モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

心霊研究とその歴史 Ⅱ

第5章 精神的心霊現象


 大別すると心霊現象は、精神的心霊現象、物理的心霊現象および心霊治療の3つになる。そして精神的心霊現象には、霊視、霊聴、霊言、自動書記、霊感、精神感応、杖占いなどがある。これらの現象は同時にいくつかが一緒に現われるのが普通である。



 1 精神的心霊現象

 "精神的心霊現象"とは「霊能のある者のみが知覚しうる」心霊現象の総称で、霊能の強弱、入神状態の深浅、その人についている指導霊(後記)の霊格の高さなどによって、知覚される事象に差が生じる。精神的心霊現象が一名"主観的心霊現象"といわれるのは、このためである。
 霊能の発現が弱く、入神状態が浅く、指導霊の霊格が低い場合には高い霊界の事象は知覚できない。
 この問題に関連して霊能者は、一様に、高い霊的事象は高い振動数で、低い霊的事象は低い振動数で振動しているように見える、といっているが、いずれにしても霊能者には霊的に高級な者とそうでない者があり、霊的に低い霊能者には、高い霊界の事象は見えない。
 それほど、霊能が高くないはずの一般人が、いわゆる"夢枕"(死の直前の人間の霊魂は肉体から離脱しやすくなり、会いたいと思う人の所へすぐ行ける。その姿を見る現象を夢枕という)を見うるのは死者側の霊的振動数が人間に近いからとも解釈できる。精神的心霊現象は、霊媒の自我意識が混入しない入神状態で行なわれることが望ましい。しかし霊能が特に強く発現する場合以外、深い入神状態に入ることは困難であり、また無意識状態に入ることに対する恐怖心などもあって、実際は半意識状態で行なわれることが多い





 2 霊視現象

 霊視能力者が、半意識または意識のある状態で、霊界に属する事象を見る現象を「広義の霊視現象」という。霊視の対象は多くの場合、幽霊その他、霊界の生物(後記)や景色などであるが、現界(この世)の、数日または数年先に起きる事象を見ることもよくある。霊能が強く発現した場合の霊視者は、目を開けたまま、肉眼で見ると同様に幽霊などを見ることができるが、一般には、霊能者でも目を閉じて精神統一をし、顕在意織の活動を抑えると見えてくるのが普通である。

 これに対して霊能がそれほど高くない霊視能力者は睡眠状態で、顕在意識がほとんど働かない場合に霊視するのが大部分であり、夢枕・白昼夢などがこれに属する。夢に見る情景は、白黒でかつ間もなく忘れるのが普通であるが、霊視で見る光景は天然色で、しかも長期間、細部まで克明に覚えている。
 霊視現象は、さらに、狭義の霊視、千里眼、透視、心霊鑑定、水晶球画像などの諸現象に分類されるが、このなかの二つ以上が同時に起こることや、どちらとも区別しがたい場合もある。




 3 狭義の霊視現象

 霊視の対象物のみが浮き出して見える現象を狭義の霊視現象または一般に霊視という。霊視能力者は精神を統一し、心で指導霊(第8章参照)に質問すると、答が、絵や文宇や文章で見え、またわからない数式の解法や機械の構造図まで見えることもある。つまり、“狭義の霊視"の機構は、霊視者の指導霊が霊視者の思魂(おもいみたま)を操作し、肉眼で見るときと同じ感覚を起こさせる、と考えるのが無難のようである。まれに勉強もせずに神童といわれる子どもがいるが、これらは調べてみるとほとんどが霊視能カ者で、いずれも「試験場で眼を閉じると、答が白い字で見えてくる」と言っている。
 
 広島大学機械工学科の主任教授・浅尾春海博士が昭和25年、朝鮮動乱が始まって間もないある晩、著者らと精神統一の練習中、突然、根元が赤で下方の大部分が緑色の朝鮮半島の地図が現われたが、間もなく緑の部分は縮小し始めて、ついに釜山付近のみとなり、他は全部赤となって、「おかしな物を見たが、これはなんでしょう」と、話していた。それは朝鮮動乱の進行状態を2,3カ月前に霊視したのである。最後の緑の部分の形は、後に新聞に掲載された両軍陣地の境界線の形とまったく一致していたという。これは浅尾教授の指導霊が、未来の状況を教授に霊視させた例である。




 4 秋山参謀の霊視

 これは有名な秋山真之中将が、わが国近代心霊研究の草分け浅野和三郎氏に「誤解を招かぬよう、今まで誰にも語さなかったが、あなただけにお話します」と前置きして漏らした日露海戦の秘話である。

 1つはウラジオ艦隊がウラジオを抜け出して次々と常陸丸、佐渡丸を襲ったときのことである。日本の朝野は、この奇襲に色を失って震愕した。上村艦隊はただちに前線から呼び戻され、敵艦の捜査に当たったが、出没不明の敵の行動には手の下しようがなかった。秋山中将は当時、東郷艦隊の一参謀として軍艦三笠に乗って旅順の封鎖に従事していた。無線電信で捜査の情況は刻々報告されるが、東郷艦隊としては旅順の沖を一時たりとも離れることはできない。秋山中将の苦心焦慮は極点に達した。敵が日本海を通ってそのままウラジオヘ引き上げるのか、それとも太平洋へ飛び出し、日本の東海岸を荒して津軽海峡また宗谷海峡を抜けて帰港するのか、上村艦隊はこれによって追撃の方策を決めねばならぬ。成功か不成功かはこの一断によって分かれる。
 
 人間がいかに知恵を絞っても決しかね、敬虔な心をもって神前にひれ伏すとき、神は初めて真心の人間を功けてくれるということを、このとき、秋山中将は初めて体験したのである。終夜考え尽くして考ええず、疲労の余りまどろんだと思った瞬間、彼の眼中は目の出前の東の空のように明るくなり、百里千里の先まで、はっきり見えだした。ふと、気がつくと、それは日本の東海岸の全景で、津軽海峡が彼方に見える。そして今しも、三隻の軍艦が津軽を指して進航しているが、それこそ夢の間も忘れたことのないウラジオ艦隊のロシア、ルューリックおよびグロボイ号ではないか。
「あいつ共、日本の東を回って津軽を抜けるのだな‥‥と直覚した瞬間、海も波も敵艦も一時にパッと消えて眼が覚めた。夢か夢にあらず、現か現にあらず、しばらく留まったが、これが、いわゆる霊夢というものではないかと気がつき、いい知れぬ感激に打たれた。

秋山中将はこの霊示によってウラジオ艦隊が太平洋を回って津軽海峡を抜けることを確信したが、
「今朝、霊夢で知らされた」
と言ったのでは冷笑を買うだけに終わる。そこで霊夢のことは誰にも語らず、次のような意見を発表した。
「理詰めの判断によって、敵艦隊の行動を推察した結果、敵はかならず太平洋を回り津軽を抜けてウラジオヘ戻るはずであるから、上村艦隊は日本海を通って津軽海峡の内側で敵を待ち受けるべきである。敵艦隊の後を追って太平洋を捜索するのは、空しく敵を逸するおそれがある‥‥」
 この意見は軍司令部にも上村艦隊にも無電通達されたが、惜しいかな、当事者たちは採用しなかった。その結果、恨み重なる長蛇を逸し、敵をして悠々と津軽海挟を通過し、ウラジオに帰らせることとなった。
もしもこの時、秋山参謀の建策、いや神示が用いられていたら、上村艦隊は、その後の蔚山沖の海戦を待たずに、ウラジオ艦隊を撃減して国民の溜飲を下げえたであろう。           (浅野和三郎著『冬篭」より)





 5 日本海海戦の予知

 秋山参謀には、もうひとつの貴重な霊的体験がある。これは真に重要なことで、日本人は、ぜひ知っておいてもらいたのである。これも日本海海戦に関することである。日本艦隊のこの時の覚悟と用意とは、実に想像の外にあった。根拠地を鎮海に置いて、敵の接近を今や遅しと待ちながら、さて、敵は果たして対島海峡にやってくるだろうか? 当局の心痛苦慮!
 来てくれればあリがたいが、万が一、太平洋を迂回し、津軽海峡宗谷海峡を通過してウラジオに入られては、たいへんなことになる。
5月も20日を過ぎてからは、心身の緊張は極点に達した。幾日かに渡り着のみ着のままで、ごろ寝を続け、真に寝食を忘れて懸命に作戦の画策に耽っていた。
「忘れもせぬ、5月24日の夜中でした」
と、秋山さんは当時を追憶しつつ話を続けるのだった。
「あまり疲れたものですから、私は士官室に行って椅子に体を投げました。他の人たちは皆寝てしまって、室内には私1人だけしかいません。眼をつぶっていろいろ考えているうちに、つい、うとうとしたかと思うと、私の目の中の色が変わってきました。
  そして対島海峡の全景が眼前に展開し、バルチック艦隊が2列になって、ゆっくり来るのが、はっきり見えるのです。しめた!と思った瞬間、私はハッと正気に返ってしまいました。
しかし、このような霊夢を見たのは、これで2度目なので、私はただちに、これは確かに神の啓示だと直感しました。そして、これでもう大丈夫だ!バルチック艦隊は2列を作ってかならず対島海峡に突っ込んでくる。これに対抗するのには、第一段はこう、第二段はこう、と例の私の七段構えの計画が、すらすらとできあがったのです。
 
 いよいよ27日の未明となって、ご承知のとおり、信濃丸からの無電で敵艦隊の接近したことがわかり、結局、あの大海戦という段取りになったのですが、驚いたことには、敵の艦隊の配列は、3日前に霊夢で見たのと寸分の相違もありません。ひと目それを見たとき、私は嬉しいやら、不思議やら、ありがたいやら、実になんとも言えぬ気持でした‥‥」
 日本海海戦の檜舞台の花形役者から、はじめて重大な打明け話を聞いたのであるから、実におもしろかった。
「とにかく私には日露戦役中に2度までも、こういう不思議なことがありましたので、いざ戦報を書こうとして筆をとった時には、自然と、“天佑と神助により‥‥"と書き出さないわけにはいかなかったのです。私は実際、そう信じていたので、決して、おまけでも形容でもなかったのです」

                                                                                               (浅野氏『冬篭」より)





 6 容器内透視

 透視問題が新聞紙を賑わした明治43年頃、かねてから貞子夫人の透視能力に興味を有していた松本市の高橋宮二氏は、同氏の恩人で東京在住の今村力三郎弁護護士に透視用の実験材料の送付を依頼し、同43年12月3日、今村氏から近日中に発送する旨の手紙を受け取った。すると同月5日、突然、夫人が入神状態となり、
「壁に立派な筆跡で、是空という字が出ている」
と言った。高橋氏はその時、直感的に"送ってくる字”と考えたが、翌6日午後、今村氏からの待望の小包が届いた。早速、外装を除くと2個の円筒形のものと1個の円形偏平のものが現われた。いずれも丈夫な白紙で糊付けして多教の封印を押し、そのうえを厳重に麻縄で縛って結び目にも封印を施してあった。
 
 第1回の実験は同夜7時から行ない、立ち合ったのは高橋氏と子息2人であった。夫人は約30秒で入神状態に入り、目をつむったまま両手を伸ばして机上の実験物に触り、やがて、
「見える、見える、なかなか厳重にしてある。白紙が、1枚、2枚、3枚、‥‥糊でベタベタに貼って1枚ごとに今村という印が押してある。綿が出た。封筒が出た。封印が上下2カ所に押してある。中に字が入れてある。これが実験の字だな、出た、出た、白紙に字が書いてある。りっぱな字だ、これは今村先生の直筆で是空と書いてある。これは壁に出た字と同じだ--」
と、独語した。これが済むと2番目の円筒状の物の透視に移った。
「これも前のと同じようだ、なかなか厳重にしてある、矢張り字だな、方‥正‥、やさしい字だ、これも筆跡は立派だ‥‥」
これで自然に入神状態から覚め、疲れたので残りは明日にまわした。2つの透視に要した時間は7分間であった。透視結果は、ただちに電報で今村氏に通知し、透視材料も翌朝、小包で送って、7日は終日今村氏からの返事を待ったが、その日の午後7時頃、返事の電報が配達された。
電文には、
「2つとも的中驚嘆」
とあった。2回目の実験は翌8日の朝に行なった。透視は3分間で終わったが、「口では字画がはっきりしない」というので、高橋氏が鉛筆を手に持たせると、目をつぶったまま“足立文声”と書き、
「これは活版刷りの名刺だ」と言った。
そして、この実験結果に対しても、令村氏から折返し的中の返事があり、これによって貞子夫人の透視は3つとも的中したのである。          (雑誌「心霊研究」大正12年8月号、高橋宮二氏の手記による)




 7 本吉嶺山氏の透視実験

 昭和23年4月、日本心霊科学協会は春期総会を兼ねて本吉嶺山氏の透視実験会を催した。来会者は80人ほどであった。実験は希望者が絵を描いた紙を裏返しに重ねて机上に置くと、目隠しした本吉氏がこれを当てるのである。ところで本山氏が精神統一をして、いよいよ見ようとしても見えないらしいのである。同氏には苦悩の色がありありと現われ、なんとか努力するが見えない。しばらくして本吉氏は何事かに気づいたらしく統一を止め、目隠しのままで司会者に何かを訴えた。司会者は演壇上に登り、
 「本吉氏が、黒雲のようなものが机上を覆って、どうしても視力を貫通させることができない。これは実験失敗を希望する人の念が凝り固まってできたもの(後記)であるから、参観者は、白紙の気持で見ていて欲しいと言っている。批判は結果を見てからするように」
と参観人の注意を促し、実験を再開した。たちまち、2,30の問題が全部的中した。
 また土佐の霊媒、北村栄延氏の透視は有名で、3個のサイコロをありあわせの箱に入れ、揺すって3個の数字を透視して、百発百中、間違うことがなかった。筆者の1人の父も若い頃、この話と同じことができた時期があったと、よく話していた。




 8 心霊鑑定

 霊能者が手掛りの品物を手に持つか額に当てて精神を統一すると、その品物の来歴や所有者に関する事柄が霊視・霊聴・霊感(後記)される現象を心霊鑑定という。これも霊視・霊聴・霊感によると考えられている。
 アンナ・デントン・クリッジ夫人はボストン大学の世界的地質学者ウィリア・デントン教授の妹で1850年頃から家に配達される手紙を手に持って、発信人の性格・環境・容貌・髪や目の色まで言い当てるようになった。兄のデントン教授は1883年、彼が亡くなるまでの30年間に何千回もの実験を行ない、妹のこの神秘的な能力を地質学の研究に応用して、石や化石の生成を知り、不明だった諸問題を解明して地質学に偉大な功績を残した。
 
 ある時クリッジ夫人は、外からは絶対にわからないように包装されたマストゾン(第三紀に棲息した巨大な象)の牙の一片を渡された時、次のように話し出した。
「私の印象は、なにか巨大な動物の一部であると感じます。私は重い脚、重過ぎる頭と非常に大きな胴をもった大きな動物のように思います。私は浅い流れに水を飲みに下りて行きます。私は話すことができません。私は4つ足で歩いているように思います。森を通して騒ぎが聞こえます。私はそれに応じる衝動を覚えます。私の耳はたいへん大きく、歩くとき、その耳が私の顔にバタバタ当たるように感じます。強そうに見える大きな牙をもった老いた象が見えます。5,6歳の若い象も見えます。象の群れです…」


 元伝染病研究所長・長谷川秀次博士が英国オックスフォード大学心霊講座のお抱え霊媒に会った時、初めはなかなか当たらなかったが、霊媒の希望で万年筆を渡すと当たり出し、次のような会話が交された。

 霊媒「あなたは医者ですね」
 博士「OK」
 霊媒「あなたには子どもが四人いる」
 博士「OK」
 霊媒「あなたの一族に仏教の坊さんがいますね」
 博士「当たっている」
 霊媒「奥さんは左の眼が悪い」
 博士「家内は子どものとき、左の眼を手術したことがある」
 霊媒「奥さんは50歳ぐらいで太っている」
 博士「それも当たっている、どうしてわかるのか」
 霊媒「医者の場合は赤十字のマークが見え、子どもの数は数宇が明るく照らし出されるのでわかる」
といった其合でしたが、そのとき、霊媒は目をあけたままでした‥‥。
と長谷川教授は著者らに語った。
 
 以上のように心霊鑑定は実によく当たるので筆者らは、ある霊媒に警察の犯罪捜査に協力するよう要請したところ、
「我々には真犯人や犯行の状況まですぐわかるが、これを人に話そうと思うと、犯人に憑いている悪霊どもが物凄い形相で睨むので恐ろしくて止めてしまうのである。他の霊能者にも聞いてみたが、自分とまったく同じでした」
とのことであった。ほんとうに残念な次第である。すなわち、犯人にも悪霊が憑いて犯罪を行なわせ、さらに発見させまいと活動しているのであるから、捜す方でも高級霊に依頼し、さらに神の援助を祈願するようにしなければならない。
 このように霊の世界でも現界と同様、たえず闘いが営まれているので、著者らは時々、警視庁捜査課や検察庁に、「せめて1人ずつでも、秋山参謀のような方がおられたらなあ」と、考えることがある。




 9 水晶球画像

 水晶球画像とは普通、直径が5〜7.5cm程度の水晶球を黒いヴィロードで包み、前だけ開けて、霊能者がこれを凝視していると、はじめは乳白色の雲が現われて一切を蔽うが、やがてこの雲が晴れると忽然として固像が現われ、それが映画のように次々に変化し進展する現象で、霊能者が目をあけて、これを見ながら説明できる点で独特のものである。水晶球画像の機構は"狭義の霊視”の一種と考えられている。わが国でも名古屋市にこれの上手な霊能者がいる。

 H夫人はR氏宅を訪問したとき、偶然に居合わした水品球画像霊媒に、興味本位で自分を視てくれるように頼んだ。霊媒はわざわざ自宅から水晶球を取り寄せ、しばらくH夫人に握らせたのち、自分の手に取り凝視していたが、その結果をH夫人に語すのを拒んだ。しかし、「ぜひ」と言うH夫人の要求に断わりきれず、目撃したとおりを語し出した。
 「1人の背の高い禿頭に近い紳士が室内を歩きまわっています。その紳士は何回も卓上から電話器を取り、狂気じみて高声に怒鳴っています。やがて引き出しからピストルを取り出し、興奮してドアにピストルを向けました。しかし、いつまで経っても誰も入ってこないので、がっかりした様子で、自分の胸にピストルを当てて引金を引いたので、血が飛び散り床に倒れました。しばらくして一人の婦人が室内に入ってきて、自殺者の頭を持ち上げましたが、その帰人はあなたでした…」
 この薄気味悪い話を聞いたときH夫人は笑い出した。それは、今しがた夫と別れてきたばかりであり、そのとき夫は、きわめて愉快そうで自殺しようなどとは夢にも思えなかったからである。しかしこの予告は3日後に事実となって現われた。H氏は突然、発狂して自殺したのである。そのときR氏はH氏から電話で、ぜひ同行するよう依頼され、断わりきれず自宅を出るには出たが、途中で3日前の水晶球画像の件を思い出し、念のため、その霊媒の家へ立ち寄ったところ、
「今、行ってはならぬ」
引き止められ、3時間ほど遅れて行ったため、危いところを助かったのであった。                                         (「英國心霊研究学会誌」1923年11月号掲載)




 10 霊聴

 ソクラテスは、つねに彼の守護霊(後記)ダイモニオンの声を聞いたといわれており、また一般に、霊の声や、ジャンヌダルクのように天使の声を聞く現象は非常に多い。これを霊聴という。霊聴の機構は指導霊が霊能者の言魂(第8章参照)を操作して、霊能者にあたかも耳で聞くがごとき感じを起こさせるものと考えられる。

 明治22年10月のことであった。当時、大隅重信侯は外務大臣として欧米各国との間の条約改正に着手していたが、そのなかに外国法官任用の項があり、ごうごうたる非難の声が起こった。玄洋社員も、国威を失墜し国家の体面を傷つけることはなはだしいと憤慨し、その1人、来島恒喜は大隅侯を道に待ち伏せて爆弾を投じ、その片脚を奪い、同時に自分は自殺した。ちょうどその晩、玄洋杜の仲間たちが、的野半助氏の家に集まって雑談中、
「おい、的野君、的野君」
と言って門を叩く者がいる。そこで、
「あれは来島君の声だ、早く門をあけてやれ」
と、家人に命じて門をあけさせたが誰もいない。しかし確かに今のは来島君の声に、違いないと一同不思議に思った。翌日になって事件を知り、一同「やはり来島君が来たのだった」と語り合った。         
                                                                             (岡田建文著『心霊不滅』掲載)




 11 霊言

 霊能者に死者の霊魂その他が乗り移り、生前の特徴を示現しながら発言する現象で、霊視現象と違って多勢の人々に同時にその声を聞かすことができるため、音から代表的な神秘現象として畏敬されてきた。ギリシャ時代の神託と神功皇后の霊言については前に記したが、昔は知名な神社には、かならず巫女がいたもので、宇佐八幡宮の神告も巫女の口を借りて得られたことが記されている。神社にいる白衣赤袴の少女はその名残りである。
 霊言者と向かい合って席をとり、霊言者にかかって、発言する霊と問答する役を審神者(さにわ)といい、審神者の立合いのもとに完全な無意識状態で行なう霊能者から、審神者を必要とせず、ほとんど平常と変わらぬ意識をもって、自分で客と応対しつつ霊言を行なう霊能者までいる。
 霊言現象の機構は、死者の思魂が霊能者の言魂を占領、操作して、発言させる現象であるが、霊言霊媒の場合は、霊媒の指導霊が死者の霊の態度・思念などを感じ取り、霊媒の言魂を操作して、その霊の様子を彷彿させつつ発言させると考えられている。霊界の事情によって、指定する霊を呼び出せない場合もあるが、指導霊が優れている場合には、短時間で希望の霊を呼び山し、話し合い、また霊界の状況を聞くことができる。
 
 しかし霊言霊媒の指導霊は、善意をもつ高級な人間霊だけとは限らない。むしろ反対に、低級な人霊か人真似のうまい動物霊の場合が多いのである。立派な神の名を名乗って出てくる場合は、ほとんど全部、動物霊の詐称と考えてよい。これは優れた霊視能カ者が霊視すればすぐわかってしまうのである。霊的な力量と霊格の高低は別である。それゆえ、審神者は十分な経験を持ち、出てくる霊を見分り、霊言の内容の真偽を判別し、毅然たる態度を持して霊と応対し、偽りを見抜いた場合は、ただちに適切な処置を講じなければならない。高級な霊言霊媒の場合は別であるが、一般には霊言の内容の価値は霊言者より審神者によって決まるといわれているのも、そのためである。
 
 心霊知識のない一般新興宗教の信者が、教祖の霊言やこれに基づく教祖の考えを、全部正しいと信じ、これをうのみにすることは危険千万である。
 毎年7月下旬、1週間にわたって行なわれる青森県恐山の祭礼にはイタコが出るので有名である、イタコとは、この地方でいう女の霊言霊媒のことで、すべて盲人である。祭りの間、30人ほどのイタコが地蔵尊堂の周囲に並び、参詣人の依頼に応じて、一種独特の節をつけて祝詞のような霊言をするのである。しかし訛り酷いため土地の人以外には理解しがたい。

 今までの霊言霊媒中、世界的に最も優れていたのは英国のオスボン・レオナルド夫人だといわれている。同夫人は子どもの頃から霊能があったが、両親がこれを嫌ったため、一時霊能がなくなったように思われた。しかし19歳で入院したときの付添看護帰が心霊研究に興味をもっていたため、夫人の霊能は復活し、3年後には優れた霊言霊媒として認められるにいたった。1918年、英国心霊研究学会の審査委員会は3カ月にわたりレオナルド夫人の霊能に対して厳密な検査を行なった後、「霊魂の死後存続の問題は、レオナルド夫人によって遺憾なく証明された。レオナルド夫人の霊言が真実であることについては、疑いをはさむ余地がない」
という決議を発表したほどである。
 
 レオナルド夫人は指導霊の言い付けにより少額の報酬のほかは受け取らず、また申込み順に少数の人の要求に応ずるだけだったので、希望者は自分の番が来るまでに、1年以上も待たねばならなかった。特に第一次世界大戦後は、戦死者の遺族がレオナルド夫人に依頼して、死んだ家族との対話を希望する者が多かったという。知名の物理学者オリヴァー・ロッジ卿もその一人で、戦死した子息レイモンド氏の霊魂との対談を集めたのが有名な『レイモンドの通信』である。レオナルド夫人の霊言を受け持つ指導霊はフイダと自称する霊的に非常に高級な少女の霊でフイダが他の霊の思念を取り継いでレオナルド夫人に話させるのである。
「霊を呼ぶ場合、霊界の居住者はただちにあなたの前に姿を現わすか」
との問いに、フイダは、
「私の目にその姿が見える場合もあり、姿は見えず単にその思念を感じるだけの場合もあります。(後記) フイダと霊界居住者との連絡は確実ですが、フイダと人間界との連絡は波長が違うため、あまり、うまくはいきません」
と答え、また、
「思念はどういうようにして受け取るのか」
との質問に、
「他の霊が寒いとか悲しいと感じれば私も寒く悲しく感じ、こういうことを言いたいと思えば、それを私はすぐ感じるのです。」と言っている。



 12 ノースクリッフ卿からの通信
 
 これはレオナルド夫人による故タイムス社長ノースクリッフ卿(1865〜1922)。新聞を現在のように大衆化したイギリス新聞界の大立物)の霊界通信の一端を示す記事で、人間死後も霊魂はそのまま生存することを示すよい実例でもある。

 交霊会は、1925年1月18日午前11時からロンドン郊外のアンドレー.ブラッドレー氏(有名な文学評論家。オックスフォード大学教授)宅で開かれ、出席者はレオナルド夫人、スワッファー氏(『ピープル」誌主筆)とブラッドレー氏の3人であった。レオナルド夫人は約四分間で深い恍惚状態に入り、指導霊フイダがかかってきて、
「皆さん、おはようございます。大将(ノースクリツフ卿の渾名)もここに見えています。きょうは邪魔者がいないので具合がよいと大将はお喜びです。スワッファーさん、大将は今あなたの背中を叩いておられますが、おわかりですか…」
と、言ったが、間もなくノ卿の思念を受けて声も変わり、あたかもノ卿が話しているかのように会話が始まった。

ノ卿 「スワッファー君!君は、もっと落ち着いてくれ。君は死後の生存を立証しようとあせりすぎる…。君も知っているマックが、こちら(霊界のこと)に来ているが、マックからルーイス(ノ卿の元秘書、女新聞記者)によろしくとの伝言だ。近頃ルーイスはマックの子どもを親切に世話しているようだが、マックは彼女の好意を深く感謝しているよ‥‥。
 死後生存の証拠は案外つまらない日常の些細なことから得られるものだ--。私は幾度もルーイスの頭髪を突ついてやったが、多分、当人は気がついているはずだ。近頃、ルーイスの仕事がうまくいっているのは私が陰から手伝っているからだよ。今度ルーイスに会ったら、私がよく人をまいた話を聞いてみるとよい。私はいろいろおかしな手段で自分の所在をくらましたものだ。ルーイスはきっとその話を覚えているに違いない‥‥。
 きょうはルーイスの噂ぱかりになったが、私は近頃ルーイスが自分の上着のリボンを縫い付けているところを見ておいたよ。あべこべの衿にリボンを縫い付けたところを‥‥。この事を言ったらルーイスはきっと大笑いするに違いない。それからルーイスはリボンの帯環が癪に障っていたようだ--」
 
 こんな話をしていたとき、ブラッドレー氏の書斎の電話が鳴り出し、しばらく鳴り続けていた。ノ卿は早速、電話のことを話題にした。
「電話という奴はうるさいもので、私は鳴らない電話を1つ作って使っていたよ。スワッファー君! 君もそれを覚えているだろう」
ス氏「私は記憶していませんが‥‥」
ノ卿「私の手許に電話が3本あった。2本はすぐ手近に置いたが、1本は室外に置いた。室外の電話で返事をしにいくのにルーイスはよくドアを閉めずにいくので、私はそのたび彼女をよく叱ったものだ‥‥」
 ノ卿の話はさらに続き、新聞記事についてス氏に適切な注意を与え、交霊会を終えたのは零時30分であった。
 
 ブラッドレー氏とスワッファー氏は、ルーイス女史に関する部分だけを、個条書きの質問状にまとめ、ロンドンに帰着して間もないルーイス女史に面会して次の答えを得た。
「私はマックの息子を連れて、1カ月スイスに滞在し最近連れて戻りました。スイスに行ったら体によいと思いましたので‥‥。また卿から触れられたと感じたことは何度もあります。私はたしかにそうに違いないと思っています」
 ノ卿が人をまいた話に対しては、
「ええ、よく記憶しています。あの方は始終、自分の居所をくらまして喜んでおられました…」
近頃、なにか縫物をしたか、の質問に、
「ええ、近頃、私は針仕事ばかりしています」
また上着のリボンについては、
「ええ、縫い付けました。あべこべに縫い付けて大失敗をしました」
また、ノ卿の鳴らない電話を覚えているかとの質問には、
「ええ、覚えていますとも。‥‥それは高い音を出さない電話で、話すときも小声で囁けばよいのです。ノ卿は、高い声でしゃべってはいかん、私の使っているのは鳴らない電話だ、とよくお叱りを受けたものです‥‥」(浅野『心霊講座』)
 以上はノースクリッフ卿が亡くなってから3年目に行なわれた交霊会の模様であるが、もちろん霊媒レオナルド夫人とルーイス女史は、それまで一度も会ったことはなかった。


 12,3年前、東京の西郊に当時、著者らが東都随一と折紙をつけた霊言霊媒がいた。以下は筆者の1人が親戚某をそこへ連れていったときの記事である。
 はじめに某が生まれる前に亡くなった祖父と称する人の霊が出てきて、
「印判は押すな」「石垣はできたか」「この男は知らない」
その他のことを聞こえるか聞こえないかのような小さな声で繰り返し言っていたが、急に態度が変わり、両手で格子をゆさ振るような真似をしながら、らんらんたる目付きで、
「俺は久吉だ、どうしてこんなところへ入れたのだ、早く出せ、みんな、ぶっ殺してやる」
などと長時間泣き喚いていたが、なにを思ったか、ふと立ち止まり、帯を解いて首をつる真似をして動かなくなった。
 
 審神者の指示で触ったところ、霊媒の体はコチコチに硬直し、審神者が抱きかかえても棒のように曲がらなかった。某は何のことかわからず帰って父に聞いたところ、前の2つについては「祖父が他人の保証人となって印を押し、家代々の財産をなくしたことと、墓地の後ろの崖の土が壊れるので石垣を造りたいと言っていたのに果たせず亡くなった」ということが判り、その他のことも全部当たっていた。
 
 しかし、久吉氏の件は父も知らず、1年後、父が長姉に会った折に聞いてみたら、自分たちが子どもの頃、お化けが出るから行くなという部屋が奥にあったが、夜になると母が食物を運んでいた。ところがあとで久吉という叔父があまり道楽が激しかったので、祖父が座敷牢を作リ押し込めたら、はじめは格子をゆすって悪態の限りを尽くしていたが、少し経って首を吊って死んでしまったことを知らされたとのことだった。このように高級霊霊媒は死者の様子を彷彿させることができるのである。





 13 自動書記

 自動書記とは、霊媒の言魂が指導霊の指示によって霊媒の手を操作して字や文章を綴らせる現象で、字の代りに絵を描く場合を自動書画という。霊言の場合と同様、直接、他の霊魂が霊媒の言魂を操作することもある。自動書記者は、ただ精神を鎮めて受身の状態になっておればよい。すると自分の顕在意識とは別個と思われる意識が手を動かし、慣れてくると、暗闇のなかでも、人と話をしているときでも、手が動いて、文章や絵を書くのである。初めは手が大きくでたらめに動くだけであるが、だんだん固まり、小さい字を書くようになる。
 自動書記はこのように簡単なので、一人または少数で行なう心霊研究、例えば死後の世界の探究などをするのに向いている。
 しかし手を動かすのは、霊界居住者とは限らず、本人の潜在意識の場合や他人の暗示、および列席者の考えが思想伝達されて現われることもある。たとえば、お筆先といわれた大本教の出口直子の自動書記は、暗闇中でも平気で書かれ、30年前に今回の敗戦の様子を克明に書き、これが軍・官憲の目に触れ、表面は、不敬罪で弾圧されたわけであるが、こういう正しい部分と、本人の潜在的欲望や不正な取巻きたちの暗示によるものと思われるあまり感心しない部分もある。
 プランセットは心臓型の小板に3本の短い脚(2本は先端にボールペンのようにボールを嵌入して滑りをよくしたもの、1本は鉛筆)を付けたもので、自動書記者が板の上に手を乗せると板が動いて字や絵を書くのである。

 プランセットによる霊界通信中で最高作品は、『review of review』誌を創刊したイギリスの知名なジャーナリスト、ウィリアム・ステッド(1849〜1921)による『死後』だといわれている。これは生前、ステッドと親交のあったジュリアと呼ぶ一女性の霊界からの通信をまとめたものである。
 その一部に、
「肉体から離れた霊魂が幽界に入った当座は、往々途方に暮れるものです。接触する風物はどことなく不思議で、外国へでも来たのかと思います。しかし、間もなく死後の世界を指導してくれる天使が言葉をかけてくれます。天使には翼を持つものと、翼を持たないものがあり、新しい居住者に適した姿で現われます。しかし生前、死後の世界の存在を信じなかった人たちの霊魂は、死を悟らず、まだ生きているものと思い込んでいて、天使の指導に応じません。すると天使は、それっきり姿を消してしまい、これらの霊魂が自己の非を悟り、神の援助を願う気持が、起こるまで捨てておかれます」
とあるが、わが国では、この天使は龍神と呼ばれ、普通、老人や坊さんなどの姿で出てくる。
 またウィングフィールド嬢(英国人)の自動書記を集めた『他界からの指導』も有名である。

 次はマーシァル・ホール氏の手記である。

 私がハンプトンの姉の家へ行ったとき、ちょうどウ嬢が滞在して自動書記をやっていた。姉が私になにかひとつ実験の材料を出すようにすすめるので、当時の私は心霊は嫌いであったが、ウ嬢に対する礼儀から、咄嵯の思いつきで、前日、兄から来た手紙を新しい封筒に入れて封をし、ウ嬢に手渡して、この手紙を書いた者はどこにいるかと聞いた。ウ嬢はプランセットに手を置いたが、しぱらくすると、
「この手紙の筆者は死んでいる」
と書いた。私はびっくりしたが、これを確かめようとさらに質問した。
「いつ、どこで、この筆者は死んだか」
すると再び答が現われて、
「彼はきのう、南アフリカで死んだ」と書いた。
これを見たとき、私はさらに驚いた。兄は実際、南アフリカにおり、この手紙もそこからきたのである。私は半信半疑であったが何事も語らず、その晩口ンドンヘ帰った。それから、20日余り経って、南ア滞在のゴール監督から手紙がきた。ゴ氏は私の友人で、兄とも親交のある人であるが、その手紙には、
「御令兄は意外にも今朝、床の中で死んでおられ実に驚きました…」
と書いてあった。その日付は、私がハンプトンで質問をした前日であった。そしてこの一事は、心霊に対する私の態度を一変せしめる動機となった。

 次に狐狗狸(こっくり)さんについて述べる。しかし、狐狗狸さんは、その字の示すとおり、動物霊や低級霊がかかってくることが多く、簡単なことはよく当たるが、高級な問題は無理で、かつ、嘘も多いから、その回答には十分注意しなければならない。





 14 ウィジャ盤と狭義の自動書記

 ウィジャ盤は、写真のようにアルファベットや数字、その他のよく使う字を書いた厚い紙の上にガラスを載せ、ラシャを張った小型のブランセットのような指示器の上に手を置くと、これが板上を非常な速さで移動して字を示し、立会人がこれを綴ると文章ができるのである。ウィジャ盤を使用する霊媒の第一人者はヘスター・スミス夫人といわれている。同夫人は、シェイクスピア研究で有名なダブリン大学の教授ドウデン氏の娘であり、『オスカー・ワイルドの霊界通信』『天よりの声』『永遠の生命』などの著書がある。
 
 同夫人は、直接羽根ペンを持つ自動書記もできたが、このときの書体はかかってきた霊魂の生前そのままといわれ、またウィジャ盤使用の場合は30分間によく2000字以上を指して筆録者が追い付けぬほどだったと言われている。
 あるとき、牧師のヒックス師と創作家レノックス・ロビンソン氏列席のもとに自動書記を行なっていたところ、急に文章が変わって、ルシタニア号に乗って遭難、溺死したというヒュー・レエーン卿と称する人の霊がかかり、遭難の様子を詳しく綴った(ルシタニア号は英國の豪華船で、1915年アイルランド沖でドイツ潜水艦に撃沈され、乗客1134人が溺死した)。一同はルシタニヤ号が沈没するなどとは夢にも想像しえなかったので、不思議に思っていたところ、その日の夕刊にウィジャ盤が綴ったとおりの記事が報ぜられ、乗客名簿中にレエーン卿の名も見いだされた。
 レエーン卿はスミス夫人のその後の交霊会にも現われ、レエーン卿以外は誰も知らない種々の事柄を、遺言執行人に伝えてくれるよう切望した。 (1932年発行『心霊科学百科事典』p.105)

 自動書記霊媒中、次の狭義の自動書記、すなわち霊媒が直接自分の手で書く自動書記が最も多い。この種の自動書記の作品中、最も傑出しているのはステントン・モーゼスによって得られた霊訓だと言われている。彼は自己の潜在意識の作用や他人の思想の伝達されるのを防ぐため、難解な本を読みながら書くのを常とした。その方法は、質問事項を紙に書いて机上に置き、片手にペンを持って読書していると、手がひとりでに動いて回答を綴るのである。モーゼスの初期の自動書記には、つねにドクターと署名してあったが、後にインペレーターという霊が最高指揮者となり、レクターという霊がモーゼスの手を操作して、種々な霊の生前そのままの書体で書かせたと言われる。

 
 次は霊訓の中の一節である。

 質問 「悪霊について教えを乞う」
 
 回答 「悪霊は邪悪な人物の霊魂である。霊魂はすべて生前そのままの性質をもって霊界にくる。その趣味、習慣、愛僧など少しも変わるところがない。変わるのはただ肉体の有無にすぎない。
人格と霊性とを切り離しえないことは、ちょうど織物とその繊維を切り離せないのと同じである、繊維なくしては織物はない。おそるべきは生前の習慣である。個性の主要な部分を構成するのは実にこの習慣なのである。霊性がいったん肉体の欲望に服従すれば、ついにその奴隷となる。彼らは霊界においても、ひたすら酒色の巷にあこがれ、快楽の満足を求める。このような霊魂が神の敵であり、人類の敵である悪霊なのである。彼らは、極悪無道の邪悪な霊を首領と仰ぎ、われらの神聖な任務を妨害しようと日夜肝胆を砕いている。
 現界における人間の悪意の発動、憤怒の現われなどは、すべて霊界における彼らの策動の結果であって、心の低い人間はみな、彼らの虜となるのである。神学者の造り上げた悪魔のようなものは霊界にはいない」





 15 霊感と精神感応

 何も考えていないとき、心にふと浮かんだり、自分で考えようとしない、でも心に強く感知されてくる現象を霊感(Inspiration)という。
すなわち第六感の特に明確なもののことである。霊感の機構は指導霊の指示を言魂が受けて思魂すなわち顕在意識に感じさせる現象(第8章参照)であり、霊能者はほとんどすべて霊感能力者といってよい。
 また大政治家、小説家、作曲家、芸術家、発明者などには霊能者が多く、本人は知らずに、霊感によって国を救い、優れた仕事をし、大発明をする場合が多いのである。

 アンソニ・ヘック・スミス夫人は友だちと一緒に飛行機に乗ったが、プロペラが回り出したとき、この飛行機は目的地に達しないという予感がした。そしてますますその意識が強くなり、抑えることができなくなったので
「私を降ろしてくれなければ気違いになる」
と騒ぎたてて、友だちとともに降ろしてもらったが、これによって彼女は彼女自身と友人の命を救ったのである。その飛行機は離陸後、間もなく墜落し全員惨死したからである。(『ツー・ウォールズ』誌 1962年1月号掲載)

 テドウィン・テーラー嬢は4歳で頭髪の美しい子どもだった。ある朝、両親のベッドで幸福そうに遊んでいたが、急に遊びを止めて、
「お父さん、私はきょう、死ぬような気がする」
と、言いだした。父親は、
「そんな馬鹿なことを言うものではない」
と笑い飛ばし、母親も笑って気にかけなかった。ところが、それから数時間後にテーラー嬢の死体が、家から400メートル離れた人のいない穴蔵の中で発見された。これは守護霊からのせっかくの注意が両親に無視された気の毒な例である。

 発明王エジソンの発明は、研究が行き詰まり、疲れて研究所でまどろむとき、忽然として霊感を得るのが常であったといわれている。