モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『脳と自由意志』−脳と精神

 1.初めに
 
 人間は、死ぬと本当に灰だけになってしまうのでしょうか。我々人間にとって、死後の情報は永久に途絶しています。この自分が何処から来たのか分からないのとまったく同じにです。どんなに幸せな人生も、いかに功成り名遂げても、そして聖人でさえ、死後が虚無なら、それは、所詮、明日のない幸せ、満足でしかなく、どのみち、結局は諦めに繋がっていくということです。また、耐え難い苦悩や惨めさが死ぬことで消え去り、死は、あるいは、生きていて苦しむよりはましであり、その意味では救われるかもしれませんが、死後がなければ、それはやはり未来のない解放、終末でしかありません。いずれにせよ、それっきりの寂しいものです。我々が願うところは、叶う叶わないは別として、真実、希望あり、発展ある永遠の未来、永遠の活動的生命ではないでしょうか。
 諸々の不公平、不運、不合理の多くが、そのままに終わってしまう世の中、例えば、冤罪で死刑にされた人、天災人災を被った罪もない人々、或いは脳の狂ってしまった人、あるいはベトナムの畸形児、或いはまた古代文明社会における悲惨な収隷たち、例えばこうしたことどもをどう考えたらいいのでしょうか。こうしたことが、この自分自身に、或いは自分の身内に起きたとしたら、私たちはどう考えるのでしょう。人ごとでは済まされないのです、
 世の中の多くの割り切れない不公平がそのままに葬られていくということです。もし、こうした人生が花火のような一時の夢に終わるもの、この現世だけで終わりというなら、多くの人間にとって、人生はふざけた悲劇と言うほかありません。到底、甲斐のある人生とは言えません。もちろん、死後が事実虚無であるのなら、愚痴ったところで致し方のないこと、そこには所詮、諦めがあるだけです。万葉の和歌にある、酒を聖と呼ぶことが、本当の本当にもなってきます。死後があるのかないか、科学は一言も答えてくれません。そして、死人に口なしです。


 さて、わが国の科学者の多くがそう考えているように、人間の精神活動(すなわちまた心)は、はたして単に、脳の所産(唯物論の考えるところ)なのでしょうか。すなわち、脳髄の神経活動なり生理活動(つまり脳内の物理・化学反応)の結果として、心が現れているのでしょうか。ここで一言断わっておきますが、所産といっても、脳で心が産み造られて、それが脳とは一応別個のものとして存在していくといったような意味合いはありません。意識をはじめ精神現象は、脳の中で行われる特殊な物理・化学変化(反応)が、それと同時に造り出し映し出しているもの(造映とでも言いましょうか。物質系のものとは考えられません)という意味です(どんな脳内反応でも全てが精神活動に対応しているというわけではありません。例えば、熟睡中、脳内に生理活動は行われていても、意識はありません)。

 確かに、麻酔薬1つで、我々はたちまち意識を失ってしまいますし、脳細胞の老化脱落で人間は人が変わったように呆けてしまうことは、特に今の高齢化社会において我々が眼の前にする現実です。脳のわずかな故障は、たちまち精神活動に支障を来たします。植物人間でなくても、精神異常者を見ていると、時に、生ける屍の実感に襲われます。精神活動は、まったく脳髄によってその活殺を握られているのです。心はそのままでは確かに、脳の中での物質反応の造映である観があります。

 ところで、どう見ても、脳はまったく物質だけから出来ています。そのままでは、そこで行われる反応は、全て物質の法則、すなわち、自然法則に従っているわけです。髪の毛一筋ほどでも法則から外れることは許されないはずです。一方、因果の法則だけでは全ては決まらないと言う人がいるかもしれません。しかし、例えば不確定性原理といったようなことを考慮に入れても、要は、なるようにしかならないということです。物質脳に関する限り(つまり精神活動を2次的な現象と見る限り)、そこは自由意志とは無縁の世界です。なお、申し添えますが、ここに言う自然法則があるということは、自然界は、いわゆる自然法則から概念されるような秩序によって運行しており、でたらめな現象は1つも起きていないという意味であって、人間によって発見された、何々の法則といったようなものが、そのまま完全な形のものであると言っているのではありません。

このように考えてくると、脳内に起こっている物理・化学変化に、自由意志などというものの介入する余地はまったくないはずです。したがって、精神活動を脳の所産と考えた場合、反射運動とか、本能による行動とか、そのほか無意識下の所作行動などは別として、我々は普段、自分にあたかも自由意志があって、それによって自主的に考え、自主的に行動しているかの如く錯覚しているのか、という問題が提起されます。あるいはまた、本当に真の自由意志というものがあるのなら、脳の中では自然法則から外れた現象が起こっていなければならないということになります。言うなら、自由意志によって強制され、方向を変えられた反応がです。言い方は良くないかもしれませんが、脳の中では常に奇跡が行われているということになります。

 自由意志の存否は人生観に関わる深刻な問題です。自由意志は人格の土台です。その否定は人生の否定に繋がります。我々人間は、本当に、有意的な、自主的な、すなわち自分という存在(自分という心)であるのか、それとも、脳というコンピューターの、つまりまた脳内反応(自然現象)の操り人形なのか、本当は自分などという人格はありはしないのか、という問題です。

 精神活動が脳内反応(自然現象)の造映といったような随伴現象であるなら、生涯掛かってその心を磨き鍛えた聖人も、実は専ら脳髄を磨いていたことになるわけで、少なくとも原理的には、脳外科手術1つで、一夜にして悪人に変えられてしまい得るということ、またその逆も可能ということです。また例えば、死刑を行うより、脳外科手術ということです。我々は何をやっても責任はない、責任は自然法則にある、ということです。精神異常者に法が適用されないという以前に、人間全てがすでに、自由意志、良心、判断力(自主的な、真の意味での判断力)などとは関係のない、したがって、刑法などの適用範囲外の対象であるということになってきます。

 この自分という本尊は、この自分の手足でも、内臓でも、脳髄自体でもなく、つまり肉体ではなく、こうして考える「心」自体であることは現に事実です。再び、問題は、この自分(心)というものが、脳髄の生理・神経活動の造映(物質系のものとは考えられません)なのか、あるいは、そうではなく、脳髄と緊密に連係はしているが、それとは別個の、自由意志を持った独立した存在(やはり物質系のものとは考えられませんが、この場合は、脳内反応を支配する能力を持っている超自然法則的「存在」と考えられます。(5章)であるのかという点にあるのです。

 そしてもう1つの問題は、前に述べた、死後はあるかないかということ、すなわち、脳の所産ではない自主的な心(霊魂)があるとして、それは死後も存続するものかどうか、の問題です。人間の死後が虚無であるなら、心が脳の所産であろうとなかろうと、どうでもよいことです。なお、心が脳内反応の所産なら、脳死が心の消滅を意味することは当然です。

 死後が虚無であるなら、例え、自由意志を持った自分という心が実在し、甲斐のある人生が成立するように見えても、ついには、責任を問われることもなく、死とともに、多くの不合理がそのままに葬られてしまい得るのです。また、死後がなけれぱ、同じくして、神がいようといまいと同じことです、ついには、裁かれることもなければ、報われることもないのです。
 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」ということがありますが、死んで何もなくなってしまうものなら、悟って死んで、一体何が可なのでしよう。悟りとは一体何でしょう。それが長い年月の修行によって得られたいかに尊いものであろうとも、誰がいかに絶対なものであると言おうとも、死後がなければ、それは脳髄が灰になるとともに消えてしまうということです。絶対とか、永遠などといった言葉も、無責任なもの、空なものでしかありません。
 また、愛は絶対だとか、芸術の極致は絶対だなどと、いかに力んでみても、人間、死んでそれっきりなら、これまた絶対などといったものは、所詮、どこにも見出せないと思います。そんな言葉で救われるものではありません。絶対を掴むには、永遠という時間が必要です。つまり、心が不滅でなければ、絶対などというものはどこにも有り得ません。
 この人生が、ついに諦めに終わるということではなく、そして全ての不公平がいつかは償われて、泣き寝入りという人がたった1人でも出ないためには、まず、人間の霊魂が不滅でないと始まらないことは自明です。諦めか、希望か、人生観はこのいずれかに尽きます。我々人間1人1人の未来には、あるいは、無限の可能性が秘められているかも知れないのです。




 2.人間の限界

 人間の頭脳は人間の作品ではない

 科学の進歩は確かに驚異です。しかし、人間ははたしてこれを誇り得るものでしょうか。この進歩があり得たのは、まさに、人間の持っている頭脳があったからです。その頭脳はしかし、人間の創作ではありません。自分のこの肉体、頭脳、そして自分という心は、すでに初めから、他力によって在る、ということを見逃してはなりません。他力という考えに問題があるというのなら、人間にはどうすることもできないものが、あるいは、与えられたものが、まずある(先行している)、と言うことができます。人間の知能と能力には初めから絶対の限界というものがあるのです。人間が、単純に手放しで自らの文明を誇るとしたら、それは新幹線に乗って自分が速いと威張っている馬鹿者と同じです。人知の進歩を眺めることは、そのまま自然の驚異を眺めることに等しいわけです。



 科学技術の限界

 さて、人間がすでに他力によってあるという現実はそれとして、ここで、人間の、科学技術においての、いわゆる常識的な意味での力の限界について考えてみたいと思います。自然科学は常に事実と照らし合わせながら考えを進めていくだけのことはあって、誤りは別として、我々を騙したり、嘘を言うことがありません。どんな加持祈祷でも治せたかった結核の如きも、いまや文明国からはほとんど姿を消してしまったのは、何といっても科学のお蔭です。科学は核爆弾のような罪深いものを造るではないか、といったような議論はさておき、どれだけ多くの人々が今の医学によって救われているかという現実にも目をつぶることはできません。とにかく科学は、昔は想像もできなかったような物質文化の革命を、数多く、それも加速的に成し遂げて来ました。ハイテクといい、宇宙への進出といい、今や人類は、大自然に対して、物質界に対して、「征服」の言葉を高言しかねない勢いです。

 しかし、だからといって科学が将来、想像を超えるような進歩をしても、人間から不可能がなくなるということはついに有り得ないのです。例えば、たった1粒の原子にしても、何もないところからこれを造り出すことは、例えどのような偉い科学者が出てきても、全世界の知恵と力を寄せ集めても、永久に、そして絶対に不可能なのです。また、そのたった1粒でも、それを他の姿に変えることなく(他の形の粒子や電磁波などのエネルギーに変えることなしに)、本質的にこの世から消し去ることもできません。前にも言いましたように、人間は自然法則を髪の毛一筋ほどでも動かすことはできないのです。憲法改正はできても、大自然の前にはお手上げです。
 
 21世紀を迎えんとして、科学者たちは生物をさえ合成しようとして意気盛んです。またその自信に満ちています。そしてこれは可能かもしれません。しかし、その元となる材料はどのみち結局は、全てすでに天然にあるものを用いなければなりません。しかもその合成に当たっての設計図は、これまた結局において、全て自然から学んだものです。もっとも、人間が将来、天然にはないような新機構の生物を考え出さないという保証はありませんけれども、しかし、人間は、結局はどこかで天然に学び、結局は天然を利用し、これに頼らなくてはならない運命におかれているのです。そしてまた、こうした合成に当たって、一切の反応は物質自らが自然法則に従って行う自演であります。人間は考え、計画し、工夫、配材し、自然法則に拠って仕事を進めていくというだけです(ただし、この考え、工夫という中には、有限な人知による、自然の無尽蔵の秘密の無限の開発利用ということも含まれます)。




 宇宙がたった今消滅しないと人間に断言はできない

 さらに突っ込んで考えてみますと、我々人間が頭から信じ切っている自然法則自体が、いつ何時崩れ去ってしまわないとも、我々には知る由もないのです。これは、いつ天災が起こるかわからないといったような問題とは異なった、その前段階の問題であります。自然法則という大前提の絶対性を疑った問題です。推測が困難というより、人間にとって永久に不可知の問題なのです。例えば地震の如きは、科学の進歩とともに次第により適確に予知し得る性質のものです。
 ついでですが、科学は、実は、人間の自然に対する絶対信頼、絶対憑依の上に成り立っている学問です。今言っている問題は、言うなら、科学以前の問題なのです。この宇宙がが明日、いや、たった今消滅しないと、一体どこの哲学者が、科学者が、何を根拠に断言できるでしょうか。今までずっと続いて存在しているというだけのことから、宇宙、自然法則は、明日も存在しているだろうと思っているだけです。来る日も来る日も現にこうして立派にあるではないかという、あくまで結果論です。明日も宇宙はあるに違いないと思っているのは、我々人間の自然に対する、言うなら、信仰です。神は信じなくても、こうしたことは無意識下に信じ込んでいるというのが人間の1つの姿です。

 このように、根源的な問題となると、人間はただ無力です。誰1人として権威ぶることはできないはずです。我々は、いつ爆発するか分からたい火山の上におめでたく座っているのに等しいとも言えるのです。予想ということはできても、根源的には、すなわちまた実際に、一寸先はまったくの闇なのです。全ては明日ありと予想し、信じて生きて行っているだけです。再び人間には絶対の限界があります。

 繰り返しますが、人間は、自力で生きるという前に、初めから在らされて在るということです。自分で生まれて来たのではないのです。親が(産んだのではあっても)造ったのでもありません。因みに、人事を尽して天命を待つということがありますが、ここなどにも、以上の事情の一端が現われているように思います。






 3.自然界という秩序ある存在

 1粒の受精卵の中には、すでに、その未来の成体の造りに関する全ての情報が盛り込まれている

 例えば、我々人間は皆、初めはたった1個の細胞、すなわち受精卵であったわけで、それが分裂を重ねて頭や手足、内臓などが造られ(分化発生)、ついに全細胞数おおよそ60兆個の成体になるというわけです。したがって、こうした生長遇程が、神様によって操作されているとでも言うなら別ですが、全てが厳密に自然法則に随って行われているのなら、初めの1個の受精卵の中には、その未来の成体のダイナミックな設計図が、すなわち、その成体の造り、したがってまた機能、その他に関する綿密な一切の情報が、すでに盛り込まれていなければならないということになります。同時に、その卵の生育を協助し、実現に導く環境もまた、すでに設計され、プログラムされてあるということです。砂粒をどんな方法で培養しようとも、蚤1匹、アメーバ1個生まれてくることはないのです。




 生物は増殖する機械、生物現象は純粋な物理・化学現象

 従来、生命現象は人間にとって最も不思議なことの1つであり、物理や化学だけでは説明できないこと、そこには何か自然法則を超えた神秘な力が働いているのではないかと思われてきました。ところが、今20世紀に入ってから、科学者たちは鋭意その謎解きに取り組み、今世紀中頃から急速にその謎が解け始めてきたのです。そして、生命現象の鍵を握っていると考えられてきた遺伝子(生物体を造っている細胞のそれぞれ1つ1つには、その生物体に特有な、原則的に同じ遺伝子が1組ずつ入っている。例えば高等生物では、主として細胞核に含まれ、細胞分裂時に見られる染色体の中核物質である)が、一口に言うと、DNA(すでに100年以上前、細胞核の成分として発見されている物質種)であることがわかり、以来、この遺伝子DNAの造りや働きの解明が飛躍的に前進したのです。この結果、増殖ならびに遺伝、及び関連する重要な生命現象(タンパク質がどうやって造られていくのかというその仕組など)が、まったくの物理・化学の反応として説明できることがわかったのです。

 先ほど、1個の受精卵と言いましたが、実はその中にある遺伝子DNAが鍵物質であったわけです。重点的に言って、そのDNAの中には、その生物体の形質その他に関する全ての遺伝情報が書き込まれていると言ってよいのです。因みに、この遺伝子DNAは、2本の長い分子鎖が相沿って螺旋コード状に巻いた形のもので、これがいわゆる2重螺旋です。細胞の中では、これががさらに螺旋を巻いて折り畳まれています。なお、染色体を思い起こしてもわかるように(例えば人間では染色体は23対すなわち46個に分かれて現われる)、DNAが切れ目のない紐(2重螺旋の紐)というのは当たりませんが、一連として連携しているということで、1本と言ってよいかもしれません。

 生命現象にはまだ他にも、もっと不思議な難しい問題がありますが(例えば、分化発生、すなわち、1個の卵からどうやって頭や手足、内臓などが分かれてできてくるのか、ということや、また、生物の起源など)、そうしたこともひっくるめて、生命現象の全てが、結局は、純粋な自然現象として、すなわち完全に物理・化学的に理解されるのではないかという見通しになってきたのであります。つまり、生物は機械と本質的に異なるところはない、物理・化学反応を行う分子機械に還元されるということです。したがってまた、人間は、少なくとも原理的には、生物をも合成することができるということです。因みに、このような事情になってくると、生命現象という含みのある言葉を使うよりも、生物現象と呼んだほうが幾分でも合理的ということになってきます。

 ついでですが、この経緯は、19世紀の半ば近くまで、有機物質(有機体というと生物の意味です)、すなわち蛋白質澱粉、砂糖、脂肪のような、あるいはもっと簡単なものでも、生物体を造っている、あるいは生物体から造り出される特有な物質は、無機物質すなわち、水や空気、塩類、岩石といったような、大雑把に言って、より簡単な物質と違って、人間が合成すること(いわゆる試験管内合成)はできないと信じられていたのと軌を一にしている、というより、直接関連した事柄です。

 昔の科学者たちは、有機物質はいわゆる生命力という、生物に特有な神秘な力を持っていなくては造り得ないものと信じていたのです。もちろん現在では、あらゆる有機物質が、少なくとも原理的には、合成が可能です。そしてさらに、前述のように、生命現象自体の中にも、従来考えられてきたような神秘な力は存在していないということになって来た訳です。

 ところで、今言おうとしていることは、だから人間の価値が減ったとか、だから神様はいないとかいうことではなく、例えば、人の脳の造りは、主要部だけでも140億個もの神経細胞(ニューロン)からなる、想像を絶するような精緻な造りですが、その造りの青写真までも、すでに最初の受精卵のDNAの中に書き込まれてあったということ、そして一切の生物現象は全て完全に自然法則に随って運行している自然現象であるというそのことです(因みに、生まれた時の赤ん坊の脳のニューロンの数は既に140億個になっています。脳のニューロンは、他の体細胞と異なり、生まれて以後、増殖は行いません。20歳ぐらいからは減少する一方と言われます)。




 既に物質粒子(原子や素粒子など)の1粒1粒に、生物発生の情報は秘められている

 さてそこで、宇宙の物質は全て、もちろん我々のこの体も、無数の分子とか原子、そしてこれらはさらに小さい基本的粒子である陽子、中性子、電子など、素粒子と呼ばれるものからできています(またさらに、陽子や中性子を構成しているより基本的な粒子が考えられています)。これらの粒子はどんなに高度の電子顕微鏡、その他によっても、その姿形を見るといったようなことは到底できない極めて小さいもので、全宇宙に存在するその数は超天文学的なものですが(例えば酸素にしても、その32g(気体としてバケツに3杯くらい)には1兆個の1兆倍近い酸素分子が含まれています)、どの1粒についてみても、それぞれの種類によって統一された見事な構造を持っていて、全粒子は整然とした秩序と法則のもとに関係付けられており、1粒たりとも規格から外れたものは存在していないと信じられています。そしてまた科学者はどんな新粒子が発見されても、それは必ず理論的に説明のつく、筋の通ったものであることを初めから信じて疑うことがありません。まことに自然界は、科学者をしてそう信じさせるまで、それほどまでに秩序正しいものであるということができます。
 
 そして、DNAもこうした厳密な秩序を持った原子からできているわけです。また、だからこそ、この地球上に数十億という同じ造りの人間が生まれ得るのです。一口に言うと、DNAの場合、主に(量的主要成分として)炭素、水素、酸素、窒素、リンの5種類の原子の莫大数が特定の排列をしてできている前述の長い紐状分子ですが、例えば人間のDNAは、全長にして2m近くあると言われ(第1次二重螺旋の巻きは引き伸ばさずに測ったとして。なお、その太さは極めて細く、普通の分子の径の桁です)、それを構成している原子数は何千億個に上ります。
 
 さて、そうすると、DNAの持っている情報は、既に、DNAを構成している原子(さらにそれを構成していろ素粒子など)に起因していると言わなければなりません。これを喩えると、DNAを文章とするならば、それを構成している原子は文字であります。原子のグループ、すなわち分子とか分子的な単位は単語に喩えられるかも知れません。
 
 文字は、それらを適宜に繋げると意味を成すよう、情報を造るよう、人間によってあらかじめ意図されて造られているものです。1つ1つの文字には、多くの企画と可能性が秘められているというわけです。小石をどのように組み並べても、文章にはならないのです。文字に似て、そして文字より遥かに周到に企画されて、1つ1つの原子には、素粒子には、そしてまた物理空問には、広汎な企画と可能性が、すでにして盛り込まれてあると考えざるを得ないのです。
 
 こうしてついに、生物の発生は、そして人類の出現は、字宙開闢時すでに、青写真として存在していたと結論せざるを得ないのです。生物は、原子の、DNAへの単なる偶然の排列によって生じたものではなく、出来るべくして出来てきたものであるとしか考えられません。



 我々が自然法則を発見するということ、すなわち、この自然界を読むことができるということは、自然は人問に共通する心を持った何者か(神)によって造られてあるということではないでしょうか。文章は、人間が考えた文字によって綴られているからこそ、我々はそれを読むことができるのです。どんな難解な古代文字が発掘されても、我々はそれを、必ず解読できると信じて疑わないのです。人類の文明の進歩は人間の意図のもとに行われてきています。宇宙の開闢と展開、生物の発生と進化は、ただそうあっただけ、ただそうあるだけのことなのでしょうか。生物は自分の意図で進化してきたのではありません。我々の心臓は、我々が自分で動かしているのではありません。
 
 意識ある心だけが、創作を行う主体で有り得ます。すなわち、ここに、宇宙を、素粒子を、そして人間の心を創造した心、即ち人格神の存在を考えざるを得ないのです。
 物質自体に心はありません。芸術作品が我々に訴えるのは、作者の心です。宇宙が、そして我々の心自体が、我々に語りかけてくるように思うのです。それとも、この世界は、昔からただこうあるだけのこと、ただそれだけのことなのでしょうか。全ては、ただこうなっていくだけのことなのでしょうか。