モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」−奇蹟を求めず真理を求めよ  

 奇蹟はやがて人々から疑われる時が来る。そうして奇蹟はやがて人々から疎んぜられ、忘れられ、捨て去られる時が来る。神々が奇蹟を起こすことを止められる時、人間が奇蹟を求めることを止めて自己の努力に依って立派な人間になり、立派な社会を建設しようと考える様になった時、奇蹟の光は消えて真理の光が人間の世界から明るく輝き亘るであろう。奇蹟を求める者は真理を求め得ず、真理を求める者は奇蹟を求めるべきではない。奇蹟に依って立つ者は、奇蹟を失って亡びる時が来る。真理に依って立つ者は真理と共にあって永遠である。それは奇蹟は一時のものであり、真理は永遠のものであるからである。真理を求め真理に依って立つ者のみが、無限の幸福と永遠の繁栄とそうして最後の勝利を得るのである。                  昭和42年10月14日

 
 此の文章は菅原道真公の霊に感じて得たものであります。私にとって菅原道真公は非常に霊的繋がりの深い方であります。そのことは私個人に留まらず安原家の家系そのものが菅原家と浅からぬ縁に依って繋がっているのであると思うのであります。私が地元の吉備津神杜に参拝する時は何時も吉備津神社の境内にある天満宮に参拝することにして居りました。
 
 丁度この文章を得る少し前のある夜、就寝中夢うつつの状態の時、枕許に霊が訪れて来られ「私は道真だ。天神と呼ばれている者だ」と語りかけられたことがありました。そうして道真公の霊は迷いに囚われていた私を厳しく叱られたのでありました。私が昭和38年に岡山市三門の真言宗醍醐派成願院不動尊に参っていたことも 公の霊に繋がりがあったと考えられるのであります。右大臣であった道真公を讒言して其の一族を滅ぼし更に道真公を大宰府へ流すことにしたのは藤原時平でありましたが、藤原時平の讒言を信じて道真公を大宰府へ流されたのは醍醐天皇でありました。其の醍醐天皇勅願寺にせられたのが真言宗醍醐派総本山となっている醍醐寺であり、岡山市の醍醐山成願院も醍醐派に属しているものであります。この成願院に於いて私は醍醐天皇が道真公を無実の罪で大宰府へ流し一族を滅ぼされたことを深く後悔し死後1,000年以上も経った今日でも猶その為に悩み苦しんで居られることを知ったのであります。そうして醍醐天皇の霊は今も道真公の名誉を回復し同時に菅原家を再興してせめてもの罪の償いをしたいと念願して居られるのでありますが、死後の世界に於いては現世のことをどうすることも出来ないために今も苦しんで居られるのであります。

 道真公の死後、天皇は一応道真公の無実を知り名誉を回復されたり位を贈ったり神として祀ったりして居られますが、その様なことは誤っているのであります。日本皇室はよく故人に位を贈られますがその様な行為は詐欺と同じなのであります。死んだ者が正一位を贈られた処で何の役にも立たないのであります。死者には現世に必要な食物も衣服も住居も金銭財産も地位も権力も名声も一切必要ないのでありまして、自己は罪人にせられて他所の土地で死に、一族を滅ぼされて、その挙句、神社を建てて貰おうと名誉を回復されようと正一位を贈られようと何の役にも立たず一向有難くも何ともないのであります。醍醐天皇が本当に心から菅原道真公に対して罪の償いをせられる気があるのならぱ神社を建てて祀ったり故人に位を贈ったりする様な誤ったことはやめて、菅原氏の一族を取り立てて然るべき地位を与え菅原家の家名再興を図られる様に努力せられるべきでありました。その様なまともなことを何もせられなかった為に醍醐天皇の霊は今も霊界で悩み苦しんで居られるのであります。
 
 では醍醐天皇の霊が何故私にその様な悩みを訴えられたかと言うと皇族の方々の中には神や霊に通ずる丈の心の修行をせられた方が居られないからであります。醍醐天皇の霊の悩みや苦しみを救うことの出来るのは子孫に当る皇族の人々しかいないのであります。然るに現在の皇族の中には祖先の霊に繋がる丈の人も居ない為に私を通じて皇室に訴えて欲しいと思って居られるのであります。しかしその様な事が私に出来る訳はないのであります。その点に皇室の大きな不幸や悲劇の原因があると言えるのであります。
 
 では道真公の子孫の人々はその後どうなったのでありましようか。菅原氏の一族の多くは藤原氏の為に滅ぼされたものと考えられますが、僅かに生き残った人々もあり、各地に菅原氏の子孫と名乗って現存している人々もありますが、菅原氏の正統を継ぐべき家は存在しないと思います。そうして昭和38年夏、私は成願院不動尊に於いて霊感に依って菅原氏の子孫について或る事実を知ったのであります。それは生田流箏曲家であり盲目の天才箏曲家と言われた宮城道雄氏が菅原氏の一族であろうということであります。宮城道雄氏の旧姓は菅であり後年宮城と改姓せられたものであり、嘗ては菅道雄と名乗って居られたものであり、宮城道雄氏の生まれられた地は神戸市生田区であり、箏曲の流派もまた生田流であります。また菅原氏の祖先は野見宿弥と言われ、その祖先は天照大神の御子「天菩比命」とせられており、野見氏の根拠地は島根県能義郡地方であったと思われ、能義郡という地名と乃木大将或いは神戸とか生田という地名には深い繋がりがあると言えるのであります。また宮城の姓は読み変えれば“きゅうじょう”となり、現東宮妃殿下の生家正田家の旧姓は生田氏でありこれらの全てが霊的に深い繋がりを有しているのであります。この様なことについてはこれ以上述べる必要もありませんのでこれで省略致します。只、箏曲家宮城道雄氏と菅原道真公の家とに繋がりがあるという点を述べたものであります。


 


 次に私が菅原道真公の霊に感じて得た「真理を求めよ」の文章に解説を加えたいと思います。
 
 
 ◎奇蹟はやがて人々から疑われる時が来る。
 
 奇蹟とは一体何でありましようか。奇蹟とは通常科学的、学問的には起こり得ないと信じられていることが起こる場合のことであると言ってもよいでありましよう。故に奇蹟とは科学的なことではなくて非科学的なことであり、常識的なことでなくて非常識的なことであり、日常しばしば起こり得ることではなくめったに起こり得ない出来事であると言わねばならないのであります。奇蹟は通常起こり得ざることが起った時に用いられる言葉でありますが、それは絶対に起こり得ざることが起こることでもないのであります。そうして奇蹟は通常、宗教的、心霊的な事柄を通して現われるものであると言えるのであります。
 
 或る人が教祖となって1つの宗教を興そうとする時しばしば多くの奇蹟が現われることがあります。例えばどの宗教でも盲目の人の目が見えるようになったり、唖の人が話せるようになったり、いざりの人が歩けるようになったり、治る筈のない病人が全快したり、恐ろしい危険から逃れたり、災難を免れたりしたような例は無数に記録せられております。しかし神がどれ程偉大な奇蹟を以って人を救われても多くの人々はそれを信じない場合が多いのであります。奇蹟によって大病が治り、災難から逃れ得た人々でさえ日が経てば、それが神のお蔭であったのか、運が良かったからなのか、医者や薬のお蔭であったのか判らないと考えることさえあります。まして自己が直接奇蹟に接した経験のない人には奇蹟は信じ難いのであります。そうして奇蹟は結局人々から疑われるようになるのであります。
 


 
 ◎そうして真理はやがて人々から疎んぜられ、忘れられ、捨て去られる時が来る。

 ユダヤ教キリスト教や仏教の如く遠い外国で大昔に起った奇蹟が現代の私達に依って疑われるのは止むを得ないとしても、現在私達の身近に起っている奇蹟でさえも、多くの人々は信じない場合が多いのであります。どんな宗教でも初期の頃は多くの奇蹟が起こって人々が救われています。しかし時代が経過すると共に何時か奇蹟は次第に減少しているのであります。例えば岡山に生まれた黒住教金光教に於いても、今から100年足らず前には盲目の人が目が見える様になったり、死にかけた重病人が元気になったりしたという様な事実は数々ありました。然るに今日では教団の本部は巨大な組織となり、立派な本部や神殿が建設せられ、地方の教会は沢山増設せられ、信者の数も増加していながら嘗ての様な奇蹟は最早殆んど起らなくなっているのであります。教団が成立して100年経つか経たないかというのに既にこの様な状態なのであります。
 
 黒住教金光教の教祖の在世時代には現実に医者や薬に頼らずにお蔭で病気を治していたのであります。他の多くの宗教に於いても同じことが言えるのであります。然るに今日では教会の先生と言われる人々迄が様々な病気で入院して医者や薬の世話になっていたり、交通事故で死亡したり、種々の災難に遭っているという様な事実こそ深く考えてみなければならないのであります。例えば黒住教祖在世の頃、盲人で目が見える様になった人は何人か居ます。現実に黒住教の信仰で目が見える様になったのであれば現代でも盲人の目が見える様になってもよい筈であります。しかし現代では黒住教を信仰して昔の人にあやかって盲目の目が見える様になる丈の信仰に生きて見ようとする丈の意気のある信者も居ない様でありますし、教団幹部の人々も盲人の目が見える様になる迄正しい信仰の仕方を指導しようという丈の意気込みは持っていないと思います。その様な事実は過去に起こった様々な奇蹟はその場限りのものであり、一時的なものであったに過ぎず、今は最早其の様な奇蹟は消滅して行きつつあるということを証明しているのであります。

 それは同時に神と奇蹟、宗教と奇蹟、信仰と奇蹟とが付きものではないことを証明しているのであります。何れの宗教でも教団発生の当時には多くの人々が奇蹟に依って救われています。故にそれらの宗教が時代を経過して発展すると共に益々多くの奇蹟が現われて人々が救われ病気や災難が無くなるというのであれば、宗教と奇蹟は一体であると言えます。然るに現実は全くその反対なのであります。偉大な奇蹟が現実に起りつつある時、人々は奇蹟の偉大さを通じて神の力の偉大さを信じます。しかし奇蹟が起らなくなると共に人々は神の偉大さそのものをも次第に信じなくなって行くのであります。人々が奇蹟を疎んじ、忘れ捨て去る様になる時、同時に人々は神をも疎んじ、忘れ捨て去っていこうとするのであります。奇蹟を見て神を信じる人は奇蹟が見えなければ神を信じないと言えるのであります。



 
 ◎神々が奇蹟を起こすことを止められる時、人間が奇蹟を求めることを止めて自己の努力に依って立派な人間になり立派な社会を建設しようと考える様になった時、奇蹟の光は消えて真理の光が人間の世界から明るく輝き亘るであろう。
 
 過去に多くの神々が様々な奇蹟を起こされたのは明らかなる事実であります。其のことは神々が奇蹟を起こすことの出来る偉大な力を持って居られるということであります。しかし神々は奇蹟を起こすことの出来る偉大な力を何時でも容易に用いられる訳ではないのであります。神々は余程大きな理由が無い限り決して奇蹟を起こされることはないのであります。本当は神は奇蹟を起こすことを望まれないのであります。神が人間に対して奇蹟をお見せになるのは人間に対して神自身が偉大な存在であることを理解させようとせられるからであります。人間は奇蹟にでも接することがなければ容易に神の偉大さを信じないのであります。その為に敢えて神は奇蹟を起こされるのであります。
 
 しかし神は人間に信じて貰いたさに幾らでも奇蹟を起されるというものではないのであります。然るに其のことを覚らない多くの人々は信仰して奇蹟が起こらなければ容易に神を信じないのであります。神の本当の尊さや偉大さは奇蹟を起こされることにあるのではないのであります。然るに多くの宗教家は其の宗教の信者の上に起こった奇蹟を世間に宣伝し宗教の有難さを人々に知らせようとします。しかしそれは大きな誤りであります。宗教の尊さや偉大さは其の宗教の中に起こった奇蹟そのものにあるのではなく、神の教えそのものにあると言わねばならないのであります。

 神が教祖を通じて1つの宗教を世に拡めようとせられる真の目的は奇蹟を起こして人々を救われることではなく、真理を説いて人々を救われることに在ると言わねばならないのであります。故に神は決して何時迄も奇蹟を起こされることはないのであります。神は何時か奇蹟を起こすことをお止めになるのであります。故に人間もまた奇蹟を信じ奇蹟の起こることを期待して信仰してはならないのであります。信仰して奇蹟の起こることを期待している間は決して正しい人間にはなれないのであります。人間は神の教えを良く学び、神の教えをよく守って正しい賢明な人間になるように努力して始めて神に近づき得るのであります。人間がそのことを覚って奇蹟を求めることを止め、神の教えを信じ尊び、自己の努力に依って正しく賢明な人間になり、理想の社会を建設して幸福な人生を送ろうと考える様になった時、奇蹟の光は消えて真理の光が人間の世界から明るく輝き旦る日が来るのであります。
 




 ◎奇蹟を求める者は真理を求め得ず、真理を求める者は奇蹟を求めるべきではない。

 奇蹟の起こることを期待して宗教を信仰する人は決して真理を求めることは出来ないのであります。故に宗教を信じて真理を求めたいと念願する人は絶対に奇蹟を求めてはならないのであります。例えば仏前で般若心経を千回読むという所謂千巻心経に依って重病人が治ったという様な話が沢山あります。仏教の僧侶はよく般若心経は大変有難いお経ですからこれを毎日神前や仏前で読んでいれぱ大変な功徳があり救われますという様なことを説いています。お経を読むとか、念仏や題目を唱えれば功徳があるとかおかげを得られると考えている僧侶は結局仏教の真理を覚り得なかった人々であり、その様な僧侶の言葉を信じている仏教の信者の人々もまた迷える衆生でしかないのであります。読経や念仏や題目や写経などで病気が治ったり、災難を免れたり、家業が繁盛したりすると本気で考えることは大きな誤りであります。しかし私は読経や写経や念仏や題目などで病気が治ったり事故や災難を免れたり家業が繁盛する様になったという実例を些かも否定しようとするものではないのであります。過去にしばしば起ったそれらの事実はまさに奇蹟以外の何物でもないのであります。般若心経の功徳の例として、小泉八雲の怪談「耳無し芳一」の話は有名でありますが、経典そのものに本来その様な奇蹟を起こす功徳などあろう筈がないのであります。いわんや読経や写経をすれば様々なお蔭があるというが如きは誤りも甚だしいのであります。
 
 釈迦の遺した八万巻と言われる経典の中に読経や写経をすれぱ功徳を生ずる様に作られた経典など1つも無いことを私は断言するのであります。それは釈迦は何のために教えを説いたのかということを良く考えてみればすぐ判るはずであります。釈迦は何のために教えを説いたのかと言うと、自己が修行に依って得た覚り、即ち宇宙の真理を人々に伝えて、多くの人々が1日も早く覚りを啓いて立派な人間になり、立派な社会を建設し皆が幸福な生活を送ることが出来る様になることを念願して多くの教えを説いたものであります。そうして釈迦はそれぞれの時や場所や相手の人々に応じて様々な立場から多くの教えを説いたのであります。故に釈迦の説いた教えの真意を理解して、それらの教えを日々の生活の中に実践して行く様に努力することが仏教信者の正しい信仰生活であると言えるのであります。そうして皆が経典の教えを理解し日常生活の中に教えを実践して行くならぱ皆が次第に賢明になり社会も次第に立派になって皆が幸福になれる筈なのであります。

 要するに全てのお経は神前や仏前で読経をしたり死者に聞かせる目的で説かれたものではないのであります。全てのお経は生きている人間に対して、この教えを信じ実践して立派な人間になり幸福な人生を送りなさいという様な意味で説かれた教えなのであります。故にお経の意味を覚り実践しさえすれぱ自然に誰でもが賢明になり幸福になれる筈のものであり、教えの意味も知らず、実践もしなければ何の役にも立たない筈であります。般若心経で病気が治ったとかお蔭を受けたという人は居ますが、千巻心経を上げれば誰でも病気が治るとかお蔭を受けられるというものではないことも事実であります。奇蹟やお蔭というものは何時でも何処ででも誰にでも現われるというものではないのであります。あの人が千巻心経で病気が治ったというから、私も千巻心経で病気を治そうと思って熱心に読経をしても絶対に病気は治らないと言えるのであります。千巻心経で病気が治ったりする人は100人に1人か1,000人に1人居るか居ないか位のものであって、殆んどの人には何のおかげもないのが事実だと言えるのであります。

 また読経や写経をしたり念仏や題目を一心に唱えたりしていれば非常に気持ちが良いという人が沢山います。成る程読経や写経をすれば何かお蔭が有ると思ってしているのですから気持ちが良いのは事実でありましょう。しかしその様な事をいくら繰り返しても自己が進歩向上することも高級になれることもないのであります。般若心経の本当の意味を理解し生活の中に実践するならば必ず何か得るところがあります。しかし、読経や写経をして幾ら気分が良くても賢明になれることもなければ進歩向上できることもないのであります。読経や写経をすれば気分が良いからするというのであれば煙草を吸ったり麻薬を吸ったりして気分が良くなるというのと本質的には変わりはないのであります。マルクスが宗教は阿片なりと言った意味も其処にあると言えるのであります。気分が良くなっても賢明になることもなく進歩向上することもないのであれば信仰は阿片と余り変わることはないのであります。仏教は覚りの宗教であって自ら修行して真理を覚って仏になることが目的なのであります。その為には釈迦が苦労して修行し覚りを開いて説いた教えそのものを勉強し真理を覚って仏になろうと努力するのが仏教徒として正しい修行であり信仰であって、読経や写経や念仏や題目は阿片と同じで気分は良くなっても修行にはならないのであります。
 
 然るに過去に多くの人々が読経や写経や念仏や題目でおかげを受けたのは、読経や写経そのものに依って功徳を生じたのではなく、釈迦の教えの意味も覚らず、教えを実践する術も知らず、只一心に読経や写経をしたり念仏や題目を唱えたりすればその功徳に依って病気が治ったり災難を免れたり家業が繁盛すると信じている愚かでお人善しの所謂善男善女の心を哀れに思う仏のやるせない慈悲心が、起こる筈のない奇蹟を敢えて起こして、愚かな人々に仏の尊さや教の尊さを教え、いつの日にかそれらの人々が仏の教えの真実の意味を覚る日の来ることを念願してお蔭を授けられたのだとも言えるのであります。門前の小僧習わぬ経を読むの類いで、お経の意味を全く知らない人が熱心にお経を読んで居りさえすればとにかく功徳になるとかおかげがあると考えたら大間違いであります。お経の功徳はあく迄も読経や写経に依って得るべきものではなく、それを信じ尊び日々教えを実践することに依って得るべきものであります。そこに覚りの宗教である仏教の本質が在ると言えるのであります。故にお経を法要や葬式の道具に使ったり金儲けに利用したり、愚かな信者にお経の意味も教えずに、只このお経は大変有難いお経ですから意味など知らなくても朝晩神前や仏前で読んで居れば必ず大きなおかげを受けられますという様なことを説いている多くの僧侶達こそ救い難い程愚かで罪深い人々であると言わねぱならないのであります。
 
 その様な奇蹟は単に仏教に限らないのであります。日本神道に於いては千度祓いという方法がよく行なわれています。これは即ち神前で大抜いの祝詞を一千回唱える訳でありますが、この大祓いの祝詞天孫降臨の真意と日本民族の理想や予言を述べているものであって、これを読めば何かおかげがあるとか奇蹟が起こるという性質のものではないのであります。或いはお百度参り、朝参り、裸足参り等でおかげを受けたという様なのも、それらの人を哀れに思われる神が授けるべきでないお蔭を授けられた丈のことであって、お百度参りや朝参り等を熱心にすれば誰でも奇蹟を得られるというものではないのであります。何かの奇蹟が起こることを期待して信仰することは誤っているのであります。宗教とは神の教えなのであります。
 
 故に教えを学び、教えを理解し、教えを実践するのが正しい信仰なのであります。然るに多くの人々は教えを学ぼうともせず、理解しようともせず、実践しようともせずに、お供えやお参りや祈りに依っておかげを受けようとする場合が多いのであります。皆が教えを実践すれぱ皆が賢明になれ、皆が幸福になれる筈であります。それにも拘わらず世の多くの人々は教祖の教えを学び理解して賢明な人間になり幸福な人生を送ろうと努力しないで、手っ取り早く沢山のお供えをしたり、拝んだり祈ったりお参りをしたりしておかげを受けようとするのであります。それでは何の修行にもならず、少しも進歩向上することは出来ないのであります。更に教団や教会の多くもまたお供えが多く、参って来る信者の数が多い程その宗教が繁栄している様に見えるためにそれを喜ぶ人が多く、教えそのものを広めることよりも、奇蹟やおかげを売りものにして容易に信者を獲得しようという傾向が強いのであります。その様な考え方では教会の数も信者の数も増加しても、教団の根本となる教義そのものには何の進歩発展もないと言わねばならないのであります。宗教がかげ蔭を売りものにして信者を集めようとするのも誤っていますが、おかげを期待して信仰するのも誤っているのであります。
 
 私は過去に神社や寺院へ参拝した時もおかげを望んだことはありませんでした。従って何処へ参っても願い事をしたことはないのであります。敢えて言えば、私自身が「無心であります様に」とか「何時も正しい人間であります様に」という事を念願していたのであり、それは神に祈ったと言えないこともありませんが自分自身に誓ったということであり、神前で自己の心に誓ったのであって神に祈ったとか願ったというわけではないのであります。故に後年、仏教、キリスト教黒住教天理教金光教と多くの宗教に接するようになってからもおかげを求めて教会へ参ったことはなく、それぞれの宗教の真理を求めて信仰したのであります。私はどの宗教にも何か真理があると思い、其の宗教の真理を覚って生活の中に実践していけば必ず賢明になり幸福になれると信じて其のとおりに実践してきたのであります。故に私は自分が接してきた宗教からは必ず何か真理を得、其の真理を自己の幸福や進歩向上のために活かしてきたのであり、それをどんなおかげにも勝るおかげであると信じているのであります。

 世間にはおかげを求めて次々と宗教遍歴をする人がよくいます。或る宗教を信仰してみたけれどもおかげが無かったから別の宗教に替わり其処でもおかげが無かったからまた別の宗教を信仰するという人は多いのであります。その様な人々はお供えをすれば何かおかげある、お参りをすればおかげがある、拝んだり祈ったり祀ったりすればおかげがあると思っているのであって、その宗教の教えを学び実践するということは考えていないのであります。私はどの宗教でもおかげを求めなかった代わりに、その宗教にしかない真理を学び、それを生活の中に実践する様に努力して来たのであります。故に私はどの宗教でも自己の利益や幸福や進歩向上に役立つ真理を得て来たのであります。

 また世間では宗教の遍歴を続ける人と反対に多くの神仏を信仰して居ればどの神仏からもおかげを受けられると思ってあちこちの神杜仏閣に参拝したり願をかけたりし、また多くの宗教を信仰してみたりする人々もありますが、それらは全くの慾の信仰であって、どの神からもどの宗教からもおかげなど受けられないのであります。熱心にお参りをしたり熱心に拝んだり祈ったりする程おかげが多いと思っている人もありますがそれも誤っているのであります。おかげを求めて熱心にお参りをしたり拝んだり祈ったりするのは、乞食が何か貰おうと思って一生懸命に頼むのと同じであり浅ましい信仰なのであります。物貰いと同じ様な信仰をしておかげを授かって喜ぶのは乞食が沢山の貰いがあったのを喜ぶのと同じで嫌らしく浅ましいのであります。おかげを求めずとも、何の願い事をしなくとも、神の教えを守って正しく清らかな人生を送りさえすれば必らず賢明になり幸福になり進歩向上して行けるのであります。故にどの宗教の信者であってもおかげを求めて信仰する人は決して真理を覚ることは出来ないのであり、真理を求めて信仰する人は決しておかげを求めてはならないのであります。奇蹟やおかげを信じて信仰するのではなく、教えを信じて信仰しなければならないのであります。

 
 
 
 ◎奇蹟に依って立つ者は奇蹟を失なって亡びる時が来る。真理に依って立つ者は真理と共にあって永遠である。
 
 奇蹟を信じ奇蹟を拠り処として立つ者は奇蹟が起らなくなった時、全ての力を失なって亡びなければならない日が必ず来るのであります。ユダヤ教キリスト教も奇蹟を信じ奇蹟を拠り処として発展してきた宗教であります。モーゼ在世中のユダヤ教やイエス在世中のキリスト教に起こった数々の奇蹟が真実であるならば真に偉大であります。しかし今のユダヤ教キリスト教の中に嘗ての如き偉大な奇蹟を生み出す力が果たして存在するでありましょうか。現在のユダヤ教キリスト教に於いて時として小さな奇蹟が起り得るとしても、もはや嘗ての様な輝かしい奇蹟の光は消え失せているのであります。神の御心に叛いて遂に国を失ない流浪の民となったユダヤ民族がシオンの地に帰り建国することが出来た事はユダヤ民族にとって決して喜ぶべきことではないのであります。経済や政治や頷土の利害に絡んだアメリカやイギリスの政治家がその地方に住む人々の意志を無視して謀略を以ってシオンの地をユダヤ民族に与えたものであります。故にユダヤ民族はシオンの地に安住の場所を得たのではないのであります。寧ろアメリカやイギリスの謀略に依ってシオンの地を回復したユダヤ民族は西アジアの地に大きな危機や悲劇の種を蒔いたと言えるのであります。それは真に恐ろしいことであり、憂慮すべき事であります。ユダヤ人達は神の力に依ってシオンの地を回復したと思っていますが決してそうではないのであります。大いなる奇蹟のカに依ってエジプトの地を脱出し、シオンの地に王国を築き繁栄したユダヤ民族は既に奇蹟を失なっているのであります。然るに彼等が過去の大いなる奇蹟の栄光を信じている限り彼等の上に訪れて来るものは滅亡のみであります。

 キリスト教についても同じことが言えるのであります。キリスト教徒であったノストラダムスが残した人類滅亡の恐るべき予言は、奇蹟に拠って立った人類が奇蹟を失なって滅亡して行く有様を明らかに、また正確に表現しているのであります。奇蹟に拠って立つ者が奇蹟を失なって亡びて行く時が来るということは単にユダヤ教キリスト教に限らないのであります。ファティマ第3の予言はローマ法王の死や口ーマ法王庁の滅亡、バチカン市国の壊滅、更にキリスト教の滅亡を告げていると考えられるのであり、ノストラダムスの予言はあらゆる宗教や思想や主義を超越して全人類の滅亡を予言しているのであります。イスラム教にしても仏教、ヒンドゥー教にしても、日本の教派神道にしても全て同じことなのであります。私達人類は今あらゆる宗教の奇蹟を信じ、奇蹟の起こることを期待する心を捨てねばならない時であります。そうして真理を拠り所として、絶対の真理を信じ尊び、真理を実践して神の御心のままに正しい新文明を創造し、新秩序を建設していかねばならないのであります。


 
 
 ◎それは奇蹟は一時のものであり、真理は永遠のものであるからである。
 
 既に度々述べた如く奇蹟は神が一時的に起された丈のものであって、人類が求めさえすれば誰でも何時でも何処ででも希望通りの奇蹟を得られるというものではないのであります。1度起こった奇蹟は何度でも繰り返して起こるであろうと考えることは誤りであります。或る盲人が黒住教の信者になって目が見える様になったのは事実ではあっても、黒住教の信者になれば盲人の目が見えるようになるというものではないのであります。或る人が金光教の信者になって商売が繁盛するようになったからといっても、金光教の信者になれば皆商売が繁盛する様になるというものではないのであります。或る人の商売がどんどん繁盛していけば他の誰かの商売が没落して行くのは判り切ったことであります。或る人が生長の家の聖経「甘露の法雨」を病人に贈った処、病人は1頁も読んでいないのに本を傍に置いていた丈で病気が治ったという話があります。それでは「甘露の法雨」の本を大量印刷して全国の病人に贈れば皆の病気が治るかと言うと絶対にそんなことはないのであります。世界救世教では手をかざす浄霊という行為で医者や薬に頼らずに病気が治ったという話がよくありますが、実際には病気が治らずに死んだ人も多いのであります。フランスのルールドの泉にしても死にかけた重病人が全快したという例がある反面、それ程でもない病気でも治らなかった人が多いのであります。
 
 或る人の病気が治るのに他の人の病気が治らないのは何故でありましようか。お供えが少ないから治らないというのであれぱ皆がもっと沢山のお供えをすれば皆の病気が治ると言えるでありましようか。お参りの回数が少ないから治らないというのであれぱ皆が熱心に毎日お参りをする様になれば病人はいなくなると言えるでありましょうか。お祈りの時間が短いから治らないというのであれぱ皆がもっと長時間お祈りをすれぱ皆の病気が治ると言えるでありましょうか。それらの全ての考え方が誤っているのであります。どの宗教でも奇蹟で病気が治ったという人は沢山いる様でも、幾ら信仰しても奇蹟が起らなかった信者の方が遥かに多いのであります。或る教団の信者全体の中で信仰して奇蹟が有ったという様な人は極く僅かしか居ないのであります。宗教家は奇蹟が起こった時のこと丈を誇大に宣伝し何のお蔭も受けられない信者のことは知らぬ顔をしているからどの宗教でも大きな奇蹟がしばしば起っている様に世間の人は思い込まされるのであります。或る人がお守り札を身に付けていたために事故災難から逃れたという話はありますが、お守り札を持っていたのに事故災難に遭った人の方が多く、お守り札を持っていなくても事故災難に遭わない人の方が多いのであります。
 
 どの様な宗教のどの様な奇蹟もそれは極く限られた時や場所や状態や人に対してのみ起こり得るのであって、奇蹟そのものは一時的なものであり、永遠のものではなく、特定の人に丈現われるものであって万人共通のものではないのであります。故にあの人がお蔭を受けたのだから私もお蔭を受けられるだろうと思って多くの人々は信仰する訳でありますが、実際には或る人がお蔭を受けられても他の人がお蔭を受けられる可能性は殆んど無いのであります。故に私達が宗教に奇蹟を求めることは大きな誤りであると断定しなげればならないのであります。宗教で奇蹟やお蔭を得られることは非常に少ないのであります。故に奇蹟やお蔭を求めている限りどの宗教でも信者の皆が救われ、皆が幸福になれることは絶対にないのであります。

 しかし信仰を通じて皆が救われ幸福になれる方法はあります。それは皆が宗教の中に奇蹟やお蔭を求めることを止めて、神の教えを理解し実践する様に努力することであります。四海同朋と説くイエスの言葉をキリスト教徒の人々が心から信じ尊び守っていたならぱ、白人の黄色人種や黒色人種に対する差別や偏見は起こらなかったでありましょう。「汝の隣人を愛し汝の敵をも愛せよ」と説いたイエスの教えをキリスト教徒が本当に実践していたならば彼等がアジアやアフリカやアメリカや大洋州を侵略し多くの異民族を征服したり支配したりして苦しめる事は無かったでありましょう。「富める者が天国に入ることは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しい」と説き「地上に宝を貯えずに天国に宝を貯えよ」と教えたイエスの言葉をキリスト教徒たちが実践したならば、資本主義社会の恐るべき貧富の懸隔の激化や失業者の大量発生は起こらなかったでありましょう。貪ることを戒め、施しを説いた釈迦の教えを仏教徒が心から実践してならば、例え貧しくても皆が仲良く平和に暮らすことが出来たでありましょう。釈迦の説いた不殺生の教えを皆が守っていたならば仏教国で戦争や殺人は起こらなかったでありましょう。如何なる宗教でも本当に心から教えを理解し実践する人は滅多に居ないのであります。故にどの宗教の真理も社会の中に生かされてはいないのであります。どんなに偉大な奇蹟もその場限りのものであり一時的のものであるに過ぎないのであって永遠に続くものではないのであります。しかし私達が宗教で覚った真理は永遠のものであり永遠に私達の利益や幸福や進歩向上の為に役立つのであります。



 ◎真理を求め真理に拠って立つ者のみが無限の幸福と永遠の繁栄とそうして最後の勝利を得るのである。

 全ての宗教は真理を説くことを目的として存在するものであって奇蹟を起こしお蔭を授けるために存在するものではないのであります。故にお蔭を売りものにして信者を集める宗教家も、お蔭を求めて信者になる人も共に誤っているのであります。教団を造り、神殿寺院教会等を沢山造り多くの神宮や僧侶や布教師を置くためには巨額の資金が必要であります。その為に多額のお供えや寄附や献金をして呉れる人が必然的に大切な信者となるのであり心から真理を求めようとする人は教団にとっては有難くない存在となるのであります。そうして真理を説いて人々を教化するよりも、お蔭を与えて安易にお供えや寄附や献金を集めることが宗教家の仕事となってくるのであり、また葬式や供養や結婚式などで確実な収入を得ようとすることにもなるのであります。其処に宗教の堕落があると言わねばならないのであります。

 奇蹟は所詮一時のものであるに過ぎず、奇蹟を以って皆の幸福や永遠の幸福を図ることは出来ないのであります。宗教や宗派の相違を超越し、聖職者と信者の相違をも乗り超えて、皆が全ての宗教の中に真理を求め、皆が真理を理解し実践し、皆の利益と幸福と世界永遠の平和の為に自他一体の愛の心になって協力し合うことに依ってのみ、無限の幸福と永遠の繁栄と、そうして誰が負けることも勝つこともない皆の勝利、全人類の最後の勝利を得ることが出来るのであります。