モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

ベルクソン バーミンガム大学におけるハクスリ記念講演 Ⅱ

 意識と予見不可能性


 ところで、世界の中に現われてきた生命をこの角度から考察してみると、生命はただの物質とははっきり対照をなすものをもたらしたことに私たちは気が付きます。 世界は、世界だけのままでは決定的な諸法則に従います。 物質は一定の条件のもとでは一定の仕方で動きますから、 物質の動きには予見できないものは何もありません。も し私たちの科学が完全であって、私たちの計算力が無限であったなら、あたかも日食や月食を予見するかのように、無機物質の世界に起こるすべてのことを、たとえそれが全体の中で起こることであっても、それぞれの要素の中で起こることであっても、すべて前もって予見できるでありましょう。つまり、物質は惰性であり、幾何学であり、必然であります。しかるに、生命とともに 予見できない自由な運動が現われてきます。生物は選択し、あるいは選択しようとします。

 生物の役割は創造することであります。他のすべてのものが決定されている世界の中で、決定されていない地帯が生物を取り巻いております。未来を創造するためには、現在において何らかの準備をしなければなりませんし、そうして、まだ 存在していないものを準備することができるのは、既にあったものを利用することによってしかできません。 ですから、生命とは、はじめから過去と現在と未来が互いに侵入しあって不可分の連続をなしている持続において、過去を保存し未来を予期しようと努めるものなので あります。この記憶とこの予期が、すでに見てきたよう に、意識そのものであります。そうして、それだからこそ、事実上ではないにしても、権利上においては、意識は生命と同じ外延を持っているのであります。

 それゆえに、意識と物質性は根本的に異なった、反対でさえある存在形式を持ったものとして現われてくるのでありますが、この2つの存在形式は1つの妥協案を採用し、どうにかこうにか協調しています。物質は必然であり、意識は自由であります。しかし、両者はいくら相互に対立していても、生命はそれらを和解させる手段を見つけます。それというのも、生命とはまさしく必然の中に割り入って、必然を自己の利益となるように変える自由であるからであります。もし、物質が従っている決定性というものがその厳密さを少しもゆるめることができないものであるとしたら、そういう自由は不可能でありましょう。

 しかし、あるとき、ある点で、物質がある弾力性を提供するとしましょう。その弾力性のあるところへ意識が座を占めるでありましょう。意識はそこに、初めは身をすぼめ小さくなって座を占めるのでありますが、いったん地歩を占めると、意識はふくらみ、自分の領域を増やし、しまいにはすべてを手中に収めるようになるでありましょう。その理由は、意識は時間を利用できるからであり、そうして、どんなにわずかな量の不決定性といえども、無際限に追加されるなら、ほしいだけの自由がその不決定性から得られるからであります。 ――しかし、この同じ結論を次の新しい事実の系列から、もう一度見つけることにしましょう。そうするなら、 この結論はもっと厳密なものとなるでしょう。

 

 自由な行動の機構

 実際に、生物が運動をするのにどんなふうにするかを 考えてみると、その方法がいつも同じであることに気が付きます。その方法というのは、爆発物と呼んでもよいようなある物質を利用することにありますが、その物質は、ちょうど大砲の火薬のように、点火すればたちまち爆発するような物質であります。 私は栄養物、より詳しく言えば三元素の化合物、すなわち含水炭素と脂肪のことを言っているのであります。多量の潜在的エネルギーがこれらのものの中に蓄積されていて、いつでも運動に変わろうとしております。このエネルギーは、植物が太陽から時間をかけて少しずつ摂取したものであります。 そうして、植物を食べる動物、植物を食べた動物を食べる動物、植物を食べた動物を食べた動物をさらに食べる 動物等々は、生命が太陽エネルギーを蓄積して作った爆発物を自分の身体の中に摂取したにすぎません。動物が運動をするときには、以上のようにして閉じ込めたエネルギーを解放します。その解放のためには、ただボタンを押すか、ピストルの引金を軽く引くか、火を付けるかさえすればよいのであります。そうすれば、火薬が爆発し、狙った方向に運動が行なわれます。

 最初の生物が植物生活と動物生活との間をさまよっていたのは、 生命はその初めにあっては、爆発物を製造することと、 それを種々の運動に利用することとを同時に引き受けていたからであります。次第に植物と動物とが相違を増してゆくに従って、生命は二つの領域に分裂し、初めは結合していた2つの機能が分かれました。そうして、 一方の領域では、生命は特に爆発物の製造に専念し、 他方の領域では、生命は爆発物を爆発させることに専念するようになったのであります。しかし、進化の出発点においてみても、進化の終着点においてみても、生命はいつも、全体としては徐々の蓄積と急激なる消費という 二重の働きであります。すなわち、生命の主眼とするところは、ゆっくりとしたしかも困難な作業によって、物質に潜在のエネルギーを貯蔵させ、その潜在のエネルギーを一挙に運動のエネルギーに変化させるところにあるのであります。

 ところで、自由因には、次に述べること以外にどんなやり方があるでしょうか。すなわち、自由因は物質を支配している必然性を破る力はないとしても、その必然性を曲げることができるものでありますし、 そうしてまた、この自由因は必然性を曲げるという物質に及ぼすことができる極わずかな影響力で、段々とよりよく選択された方向へと、段々とより強力 な運動を物質から獲得しようとするものなのであります。 自由因はまさしく今述べた通りにするでしょう。自由因は、引金を引くか火を付けるかするだけで、物質が長い時間を要して蓄積したエネルギーを、一瞬の間に利用できるように努めるでありましょう。

 

 持続の緊張

 しかし、私たちは第3の事実の系列からも、すなわち、 生物において、行動そのものではなく、働きに先だっ表象を考察することによってまた、同じ結論に到達することができます。たまたま自分の関わった出来事に 自己の刻印を残すような活動家を、私たちは普通どんな特徴によって見分けているでしょうか。その特徴は、ある長さの時間をかけて継起する出来事を、活動家が瞬間的な直視の内に包摂しているということにあるのではないでしょうか。その人の現在の内に含まれている過去の部分が大きければ大きいほど、生起しかけている偶発的な出来事に対処するために、その人が未来へと押し進める一群もまたどっしりとしたものとなります。 すなわち、ちょうど矢を射る時のように、その人の表象がより強く後ろへ引っ張られるのに応じて、その人の行動がますます強い勢いで前へ放たれるのであります。

 さて、私たちの意識が、知覚した物質に対してどんなふうに働くかを見てみましょう。意識はどの瞬間の中にも何十億かの振動を含んでいます。これらの振動は生命を持たない物質にとっては、次々に継起するものであって、もし物質が思い出すことができるのならば、最初の振動は無限に遠い過去のこととして最後の振動に現われるでありましょう。私が目を開いてすぐに閉じる場合に、私が感ずる光の感覚は私のある一瞬間に含まれますが、その光の感覚は、外界に繰り広げられている非常に長い歴史の圧縮なのであります。そこには、次々に継起する何兆かの振動があります。もし、その光の振動を数えようとすれば、できるだけ時間をうまく使ったとしても、なお何千年もかかるような出来事の系列が あります。しかし、単調で特色のないこれらの出来事は、物質が自分を意識するとしたら、物質にとって三十世紀の期間全てをふさぐものではありますが、私にとっては、私の意識の一瞬間を占めるに過ぎず、私の意識はそれらを一幅の絵のような光の感覚に縮めることができます。さらにまた、他のありとあらゆる感覚についても、同じようなことが言えるでありましょう。感覚は意識と物質の合流点にあって、私たちにだけ属していて、 私たちの意識の特徴となっている持続の内に、非常に長い期間を圧縮しているのであります。その長い期間というのは、強いて言葉を広げて言えば、ものの持続と呼んでもよいものであります。そこで、私たちの知覚がこのように物質の多くの出来事を縮めるのは、私たちの行動がそれらの出来事を支配するためである、と考えるべきではないでしょうか。

 いま仮に物質にだけ属している必然性は、物質のどの瞬間においても、非常に狭い範囲でしか打ち破られないものだとしてみましょう。 そのような場合に、それでもなお物質に自由な行動を―たとえその自由な行動が引金を引くためか、あるいは運動を方向付けるために必要なだけのものであるにしても―差し入れようとする意識には、どんなやり方があるでしょうか。意識は、ちょうど今申しあげたような仕方で、物質に自由な行動を差し入れようとするのではないでしょうか。意識の持続とものの持続との間には、物質界の数えきれないほどたくさんの瞬間が、意識を持っている生命のただの一瞬間の中に含まれているというような、両者の緊張の相違が見られると、私たちが予想してはいけないでしょうか。このような緊張の相違がありますと、意識がある一瞬間に意欲しなし遂げた行動は、物質の無数の瞬間に分割することができますし、したがってまた、その行動の中に、物質の各瞬間に含まれるほとんど無限小の不決定の和を求めることもできるのであります。言い換えれば、意識を持っている存在の持続の緊張度はまさしく行動の能力の尺度であり、世界の中に導き入れることのできる自由な創造的な発動性の大きさを測る尺度ではないでしょうか。私はそうだと思いますが、その点を主張するのは後ほどにしましょう。

 ただ、ここで私の言いたいのは、この新しい事実の系列も、先にあげた事実の系列と同じ論点に私たち を導くということだけであります。すなわち、意識が命令する行動とその行動を準備する知覚のいずれを考察してみても、そのどちらの場合にも、意識は物質の中に割り入って、物質の中に座を占めて物質を自分の利益になるように変える力として現われるということであります。意識は相補的な2つの方法によってこの働きをします。すなわち、物質が長い間かかって蓄積したエネルギーを、選んだ方向に一瞬のうちに解放する爆発的な行動がその1つの方法でありますし、そうしてもう1つの方法は、物質がなし遂げた数えきれないほどの小さな出来事を、このただ1つの瞬間の中に集め、はかり知れない長さを持つ歴史を一語に要約するという圧縮の仕事がそれであります。

 


 生命の進化

 そこで、これらの様々な事実の系列が一点に集中する点に立ってみましょう。一方には、必然性に服従する物質があります。この物質は記憶を欠いているか、あるいは相継起する諸瞬間のうちの2つの瞬間をつなぐのにちょうど必要なだけの記憶しか持っていません。その1つ1つの瞬間は先行する瞬間から演繹されることができる瞬間でありますから、既に世界の中にあったものに何物をも付け加えない瞬間であります。他方には意識があります。意識とは自由を伴った記憶であり、要するに、持続における創造の連続であります。そうして、この持続においてこそ真に増大があるのであります。この持続は引きのばすことができる持続であり、 過去が不可分の形で保存され、植物のごとく成長する持続であります。それはちょうど、葉や花を作り変えようとして自分の形態をたえず新しく作り出してゆく魔法の植物のようであります。

 もっとも、物質と意識という2つの存在が共通の源泉から出てきたものだということは、私には疑いのないことのように思われます。前者は後者の逆転であり、意識はたえず自己を創造し豊かにしてゆく働きであるのに対して、物質は自らを破壊しすり減らしてゆく働きでありますから、物質も意識もお互いを切り離しては説明できないということを、かつて私は証明したことがあります。ですから、ここではそれを繰り返さないことにしましょう。ただ、地球上における生命の進化全体の中には、創造的な意識が物質を横ぎっているのが見られるということだけを言っておくにとどめましょう。その創造的な意識というのは、動物では閉じ込められたままになっており、人間において、初めて遂に日の目を見ることができるあるものを、工夫と発明によって解放しようとする努力であります。
 
 ラマルクとダーウィン以来、種の進化という考え、すなわち、もっとも単純な有機体からはじまって次々に種が種を生んでゆくという考えを、多数の観察がますます確かめてきたのでありますが、そのことを細部にわたってお話しする必要はないでありましょう。私たちは、 比較解剖学と発生学と古生物学という三重の証言に裏付けされているこの仮説に、賛同を拒むことはできません。 そのうえ科学は、生物が与えられた条件に適応する必然性が、生命の進化の全行程においてどんな結果によって表わされているかを明らかにしました。しかし、この必然性は、生命がある一定の形態に停止することを説明するものではあっても、有機体を次第に高等なものに高めてゆく運動を説明するものではないように思われます。 生命の最初の段階である有機体といえども、私たち人間と同じように生存の条件にうまく適応しております。なぜなら、その有機体もそこで生きることに成功している からであります。それでは、生存の条件に適応して生きることに成功しているこの生命が、なぜ複雑になっていったのでしょうか。そうしてそれも、だんだんと増大してゆく危険を冒しながら、なぜ複雑になっていったのでありましょうか。私たちが今日見ることができる生命の形態は、古生代のいちばん古い時代からすでにありました。その生命の形態は多くの時代を通じて変わらずに存続したのであります。ですから、生命が一定の形態に停 止するのは不可能ではなかったのであります。それでは、 停止することができたあらゆる場合になぜ生命が停止するだけにとどめておかなかったのでありましょうか。 なぜ生命は前進したのでありましょうか。段々と激しさを増してゆく危険を冒しながら、段々と高い性能を目ざして、躍動によって引っぱられていったのでないとしたら、一体いかなる理由で生命は前進したのでありましょうか。

 生命の進化を一瞥しますと、この内的推進力が実際に働いているという感じを持たないわけにはゆきません。 しかし、生命を持つことができた物質が、内的推進力によってただ1つの方向に指し向けられたのだということを信じてはなりません。また、様々の種がただ1つの道の諸段階を表わしているとか、この行程が障害もなく遂行されたとかいうことを信じてはなりません。この努力は自分が利用する物質において、様々な抵抗に 出会ったことは明白であります。この努力は途中で分かれなければならなかったし、持っていた諸傾向をいろいろな進化の路線に分け与えねばなりませんでした。努力は、逸れたり後退したりしましたし、時には、はっきりと停止しました。ただ2つの路線においてのみ、努力は否みがたい成功を収めました。一方の路線では部分的な成功であり、他方の路線では比較的完全な成功でありました。節足動物脊椎動物がすなわちそれであります。第一の路線の先端には昆虫の本能があり、第二の路線の先端には人間の知性があります。ですから、進化する力は、最初はその力の中に混じり合って、というよりもむしろお互いに含みあって本能と知性を具えていたのだと信ずるのは、もっともなことなのであります。

 要するに、あらゆる種類の潜在力が互いに浸透し合っている意識の果てしない流れが、物質を横ぎって物質を有機体化し、そうして物質が必然そのものであっても、 物質を自由の一手段となすかのようなことが起こっているのであります。しかし、意識は罠に落ちこみそうなこともありました。物質が意識のまわりに巻きついて、 意識を、元々物質だけが持っている自動的な運動に 従わせ、かつ、同じく物質だけが持っている無意識の内に眠らせます。いくつかの進化の路線、特に植物界の進化の路線においては、自動的な運動と無意識がならわしとなっています。もっともこの路線においても、進化の力に内在する自由は、立派な芸術作品とも言える予想外の形態を創造したということに示されています。 しかし、この予想外の形態もいったん創造されると、機械的に繰り返されてゆくだけで、個体が選択するということはありません。ところで、他の進化の路線においては、個体がある感情を取戻し、したがって、ある選択のゆとりを取戻し取戻すほどにまで意識は解放されるようになります。けれども、そこでも生存しなければならないということが、選択の機能を生存欲の単なる補助手段に過ぎないものにしているのであります。

 こういう訳で、生命の低い段階から高い段階にいたるまで、自由は鎖につながれていて、せいぜい鎖をゆるめることができるだけであります。ただ人間に至って初めて、突然跳躍が敢行され、鎖が絶ち切られるのであります。人間の脳は、実際、動物の脳に極めてよく似てはいますが、人間には特別な働きがあります。その特別な働きというのは、どんな凝り固まった習慣にも他の習慣を対抗させ、どんな自動的な運動にも他の自動的な運動を対抗させる手段を提供するという働きであります。そうして、 一方の必然性が他方の必然性と争っているすきに、自由は備えを立て直して物質を手段の状態に連れ戻します。それは、ちょうど分割して支配するかのようであります。

 物理学と化学との共同の努力によって、生命を持つことができた物質に似た物質の製造に成功する日が、いつかは多分やって来るでありましょう。生命は物質の中に入り込むことによって進んでゆきます。物質を純粋な機械運動から引き離した力も、まずその力が機械的な運動を採用しなかったならば、物質に入りこむことが できなかったでありましょう。ちょうどそれは、鉄道の転轍機がレールにぴったりと沿いながら列車を離すのと同じであります。言い換えれば、生命が最初に入り込んだ物質なるものは、生命なしでもできかかっていたような、あるいはできかかることもありえたような種類の物質であります。しかし、物質だけに任せておくと、その物質はそこで止まったでありましょう。そうしてまた、生命を持つことができた物質を製造する研究室で行なう仕事も、言うまでもなく、そこで止まるでありましょう。 生命を持つことができた物質の特性の若干を模倣することはできても、その物質を再生する躍動、形態転換論的意味で進化する躍動といったものを物質に植え付けることはできないでしょう。然るに、この再生とこの進化こそが生命そのものなのであります。両者のいずれもが内的推進力を表わしており、空間における多数化と時間における複雑化によって、数と豊かさを増してゆこうとする二重の要求を表わしております。さらにまた、この再生とこの進化が、生命とともに現われ、後には人間の活動の2つの大きな原動力となる2つの本能、すなわち愛と願望とを表わしております。私たち人間には、 自分を縛る枷から解放しようとするとともに、自分自身を越えて、まず自分の持っているすべてのものを与え、次には自分の持っている以上のものを与えようとする力が、まぎれもなく働いています。

 このことよりほかに 精神を定義する仕方があるでしょうか。そして、もしも精神の力というものが存在するならば、その精神の力が他のものから区別されるのは、まさしく自分が持っている以上のものを自分自身から引き出す働きによってではないでしょうか。けれども、この力の進路を阻むあらゆる種類の障害に考慮を払わなくてはなりません。その起源から人間に至るまでの生命の進化は、ちょうど地下道を切り開くかのように物質を貫通する意識の流れという形像を、すなわち、右に左に探りながら多少とも前 に進んでゆくが、たいていの場合は岩に突き当たって壊れそうになりながら、辛くも1つの方向に突き抜けて、再び陽光に浴するといった形像を、私たちの目に浮かばせます。この方向が人間に達する進化の路線であります。

 創造的な活動 しかし、なぜ精神がこのような企てに身を投じたのでしょうか。どんな利益があって精神がトンネルを掘るのでしょうか。この場合も、いくつかの新しい事実の系列 をたどるのがよいでしょう。それらの系列もまた、ただ 一つの点に集中するはずであります。しかし、それには 心理的生命について、心理と生理との関係について、道 徳の理想と社会の進歩について、種々のこまかな点には いってゆかねばならないでしょうから、むしろ私たちは まっすぐに結論へと進むことにいたしましょう。そこで、 物質と意識を対立させてみると、物質とは何よりもまず 分割するものであり、明確にするものであることがわかります。思考は、思考自身だけのままでは、一つとも多数とも言うことができない要素が相互融合の状態を呈しております。思考とは連続であり、およそ連続なるものには渾沌があります。思考が判明になるためには、思考をいくつかの言葉に分散しなければなりません。すなわち、1枚の紙をとって、互いに浸透しあっている様々な単語を1つずつ切り離して一列に並べて文章にした時にのみ、私たちは自分の精神の中に持っていたものをはっきり知ることができるのであります。

 このようにして、生命の根源的な躍動の内に渾沌として溶け合っていた諸傾向を、物質は区別し分離し分解して個体にし、ついには人格にします。また他方において、物質は努力を誘発し努力を可能にします。思考されただけの思想、構想を抱いただけの芸術作品、夢想されただけの詩には、まだ苦労はいりません。詩想を言葉に、芸術的構想を彫刻や絵画にというように物質上に実現する場合にこそ、努力が要求されるのであります。その努力は骨の折れることではあります。しかし、努力は、努力が生み出した作品と同じ程度に尊いものであります。それどころか、作品よりも尊いものでさえあります。なぜなら、 努力によって、人は自分の持っている以上のものを自分の中から引きだし、自分自身を自分より以上に高めることができるのですから。然るに、この努力は物質がなければ可能ではなかったでありましょう。要するに、 私たちの努力に対して、物質の持っている抵抗力によって、また私たちが物質を慣らしうるという物質の従順さによって、物質は障害であると同時に道具であり刺激なのであります。かつまた、物質は私たちの力を試し、私たちの努力の刻印を保存し、私たちの努力を強化することを任務とするものなのであります。


 
 
 歓喜の意義

 生命の意義や人間の進むべき目標について思索した哲学者たちは、自然がこれらの問題についてわざわざ教えてくれていることを十分には指摘しておりません。自然は明確な印によって、私たちが目標に到着したことを知らせてくれます。その印とは歓喜であります。 私は歓喜と言っているのであって、快楽と言っているのではありません。快楽は、生物に生命を維持させるために、自然が考案した技巧的な手段に過ぎませんし、快楽はまた、生命が進んでゆく方向を指し示すものではありません。しかし、歓喜はいつも生命が成功したこと、生命が地歩を占めたこと、生命が勝利を得たことを告げています。そうして、大きな歓喜なるものには勝鬨の響きがあります。

 そこで、この印に考慮を払って、この新しい事実の系列を辿ってゆきますと、歓喜のあるところにはどこにも、創造があることがわかります。創造が豊かであればあるほど、歓喜は深いのであります。 わが子を見つめる母には歓喜があります。母が歓ぶのは、 母が身体的にも精神的にも子どもを創造したのだという意識を持っているからであります。営業を発展させている商人、自分の営んでいる事業の繁栄を眺めている工場主は、お金が儲かったということや有名になったということのために歓ぶのでありましょうか。富や名声はもちろん、その商人や工場主が感ずる満足の中で大きな要素を占めてはいます。しかし、その富や名声は彼らに、歓喜よりも快楽をもたらすものであります。そうして、彼らが本当の歓喜を味わうものは、発展する企業を創始し、何かに生命を吹き込んだという感情であります。自分の構想を作品にし上げることができた芸術家の歓喜、発見あるいは発明をした学者の歓喜といったように、非常に特別な歓喜を考えてみてください。そういう人たちは名誉のために精励しているのであり、人々に褒め称えてもらうことが彼らに鋭い歓喜を与えるのだ、と言う人もいることでしょう。何というひどい誤りでしょう。 人は成功したという自信を持っていなければいないほど、賛辞や名誉に頼るものなのであります。虚栄心の底には卑屈さがあります。人が賞賛を得ようとするのは、内心の不安をほっとさせるためであり、自分の作品を人々の熱っぽい賞賛で包みこもうとするのは、ちょうど早産の子を真綿で包むように、おそらくは不十分な自分の作品の生命力を守ってもらうためであります。しかし、自信を持っている人、生命力が溢れており、かつ長く生き続けることができる作品を産み出したという絶対的な自信を持っている人は、賛辞を必要としませんし、名誉を超えたものを感じています。その理由は、彼が創造者であるからであるとともに、彼が創造者であることを知っているからであり、そうしてまた、彼が感ずる歓喜は神的な歓喜であるからであります。そこで、ありとあらゆる領域において、生命の勝利が創造であるならば、芸術家や学者の創造と違って、ありとあらゆる人間がどんな時にでも追求しうる創造にこそ、人間の生命の存在理由があると考えるべきではないでしょうか。その創造とは自己による自己の創造であり、少しのものから多くのものを引き出し、無から何ものかを引き出して、世界の中にある豊かさに絶えず何ものかを付け加える努力によって、人格を成長させることにほかなりません。

 

 
 芸術的な生命

 外から見ると、自然は予見できない新しい形態が果てしなく咲き誇っている花園のようであります。自然に生命を吹きこむ力は、動植物の限りなく多様な種類を、愛によって、何ものかのためにではなく、ただ単に快楽のために創造しているかのように見えます。自然は、そのおのおのの種に、偉大な芸術作品という絶対的価値を与えています。自然は、最初にできたものにも、後からできた他のものと同じだけ、人間と同じだけの愛着を持っているかのようであります。しかし、生物の形態 はいったん作られると、果てしなくその形態を繰り返してゆきます。同じように、生物の行動も一度行なわれると、その行動をまねて自動的に繰り返そうとする傾向があります。ですから、自動的な運動と反復とは人間以外のどの領域をも支配しているのでありますが、この自動的な運動と反復は、生物の形態は停滞であること、このように同じ場所で足踏みするのは生命の運動そのものではないということを、私たちに知らせてくれています。 だから、芸術家の観点は大切ではありますが、決定的なものではありません。生物の種類の豊かさと形態の独自性は、確かに生命の開花を表わしております。しかし、この開花の美しさは生命の力強さを示してはいますが、それとともに、生命がその躍動を停止していることを表わし、もっと先へ進む力が一時的になくなって、無力となってしまっていることを表わしています。それはちょうど、スケートをしている子どもが滑走の最後に描く優美な輪のようなものであります。


 
 道徳的な生命

 人間探求者の観点はもっと高いものであります。ただ 人間においてのみ、特に人間の内でもっとも優れた人々においては、生命の運動は障害なく前進が続けられ、生命の運動がその前進の途中で創造した人体という芸術作品を通して、道徳的な生命の限りなく創造的な流れを噴出させています。絶えず過去の全体によりかかることによってより強く未来にのしかかってゆくようにな っている人間というものは、生命が収めた大成功であります。しかし、最上の創造者というのは、その人の行動自体が充実しているだけではなく、他人の行動をも充実させることができるような人であり、その人の行動自体が高邁であるだけではなく、高邁という炉床に火を点け燃え上がらせることができるような人であります。道徳上の偉人、特に創意的で純粋な英雄的行為によって徳へ達する新しい道を切り開いた人々は、形而上学的真理の啓示者であります。彼らは進化の頂点に立っている人 人ではありますが、またかえって生命の起源のごく近くにいる人々であり、根底から来る衝動を私たちに見えやすくする人々でもあります。私たちが直観の働きによっ て、生命の原理そのものにまではいりこもうとするので あるならば、これらの人々を注意深く注視して、彼らが感ずるものを共感するように努めましょう。もっとも、 深い底にある神秘なものに入り込むためには、時には頂上を見なければなりません。地球の中心にある火は、火山の頂上にだけしか現われないのであります。

 

 
 社会的な生命

 生命の躍動が自分の前に切り開いていった2つの大きな道、すなわち節足動物の系列と脊椎動物の系列に沿って、初めには溶け合って含まれていた本能と知性が、様々な方向に発展しました。前者の進化の頂点には 膜翅類の昆虫があり、後者の進化の頂点には人間があります。そのどちらの場合にも、到達した形態の根本的な相違にもかかわらず、そうして、通過した道が次第に 遠く離れて行っているにもかかわらず、進化は社会的な生命へと達します。それはちょうど、社会的な生命という要求が初めから感じられていたかのようであります。というよりもむしろ、生命の根源的にして本質的な憧れが、社会においてしか十分な満足を見つけ出すことができないかのようであります。社会は個々の成員の力を共同のものにするところでありますから、社会は、すべての成員の努力から利益を受け、そうして、すべての成員の努力をより容易にします。社会は個体を自分に従属させるのでなければ存続できず、かつまた、個体をしたいままに放任しておくのでなければ進歩できません。つまり、社会はこの相反する要求を和解させなければなりません。

 昆虫にあっては、第一の条件だけが満たされています。蟻や蜂の社会は感心なほど規則が保たれ統一されていますが、固定しきった習慣に凍りついています。そこでは、個体は自分自身を忘れますが、社会もまた進むべき目標を忘れてしまいます。個体も社会も、夢遊病者のような状態で、同じ円の線上をぐるぐる限りなく回り続けるだけであって、まっすぐ前に向かって、一層大きい社会の力と一層完全な個体の自由へと前進しようとはしません。ただ、人間の社会だけが、2つの到達すべき目標を目の前において進んでいます。人間の社会は、自己自身と格闘し他の社会と互いに闘いながら、接触と衝突とによって、角を丸くし、対立をすり減らし、矛盾をとり除き、個人の意志がゆがめられずに社会の意志の中に入ってゆけるようにし、各社会もまた独自性と独立性を失うことなしに、もっと広い社会の中に入ってゆけるようにすることに、ひときわ目立った努力をしております。人間の社会は、ちょうど見る人の気をもませたりほっとさせたりする演劇のようであります。この演劇を見る観客は、「ここでもまた、生命は数知れない障害と闘いながら、もっとも数多くの量の、もっとも豊富な種類の、そうして、もっとも高級な質の発明と努力を獲得するために、個体化しようとするとともに全体化しようとして骨折っている」という感想を持たずにはいられないでありましょう。

 


 来世

 いまこの最後の事実の系列から離れて、前の系列に舞い戻ってみましょう。そうして、人間の心的活動は脳の活動からはみだしていること、脳は運動習慣を蓄積するけれども、脳は記憶を蓄積するのではないこと、思考の他の諸機能は記憶よりもさらにはっきり脳から独立していること、したがって、人格性の保存とその強化は、 身体が無くなった後も可能であり蓋然的でさえあること、などを考えあわせてみましょう。そうするならば、 意識がこの世で物質を通過してゆくうちに鋼鉄のように鍛えられて、もっと強い生命のために、もっと効果的な行動のために備えているのではないか、という推測が起こらないでしょうか。この来世の生命を、私はやはり闘いの生命であり、発明を要求する生命であり、創造的進化であるというふうに想像します。そこでは、私たちの おのおのは自然の力の働きだけで、それぞれの精神的段 階に座を占めるでありましょう。その段階というのは、 ちょうど大地を離れた気球が、その比重によって一定の高さにまで昇ってゆくように、その人の努力の質と量に応じて、この世で既に潜在的に高められている段階なのであります。

 といっても、このような推測は仮説に過ぎないことを私も認めます。 私たちは先ほどまでは蓋然性の領域の中におりましたが、ここでは、私たちはただ可能性の領域の中にいるのであります。私たちの無知をいさぎよく白状しましょう。けれども、その無知が決定的なものだと信じて、あきらめてしまわないようにしましょう。意識にとって来世があるならば、それを探求する手段が私たちに発見できない理由はありません。 いやしくも、人間に関することなら、何ものも人間から隠しきれるものではありません。またしばしば、私たちが極めて遠く無限の彼方にあると想像している知識が、 私たちの極そばにあって、私たちがそれを摘みとる気になるのを待っているようなこともあります。惑星の外の空間が、かつてはいま一つのあの世とされていたこと を思い出してください。オーギュスト・コントは、天体の化学的構成は永久に知ることができないものであると断言しました。それから何年か後に、スペクトル分析が発明され、今日では私たちは、星がどんな元素からできているかを、そこへ行って見た以上に詳しく知っているのであります。