モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

神道青年全国大会記念シンポジウム講演記録 Ⅱ

 

「神々と情報 メディアとしての神社」    松岡正剛氏 (編集工学研究所所長)

 
 ―京都の四生同堂(しせいどうどう)

 今日は神々にかかわる方々のお話しをということで、ちょっと緊張しておりますが、できるだけ私の仕事と私自身が感じていること、それから私の日本の神々に対しての考え方を織りまぜながらお話ししたいと思います。
私は京都の古い町家に生まれ育ちました。当時は気がつかなかったのですが、その頃の体験が、今でも自分の原体験になっているのだということに、ずいぶん後に気が付きました。
そのころ京都の中京ではどの家庭にも神棚と仏壇があって、神棚には毎日ご飯、お水、お米などをお供えし、毎週榊を買って供える。当時はまだ大原女や白川女のおばさんやお婆さんが頭に花を載せて、「花いらんかえ」と言って売りに来ていたんですが、私の母親はいつも大原女から榊を買っていました。この前テレビのドキュメンタリーを見ていたら、もう大原女の方がお1人しか残ってないというので、たいへん残念だなと思いました。

 母親は一方では仏壇も大切にお供えものをして守っていました。私も子供心に、そこにはつねに先祖がいるという感覚があった。それから、庭には濡れ縁がかかっていて、季節になるとウグイスが来たり、メジロが来る。犬も飼っていた。父親がいて、母親がいて、私がいて、妹がいて、動物たちがいる、また、先祖も神様も同時に見えている、というふうにいくつもの存在たちがいた。このように祖先、神々、現実に生きているものがつねに同居している空間に私は生まれ育ったんです。

「四生同堂」という言葉があります。四つの生きるものたちが一所にいるという意味ですが、かつて私たちは、神のような超越的なもの、時間を超えたもの、空間を超えたものと、自分の身近にいるウグイスやメジロや猫や犬、家族たちとを、ある同じ目で見つめることができていたように思います。そして、そのあと 大原女が京都で1人になってしまったように、残念ながらそのように神を見つめたり、仏を見たり、さらに動物を見つめる目がだんだん分化してしまった、分かれてしまった。

 最近になって、過剰な資本主義が発達しすぎたせいだと思いますが、環境やエコロジーが問題になったり、 あるいはアイデンティティや付加価値や心というものが問題になったりしてますが、分かれてしまった四生同堂、バラバラになってしまったものをもう一度集めなおし、1つ1つそこにひそんでいるものに目を凝らし、耳を澄ますという時代が再びやって来つつあるのかなという気がします。しかし、いったん分けてしまったものを集めるのはなかなか大変ですし、また集めるときにいろいろ根拠の違いを問うたり、比べたりすることは大変難しい。

 私は祇園祭の鉾町あたりに育ち、御霊会、風流という世界にもなじんできました。 小さいころは鶏鉾という鉾町で、コンチキチンというお囃子で育った。初夏になると、町内一帯に祇園祭のためのさまざまな道具が出てくる。ご存知のように、祇園祭の山車には、ゴブラン織りのようなものから、中国神仙思想を型どったものから、役の行者のような古いキャラクターを伝える日本文化の型まで、世界中の文化が入っています。こういう世界が、京都の町の奥にあるんだということを、子供心に知らされるわけです。

 でも「祇園さん」すなわち八坂神社というのは、子供にとっては大変わかりにくいもので、父親に聞いても、鉾町の長老たちに聞いても、「牛頭さんというのが居はってな。えらい恐い神さんや」という説明をされるだけで、牛頭さんが人の名前なのかなんなのか最初はまったくわからない。けれどもわからないなりに子供たちは受け止めていくんですね。なんとなく畏怖感をもち、それがのちにスサノオ伝承と結び付く日に、ああそうかとピンとくるわけです。

 また、ちょうど小学校の半ば過ぎから、中京のあたり、御所の近くに引っ越しまして、そこは下御霊神社の近所でした。すぐそばに荒神様がありまして、荒神口という町の名前やバスストップがあり、そこへ行く時は、走っている時でも、「ちゃんとアン(拝む)してから行きなさい」と母親に言われる。ほかのところではあまり言われないのに、なんで荒神さんにはアンとやっていきなさいと母親が言うのか、よくわからなかった。こういう荒ぶるものも、町の中にかつてはもう少し生き生きと生きていたんです。
それから、私の家は井戸が2つあり、大きな大黒柱があって、上がサーカスの天井のように組まれていて、 高いところから光が漏れてくるような古い家でしたが、大黒柱に寄りかかったり、そこでチャンバラごっこをやったりしようものなら、こっぴどく叱られる。
そして、鋏やいろんな持物と家の物々とがどういう関係にあるかということを、一種のタブーとして教えられたわけです。私が東京へ出てから、その京都の家も 新しいオーナーが出現し、いまやビルになっています。 一体こういうふうに、消えてはいませんが、見えにくくなったものたちをどうやって探したらいいんでしょうか。かつてはあきらかに自分の中にも生きていたものに、もう一度再会するにはどうしたらいいのか。今日は神主のみなさんも背広をお召しになってますが、普段でもたいていの男性は靴を履き、靴下、ネクタイという西洋の文化の中で暮らしています。住まいなども、照明や電気製品など、技術の文化に囲まれている。そうした中で神々ともう一度再会するためには、新たな視点が必要になってくると思うのです。

 さて、今日お話しする新たな視点というのは、ひとことでいえば「情報」という視点です。情報という考え方は、言葉としてはそれほど難しくないと思いますが、情報化社会、高度情報社会といわれると、一体何が情報なのかがなかなかわかりにくい。
しかし、上は政府から、下は商店主まで、情報については耳をそばだてていますし、それ自体が大きな経済のパーセンテージを占めるにも至っているわけです。いまや67~8%の割合で情報産業が日本を支えています。でも、誰も情報とは何かということを説明できない。そういう現代を覆いつくしつつある情報 と、古代から山野、あるいは都に、町に、辻に、去来していた神々との関係は、一体結びつくのかどうかということを、少し私なりに探してみたい、試みてみたいと思っています。

 


 ― 庭の山椒に鳴る鈴かけて

 最初に、私が神々や神道に対して何を感じているかを申しあげておきたいと思います。 私は「社」という言葉がたいへん好きです。ご存知のように「やしろ」という言葉は、最初は屋根の「屋」という字と、千代の富士の「代」という字をあてていました。ということは、もともとは「代」というもの があって、この「代」に屋根、覆いがついた状態が社の原型である。この「代」と出会うときに、人々が何かを感じる仕組みがあったのだと思える。では、いったい「シロ」とは何か。その「シロ」というものに巡り合いたいというのが、私の最初の神道的世界観への入り口でした。 「私の父親は京都の上賀茂神社が好きだったので、よく一緒に連れて行かれました。上賀茂神社の奥、 鞍馬と比叡山の間ぐらいに雲ガ畑という地域があって、そこからは本当に雲が涌き出てくる。私の家では、 上賀茂近辺で1年に一度か二度、家族で何事かを「トキ」するということをしていました。「トキ」とは何か、その時一体父親が何をしていたのか、父親は私が23の時に亡くなりましたので、残念ながらそういう話を聞きそびれていますが、きっと父親にとっては何か大事な日だったのだと思います。子供にとっては遊びに行くようなもので、あそこの焼き餅がおいしいとか、じゅん菜を初めて食べさせられたとか、そういう記憶しか残っていない。

 ただ、1つ強烈に残っているのは、父親たちが何かやっている間、遊び回って走るうちに、いわば結界の中に私が入り込んだことがある。母親が「そんなとこに入ったらあかんよ」と言っていましたが、もう夢中で遊びまわっていたので、鬼ごっこか何かしながら、いつのまにか道が途絶えて山にさしかかっていく坂まで入ってしまいました。と、その瞬間に雲ガ畑から出てくる雲に、雷鳴がとどろいた。あわてて結界から飛び出してきたんですが、以来「お社の奥には何かあるんよ、それが大事なんやさかいに、そんなとこ行ったらあかんよ」と言われまして、その謎がずっと残っている。元々カミナリは神鳴りですからね。 そんなことがありまして、長じてから「シロ」というものに関心をもつようになったわけです。
まず結論からいきますと、私は「シロ」というものは、情報の去来する装置だと思っています。そこで、 今日の話のなかで、ヤシロの「シロ」ということと、現代に語りうる情報ということが、実際にはどう関係しているかということを少しずつ両側からアプローチして、つなげてみようと思うのです。

 こういうことがありました。私には全盲の叔父がいます。生まれついての全盲で、彼が遊びに来ますと、 子供の私が手を引いて町を案内させられていたんですが、ある時デパートへ買物へ行きたいというので行った。ちょうどデパートの1階に入った時に、「正剛ちゃん、えらいきれいな風鈴の音やね」と叔父が言う。私にはまったく聞こえなかったのですが、あれこれ買物をしてエレベーターに乗って、5階の扉がすっと開くと、そこに鉄の風鈴がずらり並んでいてリンリンリンリンッと鳴っている。私が驚いていると、叔父は「ずっと聞こえてたよ」と言う。私はたいへんショックを受けました。人間の知覚、その場合は聴覚ですが、聴覚は研ぎ澄ませばこんなにすさまじいものになるのか、遠いものが聞けるのかと、よく知っている叔父ではありましたが、改めてそういう場面に遭遇して知らされました。

 ついでながらもう1つエピソードを申しあげておきますと、私の家は呉服屋でした。染屋さん、仕立屋さんが外にありまして、うちでまとめて、それをお得意さんにお届けするという古い呉服屋です。その仕立屋のなかに、耳が不自由なおばさんがいた。発音も少し不明瞭で、話をする時は相手の口元の唇の形を見て話される。読唇術ですが、私はまだ幼かったので、なんとなくそのおばさんのことがちょっと不気味だったんです。大体「おばさん」と声をかけても、こっちを振り向いてくれない。目の前へ行って「おばさん」と口を動かして見せると、「ああ、正剛ちゃん」と、発音不明瞭な声で答えられるわけです。

 ある日そのおばさんのところへ届け物をさせられた。怖くていやいやながら、おばさんのひとり住まいの小さな家に行くと、その日に限って「上がってらっしゃい」と言われた。「今日はケーキがあるから」と言う。だいたい相手が自分の顔の方を向きながら、唇だけを見ているというコミュニケーションはきわめて奇妙です。ゾクゾクしながらケーキをよばれていたら、なんとなくもっと寒気がしてきた。ふっと気がつくと、部屋のなかに、当時ですからまだ初期の巨大なステレオが置いてある。「あれ、おばさんはひとり住まい で、耳が悪いはずなのに」と考え出すと、居ても立ってもいられなくなってしまいました。おばさんは嘘をついてる、なにかこわい人ではないか、ケーキで釣っておいて僕を食べちゃうんだとか(笑)、どんどん想像が羽ばたいてしまって、恐怖のどん底に陥ってしまった。
するとおばさんが察知して「これは私が聴くんだ」と言う。私がまだ不思議な顔をしていると、おばさんはニヤニヤして「じゃあ、私がこれを聴くのを聴かせてあげよう」と言って、レコード盤を置いて、ピックアップを下ろして、ボリュームをいっぱいに上げた。その瞬間にダッと両手を広げてスピーカーにあて、本当に音を聴いているんです。

 このこともさきほどの叔父と同じように、知覚、感覚、感性がいかに発達しうるのか、研ぎ澄ませるのかということを、子供心に植えつけた大きな出来事でした。本来の神道というものも、もともとこのように知覚を磨くことそのものだったと思います。神主さんはもっと知覚を澄ますべきだということですね。日本人は昔からこの磨き澄ましの仕組みをいろいろつくってきたはずです。
たとえば、稗搗節という民謡に、「庭の山椒の木に鳴る鈴かけて」という歌詞があります。そしてその庭に 何かが出ておじゃるというふうに歌詞が続く。何が出てくるのか。神でしょうか。何でしょうか。鈴をかけておくのはどういうことなのか。これは鈴の音に耳を澄ましたわけですね。山椒の木は依代です。つまり木に鈴をかけて知覚を磨く方法があったわけです。

 私の友人に守矢君という男がいます。守矢家は諏訪の一族で上賀茂神社とも縁がありますが、その守矢君といっしょに、彼の親戚でもある当時の考古学者の藤森栄一さんに会いに諏訪まで行きました。そのとき藤森さんが鉄鐸というサナギを見せてくれた。30年前のことです。そして、シベリアシャーマンから日本に至る北方文化圏におけるシャーマンの歴史の話を聞かせてくれた。
シャーマンという言葉は、「沙門空海」というように「沙門」という日本語になっているほど、直接北方シベリア系の、ウラル・アルタイ系の一種の考え方を日本に導入しているものです。その文化の流れには、必ず鐸の文化が入っている。それは小さい鐸で、銅鐸のような大きいものではなく、腰にぶら下げたり、胸のところに飾ったりする。「そうして、何かを待つんだ」と、藤森先生は言っていた。当時の鐸は、ラッパのようになっている。中ががらんどうになっていて、それをいくつも重ねる場合もありますし、並べて鳴子のようにする場合もあります。それを非常に大事な木にかけて待っていると、そこへ風が吹きこむ。大事な木というのは境木としての依代です。先生は「その音を聞いて、一瞬にして行くんだ」と言うのです。「行くって、どこですか」と聞くと「それは魂、精神が行くんだよ」。これを聞いたとき、私はまた、叔父の風鈴と、仕立屋のおばさんの手が聴いた音を思い出しました。そうして自分の中に古代的なもの、上代的な人間 像ができあがっていったのです。

 その後、どうも鈴が鐸を原型にしていることがはっきりわかってきました。そして、おそらく最初の鈴は舌がないものだったことも確信できた。空洞のことを私は空とよびますが、そこは何かがやって来るところなんです。古代の人びとには、全身が聴覚のようにはたらくような能力があったんだと思います。そのような能力を専門化したのがシャーマンだった。だから鐸をしきみや榊、ようするに世界木としての重要な神木にか けて祀った。そうすると、「おとづれ」というものがやってくる。「おとづれ」はいまは「訪れ」と書きます が、じつは「音連れ」であって、音を連れてくるものがあったわけです。だから耳を澄ました。かくて私は、 この鐸をかけた木が「シロ」の母型ではないかと考えるようになったのです。

 しかし、残念ながら人間の五感は鍛えていないと衰える。サナギというのはチョウチョやセミの蛹と同じ意味ですから、ギリシャ語でいうプシュケー、インド語でいうプラーナ、日本語でいうヒ(霊)、あるいはタマ(霊・魂)が籠りそうなものを示します。そしてその籠るかたちをサナギとよぶわけです。ひょっとしたらサナギという語感は、イザナギイザナミという言葉とも関係してくるかもしれないので、非常に重要な言葉 です。そのサナギの「おとづれ」を聞き取り、神がやって来たんだと感じられる能力が、われわれ現代人は 段々落ちていってしまったんだろうと思います。そのために、「何かが来た」ということをもう少しはっ きりつかむため、結局、鐸に舌をつけることにした。あるいは、それを全体に包むことによって鈴というものができてきたのではないかと思うのです。 ということは、どうやら私が関心を抱いてきた「代」とは、見えない情報を人々に見えさせる装置らしい。すなわち、「代」というのはエージェント、代行物、何かの代わりをするものです。今日の言葉でいうと、メディアにあたるものです。その媒介しているものに向かいながら、人々はその奥にあるものを感じようとした。その媒介になっている「シロ」を充実させること、あるいは大事にすることによってコミュニケーションの端緒とした、始原としたのだと思いはじめたわけです。こうなってくると、「ヤシロ」というものが大変大事になっていくわけで、いわばわれわれのコミュニケーションの、人間のコミュニケーションの最初の仕掛け、始まりということにさえ当たっていくわけです。

 いろいろと調べていくと、「代」という言葉には「社」以外にもたくさんあることがわかります。形代、 依代、苗代という言い方をします。みなさんすでにご承知のことなので、いうまでもないと思います。
では、何と何をつなぐものが「代」なのか。ずっとこのことを追いつづけて、ようやく気がついたこと は、「比処」と「彼方」、here と there 、ここと向こう、村の家と川向こうとでもいいし、村全体と山の向こうとでもいい。生の世界と死の世界でもいい。ともかく here と there をつなぐものがメディアとしての、あるいはエージェントとしての「代」であろうと思うのです。 「そうすると、この「代」を大事にしていくということは、結局向こう側からやってくるもの、すなわち there から来るものと、here から伺うものとの出会いの場を守るということになります。いわゆる斎場です。そしてその出会いの場には、「おとづれ」による出会いをもっと劇的に、もっとわかりやすく、もっとメモリアルに象徴するメディアが必要になってくる。それが御幣であったり、鈴だったり、巫女の踊りだったり、いろいろなものになっていく。
 
 現代の情報社会の情報洪水の中にいる私たちにとって、寄る辺として持つべきものを失っている私たちにとって、こうした「代」を媒介にしたコミュニケーションのあり方や、なにか寄る辺となるものをもとうとすることはたいへん重要なテーマになるように思います。もちろんテレビ、新聞、雑誌などからも情報はガンガンやってきますが、実はそういうマスコミやマスメディアを通してだけ情報がくるわけではなくて、人同士からも、自然からも、いろんなところから情報はやってきている。自分の内部からも情報は出てきている。一本の木や一枚の葉のそよぎからも情報はやってきているわけです。
そうした中で、情報をいろいろキャッチウェーブしなくてはいけない。けれども、私たちにはまだ情報をキャッチする装置が見え切っていないのです。情報の新しい「代」の、デバイスとして、どういうものがふさわしいのか、わかっていないのです。テレビや新聞は情報の依代にはなりえない。このことを考えるときに、環境の方から見るとか、社会資本づくりの方から見るとか、いくつもの検討が必要になってくるのですが、それらと同様に、これからの神道の在り方という問題も、ぐっとクローズアップされてくるわけです。


 
 ― たくさんの情報を引き出す
 
 では、情報とはどう考えたらいいかという話をしておきたいと思います。たとえばこの演台にあるコップは物です。経済的には物財ですね。ですから、これを誰かにあげたり、売ったりすると、私の手元からなくなるわけです。 しかし情報は違う。いま私がこうやってしゃべっている話、つまり情報はいくら私がみなさんに伝えようと、私の手元にも残ります。すなわち、情報は相互流通し、相互保存することができるという、不思議な性質をもっているのです。物財は売れば手元になくなっていく。売れなければ在庫になる。それに対して情報財は、どんどん渡しても交流しても、両方に残っていくものである。ここにきわめて情報の得体の知れなさとともに、興味深い性格があるわけです。

 もう1つ、情報は、一言でいえば理解というものを前提にします。プラトンの言葉やアインシュタインの数式ももちろん情報ですが、それらを理解できない子供にとっては、情報にはならない。もともと価値がすごくあっても、受け手に理解されないことによってたちまち情報の力を失ってしまいます。ということは、情報は理解の函数であり、感知のコミュニケーション・システムの上になりたっているのだということです。いま神道というものが大きな情報をもち、理解すべき内容を抱えていながら、情報の本質である 相互流通、相互保存、あるいは理解という前提をつくって相手に渡していくことができているかどうかというと、ちょっと曖昧な、あやしいところがあると思います。しかし、もし情報が現代に欠かせないものであり、なおかつその意味、内容が、新しい「代」という可能性をもって動きはじめているのだとすれば、神道も情報の本質を取り戻すべきであり、また神道を情報の性格や性質にあわせたコミュニケーション・システムとして見なおす必要があるのではないかと思うのです。

 情報にはまだまだたくさんいろんな性質や不思議なことがあります。一番重要なことは、情報は「意味」というものを実現できる。たとえば、言葉は情報の大きな道具ですが、いま私が手に持っているコップを見ても、みなさんはコップだとしか思わない。つまり意味が限定されすぎてしまう。文化はつねにこのように物と情報の関係を限定していく方向に進んでしまうのです。これをそうではなくて、ここにありうる情報のすべてを生かす方向にもっていけたときに、いろんな本来の文化が甦るのです。

 たとえば、このコップには、ガラス製品、器、物体、物質、円形、商品、青いもの、定価1,000円以内のもの、 日用品、家庭用品、食器などといろんな呼び方が含まれているのです。水入れ、花瓶に代わるものかもしれない。コップという一つの物には、おそらく100や200くらいは情報がひそんでいるはずです。にもかかわらず、私たちはこれを単にコップと呼んでしまう。こうして一つの物と情報の関係は、これを「代」に、メディアにしなくなっていく方向へ落ちてしまう。これを回復することが現代の文化、あるいは今日の情報文化の使命です。コップをコップ、神道神道というのでは文化がそこで止まってしまう。理解や感知は深まらない。物と情報の関係はつねにオールラウンドで、多様的で、八百万でなければいけない。

 でも、今日のわれわれがコップ1つから八百万の情報を取り出せなくなっているように、消費文化も単一な経済に向かってしまっています。だから、時々はそのことを破ろうとしてヒット商品が出る。ラジカセはその典型です。ラジオとカセットをくっつけて、2つ以上の機能をもたせた。最近のコンポというオーディオ装置も、いかにたくさんの機能がついているかが売り文句になってます。これはおそらく現代の経済社会があまりに物と情報を一対一関係で押しこめすぎたということで、ふたたび反省しはじめたせいでしょう。というか、それだけでは物が売れなくなったんですね。ふつうはこれを付加価値といっていますが、付加価値をつけるということは、本来の意味を自由に復活させることにもつながるのです。

 しかし、だからといって、たとえば「神道の本来の意味を復活させよう」という言い方をしてしまうと、 そこにはたった1つのメッセージしか含まれなくなる。今日の神道界はどうもこのように意味を限定しすぎてしまう。コップをコップとしてしか見なさない。この言葉でしか言えない、これ以外の考え方は全部ちがうというような本来性を考えてしまう。けれども、本来というものは、情報的にみると、ありとあらゆる 意味の自由を許すものであるはずなのです。そこが難しいポイントになってくるわけです。

 私は子供時代、最初にホッチキスを見たときに、とても驚いた。何だかよくわからなかった。家の店先に 大きなホッチキスがバカッと置いてあったんですが、使い勝手がわからない。大砲のような新しい武器のようにも見えるけど、呉服屋の店先にそんなものがあるわけがない。しかしイメージはすごく膨らむ。ついに そのホッチキスをこっそり持ち出して、遊び仲間たちに「これはおれの大砲だ」と見せた。普通の家庭の子供はまだホッチキスなんて見たことがないから、みんなうらやましがるんですが、どこから弾が出るかわからない。あれこれいじくっていると、ガシャンッと音がして「壊れたんじゃないか」とか(笑)、カニの足のような形の針が出てくると、これも不思議でしょうがない。そのうち仲間の子供たちは、この謎の物体X をめぐって、たくさんの物語や意味をつくってしまった。後にこれが紙を留めるものだということを知っても、私やそのときに遊んだ子供たちはそのときの想像力が、意味が、翼を生やして大きな世界をもったこ とを忘れないわけです。だから私はコップを見てもコップだとは言わないで、物体とも、青いものとも、メーテルリンクの好きな色とも、色のついたものとも、いろんな情報を引き出すように心がけています。 「そのようなことが、本来の神、あるいは惟神の道に対してわれわれがとりうる自由度であり、意味の多様性をもつ許容範囲でなければいけないと思います。どうもそれが少し欠けてきているのではないかという気がします。
そこで、現代社会において何が問題で、そして、これからの神道がどんな役割を果たすのかということを、 別の角度からお話ししたいと思います。

 


 脳と心の市場

 私はいま世界がどこに向かっているかということについては、まず「脳と心の市場」に向かっているよう に思います。非常に知的なもの、インテレクチュアルなものと、ソウルフルでマインドっぽいものが、これからもっともっと求められるだろうと思います。
たとえば、テレビ番組を見ているとみなさんお気づきにように、やたらにクイズ番組がふえている。しかもナポレオンの話やバッハのこと、アレキサンダーの話、南北戦争のことが突然クイズになってでてきます。 残念なことにどの番組を見ても回答者がだいたい同じ顔ぶれなんですね。いつも森口博子山瀬まみが出ている(笑)。クイズの世界は違うのに、回答者が同じなのはどうも気に入りませんが、クイズ番組が多いということ自体は、「知」の再編成が、テレビのような大ざっぱなメディアにも必要になったことを表していると思います。これはおおげさにいえば「脳の市場」の拡大を意味します。フランスの哲学者たちはこれを「知の脱構築」とよびました。

 もう一方で、心がたいへん市場化しています。新々宗教もふえてきた。それにともなって納得型の商品がふえている。私はこれからの産業の一部は、マインド・インダストリーとよばれるものに向かっていくと思います。そして、さまざまなマインドウェアというものが工夫されてくる。ハードウェアでもソフトウェアでもないもの、マインドウェアという“心の着物"が求められていく。これも一般的には新聞、雑誌、テレビでは付加価値という言葉でまとめられてしまってますが、その付加価値が心の方に寄ってきていることは事実だと思います。これが「心の市場」の拡大につながります。
こうしたものを通して世界中の人びとが求めはじめているのは、新しい物語社会(narrative society) の復活、再生ということです。先々週に『バットマン2』がアメリカで封切られて、史上最大の観客動員数をあげたことがニュースになっていましたが、『バットマン』は昔からある漫画です。また、ランボー、スーパーマンインディ・ジョーンズといった英雄がスクリーンに次々に登場しています。でも、これはアメリカがすでに 失ってしまった物語を回復したいからなのです。なかなか本当の物語をつかみきれないで焦っている。湾岸 戦争でやっと出てきたシュワルツコフを大スターにして、これをアメリカの新しい物語にしようと思った人びともいましたが、やはりそれだけでは足らない。

 では日本ではどうでしょうか。日本は大いなる物語、大いなる物語社会を築きえているのでしょうか。私は、物語は創造できていないと思います。第一、本当に物語があった時代、必要だった時代、生きていた時代について、私たちはほとんど忘れてしまっているからです。囲炉裏端に座って、爺婆がいて、子供たちに はお茶やみかんが出て、囲炉裏の火が赤々となって、そこでおじいさんが、「さあ、いい時がきたから話をしよう。昔なぁ......」と言った瞬間に、その時空間ごと、大きな共有された物語世界にワッと入っていけた。 いまはそのようなきっかけや、物語空間がなくなってしまい、新聞、雑誌、テレビを通して、役者やタレントを通して物語を知るということをしているにすぎないわけです。この国がもつべき多様な物語とは何かと いうことはまったく議論されていません。 「私は物語というのはたいへん大事だと思っています。物語は「もの」が語るということです。もともと日本文化にとって、「もの」というのは「物」であり、「霊」でもあるわけです。すなわち物質的な、マテリアルの世界であって、同時にスピリチュアルな動向のことです。同様に「こと」というのは、「事」であって、「言」です。すなわち、日本人は、「こと」と「もの」を大前提にして物語をつくっていますが、そのモノ・カタリ は「物」と「霊」、すなわち脳と心、物質と精神の両方をちゃんと使える言葉を原型にして組み立てていたは ずです。

 今では、「もの」という字は「物」を指してしまっていますが、ご存知のように、もの珍らしい、ものすごい、ものさびしい、ものがなしいというときの「もの」は物ではない。気持ちのことをいっています。
「もの」という言葉については、スピリチュアルな使い方はたくさん残っている。大阪で はいまでも「ものごっつう」などと言う(笑)。その「もの」の大きさは測れない。「霊」あるいはスピリチュ アルな意味で「もの」をとらえているからです。
かくて本来、物語は「霊」が語っていたわけです。そして、こういう様々な「物」、きびだんご、お椀、竹やぶ、鉢などと霊との関係、すなわちコップと情報の関係を残すこと、そのしくみを残すことが物語だったわけです。したがって、日本のたくさんの物語には今日の情報社会が取り戻さなければいけない物 と霊、マテリアルとスピリチュアルなものの関係が全部含まれている。これを神道の中に生きる人々は声を大にして言うべきだし、また研究すべきだし、復活させるべきだと思います。

 こうした物語の原型は何かといえば、これはいうまでもなく、神話や昔話です。NHKが『古事記』を取り上げたいというので、私のところに話がきました。内部でも極めて揉めているが、おそらく近いうちに やれるのではないかという話でした。あるいは、松江市では地域活性化を考えている市長が「松江というのは全然人が増えない。観光客も増えない」と困っていらっしゃる。そこでなんとか 「国際神話シンポジウム」を開きたい、「神話ランド」というテーマパークや、「国引き」という公園をつくりたいと、かなり熱心になっ てます。「あんまり出雲ばかりに神話が集中するとまずいんじゃないですか」と私は言いましたが、「いや、日本の神話にこだわっていたんではだめなんです。ここであらゆる世界の神話も語られるようにしたいんです」 ということを言っていた。やっと何かタブーが解けはじめたなという感じがしています。 アメリカにノンコマーシャルのすばらしい局があります。PBSという局です。これはいろんな財団や企業がメセナでお金を出してつくっている番組です。そこが7本のスペシャル番組をつくりたがっている。それは「世界の神話」という番組で、その7つのうちの1つにどうしても日本を入れたい。なんとかやって くれませんかという話がきています。

 これらはたまたま私のところに相談をもちかけられた話にすぎません。たとえば、神道青年会で1つそのシナリオづくりをしてくれ、アメリカの国民に日本の神話をどう伝えるか、原案をつくってくれというような依頼がきたとして、どういうシナリオで何をすれば、現代の社会に物語の原型としての神話が復活できるのか。これは普段からこういう議論をしていないととてもできないことです。 「私はかつて筑波科学博でパビリオンを演出をしたことがあります。その時の他のパビリオンで、ヤマタノオロチヤマトタケルをつかっているところがありましたが、ああいう持ち出し方ではまだまだ物語の復活にはほど遠いなということを感じました。つまり、シンボルとして何かひとつを取り上げたのではだめなのです。「モノ」が語る、つまりある人間の魂が語り続けている世界が必要なのです。そうしないと、人々の記憶に残らないし、その物語のしくみの中に入っていけない。最近になって、そこをうまく構成してみせたのがファミコンロールプレイング・ゲームです。

 また、私は商品開発や地域の開発の相談もしょっちゅう頼まれるのですが、とくにコンセプトをつくってほしいという依頼がとても多い。たしかにコンセプトは大事です。しかし、もはやたった1つのコンセプトが勝利を収める時代は終わっています。いかにニューストーリー、新しい物語を創出していくかということが、いま一番必要な戦略として求められているのです。そのためには、情報を物語のかたちにパッケー ジする必要があります。そして、この情報のパッケージの原型が、神話や民話や説話にあるのです。 日本は、このような物語型の情報パッケージを、何度も何度も行ってきました。まず最初は、遊行芸能者たちが道を歩き、能を鳴らし、今日は会場に傀儡子のご研究をされている鈴鹿先生もお見えになっています が、風とともに日本列島を歩きまわった人たちが、さまざまな物語を語り部として伝えていた。やがてこのような語り部たちが集まり、物語を交換し、さらに新しい物語を生み出す情報編集センターが各地に出現し ます。たとえば比叡山や青蓮院から語りの僧が集まってくる箱根権現、白拍子や遊女たちが集まってくる関西の江口や岐阜の青墓 などです。語り部たちは、このような拠点で、かつての伝統的物語や神話の原型を復活させていく。日本人が大好きな曾我五郎の仇討ちの物語の原型はスサノオ伝説ですが、これらを編集したのは箱根の語り部たちでした。

私たちは、今まで、このような物語世界は過去のもので、現代とはつながりのないものだと見なし、無視しつづけてしまったのです。つまり、産業や経済の世界と、神話の世界は無縁のものとして扱われてきた。 ところが、これをついにビジネス・エンターテイメントで成功させた男がアメリカに出現した。それはジョージ・ルーカスという映画監督です。『スターウォーズ』で世界中を夢中にさせた監督です。いまや、ルーカスフィルムは、アメリカで急成長している最大の映画プロダクションで、あいかわらずたくさんの大ヒット作品を次々と生み出しています。スピルバーグ監督のヒット映画『インディ・ジョーンズ』も、ルーカスのプロデュースのもとに作られたものです。

 私はルーカスの映画がなぜこんなに当たるんだろうと思っていたんですが、ある時回答を得ました。ルーカスは、ジョセフ・キャンベルという神話学者の一番優秀な生徒であり、キャンベル先生が講義をする時、いつも教室の一番前に座るほど熱心な生徒だったのです。ジョセフ・キャンベル は私もずっと尊敬していた人で、特に神話の中でも英雄伝説の専門家です。5,6年前に亡くなりました が、世界中の英雄伝説を研究し、英雄伝説の母型を発見したという偉大な業績を残しています。つまりイエス・キリストも、モーゼも、スサノオも、オーディーンも、桃太郎も浦島太郎も、英雄の多くは同じ物語の型をもっている。このような英雄伝説の型が人間の記憶の底にあって、その型を見せられると、人々はその英雄に何かを託したくなる、そのように心が動いていくということです。

 キャンベルは、その英雄伝説の物語情報の原型を次のように証しました。その構造はほぼ3段階になっていて、最初は「セパレーション」―here からの旅立ちです。2番目に、「イニシエイション」―通過儀礼の段階がある。ここで大いなる隠れた父(または母)に出会う。そしてついに there に到着し、謎を解いたり、真相を発見したり、宝物を獲得する。しかし、英雄はふたたび here に帰らなければならない。これが3段階目の 「リターン」―帰還です。世界中のあらゆる英雄はこの3つの型で冒険をし、世界中のあらゆる民族の記憶の中にこの型がある、というわけです。

 この英雄伝説の原型を学んだルーカスは、まさにこの通りに『スターウォーズ』をつくっています。ルーク・スカイウォーカーが生まれ育った村から旅立ち、いろいろな困難に出会っていくストーリー展開は、世界中の英雄の物語と実によく似てますね。オオクニヌシスサノオもそうです。そしてだいたいどの物語 でも、次に意外な人物が登場し、あるヒントを授けてくれる。それはみすぼらしい人であったり、妖婆であったり、いじめられている動物であったりする。そして、その導きによって、自分の大いなる父の世界へと誘われ、大いなる父と再会したり、あるいはそれが裏切られたり、ということがおこる。ルークとダースベイダーの出会いもまさにこれですね。このようなさまざまな体験をして、やがて故郷へ帰りたい、あるいは 帰らなくてはならない事情になる。するとここで必ず、浦島太郎の龍宮城の乙姫のように、誰かによって引き留められてしまう。それを振り切って帰ってきたときに、世界がもうひとつ体験を終えていたということになる。英雄の物語は、必ずこの3段階の冒険から成り立っているのです。

 ルーカスフィルムの作品を全部ご覧になるとわかりますが、スピルバーグに監督させた『インディ・ジョーンズ』も、ジョー・ダンテに頼んだ『ポルターガイスト』も、すべてこのパターンです。だからルーカス フィルムはSFX、特殊撮影技術に巨額の技術料を投資することができるのです。絶対人々の心を打つシナリオを握っているわけですから、あとはキャラクター・デザインや、ひとつひとつの場面に完璧な技術を加えることができる。ルーカスフィルムの強さはここにあるのです。
このように、あるひとつの物語の原型が、何十回、何百回と演じられて、人々を感動させ、夢中にさせているわけです。文化もこのようなものだと思います。ある母型があって、そこに技術が加わって、その国なりの、その民族なりの技術文化になっていく。その鍵を握っているのが神話の姿だと思うのです。
もちろん日本の神話は世界がもっている母型だけでできているわけではありません。この母型を使って、その母型の前後左右に、あれこれ日本的な物語をくっつけている。それがヒルコ伝説になったり天孫降臨になったり、海幸山幸の話になる。つまり、世界中の民族がもっている記憶、原型としての物語の母型と、日本がそこに加えた新しい組み立て方が、われわれの文化の奥には潜んでいるわけです。
私は、これこそ神道が使うべき情報のしくみだろうと思います。そして、そこから出てくるいろいろな物語を今日に生かすには、多少、新たな方法も導入すべきだと思うのです。そこで最後に、私がやっている仕事、これを「編集工学」と呼んでいますが、その編集についてお話ししておきたいと思います。

 

 
 神道を再編集する。

 私が編集と言っているのは、雑誌やテレビなどの編集だけではありません。そういう仕事もしますが、人 間がもっている根本的な作業を編集と考えています。たとえば、みなさん、きのう一日のことを思い出して みてください。朝起きて夜寝るまで、おそらく15時間ぐらい起きていたことでしょう。
朝起きて、飯を食って、テレビを見て、新聞を見て、庭を掃いて、というふうに思い出していくと、昨日の15時間を思い出すのに、15時間はかかりませんね。どうしてなんでしょう。もちろん昨日の15時間を思い出すのに15時間かかると、1日も進まなくなる(笑)。でも1時間かけて思い出す人もいないんです。5分ぐらいでだいたい思い出せてしまう。実は私が編集と言っているのはこれなんです。なぜ1日の時間と空間、15時間が5分になるのか。この中に編集の秘密がひそんでいるのです。 「みなさんは、スサノオの物語、タケミカヅチの物語といわれると、だいたいの方はパッと浮かぶと思いま す。どうして浮かぶんでしょうか。その浮かび方は人によって違います。つまり編集の仕方が違うのです。これが編集というものです。その仕組みを見つめ、その仕組みの中に人間のもっている能力を嗅ぎ出し、それを使って現代にもう一度物語や様々な情報文化を生かし直そうというのが「編集工学」です。工学という名がついているのは、このプロセスの研究を電子化しているからです。でも、それにはまず われわれの頭の中に、そのような15時間を5分にできる構造があるんだということを確信して、その方法に注目しないと見えてこない。

 このように編集というのは1人の人の中にもありますが、歴史の中にも、科学の中にも、あるいは芸術の中にもそれぞれにひそんでいると思います。私たちが、ペルシャ戦争があったことや、ペロポネソス戦争があったことを知っているのは、ヘロドトスやツキディデスが編集した歴史書があるからです。しかし、それは事実ではないのです。あくまでヘロドトスやツキディデスが編集したものです。あるいは私たちは司馬遷の『史記』で中国の歴史を読むことができる。でも、それは事実を知っていくことではない。司馬遷によって編集されたものに触れていくということなのです。日本の『古事記』も『日本書紀』も編集されたもの です。その前の『旧辞』『帝紀』のようなものが失われてしまっているため、今の我々は『古事記』や 『日本書紀』を通してしか、古代を知ることができない。

 ご存知だと思いますが、『古事記』は呉音というプロトコルと文法で、『日本書紀』は漢音という読み方による綴り方をやっています。同じ情報をつかって、『古事記』と『日本書紀』は編集の仕方を変えている。なぜでしょう。 編集意図が違うし、仕組みが違うし、そこからもたらすものの狙いも違っている。『古事記』は古い前段階の情報も入っていますが、最終的に大伴一族を中心にしながら編集されたものですし、『日本書紀』は、おもに藤原一族が意図をもって編集したものです。

 ありとあらゆる歴史的な事実には、もともと編集が入りこんでいます。現代でも同じです。新聞に載っているものは事実などではありません。テレビで流しているニュースも事実ではない。編集された事実があそこにはあるだけです。ですから、朝日と毎日とではちがうことを報道します。

 カメラもどこを長く映すか、黒人暴動なら黒人暴動のどこを長く映すかというところで、編集の視点が入ってきます。もし湾岸戦争のニュースを、CNNではなくバグダッド側のニュースで見せられていたら、まったく違う印象をもったかもしれない。でも、シュワルツコフによってリードされた爆撃の凄まじさを、 私たちはかなり一方的に見せられてしまったわけです。
このように、編集は、ある意味では恐るべき能力をもっているとともに、その仕組みに負けてはだめなものでもあるし、もっといえばその編集を前に出して、先に皆さんで編集をすべきことがたくさんあるという意味でも大事な方法です。
では、神道がもっている世界、思想、意味、情報は、これからはどのように編集されればいいのでしょうか。もちろん皆さんはこれまで長年にわたり神道の「編集」をされてきたことでしょう。しかし、皆さん同士で通じている編集の仕方は、おそらく長年のクセでしかないと思います。おそらく同じ形、同じやり方でしか編集できなくなっているのではないでしょうか。たくさんの会合や大会が全国で行なわれ、 たくさんの方が祝辞を述べられているでしょう。私も何度か記念特集の報告書を拝見したり、たまにはそう いう末席にいたりしたこともありますが、そうして伝えあっていることは、あまりにも方法が限定されすぎ ているような気がします。西田長男さんや高取正男さんのように、編集の視点を思いきって拡大しようとさ れた人もいましたが、どうも最近は固定化されているような気がします。

 でも、今は新しい編集が求められているのです。日本人はみんな物語を求めています。だれかにタブーを破ってほしいと思っています。時代は常にタブーを破るものですが、誰かがこれを起こしてくれることを待っているのです。
神々がもっていた物語と、現代社会における情報の強さ、これを皆さんの世界の中でも、神道の世界の中でも生かしてお使いいただければということでお話しいたしました。どうも失礼いたしました。

 

 

 

 

 


  「祈りの対象 神と仏の姿」

   衛藤 駿氏  ─ 慶應義塾大学教授(東洋美術史)

 
 今年の初詣は、過去最高の人出だったという。世の中が不況だから遠出を避けたためだろうといった論評があったが、たとえ好況であったとしても、人口の3人に2人が、どこか別のところに出かけるというものでもなかろう。神社仏閣以外に、これだけの人数を、物理的にしろ吸引しうるイベントや行楽地はあるまい。 日の出ですら富士山頂や二見ヶ浦といった社寺がらみの場所が選ばれるのである。

 今日、日本の照葉樹林は、鎮守の森と仏教寺院の境域以外はほとんど絶滅しているといわれている。ということは間接的にしろ神仏の力が初詣という現象を生み、結果的に環境保護の役割を果たしてきたといわざるをえない。
社寺は、祈り拝む場所を提供する施設(ハード) として存在してきたのである。人は、いつでもどこでも祈ったり拝んだりすることはできるが、なぜ特定の日に限って、しかも年に1度、それも年の初めに、集団現象としてそれを行ってきたのだろうか。 1つには当面というか、むこう1年間への期待の確認である。

 2つには自他ともに、ということである。願いごとは、自分自身かせいぜい家族のための限られたものな のだが、といって自分だけが願いごとをしているという孤独な不安感を、集団の中での安心感に置き換えようとしているのである。
3つめの場所についてだが、御利益についての公平感は銀行利子のようなものであって、どこでも大差ない。お守り札などに対する支出も、掛け捨て保険の程度を超えることはないのである。あとは距離とブランド、そして専門分野というか、たとえば受験や商売繁盛といった願いごとの種類によって初詣先は決まるのである。
ところで人は、神に祈ることはできても、神を見ることはできなかった。しかし神の姿をつくり、神の住みかをつくることはできた。

 弱き者・人間にとって、生活の知恵の最たるもの、それは神をもつことであった。人間にとって頼れるもの、というより頼らざるをえないものが自然の力である。人は自然の力を借りるために、直接自然そのものに祈った。「かなわぬときの神だのみ」であった。自然は様々な姿かたちと現象をともなっているから、神の姿もまた様々になった。これが八百万の神の誕生であり、鰯の頭が神たりうる理由もここにあった。
日本の神々は、当初こうして人間の姿をかたどった偶像ではなく、大自然の中にその神性を求めたのであった。日月、山水、滝、一木一草、鳥獣、そ れぞれが神を象徴した。もともと姿かたちのない神々の存在を、感性の対象としてとらえようとしたとき、神はつくられたのである。 「なにごとのおはしますかは知らねども」といった神々しさは、自然そのものによって支えられていた。それは神の住みかとして、もっともふさわしい場所であった。鳥居や注連縄は、神の所在を示す標識だった。人はそこを祈りの場所としたのである。
御神体が鏡であったり、三種の神器が地位を象徴したことは、自然信仰の器物崇拝への移行であり、新しい支配者が、外来文化、とくに新技術の力に拠ったことを示唆している。

 神像の成立は、日本人にとって偶像崇拝への転換であった。それは仏教の日本神との接触によるものであ り、一方大陸から渡来してきた人びとのもつ、祖先の像を祀る祖霊信仰の風習がもたらしたもの、と考えられている。
初期の神像は、彫刻の技法としては同時代の仏像彫刻の手法によっているが、表現された姿は仏像にみられる超人間的なものではなく、むしろ同世代の氏族の首長的人物の中に求められている。

 初期の神像が等身大につくられていること、男神と女神が存在することはいっそうの現実感を与えた。祈りの対象の象徴から偶像への変貌であり、これが日本における神像彫刻の祖型となったのである。
やがて神像にはしだいに本尊的性格があらわれ、小型化し、洗練さが加わる。眉目秀麗、ふっくらとした面、男神は眼光鋭く精気に満ち、女神は慈愛にあふれたのである。支配者というより、父母のような親近感を示してくる。
「みめかたち、おもだちやさしく、たふとい」ことが、神の属性として類型化する一方、仏像との相似も 造像技法はもとより、外見的にもいっそう進行する。僧形八幡像もその一例である。しかし服装や髪型、持ち物は、当代の貴族たちの風俗習慣にしたがっている。いわゆる延喜式神像の成立であった。神像が尊崇の 対象として成立した以上、宗教彫刻としての造形の中に、神意の顕現が求められたのは当然であった。

 神は人間を超えた存在であるから、個性を表現する必要はなかった。人間の姿を借りて神をつくる場合 にも、個性は捨てて普遍的なものを求めたのである。一方仏像彫刻も理想像の追求であったから、神仏両像ともに造形の世界では、普遍性を求めるという共通点をもっていたのである。
仏像が異国に生まれ育った理想像であるならば、神像は日本人本来の、生活感情が反映しているはずである。神像の美しさは、たとえ仏教の呪縛を避けえなかったにしても、新しい日本美の象徴として鑑賞されて然るべきものであろう。なぜならば神像は、日本人が初めてつくり出した人体表現であり、人間の理想像であった。日本人は日本人の言葉で、それに祈り拝むことができたのである。

 


 


 「森と社と神神習合」

  鎌田東二 武蔵ヶ丘短期大学助教授 (日本思想)

 2万年前、日本列島はまだなかった。ユーラシア大陸とつながっていたからだ。もちろん、「日本」という 呼び名も国家もなかった。まだ名前をもたざる日本はユーラシア大陸の東端に突き出た半島だった。
氷河期が終り、氷床が溶けて海面が上昇するにつれて縄文海進が進み、しだいに日本海が形成され、およそ1万年前に完全に大陸から分断された。日本列島の成立である。それまでは動物も植物も人間も大陸と陸続きで自由に移動していたのだ。日本列島からマンモスやナウマンゾウの骨が発見されるのはこのためだ。
しかし、日本列島が形成されてからまもなく、東北アジアの一角に独自の風土性と歴史性をもつ文化が生まれた。世界最古の土器をもつ縄文文化が。 土器の装飾にはヘビやイノシシやシカなどの動物が描かれ、それらの土偶も造形された。いってみれば、
「トーテミズムが横溢している世界が土器の紋様や土偶からうかがえるのである。そこでは、貝塚も単に貝や食用動物の骨のゴミ捨て場ではなかった。それは生命の再生と循環を願う祈りの場でもあったのだ。貝塚は、再生装置、変成装置としての食物の墓だったのである。

 縄文の森はブナ・ナラ林が主流であったが、時代が下るにつれて南西の方から照葉樹林が広がってきた。 このブナ・ナラ林帯の世界と照葉樹林帯の世界を見事に描いたのが、宮沢賢治泉鏡花であった。
宮沢賢治は『注文の多い料理店』でブナ・ナラ林帯の世界を透明にかつ実に美しく描いている。「どんぐりと山猫」では、山猫に招待された少年一郎が山猫の棲む森に入っていくが、それはクリやブナの森であった。 その森で一郎はドングリの裁判を行ない、名判決を下して、お礼に金色のドングリを一升もらったのである。 いうまでもなく、ドングリは縄文の主食であった。また「鹿踊りのはじまり」では鹿と融合状態になった百姓嘉十の体験が描かれている。鹿も縄文時代の主食であったが、嘉十はトランス状態になって鹿の話を聞いたのであった。『注文の多い料理店』には、アニミズムやトーテミズムやシャーマニズムが横溢しているので ある。

 もう1つ重要な点は、宮沢賢治が森や野原や風や月明かりから話を聞いたと述べている点である。祝詞の言葉を使っていえば、「語問ひし磐根・木根立・草の片葉」の世界を彼は生きていたのである。草木語問う世界を。これは縄文の根幹を形作る宗教世界であり、それが杜(森)の信仰や自然崇拝の根っこになったのである。
ところで、縄文時代後期から次第に広がってきたシイやカシやクスノキなどの照葉樹林の森は、泉鏡花の『高野聖』に、昼なお暗い、無数の山蛙や 大蛇の生息する森として描かれている。うっそうとして湿気を含み、無気味な小動物を無数に宿した森。その森を抜けて、高野聖の僧は人をウマやサルなどに変える恐るべき魔力をもった美女の棲む家にたどりつくのであった。

 ここにもまたアニミズムシャーマニズムの横溢する森の世界が描かれている。ブナ・ナラ林と照葉樹林。この2つの森林が日本列島の東(北)の森と西(南)の森を二分する。そして森林の違いから、東西の文化風土の違いが派生してくる。たとえば、猛烈な神社統廃合の反対運動を展開した 南方熊楠は、一時期、熊野山中に1人住んでいたが、そこは典型的な照葉樹林の森である。それに対して、生涯、岩手県花巻で暮らした宮沢賢治は、典型的なブナ・ナラ林の森に住んでいた。互いにアニミズム的かつシャーマニスティックな感性をもちながら、その上に独自の曼陀羅的思想を打ち立て、野の科学を実践 した南方熊楠宮沢賢治。彼らは日本列島における二つの森の世界を端的に表現し、生きた。

 こうした森の文化は、7世紀以降の律令体制期に整備された「神道」の中にも大きな影を落としている。 たとえば、『日本書紀』中に三例見える「神道」という語のうち、第二の用例は孝徳天皇紀に記載されているが、そこでは「天皇、尊仏法、軽神道」とある。それでは、「神道を軽」る行為とは何かというと、それは木を伐ることであった。「軽神道」の語のあと、割注に「生国魂社の樹を暫りたまふ類是なり」とあるのがそれである。おそらくこれは、摂津国生国魂神社の神木ともされているような古い巨木を伐ったことを指しているのであろう。1本の木を伐ることを深く怖れ畏しみ慎しむ感覚、これが神道の感性的基盤を形作っていると私は思う。木には木の生命があり、木霊があり、魂が宿っているから、1本の木を伐ることも怖れ畏こみ、伐るにあたってはたいへん丁重なる儀礼的手続きを必要としたのである。

 こうした木を伐ることの儀礼的手続きの典型が、伊勢神宮の木本祭と諏訪大社御柱祭である。木本祭は 遷宮の中心をなす「心御柱」となる木を伐り出すにあたっての祭儀で、その祭儀については口外することを固く戒められた秘儀である。なぜ神宮では、社殿の構造力学上まったく必要のない「心御柱」をもっとも重要なものとして20年に一度社殿の下に奉建するのか。また諏訪の御柱祭では、社殿があるにもかかわらず、 なぜ7年ごとに社殿の前にそれぞれ4本の柱を奉建するのか。またなぜわが神道においては、神々の数を数える数として「柱」の語を用いるのか。そしてまた祝詞中の典型的表現として、なぜ「底つ磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて」という言葉がくりかえし奉唱されるのか。木や柱にまつわる神話、儀礼、伝説は数多い。
神道」が木を大切にする宗教文化であるとするなら、それは言い換えると、森を大切にする宗教文化であるということだ。森なくして社ではない。社とは「屋代」であり、神霊を一時的に招き入れる仮屋のことであった。それは「底つ磐根」と「千木」、すなわち磐座・磐境と神籬の常設化であった。であるなら、社とは森のミニチュアである。社は森を表現しているのだ。

 最後に、一言言っておきたいことは「神仏習合」についてである。私は「神仏習合」は、縄文時代から森と同じほど長い時間をかけて形成されてきた「神神習合」の1バリエーションにすぎないと考えている。 神々の間の習合があったからこそ、「神仏習合」も、またキリシタンマリア観音のような信仰も生まれたと主張したいのである。
ただし、この「神神習合」も「神仏習合」も平和裡に進行したというわけではない。そこには物部・中臣氏と蘇我氏との排仏派と崇仏派の対立のような葛藤・闘争があり、神仏対立のみならず、神神対立もあった ということを強調しておきたい。それが最終的に日本神話における「天つ神」と「国つ神」の対立と融和に落ち着いていったのだ。オオクニヌシノカミ(大国主神)の「国譲り」の神話は、そうした神々の対立と融和が それほど生やさしくなかったことを端的に物語っている。

 また、アマテラスオオミカミも大日要貴という「亦名」をもっており、オオクニヌシも宇都志国魂神・ 八千矛神・葦原醜男・大汝貴神・大物主神などの「亦名」をもっているが、これもまた「神神習合」の存在を示すものである。一柱の神は複数の顔をもち、複数の神性を秘めているのである。それは本来別々の神であったものが、神社の統廃合のように、ある時期に1つの神に統合され、習合した結果である。
こうしてみれば、『日本書紀』に記されているように、わが国の「神仏習合」は古い神と新来の「他神・番神」との「神神習合」の1バリエーションにすぎないのである。「神仏習合」は「神神習合」文化の一コマなのだ。
とすれば、逆に、国学者が主張したような「古道」や、いわば純粋神道古神道・惟神の道は、「神道」の長く深い伝統を忘却した本末転倒の議論であったということができるであろう。むしろ、「神仏習合」の方こそ、本来の伝統に依拠しているのである。なぜならそれは、「神神習合」の1バリエーションにすぎないのだから。それゆえ、「神仏習合」を教義的かつイデオロギー的に否定する国学者神道学者や神道家を私は認 めない。彼らの「神道」の理解は皮相であり浅薄であるからだ。

 こうした「神神習合」や「神仏習合」を可能にし、その「習合」を媒介したのは、森の信仰であり自然崇拝であったと私は思う。森、海、自然こそが、たとえば太陽信仰がアマテラスと大日如来という原理的に異質な神仏を習合させ、水信仰が市寸島比売命弁才天女という異質な神々を習合させたのである。日本列島の森や自然は神神の座所であり、それゆえ新たな神々である仏菩薩の座所ともなったのである。

 そこでは、自然は単なる物理的な自然ではなく、非物理的、非物質的な他界をはらんだ自然であった。 森も海もともに生命の森であり、神々の森であった。そして同時に、森も海も1つの他界であった。山中他界というのも海上他界というのも、別物ではない。それはワープして1つにつながっているのだ。山中 他界は同時に海上他界であり、両者は相互に入れ子構造になっているのだ。 そうした他界との通路に聖地があり、神社があるということなのである。 このような考えのもとに、私は森と水の聖地であり、「神仏習合」の拠点であった吉野山中の 天河弁財天社を支援している(詳しくは、鎌田東二津村喬編『天河曼陀羅』[春秋社]を参照されたい)。そして「神神習合」の過程でさまざまな痛みと敗退を背負ってきた国つ神の文化と思想性を掘りおこそうとしている。それ は、たんに日本列島の先住神や土着の神々の世界を超えて、大陸や南方の島々やアメリカ大陸のネイティブ・ カルチャーの世界に通じている。たとえば、吉野や熊野は沖縄やバリ島やアイヌネイティブ・アメリカン の宗教世界とも深くアクセスしているのである。このような国つ神の「神道」、国つ神の神学と霊学の立場に立っていることを、私はここにはっきりと宣言しておきたい。

 

 

 

 

 『場所の記憶と神社のネットワーク』           毛綱毅曠(もづな・きこう) 建築家


 建築技術というのは、人間中心の進化論的なもので、国の内外からいろいろな人々の知恵によって開発されてきたように思われる。しかし、神話の上では、伊勢神宮出雲大社など天上の都をインスピレーションで見て、現実社会に移しかえたとされて、歴史の中で唐突ともいえるテクノロジーの華を咲かせている。
そこでは神道五部書の『倭姫命世記』にもあるが、神社の千木、鰹木から階段にいたるまで、すべて神学的な意味をもって建物が造営されているという。

 たとえばチベットの老建築家は、天界遍歴し、ヒントを得て「タシマゴーン」という移動式の神殿をつくるが、まさしく人類の蒼古的記憶には神様の世界の建築について幻視したりそれを語り継いでいた時代があった。これは進化論的な建築技術という近代的概念とは裏腹の「逆進化論」ともいえるすごいイメージである。
「経絡(けいらく)」ともいえる世界各地の聖域には「大地」がもつパワーとエネルギーが集積されている。 これは地球の聖なる場所に共通しており、この「大地」のパワーとエネルギーの上に神殿などの建物が築かれているのだ。これが日本の惟神の道の場合、いろいろな幾何学的形態で全国にネットワークされ、存在していたわけである(たとえば出雲、諏訪、宇佐、春日の平行四辺形など)。
聖域となっている大地にはこれらの記憶がひそみ、またこのことはわれわれの民族としての記憶の中にも息づいているはずである。
これら天や土地、われわれの奥にひそむ「場所の記憶」とそれぞれのネットワークが蘇生されることは、 聖域、さらには地域の環境にとって重要である。これらをグローバルにとらえ、神社の再生を考えなければならない。建築は単なる様式のコピーではないのだ。
 
 これまでの近代都市計画では、低い家を壊し、高いビルを建て、やたらに道路を広げ、車をたくさん通して、つまらない街にしてしまってきた。これは西洋的、ある意味でキリスト教的な発想だ。そうではなくて、 もう少し深い部分で、環境とインターフェースする街を作っていかなければならないと思う。
私の高度情報都市プロジェクトの中に「七福神」による都市計画がある。これはいわゆる「縄文神道」的なネットワークの発想であるといえる。
七福神は、もともと商売繁盛、病気平癒、家内安全など都市生活を送る人々の、ハイテクノロジーの願望の象徴だった。その七福神という都市の生態系の拠点、つまり「ツボ」にあたる部分に針を打ったり、お灸をすえたりして、 都市のネットワークを再生し、都市の願望を整理しようというものである。 「市姫様」である弁財天を中心に、現代のテクノロジーに置きかえると毘沙門天は都市の中の再生工場、大黒天はバイオテクノロジーの拠点、恵比須は海洋コンベンションや海洋的牧場、ということになるだろうか。
このように七体おのおのの神様を、都市の中の基地にして、そこから新しい都市の姿を浮かび上がらそうというものである。

 神社はもともと大地のバイブレイションとか宇宙からの光や音などを、千木や鰹木のような「もの」として顕在化させている。21世紀になれば、その形式はもっと還元的になっていくはずである。
神社のネットワークというのは、おそらくわれわれの目には見えない、たとえば地下でつながっている水の流れなどによって形成されていたのではないだろうか。これが人びとを生き生きさせたり、清々しくさせたりするのだと思う。しかし、近代化計画によって地下水脈などは断ち切られてしまっている。
昔ながらのネットワークを取り戻すことは困難であるが、場所の持っている力を再生させ、これを修復するために新しいテクノロジー珪素化学や光ファイバー技術などを使って、ただ原始に帰るのではなく、神社を含めた自然を再生していくことが重要になってくると思う。

 例えば能舞台は、床にテーパーをつけたりして重量感覚をずらすことによって非日常的な空間を演出している。その意味で建築はあくまで「しかけ」である。場所と空間のドラマづくりや演出で、気分をもりたてる要素の中に神社の意味性といったものがある。
神社建築は人間の身体と同じで、皮膚や筋肉、内臓、意識があり、そして奥の奥に神様が鎮まっている。
これは世界の聖なる場のもつ空間構造と同じなのである。これは人間が修業していくプロセスを表象するとともに、神学的意味を持って作られているはずである。
神社には、天地、宇宙との交信や人体宇宙、人体構造が重層的につまっている。定点や地点を求め、よい場所に行きついて、そこに鎮まったということもあるだろう。神様はやはり奥に鎮まっていなければならない。
鳥居をくぐり参道を行く。ゆっくりと神殿に向かう。心が聖なるものに段々と近づいていく。「しかけ」 にもノウハウがある。現代はそれを忘れてしまっている。
われわれの遺伝子には、何千年にもわたる宗教的な建築空間に対する意識が大きく広がっている。機能性や合理性だけ追った近代の発想は、そのことを忘れてしまっているのだ。

 

 

 

 

 『外から見た神社・内から見た神道』          田中優子 法政大学教授(日本近世文化)


 江戸時代の人びとはよく神社に出かけた。何かというとすぐ、「お参りに行ってくる」となる。お参りに文句は言えない。「あんたのため」なぞと言われるとなおさらだ。お茶絶ちや酒絶ちなど、絶ちものをして祈願することもたびたびだ。
江戸でいえば、神田明神湯島天神、富岡八幡、市ヶ谷八幡、江の島の弁天様、七福神山王権現、根津 権現、東照宮、大山参り等々。このほかに、寺がある。五百羅漢、六地蔵五色不動、六阿弥陀、成田不動、 江戸三十三カ所(観音巡り三十三カ所や、深川三十三カ所など、バリエイションも多い)、御府内八十八カ所秩父 三十四カ所、そのほか、浅草寺寛永寺増上寺をはじめとする大小の寺を合わせると、お参りに行くところのなんと多いことか。さらにここに富士講が加わり、富士山そのものへのお参りばかりか、江戸と関東全域に広がるイミテイションの富士、すなわち富士塚があった。
京都では北野天満宮伏見稲荷、大阪では生玉神社や住吉神社、そして全国共通の、伊勢参宮に、西国三十三カ所、四国八十八カ所等々、日本全国、参詣の時代だった。

 このような参詣のばあい、人々は神様と仏様の区別、神社と寺の区別など、特別にはしていなかった。周知のように、神社と仏閣が別のものとして整理されたのは明治に入ってからのことである。それまでの日本人にとって、神社と神様の世界は、仏教や儒教とまったく別に存在するわけではなく、むしろ仏教や儒教の存在とともに、それによってのみ、意識化されうる世界だったのである。

 神社としてあげた中でも、山王権現根津権現のような「権現」はもともと、仏菩薩が仮に神の形をとって現れた社であるから、神仏習合がその起源である。その存在の仕方も、従来は習合のものであ って、山王権現延暦寺の鎮守社であった。神田明神も、祭神は平将門牛頭天王も祭ってあるところだが、 かつては将門の御霊を鎮めるために、日輪寺という念仏道場がいっしょにあった。祭りの時には、日輪寺住職が神前で法事を営んだという。 富岡八幡は隅田川を鎮守する神社だが、その縁起は高野聖霊夢にあり、真言宗の寺が別当を務めていた。それが、庶民の神社の実際の姿だったのである。また、人気を集めていた七福神の構成は、弁才天と大黒天と毘沙門天がインドの神様で、福禄寿と寿老人と布袋が中国の神様で、残った恵比須だけが日本の神なのである。江の島の弁天様も同様だ。東照宮は、家康の本地仏薬師如来が、東照という神になって姿をあらわす、という習合によって作られた。例をあげればきりがないが、近代以降の神道と異なり、とにかく純粋な神社や神道というものは存在しない 世界の中で、神社はさかんに参詣され、祭りは熱気を帯びていたのである。 インドの神、不動明王は姿を変えて江戸歌舞伎の元祖団十郎となり赤い体に隈取で、火炎に包まれて登場した。 江戸時代といえば、神道の純粋化が一歩を踏みだしたように見える。国学の発生があったからである。

 しかし周知のように、契沖のような古典学の場合は、儒教や仏教のイデオロギー的解釈を、どう免れて古代の言葉に近づくかを模索したのであり、そこには、僧侶だった契沖の戦いの跡が見える。一方、神道の考えが中世では仏教の理論で語られ、近世では儒教の理論で語られたことも知られている。林羅山山崎闇斎神道を積極的に語りなおし、本居宣長は「からごころ」の観念があって初めて、「やまとごころ」という観念を持ち出すことができたのである。庶民信仰の世界でも、思想史の中においても、神社や神道といったものは、仏教や儒教といっしょに考えなければ、ほとんど意味はない。

 しかし、江戸時代ではなく、現代に生きている私が神社を訪れた時、一体何を感じるだろうか。寺や湯島聖堂に感じるものと同じだろうか。それはまったく違う。 敷きつめられた砂利や石、広大な境内、堂々とした鳥居、そして何よりもその背後にある山と森、海と水を見たとき、それはどう考えても神社特有のものなのである。そして意外なことに、習合と共存が行われていたはずの江戸時代でさえ、神社には特有の空 気があったらしいのである。

 江戸時代はじめに日本を訪れたケンペルは、寺の建築の見事さについて述べ、「不恰好な仏像さえなければ、われわれは全体の装飾から、ローマ・カトリック教会の中に足を踏み入れたと思うであろう」と書いている。それに対して神社については、立派な鳥居、長い長い参道の割に、その建物は「粗末な木造の小屋」 で「大きい物置のようなものが藪に覆われているだけ」で「中はがらんとしていて、時々中央に金属製の鏡とか、数本の藁の束とか、またその代わりに細く切った白い紙片が房のように、長い縄に付けてあるものが 下がっていたりする」だけなのだ。 昔の欧米人の眼から見た日本は、私たちが過去を想像する上で役に立つ。なぜなら、私たちの生活が彼らの生活の方にずっと近くなっているので、私たちがタイムマシンで昔の日本を覗いたらこう思うであろう、 という感じ方にかなり近いからだ。そして実際、寺の豪華さと偶像や諸道具の明確さに比べて、神社はかや葺きの屋根と不明瞭で虚ろな空間からできている。目立つのは建築物や礼拝対象ではなく、砂利、鳥居、 巨大な縄、そして、山や森や海なのである。宗教的モニュメントとしては不思議なこの景観こそが、習合を繰り返しながらいまだなお神社が失わずにいる特性であり、今後、地球規模で意味をもつであろう、未来的な風景である。

 ところで、「神道」という理念や理屈はもともと、神々の世界のものではないので、その成立には仏教や儒教の言葉と論理を借りねばならなかった。しかし実際は、神道の力は自然の力であると同時に祝詞の言葉に 代表されるような「つらね」の言葉の力であり、そのようなシャーマニスティックな言葉の有り様は、日本の芸能や歌舞伎や物語の言葉と、その根を同じくしている。

 また、山、森、海、縄、岩、石、そして虚ろな社(屋代=屋の代理物)といった神社を構成している重要な要素とその空間配置は、人々の空間感覚と行動に微妙な影響を与え続けてきた。このような空間は寺の境内と違って、まるで河原のように、何が起こっても不思議ではない空間なのである。 阿国(出雲阿国)の一座 は北野神社で歌舞伎踊りを興業し、同じ頃、遊女たちは河原で歌舞伎踊りを興業した。井原西鶴は生玉神社で万句興業を開催し、同じ頃芭蕉は旅を住処とした。神社はこの時、河原であり、旅なのである。

 山水画、石庭、茶の湯、能、そして禅宗の日本的改変の根底にある意識の方向も、中国のような文明化を目指しながら、常に結果的に大自然と生命の野蛮なありようの方に向かってしまう。その不思議にねじれた方向性は、私には神社のもつ空間感覚や日本神話のもつ生命観と無縁だとは思えない。その意味で、仏教や儒教が言葉として信仰として日本人を圧倒し、変えてきたにもかかわらず、その身体的、全体的な存在のしかた、という次元で、神話と神社がもっている意味は、われわれが考えているより大きかったと思うし、 今後も大きいであろうと思う。ただし、神社神道天皇に万歳を唱えるかわりに、自然を拝し、祈り、守る宗教になるならば、である。

 南方熊楠は神社合祀反対運動を展開していたが、その明治45年前後、全国で57,238社の 神社の森がつぶされ、13万社強が合祀準備に入っていたという。神社と神道にとって真に危険なのは、仏教の権威ではなく、このような動きだろう。なぜなら、神社と神道の存在理由は山や森や岩や海の中にこそあるからだ。熊楠がアラヤ識(これは仏教用語)とよんで自分の精神の場とした、言葉を超えたあらゆる情報が一瞬のうちに総合される場は、山という神、樹木という神、水という神が存在してこそ、存在可能なのである。分節ではなく、新しい直観的統合の場が必要とされている。

 

 

 

 


 『神の多様性と多重化』   松岡正剛 


 今、神道は奇妙な位置にある。初詣にだけはどっと押しかける一般的な日本人が持っている神道の知識は著しく低く、近所の神社の祭神の名を知っている人も少ない。それでも「御利益」と「神さま」は しっかり結びついていて、たいていの自動車の中にはお守りがぶらさがっている。
海外における理解もかなり低いものである。私はボストン美術館神道アートを中心にした展覧会にかかわったことがあるが、観客の多くから「美術品はすばらしいが、日本人が神道を信仰していない理由がわからない」という質問をたくさんうけた。『聖書』にあたる 神道バイブルがないのも不思議らしく、右翼やヤクザと神道の関係についても何度も問われた。
いろいろ問題の背景にひそむ原因が考えられる。ここではおおざっぱに6つの視点にしぼって提供しておきたい。 「第一に、鎮守の社が後退してしまい、祭祀とともに人生の節目を体験しなくなったことが挙げられる。これをかつて私は「社にはじまるコミュニケーション」の低落とみた。代わって数々の祭礼はイベントととしてうけとられ、単なる人出の多い賑わいと思われるようになった。しかし、これであきらめてはいけない。 「人出」というのは実は重要な概念であって、神が常に「出遊 」や「影向」を伴うということと相俟っている。「出かける」ということは、その奥底に未知の神々と遊ぶという意識が関わっているのだ。かつてはこれを「出遊」とよんでいた。

 第2に、日本神話に対する関心が薄くなってしまったということがある。これは国家神道と戦争がむすびついたという暗くて危ない記憶がはたらいているためでもあるが、神話がもたらす「学び」や「癒し」の効 果(これをロラン・バルトは神話作用と名づけた)を低く見すぎたということもある。
もともと神話には共同体の記憶の原型が含まれる。記憶の原型はもっぱら物語という様式をとる。この物語を様々な形で語り伝えるうちに、そこに多様な芸能が発生し、複雑な意匠が形成される。神話と交差することは、何も国威を揚げるばかりの効用のためではなかったはずなのだ。
しかし、この点についても少しずつ訂正の兆候がみられないわけでもない。ソウルやバルセロナのオリンピック開会式に民族の神話が大々的に登場し、われわれは「民族の物語」を自分たちの手で捨ててき過ぎたことに少しさびしい思いをしはじめたからだ。私のところにも、国際神話シンポジウムや記紀神話のテレビ化などの企画依頼が舞いこんでいる。

 第3には、日本の神についてのイメージが誤解されているということがある。日本の神の原初的な本質は 「オトヅレ」にある。オトヅレはもともと「音連れ」で、何かが来臨するときに微かな音をたてたことに由来する。東南アジアにもピーという名のたくさんの神様がいるけれど、それらも多くは音をともなってやってくる。ただ日本の神々は、一定の時をへて、たいていはやがてどこかへ帰っていく。去来する神であり、一所に常住しない神なのだ。そうだとすると、神社は一種の仮泊の時空なのである。
このことは、そもそも「社 」が「屋代」であって、その「代」とはエージェントという意味だったことが理解できれば納得できる。そこが重要なのだ。それを折口信夫は神のマレビト(客神)的性格と言った。ということは、日本の神は「主としての神」と「客としての神」を交互に演じ分けられる神だということである。 そしてこのような主と客の役割を交換するという光景は、今日のわれわれも日頃お目にかかっているはずなのである。

 それは、自宅のお座敷や夜の街の料亭で、今夜も「いや、どうぞ、どうぞ」と席を譲りあっている、あのよく見知った光景にあらわれる。そこでは、ホスト(主)はつねにゲスト(客) に席を譲ることによって「主客の按配」を成立させている。その、人々がふと譲り譲られようとしている関係に、実は古来このかたの神々の気配が去来するのだ。

 第4に、知識人が神道を厳粛なものと考えすぎている。今度の神青協の大会には「好きやねん!神さん」 というキャッチフレーズが若い主催者たちによって選ばれた。たいへんくだいた表現だが、それでいい。神さまはしゃちこばってはいないのだ。神はもともと遊び好きであり、恥ずかしがりであり、またいたずら好きでもある。慎重であって、かつ唐突な多くの神人格をもっている。ヨーロッパの神にも嫉妬深い神や復讐に長けた神なと、たくさんの神がいる。この「神の多様性」ということをもっと伝えるべきなのである。

 また「神の多重性」ということももっと深く研究された方がいい。たとえば、アメノワカヒコ(天若日子) とアジシキタカヒコネ(味和高彦根命)の物語のあいだには、表面的には顔がそっくりであること、民間伝承としては瓜子姫伝説やアマノジャク伝説や七夕の儀式との関係、祭神問題としては賀茂社の先行形態、さらには桃太郎の原型や世界中に流布する流され王のルーツなどがかかわっているのだし、もっと普遍的には「類 似と再生」という人類学がかかえるきわめて重要な問題を示唆するいくつもの興味深い類縁性がひそんでいるのである。おそらくは、この2人の神だけで大半の世界神話の普遍構造を議論することだってできるに違いない。

 第5に、神道は日本人独特の表現世界の秘密をたくさんもっているのに、それが取り出されていない。国際社会における日本人のアイデンティティや独創性を持ち出したいなら、もっとわれわれ自身の社会文化史に刷りこまれていた方法の発掘に熱意を示すことを勧めたい。たとえば「言霊には霊力がある」という解釈 だけでは足りない。そこにはさまざまな情報編集技術が駆使されているということまで言及すべきなのである。

 一例をあげれば、オオクニヌシ(大国主命)とスクナヒコナ(少名毘古那)には「大と小」という言語力学の方法が作用している。ツヌグイ(角俄尊)やイクグイ(活概尊)には「くむ」という言葉がひそんでいて、ここには 日本人が好きな「情状酌量」とか「気持ちをくむ」という方法が隠されている。擬音や擬態を巧みに神名や神の性質に適用している例も少なくない。威神フツヌシ(經津主神)は剣が風を切る音を、水神ミズハノメ(岡象女神)は女性のおしっこの強さを暗示する。日本で擬似音や擬態語を駆使した劇画が流行する理由の1つに、実はこんなことも関与しているのである。

 最後に、神社の経営にあまりにも革新の意志がなさすぎるのではないかということをあげておきたい。神職に就いているからといって、経営を軽んじてはいけない。もともと経営という言葉は山水画の「経営位置」から出ている。「景気」という言葉も風景や景色の力を暗示した。その深みを理解すれば、鎮守の森としての神社を廃れさせないためにも、神社はいい加減なアルバイト感覚で経済を乗り切ろうとしてはならないのである。

 それには、「社」という時空間がつねに「市」や「繁盛」にかかわってきたことを忘れるべきではないだろう。すなわち、さまざまな意味での「交換」が成立しうるところ、交換のトポスであったこと、このことこそが神社の本質だったのである。そこには、「霊験と奉納」という交換ばかりでなく、物品の交換、身分の 交換、職業の交換、芸能の交換が、さらには物語の交換や、また熊野や住吉の有名な病気と治癒の交換などが含まれている。神社は人間の喜怒哀楽と生病老死のすべてがいろいろな仕組みで交換されてきた時空間なのだ。私は、これからの神社がそんな神社であってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

『心に海を  ― 速さすら姫の精神で』

                    鈴鹿千代乃  神戸女子大学助教授 (神道学)

 
 ここ3年の間に、私は何度か不思議な空間を体験した。この15年、取り組んできた筑紫舞のうちの神舞(宮司舞)の伝承を年来の友人である何人かの神主さんたちに呼びかけた。3年前から筑紫舞の中の「あづまもの」の伝承が、川崎の稲毛神社(市川緋佐麿宮司)で、関東の10社の神主さんたちが集まってはじまった。
この舞の日本でただひとりの伝承者である西山村光寿斉氏は、10年前から福岡市に住んでおられるが、神戸生まれの神戸育ち、生粋の神戸っ子であるから、関東のことは何もご存知ないのである。
その光寿斉氏をご案内して、関東の神社へ行くと、光寿斉氏の幼いころーそれは、今から60年も昔のことだが―関東地方から舞を教えにはるばる神戸へ来た人たちのことを鮮やかに思い出されるのである。
しかも私の呼びかけに応じてくれた1人1人の神主の神社の伝承と、光寿斉氏が聞いておられた話とが不思議と一致するのである。

 横浜の師岡熊野神社(石川正人宮司)の三つ足烏の伝承、千葉の道野辺八幡宮(北山武司宮司)の道中守護の八 幡様の伝承、茨城の大甕(おおみか)神社(朝日敬輿宮司)の大甕にまつわる伝承などなど、神社側の伝承と、関東からきた芸能者たちが幼い少女に繰り返し語った話とが一致するのである。

 稲毛神社にいたっては、大祭である山王祭に脱落してしまった芸能を光寿斉氏が伝承していると考えられる節がある。
そして鹿島神宮に詣でたとき、光寿斉氏が「鹿島神迎えの舞」を思い出され、昨年の「筑紫舞の会」で300年ぶりの上演となったことは、鹿島大神のお導きとしか考えられないことであった。
私は、年来の友人に伝承を呼びかけただけである。しかし、その友人の奉職する神社が、すべてこの舞に何らかの関わりを持っていたという事実を、私は、もはや偶然という一語では考えられなくなった。
尾張でもあった。昨年より、やはり年来の友人である三輪隆裕氏と半田茂氏とに伝承を呼びかけたところ、2人とも快く応じてくれ、名古屋の上野天満宮(半田寛宮司)で伝承が始まった。

 ここでは、半田一族の伝承を尾張から来た芸能者が光寿斉氏に語っていたし、三輪氏が宮司をつとめる清州の日吉神社に詣でた時、豊臣秀吉の出生にまつわる伝承で、神社側の伝承と一致した。さらに、社務所に掲げられた、歴代氏子総代の写真の中に、尾張の芸能者たちを連れて神戸に来たと光寿斉氏が記憶している人がいたのであった。

 そして、その芸能者たちこそ、60年前までは確かに全国ネットワークをもって存在した傀儡(くぐつ)族であった。
傀儡の芸の本質は「祓え」の芸である。彼らは古代末期には史料に登場する。彼らは、非農耕民であり、非定着氏である。街道をさすらい、芸の力で農耕民、定着民のケガレを祓い、祝福した。彼らは、神社を点とし、街道を線として、全国にネットワークを形成していたと考えられる。
彼らは、中世期までは、れっきとした誇り高き職人であった。権門勢家に招かれて芸を披露し、能楽や、人形浄瑠璃・歌舞伎といった芸能を大成させた一族である。
祓えの芸という意味からすれば、宗教者たる神主や修験者たちも、その源流は傀儡族に求められよう。いわゆる「渡り神主」「歩き巫女」といわれた、さすらいの宗教者たちや、霊場を掛搬する修験者・山伏の徒もここから分かれた人々である。

 
 毎年、6月と12月の晦日に神社で執行される大祓(おおはらえ)の行事には、延喜式以来の「大祓詞」が読みあげられ る。そこには、われわれ人間(定着民=農耕民)の生みだした罪・ケガレが、天皇の呪力によってまとめられ、 川から海に流され、神々のバトンタッチによって根の国・底の国に坐す、速さすら姫という女神にあずけられると記されている。そして、その速さすら姫が、その罪・ケガレを消滅させるのであるが、その方法は、 ただひとこと「持ちさすらひ失ひてん」とある。
速さすら姫がその罪・ケガレを持ち、「さすらふ」ことで消滅するという一条は、われわれの祖先が罪・ケガレをどのようにとらえていたかを語ってあまりある。

 つまりは、海の潮の聖なる呪力によってのみ、この恐るべき罪・ケガレは浄化せしめられるのだという認識である。
罪・ケガレは、これを生みだす農耕民(定着民)には、絶対に浄化せしめることはできない。それは、さすらいという行為によってのみ浄化される。ここにさすらいの宗教者たちの存在意義がある。彼らは、祓えの芸を演ずることで、定着民たちのケガレを身に受けたが、彼らは、これを街道を「さすらう」という行為によって消滅させた。
傀儡族のルーツは、海人族(あまぞく)であることもすでに言われている。彼らは、速さすら姫の坐す海から来た聖なる民であった。

 傀儡のネットワークが切られたのは、おそらく明治の頃であったろう。国家神道には、神主自身が芸を演ずることで神と交流するという一条は必要なかったからである。
そして、いまから60年余の昔、秘かに伝えていた彼らの芸を、神戸の造り酒屋の娘に生まれた1人の少女に、全国の傀儡が来ては教え込んでいったのである。彼らはいつ召集があるかわからないという危機感の中で、必死に教え、彼らの神の話を少女の魂の奥底に注ぎこんだのである。

 60年後の今、光寿斉氏も私も、何か目に見えない糸に操られてそれぞれの神社に連れて行かれているような気がしている。
今こそ、その土地その土地の神々が本来の御姿で目ざめようとしているのではないか。切られたネットワークをつなごうとされているのではないか。そんな息吹きが私には感じられるのである。
神社こそケガレを封じこめ、これを浄化する聖域である。そこに仕える神主は、心に海を持ってほしい。 速さすら姫の強力な祓えと鎮魂の呪力を支柱にしてほしいー1人の神社参拝者として、私は切に思う。

 

 

 

 

 

 『わが道の神社と神道』        薗田稔 京都大学教授 (宗教史)

 いまから8年前に『神社新報』に寄稿して、次のように述懐したことがある。「 いづれにせよ所詮、道は歩むもので、言葉に聞いてわかるものではないということであろう。自分の足で 探し求め、自分の心に聞いて自ら踏み固めるべきが「道」であって、先輩が歩んできた道をそのまま安易にたどると考えること自体が誤りということに尽きる。道は出来合いの与えられるものでは決してない。 求めてやまぬものが自ら道を成すー。祀職を継ぐ者に許される道の信仰とは、ぎりぎりのところそうした ものにちがいないとは、ようやく大学を出るころの心境であったと思う。」(拙稿「道の家族」昭和61年3月31日) なにやら宣長大人めいて今は気恥ずかしい文章だが、ようするにいつの時代の神道人にも、いま流行のマニュアルはないということである。
いっそ、かの南山大師のように「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」とでも言うべきか。その言わんとするところ、どの宗教の道もまた学問の道も同じだと思う。

 ところで今回与えられたテーマの1つは、「外から見た神社・内から見た神道」というものである。これ は、いってみれば神社・神道アイデンティティ、つまり我らが神社神道の自己規定にほかならない。望ましい斯道の自画像を語れということに違いない。
そうであれば、ここで責任をもって語るべきは、私が自分で奉じている神社や神道のあり方以外にはない。 そこでわが私見ないし偏見を覚悟の上で、以下やや逆説めいた否定命題を、さしあたって6つほど申し述べてその責を果たしたい。

 

 1「神道は歴史ではない」

 いうまでもなく神道には長い歴史がある。だが、歴史が古いから神道尊いのであろうか。古ければ尊いのであれば、仏教やキリスト教のほうがよほど古い歴史をもっている。現代は新奇なものを喜ぶ反面、 むやみに歴史をありがたがる一種保守化の風潮がある。神社に参拝する善男善女の中にも神社の由緒で古さを強調すれば、それだけで満足する者が多いので当惑することがある。神社はあくまで祭りの場である。 そして祭りは時代を超えてつねに新生であるからこそ尊い神道は永遠に古式が歴史を無化するからつねに
新しいのである。 伊勢の式年遷宮 は、新築の御正殿にすべての神具を新調して御祭神の新生をこそ祝う。神社や神道は歴史があるから尊いのではなく、 祭りにおいて常に新しいから尊い

 
 2「祭りはイベントではない」
 
 近頃、神道の祭りをイベントと混同する手合いが多い。神職にも区別を心得ぬ者がある。伝統の祭りもイベントも同じ催しには違いないが、本質は正反対である。イベントは趣向を変えて新奇を追うところに効果があるのだが、祭りは逆に同じ趣向を繰り返すところに大切な意味がある。年ごとに古式床しい祭りが為されてこそ祭る者の安心立命があるのだ。祭りがイベントになれば陳腐化して滅びるが、もしイベントが祭りに組み込こまれれば、それは賑わいの「風流」になる。祭りはあくまで永遠回帰の神話的再現である。


 3「神は在るのではない」

 神々は、あたかも物があるように存在するのではない。我ないし我らが所有するように有るのだ。我らが 自我を有するように我ら有ってこそ神も有る。我らが有らんとするからこそ神もまた有るのだ。有るとはただ在るのではない。有るとは所有、つまり持つあり方である。神有ってこそ我、我有ってこそ神である。客 観的に物が在るように神々の霊界が在るのではない。我らが有って生かしめられることのさきに畏怖すべき 神の霊性を主体的に感得する。神秘とは客観的なもののあり方ではない。我らが主体的に神秘を客体化する ことのあり方にほかならない。科学や似非科学で実験や実証をする体のものではないのである。


 4「神社は教会ではない」

 神社はまず神を祭る、つまり神の臨在を待ち迎え、侍座して奉仕する祭りの場であって、説教したり修行する教会や道場ではない。神の社は神の杜でもあって、清浄な森や自然の風物に富む森厳な聖域をその理念としている。古来日本人は、植生豊かな自然を風土化して家郷世界を築く中で、生活に触れる風土の神々を発見し祀ってきた。いわゆる鎮守の社や森は、そうした生活風土に住民が感得した目に見えぬ神の霊性を 客体化した造形である。カミとは語源上、森山や水源に隠れた生命本源の霊性を指すからである。季節に沿 う生業の折り目ごとに、姿なき神のミアレを待ち迎えて祭る里宮が神社の祖型といってよい。


 5「神社は個人の宗教ではない」

 かくして神社は家郷秩序の原点であって、なによりも住民共同の心のふるさとである。日本の集落秩序には中央に広場を欠き、その中心は形を見せないが、実は集落の「奥」に鎮守の森があって、いわば「透明な秩序」を構成している。ふだん住民は個別に参詣することもあるが、参詣せずとも要は鎮守の健在に安 心の生活がある。しかし年に何度かは鎮守から神を迎え、ムラがマチ化して祭りや市のにぎわいが共同体の再現となる。マチもイチもマツリも同語源の言葉だから、元来マツリはムラをマチ=イチ化して地域社会を 真のコミュニティたらしめる貴重な宗教文化なのだ。だから神社は、個人的信心を超えて本来コミュニティ 共同の宗教といわねばならない。現代のムラおこし、マチづくりにもっともふさわしい拠点と神社をすべき理由がここにあるのだ。


 6「神職は職業ではない」

我らは、時に自嘲して「神主は喰わん主で、神職は貧職だ」という。 確かに、今時全国にたった2万人ほどしかいない職種で、しかも専業で自活できる者がその2割でしかないという職業はほかにあるまい。現代の職業観からすれば、まことに憂れうべき実態である。だが、 よく考えれば、もともと神職は生計をたてる職業ではないのだ。神主とはすなわち祭主の役で、神職はかつ ての社家社人の総称である。しかも近世以前は、純粋の社家社人は当時も数少ない大社に仕えるばかりであった。今でも8万を数える大多数の中小規模神社はかつて神仏習合の形で寺持ちか、せいぜい宮座の当屋神主か修験山伏 の管理にまかされていた。つまりもともと大部分の神社は兼帯か兼職か、あるいは兼務の者が奉仕するもので、専業がなりたつ職場ではないのであった。だから明治の神仏分離で神社がみな独 立したからといって、その多数を専業の職場とみなすことにはじめから無理があるのだ。そこで神社を生計 の立つ場と最初から決めこんで無理をすると、あるいは神社本来のあり方を損なうおそれなしとしないので はあるまいか。

 私の見るところ、神職はまた出家でも聖人でもない。世俗を捨てても世俗を見下ろしてもいけない。ごく当たり前の生活人として、ただ誠実に生きる人々を代表して祭るべき神に奉仕する者でありたいと思う。 たとえ兼業であっても、むしろ奉仕社を生計の具にせぬことに誇りをもってよい。付言するまでもなく、誠実な神社奉仕の結果その報酬でもし自活が叶うならば、そこには感謝の生活あるのみである。