モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

神道青年全国大会記念シンポジウム講演記録 Ⅰ

   神道青年全国大会記念シンポジウム講演記録 Ⅰ   ― 1992.3

 

  「神々の生物学 宗教の進化について」 

    ── ライアル・ワトソン博士 (Ph.D Lyall Watson)

 

  人間は特別ではない

 私たちは動物です。しかも、他の生物に対して強い優越感をもった、きわめて変わった動物です。自分たちを他の生物と分けて考え、神話や信仰の中でも、自分たちの特異性を強調し、特別の存在だと主張しています。他の生物を好き勝手に扱ってよい、資格や特権を持っているかのように考えているのです。
しかし、人類が他の生物とあきらかに異なっているという証拠を、科学はひとつも見つけてはいないのです。相違点についてひとつ考えつくたびに、他の動物が数世代にわたって、それと同じことを行なってきたという証拠が見つかってしまうのです。かつてはその独自性の証明として、人間だけが「道具の使い手」であるといわれていました。しかし、いまではハゲワシもダチョウの卵を割るために、卵の上へ石を落とすという手段をとることが知られています。また、人間だけが「道具を作る」ともいわれていました。しかし、チンパンジーがシロアリやアリをつかまえるために、その巣の穴に突っ込めるような適当な道具を小枝で作ることが発見されると、この説も放棄せざるをえなくなりました。「人間は特別」学派にとっての最後の砦は「人間だけが抽象概念を描くことができる唯一の動物」という主張です。しかしこの説も、イルカやサルが心の中に概念を持つことが完璧にでき、少し時間がたってからでも、その概念を違った状況に当てはめて考えることができる、ということが数年前にわかったとき、崩れ去ってしまいました。

 私はかつて、飼育場で生まれたイルカの赤ちゃんが、タバコを吸う人に初めて遭遇したところを、目撃したことがあります。イルカは水槽の中のパネル越しに、覗きこむようにして、観客がタバコに火をつけるところをじって見ていたのです。その人はイルカが自分に興味を示していることに気づき、ほんの戯れに、窓ガラスに向かって口から煙を吹きかけました。イルカは驚いて後ろに下がり、しばらくの間じっと、考えこんでいました。それはあたかも、いまの出来事を心の中で思い巡らし、その意味を理解しようと試みているかのようでした。やがて決心がついたのでしょう。目の前から泳ぎ去りました。私はイルカの赤ちゃんがいったい何をたくらんでいるのだろうかと思い、ずっと様子を見守っていました。
赤ちゃんイルカは、母親を探しに泳いで行ったのです。まだ授乳期だったらしく、お母さんのオッパイを飲んでいました。少なくとも私には、それだけとしか見えませんでした。しかし間もなく、私がその赤ちゃんイルカの天才ぶりをきわめて過小評価していたことに気づいたのです。

 次に私が見たものは、その赤ちゃんイルカが水槽のまわりをグルグルと泳ぎまわり、観察窓をひとつひとつ覗きこんでは、観客用の通路をちらっと見やる姿でした。タバコを吸っている人を見つけ、注意を引きつけるまで、そ の動作をひたすら繰り返していました。それから、私が40年間動物の行動を観察してきた中でも、もっとも驚くべきことをやってのけたのです。
その赤ちゃんイルカはそれまでずっと母親のミルクを口の中にふくんでいて、そしてはっきりと意図的に、ガラスに向かってプッと鋭くミルクを吐き出し、モクモクと白い流れをつくり出したのです。それはまるで タバコの煙が空中を漂っているようすを、水中で完璧にまねたかのようでした。ほんの短い間に、その イルカは抽象的な概念をもつ能力があり、それを創意に富んだ理知的な方法により置き換えることができるばかりでなく、愉快なユーモアのセンスをも持ち合わせていることをはっきりと示したのです。

 私はイルカや野生のチンパンジーについて研究してきた結果、これらの動物をはじめ多くの動物が優れた知性、非常に強い個性をもっているということに疑いの余地がなくなりました。これらの動物たちと私たちとが本質的に違うことを示すのは、ほぼ不可能であると思うのです。

 ただ1つの可能性は、18世紀に英国の哲学者エドモンド・バークによって提唱されたことです。彼は 人間を「宗教心をもつ動物」だと言いました。これはたしかに真実です。人類の歴史において、宗教はもっとも深遠な力の1つであったことを誰も否定できません。このような深い情熱的な感情を私たちに与えうるものは他にありませんし、また宗教ほど多くの戦争をもたらしたものもありません。そして、もし他のいかなる生物もこのような宗教心を持ちあわせていないならば、それがどこから来たのか、なぜ、どのように起こってきたのかを問い正さなければなりません。
しかし、そのような問いかけを始める前にひとつ大切なことがあります。私は宗教的体験について語ろうとしているのです。私たちが神聖なるもの、神々しいものと呼ぶ、自然の中の神秘的な存在にときおり触れる、あるいは気が付くという感覚について、語ろうとしているのです。私はそのような感覚の正当性に関心をもっているのではありません。しばらくは、神が存在するか否かということはおいておきます。

 ただ、私は、16世紀にフランスの随筆家ミッシェル・モンテーニュがその問題について語ったことに、 ある種の共感を覚えるのです。「人間は気が狂っている」「人はノミをつくることはできないのに、何ダースもの神々をつくりだす」と彼は言いました。それもまた真実です。人のつくりだした神々のリストは長すぎてはかりきれません。私は八百万の多くの神々を記した神道のテキストを見たことがあります。「八百」とは神秘的な数で、「万」とは非常に大きく、想像をはるかに越える数ということでしょう。しかし、私たちが崇敬する神々の多さ、またそうせざるをえない人々や文化の多様性を考えると、いまここで問題にしていること は基本的なことであり、生物としての欲求の中に、このことが入っていると考えざるをえないのです。

 私が言いたいことは、神々を敬う気持ちはそれをよりよく理解すればするほど、性と同じくらい、極めて重要な人間の本質の一部だと、わかるかもしれないということです。そして、宗教的体験とは何であるのかという問題に対応していくことは、私たち人類のつとめのひとつでもあるといえます。私は生物学者であり、進化論的観点から物事を考える訓練を受けてきましたので、いま私たちが探索に向かう方向、つまり宗教心は一体どこからおこってきたのかということを理解する唯一の方法は、過去をふりかえる、生物の発生起源をふりかえることから始まると考えます。

 


 神秘とDNA

 地球上の生命の歴史は30億年前にまでさかのぼり、この間徐々に進化し、より複雑に変化に富むようになってきました。これは仮説的理論ではなく、規定の事実です。私たちは連綿と続く生命の鎖の一部です。 私たちの祖先をたどっていくと、小さな脳をもつ動物や樹上で生活するネズミほどの小さな哺乳動物、さら には両棲類や呼吸する魚、そしてもっとも単純な初源的な生命にまでつながります。これは希望的観測によってつくりだされた、想像上の歴史ではありません。明確に年代が推定される堆積岩の中の化石のような、 実際の記録を見ればわかることです。 この進化を示す「生命の樹」という言葉は広く使われるようになっており、私たちはこれを、定まった事実として、もはやそれ以上考える必要がないものとして受け入れてしまっているように思えます。しかし、 それはとても残念なことです。なぜなら、このことは壮大な考え方を示しており、次から次へと遺伝子を次代に伝えている、何十億世代もの細胞のつながりを経て、私たちはいまここに存在しているということを意味しているのですから。私たちははるか昔、奇跡的に生命が脈打ち始めて以来続くロセスの一部なのです。 あなた方と私はまさに最初の一個の細胞にまで行き着くのであり、この遠大な統合性は事実として受け止めるべきです。そしてこのことが、なぜ私たちがこの世に存在するのかを問うときに、必ずかかわりをもってくることなのです。

 世界の成り立ちやしくみについては、すべてわかっていると主張する人々の確信は、16世紀にコペルニクスガリレオが、 地球は宇宙の中心ではないと証明したことにより粉砕されました。さらに私たちの自信は、19世紀においてふたたびぐらつきました。ダーウィンと彼の門弟たちが、人間は特別な創造物ではなく、それぞれが生存競争を行いながら、密接な関係を保ちつづけている生物たちの中の、ひとつの種にすぎないということを示したからです。ダーウィンの業績が当時の指導者たちに大きな衝撃となったのは、生物とは神によってつくられたものではなく、単に生存競争を通して、自然の淘汰によって形作られると示唆したからです。自然界には計画などなく、したがって計画を立てる者もなく、すべては偶然によっておこるのだと、彼は主張していると考えられたのです。

 チャールズ・ダーウィンが、当時の宗教指導者から、なぜあのような猛烈な攻撃をうけたかは、もう明らかかでしょう。世界の成り立ちという創成説を説く宗教指導者たちは、ダーウィンの説が自分たちに直接的な脅威となると見てとったのです。彼らが説く創成説こそが、人と神の仲介者として、彼らを特権ある地位につけていたからです。ダーウィン説は最終的に宗教の説く創世説などというものを必要としない、進化のメカニズムや遺伝子やDNAの発見というものにまで、怒濤のごとく発展していったのです。

 1960年代の人々は次のような言葉を聞いたでしょう。「神は死んだ」と。しかし、そのような極端な考え方も、最近はより思慮深いものに変わってきています。遺伝学や生化学やコンピュータモデルが、進化は どのようにおこるかを理解するのに大いに役だっていることを認めはするが、科学だけでは説明のつかない、いくつかの神秘的な事柄が残っていると考え出しているのです。
私はみなさんとともに、これらの神秘について探求したいのです。それらが世界の創成や崇敬心というものについて、重要な糸口を与えると信じているからです。
しかし、そのためには、まず進化がどのようにおこるかを見る必要があります。動物や植物のかたちは、 そのすべての遺伝子の相互作用によって決定されます。時として、遺伝子のいくつかに「突然変異」と呼ばれる自然発生的変化が起こることがあります。その結果、遺伝子の効果が変わり、自然淘汰が作用する範囲を多様化するのです。

 たとえば、あるハムスターの毛の成長をコントロールする遺伝子に変化がおき、毛が長くなると、そのハムスターはほかの毛の短いハムスターよりも、寒い冬を有利に過ごせることになります。多くの冬を迎えるうちに、この種の毛の長いハムスターが増えてくることになります。このことは想像以上に、きわめて早く起こりえます。ハムスターが10年生きて、1年ごとに10匹の子供を生むことができるとすると、10年間で2000万匹を越える子孫が生まれることになります。もちろん、このようなことは実際には起こりません。10匹のハムスターから1匹だけが生き残り、90%は環境の中で淘汰されてしまうからです。そのため、生き残ったハムスターたちはお互いに密接な関係をもち、驚くべき数の遺伝子を共有することになるのです。

 このことは人間にも起こります。どうぞ、あなた方自身の祖先に思いを巡らしてみてください。あなた方ひとりひとりには2人の親があり、そして4人の祖父母、8人の曽祖父母、16人の高祖父母、そしてさらに、と続いていきます。さて、もしそれぞれの世代がざっと30年続くと仮定したら、この一千年のあいだにあなた方の一家で多分33か34世代目となるでしょう。一千年前、9世紀までたどって考えてみ ると、あなた方ひとりひとりの祖先の数は10億人を超えることになります。もちろん、そんなことはありえません。平安時代の日本の総人口は500万人そこそこだからです。

 私たちは共通の祖先をもち、思った以上にお互いがより密接な関係をもっているのです。たとえば、あなた方誰もが藤原氏の一員であった先祖をもっているかもしれないし、自分の血管の中に皇室の血が通っているかもしれないのです。私たちはほかのすべての生物と同様に多量の遺伝子を交換し、それにより濃い毛や違った鼻の形という新しい特徴が、集団に非常に早く広がっていくことを可能にしているのです。 地球上で生命が誕生して以来、何十億世代にもわたって、遺伝子プールは様々な配合を行なってきました。そのため、人類の起源をたどることは、私たちの先祖を追求するだけでは終わらず、すべての生物を 生み出すのに共通に必要な化学的性質にまで、その起源をたどることになるのです。このことは、世界の安寧はすべての物事のかかわりの中に存在しているとする、神道の見解に非常に近いものがあります。このよ うな結論が、純粋に科学的な裏付けによってなされたということはすばらしいことです。

 


 生きのびるための経験知識

 さて、このことを念頭において、どのようにして進化がおきてきたかを振り返ることにしましょう。まず化学的物質のランダムな交ぜ合わせが、進化の基になっています。この過程はまさに機械的なものですが、 次の段階ではランダムではなくなります。どの種が成功し、どの種が失敗するかを決める選択の過程であって、偶然にまかすというようなことではなくなります。毛の長いハムスターが毛の短いハムスターよりも、 厳しい冬を乗り切ることができるように、彼らの生存率は平等ではありません。結局は、冬という環境がその選択を行なうのです。 毛の長いものが生き抜き、次の季節に子を繁殖する。そして、毛の短いものより数が多くなるという、選択を行なうのです。毛の短いハムスターが自分たちの生存率を上げるために、他のなんらかの解決方法を見つけないかぎり、これは確実なことです。

 実際本当に、その解決方法を見出したハムスターがシリアにいます。彼らは毛の長さを変えるかわりに、その行動様式を変えたのです。つまり、寒い冬に一日中食べ物を探し回るかわりに、深い穴を掘り、十分な食料を貯蔵することを選択したのです。彼らは身体を変えるのではなく、様式を変えることによって、冬という淘汰の圧力に対応したのです。そして冬以外の季節には、彼らより毛の長い仲間たちと、同じ条件下で競い合って生き残ってきたのです。
これを進化における戦略と呼びます。それは表面上はとても単純で、あたりまえのことのように見えるのですが、実はそうでもないのです。実際、いくつかのなかなか解きがたい疑問を提起しています。シリアのハムスターが食べ物を貯蔵することを始めて以来、彼らの頬の部分が大きくなるという現象が生じました。 それによって、各々の巣へ持ち帰る食料が以前よりも10倍も多くなり、貯蔵がより効率よくなったのです。 中近東の過酷な冬は、ハムスターの世界に作用した最初の選択の圧力でしたが、次に他の要因が出てきたのです。つまり、種の中で作用する、動物の頭の中における精神的な要因です。

 このハムスターは、ある意味で、あのタバコの煙をまねて見せたイルカと同様に、賢明な頭脳をもっていたのです。考え方が変わることによって行動様式が変わり、それが次には、偶然より大きな頬をもった次の世代の子孫たちに、有利な選択の要因として作用したのです。進化の多くは、このようにして起こります。 たとえば、陸上で生活する動物が、たまたま偶然に、水掻きのついた足を獲得し、それから水の中へ飛びこむことをはじめたとは、誰も思わないでしょう。また、カワウソの祖先が泳ぐことを身につけるまでには、 浅い水の中にいる魚をじっと見張っているという時期が、非常に長いあいだあったと考えるほうが、より納 得できます。いまでも、泳ぐことはカワウソの本能とはいえません。子供のカワウソは水をいやがり、両親 から水の中へ入ることを強制されなければ入らないし、泳ぎ方も教わらねばなりません。しかし、いまや彼らは水掻きがあるという、祖先と比べて有利な点をもっています。彼らの歴史上のある時点で、足の指の あいだに膜が生じるという偶然の変化がおこり、それが、新たな水中生活に有効にはたらき、膜のない効率の悪い指よりも、優先して保持されてきたからです。
進化における大きな変移の多くは、このように行動様式の変化がのちに生物の組織構成や機能の変化をも たらすというかたちでおこります。このことは、自然史において動物の精神生活や頭脳が大きな力を持つと考えねばならない、ということを意味しています。たしかに、この力こそが意識や覚醒の発達を、また私たち人間は特別な存在である、というような考え方を導き出したのです。

 私たちは知識をもっていることを誇りにしています。そして、この知識は基本的に2つの形態をとることがわかり始めています。まず最初の形態は、言葉や記号を使って表現する以前の、私たちが行なっていることや感じていることの自覚というものです。これを純粋経験と呼びましょう。そして2つ目のものは、言葉や図式や数学的記号で表現される「知ること」の部類です。これを象徴的知識とよびましょう。この2つの相違は明瞭で、簡単に理解できます。山の中を1人だけで散策するとき、私たちは木や岩や川につい てなんらかのことを学び、自分の感情を言葉にしないでも、それらの美しさを鑑賞することができます。それが純粋経験というものです。その後家に帰り、その日の出来事をほかの人に話したり、あるいは友人に手紙を書き、その散策で感じた自分の気持ちを伝えようとします。それが象徴的知識です。
どちらが最初のものかはいうまでもありません。純粋経験がなければ、どのような象徴的知識もありえな いのです。純粋経験を象徴化しないかぎり、それについて話すことも書くこともできません。いいかえると、 純粋経験は主観的であり、自分自身の中で行なうものです。一方、象徴的知識は客観的であり、他者と共有しうるものです。象徴化された物事は、それを批判的に考えたり、論議したり、理解することもできるが、 純粋認識はそれを象徴化しないかぎり、そのようなことはできないということです。

 

 
 宇宙の意識を共有する

 さて、ここからが本題です。科学と博物学には象徴的知識がかかわり、議論するのもかんたんです。しか し、宗教と芸術は、本質的には言葉では語られない経験なのです。どんなに高尚な宗教的、美的経験をした人でも、他人にそれを説明したり、描写したりするのが非常に難しいのはそのためです。しかし、自然界における私たち人間の独特な強さや特殊な才能は、まさにその困難なことを克服させたのです。私たちは 言葉によらないかたちで獲得した知識を明確にし、コントロールして有効に利用しています。このことが人 間と他の動物とのちがいです。多くの動物たちも純粋経験は共通に体験しているでしょうが、私たちが行なう象徴化という方法で、経験を反芻することはできないのです。

 自然界についての私の経験からいえば、イヌもネコもウマもサルもイルカも類人猿も、さらにはカラスも オウムでさえもみな、私たち人間とほとんど変わらないかたちで、この世界に対する言葉によらない経験を共有しています。実験によると、迷路を抜けだすことに関しては、人間もネズミと変わらないのです。初め て迷路に入ったときには人間もネズミも、頭の中に地図をつくろうとします。2回目には、もっと早く抜け出せるようにするためです。このとき人間にノートをつくったり図面を描いたりするという、言葉によらない経験を象徴化することが許されないかぎり、人間とネズミには差がありません。実際に多くのばあい、言語化以前のレベルでは人間と他の動物たちとの間に違いはないのです。典型的な事例として「賢いハンス」と呼ばれた馬がいました。その馬は黒板に書かれた複雑な数式の解答を、脚を鳴らして示すことができるように見えました。科学的調査の一団がそのことを確かめにやって来ましたが、その馬が誰よりも鋭い観察力を発揮していたことに気づかず、その馬をほめたたえました。その馬は科学者たちが意識しないで示す反応を見て取り、正しい答えを見つけていたのです。

 言語化されないレベルでの能力に関しては、もっとも優れた人でも動物たちに及ばないことが明らかになりつつあります。子供たちは大人よりも少しは優れているものの、それも彼らが話すことを身に付けるまでのことです。人類という種として私たちが唯一優れている点は、物事に対する全般的理解を高めるために、純粋経験を役立てということだけです。言葉によらない経験を明瞭に語ることによって、私たちは世界を知的にコントロールしているのです。言葉を使い分析し、記号化することによって、物事を不明確なものから明確なものへと分類するのです。

 私たちが純粋経験を言語や記号によって共有し、そして文化を構築してきたこの数百万年の間に、人類の知識がおよぶ範囲は、脳そのものが大きくなりながら、驚異的に発展してきています。この点こそが、 ほかの動物と異なる点です。しかし、このことはすべて、すでに人類が生まれる前から存在していた意識に基づいているのです。聖なる意識、ある大いなる力にときおり触れているという感覚は、私たちと他の生命が共有している宇宙の純然たる意識の一部であると、私は思います。
船を走らせるとその舳先にイルカがやってきて、船といっしょに泳ぎまわります。イルカたちは楽しんで やっているのでしょう。散歩につれていってもらったイヌは、うれしそうに走りまわります。また、赤ちゃんが死んでしまったゴリラは、死んだ赤ちゃんを胸に抱いて、本当に悲しそうにしています。チンパンジーが日没どき木の上に登り、真っ赤な夕日を眺めている姿を見たことがあります。私には夕日を楽しんでいるとしか見えませんでした。

 私たちの精神的な生活と動物たちの行動の情緒的な側面とを分けて考えることは、本当に難しいこと です。また、そんなことをする必要もないと思います。私たちは他の意識ある生物たちと多くのことを共有し合っており、ただ一点、象徴的思考や論理的思考の力においてのみ、他と異なるのです。

 


 外側と内側の権威

 論理的思考や言葉は、知識と経験の広がりを導き、それによって得られた利点が世代から世代へと伝えられることを可能にしました。そして、このことが進化の本質そのものを変え、私たち人類だけに、自分たちの運命を自分たちの手でつくりだす能力を与えたのです。これは大きな進歩ですが、必ずしもよき進歩というわけではありません。進化はつねに生存競争のためにより適した種をつくりだすと考えるのはまちがいです。生存競争を勝ち抜くために巨大すぎる角や過大すぎる花をもち、それゆえに、自分自身が絶滅してしまった動物や植物がたくさんあります。

 私たちも同じ道を歩む危険性があります。この力は私たちを進化の新たなレベルへと導き、その結果としてすばらしい果実をもたらしてくれました。しかし同時に、ヒンドゥー教イスラム教、カトリックプロテスタント、そしてアラブ人とユダヤ人とのあいだにおける悲惨な戦争に人類を追いやっている、宗教への情念のようなものをも含む力であることを、強く認識する必要があります。私たちは人類の宗教心の起源を慎重に考え、それが私たちの生活と、どのように結びついているかを理解しなければならないのです。

 私たちが成し遂げた大きな飛躍の本質は、私たちはいまや伝統の上に生活を営んでいるということです。 ハムスターには、そのようなものはありません。たとえ生まれたばかりのハムスターを両親から離し、親から学ぶ機会をなくしても、彼らはハムスターであり続けます。彼らの生態に、目につく変化はありません。 しかし、人間社会では、そのような孤立があると、一世代のうちに崩壊してしまいます。伝統、つまり共有知識は、私たちの生活の一部になっているのです。私たちが生き残っていくために必要な能力を保護し、共有し、そして増大させる方法となっているのです。 「私たちの身体は、この300万年の間に、ほとんど変わっていませんが、頭脳は飛躍的に変化しました。 頭脳は私たちの裸の体を守る新しい力であり、私たちよりも強くてすばやい動物と戦うのに必要な武器を与え、また誰も食料を手に入れられないときにも、食料を生産することを可能としたのです。頭脳が自然淘汰の力を、人間の計画に置きかえたのです。しかし、そのことがいまでは、地球上の数百万種の生物が、 たまたま有用だとわかったほんの数種類の栽培植物や家畜動物に駆逐されるかもしれない、という状況をも たらしています。

 このことは非常に重要な点です。この新しい文化のシステムは自然に伝達されるのではなく、学習によって伝達され、各々新しい世代がその教えを受けとめる用意があってこそ、うまく作用することができます。 そのことは、新しく生まれた赤ちゃんは、情報の受け取り手として訓練されねばならないことを意味しています。教わったことはすべて信じるように、しつけられていなければならないのです。人類が文字どおりひとつとなり、「信じる」ということを行わなければ、伝統は伝承されません。過去300万年のあいだ、私たちは他のいかなる動物よりも、子供のとき教わったことを信じる生き物へと進化してきたのです。私たちは子供の時から、両親の伝統や信条を守るように条件づけられた、教化に適した動物なのです。生まれた時から、規律を学ぶようにプログラムされているのです。

 年をとるにしたがって、私たちは伝達された情報を取捨選択することができるようになります。事実でないとわかると捨てることもできるし、取り換えることもできます。これは、生物の進化において致命的な遺伝子が排除されたり、有害な突然変異を避けたりするように、自然の摂理でもあります。私たちが、地球全体の文化にとって不可欠なものとなっていくにつれて、そのことは一般化しつつあるのです。

 しかし、基本的事実は依然として同じです。私たちは生まれてからずっと外部の権威、すなわち私たちに 何を信じるべきかを教える両親、家族、社会または制度といったものを認めるよう訓練されています。自分独自の道を歩んだとしても、なおもその権威によって支配されています。なぜなら、人はそむくべき何ものかを持たない限り、反逆者になれないからです。私たちは何者になろうとも、より偉大なより知識の多い人々に対するおそれと愛情が、奇妙に入りまじった子供時代をすごします。これはすべての子供たちにとっ て、大人の環境に対する正常な反応です。このようにして社会のシステムは、私たちに伝統を教える人々に 権威を与えるようにつくられているのです。また、情報そのものにも権威が与えられています。こうして私たちは内面的権威を獲得するのですが、その権威は私たちに規律を守らせるため、かなり厳格で容赦のないものです。いいかえれば、私たちは良心や自律心を習得し、自分たちの態度や振る舞いを正し、それによって多くのいざこざを社会から取り除いているのです。
しかし、ほとんどの場合これだけでは十分ではありません。社会は私たちをまったく自由にさせるほど寛容ではありません。多くの人々が、物事の是非を告げる声を無視するからです。それゆえ、規律に従わない場合は罰を受けるかもしれないという恐怖、私たちの心の奥底の考えや個人的行動をすべて知り抜き、想像を絶する懲罰を与えることが可能な、目に見えない超自然的権威から天罰が下されるかもしれないという恐怖によって、この権威は強化されたのです。

 私たちの社会の成功や全人類の未来は、世代から世代へと伝統が伝達されるかどうかにかかっています。 一世代たりとも飛ばすことはできません。とぎれることなく情報を伝達することに、すべての基礎をおいているのですから。そのためにその連続性を保証する確実な安全装置への欲求がきわめて強いことも当然のことです。強いがゆえに深い情緒的反応を引き起こし、自らの信仰に攻撃が加えられた場合には暴力によって反撃したり、さらには信仰の対象が誤った方向に導かれる、ということもあるのです。

 

 

 生物学的起源をもった宗教

 17世紀はじめにフランスの数学者ブレイズ・パスカルは「人が信じ愛するということは、人間の本質である。そして、人が自分の信仰と愛情の正しい対象をもたない場合、その人は間違った対象に愛着することになるだろう」と言っています。これは人間と動物とのちがいを説明するのに、有効な考え方だといえ ます。人は信じる動物である、つねに何かを信じている、自分たちの文化を守るために、社会的規範が必要な種へと進化したことの必然的結果が宗教であるという考え方は、宗教を理解するためのひとつの考え方です。たしかにこれは、どうしてこんなにお互い相矛盾する信仰をもつ宗教が多いのか、ということの説明にはなっているでしょう。しかし、すべての宗教に共通するものが、なぜ存在するのかということの説明にはなりません。

 すべての宗教が、同じ深遠な真理から生まれたかもしれないことを示唆する事実。生きる手助けをしてくれる何かと、接触しているように感じる、幻想ではなく非常にリアルな共通の経験。私たちに並はずれたエネルギーを与え、楽天的にさせることによって、私たちをより力強いものにする何か。外からやってきて私たちの中に入りこみ、最後には私たちの生き方を変えてしまう何か。
この経験は普遍的であり、生物学的起源をもっているように思えます。それを確認する唯一の方法は、外部からの布教活動により始まった宗教ではなく、経験にもとづいて発達してきた宗教を調べることです。そうすると、キリスト教ユダヤ教イスラム教や仏教は除外され、完全に土着の信仰形態が残ります。そのうちのひとつが神道です。神道についてはのちに述べるとして、まず最初に、スーダンの非常にくわしく研究されている、2つの宗教について述べてみたいと思います。

 最初はそのうちのひとつ、ディンカ族の宗教です。彼らの宗教の核心は、生活環境の中でさまざまな形態で出くわす霊的存在です。ディンカ族は、これを遠くの霊界からくる魂としてではなく、自分たちとともに この世界をなりたたせている「力」と考えています。もう一方のニューア族はもっと哲学的です。彼らは「クオス」とよぶ、普通の感覚では経験できない何ものかの存在を信じています。それは彼らの内面の一部、純粋な意識の一部なのです。ディンカ族にしてもニューア族にしても、彼らの精神生活は、同じ仮定にもとづいています。つまり、自分自身そのものではないが、自分たちの中にある何ものかが影響を与え、うまく自分たちのエネルギーを高めてくれるという仮定です。これらの宗教的信仰からわかることは、困難に打ちかつ力をあたえ、自信と勇気を増してくれる、なんらかの要素が私たちの生活の中にはたしかにある、ということです。それは神秘的なものではありますが、非常に客観的で現実的なものです。

 マハトマ・ガンディーが「すべてのものを貫いて存在している霊妙な力」と 表現したものです。私たちはそれを見たり、聴いたり、嗅いだりすることはできません。しかし、この世に色や音や匂いというものは、実際には存在しないのです。それは単に、エネルギーの波や粒子が私たちの 頭脳に残す、感覚か印象にすぎません。
客体は、おそらくギリシァの哲学者プラトンのいう「イデア」(私たちが物事はこうあるべきだと考える潜在的心像)によって、私たちの心の中でこそ明確なかたちと美をなします。このようなイデア、つまり世界についての共通した認識こそが、記号化された知識という伝統の中で、私たちが伝えていくものなのです。このことは、私たちが神、霊または力などとよぶものは、自然の中で見つけた不思議な力を具現化しようとする、私たち人間の衝動の結果であるかもしれない、という可能性につながっていきます。

 

 超感覚コミュニケーション

 さて、この自然の力とはどのようなものであるかを検討する前に、それはすべて私たちの心の中にある、 純粋に想像上のものであるかもしれない、という可能性について簡単に考えてみる必要があります。前世紀の心理学は、意識のコントロールの及ばない精神的活動の領域が存在する、という認識にいたっています。シグモント・フロイトはこれらを「潜在意識」とよび、生まれたばかりの子供には存在しないと考えました。子供というものは動物的衝動によって行動するものであり、それを満たすためにのみ努力するもの、さらには、強烈な宗教的感情の裏側にひそむものなのかもしれないのです。
私は確信があるわけではありません。しかし、私たちは他の種族と、おそらく自然のすべてのものとも、 つながりをもっており、私たち人間だけが唯一の宗教的動物であるとするのは、間違いであると私は感じ ています。生命がはじまって以来の歴史と人類の短い歴史をくらべてみると、私たちがなしとげたすばらしい成果である芸術や文学、科学でさえも、私たちが動物としてもつ、より長くより強い性質に付け加えられた、単なる上辺だけのものだということは明らかです。

 


 支配と服従のシステム

 私たち自身の進化、また私たちの生命を支配しつづける力を振り返ることによって、自分たち自身について学びうることがまだまだたくさんあります。
たとえば、動物の世界では、繁殖期に2匹のライバル同士のオスが出会ったばあい、一番よいテリトリーを獲得するため、またメスの関心を引くために脅かしあい、実際に戦うことがあります。しかし、ライバル同士が傷つけあい死に至ることはまれです。攻撃が意図的な服従行為によって抑制されるからです。そのような出会いで破れた鳥は、突然地面に首をのばし横たわります。首を引き裂かれそうになったオオカミは 突然戦術を変え、自分を守ることをやめて、敵に自分の首を差し出します。このような譲歩、自己犠牲の結果として、勝者のオスは攻撃を途中でやめ、さらなる流血が避けられるのです。 私たち人間は、相手を脅迫するシグナルと反対のシグナルを送ることによって服従を表します。脅迫する側の者はできるだけ背が高くなるように見せ、胸を張り、拳を握り、顔をにらみつける。そして、服従する側の者はできる限りからだを小さく見せようと背を丸め、手を広げ、顔をそむけなければなりません。

 このような特質のすべては、儀式的服従ジェスチャーへと変形していきます。より極端な例は、地面に額をつけて跪くという中国の「叩頭」、そして地面にうつぶせになりひれ伏すことです。これ以上に身を低くするには、地面の下に身を埋めるしかありません。私は最近そのような場面を見ました。国技館で靴を履いたまま土俵に上がったNHKのカメラマンが、怒った日本相撲協会理事長に呼びつけられたとき、実際にそのような行為を行なったのです。

 このような行為は今でもありますが、時を経るにしたがって次第にその隷属性が減り、実際の行為は 象徴的ジェスチャーにとってかわられてきています。そのため、人は帽子を取るかわりに帽子にさわるだけ、 お辞儀のかわりにちょっと頭を下げるだけになったのでしょう。アラブ諸国では、伏し拝むことがサラームと呼ばれる仕草にとって替わられています。サラームとは、最初に手を胸へ、そして口に、さらに額に押しあて、続いて軽いお辞儀をすることです。 これは地面に体を押し付けることを象徴しており、「私はあなたのために、体のこれらの部分を地面に押しつけます」という意味になるのです。

 宗教に関していえば、私たちはいまでも祭壇や聖堂の前で跪き、身をひれ伏して、昔どおりの入念な従順さを示しています。しかも、実際にはそこにいない偉大なる者に向かって、私たちはこのような従順な行為を行なうのです。巨大な大聖堂や寺院を建てることによって、この目に見えない礼拝の対象がもつ威力は強 化されます。だからこそ、これら神々の家は一般の住居を圧倒するほど、高くそびえ立っているのです。もちろん神々はその中にはいないのですが、神々とは巨大なものに違いないという印象を与えるのです。

 神々と人々との仲介者である聖職者が、服従しない者には神々が天罰を下すであろうと説教するために、この偉大なる者に対する服従は、、偉大なる者が不在にもかかわらず、確固としたものになるのです。いまま で洪水や病気、飢饉や火事などのすべての自然災害は、神聖なる怒りの証として、私たちの罪に対する罰と して説明されてきました。聖職者はまた、服従する者は報われるが、そうでない者は永遠の責め苦をうける という、死後の世界をもつくりだしました。そして、私たちの関心を引くため、儀式や複雑な集団行動を含む祭儀を発展させてきたのです。

 神々が多くの人々を同時に支配し、服従させることができることを示すためには、それらのことが不可欠なのです。そしてついには、私たちの協力を確保するために、多くの宗教的指導者たちはそれぞれの神々への厳格な忠誠心、それと同じく、異教徒たちへの強い拒絶心を育てあげたのです。そのことは必然的に、文化の孤立とともに様々な宗派を生み出し、異教徒には暴力を用いてでも対抗するという考え方をもたらしました。なぜそうならねばならなかったのかを理解するのは、非常に難しいことです。知性のある人類が、なぜこれほどにも長い間、そのような不合理な圧力や恐怖に屈服してきたのでしょうか。

 その答えは私たちに知性を与えたもの、そのものにあると私には思われます。言語や象徴化によって、明確に表現された知識の発達の中にあると思うのです。これらのことはすべて、子供のころから、教わったことは信じるという性質を受け継いできたことにより、守り発展させてきたことです。のちに大人になり、自分自身で考えることができ、自分たちの子供を育てるようになっても、この感情は残っています。それは強い衝撃であり生存に不可欠なため、私たちは大人になっても、子供のとき両親に感じたのと同じくらい強い 感情を私たちに与えてくれる親(おそらくは「超越的な親」)が、いまだに必要なのです。そのため、私たちは神々と人々との仲介者である聖職者が、服従しない者には神々が天罰を下すであろうと説教するために、この偉大なる者に対する服従は、、偉大なる者が不在にもかかわらず、確固としたものになるのです。いままで洪水や病気、飢饉や火事などのすべての自然災害は、神聖なる怒りの証として、私たちの罪に対する罰として説明されてきました。聖職者はまた、服従する者は報われるが、そうでない者は永遠の責め苦を受けるという、死後の世界をも創り出しました。そして、私たちの関心を引くため、儀式や複雑な集団行動を含む祭儀を発展させてきたのです。

 神々が多くの人々を同時に支配し、服従させることができることを示すためには、それらのことが不可欠なのです。そしてついには、私たちの協力を確保するために、多くの宗教的指導者たちはそれぞれの神々への厳格な忠誠心、それと同じく、異教徒たちへの強い拒絶心を育てあげたのです。そのことは必然的に、文化の孤立とともに様々な宗派を生み出し、異教徒には暴力を用いてでも対抗するという考え方をもたら しました。なぜそうならねばならなかったのかを理解するのは、非常に難しいことです。知性のある人類が、なぜこれほどにも長いあいだ、そのような不合理な圧力や恐怖に屈服してきたのでしょうか。

 その答えは私たちに知性を与えたもの、そのものにあると私には思われます。言語や象徴化によって、明確に表現された知識の発達の中にあると思うのです。これらのことはすべて、子供のころから、教わったことは信じるという性質を受け継いできたことにより、守り発展させてきたことです。のちに大人になり、自分自身で考えることができ、自分たちの子供を育てるようになっても、この感情は残っています。それは強い衝撃であり生存に不可欠なため、私たちは大人になっても、子供のとき両親に感じたのと同じくらい強い感情を私たちに与えてくれる親(おそらくは「超越的な親」)が、いまだに必要なのです。そのため、私たちは母なる女神、偉大なる父としての超越的な両親を、さらには、私たちを守ったり罰したりすることができる。 神々の全家族をも求めているのでしょう。

 

永遠の幼児性

 もうひとつの有史以前におけるきわめて重大な経験は、食物採取から狩猟へと変わったことです。狩猟民 として、私たちはおたがいに協力することが必要な一方、個性や創意といったものを保持することも必要でした。それにより、狩猟を行う各々のメンバーが本人の判断力を訓練し、状況に応じた行動がとれるようになったのです。しかし、このことは狩猟が必要とするものと、より保守的な傾向をもつ社会が必要とするものとに、対立をもたらします。

 こうして、狩猟の中で「自然に」あらわれる指導者と、私たちがより精神的な生活を送り出した時に出現した、伝統的な指導者との間の争いを避けるために、集団を団結させ、ある種の盲目的信仰によって 信頼される、超越的な指導者が必要となったのです。こうして、部族の誰もが対抗したいとは思わないような、偶像を創り出したのです。後に人々が定住をはじめ、より農耕的になり狩猟にあまり頼らなくなったときにも、この方法が非常にうまく作用しつづけることがわかりました。狩猟の神々が五穀豊饒の神々に、また組織された宗教の中心になるのにも、そう長くはかからなかったのです。
この変遷がどのように起こったかを正確に示す、古生物学上の証拠はありませんが、ほぼ同時代におこった生物学的な出来事があります。そのことは今日でも繰り返しおこっており、私たちをこのようによき「信仰者」にしたのは何か、ということを解明するのに非常にわかりやすい考え方を与えてくれます。

 初期の狩猟に加わっていた動物は、私たちだけではありませんでした。すぐにオオカミやジャッカルが私たちの食べ残しを求めて、私たちの後に付いて来はじめたのです。わざと食べ物を残しておいたのかもしれません。夜間ジャッカルたちがキャンプの周囲にいてくれれば、大きな猛獣の接近をすばやく警告してくれるからです。まもなく、これらキャンプの随行者たちは、狩猟の助っ人になりました。実際に狩猟に加わり、獲物の居場所を突きとめたり追いたてたりして、あとにしたがうかわりに先頭にたつようになったので す。オオカミやジャッカルの迷子を拾って、自分たちの周囲で飼うようになるまで、それほどかからなかったでしょう。考古学的な証拠から、ジャッカルのような動物がほぼ15,000年ぐらい前に、最初の家畜化された動物としてキャンプ地の周りにいたことがわかっています。

 家畜化は非常に興味深い過程をたどります。まずジャッカルのような群居する犬科の動物たちが、自分たちのリーダーに示す従属的な絆を、人間という新しい主人に対する忠誠心へと変化させるのです。さらに、これらの動物たちが人間とより親しく生活するようになると、彼らは行動様式だけでなく容貌も変えてしまったのです。毛が短く、尻尾が丸く、耳が垂れ、頭が丸く、鼻が短くなりました。彼らはより飼い犬らしく 見えるようになったのです。
さらに興味深いことに、この容貌の変化はジャッカルにとって、何ら目新しいことではありません。今なお幼いジャッカルやオオカミは、これと同じ姿をしています。何が新しくなったかといえば、これらの特徴が成熟した大人の生活でも保たれているということです。また、それらの特徴をもちながら、初期の犬たちは子供のときの行動様式も保持し続けたのです。

 野生の子犬は母親に強烈な愛情を示しますが、成長するとたちまちその愛情は消えてしまいます。しかし、家畜化された犬の場合、この母親への愛は飼い主への愛に変わり、永遠に彼らの精神を形成する一部として残ります。飼い犬は特定の主人に対して、深い愛情を持ちます。この愛情は心からの忠誠心であり、通常生まれて6カ月から1年半の間に、1日か2日の内に突如として生起するものです。そして、無条件の献身という、ほとんど子供のような状態が死ぬまで続くのです。それはあたかも、肉体的にも精神的にも、永遠に幼児期に凍結されたかのように見えます。

 この奇妙な過程は幼形成熟として知られており、不思議なことに私たち人類にも起こっているらしいので す。大人になっても、私たちは胎児の特徴を多くもっています。大きな頭、小さな歯、平面的な顔、体毛の少なさ、生まれたあとも脳が成長できるようにゆっくり閉じられる頭蓋骨の縫合、さらに教育に要する非常 に長い時間などです。私たちは、大きさ以外は2,3歳のチンパンジーとほとんど変わらない頭蓋骨を持った、幼い類人猿なのです。ちょうどもっともよき友である犬が、永遠に遊び好きなオオカミの子供であるよ うに、私たちは子供の好奇心と遊び心を失わない、決して成熟しない数少ない種族の1つです。
さらに、もう1つの類似点があります。犬が主人を見るときの眼を考えてみてください。彼らは、祭壇や聖堂の前で跪いている信心深い人の眼と、非常によく似た眼をします。その眼の中には、同じような愛情、 そして忠誠を尽くす対象への無条件の服従が見えます。一方は突然の絆の定めによって、一方は明らかに 宗教的な回心によって、このような状態になったのです。
犬が人に対するのと同じように、おそらく人々は神々に対しているのです。ほとんどの神社に犬という「犬」がいることは、偶然の一致なのでしょうか。私たちと神々、または聖なるものとの関係は、精神的であると同様に、生物学的な根拠を持つのかもしれません。私たちは、直接的に犬と関係があるわけではあり ませんが、しかしよく似た社会的背景をもち、同じ生物学的作用や原理の産物であるともいえるのです。

 私たちと犬たちとの違いは、経験を象徴的知識に変え、ほかの人々と共有できるようにする能力です。 犬のような動物たちも、特殊で現実的な、自分たちを越える外部の何かが存在していることを、感じているかもしれません。しかし、私たち人間だけが、それを概念化することができるのです。たとえば、火は常に世界に存在しています。それは自然において経験する現実の一部です。しかし、私たちだけがそれを創り出すことができます。私たちが宗教的と称する経験は、宇宙という自然の一部なのかもしれません。ただ 人間だけがそれを言語化し、名前を与えているのです。それらすべては私たちに、何か具体的な信ずべきものを与えてくれます。私たちが人生を十分にまっとうするためには、何か目的をもつ必要があるようです。 私たちは、何か信ずることが必要なのです。それが何であるかは問題ではありません。根本的で現実的な、そして普遍的な純粋経験接触したり認識した時の、これは自然な反応だと思います。

 私はここ30年間、人間の超常体験について調査してきました。霊的あるいは宗教的だといわれる現象に関する報告書を調べたり、実際に話を聞いたりしてきました。カラハリのブッシュマンやインドの聖者、また再生したと称するアメリカのキリスト教徒にしても、すべて本質的には同じことを語っています。彼らは皆、自分以外の外部にある力と接触し、気持ちが昂揚して、強さや自信で満たされたと言うのです。神とかクオースとか、あるいはマナや先祖の霊とよび方はいろいろですが、何かが自分たちを通して作用していると言っています。
私はユングのいう、「時として、私たちに出会うべくしてやってくるもの」が存在すると考えざるをえま せん。しかし、これが特殊な人格をもったもの、あるいは何か特別な目的を持ったものだとは思えません。 この超越的な力に関しては、それぞれ文化ごとに、ずいぶん違う形や特質が報告されており、その違いは、私たちがそれぞれ違う服を着ているように、私たち自身の経験に着せる服の違いにしかすぎないといえます。

 18世紀の思想家モンテスキューが「もし三角形に神が存在すれば、その神は三角形のように三辺をもつだろう」と言ったようにです。その力は宗教的経験によってのみもたらされるものではなく、時折の超自然的なものとの不思議な出会いによっても、もたらされます。私たちはこれを、テレパシーによる交信、異星人との遭遇、霊魂の再来、 または私たちに物事の裏にある世界を信じさせる奇妙な現象などとして解釈しています。ギリシャ人は、この神秘的な力をもっともよく理解していたようです。彼らはそれを「en theos(エートス・神懸)」と呼んでおり、英語の中でもっとも美しい言葉のひとつである「enthusiasm (宗教的熱狂)」という言葉を生みだしま した。それは、外部の力と神秘を反映して私たちを興奮させる、私たちの内部に存在するものの働きを示す言葉です。それは内界と外界とのあいだの壁を取りのぞき、私たちを自然と直接触れ合うようにさせます。
これから私は神や霊や力という言葉より、むしろ「自然」という言葉を用いたいと思います。私が生物学者として、自然に対して大いなる愛情と尊敬の念を持っているためでもあり、自然という言葉を使うことによって、より真実に近づくと思うからです。

 30年以上も前、私が博物学の学生だった時、よく精神や意識について議論したものです。そのようなものが、存在するかどうかについてではありません。人類がそれらをもっていることは確信していたので、 問題となったのは、進化の中のどこで、いつ、精神が初めて現れたかについてでした。私は、すべての生命体に精神が宿るという可能性を、否定できるとは思いません。それは、私たちが呼吸をするようにな ったり、体温が一定になったり、言語を獲得したときに、魔術によってあらわれたものではないのです。

 最近の生物学では、意識の起源について、最初のDNA分子にまでさかのぼって探求する必要があると説 いています。また最近の量子力学においては、精神はすべての有機体にだけではなく、あらゆるもののあら ゆる原子にも存在すると言っています。私たちは生命の長い進化における不可欠な一部ですから、生命につ いて内面から、また私たち自身の経験から知ることが可能だと思います。

 このことが、今日私がここにやってきた理由なのです。つまり、神道には自然の本質を探究するための有効な示唆があると、私は信じているからです。西洋人にとって、神道を理解することはたいへんむずかしい ことです。神道では、哲学的な言葉による叙述を重視せず、特別な方法で、世代から世代へその信仰をうけ ついでいるからです。日本人以外の者にあなた方の信仰をかんたんに説明してくれる聖典や教義というものはありません。神道のしきたりや神社の歴史について書かれた文献は多くあるのですが、「カミ」の本質や儀式の意味について知ることを助けてくれるものは、ほとんどない。これは、神道の信仰が教わるものではなく、自ら把握するものだからでしょう。「カミ」への信仰は、頭から頭へではなく、心から心へと伝えられていきます。キリスト教イスラム教のような宗教が、主に理論的で象徴的な知識に重点を置いているのに対して、神道は、ほとんど全面的に、純粋な直接経験、言葉によらない知識に基づいているのです。

 外部の人間として私がいえることは、あなた方はほとんど経験だけを拠り所としているということです。 それが神道の本質だと思います。母親に背負われて、神社に初めて連れてこられた時からあなた方が後に どのような信仰を受け入れようとも、生涯を通して貫くような絆が生まれるのです。あなた方が鎮守の神様 に対して感じる親しみ、村の祭りに参加することによって得られる興奮については、私は想像することしか できません。
しかし、その神秘性について、私もある程度は理解することができます。アフリカに対して、私自身の 精神的根源を同じように感じるからです。

 

 
 出会うべくしてやってくるもの
 
 私はアフリカで生まれました。今でもはっきりと、私自身が絆を感じた瞬間を思い出すことができます。9歳の時、私は砂漠の端にある家のまわりの丘を、一日中歩きまわっていました。そして突然、とてもはっきりと地球が声を出して、私に話しかけるのを聞いたのです。それはこう言いました。「ここだ。ここがお前自身の場所だ」と。一瞬にして、私はそれが真実であるとわかりました。私はその場所に属しており、岩石や大地の子供であり、地球が生んだ1個の果実であることがわかったのです。それは、犬が主人を愛する ことを学び家畜化されていくように、私が自分自身の絆を感じ、自分自身が家畜化された瞬間でした。その時初めて、私は自分がどこかに属し、そしてそうありつづけるだろうことがわかったのです。

 自分自身より大きな存在を、そして自分がその一部であることを感じる瞬間は、どのような人の人生においても、重要な瞬間です。それは宗教的な経験以外の、何ものでもありません。外人である私でさえも、神社を囲む木立に入るときや儀式が行なわれている社殿に立つとき、同じような喜びを感じることができます。 そして、伊勢の壮麗な神宮を覆う杉や檜の中を歩いている時、あなた方と同様に私は深く心を動かされます。このような感情は、アフリカの灌木を越えて沈む夕日の中で、またアマゾンの霧中の夜明けの中で、私が経験した感情と深く結び付いていると思うのです。

 どのような小さな神社においても、このようなことが経験できます。つまり、神道は自然の神秘性に参拝者が触れられるようにし、彼らの気持ちを俗世から崇高なものへ導き、生き方を変え、ユングのいう「私たちに出会うべくしてやってくるもの」と、日常的に接することを可能にしたのです。
結局、神道は「出会うべくしてやってくるもの」に、自分たちの方から出掛けていく方法を見つけたと言えます。神道にとって樹木、特に榊がいかに重要かということを、私は理解しています。日本人以外の者にとって、最初に強い印象を受けることの1つに、多くの神社が木立や森に囲まれており、また、たった一本しか木がなくても、その幹にはしめ縄が張られているということです。

 そのことは、私にとっては大きな意味を持ちます。植物が真の知覚をもっている可能性を、もはや誰も否定できないと思うからです。今では、私は樹木を感覚ある生き物と見なしており、ひとところにずっと居続けざるをえなかったため、瞑想的な意識を発達させたのだと考えます。これは、そのように長い間 じっとしていられない、私たち人間を含めた動物たちには、なかなか獲得できないものです。 また、神道にとって山がいかに重要かを知っても、私は驚きません。地球を巨大な生命体と見なすことが、私たちの地球をよりよく理解する唯一の考え方です。地球は太陽系のもっとも巨大な生きものであり、動植物の生命の基本を形成する有機物と、それと同様に重要な無機物との、微妙なバランスの上に成り立ってい ます。岩は地球の骨であり、土壌は肉です。実際、もし地球に意識があり、精神を持っているとすれば、記憶や夢は情報をより効率よく保持できる、鉱物の結晶体によってもたらされるでしょう。シリコンはカーボン同様、有力な建築材料だとみなされはじめています。しかし、たとえ私たちがシリコンで建物を作って も、富士山ほど美しい形を作りうるでしょうか。科学がより進めば進むほど、自然と直接触れあっていた私たちの祖先には常識であった結論へと、ますます近づいていきます。私たちは、先祖の生き方、自分のまわりの世界が持つ力と神聖さに対する自覚、そしてその流れに逆らうよりもむしろいかにともに生きるかを、ゆっくりと学びつつあるのです。これが、いわゆるニューエイジが実際に行っていることであり、よきエコロジーの実現なのです。

 しかし、西洋では一般には気づかれていないことですが、神道にはすでにこのような考え方があるのです。 神道は、日本人独自の習慣と思考様式が織り込まれた、本質的に日本的なものです。しかし同時に、神道は 普遍的な意義をもつと思います。神道は自然を知るための、もっとも洗練された形態をもっています。今まさに地球が危機の時代に突入しようとしているとき、神道は私たち人類を救済するための方法をもっているのです。いままで以上に私たちは、自然を知るための叡知を、そして世界に対する深い感受性と細心な観 察から得られる、注意深く記録された純粋経験によってのみもたらされる洞察力を必要としています。私は 神道のもつすべての洞察力の中で、もっとも重要で影響力のあるものは、「カミ」というものだと思います。

 


 英語にならない「カミ」

 英語ではふつう「カミ」は「高貴な霊(noble spirit)」「神聖な存在(divine being)」と訳されます。しかし、この 翻訳はその意味を正しくとらえていないと思います。たとえば、「カミ」は太陽、月、川、岩、木などに対し て使われますが、それはこれらのもの、そのものを表現しているのではありません。成長や繁殖といった性質、美徳や技能、さらには風や雷のような無形のものに対しても使われます。「カミ」は物や事そのものでは なく、それらの精神、魂を表現していると私には思えるのです。この考え方はいかにも日本的であり、翻訳するのが不可能なため、「カミ(kami)」は英語やその他の言語に、そのまま用いられるべきです。ちょうど「アラー(Allah)」や「エホバ(Jehovah)」がアラビア語ヘブライ語から借用されたようにです。

 「カミ」というのは、ひとつの概念、考え方です。そして、概念は、ご存知のとおり、それ自体が進化する力や勢いをもっています。進化は、有機体が自分自身をコピーして、固体数が増えることによっておこります。または、複写の過程において現れる、新しい有利な特質を生みだす変異によって起こるともいえ ます。このようにして、自然淘汰が行なわれます。しかし、重要なことは、これは何も生体や生化学だけに限られいないということです。人類が象徴的知識を自分の生き方の中にとりいれ、お互いを教育しはじめて以来、精神的な世界においても、進化は重要なことになったのです。
世界の新しい音楽、流行、デザイン、宗教、また理論はすべて、ちょうど遺伝子のように、いまや伝達可能な単位となっています。それらは、生き物のように振る舞いながら、子から子へと伝えられるかわりに、脳から脳へと伝えられるのです。ですから、たとえば「UFOの存在を信じる」といった考え方は、世界中の個人個人の神経系統の中でおきる何百万回もの変化という、身体的なものとして理解されるのです。空飛ぶ円盤は、実際にほかの天体から飛来するのではなく、このように私たち自身の頭の中からやってくるものだといえます。

 そして、「カミ」もまさにこのような働きをするのだと思います。「カミ」という概念は、私たちの注目の焦点である山や木や、その他の実在のものと結び付くことによって、思考が働くのに役立つようになります。 また、「私たちに出会うべくしてやってくるもの」にこちらから近づいて行くのに、手助けとなるような儀式 を遂行するためにも、「カミ」という概念は有効です。すでに私は、この不思議な力は実在するものであり、 おそらくそれは、地球、自然そのものの中に起源をもつと述べています。さらに私は、もし私たちが純粋で 直接的な経験をするために、象徴的知識を使うのをやめ、つまりしばらくの間論理的な考え方をやめ、 そのかわり自分自身の感覚が告げるものに頼るようになれば、その不思議な力と出会い、理解することができるようになると言いたいのです。

 私の経験からいうと、なんらかの根本的な方法で自然と一体化すれば、そのようなことは簡単にできます。私がよく使う手段は、航海に出ることです。海に出ると、すぐに光や闇や太陽の動きを強烈に感じるようになります。そこでは、潮と風の様子に厳重な注意を払わねばなりません。私は自然の中に包み込まれてしまいます。言い換えると、太陽と月の循環のリズムに敏感になってしまうのです。そして、自然を知ることから生まれる、非常に現実的な喜びや洞察力が再び得られるのです。ですから、大地や海と密接に結び付いて生活をしている農夫や漁夫や遊牧民が、いま私がお話ししているような力を受け入れていたとしても、それは当然のことです。また、彼らが実際にこの神秘的な力を、一度私たちが象徴的知識を身に付けると発せざるをえない疑問、たとえば「何のために生きるのか」「生きる意味とは」といった疑問に対する解答と見なしているとしても、私は何ら不思議なことだとは思いません。

 私にとって神道が特別に重要な意味をもっているのは、いまや私たちが成すことのほとんどすべてが象徴的となり、言語や記号で自分たちの世界を築くようになっているにもかかわらず、根源的で言語によらない非象徴的な方法によって、私たちが現実と対応することを、神道は可能にしてくれるからです。

 神道は、仏教やキリスト教などのより近代的な信仰と共存しています。なぜなら、神道は他の宗教と張り合ったり、争ったりしないからです。神道は違うレベルのものです。自然をあるがままに受け入れ、自然界の背後にある道理とか意義とかを追求したりしません。「カミ」は、火や水や木といったものであってもいいのです。あるいは、勇気や親切さといった力であってもいいのです。「カミ」はつねにそれ自体、そのもの です。何かほかのものの象徴ではありません。富士山は「カミ」の住む場所ではないのです。富士山そのも のが「カミ」なのです。それがあるだけで、畏敬すべきもの、尊敬する価値あるものとなるのです。「カミ」 という概念が、すべての自然には聖なる資質があることを、確信させてくれます。同様に、木が「カミ」で あるというのは、それが「高貴な霊(noble spirit)」を象徴するのではなく、木そのものが霊であり、魂なのです。こうして木は、木としての個性や命を保ちながら、宇宙の一部となります。

 人間でさえ、「カミ」の性質を授けられることができます。しかしその場合、いわゆる神(God) になるので はなく、通常の人間としての強さや弱さをもちつづけます。「カミ」らしさという資質が与えるものは、自然との親密な関係です。そして、このことが私たちの日常生活でのすべての行いを、宗教的な行いへと変えていきます。「カミ」を通して、自然が私たちの生活に入りこみ、同じく私たちが自然の中へ入りこむことの重要性を、私たちは理解し認めることができるようになるのです。

 

 
 神職神道の「遺伝子」たれ

 多くの神社には鏡が祀られていますが、このことは非常に意義深いことです。それは神霊の姿を映し出すためだといわれていますが、また、それは叡知という輝きを反射し、私たちのいるべきところを知らせ、自然と私たちとが一体となった映像を示しながら、私たち自身の姿をも映し出しています。
こうした中で、神職のつとめは、儀式と伝統を守り、それを次代に伝えるために必要なことは、どんなこ とでも行うことです。神職とは、その継承における「遺伝子」なのです。神職こそが、過去からのシグナル をとらえ、それをふたたび未来へと送りだして、情報を途中で途切れさすことなく、より精気に満ちた、より深い精神的な知識をもっていた時代へ戻れる道を、私たちが捜しだせるようにしているのです。

 神職の方々の中には、現代の人々にもっと受け入れられるように、古い物語を書き直すことを検討したり、神道をもっと今の時代に合ったものにしようと考えている人たちがいます。その熱意はよくわかりますが、神道が宣教師的また伝道師的な活動を行うのは、私は間違いであると思います。神道では純粋な感覚的経験、また言葉や記号では簡単に語られない現実との交わりといったものに、すべての力点が置かれているのです。本を読んだり講義を聴いたりすることによって、神道を学ぶことはできません。直接経験しなければならないのです。そして、経験を通して「私たちに出会うべくしてやって来るもの」と接触しようとするのです。
この力はすべての自然の中に存在し、生命の根源であると思います。そして、神職にすべてが委ねられている祭祀儀式、舞また祈橋といったもの以上に、その力とよりうまく、コンピュータ用語を用いるならば、 「アクセス」できる方法を、私は知りません。神職は宇宙に対する鍵を握っているのです。そういったものを、今最もも必要としている人々のために、しっかりと守り、純粋なまま保っておいてください。

 私は神職ひとりひとりは神道における「遺伝子」であり、全世代にわたって情報を伝えていると述べまし た。これは物事を考える上で、正しく有益な考え方だと信じています。実際、神職神道の記憶といえます。 「よき知らせ』を学び、守り、そしてそれを伝えています。その、よき知らせは、自然の心を知ることが できる方法、私たちに何ができるか、また何をすべきかということを再び学ぶ方法、進化の過程での私たち自身の役割を再発見する方法があることを、私たちに告げています。 「私にとって、これは単なる空想的な考えではありませんし、また単なる自己満足型で何も説明していない 神秘哲学でもありません。実際に、これは大変優れた基礎生物学的な考え方です。生物学者として私は、すべての有機的生物のもっとも基本的な特徴のひとつは、彼らは自分自身を再生することができる、と いうことにあるのを知っています。彼らは、たとえ体の一部に損傷を受けたり、一部を失ったりしても、 元通り回復することができます。扁形動物は半分に切られても、それぞれが元通りになり、2匹になることができるのです。柳の木から切りとられた枝も、それ自体が大きくなり、完全な柳の木へと成長していきます。私たち自身も、血を再生したり、傷ついた肝臓や内臓の内層を再成長させたり、皮膚の傷を癒したり、骨を治したりすることができます。そして、脳に損傷をうけた人に赤ん坊の細胞を移殖すると、その細胞がその人自身の性質と記憶をもった健全な組織に育つことが、最近わかり始めています。

 科学用語で説明することが大変難しいものが、確かに存在します。いったい何が、有機体がどのように成長するかを決定するのでしょうか。内部にまったく同じ遺伝情報をもつ未成熟な段階での細胞が、 あるものは眼に、あるものは手の指や足の指になるということを、いったい何が決定するのでしょうか。そこには何か、青写真や計画とでもよべるようなものが、すべての有機体に存在するように思えるのです。有機体それ自体が生まれる前から、存在するような何かが。人をニワトリやカエルではなく、人ならしめている「概念」といえるような何かが。科学者が「フィールド(場)」と呼び始めたような何かが。 フィールドは物質ではありません。簡単にいえば、それは物質を生みだすエネルギーをさまざまに構成するパターンです。フィールドの効果、つまりどのような物質を生みだすかは、以前に同じようなことを行ったことがあるという、フィールドの記憶によります。いまやあきらかに膨大な種類のフィールドがまわりに存在しており、私たちの世界の驚くべき多様性をつくりだすべく、それぞれが働きつづけています。

 それぞれの有機体は、宇宙の誕生に際して、おそらくビッグバンとともに生まれた「統一場」にまでさかのぼるほどの長いあいだ、進化し、成長し、変化しつづけてきたに違いありません。重力場、電磁場、また量子物理学の物質場を対象とする場の理論の研究は、まだ始まったばかりです。そのアプローチは有益であり、また、いくつかの古典的な理論、たとえばギリシァの哲学者プラトンの理論ともむすびついているように思えます。プラトンは、かたちというものは「イデア」によってもたらされるものであり、その「イデア」は世界霊魂、新しい述語でいえば世界場(World Field)、から生じると言っています。 このことと神道の考え方、「カミ」がよきことを求める力、フィールドとして積極的な役割を果たすことによって、世界を創りだす力となっているという考え方とは、ほとんど違いがありません。ですから、宗教的経験と呼ばれるものをもたらす自然の不思議な力や、また、「私たちに出会うべくしてやってくるもの」に ついて私が語る場合は、プラトンの言う世界霊魂や物理学における統一場を想定しているのです。

 私がそれにとりつかれてしまったのは、その不思議な力と触れることにより、どのように自分たち自身を 再生すればよいのか、どうすれば私たちひとりひとりが、そして私たち全体が、宇宙の中でのあるべき姿を 教えてくれる純粋な知識を得られるのか、どのようにすれば完全に充足した生活を見つけることができるの か、というようなことについて、よりよく知ることができると感じるからです。
そして、神道はこのことをすべて可能にしてくれるものだと、私は信じています。本質的に神道は協同的なものであり、世界のすべてを、そしてその記憶を尊ぶものだと思います。私にとって、それはたいへん立派なエコロジーであり、もっと深く知るに値します。ですから、私は今日ここに、皆様方のもとにやってきたわけです。私は教えるために来たのではなく、学ぶために参ったのです。そのためのすばらしい機会を与えてくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。