モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

ベルクソン バーミンガム大学におけるハクスリ記念講演 Ⅰ


 アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn])

 20世紀前半を代表する哲学者  ノーベル文学賞受賞(1927年)

 


 「意識と生命」

 バーミンガム大学におけるハクスリ記念講演 (1911. 5. 29)

 


 大きな問題

 1人の学者の霊に捧げるといった講演をしようとする時には、その学者が多少とも関心を持っていた題目を選ばねばなりませんので、窮屈な感じがするものであります。ところが、ハクスリという名を前にして、私は題目を選ぶのに何の不自由も感じません。なぜなら、19世紀を通じてイギリスが生んだもっとも幅広い精神の持主のうちの1人に数えられるこの偉大な精神が、何の関心も持たなかったような問題を見つけ出すことのほうが、むしろ難しいからであります。なかでも、意識と生命とその両者の関係という三重の問題は、自然科学者であり同時に哲学者でもあった彼のような学者には、とりわけ強く提起されていた省察の課題であったに違いないと、私には思われるのであります。私としても、この問題こそがもっとも重要な問題だと信じますので、この問題を題目に選んだようなわけであります。


 
 
 演繹と批判と体系の精神

 さて、この問題の攻究にとりかかるにあたって、私は諸々の哲学体系の助けを得ることなど、あまりあてにはしておりません。なぜなら、多くの人々を不安に駆り立て、苦しませ、熱狂的にさせる問題が、形而上学者の思索のなかで、いつも第一の位置を占めているとは限らないからであります。私たち人間はどこからやって来たのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。これらの問題こそまさに根本的な問題であります。もし、私たちが諸々の哲学体系に頼らないで哲学をするならば、たちどころにこれらの問題に直面するはずであります。しかしながら、あまりにも体系的な哲学はこれらの問題と私たちとの間に、ほかの諸問題をさしはさみます。体系的な哲学はこう言います。「問題の解決を求める前に、まず どのようにして解決を求めるべきかを知らねばならないのではないか。思考の機構を研究しなさい。認識の本性を論究し批判力を批判しなさい。このようにして、道具の価値を確かめてから、道具を使うことを考えればよい」と。残念なるかな、そういうときは決してやって来ないでありましょう。どこまでゆくことができるかを知るのには、ただ一つの方法しかないと、私は思います。 そのただ一つの方法とは、出発して前進し始めることであります。もし、私たちの求める認識が本当に有益なものであるならば、つまり、その認識が私たちの思考を伸び広げてくれるはずのものであるならば、前もって思考の機構を分析していたのでは、認識を前進させるなどということはできないということを示すだけでしょう。なぜなら、認識によって思考を伸び広げることこそ問題でありますのに、その拡大の前に私たちの思考を研究してしまうからであります。えてして、精神の精神に対する早まった反省は、進む勇気をくじいてしまいます。 ただまっすぐに進んでゆきさえすれば目標に近づくことになりましょうし、そのうえ、障害と見られていたものは、たいてい幻影に過ぎなかったことに気づくようになるでありましょう。
 
 ところで、いま仮に、形而上学者が批判のために哲学を、手段のために目的を、影のために獲物をとり逃がすようなことをしないと仮定してみま しょう。その場合でも、形而上学者は人間の起源、人間の本性、人間の目標といった問題に直面しますと、あまりにもしばしば、この問題を通り越して、彼がいっそう高いと判断する問題に移ってしまい、先の問題の解決は 一にこのいっそう高い問題に依存していると言うでありましょう。彼はまず存在一般、可能と現実、時間と空間、 精神性と物質性について思索します。次に、この一般的なるものから段々と意識と生命へと降りていって、 意識と生命の本性を突きとめようとします。その時の形而上学者の思索はまったく抽象的であり、かつまた、 その思索はものそれ自体に基づいた思索ではなくて、形而上学者がものを経験的に研究することをしないで作った、あまりにも単純な観念に基づいた思索であることは 明白なことではないでしょうか。ある種の哲学者がこんな奇妙な方法に愛着を持っているということは、その方法が哲学者の自尊心を満足させ、哲学者の仕事を楽にし、哲学者をして決定的な認識を得たと錯覚せしめるという 三重の利益を持つのでなければ、理解できないことであります。その方法はあるごく一般的な理論へ、ほとんど空虚な観念へと哲学者を導きますから、哲学者はいつも後からその空虚な観念の中へ、経験がものについて 教えてくれるすべてのものを、遡って入れることができます。この場合、哲学者は推理の力だけであらかじめ経験を先取していたのだと主張するでありましょうし、より広い一つの概念のなかに、より限定された諸概念を前もって包摂していたのだと主張するでありましょう。しかしながら、この限定された諸概念のほうが、作ることの難しい概念であり、保持しておくべき有用な概念であって、事実を深く究明することによって把握することができる概念なのであります。

 また他方、抽象的な諸観念を用いて幾何学的に推理することほどやさしいことはありませんから、哲学者は一切が密接に相関連し厳密さをとりえとしている一つの学説を、苦もなく作りあげます。しかし、この厳密さは実在のうねうねとくねった動的な輪郭を辿ることをしないで、図式的でこわばった観念を操作することによって生じた厳密さであ ります。そんな哲学よりももっとつつましい哲学、つまり、対象が依存するかに見える原理などにあれこれ気を使わないで対象そのものにまっすぐ向かってゆく哲学の方が、どんなに望ましい哲学であることでしょう。 この哲学は一挙に確実性を得ようとは望まないでしょう。 一挙に得られるような確実性は束の間の確実性でしかありません。この哲学はもっと時間をかけます。光の方 へとゆっくりのぼってゆきます。段々と広さを増してゆく経験によって、段々と高い蓋然性へと高められてゆくならば、ちょうど極限へ向かってゆくがごとく、 私たちは決定的な確実性に絶えず近づいてゆくことになるのであります。

 

 事実の諸系列

 私としては、こういう重大な問題の解決を数学的に演繹しうるような原理はないと思っています。その上、本当のところ、物理学や化学の場合とは違って、問題を解決する決定的な事実もまたここにはないと思っています。ただ、経験のさまざまな領域には事実のいろいろなグループが認められ、そのグループのおのおのは私たちの獲得しようと望んでいる認識を与えはしないとしても、そういう認識を見つけ出せる方向を示しているように思います。ところで、一つの方向を持っているということは、それだけでも大したことであります。そうして、それをいくつも持っているに越したことはありません。なぜなら、これらの方向は同じ一点に集中するはずであり、そうして、この一点こそ私たちの求めるものだからであります。つまり、私たちは現在すでにいくつかの事実の諸系列を持っています。その諸系列の長さはまだ十分ではありませんが、しかし、仮に伸ばして考えることができます。私はみなさんといっしょにその諸系列のうちのいくつかをたどってみたいと思います。その諸系列を一つ一つ別々にとりあげる場合には、そのおのおのの系列は私たちを単に蓋然的な結論に導くに過ぎないでしょう。しかし、諸系列が同じ方向を指し示す時には、その事実の諸系列の全体は、確実性への道を歩んでいるのだと思えるほどの蓋然性の集積を私たちに見せてくれるでありましょう。そうして、私たちは善意ある 協力者による共同の努力によって、限りなく確実性に近づいてゆくことができるでありましょう。と申しますのは、この場合には、哲学はもはやただ一人の思想家の構成、つまり、思弁的な作品ではなくなるからであります。 哲学は追加と訂正と加筆を必要とし、また、絶えずそれらを要求するでありましょう。哲学は実証科学のように進歩するでしょう。哲学もまた、協力によって次第に作られてゆくものなのであります。

 


 意識・記憶・予期

 私たちが進もうとする第一の方向は、次のようなものであります。私たちが精神という場合、それは何よりもまず意識を意味します。それでは、意識とは何でしょうか。といっても、私はこれほど具体的でこれほど誰の経験にも常に現われるものを定義しようとするのでないことは、みなさんもおわかりでしょう。しかし、意識について、意識自体よりもはっきりしないような定義を下さなくても、私はきわめて明らかな意識の特徴をあげることによって、意識というものの性格を示すことができます。すなわち、意識とはまず記憶を意味します。 記憶には詳しさが欠けていることがあるし、過去のわずかな部分しか含んでいないことがあります。そうしてまた、たった今起こったことしか記憶していないことがあります。けれども、記憶そのものは存在します。もしも記憶が存在しないならば、意識もまた存在しません。 自分の過去を何も保存しない意識、自分自身をたえず忘れる意識は、瞬間ごとになくなってまた生ずる意識だということになります。これこそまさに無意識の定義ではないでしょうか。

 ライプニッツが、物質とは「瞬間的な精神」であると言ったとき、いや応なく、物質とは感覚を持たないものだと宣言したのではないでしょうか。こ のようにして、意識というものは記憶であり、つまり、現在における過去の保存と蓄積なのであります。 しかしながら、意識というものは未来の予期でもあります。みなさんの精神の方向を、任意の一瞬間でよろしいから考えてみてください。そうなさるなら、みなさんの精神は現在あるものにかかわっていますが、しかし、それは何よりもまずあろうとするもののためであることがおわかりになるでしょう。注意とは期待であり、生への何らかの注意をともなわない意識はありません。そこに未来があります。未来は私たちに呼びかけます。あるいはむしろ、 私たちを未来へと引っぱります。この不断の牽引によって、私たちは時間という道を進まされるのですし、この牽引はまた、私たちが絶えず行動を続ける原因なのであります。行動とは未来への侵入なのであります。だからして、すでに過ぎ去ったものをとどめておき、 まだ存在していないものを予期すること、これこそ意識の第一の機能であります。もしも、現在が数学的な瞬間に還元されるとしたら、意識にとって現在はないことになりましょう。この数学的な瞬間は、過去を未来から区別する、単に理論上の境界点に過ぎません。厳密に言えば、この瞬間は考えられるかもしれませんが、決して知覚されはしません。私たちがこの瞬間をつかまえたと思ったときには、この瞬間は私たちからすでに離れてしまっているのであります。私たちが実際に知覚するものは、二つの部分から成りたっている持続のある厚みであります。その二つの部分というのは、過ぎ去ったばかりの過去とまぢかに迫った未来であります。私たちはこの過去によりかかり、この未来に傾いています。このよりかかることと傾くことは、意識を持っている存在にだ けあることであります。したがって、意識は、あったこととあるだろうこととの間を結ぶ連結線であり、過去と未来をつなぐかけ橋であるとも言うことができましょう。 しかし、このかけ橋は何の役にたつのでしょうか。そうして意識の任務とするところのものは何でしょうか。

 

 意識を持っている存在とは何であるか この問題に答えるために、意識を持っている存在とは何であるのか、意識の領域は自然のなかでどこまで及んでいるのかを考えてみましょう。そうは言っても、ここでは完全にして厳密な数学的明証性を求めないことにしましょう。というのは、数学的明証性を求めるなら、 私たちは何も得ることができなくなるでしょうから。ある存在が意識を持っていることを確実な学問的事実として知るためには、そのものの中に入り、それと一致し、そのものとなってしまわなければなりません。いま みなさんにお話をしているこの私が意識を持っている存在であるということを、実験によってでも推論によってでも証明してみせることができるなら証明してみせてください。もしかすると、私は自然が巧妙に作りあげた、 行ったり、来たり、おしゃべりしたりする自動機械であるかもしれません。私が自分は意識を持っていると宣言したところで、その言葉そのものが、もしかすると無意識のうちに発音されているのかもしれません。けれども、 そういうことは不可能ではないとしても、ありそうもないことだとみなさんは言われるでしょう。ところで、みなさんと私との間にはっきりした外的類似があります。 この外的類似から類推によって内的相似を求めることが できます。言うまでもなく、類推による推論は蓋然性以上のものを決して与えはしません。しかし、その蓋然性が、実際には確実性に等しいほど高い蓋然性である場合がしばしばございます。ですから類推の糸をたどっていって、意識はどこまでおよんでいるか、意識はどの点で止まっているかを調べてみましょう。
 
 人はよく次のように言います。「私たち人間では、 意識は脳に結び付けられている。だから、脳を持っている生物だけに意識があるのであって、他の生物には意識はないとせねばならぬ」と。しかし、みなさんはすぐにこの論証の欠陥に気づかれることでしょう。これと同じやり方で推論すれば、次のようにも言えるはずであります。「私たち人間では、消化作用は胃に結び付けられている。だから、胃を持っている生物は消化作用を営み、 他の生物は消化作用を営まない。」と。ところが、これはたいへんな間違いであります。というのは、消化作用を営むためには、胃を持つことはもとより、器官を持つことさえ必要ではないからであります。たとえば、アメーバはほとんど分化していない原形質のかたまりに過ぎませんけれども、消化作用を営みます。ただ、生物体が複雑になり完全になるに従って、作用は分化してきます。 それぞれの機能にそれぞれの器官があてがわれます。そうして、消化の機能は胃に、より一般的に言えば、消化器官に局所化されるようになります。その消化器官は消化の機能だけに限られているゆえに、消化作用をよりよく営むことができます。同じように、意識が人間にあっては脳に結ばれていることは異論のないところであります。

 しかし、だからといって、そのことから脳は意識に 欠くことのできないものであるということは帰結しません。動物の系列を降りてゆけばゆくほど、神経中枢も次第に簡単になり、解体してゆき、終いには、神経の諸要素は消えて、ほとんど分化していない有機体のかたまりの中に没してしまいます。そこで、次のように考えられないでしょうか。すなわち、生物の最高段階では、意識が非常に複雑な神経中枢に定着しているのならば、意識は生物の段階をずっと降りていっても、意識はやはり神経系にともなっている、そうしてまた、神経を作っている物質がまだ分化していない、生命を持つことができた物質のなかに溶けこんでしまったときには、意識もまた散らばって渾沌としたものとなり、ほとんど消失したようではあるが、しかし全然なくなったわけではない、というふうに考えられないでしょうか。だから、 厳密には、すべて生命を持っているものは意識を持つことができると言えましょうし、原理的には、意識は生命と同じ外延を有しているのであります。しかし、事実においてもそうなのでしょうか。意識には眠ったりあるいは消え去ってしまうことが生じないでしょうか。それはありそうなことであります。以下で見てゆく事実の第二の系列は、そういう結論へと私たちを導くようであります。

 

 
 選択の機能

 私たちがいちばんよく知っている、意識を持っている存在にあっては、意識が働くのは脳の仲介によってであります。ですから、人間の脳を一瞥して、人間の脳はどのように働くかを見てみましょう。脳は脳自身のほかに 髄や種々の神経などを包含した神経系の一部であります。 髄にはいくつかの機構が仕組まれていて、そのおのおのは、いつ始めてもよいように準備ができている複雑な行動を含んでおり、身体は、したいときにそれらの行動 をすることができます。それはちょうど自動ピアノに装 置した穴をあけた巻紙に、ピアノが奏でるいろいろな 曲目が前もって書いてあるようなものであります。これらの機構のおのおのは、外からの原因によって、じかに働きはじめることがあります。この場合、身体は受けた刺激に対する反応として、互いに順序だった一まとまり の運動を直ちに行ないます。しかし、刺激がじかに髄に働いて、身体の多少とも複雑な反作用を直接的にひき起こすのではなくて、刺激がまず脳にのぼり、次に降りて来て、脳に仲介させたあとでしか髄の機構を働かせない場合があります。なぜ、このような回り道をするのでしょうか。脳の介入はどんな役に立つのでしょうか。神経系の一般的構造を考えてみるなら、苦もなくその解答がわかるでありましょう。脳は髄の機構一般と関係しているのであって、ある機構とだけ関係があるのではありません。かつまた、脳はどんな種類の刺激をも受けるのであって、ある種の刺激だけを受けるのではありません。 ですから、脳はどんな感覚の道からやってきた振動であるにせよ、その振動が、どんな運動の道とでも連絡しあえる四つ辻であります。脳はまた、身体組織のある一点から受けた流れを任意の運動の機関の方向へ向けることができるスイッチであります。したがって、刺激が回り道をするとき、その刺激が脳に要求するものは、もはや自動的にではなく、選択をして運動機構を働かせることにあるのは明白であります。髄は種々の状況から提出される問題に対して、多くのできあがった解答を持っていますが、脳の介入はその解答のうちもっとも適当なものを働かせるのであります。脳は選択の器官なのであります。

 ところで、動物は下等の段階になるに従って、髄の機能と脳の機能との区別がだんだんはっきりしないものとなってきます。高等動物では脳に局所化されていた選択の機能が、しだいに髄におよんでゆきます。その際、髄はそんなに多くの機構を持たなくなり、その仕組もむろん正確さが減ってきます。最後に、神経系が発達していない動物ともなれば、まして、はっきり区別されるような神経要素を持っていない動物ともなれば、自動的な運動と選択はいっしょに溶けこんでしまっています。すなわち、反作用はほとんど機械的とも見えるほど単純になっています。それでもなお、その反作用はまだあたかも 意志によるかのごとく、ためらったり手探りしたりします。

 先ほどお話し申しあげたアメーバのことを思い出してください。アメーバは食物になる物質に出会うと、この外の物体をつかみ包むことができる突起を自分の方から伸ばします。この偽足はりっぱな器官であり、したがって機構であります。そうして、この偽足は状況に応じて作られた一時的な器官ではありますが、すでに初歩的な選択を表わしているもののように思われます。動物的生命の高等なものから下等なものへと見てゆくと、下等な動物となるに従って、ますます漠然とした形にはなりますけれども、選択の機能、つまり一定の刺激に対して多少とも予想外な運動で答える機能が働いていることがわかります。これが第二の事実の系列において、私たちが見つけ出すことができた結論であります。かくして、私たちが第一の事実の系列において出した結論が補われます。というのは、前に言ったとおり意識は過去をとどめて未来を予期しようとするものであるならば、そ れはとりもなおさず、疑いもなく、意識の任務は選択することであるからであります。すなわち、選択するためには、何をなしうるだろうかを考えなければなりませんし、かつまた、すでになしたことについては、その結果が有益であったか有害であったかを思いださなければなりません。予見しなければならず、回想しなければならないのであります。さらにまた、私たちの結論がこのように補われるなら、先に私たちが提出した問題、すなわち、ありとあらゆる生物は意識を持っている存在であるか、それとも、意識は生命の領域の一部を占めているに過ぎないのかという問題に対しても、この結論は一つの是認できそうな解答を提供してくれます。

 


 
 目ざめた意識と眠った意識

 実際、意識が選択を意味し、意識の役割は決断することにあるとしますと、自発的に動こうとせず、決断しようともしない有機体に意識があるということは疑わしいことだとせねばなりません。けれども、本当を言えば、自発的な運動が全然できないように見える生物はありません。植物界においてさえも、その組織は一般に地面に定着してはいますが、自分を動かす機能は、ないというよりもむしろ眠っているのであります。すなわち、 その機能が役に立つようなときがくれば目ざめるのであります。ありとあらゆる生物は、植物にしても動物にしても、権利上はその機能を持っているのですが、事実上では多くの生物はその機能を捨てているのだと私は思い ます。その機能を捨てた生物とは、まずかなりの動物、 ことに他の有機体に寄生していて食物を見つけるために移動する必要のない動物のうちの多くがそうであり、それから、大部分の植物がそうであります。この後者、すなわち大部分の植物は、人も言うように、大地に寄生しているのではないでしょうか。ですから、もともと生命 を持っているすべてのものに内在している意識が、自発運動がなくなったところでは眠り、生命が自由な発動性の方へ向けられるときには高まるということは、 私には本当らしく思われます。そのうえ、私たちは誰でもこの法則を自分自身によって検証することができます。私たちの行動の一つが自発的なものでなくなり、 自動的なものになったときには、どんなことが起こるでしょうか。意識がそこから退いてしまいます。

 たとえば、 体操を練習する場合、私たちは初めは自分のする一つ一つの運動を意識しています。その理由は、その運動の原因は私たちであるからでありますし、その運動の一つ一つは私たちの決断の結果であり選択を含んでいるからであります。次に、これらの運動がだんだんと緊密に連携しあい、次第に相互に機械的に決定しあうようになってくると、私たちが決断したり選択したりする必要がなくなってきますから、私たちが一つ一つの運動について持っていた意識は減少し消えてゆきます。反対に、 私たちの意識がもっとも鮮明さを持つのはどんな瞬間で ありましょうか。その瞬間とは、二つあるいはそれ以上のとるべき道を前にして、いずれを選ぶべきかをためらったり、自分の未来が自分のすることによって決まると感ずるような、内的危機の瞬間ではないでしょうか。だから、私たちの意識の強さの度は、まったく、私たちが 行動に際してどれだけの数の選択をしているかということ――どれだけの大きさの創造をしているかと言っても よいのですが――に対応していると、私には思われるのであります。そうしてこれらすべてのことは、意識一般 もまた、このようなものであるという考えを私たちに持たせてくれます。意識が記憶と予期を意味するというのは、意識が選択と同意語だということであります。

 そこで、生命を持つことができた物質を、それが最初に示した原初的な形で思い浮かべてみましょう。それは 原形質のゼリー状のかたまりで、ちょうどアメーバのようなものであります。生命を持つことができた物質は自分で形を変えることができますから、漠然とした意識を持っています。さて、その物質が成長し進化するために、 二つの道がその物質の前に開かれています。一方では、 生命を持つことができた物質は運動と行動の方向、すなわちますます効果的になる運動とますます自由になる行動へと進むことができます。この歩みには危険があり波乱がありますが、それはまた次第に深さと強さの度を増してゆく意識なのであります。他方また、この生命を 持つことができた物質は、それ自身の中に萌芽として持っている行動と選択の機能を捨てて、自分に必要なすベてのものを探しにゆく代わりに、じっとしていて獲得しうるように手筈を整えることもできます。これは安住しきった、落ちつき払ったブルジョア的なあり方では ありますが、同時にまた、これは不動性ということから 帰結する第一の結果としての麻痺状態であります。それはやがて決定的な仮睡状態になり、無意識になります。 以上が生命の進化のために開かれた二つの道であります。 生命を持つことができた物質の一部は前者の道をとり、 一部は後者の道をとりました。前者は大体において 動物界への方向を示しています「「大体において」 というのは、かなりの種類の動物は運動を捨て、ひいては疑いもなく意識をもまた捨てているからであります。 後者は大体において植物界への方向を示しています [ふたたび「大体において」というのは、運動性が、そうしてまたたぶん意識も、次として植物において目ざめる場合があるからであります。