モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

一切は心のためにある ー「天網恢恢疎にして漏らさず」

 6.心は第一義の存在・一切は心のためにある・心は存在の場

 心あっての物種

 人間、意識がなくては、心がなくては、始まりません。どんな学者や宗教家がどんな理屈を付けたところで、永久に眠った状態では、一切始まらないことは明らかです。植物人間を見ればわかります。意味や価値は、意識ある心においてこそ、意識ある心においてのみ、あるものです(例えば睡眠なども大切であるといっても、それは結局、精神活動のためのものです)。例えば人類の絶減し去った世界に、つまり心のない世界に、どのような宝があったところで、それは瓦礫と異なるところはありません。人形には、どんなご馳走もわからないのです。我々は、気の狂ってしまった人を見るとき、そして植物人間を見るとき、心が第一義の存在であることを痛感せざるを得ないのです。物質自体だけでは、意味も価値もないのです。すなわち、生と死の問題です(4章。物質は死とは違います。死はあくまで心の消滅です)。
 そして、よしんば心が脳の所産であったとしても尚且つ、一切はその心あっての物種です。ただし、この場合、すでに述べましたように、その心に自由意志は考えられません。



 一切は心のために存在している
 
さて、我々はよく、人間は一体何のために生きているのだろう、などと言いますが、突き詰めて考えていくと、これは難問です。考えてみれば、すでに在らされてある(一切他力によってある)我々にとって、我々自分自身の究極的な目的といったようなものを考えることはできないのではないでしょうか。それよりも我々人間、そして宇宙一切は(我々人間から見れば無尽の驚きと秘密を蔵したまま)、ただこうあるだけのことなのか、それとも、この世界には何か目的というものが存在しているのか、という問題です。そして、この目的の存在は、すなわち神という心の存在に繋がるものです。
 そこで、およそ「何かのため」という時、それは所詮「心のため」である以外にはありません。これは、意味価値は全て心においてのみあり得るということから当然なことです。
 無心の物質が、無心の物質のために存在しているということは考えられません。無心の物質にとって、ためとか、目的とか、意味とか、価値とかいうことは関係のないことです。また、心が物質のために存在しているなどということも、当然考えられるものではありません。
 
 また、例えば、意識とか心はそれが生物に付与されることで、固体の維持や、ひいては進化が具合よく行われるために生じて来たものだなどというふうにも考えられません。動物に意識や心が発現してきたことによって、遂に人類への進化があり得たのであっても、だからといって、心が進化ということ自体のために生じてきたものだなどとは考えられません。進化自体は、生体という機械の辿ってきた物質現象に過ぎないからです。進化が心のためのものであっても、心が進化のためのものであるという言い方はできません。
 再び、一切の物事は物心ともに、結局はただこのようにあるだけのことなのか、それとも、そこには何か目的が存在しているのかということです。私は、一切は神と人間の「心」のために、神によって創られてあるように思うのです。
 そして、心こそ心のためにあるもの、すなわち、後(10章)でも述べますように心と心の触れあい、ぶつかり合いは、心の存在意義そのものであると思うのです。

 因みに、この世に我々人間の自主的、自覚的な心が現に存在していることは、神という心もまた、存在していておかしくはないことを示すものでもあると思います。





 心は存在の場である

 前に述べましたように、人類の死に絶えた世界に、どんな宝があろうとも、それにはもはや何の意味価値もないのです。心は、意味価値の「存在の場」です。また、すでに述べましたように、我々は、全てのものはこの宇宙の中に存在していると考えているわけですが、その宇宙自体、すでに我々の心によって見られ、考えられているのです、つまり、心の中にあるのです。そして人間はさらに、より深く研究して、より解明された宇宙の姿(物理的宇宙像)というものを考え上げていきます。つまり、宇宙は、よりはっきりした姿で人間の心の中に存在していくということです。宇宙は、人間の心の中で意味を持つのです。しかし、人間の心だけでは、この宇宙一切が完全な意味を持ち得ること(つまりまた、完全に理解されること)は不可能です。神の心(創造者の心)がなくては、所詮一切は闇に包まれたままです。我々が考えようと考えまいと、我々の心と無関係に存在していると考えられる字宙というものそれ自体は、実は、神の心の中に、完全に理解された、すなわち、完全な形として存在しており、そして我々人間それぞれの有限な心の中に、それぞれ完全ではない形として、言うなら半存在 (不完全存在と言う方がよいかも)していると考えるのです。
 
 飛躍的に聞こえるかもしれませんが、全宇宙一切は、もちろん人間の心も含めて、何か大きい意識、心、すなわち、神という絶対である心の中で創造され、現にその心の中に存在し、活動し(得)ているとしか考えられないように思うのです。一切は心の中において初めて意味を持ち得る、という以前に、およそ心というものが、根源的に、一切どこにも存在しない(簡単に言えば、神も人間もいないということ)時には、物質も、したがって宇宙も、一切は存在し得ないのではないでしょうか。つまりまた、宇宙開闢があったということは、神(心的存在)はすでに存在していた、ということになります。字宙一切は、神の心の中においてのみ、完全に存在し(すなわちまた完全に理解され)得ていると思うのです。

 心は、言うなら、空間や時間よりも次元の高い存在の場です。そして、神という絶対の心(自分が何者であるか分かっている。その心自体が、その心の完全な存在の場になっている)が、物心一切の完全な存在の場であると考えるのです。根っから全く意味のないというものは、存在していないのではないでしょうか、存在し得ないのではないでしょうか。存在するということ、意味を持つということ、(心によって)意識され、考えられるということ、これらは切り離して考えることのできたい、一体の関係にある事柄です。


 ここで、因みにに付記しますが、本書で私が述べていることは、古典哲学の主な学説のいくつかと、少なからず通じているところがあると考えます。それぞれの説は、それを述べている本人の哲学者以外、身に体して会得するということはなかなか難しい場合が多いとは思いますが、また1人1人の哲学者自身についてみても、その生涯の間には、考えの修正されたり、変わったりすることも珍しくはありませんが、兎に角ごく大まかに見て、それら哲学説の主なものと私の述べていることを、ここで若干照らし合わせてみたいと思います。
 
 私の述べていることは、まず、デカルト(フランスの数学・哲学者。近世哲学の父とも言われる。1596一1650)のいわゆる物心二元論と共通したものを含んでいると思うのです。さらに、デカルトは神は存在すると考えており、熱心なキリスト教徒でありましたから、この意味においては、究極的には一元論的ではなかったかとも思うのです(神は万物の創造主であるから)。デカルトが神の存在ということから、一切を一元的に見ていたのなら、私の考えもまた同じです。また、ウパニシャッドという古代インドの宗教・哲学書(ヒンドゥー教の経典)を通じている思想は、宇宙、人間、一切を支配する究極原理なるものを考えており(この究極原理はそれ自体、人間個人の自我とついに一致していると説かれ、したがってこの究極原理は人格神的性格のものと考えられます)、この意味で、この思想は前述の神という心が万物を在らしめているという考えと似て一元的であると言えましょう。
 
 なお、一元的と言っても汎神論の如きは、今言っているものとは趣を異にしているものです。汎神論の代表例はスピノザ(オランダの哲学者、1632一77)のそれで、神即自然とする一元論です。私のは一切が、神の心の中で、(創造されるなりして)存在し、活動しているという方の考え方です。しかし、一元か二元かなどということは、それによって我々の人生への姿勢が変えられるような、差し迫った問題ではないように思います。神(人格神)、があるかないか、霊魂は不滅かどうか、といったことが切実な問題です。

 また、私の、心あっての物種などというあたり、そしてまた神の心が存在の絶対の場であるなどというあたり、バークリー(アイルランドの牧師にして哲学者。主観的観念論の代表者。1685一1753)の観念論に極めて共通するところがあると考えています。因みに、バークリーの観念論はそう簡単に評し去られるようなものではなく、その言う「存在即知覚」ということも、その言葉だけからの単純なものではないと思うのです。
 また、私の考えは、後(9章)に述べますように、カントが道徳の根拠として、自由、霊魂の不減、神の存在を考えたことと共通したものを持っていると思うのです。なお、カントの、認識に関する考え方(例えば物自体といった考え)や、前述のバークリーの考え方などと照らして、私の考え方はこれらの哲学と同系色であるので、言うなら観念論的であるということはできると思います(物自体とは、カントの考えであり、我々の感じる、物の感覚や、測定の元となっている、そのものの本体ということで、つまり経験を超越した対象。こうした本体の考えはすでにプラトンに始まります)。
 ただ、唯物論は、一貫して無神論であり、近代唯物論の主流である弁証法唯物論では、精神現象を脳の所産と考えているので、私の考え方とは、根本を異にしています(「弁証法唯物論マルクスエンゲルスによって立てられた哲学説)。なお、近代哲学における弁証法とか、弁証法唯物論といったものは、残念ながら、そしてお恥ずかしいながら、私には難解です。




 7 心(霊魂)は不滅か

 死後が虚無なら悟りを開いて何になる
 
 どのような悟りを開いた高僧も、いかなる価値を掴んだ賢哲も、死後がなければ、小判を握りしめたまま死んでいく俗物と何ら異なるところはありません。人間死んで灰だけになってしまうものなら、聖人の一生の行いも、悪人のそれも、その本人自身にとっては前途一切無効ということであります。死んで報われることもなければ、罰せられることもないというわけです。難行苦行して悟って死んで果てるのと、俗人として気儘に楽しい人生を過ごして終わるのと、一体どのような価値の差があるでしょう。生涯を人のために捧げた聖人と、幸せな俗人と、いずれがより楽しい一生を送り、より満足して死んでいったと言えるでしょう。死んで灰だけになってしまうそれぞれの人にとって、その幸せとか満足に、本物とか贋とか、質の差などあり得ましようか。問題は、それらの人々が、周囲の人々に、そして後の世代へ及ぼす益あるいは害ということだけです。死んでしまえば、本人は虚無であるだけということです。死後がなければ、本人の幸不幸は、要はその本人の考え1つで決まることです。




 死後のない人生に善悪の根拠は結局ない

 死後がなければ、この人生には、拠って考える絶対の根拠というものはありません。出来得る限りにおいて、自分の気の済むように生きていくということに尽きます。狡くて呑気な人間が勝ちかもしれないのです。良心的な行動をしなければ気が済まないというなら、そうすればよい迄のことです。ただしかし、どちらにしても不公平や不正が清算されないままに、そのままに終わってしまい得る世の中ということです。心が脳の所産であろうとなかろうと同じことです。
 道徳などということは、ついには意味をなし得ない世の中です。人間としてこうしなければならない等ということは、まったく考えられなくなってしまうのです。多くの人々の安全快適な生存のため、すなわちまた社会の単なる秩序のためという、まったくただそれだけの根拠から法律という名のルールが作られているに過ぎないということになってしまいます。


 
絶対などということ
 
 死後が虚無であって、友のために命を捨てたからといって、そのことによって、自分に不滅の何かを得て救われるものでしようか。人に幸せを与える喜びも、自分の善行や業績、名声などが後世にまで残るということも、また自分の分身である子孫が存続していくということも、死後がなければ、いずれも自分が絶対をつかむことには繋がりません。死ぬ間際の思いだげで、浮かぶ浮かばれないが決まるという根拠も保証も、どこにもありません。大往生と言われて死んでいっても、七転八倒して苦しんで死んでいっても(苦しむこと自体が厭なこと、そして他から見て気の毒だ、ということだけで)、全てはそれでおしまいということ、成仏するもしないもないのです。中には死ぬ間際に、これで満足だ、もはや思い残すことはないなどと言っている人がいても、そこにはすでに「諦め」があることは自明です。
 考えてみれば、お墓参りをすることも、人間死んで灰だけになってしまうというなら、正直、今生きている自分自身の気持ちの済むためにやっているということです。死んだ人の魂など、最早どこにもありはしないということなのですから。あるいはまた、世に言う、愛するということ自体が絶対であるとか、芸術の極致は絶対であるとか、意味はよく掴めませんが、それで死という不可避の現実を超越できるものでしょうか。今だに、生きながらにして絶対を掴んだ人はいないと思います。死後がなければ、釈迦とて、自身はすでに骨だけであります。



 
 真の救いは霊魂が不滅でなくてはあり得ない

 諦めではない本当の救いは、少なくとも、自分の心が不滅でない限り得られるものではありません。人間この現世だけで終わりなら、そこには、悟りというより、諦めが、観念が、覚悟があるだけです。実際に死後がないものなら、いかに宗教だ、信仰だなどと言ったところで、それは藁をつかむと同じことです。気休めに過ぎません。唯物論者が宗教を麻薬と呼ぶのはまことに当を得ています。
 どんな理屈をつけたところで、霊魂が不滅でない限り、一生修業し、何年瞑想し、いかなる古今の碩学高僧に学び、何を信心したところで、救われるはずはないのです。高僧自身救われるはずもないのです。せいぜい、穏やかな諦めの中に、良いことをしたという満足、安心の中に、あるいは、ありもしない死後を信じながら、あだの喜びのうちに消えていくということです。救いとはそれだけのものなのでしょうか。
 
 これでは、人生は、大自然という神秘の中での、一時の、現実という夢幻でしかありません。あるいは、人間、心身ともにこの現世だけで終わろうとも、なおかつ、この現世に生きている間に悟り得、絶対をつかみ得、すなわち救われ得るものであるというなら、俗物である大部分の人間は救われないまま灰になっていくより致し方ないということです。高僧とか、聖者とか、この現世で悟った人間だけが救われるというのではなく、万人が、1人残らず救われ得るのでなくては本当ではありません。このためには、我々1人1人の心、すなわち、それぞれ自分というこの意識あるこの考える心(霊魂)は、まず第一に不滅でなければなりません。
 救いは諦めにはありません。諦めにはすでに将来はありません。救いは、理想を追及して止まないところにあります。そして、当初(1章)に言いましたように、絶対をつかむには永遠という時間が必要です。
 そして、神は、人間を神自身のためにだけ造ったのではないと考えるのです。もちろん、慰みものに造ったのでもないと思います。神は愛の神であり、真面目になり得るものである我々人間を騙すことはないと思うのです。

 しかし、兎に角、神がいるか、いないか、そして、心が不滅でなければ始まらないと、いかに力んだところで、実際に心が肉体の死とともに消えてしまうものなら、いきりたったところで無駄です。それこそ諦めるほかないのです。しかし、霊魂が不滅か否かは不可知です。死者に口なしです。つまり、人によってそれぞれでしょうが、結局、不滅であってほしいかどうか、信じるか否かの問題です。不可知ということは不滅の可能性が半分はあるということです。信じたり望んだりすることがまったく馬鹿げているとは言いきれないということです。
 わが国の少なからざる科学者は、霊魂などというものは、人間の、死んで無になってしまいたくないという強い願望が生んだ虚像であると考えている如くです。しかし、精神現象と脳の表裏一体の繋がり関係は、あくまで人間が生きている時点、すなわち脳に神経・生理活動という物理・化学反応が行われている状態でのことです。完全な脳死後、すなわちまったく異なった条件下で、物質ではない心が存続するか否かは、厳密に言って不可知です。




 それぞれの個人から遊離して、社会も歴史もない

 さらにまた、故人は歴史の中に、そして現在の我々の心の中に生きているといったような言い回しに、文学的な意味はあっても、それでこの自分自身も同じように永久に失せたいとして満足し、救われるものではありません。歴史的に流れていく社会に、意味価値、生命があるなどと言ったところで、それで救われるものでもなく、死んですでに心のないとする人間に関係はありません。我々は、現在はもちろん、歴史という流れの中で、社会の恩恵に浴してはいても、そしてその意味で社会に価値はあっても、個人から遊離して、社会に浮いた価値とか生命などを考えることはできません。歴史も、それぞれの人の心の中でのみ、その価値を発効し得るのです。



 
 霊魂は永遠にに成長進歩するものでなくては意味がない

 人間、呆けたり、痴呆状態、あるいはいわゆる精神異常を来たすと、まるで人が変わってしまったように見えますが、心を脳の所産と考えるなら、それは、人(心とか人格)ではなく、脳髄が変わってしまった(劣化や異常を来たす)という、ただそれだけのことでしかないわけです。脳格即人格ということです。しかし、これまでにも触れてきましたように、また以下にも考えていきますように、私は、人間の本尊は霊魂であると思うのであり、肉体の脳が老化しても、故障しても、その人の自由意志を持った本来の心(霊魂)は、その脳髄を超えて健在していると考えるのです。ただ現世では、精神活動は、脳髄をはじめ物質に拠ってのみ可能な仕組になっているので、脳髄、つまりコンピューターの老化や故障が、あたかも心のそれの如くに見えるだけのことと考えるのです。老化とか精神異常など、あくまで肉体上の問題であり、死後は、肉体を脱却した霊魂は、再びその本然の活動を開始、成長、進歩していくものと考えるのです。
 
 万人が救われるということのためには、このような徹底した考え方が必要です。さもなくば、霊魂不滅などという考えは不得要領なものと言わざるを得ません。霊魂に老化があっては、死後の永世も意味をなしません。私は、こうした積極的な意味での霊魂の不滅の可能性がゼロではないということを指摘したいのです。
 因みに、死後、霊魂がどんな形態によって(例えば第2の肉体によってなど)活動するかなどということは、せいぜい想像あるのみです。要するに、霊魂の新生および不滅は神によって摂理され、保証されていると考えるわけです(次章に述べる我々の持つ記憶の永久保証について考えるのと同様です)。

 かつて、私の親類筋の若い人妻が亡くなった折のこと、お経が終わって休みの間合に、私はその時のお坊さん(禅宗)に聞いてみたことがありました、「人間は死んで何もなくなってしまうのでしょうか。」大人げない私の質問に、お坊さんはまことに穏やかた笑みをたたえながら答えてくれました、「我々の心の中に生きています。」期待していた訳ではなかったのですが、、やけり月並の答えしか返って来ませんでした。このようた按配に、私は実はこれまで幾たびか、坊さん、牧師、神父様などに、直にこの単細胞的質問を行ってみました。しかし、この、幼稚というより、実は最も切実な人間の関心事に対して、答えになっている答えはついに得られませんでした。中には力のこもった声で私の不信を詰り出す牧師さんもいまして。
 ただ、最近、キリスト教(新教)のある老牧師は、私の、死後があるかないかの質問に対し、真面目にこう答えてくれました、「一か八かです」。感激でした。真実の吐露、誠意には命があります。心の通った感じでした。
 なお、因みに、カソリックでは概して、聖書の記載ならびに教会の伝承を、奇跡を含めて、悉くそのままの形で事実真実と考えているように受け取られました。これに対し、新教ではまちまちの観です。





 8 一切は宇宙に永久記録される・記憶の保持

 宇宙への永久記録

 この宇宙で起こることは、悉くこの宇宙に正確に記録されて消えることがないということを考えてみたいと思います。例えば、池に小石を投げると波紋ができますが、それは間もナく収まって、池は再び元の静けさに戻り、後には何も残らないかのように思われがちです。渚の砂に書いた文字も、一波二波洗われれば跡形もなく消え去ってしまいます。大きい傷跡は残るが、小さいそれは消えてなくなるというのが一般常識です。しかし、これは正確ではありません。微視的に考えると、つまりまた厳密には、例えば池に投げた小石の波紋は、一見消えてしまったように見えても、何らかのエネルギーとか形になって次々に伝わって行ったして、とにかくその効果が消えてなくなってしまうということは絶対にあり得ないと考えられます。つまりその効果は、したがってまた池に小石を投げたという事実は、この物質世界(広くは宇宙)に永久に記録されて(静的にも動的にも何らかの形となって残留して)消えることがないと考えられるのです。効果が広範囲に広がって行って、したがってまた、一見、いかに微弱に、また微視的なものになっていっても、消えてなくなるということは絶対にありません。そして、いかに微弱であろうとも、それが存在するということと、存在しないということでは、まったく事清が違うということを明確に知るべきです。例えば、我々人類や、この地球にしても、全宇宙に比べれば、それは、眼にも止まらないような一点でしかありません。しかし、人間の存在は、大きな事実であるとしなければなりません。
 
 あらゆる現象は、我々の一切の行為、思いも含めて、この宇宙(物質界)という、言うなら動的ディスクに永久に記録されて消えることがたい筈です。我々の心の善き思い、悪しき思いも記録されるということです。人間がものを考える時、思う時は、必ず脳組織内の物質変化がそれに対応して起こっているからです。こうした自然記録(宇宙記録)は、どのような大変化が宇宙に起ころうとも、自然法則が変わらない限り消えることはないように思います。
 例えば考古学におげる遺跡、生物学における化石、あるいは宇宙進化論の拠って立つ現在宇宙の物理的状態の如きは、自然におけるその無尽蔵の記録の中の、氷山の一角にも及ばない徴々たるものであると同時に、人間にとっては最も解読しやすい部類のものでしょう。そして例えば、我々人間の行為、行動、思考(に対応して起こった脳内反応)といった、しかも時代を経たようた、我々人間にとっては到底手の付けようもない、まったく解読不可能な、希薄化された、微視的かつ広汎な自然記録でも、もし全能の神が存在しているものなら、神は簡単明快に読みとってしまうと思うのです。
 神がいるとして、神は実際にこのような自然記録を利用しているのか、あるいは、直接、神自身の心に一切を記憶しているのかといったようなことは兎に角、少なくともこうした完全な自然総記録の存在するということは、神の全知とか、甲斐のある人生とかいった考えに、1つの拠りどころを与えるものです。
 まことに、老子は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と言いました。神がいるなら、神は何もかも知っているに違いありません。完全犯罪は有り得ない、というより、神にとっては歴々たることなのです。そして、一件でも完全犯罪の成り立つ世の中を、甲斐のある真面目なものと考えることはできません。




 記憶をおいて人生は成り立たない・記憶の保持

 意識がまったく存在しないところに、一切は始まらないこと、人生の成り立たないことはすでに述べたとおりです。しかし、いかに意識があっても、また自由意志があったところで、記憶ということがなければ、やはり人生は意味を成しません。このことは、記憶を失った人、例えば、親兄弟の顔も忘れてしまった、いわゆる恍惚の人を見れば分かることです。念のため、今言っている問題は、呆けた人でも、その近しい人にとっては掛け替えのない存在であり、ただ生きてさえいてくれればよい、といったようなこととはもちろん別間題です。
 記憶がなければ、精神活動は有り得ません、足場のない所に立てないのと同じです。嘘も正直もなく、正義とか真面目さとかということなど、もとより成り立ちません。甲斐もなければ、創作もなく、例えば感覚と衝動の世界があるだけといった具合ではないでしょうか。歴史は成り立ちません。自由意志という問題以前に、人格は成り立ちません、人生は意味をなさないのです。
 精神活動こそは我々の存在意義であり、真の意味での生命です。まことに、「我考える故に我在り」です。そして記憶は精神活動をあらしめるものです。肉体(脳)が死んで、一切の記憶が消滅し、あるいはさらに、記憶することもできなくなってしまうものなら、よしんば、死後、霊魂が存続したところで、それは永久記憶喪失、加えるに完全な呆け以上に出るものではありません。

 1人1人の人間にとって、人生が、この現世だけに終わる仮そめのものではなく、何か絶対の意義を持っていて、根底から真面目に考えられるものであるためには、死後における自意識のある心の存続ということと同時に、少なくとも必要な記憶の存続ということが不可欠であるように思います。どんな人にとっても、その人生が諦めに終わらないためには、前(7章)に述べましたように、死後、肉体から脱却した霊魂は、それが生前、呆け老人のものであったろうと精神異常者のものであったろうと、全ての人それぞれにおいて、記憶の保持、復帰をも含めて、再びまともな精神活動が有り得るということでなくては意味がありません。
 ところで、霊魂の不滅とか、まして死後における記憶の存続など、いかれた人間の戯言と、相手にされないかもしれません、そうまでして生きていたいのかと言われるかもしれません。しかしながら、死後について我々の知り得ることは、せいぜい、死体の解剖によって得られる、肉体(脳を含めて)についての科学的情報だけであります。死後における人間の心(霊魂)の存続や活動、したがってまた記憶の存続また復帰を否定する論拠は、まったくどこにも存在していないのです。否定できるのは、精神活動が脳の所産と証明された場合に限ります。そして同時に、肯定する論拠もありません。要するに、どちらを採るかは、それぞれその人自身の考え、人生観による他ないということです。そして、人間の死後が、生命と活動に繋がっているか、あるいはまったくの虚無か、真実は、すでに、どちらかの1つに決まっていることです。
 精神活動が脳の所産であるなら、脳が灰になるとともに一切の記憶も精神活動もろとも消滅してしまうことは自明です。また、記憶が専ら脳における分子メモのようなものであって、これは脳とは別個の心が読みとっていると考えた場合も、その心が肉体の死後も存続したところで、記憶はやはり肉体の死とともに崩れ去ってしまうわげです。忘れっぽい人間が大切な手帳をなくしてしまった格好です。あるいはまた、記憶は脳だけに記録保存されるのではなく、脳とは別個に心(霊魂)にも同時に、潜在的になり記録されているということであれば、霊魂が不滅の場合、記憶は肉体の死後も、兎に角保持され得ることになります。
 
 しかし、こうしたことは、霊魂の滅不滅と同様、不可知の問題です。ただここで、先ほど述べました一切合切の物事の永久自然記録ということが、事実であるとして、ここにもし神の存在ということを合わせ考えますと、この自然記録は、我々各自の記憶の永久保持ということに繋がり得る、1つの実在する足場で有り得るということであります。つまり、神の力(摂理)を介することによって、すなわち、神が自然記録の中から我々それぞれの記憶を読み取ることで、我々それぞれに、記憶を永久保証するということ、必要に応じ、いつでもその記憶を我々に与え得るということです。そして、歴史は消えることがないのです。
 勿論、神は全能であるからには自らの心に一切を収め、記憶なり記録なりしているとも考えられます。そしてこのことも、勿論、人間1人1人の持つ記憶の神による保証ということに繋がります。
 なお、自然記録が神によって実際に利用されるされないは別として、神による我々の記憶の、兎に角保証(次章に述べる摂理ということでもあります)ということは、つまりまた、記憶が我々霊魂にも、潜在的になりと、保持されるということと同じと考えてよいと思います。



 
 過去は単に過ぎ去ってはいない

 過去は、常に現在である自分という心を、意義あらしめるために不可欠な存在です。記録と記億がないところに、すなわちまた、過去のない世界、過去の築かれていかない人生に、再び、意味は成り立ちません。過去は単に過ぎ去ってはいないのです。過去は、現在の自分をかく在らしめ、そしてなお、常に現在である自分の中に生きて働いているもの、そして人生の構築を形造る不可欠の要素です。過去は現在ではありませんが、しかし、事実、悉く現在においてある過去です。現在が続く限り、過去も現在の中に生きて亡びません。過去と現在に価値の差はありません。過去が、過ぎ去った半分夢のようなものであるなら、すでに現在も同類ということ、次々に過ぎ去っていく儚い幻影以上のものではありません。

 想い出は、単に想い出に終わるというものではなく、常に我々の生活の中に働いている、潰えることのない、現に生きている宝石です。そして、歴史は現在に生きているということです。人生は、喩えるなら、自ら自らを彫刻しているようなものです。常に現在、新しく彫っているのであり、過去から彫られてきたところは現在に生きているのです。そして、再び、彫刻は、果たして脳髄(また肉体)にだけされているのでしょうか。人生が単なる夢幻ではなく、そこに、諦めに終わることのない意味の存在を考えようというなら、ここに再び、我々の霊魂は不滅でなければならなく、霊魂の不滅は記録と記憶の不滅を前提として初めて意味が有り得ます。