モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

人格神と自由意志

 9.神の摂理ということ


 神の摂理
 
 これまでいくつかの観点から、神(心的存在、人格神)の存在ということを考えてきたのですが、神がいても、同時にその摂理ということがなくては意味がありません。神がこの大自然や我々人間を創造したという、ただそれだけの考えでは、我々の実生活を動かす底の世界観・人生観にはなり得ないのです。因みに、世界は、神によって創造された後は、神の手を離れて、自然法則だけで運行するといった考えを含む思想を理神論と言います(普通、17〜8世紀に提唱されたこうした思想を指して言います。自然神論等とも呼ばれます。)。ヴォルテール、ルソーなど自由思想家(啓蒙思想家)のほか、ニュートンや避雷針を考えたフランクリン、さらにジョージ・ワシントンやトマス・ジェファソンなどもこの考えだったと言います。そしてこの思想は、このままでは、世界は自然法則と人間だけの、神の与り知らぬところということで、人間界の多くの不合理、不公平がそのままに葬られていくことは免れず、死後の然るべき世界を考えない限り、実質的に無神論に等しいわけです。例えばニュートンなどはキリスト教の信奉者だったわけですが、この点はどう考えていたのでしょうか。
 
 人間の自由意志と自然法則だけの世界では、正義は終に勝つことができないままに終わってしまうことが多いのです。正邪善悪を律する神が存在していて、現世にしろ、来世にしろ、公正な実際の処置が下されるということでなくては、一切の不公平がついには正されるということでなくては、甲斐ある真面目な人生とは言えないのです。
 摂理ということは、我々人間世界にこの現世の場合なら、目には見えなくても、何か超自然的な事が実際に起こり得る、あるいは起こっているということです。神という心的存在が必要に応じ、物質現象なり、我々の脳なり心なりを左右するということであります。そして、科学の関知する限り、こうした超自然現象は今まで何1つ観測測定されていないと言ってよいと思います(よく、事ごとに、これは罰が当たったのだとか、これは神様の思し召しだとか言う人がいますが、こうしたことは論外です)。そしてこのことはそのまま、超自然現象などは存在していないというふうにとられがちです。しかし、観測測定されないからといって、この世界中のいつどこにも超自然現象などまったく起こっていないと断定することは不可能です。
 摂理の存否の考えは、我々の人生観を180度変えてしまう点で、死後があるかないかのそれに似ています。そしてそれは、同じく、所詮、信仰の問題です。可能性がないということなら兎に角、そうでないなら、この「可能性」ということが指摘され、十分に考慮さるべきであります。

 また、自然法則の世界に、摂理という超自然的なことが起こるということは、結果的には、奇跡と共通しているわけです。しかし、神懸かり的な奇跡といったようなこと(こういうと神父様に叱られそうですが)とは違って、摂理は、それがないと、人生に甲斐や意義があり得ない、つまり必須なもの、真剣なものなのです。なお、当然のことながら、摂理は、超自然法則的なものではあっても、自然界を乱すものではないと考えます。
 聖書に、神の許しがなければ、雀1羽も地に落ちることはないだろう、とか、同じくして、たった髪の毛1本でも白くしたり、黒くしたりすることはできない、といった言葉がありますが、これは、摂理に対する信仰を表していると思うのです(聖書に書いてあるゆえに正しいことであるなどと言っているのではありません)。そしてこの考え方は、摂理ということが実際にあるとして、そのあり方をいみじくも穿ったものと思います。全宇宙は、砂1粒、素粒子1個の動きまで、一切は神の完全な摂理下に置かれているような気がするのです(これは、神が全ての物事を1つ1つ手ずから動かしているとか、一々手を出しているということではありません。必要に応じて左右するということ、一切を完全に掌握、管理しているということです)。

 罪もない人間が流れ玉に当たって死んだとして、それを偶然とだけ、運命とだけ見るのでは、ついに人生を真面目なものと考えることはできません。正視できない奇形児が、人類文明の悪の産物というだけでは、運命というだけでは、あるいは、前世の所業の報いといったようなことでは、人生をまともに解釈することは不可能です。全ての人間1人1人に意味の存在を考えようとするなら、いわゆる偶然である出来事も、当然神の摂理下においてのことで、でたらめで無意味なことでは有り得ない筈です。
 この世の中に、実際に神の摂理というものが存在しているかどうか、すなわち人格神が実存しているか否かは、人生における根本的な意味の存否に同義です。心を、脳髄という自然法則下にある物質組織の所産とする考えは、当然、人格神とか摂理といったことには関係しません。
 
 神の摂理ということは、また、天命ということに同じです。そして、自由意志の有無にかかわらず、所詮無力な人間が、神の摂理と無関係の世界において辿ると考える道が運命です。天命と運命、考えてみれぱ、この2つの言葉はおよそ対蹠的な人生観を謳っています。摂理という超自然現象が、果たして簡単に現実に起こり得るものかと、何がしかの抵抗を感じる人は少なくないと思います。しかし、もし神がいると考えるなら、この物質宇宙、そして人間は、当然、神によって創られたと考えているわけで、神はここで、すでに、摂理の前段階をなす創造という大きな「作業」をしているわけです。創造が終わって、世界が平常化している現在だからといって、摂理という「作業」が、今更特に考えにくいはずはないと思うのです。また、過去というカーテンの陰に特に、奇跡とか摂理ということを考えやすく思うのも、これは神懸かり的です。昔も今も自然法則は同じだと思います。
 また、考えてみれば、前にも述べたことですが、我々の「心」も、結果的ではありますが、自分の「脳内反応(物質現象)」を左右する能力を現に持っているというわけです(心が脳髄とは別個の自主的存在であるとして)。
 なお、我々の心が、専ら肉体(自分並びに相手の肉体)や外界を媒介物として、相手の人の心を動かしているのは日常の事実です(自分の心も、相手の人の心によって動かされているわけです)。
 かくしてまた、話はやや飛躍するかもしれませんが、我々の心は(直接に自分の「思い」で、また行動を通して)神の心をも動かし得るのではないでしょうか。



 
 自由意志・霊魂の不滅・神の存在
 
 神の摂理ということに関連して、ここに、これまで考えてきた、自由意志、霊魂の不滅、神の存在という3つの事柄を、一応まとめてみたいと思います。既に述べてきたことですが、責任とか、良心とかいうことは、人間に自由意志(自主)があって初めて言えることです。精神活動を脳の所産と考えることは、人生一切を脳髄中の自然現象に還元してしまうことです。人格即脳格ということです。かくして、この人生が、何か真実の意味(我々にとっての)を持った甲斐のあるものであってほしいというなら、人間はまず、自由意志を持った霊魂でなくてはならないと結論したのでした。
 そして、人間死んで灰だけになってしまうものなら、自由意志があろうとなかろうと、所詮人間がは同じことと考えたのです。全ては肉体の死とともに消えてしまうことになるからです。この人生が、再び、本当に甲斐のあるものであるためには、霊魂は、さらに、不滅(未来は虚無ではない)でなければならないと考えたのでした。
 それでは、我々に自由意志があって、霊魂も不滅なら、人生は意味もあり生き甲斐もあり得るかというと、それでもまだ駄目だということでした。人間の力だけでは、例えば正義にしても、とても保証され切れるものではないと考えたのでした。正邪善悪を律する、一切を保証する、神(人格神)という絶対者が存在していなくては、その摂理が行われなくては、ついに、甲斐ある人生は保証され得ないと考えたのでした。要するに、我々1人1人の人生が、結局諦めに終わるものではなく、真実、真面目で意味のあるもの、甲斐のあるものであるためには、自由意志(自主)、霊魂の不滅、そして神の存在という3つのことが必要であると考えたのでした。

 さてここで、ドイツの哲学者カント(1724一1804)は、道徳命令を成立させる根拠として、自由、霊魂の不滅、神の存在を考えたのです。
カントのこの考えと、今ここでまとめた、私の幼稚で荒削りな考えとは、大体同じことのように思うのですが、私には明確には判断つきかねます。





 
 10.心と心の触れ合い・人間1人1人の人格の絶対尊厳性


 愛こそ心の存在意義
 
 これまで、人生の意味とか価値とかいうことをしばしば言ってきましたが、それでは一体、何がこの人生の真の意味であり、真の価値なのでしょうか。思うに、それは実に、人と人との心の触れ合いにこそあるのではないでしょうか。自分がたった1人で、この世界に取り残されたと考えたらどうでしょう、どのように贅を尽くした、何不自由のない環境に置かれたとしても、そこには最早、何の望みも喜びもあり得ないことは明白です。地位も名声も、もとより意味を成しません。どんな大発見をし、いかに学を極め、どのように悟ったところで、何の張り合いも、そしてついに意味もないのです。
 友と語り、そして、喧嘩をしながらでも、人と交わることこそ、感じあうことこそ、人間にとって不可欠の心の糧であります。これがなければ、人間は、食べて生きて仕事をしていても、動いている屍と変わるところはありません。互いに喜び悲しみを分かち合い、苦しみを訴えあい、思うことを話し合い、信じ合う相手がいなければ、生き甲斐はないのです。まことに、友は、真実、かけがえのない最高の宝であります。人間(の心)より貴いものはないのです。ひたすら仕事に打ち込むことが生き甲斐だなどと、悟ったようなことを言っていても、人と心を触れ合うことなくしては、あるいは、どこかでその仕事が人のためになっている、あるいは評価されている、という意識がなくては、ついに生きている意味甲斐のないことは自明であります。1人で本を読むことも、つまりは、心と心の触れ合いということです。書物はまた、まぎれもない友であります。

 もっと突っ込んで言うなら、愛こそ究極の意味であり、価値であり、目的であり、同時にそれなしでは生きていけない心の糧であると思うのです。1つ1つの愛の行為、思いは、例え小さくても、人生と自他の幸せを築いていくための、唯一の崩れることのない素石です。愛の心は人間の心の体質であると思うのです。喧嘩も、憎しみも、すでに愛の変形の如くに思われます。愛という言葉に臭みを感じるなら、好意で結構です。人に好意を示し与える喜び、それを受ける喜び、楽土は好意という基盤の上にのみ建設され得るのです。



 
 人間1人1人の絶対尊厳性は人生に意義があるための前提
 
 我々人間が、互いに付き合い、愛し合い、あるいはまた怒り合うことができるということは、我々はすでに無意識のうちにお互いの人格を認めているということであります。動物に向かって張り合う気にはなれない理です。この人生の基本である、人間同志の付き合いが、根本的に意義を持つためには、人間はそれぞれ、本質的に尊厳性を持った自主的存在でなければならないのです。人間1人1人が、修飾的な形容詞ではなく、真実「かけがえのない(つまりまた、それぞれ絶対尊厳な)」存在でなければ、人生に本当の意味は成り立たないのです。
 人間の心の体質は愛であるとともに、絶対の尊厳であり、愛が成り立つためには、人間それぞれの人格の絶対尊厳性が必要だと思います。愛と尊厳性は一体のもののように思います。そして、母の愛に尊厳を感じるか、あるいはそこに本能だけを看て取るかです。元よりこうした尊厳性は、王侯貴族に考えるようなそれではありません。単なるムードとも異なったものです。一見どんなに下らないように見える人間にも、どんな悪党にも具わっていなければならないもの、そして、誰もそれを犯し得ないもの、自らの尊厳性にして、自らそれを犯すことのできないもの、と思うのです。
 
 つまり、こうした尊厳性は、人によって格差を付け得るものではないのです。それぞれの人の持つ尊厳性は絶対なものです。聖者も、王侯も、下僕も、いかなる身障者も、そして精神異常者(脳という、与えられた道具(コンピューター)に故障のある人)も、その人格の基本的尊厳性に於いては些かの差もあってはならないと思うのです。人間は1人1人、人間国宝であろうとなかろうと、それ以前すでに、かけがえのない尊い存在であるのです。一切衆生悉有仏性であります。
 人間の本来の素質がまがいものであっては、自らを築き、自らを鍛えるなどということは、土台、無理な相談です。甲斐ある人生は成り立ちません。また教育などということも不可能です。石ころを磨いても、ダイヤの輝きは出ません。素材が悪くては、彫刻はできないのです。




 
 自由意志のないところに、すなわちまた、物質の世界に、尊厳性は関係ない
 
 尊厳性は、自由意志を持った心に関する問題であり、自由意志のないところに、つまりまた、機械や物質の世界(自然法則の世界)に、尊厳性とか、また卑しさなどということは関係ないことです(念のため、今言う尊厳性は、造化の尊さなどという場合のそれとは別です)。脳を含めて人体がまったくの分子機械であることが確からしくなってきた今日、心(精神活動)が、その中枢コンピューター(脳)の所産に過ぎないと考えるなら、純粋な自然現象の結果であるその心は、尊厳性などということとはおよそ関係のないものということです。そして尊厳性という考え自体、これまた脳内反応の写影(造映)に過ぎないもの、単なる架空のムードでしかないことになります。
 心に本然の尊厳性を考えるなら、再び、心は自由意志を持った自主的な存在であって、脳髄とは本質を異にする、まったく別個の存在であるとしなければなりません。愛、尊厳性、自由意志は不可分にして一体です。

 さて、例えば今、まったくの狂人を目のあたりにしたとして、果たして、その壊れてしまった脳髄を超えて、そこに、絶対尊厳な霊魂(心)が隠れていると思えるものか、確かに、考えさせられる問題です。狂人の頭脳は、事実、壊れた機械ということです。もし心が脳の所産であるなら、狂人は人間の屑という他ありません。屑であっても、言うなら人間として、或いは身内として、大切にするというだけのことです。しかし、私は、狂人は、あくまで頭脳の不具者であり、今は隠れていて見えなくても、やはり、健全な絶対尊厳な霊魂を具えている(霊魂であるという言い方が正確)と考えたいのです。そしてこれは全ての人間の人生を真面目なもの、意味あるものと考えるための要請と言うしかありません。




 人間の尊厳性、愛、自由意志は神自身のそれに由来するものでは
 
 私は、人間の心の尊厳性、愛、自由意志は、どうしても神(人格神)自身のそれに由来しているように思うのです。神という心的絶対者を考えることなしに、有限な人間だけからでは、こうしたものは出てこないように思うのです。つまり、人間の心は、元々、神の心に由来しているもの、すなわち、神の心の分身として、神によって創られたものと考えるのです(そしてまた、これによってこそ、人と人、神と人との心の通い合いがあり得るのだと思います)。
 私は、これまで述べてきましたように、神は存在していると考えるので、以上のように考えもし、一方また人間の心の、尊厳性、愛、そして自由意志ということから、再び、改めて神の存在することを考えるのです。




 1匹の迷った羊
 
 聖書に、羊飼いが1匹のはぐれた羊のために、残りの99匹を山に残しておいて探しに出るという喩え話がありますが、これも、人間1人1人の人格の絶対的な価値(尊厳性)というものを教えています。人間1人の体と心は、例え狂人であっても、いかなる国宝にも替えることはできません。それどころか、どんな1人の人間の救出のためにも、全世界を挙げて協力すべき筋合いのものです。
 嘗てテレビの番組に、「唄子・啓介のおもろい夫婦」というのがありましたが、ある時そこに出てきた人妻の話(実話)に次のようなものがありました。「私か貧乏していたさ中のある日のことです、2人のまだ幼い子供を連れて田舎道を歩いていると、ちょうど向うからやって来たお婆さんが、私たちの姿を見て哀れと思ったのでしょう、袂から煎餅を1枚取り出すと、それを路上に投げたのです。私の戸惑いをよそに、無心の兄は走っていってそれを拾い、半分割って弟に分けてやりました。その時の有様が今でも‥‥」と、まことに実感がこもった話でした。
 
 仮初めにも、人に物を与えるからには、例え相手が乞食であっても、投げて与えるようなことをしてはなりません。何がしかの誠意、謙虚さ(相手の絶対尊厳性を考えれば、常に当然であること)に欠けては、愛の行為には結実し得ないように思います。真の愛の心は品性を具えたものです。因みに、施したという考え方自体、実はすでに思い上がっているもののような気がします。自分が今日こうして生きていられるのは、果たして自分だけの力で出来ただろうかを、少し考えてみるなら(実際、ほとんどは周囲の、言葉なき協力、そしてついには他力によっているのです)、例え楽ではない事情の中からしたことであっても、「施し」などとは、そう誰でもが無反省に言える言葉ではないように思うのです。
 また、親切は、戒律に終わっては、その真義は達せられないのです。もっとも、戒律的、半強制的であっても、しないよりはましです。そして、またついでの余談になりますが、このようにして、きめ細かく考え、反省していくこと自体が、また、自分の人間を造っていくため欠かせない大切な修行でもあると思うのです。自分が本当に安っぼい人間だと、心底から思っている人はいないのではないでしょうか。自分なんか、自分などと、日頃やたらに卑下している人でも、自尊心を傷付けられて憤激しない人はいないのです。まことに、自尊心という言葉は、伊達にある言葉ではありません。



 
 再び心は第一義にして、同時に、絶対尊厳な存在
 
 どんなに有難く尊い経典も、聖書も、我々人間1人1人の心のためにこそ書かれたものであります。我々人間の心のためということ以外、それらに本来の意味価値は考えられません、人類の死に絶えた地球上に転がる金塊と同じです。お経が、説法が、聖書が尊いという以前に、まず、我々人間の心が、尊く大切な存在なのです。心は、このように貴く、絶対の価値のあるものだと思います。心は、第一義なのです、絶対尊厳な存在なのです。ここに再び、全宇宙も、我々の肉体も、こうした心のためにこそ、霊魂の成長のためにこそ、備えられ、存在しているものであるように思うのです。
 世間のいかなる毀誉も、また刑罰も、人間の尊厳性を疵付けることは不可能です。人の尊厳性は、自らの悪しき思いによってのみ曇るだけです。人間の造ったいかなる地位階級、名誉、称号、勲章も、それぞれの人間の価値や、尊厳性、品性とは一切関係ありません。




 
 どこまでが本当の自分か
 
 因みに、我々は省みて、どこまでが本当に本当の自分か、本当に自分の、例えば、努力によるものなのか、責任に帰せらるべきなのか、正味での罪とされるべきか、そしてどこまでが遺伝、つまり生まれつきの脳の、体の、作りに帰せらるべきか、例えば、どこまでが天賦の才能によるもので、どこまでが本当に自分の努力によるものなのか、といったようなことについての判断ははなはだ困難です。ノーベル賞を貰ったからといって、おめでとうとは言えても、手放しで偉いとは言えない理です。大罪を犯してしまったからといって、反省は絶対に必要でも、必ずしも自分を一生、責め続けることはないかも知れないのです。
 さらに、心がけと努力次第で脳の造りもある程度改善できるものか、また、心懸けや努力自体がすでに脳の造りによるものか(再び、心は脳の所産か)、といった問題、さらにまた、人の一生を決める要素には、育ちを含めて、環境ということがあり、また、いわゆる運命もあります。しかし、我々にとってこの人生が根本的に意味あるべく、人間を、自由意志を持ったそれぞれ自主的な人格と考える以上は(それがすでにして他力によってあるものであっても)、当然、我々にはそれぞれ相応する自分の責任というもの、そして自分の正味の、心懸け、そして努力というものの存在が考えられなければなりません。
 こういった次第で、人間それぞれの所業が、どのように報われるのが至当か、どのように裁かれるのが本当に正しいのか、ということは、実は大変判断の難しい問題です。人間の本来の評価は、所詮は人格的なものについてであるべきであり、その所業とか技能そのものについてはまた別に考えられるべきです。そして、正確に評価できるのは神様だけだと思います。

 兎に角、生前死後を問わず、人それぞれの行いの正味が、いつかは、正しく公平に、確実に、清算され、報われていくのでなければ、どこかで正しく評価されているのでなければ、これまた、何度も繰り返しますが、真面目な人にとって本当に生き甲斐のある人生などというものは成り立ちません。なおここで、誤解のないように申し添えますが、私は、ただ正しさ、正確さ、厳密さだけが能と言っているのではありません。人間、常に感謝の気持ちが、そして、人から許してもらった以上に、人を許すということが、そして心に寛容と余裕がなければ、人生は干からびたものです。正しさ、正確さが必要ということは、ついに、愛は無条件ではあっても、でたらめの世の中では成立し得ないということです。







 11.宗教について

 宗教とは

 宗教というと、例えば仏教とか、キリスト教とか、1つに、教派や宗旨を指して言いますが、また時には、中味はほとんど空の祭祀祭儀を指して言うこともありますが、もう1つ、あの人には宗教があるとか、あの人は信仰を持っているとか、すなわち、宗教心という意味にもよく使われます。後者の意味において、宗教とは、一口に言うなら、信念ということに近いかもしれません。そして単なる信念と違う点は、宗教では、神の存在が第一の前提に立っていることです(この点、禅(宗)の如き、むしろ哲学色に傾き、果たして純粋に宗教と呼ばるべきものなのか、どうなのでしょう)。
 宗教は、人間が、自らその根源的な無力を悟り、絶対者(人格神)を求めてこれに縋ろうとするところに発しています。したがって、神を信じない人にとっては、宗教は無意味な存在です。人間に苦しみも欲もなければ、自分の無力を悟ったところで、別に何に頼る必要もないわけです。宗教は、苦しみあり、欲あり、死にたくない、いつまでも生きていたい、そして、常によりよき将来を理想して止まないところに発するのです。諦めには宗教はありません。かくして、人はその幸せを約束する全能の神の存在とともに、肉体の死を超越する霊魂の永生を、すなわち現世に続く死後の世界の存在を求め、信ぜんとします。これが宗教です。このようにして、宗教は、単に悟って、安心立命を得るといったようなこととは些か違うように思います。



 真理は1つしかない・宗教の真諦
 
 真理が1つしかないように、宗教も(それが真実なことであるとして)、その真諦は、当然1つしかないはず、それは教派、宗派によって異なるべきものでは絶対にありません。宗派によって、その形式でなく、唱える要諦に差があるとすれば、それはいずれかが、あるいはいずれもが、完全なものではないということです。また、宗教の真諦は、寺院とか、仏像などとは関係のなかるべきものです。仏像や聖者の像を拝むことを一概に悪いと言っているのではありません。そうしたものにその聖者たちを偲び、敬意を表するのは結構です、しかし、そこまでであるということです。偶像となってはならないということです。どんなに立派な寺院も、由緒ある名刹も、いかなる仏像も、国宝にはなり得ても、信心の対象にはなり得ません。同じくして、何千年続いた教派にしても、その歴史の長さ自体は、寺院の建物の古さと同じ意味しか持っていません。建物の立派さや、歴史や遺跡などに威されてはなりません。文化的な価値は宗教の本質には繋がりません。  
 
 御札や御守りにしても、結局は偶像と同じような意味合いのものであり、気休めとか、記念品、せいぜい身辺の自戒など以上に出るものではなく、儲け目当てに売られているものなど、愚劣と言うほかはないのです。こうしたものが真の宗教と何の関係もないことは言うまでもなく、また、こうしたことを僧・神職にある人々が商売にするのを見ては、そこに神仏の信心などとは白々しいと言うに尽きます。地獄の沙汰も金次第と言いますが、まことに戒名の位付けがお金で決まる有様です。死んだ本人とは縁もゆかりもない、お金で雇われてきたお坊さんの唱えるお経を聞いていると、心を隙間風が通っていくのを禁じ得ません。まして、世界にはその日の食物にもこと欠き、病に倒れていく人に与える薬もないという悲境のあることを日常知らされながら、すでに死んでしまった人の葬式に、しかも自分たちの見栄から、巨額の浪費をして、自らも、周囲の人たちもともに省みることのない社会を見る時、そこで上げる念仏の空しさを思わずにはいられません。例えばこうしたことども(もちろん、宗教の本質とは無関係な事柄なのですが)によってもまた、宗教という語のイメージは著しく曲げられていくのです。
 
 話は逸れますが、何年苦行を積もうとも、いかに座禅を続けても、それらによって得られるものは、必ずしも、例えば今ここに述べてきたような虚儀弊風を打破すべく、その実行の1つに踏み切る勇気にもなり得ないのではないでしょうか。大伽藍の中で、訳も分わからない読経のムードに酔うとか、パイプオルガンの音に威圧されて神妙な気持ちになるとか、信者の被る白いヴェールに聖なるものを錯覚するとか、そうしたことを一概にいけないとは言いませんが、宗教や神仏とは本質的に関係のないことどもです。荘厳などというムードはまことに曲者です。例えばパイプオルガンの音と白いヴェールが、わずかでも入信の契機に与かっているのなら、そこには愚かしさがあるというものです。歴史であれ、伝統であれ、そして例え善男善女の何か心の拠り処になっている事柄ではあっても、反省すべき問題は多く残っていると思います。どんなに有難いと言われるお経でも、訳が分からない限り、ただの呪文と異なるところはないのです。何千年経っても、結局、世の中のほとんどの人には分わからずじまいということでは意味がないのです。宗教の教義は、万人のためのものであり、それは当然、我々の1人1人が明快に理解納得し得るものでなければなりません。結局、高僧だけにしか分からないようなものでは何にもならないのです。また、冗談にしても、解らない方が有難味があるなどという言葉には、すでに真面目さがありません。
 
 哲学が科学とは異なっているのと同じ趣に、宗教も医術とは些か違っています。医術の場合は、患者にその知識や技術がなくても、医者は患者を助けられますが、宗教の場合、高僧だけが悟っていても、一向に有難くはないのです。救われる側の俗人も、高僧善知識とまったく同じに悟らなくては救われないのです。思い切って大胆に、徹底して真理を追求して行くべきであります。真理を求めるのに、不敬という言葉はありません。何の遠慮も要りません。そして宗教は、我々の寝起きとともにある、白日下の真理真実でなければなりません。真の意味での宗教というものの、真にあるべき姿を誤解してはならないと思います。目で見、手で触ったものだけが真実ではありません。それらはむしろ諸行無常相です。かといって、見ずして信ずることが宗教でもありません。納得のいくまでは一生涯でも信じないのが、真面目で真剣な人生態度であり、まさに宗教の土台でなければなりません。かくして宗教は、真剣に考え、真剣に生きんとする人間にして、ついに到達する人生態度ということができると思います。宗教は、いわゆる修養でもなけれぱ、苦業でもありません。
 
 以上、こうした意味での真の宗教というものは、私は、人間にとって、人生にとって、必要欠くべからざるものだと考えているのです。我々、殊に日本人は、宗教というと一種の臭みを感じる人が多いかもしれません。また、この宗教という日本語自体、決して今言う宗教の真意に適したものではありません。しかし、今さら変えるべき他に適当な言葉もなく、さしずめこの語を使っていきたいと思います。
 さて、思うに、人間は弱いものであるので、どこか、まともで真面目な教会なり、宗門なりに所属していた方が心強くもあり、信仰心から離れていくことも少なくなり一心の向上を計る上でも良策と言えるかもしれません。しかし、救われるためには、必ずしも形式を踏んだ入信が必要であるとは思いません。洗礼を受けなければ天国に入れないというものではないと思います。教団に所属していないと、国籍でもないかのように思うのは甚だしい見当外れです。人間の本籍は元々万人が神の国です。別に何々教の信者でなくても、教会に行っていなくても、つまり世間の一般常識からは全くの無宗教ということであっても、人はその心懸け1つで十分に救われもするし、信者と何らの格差を付けられることなく、極楽往生もできる、ということでなくてはなりません。天国に手形は不要です、天国はまた、ネクタイを付けないと入れないレストランとも違うのです。




 奇跡
 
 キリスト教にしても、仏教にしても、宗教には伝説とか奇跡が付きものといってよいです。ところで、神が存在し、自然法則自体が神の摂理下にあると考えるなら、奇跡を否定し去ることはできないわけですが、しかしだからといって、いわゆる奇跡を前向きに認めることはどんなものでしょうか。例えば、マリアの処女懐胎にせよ、キリストの復活にせよ、とにかく、自分が信じられないことを信じろと言われても無理です。
 余談になりますが、第一、キリストが我々と同じようにして生まれてきたのでは、一体どこがいけないのでしょう。生殖行為のどこが汚らわしいのでしょう。汚れているのはそう考える人間の心です。また、病苦に喘ぐ者の藁をも掴む気持ちから、奇跡を願うその心理は分かりますが、それでも奇跡は、多くの人を過った方向に導き、邪教にも繋がっていくのです。私は、奇跡を頭から無視したり、人から夢や希望を奪おうというのではありません。歪曲した考え方、馬鹿げた姿勢を正すべきと思うだけです。
 
 万物が厳密に自然法則に従って一糸乱れず現象しているというそのことと、いや、それより第一、ものごと(我々自体を含めて)が存在しているということそのこと自体と、言うなら手品のような奇跡とを比べて、それらの不思議さ、有難さに一体どんな差があるだろうかということも、十分に反省すべき事柄です。が、しかし、その自然法則を超えてさらに、人間が自分に都合のよい奇跡を願うその気持ちも分かりますし、それどころか、こう言う私自身、浅ましくも、奇跡を願う気持ちは十分あるのです。
 しかし、いわゆる霊媒とか、念力とか、机が独りでに躍り上がったとか、怪しげな加持祈祷や念力の類で病気が治ったとか、よしんば中には、偶然でなく、本当にそうした事実があったとしても尚且つ、そうした事柄は今考えている真面目な人生間題にとって髪の毛1本ほどの意味もないのです。よしんば、自分の身内1人が救われたとしても、世界にはまだ、耐えられないような苦悩に喘ぐ数多の人々が救われないままでいることを考えなければなりません。
 こうした奇跡とか異常現象で左右されたり、ぐらついたりすることなく、ひたすら人生を真面目に、地道に考えつつ、自ら打ち建てていく力強い人生観、神観、信念にこそ価値を置きたいと思います。繰り返しますが、奇跡を否定はしません。しかし、キリストの復活がなかったとしても、再臨が起こらなくても、神の存在を信じることはできます、心の不滅を信じることもできると思います、愛の意味価値にも変動を来たしません、つまり、自分の人生を、永生に亘って、希望と力に満ちて生き、自らを、そして良き社会を建設していくことが可能であると思います。宗教は、奇跡を必要条件とするものであっては断じてならないと思います。


 
 祈りということ
 
 宗教は、まず神を信じ、それに縋るということですから、そこには当然、祈りということが必然します。宗教と言わないまでも、無力な人間には、すでに祈りの気持ちが付きものです。祈りに形式は不要です。いつ、どこでなりと、たった1人でも、皆で一緒になりと、ただ誠意をもって、真剣な、善意な願いを、当たり前の言葉で祈り、あるいは念じるだけで十分です。そして後は、応答を期待するというより、神の摂理に任すといった気持ちだと思います。
 それぞれの教派なり宗派なりでの、祈りの形式や、礼拝等における儀式などを不可とか、やみくもに無意味とか言っているのではありません(邪教的なものは別として)。また無教会主義がよいとか、よくないとか、それも人それぞれでよいと思います。ただ、自分の部屋なりどこなりで、真剣に願い祈る真面目な気持ちは、大伽藍でたくさんの寄進をして、あるいは高僧とともに上げるどのような祈りにも勝っても劣ることはないと言っているのです。ついでに、訳の分からないお経を唱えるよりも、眼の前の、小さくても愛の実践です。例えば、爽やかな返事の一声です。




 信仰は難いかな

 儲けが一切の発想原点になっていると極言したい位の、この現実の世界で、しかも胸を張って前進する意気盛んな人種に向かって、宗教だの、祈りだの、愛の実践だのと言っても、事実、馬耳東風の感です。しかしまた、人間はまことに弱いもの、そして浅はかなもので、自分の心身に自信のある時、我が意を得ている時は、神に祈るなどということはもとより、神の存在すら意に介しないのが常ですが、ひとたび形勢が傾いてくると、あるいは死病の宣告でも受けようものなら、慌てて藁にでも縋ろうとし、そしてまた、病気でも治ってしまえば、いつの間にか元の不遜な人間に逆戻りというのが世の慣わしです。
 そして、新薬の出てくる度に一喜一憂する難病患者の姿は、人間の無力をそのままに現わしています。まことに、有効な新薬の一服は、病床に喘ぐ人々にもたらす光明において、百の祈り、千の諭しに勝る観です。信仰(を持つこと、すなわちまた宗教(心)を持つこと)は難いかな、といった感です。




 愛とは

 金の切れ目が縁の切れ目と言いますが、愛に縁の切れ目はありません。母の愛がそれです。自分の身を省みないで我が子に尽す母の愛は、生物本能であると同時に、まさに神の示した愛の生きた雛形です。愛敵などということは、普通にはとても無理なことのように思われますが、無法の我が子のために尽す母の心は、考えてみれば、まさにこの精神なのです。しかし母の愛は、そのままでは本能であるがゆえに、時に反省を欠いて、我が子さえよければという、利己的な盲愛に陥りがちです。そして愛は、報酬を意識しないとか、利己的なところがないとか、ただ親切、好意、誠意というだけでは十分でなく、相手の本当の幸せを考えてする、より高い立場からの賢さを伴ったものでなくては本物と言えません。愛の行為は、多くの場合、努力を伴い、時に苦しみでもありますが、しかしそれは、常に必ず甲斐ある喜びであり、儚く消えていく快楽とはまた異なったもの、しかも、自らの、そして他の人の心をも育てていくのです。
 聖書の喩えにある、放蕩の限りを尽し、ぼろを纏ってしょんぼり帰ってきた息子を、抱きかかえて迎える父の愛は、すなわちまた神の愛です。神は、底無しに安心のできる慈父ということです。なおここで、「父親はしかも、召使達に1番いい衣服を持って来させて着せ、大ごちそうをして皆でその無事に帰って来たのを喜んでいたが、そこへ畑から帰って来た兄息子がこの様を見てひがんで怒った」ということがおまけに書かれているわけです。まことにこのあたり、「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや(親鷺の語録、歎異抄にある言葉)」ということにいみじくも通じているような気がするのです。しかし、歎異抄のいろいろな解説書にしても、私にはとても難解なので、はっきりしたことは言えません。
 
 ここでまた、宗教とは、神というものの本当の姿を、正直、以上のように意識しながら生きていくことであり、感覚的な実感には欠けていても、神と人間との直接の触れ合いであると考えられる日常の祈りは、愛の実践行動に織り成されて、宗教の真骨頂を成すものだと思うのです。愛の実践は、例えば朝の明るい「おはよう」の一語に始まります。友のために命を捨てるのが最高の愛だとか、全財産を投げ打って世のため人のために尽せとか、そうしたことが人間愛の1つの頂点だということもわかるのですが、まずは、嫌な奴にでもなるべく意地悪はすまいという位のところで勘弁してもらいたいです。
 生死のドラマが起こらなくては、愛の真骨頂は現われないわけでも、また愛というものが、どこまで深くあり得るかを測れないわけでもありません。人が普通嫌がってやりたがらないような、例えば長患いの病人の世話を、何年も何十年も変わることのない温かい気持ちで続けている人々のその愛も、第一級のものに違いありません。毎日常在、現に自分の目の前にある問題の1つ1つに、その大小を問わず、常に誠意をもって対していこうとする行動姿勢の如きも同様です。
 そして、こうした行為は、単に努力だけでは不可能であるように思います。前に述べましたように(10章)、誰の心にも、その奥には無条件な純粋な愛の心(幸せの種)が、すでに初めから存在しているのではないでしょうか。そして愛はその実践の積み重ねによって、心にどんな場合にも備えての力と勇気が涵養されていくものです。かくして、派手ではなくても、生涯を貫く日常不断の親切心、不変の優しい心の底流は、すたわちまた、まさかの場合に臨んで人のため命をも投げ出すという、驚くべき勇気に繋がっていると思うのです。

 愛の心はまた、列列たる正義心と一体のものであります。そして口で言うようには実行できないまでも、その真諦はライオン攻めにあっても、礫にされてもたじろがない底のものであるのです。原爆にも動じない底のものです。単なる好意とか、優しさを超えているものであり、単なる無抵抗や妥協とも全く異質のものです。かくてまた、愛と尊厳は一体です。愛には大小はあっても、その質に変わりはなく、すなわち、神の愛に源流を発し、それと同じ水質のものであり、すなわちまた、人間の心は神の心の分身であると考えるわけです。
 愛はまた、全然報酬を求めないというわけではありません。世俗的打算とは無縁であっても、やはり、それによって自分というものが磨かれ、造られていき、かくしてまた、将来(死後を含めて)の何か本物の幸せに繋がっているということでなくては張り合いがありません。


 寺院や教会の中が特に聖域であるわけではありません。そこに愛の息吹がなければ酒場にも劣るのです。戒律を守ることも、ただ守るだけでは、積極的な意味はありません。学問にしても、それ自体は神聖で絶対でもありません。スポーツ精神にしたところで同じです。それらは、愛ということに関係していて初めて、愛の存在する世界においてのみ、真の意味価値が有り得ると断言できます。愛から離れては、一切は何の価値もありません、存在意義はないのです。
 ついでに、恋愛などは、多くの場合、多分に利己的なものを含んでおり、また、自分の愛人以外には無関心といった一方的なところもあり、そのままでは、ここで言っている愛というものとは些か異なっています。

 心が脳の所産なら、当然、宗教など無用です。高僧も呆けてはただの廃人に過ぎないということです。因みに、死後を考えない宗教があるとしたら、それは、結果的に、心を脳の所産とするのに等しく、すでに宗教とは言えません。単たる人生観か哲学に留まるものです。




 12.結び

 今まで述べてきましたように、心が第一義であることは明らかです。意識、心、精神活動というものから離れて、どこにも、何ものにも、この大自然自体にも、何の意味も価値もないのです。また、心というものなしに、人類の文明はあり得ないのです。しかし同時に、少なくともこの現世では、脳髄が、つまりは物質が、心の活殺を握っていることも確かな事実です。痴呆という現実は、狂気という事実は、何を歌っているのか、心は果たして脳の所産か、すなわちまた、物心(物質と心)は一元か、まことに、考えさせられるところです。
 確かに、心を脳の所産と考えることによって、人体の成長に伴う精神的成長、そして脳における神経活動(生理活動)と精神活動の表裏のような関係は、一見、まことに抵抗なく説明されるかの如くです。また、同じくして、原始生物から高等動物へと、脳構造の出現と発達に伴って、意識活動が並行して現われて来ることも素直に理解できるのです。(高等動物に意識があると考えて)。犬や猿にも不滅の霊魂があるのだろうか、などと悩む必要もなくなるのです。ただ1つ、人間の自由意志の存在に関しては、いかんとも説明ができないのです。ついに、その存在を否定しなくてはならないのです。そして、自由意志というものを欠いては、心はその存在意義を失ってしまうのです。人生は、ただ無意味ということです。
 精神活動が脳の所産であるということは、人間世界の全ては、脳の生理活動という純粋な自然現象の一環であり、物質の自演であるということになります。人生を積極的に肯定するためには、どうしても、物質に先行する自主的な心の存在を認めなければならないのです。我々の1人1人は、狂人も含めて、脳髄を超えて、自由意志を持った自主的な霊魂であると考えなければならないのです。かくしてついに、この現世の肉体から解放されての、死後の世界の存在と、そして神の存在を考えないわけにはいかなかったのです。
 
 さてここで、我々人間に真の自由意志を持った心が本当にあるのなら、それは一体いつどこから生まれてきたのかという問題です。はなはだ独断的かつ飛躍的ですが、私はそれは神(人格神)によって、胎児の時期、あるいはおそらくは出生以後、乳幼児の時期に与えられると考える他ないように思うのです。そしてその時が、考えるということの始まり、すなわちまた、人格の誕生する時期でもあるように思うのです。かくして、自由意志を認めることは有神論に通ずると思うのです。
 心を脳の所産と考えるなら、こうした飛躍は確かに緩和されるように思われます。赤ん坊の時の白紙状態の脳の中に((既述13章)のように、ニューロンの数はすでに成人と同じ約140億個になっています。経験とか学習とかによって次第に回路や脈絡化が形成されていくことによって、そこに意識が現われ、さらに自分という意識が形造られてくると考える方が、確かに無理がないように思われます。しかし、こうなると、「故考えるが故に我在り」とは、どういうことになるのでしよう。そして、その「我」とは、一体何者なのでしょう。そして、どう考えても自由意志の存在を考えることはできません。これは余談ですが、そして想像ですが、私は、動物における自由意志の存在を疑問に思うのです。
 さて、霊魂不滅と愛の神の存在を、繰り返し自分に言い聞かせてはきても、ついに消え去らないのは疑いの心です。しかし、人間の知り得るところは、知り得ないところに比べて、永久にまったくの僅かでしかないことは自明であり、第一に、何度も繰り返すことですが、我々を含めて一切はすでに在らされて在るのです。一切存在の奥行は知ることを許されないのです。すなわち、人間には不可知という破ることのできない壁があります。そしてこれを裏返せば、そこには「可能性」が存在しているということです。願望とか信仰ということが、全然馬鹿げているとは言えないということです。人間は現世だけでお終いであると割り切ることは、好むと好まざるとを問わず、できないことです。そして、考えてみれば、我々はすでにどこかで何かを信じて生きて行っているのです。例えば、私たち日頃、友に心のあることを信じて少し疑っていないようにです。


 余生とか、老後とかいう言葉には、すでに未来がありません。いわゆる余生とは、結局は肉体が人間の全てであり、人は死ねば灰になって終わること以上を意味するものではありません。来世などと口では唱えていても、ほとんどの場合、所詮それは口だけの気休めでしかないように思われるのです。たった1度しかない人生をできるだけ楽しくということも、よく耳にするところです。しかし、これも同じく、やがては滅びていく肉体だけに足場を置いた人生観です。まことに寂しいという他はないのです。
 
 悠々自適などという言葉も、すでに感激はありせん。しかし考えてみれば、今を盛りと社会活動している(と思っている)人たちにして、そのほとんどは初めから中身はすでに空な人生送りに身をやつしているというのが実情です。死が人間という高等動物の単なる終末なら、再び、呆けた老人はすでに廃人であり、不治の精神異常者は実質、人間の屑と言うしかないのです。人間は、知能は抜群でも所詮は生物に過ぎないという考えです。
私はそうではなく、人間はこの世で生を終わる瞬間まで奮闘して甲斐のあるもの、そしてまったく老衰してしまっても、呆けてしまっても、そしてまた、生まれた時にすでに狂っていてさえも、それは、永生ということから考えれば、まったくの一時の病気の様なものであって(時にこの世での長い忍耐と戦いが必要でも)、依然、甲斐のあるものだと考えるわけです。繰り返しますが、狂人でさえも(というより当然)、仮に現世で叶わなくても、死後、霊魂はその肉体から離れて、必ずや再びまともな精神活動に復帰するといった世界でなくてはなりません。しかも、この現世で狂人であったという事実が、必ずや自他共の何らかのために、甲斐になっているということでなくてはなりません。
 
 神の摂理下、世の中に本当の無駄や不合理はない筈と考えるからです。もし、事実この様でないのなら、愛の神も何もあったものではありません、今まで述べてきたことも全てまったく空論に過ぎないということになります。徹底してこのとおりでないのなら、宗教などというものは、結局は人間が自分達の御都合主義の気休めのために造ったものということでしかなくなります。
 老化に打ち勝とうとする姿勢、頑張りも大いに結構です。しかしそれより、老化を超越したものを求めることこそが第一義です。それは、永生を控えての、この世での最後まで止まない自分の人間造りです、人格の前進です。省みて、人間は誰しも、聖人といえどもその人格はまだまだ若く、というより、人格は永遠に成長し、形成されていくものだと思うのです。霊魂に老化はないと考えたのでした。そして肉体の老化ということ自体がまた、自分の霊魂のこうした前進のためにあるものでなければならないように考えるのです。死もまたそのためのものと思います。すなわち、老化も死も、そして狂気も、神が我々人間自他共の霊魂の進歩のために、特に備えたものに違いないような気がするのです。人間、体の老化だけを嘆いている場合ではないのです。ついでに、これまで自分に仕えてきてくれた体に不平ばかり言っては気の毒です。こうは言っても、再び、人間、肉体の衰えとともについに襲い来る寂しさに打ち勝つことは甚だ困難です。しかし、再び、人間は皆1人1人、目には見えなくても神としっかり繋がっていて、所詮は心配ないように思うのです。また、人間、一寸先は闇です。若くて屈強な人でも、いつどうなってしまうか分からないのです。しかし、こうしたことも全て含めて、心配はないということです。
 我々の肉体が、その一刻一刻の命を、普段まったく意識していない空気の存在によって支えられているそのこと遥か以上に、我々は、万物は、その一刻一刻の存立を、神によって支えられているということを、神あって我々あることを、改めて悟るべきと思います。

 「諦め」ではない「悟り」ということがあるものなら、それは結局、「信仰」ということであるように思うのです。そして信仰は、手を合わせて拝むのでなく、瞑想によってでもなく、英知と実践行動とともに築かれていくものだと思います。愛は奇跡を産むと言いますが、奇跡ではなく信仰を産むのではないでしょうか。そして、結局は利己に帰着する人生態度に、信仰の入り込む余地はないのです。
 どんなに呆けても、愛の心を手放してはならないと思います。指1本の動きにも、まなざし1つにも、愛は示せます、愛の実践行動は可能です。発想と行動の原点を、愛すなわち神に置くか、利己に置くか、です。すなわち、生命に繋がるか、虚無に繋がるか、です。


 心は第一義の存在であり、愛はそのまた第一義を成すものと考えたのでありました。そして、隣人があって初めて愛は成立するのであり、我々はこの隣人という窓(接触面)を通してのみ、すなわちまた、愛の活動する場においてのみ、神と現実に触れることができるように、あるいは触れているようにも思われるのです。そして我々は現に、この隣人という心の、すなわち生命の窓を通してのみ、生命の日光に浴し、生命の空気を吸うことができているのです。

 人間、生まれる時も死ぬ時もたった1人というのは、当たっていないのではないでしょうか。我々が生まれて初めて気が付いた時は、すでに母の腕の中にあったのです。そして死んでいく時も、人々の中にあって死んでいくのであり、そしてこれは想像ですが、心が肉体から離れると同時に、すでに自分は天国で友の中に置かれている(あるいは、それ待ち)といった按配ではないかと思うのです。