る由もないのです。これは、いつ天災が起こるかわからないといったような問題とは異なった、その前段階の問題であります。自然法則という大前提の絶対性を疑った問題です。推測が困難というより、人間にとって永久に不可知の問題なのです。例えば地震の如きは、科学の進歩とともに次第により適確に予知し得る性質のものです。
 ついでですが、科学は、実は、人間の自然に対する絶対信頼、絶対憑依の上に成り立っている学問です。今言っている問題は、言うなら、科学以前の問題なのです。この宇宙がが明日、いや、たった今消滅しないと、一体どこの哲学者が、科学者が、何を根拠に断言できるでしょうか。今までずっと続いて存在しているというだけのことから、宇宙、自然法則は、明日も存在しているだろうと思っているだけです。来る日も来る日も現にこうして立派にあるではないかという、あくまで結果論です。明日も宇宙はあるに違いないと思っているのは、我々人間の自然に対する、言うなら、信仰です。神は信じなくても、こうしたことは無意識下に信じ込んでいるというのが人間の1つの姿です。

 このように、根源的な問題となると、人間はただ無力です。誰1人として権威ぶることはできないはずです。我々は、いつ爆発するか分からたい火山の上におめでたく座っているのに等しいとも言えるのです。予想ということはできても、根源的には、すなわちまた実際に、一寸先はまったくの闇なのです。全ては明日ありと予想し、信じて生きて行っているだけです。再び人間には絶対の限界があります。

 繰り返しますが、人間は、自力で生きるという前に、初めから在らされて在るということです。自分で生まれて来たのではないのです。親が(産んだのではあっても)造ったのでもありません。因みに、人事を尽して天命を待つということがありますが、ここなどにも、以上の事情の一端が現われているように思います。






 3.自然界という秩序ある存在

 1粒の受精卵の中には、すでに、その未来の成体の造りに関する全ての情報が盛り込まれている

 例えば、我々人間は皆、初めはたった1個の細胞、すなわち受精卵であったわけで、それが分裂を重ねて頭や手足、内臓などが造られ(分化発生)、ついに全細胞数おおよそ60兆個の成体になるというわけです。したがって、こうした生長遇程が、神様によって操作されているとでも言うなら別ですが、全てが厳密に自然法則に随って行われているのなら、初めの1個の受精卵の中には、その未来の成体のダイナミックな設計図が、すなわち、その成体の造り、したがってまた機能、その他に関する綿密な一切の情報が、すでに盛り込まれていなければならないということになります。同時に、その卵の生育を協助し、実現に導く環境もまた、すでに設計され、プログラムされてあるということです。砂粒をどんな方法で培養しようとも、蚤1匹、アメーバ1個生まれてくることはないのです。




 生物は増殖する機械、生物現象は純粋な物理・化学現象

 従来、生命現象は人間にとって最も不思議なことの1つであり、物理や化学だけでは説明できないこと、そこには何か自然法則を超えた神秘な力が働いているのではないかと思われてきました。ところが、今20世紀に入ってから、科学者たちは鋭意その謎解きに取り組み、今世紀中頃から急速にその謎が解け始めてきたのです。そして、生命現象の鍵を握っていると考えられてきた遺伝子(生物体を造っている細胞のそれぞれ1つ1つには、その生物体に特有な、原則的に同じ遺伝子が1組ずつ入っている。例えば高等生物では、主として細胞核に含まれ、細胞分裂時に見られる染色体の中核物質である)が、一口に言うと、DNA(すでに100年以上前、細胞核の成分として発見されている物質種)であることがわかり、以来、この遺伝子DNAの造りや働きの解明が飛躍的に前進したのです。この結果、増殖ならびに遺伝、及び関連する重要な生命現象(タンパク質がどうやって造られていくのかというその仕組など)が、まったくの物理・化学の反応として説明できることがわかったのです。

 先ほど、1個の受精卵と言いましたが、実はその中にある遺伝子DNAが鍵物質であったわけです。重点的に言って、そのDNAの中には、その生物体の形質その他に関する全ての遺伝情報が書き込まれていると言ってよいのです。因みに、この遺伝子DNAは、2本の長い分子鎖が相沿って螺旋コード状に巻いた形のもので、これがいわゆる2重螺旋です。細胞の中では、これががさらに螺旋を巻いて折り畳まれています。なお、染色体を思い起こしてもわかるように(例えば人間では染色体は23対すなわち46個に分かれて現われる)、DNAが切れ目のない紐(2重螺旋の紐)というのは当たりませんが、一連として連携しているということで、1本と言ってよいかもしれません。

 生命現象にはまだ他にも、もっと不思議な難しい問題がありますが(例えば、分化発生、すなわち、1個の卵からどうやって頭や手足、内臓などが分かれてできてくるのか、ということや、また、生物の起源など)、そうしたこともひっくるめて、生命現象の全てが、結局は、純粋な自然現象として、すなわち完全に物理・化学的に理解されるのではないかという見通しになってきたのであります。つまり、生物は機械と本質的に異なるところはない、物理・化学反応を行う分子機械に還元されるということです。したがってまた、人間は、少なくとも原理的には、生物をも合成することができるということです。因みに、このような事情になってくると、生命現象という含みのある言葉を使うよりも、生物現象と呼んだほうが幾分でも合理的ということになってきます。

 ついでですが、この経緯は、19世紀の半ば近くまで、有機物質(有機体というと生物の意味です)、すなわち蛋白質澱粉、砂糖、脂肪のような、あるいはもっと簡単なものでも、生物体を造っている、あるいは生物体から造り出される特有な物質は、無機物質すなわち、水や空気、塩類、岩石といったような、大雑把に言って、より簡単な物質と違って、人間が合成すること(いわゆる試験管内合成)はできないと信じられていたのと軌を一にしている、というより、直接関連した事柄です。

 昔の科学者たちは、有機物質はいわゆる生命力という、生物に特有な神秘な力を持っていなくては造り得ないものと信じていたのです。もちろん現在では、あらゆる有機物質が、少なくとも原理的には、合成が可能です。そしてさらに、前述のように、生命現象自体の中にも、従来考えられてきたような神秘な力は存在していないということになって来た訳です。

 ところで、今言おうとしていることは、だから人間の価値が減ったとか、だから神様はいないとかいうことではなく、例えば、人の脳の造りは、主要部だけでも140億個もの神経細胞(ニューロン)からなる、想像を絶するような精緻な造りですが、その造りの青写真までも、すでに最初の受精卵のDNAの中に書き込まれてあったということ、そして一切の生物現象は全て完全に自然法則に随って運行している自然現象であるというそのことです(因みに、生まれた時の赤ん坊の脳のニューロンの数は既に140億個になっています。脳のニューロンは、他の体細胞と異なり、生まれて以後、増殖は行いません。20歳ぐらいからは減少する一方と言われます)。




 既に物質粒子(原子や素粒子など)の1粒1粒に、生物発生の情報は秘められている

 さてそこで、宇宙の物質は全て、もちろん我々のこの体も、無数の分子とか原子、そしてこれらはさらに小さい基本的粒子である陽子、中性子、電子など、素粒子と呼ばれるものからできています(またさらに、陽子や中性子を構成しているより基本的な粒子が考えられています)。これらの粒子はどんなに高度の電子顕微鏡、その他によっても、その姿形を見るといったようなことは到底できない極めて小さいもので、全宇宙に存在するその数は超天文学的なものですが(例えば酸素にしても、その32g(気体としてバケツに3杯くらい)には1兆個の1兆倍近い酸素分子が含まれています)、どの1粒についてみても、それぞれの種類によって統一された見事な構造を持っていて、全粒子は整然とした秩序と法則のもとに関係付けられており、1粒たりとも規格から外れたものは存在していないと信じられています。そしてまた科学者はどんな新粒子が発見されても、それは必ず理論的に説明のつく、筋の通ったものであることを初めから信じて疑うことがありません。まことに自然界は、科学者をしてそう信じさせるまで、それほどまでに秩序正しいものであるということができます。
 
 そして、DNAもこうした厳密な秩序を持った原子からできているわけです。また、だからこそ、この地球上に数十億という同じ造りの人間が生まれ得るのです。一口に言うと、DNAの場合、主に(量的主要成分として)炭素、水素、酸素、窒素、リンの5種類の原子の莫大数が特定の排列をしてできている前述の長い紐状分子ですが、例えば人間のDNAは、全長にして2m近くあると言われ(第1次二重螺旋の巻きは引き伸ばさずに測ったとして。なお、その太さは極めて細く、普通の分子の径の桁です)、それを構成している原子数は何千億個に上ります。
 
 さて、そうすると、DNAの持っている情報は、既に、DNAを構成している原子(さらにそれを構成していろ素粒子など)に起因していると言わなければなりません。これを喩えると、DNAを文章とするならば、それを構成している原子は文字であります。原子のグループ、すなわち分子とか分子的な単位は単語に喩えられるかも知れません。
 
 文字は、それらを適宜に繋げると意味を成すよう、情報を造るよう、人間によってあらかじめ意図されて造られているものです。1つ1つの文字には、多くの企画と可能性が秘められているというわけです。小石をどのように組み並べても、文章にはならないのです。文字に似て、そして文字より遥かに周到に企画されて、1つ1つの原子には、素粒子には、そしてまた物理空問には、広汎な企画と可能性が、すでにして盛り込まれてあると考えざるを得ないのです。
 
 こうしてついに、生物の発生は、そして人類の出現は、字宙開闢時すでに、青写真として存在していたと結論せざるを得ないのです。生物は、原子の、DNAへの単なる偶然の排列によって生じたものではなく、出来るべくして出来てきたものであるとしか考えられません。



 我々が自然法則を発見するということ、すなわち、この自然界を読むことができるということは、自然は人問に共通する心を持った何者か(神)によって造られてあるということではないでしょうか。文章は、人間が考えた文字によって綴られているからこそ、我々はそれを読むことができるのです。どんな難解な古代文字が発掘されても、我々はそれを、必ず解読できると信じて疑わないのです。人類の文明の進歩は人間の意図のもとに行われてきています。宇宙の開闢と展開、生物の発生と進化は、ただそうあっただけ、ただそうあるだけのことなのでしょうか。生物は自分の意図で進化してきたのではありません。我々の心臓は、我々が自分で動かしているのではありません。
 
 意識ある心だけが、創作を行う主体で有り得ます。すなわち、ここに、宇宙を、素粒子を、そして人間の心を創造した心、即ち人格神の存在を考えざるを得ないのです。
 物質自体に心はありません。芸術作品が我々に訴えるのは、作者の心です。宇宙が、そして我々の心自体が、我々に語りかけてくるように思うのです。それとも、この世界は、昔からただこうあるだけのこと、ただそれだけのことなのでしょうか。全ては、ただこうなっていくだけのことなのでしょうか。