モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

心は脳髄の所産か?

 自由意志の働き得る世界
 
 自由意志が働き得るためには、すなわち精神活動があり得るためには、完全な秩序のある世界が必須であります。法則のない、言わばでたらめの世界において、ものを築いたり、目的を持って行動したりすることは明らかに不可能です。物質界、精神界いずれにしても、無秩序なところで、自由意志は働くことができません。例えば、自然法則に欠損があっては、第一、脳髄の正常な活動はあり得ないのです。
 そして、自由のないところに、意味というものは存在し得ません。人間に創作活動、建設的行動をあらしめ、そして、純粋に自主行動である愛というものを成立せしめるもの、かくしてこの人生に意味を生むものである自由意志は、自然法則あり、そして秩序ある世の中においてのみ、活動し得るのであります。
 しかし、自然法則と、人間杜会における秩序だけでは、自由意志は甲斐ある人生を産み出すことはできません。人間世界の秩序が、恢恢疎にして漏らさざる、神の掟の中においてあり、すなわち正義が永久に保証されている世界において初めて、自由意志は本当の意味を持ち得、甲斐ある人生は産み造られ得るのであります。そしてこの甲斐という意味において、再び、人間の霊魂も、同時に、不滅でなければならないと考えるのです。まことに、後章(6章)でも述べますが、この自然法則の世界、整然たる自然界の秩序はまた、心のためにこそ、自由意志の働き得るためにこそ、存在しているように考えられるのです。





 4.生命とは一体何か

 生命という言葉の意味・本当に生きているものは心

 すでに述べましたように、生物体の中には、何ら超自然法則的な力など働いてはいなく、生命現象(生物現象)は全てまったく物理・化学反応として説明されるであろうということになってきた今日、これまで生命という言葉が持っていた意味は宙に浮いてしまった感です。
 しかし、我々は生命ということを、必ずしも、この生物現象に考える生命という意味(例えば、種が生えてひとりでに成育していくといったようなところに考える何か不思議で神秘な生命という観念、つまり、生物に特有なものと考えられてきたいわゆる生命力の生命の意味)だけに取っていたわけではなく、生物についても、またそれ以外の場合にも、さらに立ち入った意味をも、この生命という言葉に考えてきているのです。それは、人間の場合を筆頭に多くの生物現象に随伴すると思われている、「心」ということであると思うのです。
 
 生物をまったくの機械であると考えても、我々は依然、そこに何かを感じないわけにはいかないのです。草花1つ見ても、小鳥の足が自分の指を握っても、それを高等な機械とだけ割り切ることはできないのです。これは、前述の、我々が生物に考えてきた何か神秘な生命という観念を捨て切れずにいるためというより、我々がすでにして、相手の動物や植物にも「心」があるのではないかと無意識下に考えていることが大きく影響しているように思うのです。神木などという言葉や、老木を伐った崇りだなどという考えもこれです。生命ということは、根源的に、心ということにも結び付いているように思うのです。動物や草木に、意識や心があるかないかなどということは兎も角として、我々自分が生きているということの真諦は、自分の手足が動くことではなく、その手足が動くと感じ意識する、そのことです。心こそ、真の意味で生きているものです。
 全身麻酔をされている時、自分の心臓は動いていても、自分は一切何も分かりません。体が生物現象しているだけ、脳を含めて身体という機械が物理・化学反応しているだけというしかないのです。麻酔が醒めて、意識が戻って初めて、「自分(心)」は生きているのです、そして自分の体が生理活動していることを知るのです(熟睡から醒めた場合も同じです)。
 また例えば、植物人間を「生げる屍」などと言いますが、これは、体は生物現象していても、魂(心)はすでにないという意味です。これを裏返せぼ、本当に生きているものは心であるということです。
 生物が機械であるということになってきても、生命とか、生きているという言葉が元々含んでいたこの「心」という意味合いは、当然、そのままです。この意味合いで、我々はまた、古来、広くこの言葉を使ってきているのです。感激も感動もなく、人の心を捉えるところのない言葉を、生命(いのち)のない言葉などと言いますが、これもつまり、「心」のないというのに同義です。この絵は生きているとか、いないとかいうのも同じです。



 精神活動こそ生命の姿

 「生き甲斐」を感じるのは心です。自分が死ぬということは、自分の体が死ぬことよりも、自分の心が消減するそのことです。本当の死とは、心の死のことです。体が生きているということは、少なくともこの現世では、心が存在し、活動し得るための、あくまで「必要条件」にすぎません。
 こうして、よしんば心が脳内反応の造映であろうと、心こそ、機械ではなく感じ考えるもの、真に生きているものです。脳髄自体はあくまで物質であり、そこでの反応も純粋な物質反応でしかありません。命あっての物種と言いますが、実は心あっての物種です。
 脳髄が無くても、仮にもし、心が有り得るものなら、意義というものは存在し得ます。しかし、脳髄があっても、仮にもし心がなければ、脳髄という物質組織自体には何の意味もないのです。
 精神活動こそ、生命の姿であり、面目です。心の躍動こそ、生命の躍動です。草木が育ち、花を咲かせ、実を結ぶ、鳥が歌い、獣が走り、子孫を殖やすといった自然界の営み(正確には機械的自然現象)を、単純に生命の躍動などということは、実は、文学にすぎないというわけです。生物現象を生命の躍動と呼ぶなら、天体の運行、星の輝きもまた同じく呼ばれてよい理です。もっとも、こうした自然現象の後ろに、神の御業(みわざ)といったようなことを考えて言っているのなら話は別です。真の生命というものと、心、つまりまた、意味意義ということは一体です。




 ただしここで、精神活動は、それが第一義のものであっても、少なくともこの現世では、肉体の脳から離れてはあり得ないという現実の事実です。これは精神活動が脳の所産なら当然のことなのですが、心が自由意志をもった自主的な実体であっても、少なくともこの現世では、脳髄は、心が「現われ」、「活動」し得るために不可欠の存在(前述の必要条件)です。
 しかし、こうではあってもなおかつ、心の第一義性ということにまったく変わりはありません。それどころか、後に述べますように(6章)、身体は精神活動(したがって心)のためにこそ存在しているものと考えるのです。
 しかし、脳髄が、心の(活動ではなく)存在し得るために必須なものであるかどうかは別問題です。心が脳の所産なら、脳は、心が存在、というより現象するために不可欠であるのは当然です。所詮、物質が心に先行するということです(無神論に繋がる考えです)。また、神という心が物質宇宙の創造主であって、人間の心が神の心と同質のものであると考えるたら、人間の心も物質に先行する存在、すたわちまた、脳髄とはおのずから別個の存在であると思うのです。
 ちなみに、生物学では、生物とか生物現象(いわゆる生命現象。増殖、遺伝を初めとし、新陳代謝や生長、その他を特徴とする専ら物質現象)は研究対象とされてはいても、生命(寿命ではなく)ということについては、元々特に考えられてはいなく、したがってまた定義付けされてもいないのです。




 5.脳髄の働きと心の働き

 心は脳髄の所産か

 我々の体は宇宙の中にあります。そしてその宇宙は、我々の、眼や脳によってではなく、「心」によって見られ、感じられ、考えられているわけです。我々は普段、何事も脳の中で感じられ、考えられていると、当たり前のことのように思っているかもしれませんが、これは大変な倒錯です。脳の中では、物理・化学反応が行われているだけであります。そして心は、脳の中にあるとか、外にあるとかいったものではないのです、また、物質や空間とも、それらの属性とも考えられないように思います。
 我々が、例えば、花を見るといった場合、花から来る光は、まず眼に入ってその網膜に映像を結び、そこに、その刺激に応じた反応が起こり、その信号が視神経を経て脳の中枢に達し、そこに、いまの場合に特有の物理・化学反応が引き起こされるわけです(神経が刺激を伝導する速度は、おおむね秒速数十メートルです。つまり刺激はほぼ瞬間的に届けられます)。問題は、この脳内反応が、心によって、その花のイメージに、翻訳感受されるということなのか(この場合、肉体の脳髄とは別個の、心という、物質系のものとはまったく様子を異にした、独立した存在を考えているわけです。大ざっぱに考えて、ここで脳髄は例えばテレビの受像機に喩えられると思います)、それとも、当初にも触れましたように、我々が精神現象(心)と呼んでいるものは、脳と別個の存在などではなく、その花に起因する脳内物理・化学反応の非物質的な造映(1章)とでもいったものが、すなわちその花という知覚であるというのか、つまり、精神現象は脳の所産であるのか、すなわち、脳髄という、すでに述べたような、無数の神経細胞(ニューロン)から成る複雑な構造(あくまで物質)の中で、特定の生理・神経活動が行われると、その活動が行われている間、結果として現われる何かの現象であるのか、ということです。




 心と物質
 
 前述のように、心(感覚なども含めて)は、それが脳の所産であろうとなかろうと、物質系のものとか、物質現象とは考えられないように思うのです。他人の心はもとより、自分の心でも、直接にも間接にも、観測とか測定は不可能です。脳波などを測定して、人の感じている感覚の強さとか、嘘を言っているかどうかなど、わかるように思われても、それは所詮、身体の状態、脳内で行われている物理・化学反応を測定していること以上に出るものではありません。後はまったくの推測です。後にも述べますように、相手に心があるだろうということ自体、すでに、相手の言語、表情、挙動などから察しての、実は独断というわけです。物質は、例えば電磁波にしても、眼には見えなくても、体に感じなくても、測定が可能であるわけです。


 そして心は、逆に、観測をする方の側のもの、すなわち、感じ、考える主体であり、主観であります。物質は見られ、測られ、考えられる一方のもの、すなわち客観でしかあり得ないものです。さらに、自由意志が実在するか否かの、いずれに判断するかによって、心が物質から由来しているものであり得るか否かは、おのずから結論されます。
 しかし同時に、心を脳とは別個の自主的な存在と考えた場合でも、少なくともこの現世では、精神活動は、脳髄を始めとし、物質なしには具現し得ないのです。そして後で述べますように、精神活動の主題である我々の心と心の間の交流は、もっぱら物質を媒介物として具現されているのです。物質は、心が現われ働き得るために不可欠の存在です。
 また、もし物質から、例えば脳のような構造から、主観であり、自由意志を持った心が生まれる(現われる)というなら、そこで考えられている物質は、すでに科学の立場を超えて定義され考えられているものでなければならないように思います。そして現在、科学で考えられている物質は、そして自然法則は、少なくとも自由意志とは無縁です。




 心を科学的に解明することは不可能
 
 分子生物学者や脳生理学者の中には、脳にあくなき科学のメスを入れていくことによって、将来いつかは、精神現象、そして心の由来を科学の立場から解明できる時代がやって来ると信じている人たちが少なくないようです。しかし、先ほども述べましたように、精神活動は、それ自体を測定することが不可能です。いかに科学が進歩し、脳の構造と機作が、どのように深く掘り下げられていっても、主観であり、物質現象ではない精神活動の正体由来を解明することはまったく不可能と思います。知り得ることは、人間がどのような気持ちでいる時、どのような考えをしている時、脳のどこの部位にはどのような反応が起こっている(またこの逆)、といったようなこと(つまり、対応関係)の、より精細な情報以上に出るものではありません。ただ、次節に述べる脳内における異常エネルギー現象の存否の間題があります。異常エネルギーが検知できたなら、それは自由意志が存在している1つの証拠になり得るというだけです。




 
 脳と心の繋がり
 
 そこで心の正体由来はとにかくとして、心が、肉体の脳とは一見表裏一体の如くあっても、仮にもし別個の自主的な存在であると考えるならば、それぞれの人間の心は、そのそれぞれの脳髄の中の物理・化学反応を操作し得るということでなくてはなりません。物質とはまるで様子の違う心が、脳とどうやって繋がり、これをエネルギー操作するのか、またどうやって脳内反応を翻訳感受するのか、その仕組は不可知の間題です。
 しかし、両者(脳と心)の、繋がり方の仕組ではなく、単に連係ということについては、例えば、デカルト松果体(脳の奥にある小さい構造)を心の座(心との連係の箇所という意味と思います)と考えていましたし(但しこれは誤りと思われています)、また近代では、ワイルダー・ベンフィールド(アメリカ生まれの近代脳医学の大家。1891一1976)が、心を脳とは別個の自主的な存在と考えざるを得なくなり、心が脳をエネルギー操作すると考えているのです。また、オーストラリアのエクルズ(近代における脳生理学の大家。ノーベル医学生理学賞受賞、1903ー1963)は、心(おそらく自主的な心)を脳とは別個の独立した存在と考え、これと脳との連係ということを考えているのです。
 心が、脳髄とは別個の自主的存在であるのか、脳髄の所産なのか、実はこの問題はまったく不可知とは言えないかもしれません。例えば上述のように、ペンフィールドなどは心が独自のエネルギーを有するかの如くに働くことを示唆しているのです。私も立場は違いますが、同じ考え方であり(私の場合は人生には何か本物の意味が存在している、この世の中は真面目な存在に違いないという考えが一切の考えの出発点になっています)、もし自主的な心の存否を決める鍵があるとすれば、それは自由意志を発動している時点で(ものを考えるということはすでに自由意志の働きです)、その脳内反応に異常現象(例えば、エネルギー保存則から外れた反応)が行われているかということ、また行われているとして、その恐らく極めて微細な異常変化の測定が可能かどうかということにあると思うのです。
 また、その測定がついに不可能に終わったとしても、それは必ずしも異常現象の存在していないことを示すことにはならないと思います。人間技では測定が不可能な程の極徴量の異常エネルギーで、脳のどこか要所が操作されているかもしれないからです(ここで要所とは、司令キーボードとでも言ったらいいかもしれません。ただし、今の脳の場合、それは1か所にまとまっているとは限らないかもしれません。脳全体かもしれません。キーボードを操作するのは指先(物質)ではなく、心だからです)。あたかも、巨大な機械が、指先1つのポタン操作で(つまり、僅かなエネルギーで)人間の意志通り自由自在に操られるようにです(脳を巨大な機械に見立てて)。
 このように、物質ではない心というものがあって、それが脳(物質組織)を動かしているとするなら、それは、神があるとして、その神の心(物質ではないもの)が、この物質宇宙の支配を握っているのに、どこか共通するところがあるように思います。しかし、これからただちに、1人1人の人間をミクロの宇宙に喩えることは当を得ていません。




 自分以外の人に心があると思っているのは独断では

 さて、心と心の間の交流は全て物質を介して行われるという前に、我々は、自分は心を持ってい.み、自分は心である、ということを現に自ら知り、自覚できるわけですが、相手の人については、自分と同じように心があると、実は、頭から信じ込んでいるだけです。我々が、相手も心を持っていると思うのは、もっぱらその相手の人の肉体にかかわる物質現象から推してのことです。以心伝心などということは考えられません。極端に考えれぼ、相手の人間ははたはだ精巧な増殖型ロボットかもしれないという訳です。
 この自分を含めて、人間は全て同じ造りの頭脳を持っているのだから、この自分に心があるからには、他の人々にも自分と同じような心があると考えるのは当然のように思えるかもしれません。しかし、科学的には、他人の心は、直接に感じたり、観測や測定したりすることは全く不可能なのです。心は物質ではないのです。他の人々から得られるものは、全て物質現象だけなのです。他の人に心があると思っているのは、厳密に言えぱ、あくまで類推であり、独断ということです(少なくとも前述の脳内異常エネルギーが検知できない限り、まったくの独断と言わなければなりません)。今この私がこのように述べているのも、すでに読者の皆様に、この自分と同じような心があると独断してやっているということです。人間は、極めて精巧なロボットに接していると、それに心があるように錯覚しかねないのです。精神活動が脳組織の活動の所産であることが、証明されるのなら話は別です。
 自分以外の人も、自分と同じように心を持っているだろうと考えることは、例えば、ここにある種子も、今までの種子と同じものだから、蒔けば必ず芽を出すだろうと考えるようなこととは、その考え方において趣を異にするものです。種子の場合は、全てが物質の行う自然現象であり、全てを現実に確認し得るのです。自然法則に従って起こるべくして起こることを予言し得、かつ、その結果が観測測定され得るのです。他人が、自分と同じょうな造りをしているから、やはり心があるだろうと考えることとは、似て非なことです。心は観測測定すること(掴むこと)が不可能なのです。
 真に、我々は、宇宙万有については、神というものの存在を信じ難くても、相手の人間に心のあることは、少しも疑うことがないのです。





 自分という心は、他人の心に入り込むことも、他人の脳に乗り移ることも不可能

 さて、自分以外の人にも心があるとして、我々は、他の人の心を直接に感じることは、すなわち、その心に直接触れるとか、その中を覗くとか、その中に入り込んで行くとかいうことは、例えば、仮に将来、脳内反応の測定によって人の心が読み取れる時代が来たとしても、まったく不可能なことです。早い話が、我々は相手の痛みを、察することはできても、直接に感じることはおよそ不可能なことです。こ
のことはまた、言葉どおりの以心伝心ということが有り得ないことに通じています。人間の心は、専ら物質を(物質からと言った方がよいかもしれません)感じ得ても、そして物質を介して相手の心を察し得ても、相手の心を直接に感じることは不可能です。そして、逆説的ですが、これは心を脳の所産と考えるなら当然なことなのです。
 そしてまた、人間それぞれの心(物質である脳髄とは別個の、自主的な存在であるとして)は、それぞれの特定の肉体(脳髄)に限ってだけ結ばれていて、他の人の脳髄には移れない(他人の脳髄は借りられない)ということです。そしてこのことも、それだけとしては、確かに、精神現象を脳の所産と考えることの合理性を思わせるものです。





 肉体の脳と別個に独立した心(霊魂)は存在するか

 心の消長消息は、自由意志という問題を除けば、どうみても脳髄という物質組織自体のそれを映した如くです。例えば、麻酔の注射1本で自分はスイッチを切ったように消えてしまい、麻酔が醒めれば意識は忽然として蘇ります。熟睡している時の無の状態、醒めて再びこの自分に復帰する現象です。そして、幼児から少年、成人、そして老年へと、その人となりの形成と移り変わり、それは果たして人格形成なのか、それともただ単に脳髄という物質組織の形成、あるいは変移ということなのでしょうか。人間形成などということも、結局は頭の体操といったようなことと同類のものでしかないのでしょうか。人格すなわち脳格ということなのでしょうか。
 自由意志の存在問題を省みることなしに、ひたすら以上のような脳と精神現象の表裏一体の関係のみに足場をおいて考えている人たちにとっては、肉体の脳(つまりまた物質)を超えて独立した霊魂(心)の存在を考える人間がいかれて見えるのは当然です。しかし、こうした人たちは同時に、現に存在している精神現象も肯定するために、物質について、より幅広い定義を新たに加えなければなりません。そして、自由意志についてはどう考えるのでしょう。