モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」天理教篇①

 昭和39年1月2日、岡山市島田町にある天理教楽一分教会へ参りました。その夜、天理教の教祖中山みき様の霊が老女の姿で夢枕に立たれ「あなたは皇室には関係ありません。あなたの運命は2月に大阪で決まります」と言われたのでありました。私は天理教については初めて楽一分教会を訪ねた時から余り勉強する機会に恵まれませんでした。その後昭和42年7月23日、天理教楽一分教会の松原緑先生と姪に当られる赤松恵美子さんと私との3人で天理市天理教本部へ参拝するために夜行列車で大阪へ向ったのであります。午前5時過ぎでありましたが、列車は丁度大阪市の淀川の鉄橋を渡って居り、東の空は漸く日の出の近いことを感じさせて居りました。その時車窓から何気なく東の空を眺めた私はその時、太陽の奇蹟の光を拝したのであります。その時の太陽は何時もの様なぎらぎらと輝く太陽ではなくさながら美しい鏡の様であり、右に左に三日月の様な姿を見せながら私が天理の地を訪ねることを歓迎せられる様に美しく光り続けたのでありました。大阪駅で汽車に乗り換え天理に着いた時にも、太陽は奇蹟の光を以って私を迎えて呉れたのであります。

 そうしてその日、天理教本部に於いて教学の講義を聞く裡に私は天理教の進化論が唯心論的な立場から述べられているものであり、チャールズ・ダーウィンの進化論は唯物論的な立場から述べられているものであり、その2つの理論が表裏一体の関係にあり、その両方を結び併せて考えてみることに依って生命の発生と生命進化の謎を明らかに解くことが出来るということを直感的に覚ったのであります。そうしてその日初めて私は、それ迄私が学んで来た仏教やキリスト教黒住教金光教とは全く異なった宗教的真理を天理教の中に見出したのであります。そうして私は天理数の本部を辞し、市中で天理教の本を買い求めて、同行の松原先生と別れ1人汽車に乗って岡山へ帰ったのでありました。その日1日中、太陽は奇蹟の光を私に見せ続けて呉れたのであり、また私は天理教本部に於いて素晴らしい真理を得て帰ったのでありました。私が天理教の教学を勉強する機会を得たのはそれから後のことであります。
 
 天理を訪ねて再び太陽の奇蹟の光に接して素晴らしい真理を得た私は、改めて太陽について考え直してみる機会を持ち得たのでありました。太陽は日本神道では天照大神でありますが、仏教で言えば大日如来であり、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神であり、ギリシアローマ神話ではアポロ神であり、古代エジプトでは太陽神ラーであり、天理教では「をもたりのみこと」であり、民族や宗教の相違に依って神名は違っても同じ太陽を神として信仰していることに変わりはないということであります。

 さて私が天理教の本部を訪ねて太陽の奇蹟の光に接し、更に天理教の教学の講義を聞いて覚り得たのは天理教の進化論が唯心論的な立場から説かれたものであり、チャールズ・ダーウィンの進化論は唯物論的な立場から説かれているものであり、そのいずれもが真理の半分しか説いていないのであり、どちらも不完全な理論であり、両者を1つに併せて考えてみることに依って初めて、生命の発生と生命進化の謎を解くことが出来るのであるということでありました。
 ダーウィンの進化論では太古の地球に原始生命が発生し、それが次第に進化して遂に現代の人類に迄進化を遂げたということは一応納得出来ますが、生命は何故発生したのか、何故進化したのかということは全く判らないのであります。ダーウィンの説に依れば、太古の地球に様々な物理的・科学的な変化が起り、自然発生的に原始生命が発生し自然に進化したものであって、そこには何の目的も意志も無かったということになるのであります。また旧約聖書天地創造神話の如きは全く出鱈目で古代の無知蒙昧なユダヤ人を騙す為に邪霊がでっちあげたものとしか考えられないのであり、あの様な生命創造の物語は現実的には全く信ずる価値のないものであると言わねばならないのであります。

 生物学的、考古学的な面から考えても、生命の発生と進化の過程は、自然に進化したと考えたのではまったく理解できない面があまりにも多いのであります。何者かの意思によって生命は創造され、何者かの意志によって改良が加えられて、今日の人類にまで進化してきたと考えなければ納得し難いのであります。しかし神が生物を創造せられたという旧約聖書の生命創造の物語は余りにも矛盾が多すぎて受け容れることはできないのであります。仏教に於いては生々流転、輪廻転生を説いていますが、生命の発生や進化を想像出来るような内容ではないのであります。
 
 天理教に於いては、神が何も無いところから人間を創られたということになっていますが、人間は虫や魚や鳥や獣類など様々な動物に生まれ変わりながら進歩向上を続け八千八度の生まれ変わりの後に人間に生まれ変わることができた、と説いています。そうして更に何度も人間に生まれ変わりながら段々と進歩向上して行くのだということを説いているのであります。仏教では輪廻転生と言っていますが、天理教では「出直し」と言っています。それは即ち此の世に生まれて来て様々な修行をし、天寿を全うして再び生まれ変わるために一旦死んで行くということであり、出直しとは再出発を意味しているのであり、出直すことに依って更に進歩向上して行くのだということを説いているのであります。天理教に於いては神が生命を創造せられたということがはっきり述べられているのであり、更に神の意志に依って生命進化の道が創られたことが明らかにせられているのであります。只八千八度の生まれ変わりを繰り返して人間に生まれ変わったという様なことは信じられないことであり、原始生物から人間に生まれ変わる迄には想像も出来ない程の回数に亘って様々な生物に生まれ変わって様々な体験を積み修行を重ねて漸く人間に生まれ変わることが出来たということであって、八千八度の出直しで人間に生まれ変われる訳はないと私は思うのであります。

 またダーウィンの進化論では生物は原始生物から次第に進化したことになっているのであり、生物の最初の祖先に当るのは微生物であるということになっています。それに対して天理教では人間の祖先は「泥海の中に住んでいたどじょうである」ということになっています。しかしこの様な点は天理教の教えは誤っていると言わねばならないのであります。原始生物から次第に高等な生物へと進化を繰り返し遂に人間へと進化したというダーウィンの進化論はその点に於いては正しいのであります。しかしそれでは現代の私達と私達の親から次々と過去に遡って原始生物に至る無数の祖先は只の祖先であり、私達も遠い祖先と、未来に生まれて来る筈の遠い子孫とを繋ぐためにたった1度丈人間に生まれて来て死んだらそれで永遠に終わりとなるのかということになるとそれは全く判らないということになるのであります。少なくともダーウィンの進化論に依れば私達現代人は太古の地球に発生した原始生物から長い間に進化した遠い子孫であるということだけしか判らないのであります。

 しかし天理の進化論を学んでみると、私達は遠い祖先と遠い子孫との間を繋ぐために現世にたった1度丈生まれて来て、子孫を残して死んだら永遠に終わりとなるのではない、ということがはっきりと判るのであります。私達自身が遠い昔様々な生物に生まれ変わっては修業し子孫を残しては死に、更に後世子孫として生まれ変わっては様々な修業を続けて来たのであり、原始生物も虫も魚も鳥も爬虫類も哺乳動物も全ては私達自身の過去の姿だったのであります。生命発生以来、何億年の年月を数え切れない程の回数に亘って様々な生物に生まれ変わりながら漸く人間に生まれることが出来たのが私達であると言えるのであります。故に遠い過去に於いては私達自身が哺乳動物であり鳥類であり爬虫類であり魚であり虫でもあった様に、現在虫であり魚であり爬虫類であり鳥類であり哺乳類である無数の動物達もまた遠い未来には限り無く生まれ変わりを繰り返しながら人間にと生まれ変わって行くのであります。故に私達人間と他の動物達との相違は単に進化の段階の高低と遅速の相違であるに過ぎないのであり、聖書宗教で説いている様な、人間と動物とには絶対に超えることの出来ない壁があるというものではないのであり、全ての生物は皆兄弟姉妹の間柄にあると言えるのであります。