モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

目に見えないものだけが実在である

 第3章 「ものに動ぜぬ心」の正しい培い方


 はびこる「社会の駄々っ子」達

 よく巷問には、「不動心を得る方法」というようなことを、安易に書名に謳った本が出回っている。中には、ずいぶん無責任な内容のものを、時々見受ける。酷いのになると、「腹黒くなる方法」などという、実に噴飯物のタイトルの本が、書店に堂々と飾られていたりする。
 もし、そういった類の本を読んで、たとえ一時的にでも、「人生観が変わった」というような気持になった人がいたとしたら、その人の自主性の乏しさを責める以前に、その人自身のために、大変危険なことだと思うのである。
 私は、不勉強にして(?)、そういった類の本は、一切手元に置いていないので、今詳しいことは言えないけれども、早く言えば、自分が痛くなければ、人の足を踏もうがそ知らぬ顔の無神経さ、自分のためならば、順番を待つ行列にも平気で割り込む図太さ、そういった、いわばざるのような目の荒い片輪な神経を以って、「強さ」と錯覚しているのではないか、と疑いたくなるような節も、決してないではない。
言うまでもないことだが、そんな隙間だらけの獣的な神経は、「強さ」でも何でもない。早く言えば、社会に甘ったれているのである。自分の「弱さ」を社会のせいにして、逆恨みの駄々を捏ねているのである。
本当の「強さ」とはまったく正反対の、ひねた鼻垂れ小僧と言うしかない。
 そして、今の社会は、この種の駄々っ子たちに不当に甘過ぎるような気がしてならない。今の時代は、何か「善」が小さくなって縮み込んでいるような気がする。「善」が小さくあっていいはずがない。私は、「長いものには巻かれろ」式の、ずるい“諦念”"は大嫌いである。



 
 「弱さ」は「悪」である

 ひねた社会の駄々っ子がはびこり、人を人を思わぬ無頼の徒たちを、「強さ」と讃美したり錯覚したりしがちな風潮は、1つには、「善良なる人」の側にも責任があると思う。
早くいえば、私たち「善良なる市民」1人1人が、もっと本当の「強さ」を身に付ける必要があると思うのである。不正に憤ることだけならば、簡単だ。
しかし、不正や悪に対して、単に憤ったり、憎んだりだけしていたのでは、不正や悪は追放できないのである。「人間の言葉」というものの通じない、人間の面をした獣には、本当の「人間の強さ」というものを、体で示して見せなければならない時もある。

 すなわち、「本当の強さ」とは何か、ということを、私たち1人1人が、もっとはっきりと自覚し、体覚して、「偽物の強さ」の仮面をはぎ取るだけの決心が、各人に要求されていると言える。
善良なる人ほど、強くあらねばならない。いや、「本当の善」を知り、「本当の善」に生きる人ならば、必ず強くあらざるを得ないのである。何故ならば、「善」と「強さ」とは、本来「1つの人格」の発現に他ならないからである。「長いものには巻かれろ」式の善は、本当の善ではない。もしも「この世は、善良な人ほど、小さく不満だらけに生きなければならない」という人があったとしたら、その人は、「本当の善」というものを知らないのである。「ニセモノの善」を、「善」と錯覚しているのである。

 「本当の善」とは何か? それは、万人の心の奥に宿る「絶対心」、すなわち「神」の御心そのものの、素直な発現に他ならない。もしも、「神」という言葉に抵抗を覚える人は、それはそれでよい。
ただ、私たち個々の肉体存在のその奥に、そのばらばらな存在形式を統べる、ただ1つの「大いなる生命」、ただ1つの「大いなる心」があり、そして、その「大いなる生命」を離れて、私たち「個々の生命」もなく、また、その「大いなる心」を離れて、私たち「個々の心」もあり得ないということを、しっかり再認識して頂きたい。
私たち個人個人の肉体存在という単なる形式に捉われた、個々ばらばらな、小さい「小・燦然我意識」のその奥に、無限の大きさで燦然と光り輝く「大我意識」、それこそ私たちの「本当の心」であって、その心以外の心はすべて「迷い」であり、何ら実在性はないのである。
そして、その「絶対心」は、何度も申し上げて来たように、ただ「生き生きと生きることを喜ぶ」以外のことは知らない。
 
 つまり、真なる、善なる、美なる、勇なる、愛なる、すべてのよき心、それのみがただ「絶対心」、すなわち、私たち万人に絶対に実在する心であって、その「絶対心」にとって、相対的不調和を覚えさせるような心は、いかに“ある”かのように見えても、それは何ら実在性はないのである。つまり、どこどこまでも、“ない”のである。
すなわち、私たちには、いかなる個人といえども、元々、「迷いの心」などというものは、本来あり得ないのである。
 
 ちようど、「光」と「闇」とは、なんら相対的存在ではなくて、ただ「光」のみが絶対実在で、「闇」とは、単に「光」が届いていないという消極的な状態に過ぎないのとまったく同じように、「迷いの心」とは、単に、私たち人間本来の「絶対心」がまだ完全に発現されていない状態というに過ぎないのである。
「光」の向くところ、一点の「闇」も寄り付けぬのとまったく同じ“原理”で、私たちが、この自己本来の「絶対心」を発現する時、そこに一切の「迷い」は照破されずにはいないのである。
恐怖、不安、悩み、などのぐらぐらと揺れる心は、あなたの本来の「絶対心(光)」の微妙な動きの下にできる、単なる「影絵」に過ぎないということを知らなければならない。





 「不動心」は今あなたの内にある!

 寸毫も揺がぬ心、それこそ、あなた本来の心、あたたの内に燦然と光り輝く「神の御心」そのものに他ならない。それ以外に、「不動の心」などは、どこを探しても見付けることはできない。あなたは、「不動心」を外から得るのではない。
あなたの内に、いま燦然と光り輝いている「あたた本来の心」を、ただ素直に発現するだけなのである。
「揺がぬ心が欲しい」という願いは、あなた本来の揺がぬ心の自己発現要求に他ならないということを知らなければならない。それを外から得ようとするから、あなたはますます迷うのだ。
「本当の不動心」と、いわば「ざるのような神経」との区別が付かなくなるのだ。
大体、「ざるのような神経」を得たいという想いは、それ自体、自己の内部に宿る自己本来の絶対心を押し殺そうとすること、いわぱ、「自然の法則」に強引に逆らおうとすることであるから、本来の不動心を得るよりも、どれだけ困難で苦痛を伴なうか、計り知れないのである。
そして、その結果がいかに惨めなことであるかは、私自身、古臭い一連の「虚無思想」にとり付かれた、荒れた一時期があったので、痛いはどよく知っている。私は、もう2度と、そんな隙間風にさらされるような心に戻ることは、願い下げである。結局、「ざる」は、ただ「ざる」であるだけである。
「虚無」は、「虚無」にしか過ぎない。
「動かざる心」とは、何に動かざる心か?
それは、偽なるもの、悪たるもの、醜なるものに寸毫も譲らぬ心ということである。そして、それは取りも直さず、真なるもの、善なるもの、美なるものに満たされた心のみに可能なことである。
 ただ光のみが、闇を照破し得る。
 ただ真のみが、偽の仮面を暴き得る。
 ただ善のみが、悪を駆逐し得る。
 ただ美のみが、醜をはねのけ得るのである。
そしてまた、ただ真のみが真を知り得、善のみが善に触れ得、美のみが美を感じ得るということである。
 真、善、美、とは何か?
 また、「神」とは?
 そして「生きる」とは?
 「人間」とは?
それは、あなた自身の内部に向かって問うしかなく、そして、それをどこまでも真剣に問い続ける時、否が応でも答を得ざるを得ないものたのだ。そして、その時に初めて、本物の「ものに動ぜぬ心」というものを、あなたははっきりと知るだろう。








 第4章

 「自信がない」という変な“自信”が曲者だ

 「自信」と「不安」は思考方向の紙一重の相違
 
 自分を信頼し、自分に安心して寄りかかって生きられる人は幸せである。しかし、そのように、自分に完全な信頼を置いて生活していける人が、一体どれほどいるだろうか? 多くの人々は、多少の差はあれ、必ず、自己に対して何らかの「不安」を持って生きているのが、むしろ普通である。
 そして、「生きる」ことに真剣な人ほど、人生について人一倍悩むのと同じように、誠実な人、向上心の旺盛な人ほど、わずかの失敗、ちょっとしたつまずきに捉われて、自信を喪失したり、くよくよと自分を責めたりしがちである。
 「自信」というものも、「ものに動ぜぬ心」などと同じように、決してそれは外部に求めて得られるものではない。すなわち、「自信を持とう、自身を持とう」としている間は、永遠に、本当の自信は得られることがない。
 私には、禅は、真似事程度の体験しかないため、その「悟り」の境地などというものは、知る由もないが、本当の「空」の境地とは、「自分はいま空だ」という意識ももちろんあってはいけないばかりか、まして、「空になろう」という意識がある限りは、それは、もはや既に「空」の境地とはほど遠いものだと言えよう。「空になろう」という意識は、「自分はいま空でない」という意識を、そのまま裏返しにしたものであるからである。
それとまったく同じことで、「自信を持とう、持ちたい」という想いは、「自分には自信がない」という“確固たる自信”(?)に発していることを知らなけれぱならない。
「自信」を持つことと、「不安」であることとは、あなたの心理の中の、ちょっとした傾きの方向の違いである。
「何々することに対して自信がない」
というのは、あなたが、その「何々をしたい」という欲求が、あなたのどこから来るのかということを、よく知らないからである。思春期の男女が互いに異性を意識し始めるのは、彼(または彼女)らの内部に、性能力が完成されつつあることの証拠であるのと同じように、私たちの内部に湧き上がって来た「何々をしたい」という欲求が、もしも「燃えるような願い」であるならば、必ず、私たちにはそれをする能力が立派に備えられているのである。


 
 「願望」という心理の正体

 つまり、早くいえば、肉体的能力、精神的能力を問わず、ある人に本来できないものは、その人の内部に、決して、「それをしたい」という欲求を持つことはあり得ないのである。犬がキャッチボールをしたいとは思わないのである。幼稚園の子供が、「本物の自動車を動かしてみたい」とか、「英語の百科辞典を買って」とは、決して言わないのである。女性が、ジャイアント馬場のような筋肉美を得たいと思うこともないのである。
 もし、あなたが男性で、どうしても自分の子供を自分のお腹から産みたいという「燃えるような願い」に明け暮れているとすれば、一度、精神科の精密検査を要するのである。成人した女性が、「子供を産みたい」という「願い」を抱くのは、彼女が完備せる当然の能力がそうさせるのである。
だから、もしあなたが、「俺は、仕事ではあいつには絶対に負けたくない。あいつに負けることは死ぬより辛い」
と、本当に思っているならば、「あいつに勝とう、勝とう」という、不自然な力みは、絶対に禁物である。
「あいつに負けることが、本当に、死ぬより辛い」のであるならば、あなたには、「あいつ」を凌ぐだけの能力が、立派に完備されているのである。要は、それをどこまでも信じ、自分に絶対の信頼を置くことだけである。
その時の、自信に満ちた、悠然たるあなたの態度は、ただでさえ「あいつ」を威圧せずにはおかないだろう。
 ただ1つ注意しなけれぱならないのは、それは、いわゆる、一時的な単なる「衡動」と、本当の「願い」とを混同するようなことがあっては大変だということである。(これだけは、くれぐれも、御注意申し上げておきたい。)
 くどいようだが、ただ言えることは、あなたが寝ても覚めても、「こうしたい」「ああなりたい」という、「燃えるような願い」に明け暮れているとしたら、すなわち、「そうできない」「そうなれない」ことに、「たまらない苦痛」を覚えるのであったならば、あなたには、そうでき、またそうなれるだけの能力が備わっているということである。
そして、それをどこまで信じられるかで、あなたのその持てる能力を、どれだけ発揮できるかが決まる。
「能力」を生かすか殺すかは、一にかかって、その「能力」に対する、自己の信頼度如何である。
あなたを、本当に生かせるのは、ただあなただけである。
また、あなたを殺せるのも、ただあなただけである。

 俗に「火事場の馬鹿力」とかいって、火事の最中に、夢中で運び出した箪笥などが、火事が収まって、いざ元の場所へ戻そうとすると、どうしても持ち上がらなかった、というような体験を、よく耳にする。
これなど、いかに私たちが、普段、その持てる潜在能カを自己制限しているか、ということの1つのいい実例である。
私たちには、普段ちょっとやそっとでは持ち上がらぬ箪笥のようなものでも、自己の能力を制限する邪念がなくなると、何なく運び出せるだけの力が、本来、内部に宿っているのである。
私たちの手足を動かしている力は、本来、この大宇宙を動かしている力と同一のものなのである。私たちの内部には、本来、「神」(無限力、無限の英知)が生きているのである。
 何事によらず、“超人的”と言われるような仕事を成し遂げた人物は、必ず、何らかの形で、この「自己を生かす無限力」と一体になり得た人々に違いない。
既存の常識的な人間観からは、結局、常識的な力、常識的な価値しか、生まれないのである。私たちは、過去の体験常識を超えて、もう一度、「神」というものを、各人の奥に、勇敢に、そして真剣に、探求する必要があると思うのである。それは、何よりも「あなた自身のため」でもあるし、また、同時に「世のため」でもあるのであるから。






 第5章
無神論者」は間違っていないか?

 自分を守る眼に見えないカ

 私は、物心ついた頃から、何事によらず、新しい物事にぶつかって行くのに、割合、物怖じしない方だった。それは、「神」というはっきりした概念までは行かなくとも、ともかく、自分は、自分だけは、「眼に見えぬ何ものかの大きな力」によって固く守られている、何故か、そんな気がして、常に、「俺だけは大丈夫だ」という自分に任せ切った態度でいられたようである。
ところが、やがて成長して、次第に世間というものをおぽろ気ながら知り始めた時、私は、その「何ものかの加護」を、今だ信じ続けている自分が、何か、1人だけ甘い幼稚な夢から未だ覚めやらぬ、というような、一種の「世間に対する気恥しさ」のようなものを覚え、それからは、無理して、その「何ものかの加護」から逃れようと努めるようにしたのである。

 つまり、手っ取り早く言えば、愚かにも(実に愚かにも)、「対岸の火事」を、無理して明日の我が身と思い込む訓練をした、といってもよいであろう。今から思えば、考えられないことをしたものである。



 誰にもある「まさか自分だけは…」という心理の意味するもの

 ところで、幼い当時の私には、その、不可視の何ものかの加護を身内に感じているのは、自分だけだというような気がしていたのであるが、その後になって、(当然のことではあるが)実は誰でも、多少の差はあれ、何らかの形で、そういうものを感じているということを知った。
私は実は、その感じ、そういう「直感」を、各自の胸中に常に大切に温めておきたいと強調したいのである。
新聞に総理大臣の写真が出ない日はあっても、交通事故のニュースが報ぜられない日はないという、今日のこの「交通戦慄時代」にあっても、私たちは、
「まさか、俺だけは」
「自分の家族に限っては‥‥」
という、漠然とした何ものかが心のどこかにあるからこそ、意気揚々とまではいかなくとも、ともかく、さしたる不安も感ずることなく、「街路戦場」に乗り込んで行けるのである。
確かに、「注意一秒、怪我一生」であって、用心するに越したことはない。しかし、あらゆるものにあまり神経質になり過ぎて、この、
「まさか自分だけは」
「うちの家族に限っては」
という、「不可視の加護力」に対する「直感」までも、1つ1つ疑ってかからなければならないようになると、この世は、かなり住みにくいものになるであろう。




 楽天的であることに“根拠”が必要か?
 
 確かに私たちは、多少の差はあれ、誰にも、この「不可視の加護力」に対する、理屈を超えた「直感(予感)」があるからこそ、こうして生きて行かれるのであって、もしも、こうした「直感」を1つ1つ疑ってかからなければ気が済まない、ということになった人がいたとしたら、かなり気の毒なことになると思う。「直感」などと言うと、いわゆる「知性派」と自認する人々たどからは、一笑に付されるかも知れない。
「"自分だけは絶対大丈夫だ"という、その"根拠"は一体どこにあるのだ」
と、彼らは言うであろう。
私は、そういう人たちに対しては、こう言ってやりたいと思う。
「あなたが今現に生きている、その“根拠”とやらは一体どこにあるのだ」と。
そして、さらにこうつけ加えよう。
「あなたは、自分の心臓、自分の肺臓、自分の胃腸を、自分で1つ1つ動かして生きているのか?」
と。
「それは自分の自律神経がやっているのだ」
と言う人もあるかも知れない。
では、
「その自律神経とは何か?」
また、
「そのあなたの自律神経を創ったのは、一体何者なのか?」
彼らは、おそらく、ここで答に窮するしかないのである。
みずから「科学的」たること、あるいは「知性派」たることを認ずるような人々は、さすがに、諸々の現象の奥に潜む「原因」の探求には旺盛な好奇心を惜しまない。しかし、肝心の私たち自身の存在、「生命の根源」については、恐ろしく"非科学的"な発言を平気で行なっていることには、自らは気が付かない。
「生命の起源は謎だ」
と言うのなら、未来は明るい。
しかし、
「生命に原因はない。それは、無原因に原因を発している」
というような、自分でも分っているのかどうかも分らぬ、何とも切れ味の悪い発言を平気でするに至っては、すべては“それまで”ということになる。



 
 「無」は「有」を生み得るか?

 「生命の原因は無原因である」、すなわち、無生命が生命を生んだ、というのである。とにかく「死の世界」が、気も遠くなるような極微の確率で生命を生んだ、というのである。いかに気も遠くなるような確率とはいえ、とにかく、「偶然」という、恐ろしく"非科学的"な形で、「死」が「生」を、「無」が「有」を生み得たというのである。
それは、川上から流れて来た桃を割ってみたら、中から赤ん坊が生まれて来た、というような生易しいことではない。とにかく、無限億年の彼方からずうっと眠り続けて来た岩が、ある日突然、真っ2つに割れて、中から「おぎゃー」という元気のよい産声が飛び出した、というのである。「気も遠くなるような確率」だと、死者が子供を産む可能性があるというのである。
 私は、ふと今この言葉を書き終って、思わず全身に鳥肌が立つようた寒気を覚えた。「死」が「生」を生む、これほど身の毛のよ立つような「思想」が、一体あるであろうか。
とにかく、「死の世界」とやらに、なんらかの形で「可能性」というものがどかーんと宿っているというのである。言い換えれば、「“死”は生きている」というのである。
そういう言葉を平然と発するその同じ口で、「幽霊を見た」という話を笑い飛ぼすという、唯物論無神論者とは、まことに奇っ怪な思想の持ち主というしかない。
しかし、そういう思想と、実際のいわゆる「幽霊」の存否ということとは、本質的にまったく別の問題である。



 
 「幽霊」の話はなぜあんなに怖いのか?
 
 私たちが、本能的に幽霊をこの上なく怖れるのは、「死の世界」とやらが、「生の世界」に何らかの働きかけをするなどという馬鹿なことが、絶対に有り得ないということを、心の中ではっきりと知っているからにほかならない。私たちの心に宿る「神」(宇宙の真理)が、それを、こんなにもはっきりと教えてくれているのである。
死者が生者に働きかける、「死の世界」というものが、「生の世界」に何らかの因縁をふっかける、それは、まさしく天地がひっくり返ることなのである。だから、「幽霊の存在」を理論的に実証するためには、どうしても、肉体死後の霊魂の存続を仮定する必要がある。
 すなわち、人間というものは、肉体は没しても、その霊魂は個性を持ち続けたまま、なお生き残り、肉体の死とは、「人間」(生命体)が、この3次元世界と交信可能な、別の次元の世界(すなわち、別の次元の「生の世界」)へ移り住むことにほかならない、とするならば、私たちにとって、もはや「幽霊」とは、別に怖いものでも何でもなく、“懐かしき"”人生の先輩。に過ぎない、ということになる。
 ところが、唯物論者とか、無神論者とか自他称される人々は、当然、死後の霊魂の存続などはあり得ない、だから、幽霊などは絶対にあり得ない、という。(「自分には分からない」とは決して言わぬ。)そして、さすがに、死後の霊魂は絶対に存在しないが、幽霊だけはあるかも知れない、というようなうかつなことは言わない。
 つまり、彼等自身、完全な「死の世界」が、「生の世界」に何らかの働きかけをするなどという馬鹿なことは、絶対に有り得ないということを、「直感」的にははっきりと知っているのである。にもかかわらず、自分たちだけは、完全な「死の世界」から生まれて来た、といっているのである。
「幽霊はない」というその口で、「自分たちは幽霊である」などと言っているような人々を、私たちは、あまりまともに信頼することはできないのである。




 
 「死神様」の正体見たり!

 あなたが、もしもいままで、いわゆる唯物論者、あるいは無神論者といわれる人々の1人であったとしたならば、いま一度ここで、「自分が生きている」という、どうにもならぬ現実を、よくよく謙虚に考えてみて頂きたいのである。
あなたは、決して、「死の世界」(無機物といい換えてもよい)が、「気も遠くなるような確率」で生んだカビかぼうふらから、「気も遠くなるような"偶然の継続"」で、今ここにあるのではないのである。
「死」は、決して「生」に相対して“ある”ものではないのだ。「死」とは「生」の単なる1つの"認識形態"に過ぎない。つまり「死」とは、「生」自身が生む1つの"観念"に過ぎない。
それを、「死」が「生」を生んだなどという、ひっくり返った“妄想”から、人類の全ての不幸はスタートしているのである。「無」から「有」が生まれるということはあり得ない。空っぽの瓶から、空っぽのグラスにウィスキーを注ぐことはできない。
ただ「有」のみが「有」を生み得る。「無」とは、単に「有」のない状態というに過ぎない。今、私の眼の前のグラスの中に、空っぽというものが“ある”のではなくて、それは単に、そこにウィスキーが入っていない状態ということである。もし、グラスの中に、既に空っぽというものが“ある”のだったならば、もはやそこにウィスキーを注ぐことはできないのである。
 もし、「死」というものが、「生」に相対して厳然と“ある”ものなのならば、何で私たちが人生の最後にそこへ入って行くことができるのだろう。「死」とは、あるべき「生」のない状態ということに過ぎない。ちょうど「光」が「影」を作るように、「死」とは「生」が作る“影絵”である。
「死」が「生」を支配するのではなくて、「生」こそが「死」を支配するのである。ちょうど「光」が「影」を支配するようにである。
「死」が「生」の支配のもとに任意であることは、誰よりも自殺者自身が一番よく知っていたはずであるが‥‥。もし、本当に「死」が「生」の“生みの親”であるとするならば、「死」こそが、積極的に「生」に働きかけずにはいないであろう。
 つまり、いやな言葉で言えば、生かしては殺し、また生かしては殺して、1人の人間の生涯を、生死の両世界を往ったり来たり、きりきり舞いさせずには置かないはずで、そうしたら、私たちはうっかり、一度死んだ人を手厚く葬ってやることもできないのである。
 ところが、私たち生を持つ者は、そんな、死神様の御機嫌次第になるようなタマではなく、一度死んだからには、それこそ、死んでも二度と立ち上がるような醜態は、絶対に見せないのである。私たちは、「死」に踊らされる存在ではないのである。
「死」こそが、ちょうど、光の加減に操られる影のように、「生」の隙間を、こそこそと踊る“影絵”なのである。
肉体が揺れる時、その影も揺れるように、私たちが、自分の生命の光源(神)というものを見ずに、「迷い」の心でその光源を遮る時、その足元を「死」の影法師がちらちらと踊るのである。
 私たちの肉体としての存在が、時間の上で有限であるのは、人類の進化のための“大自然の摂理”である。それは、永遠という時の流れの上に、無限価値(「神」の理念)を展開して行くための、最も合理的な(というよりは、必要欠くべからざる)手段であると言えよう。(ただし、「個」としての生命が永遠であるかどうかということは、ここでは問題にしてはいない。)



 
 「生命」のみが「生命」を生む

 「死」とは、その無限生命の自己展開形態の下にできる影である。空っぽのグラスは、ウィスキーを満たすための形態である。ウィスキーを注いでやるには、グラスという、中が空っぽの形態を必要とするのである。
もし、そのグラスの中に、ウィスキーと対立して存在する、空っぽという何物かがあらかじめ実在するならば、もはや、そこにウィスキーは注ぎ得ないのである。
「グラスが空っぽだ」ということは、そこに、「空っぽというものが“ある”」のではなくて、単に「ウィスキーが“ない”」という消極的な状態に他ならない。
「無」とは、あるベき「有」のない状態ということである。
「死」とは、あるベき「生」のない状態ということである。
「無」は、どこまで行っても、ただ「無」である。0が、例えどんなに「気の遠くなるほど」並んだとしても、そこに、「可能性」とか「確率」などというものは、絶対にあり得ないのである。
「生命に原因はない」そこまでは正しいのだ。誰でもそこまでは「直感」として知っているのだ。
 ところが、「直感」こそは生命の根源から来る"真理の言葉"であるということを知らぬ、あるいは、認めようとせぬ無知な人間は、「直感」などというと、せせら笑うのである。そして、自分では「純粋に、客観的に」推理したつもりで、実は、その"真理"を、暗い「迷い」の心で覆い隠すのだ。

 自己の内部に信頼を置けない弱い人間に限って、“主観”というものを一方的に軽蔑し、「科学的」とか「客観性」とか称して、外部の現象のみを有難がる。内部よりも外部、「心」よりも「物質」を先に立てるのである。「生」の前に「死」を立てて、深刻ぶった顔をして見せるのである。
 まず、自己の内部に誰でも持っている「生命に原因はない」という、どうにも動かし難い、「直感」を、本当に、「純粋に、客観的に」判断してみたかったならば、なぜ、自分が母親の胎内から生まれてきたという、素朴極まる、しかも、のっぴきならぬ“客観的事実”を、もう1度素直に考え直してみないのだろう。そこにはただ、「生命のみが生命を産み得る」という“真理”がどかーんと横たわっているではないか。「死の世界」が生命を生んだなどという、まるで「自分が見てきたような」たわ言の、一体どこに、真の「科学性」「客観性」があるというのだろう。





 あなたの内にいま眠っている「無限の可能性」!

 そう、ただ「生命」のみが「生命」を生み得るのである。そしてまた、「真理」のみがただ「真理」を解し得るのである。「真理」を解し得るのは、ただ私たち人間の「心」だけである。外部には決して「真理」はないのである。だから、「生命に原因はない」という"真理の言葉"の解釈は、それをただ外部にのみ求めても、決して得られることはないのである。それを、ただひたすら外部(現象)のみを追って行けば、生命の起源の果つるところ、結局は、「死の世界」とやらにぶつかる以外にないのである。それでもし、そのぶつかった「死の世界」とやらが、本当に私たち「生命」の生みの親である
 とするならば、私たちは、それより一歩も前へ進むことは、決してできないのである。何故ならば、生命を生み得た「死の世界」とは、当然、私たち「生命」よりも一層厳かに、この「生の世界」と厳然と相対して存在していなければならないからである。ところが、実際はどうだろう。私たち生命の持つ「推理」という働きは、お望みとあらば、その生命の起源以前の「死の世界」とやらを、どこまでも突き進んで行くことができるのである。
「死の世界」とは、“人間の幼さ”が生む1つの「観念」に過ぎない。「死の世界」が、生命以前にあったのではない。生命以前の「死の世界」とは、「生命」という光が、一瞬、"過去"という暗闇をさっと照らしてみるということに過ぎない。「生命」が、自らの存在しない状態というものを、"過去"という観念形態で一時的に持ってみることなのである。「生命以前」などというものは、本来あり得ないのである。生命に「過去」などというものは、本来“ない”のである。それが「生命に原因はない」ということの本当の息味である。生命それ自体が「原因」なのである。他の何ものかにその存在原因を負う、相対的存在ではないのである。生命それ自体「絶対存在」なのである。

 唯我独在、とにかくただここに在る、すべてのすべてを持った「絶対自我」が今ここにある、言葉で言えば、そういうしかないのである。その、すべてのすべてたる「絶対自我」の自己発現、自己展開が、この私たちの住む世界のすべてのすべてということである。その「絶対自我」の存在以前とか、自己展開以前などというものは、どこにもあり得ないのである。
 何故なら、この「絶対自我」こそ、すべての「原因」(出発点)であり、この大宇宙の創成以前とか、無限過去の「死の世界」とかも、とりもなおさず、ここから出発するのであるから。「過去」というのも、「未来」というのも、すべては、「現在」というこの一瞬からスタートしているという、ごく身近な真理に気が付いて欲しい。
 
 とにかく、その「絶対自我」こそ、私たちを含むすべての存在、すべての生命の根源であり、また、私たち自身なのである。 私たちの肉が、同じ肉を持った両親から分けて貰ったように、私たちの心は、「神の御心」をそのまま授けられているのである。そして、その「心」こそ、未来永劫、すべてのすべての根源であるのである。「生命」の以前に「死の世界」があったのではない、「無限の初め」たる"絶対自我"が、今ここにただあなたと共にある、そういうことなのである。 あなたの心は、今現在「無限の初め」「無限の可能性」とがっちり一体であるのである。
 ただ私は、今まで、一々このように、「無眼の初め」とか「無限の可能性」、あるいは「すべてのすべての原因」などという、回りくどい言い方の代わりに、「神」という言葉を使い、あなたの中に「神」が生きているということを強調して来たのである。




 「神」は何故あなたに“沈黙”しているか?

 「自分は何も、死の世界が生命を生んだなどと言ってはいない。ただ、もしも、本当に“神”が我々の生みの親であるとするならば、我々の逆境にただ"沈黙"している、そんな"神"などは信じられぬ」というのは、いうならば「寝言」に等しい。私たち人間には、「自由意志」(創造性)というものが与えられているのである。「神」は、私たち一人一人に、「神」自らがこの大宇宙を創成したのとまったく同じ、その「創造力」「創る喜び」を分け与えて下さっているのである。「創造性」こそ、人間の本性である。そして、「創造」とは、くどいようだが、「無」から「有」を生み出すことではなくて、「有」による「無」の征服のことをいう。ビルディングの「無」い空間に、ビルディングを「有」らしめ得るのは、初めにそのビルディングの原型が、がっちりと「有」った心の所有者のみに可能なのである。初めからビルディングの原型が「無」い心は、永久にビルデイングを「有」らしめることはない。まして、その心は、そのビルディングが「無」い状態に、不満を持つこともあり得ない。そして、私たちは、初めから「神」の手によって完全に作られたビルに安穏と住むよりも、自らの住むビルは、この自らの手でそれを作り上げることに、掛け替えのない喜びを見出すのである。

 私たち人間が、もしも、元々不幸な境遇に甘んじて生きるような存在として、この世に送られて来ているならば、私たちは、自らの不幸に、本来、不満を持つはずはないのである。本来、幸福を生み出せる資質(可能性)のまったく「無」い存在が、幸福の「有」る状態を望むはずはあり得ないのである。
 そして、私たち人間が、本来、ビルを建てる資質も、満ち足りた生活を自らの手で築き上げる自主性も持たぬ、単なる「神」の被造物たる犬猫たちと根本的に異なるところは、この大宇宙の森羅万象を創成した「神」の創造力そのままを、私たち各自に与えられているということである。私たちは、ただ大自然に与えられた環境に、満も不満もなく、刹那的にその日その日を送ることには、本質的に耐えられない存在なのである。
「神」の無限の創造力、無限の内容そのものを内部に宿している私たちは、この自らの手で、「無」の状態を「有」の状態に変え、“不幸”という、“幸福”の「無」の状態に、この自らの手で“幸福”を「有」らしめるところに、生き甲斐を持つように作られているのである。



 “不幸”を「神」が救ってくれぬ、のではない。
 
 「神」の絶対心、普遍心のひと筋が、あなたという一個の肉体存在を通して、今、そのあなたという肉体の眼の前にある、幸福の「無」という状態に、「神」の無限内容には既に「有」る幸福を、具体的に「有」らしめようとしているのである。
 あなたが、いま、自らの眼の前の不幸に不満を持つ、それは、あなたの中に本来宿る「無限幸福への可能性」が、そうさせるのである。
「神」の無限創造力が、今、あなたの肉眼の前の、不幸という「幸福の“無”の状態」を、「幸福の“有”の状態で征服せんとしていることに他ならないのである。
 そして、あなたという肉体を通してキャッチされた“不幸”は、ただあなたの肉体を通してしか、それを征服する方法はないのである。、そしてまた、その“不幸”を、“不幸”だとキャッチできるあなたは、幸いにして、それを克服するだけの力が、本来、あなたの内に宿っているということに他ならないのである。“不幸”を、「神」が救ってくれるも、救ってくれぬもない。あなたにとっての「神」は、ただ、あなたの肉体を通してしか、発現する術はないのである。
 天上遥かにまします「神」を、ただ天上に仰いでいても、「神」は、どうしてやることもできない。昼間から雨戸を閉ざして、「太陽よ、我が身に照れ」と念じても虚しいように、まず、“心の扉”を「神」に向かって全開することが必要なのだ。そして、文字通り、全智全能自由自在身たる「神」は、あなたが、「神よ、我が身を通して、その御力を発現し給え」と念じた瞬間から、即刻、雲の上から天降って、あなたを通して、その「無限力」を発揮し給うのである。



 「見えるもの」だけが「実在」だろうか?

 私の悪い饒舌癖で、なかなか、本稿のテーマに入れないが、それというのも、あなたの内に「神」を生かして頂きたい、という私の切なる願いの前に、今まで、あまりにも軽々しく弄ばれてきた“常識としての神”が、重々しく立ち塞がるからである。そこで、ついでにもう1つ。「神は見えぬから信じられぬ」という、ごく"常識的"な反論に対して一言。
「見えぬものは信じられぬ」という人。
「見えぬものは実在しない」という人。
その人が、そういう言葉を発する時、それは、その人の一体どこから出るのだろう。言うまでもなく、その人の「心」がそう言うのだ。
「心」という「見えぬもの」が、そう言うのだ。

「彼女が、じっと私の眼を見る」
という時、彼女は、ただあなたの肉の眼、レンズとしての瞳を見るだけなのだろうか? その肉の眼、レンズとしての瞳の奥にある、あなたの「心」、それこそが、彼女の欲するものではないのだろうか?
また、その「じっと私の眼を見る」彼女の瞳を、あなたは、ただあなたのその肉の眼、レンズとしての瞳で認識するのだろうか? あなたのその肉の眼、レンズとしての瞳の奥にあるあなたの「心」が、彼女の瞳の奥の何ものかを、感受するのではないだろうか? 2台のカメラのレンズを、互いに向かい合わせた時、その時、その2個のレンズの間に、何ものかが、取り交わされているであろうか? 私たちが、互いに手を握り合う時、それは、単なる2つの肉塊の接触に過ぎないのだろうか? 死者同士の握手に、そこに、何ものかが交流されているのであろうか? 私たちが、互いに相手を見交わす時、互いに手を握り合う時、互いに言葉を交わし合う時、それは、「心」と「心」という、見えぬもの同土の見えぬ接触に他ならないのである。
彼女が私ににこっと笑いかける時、私はそこに、彼女の肉の内側にある、彼女の「心の笑み」を感受するのである。彼女は、肉の笑みを通して、「心の笑み」を表現するのである。そして、私も、彼女の肉の笑みではなくて、「心の笑み」を欲するのである。なぜなら、肉ではなくて、「心」こそ彼女の本体であることを、私は知っているからである。「心」こそ人間の本体、「心」こそ"いのちの本体”である。
「心」という、見えぬものこそ、本当の実在なのである。絶対実在なのである。




 あなたの熟睡中に起こる出来事
 
 肉眼で見えるもの、心の外部にあるという客観的事象というものは、何ら「絶対実在」ではあり得ないのである。その分りやすい例が、例えば、あなたが熟睡している時のことを、ちょっと考えてみよう。
 あなたが熟睡している時、つまり、あなたの意識(心)が、あなたのボディを離れている時、そこには、あなた自身の存在は元より、この全世界、全宇宙が存在しないのである。つまり、あなたの心が“ない”時には、何ものも“ない”のである。そのあなたの熟睡する肉体を、そこに“ある”と認めるのは、ふと真夜中に眼を覚ました、あなたの奥さんの意識ある心である。自分が熟睡している間でも、そんなことには関わりなく、この客観世界はなお「確固として実在する」と、断言ができるのは、他ならぬ、あなたの覚醒している意識、すなわち、あなたの「確固として実在する心」である。夢は覚めてみて初めて夢だったと分かるように、あなたは、眠りから覚めて、初めて、自分は今まで眠っていたのだと知るのである。眠りながら、自分の眠りを意識する、というのは、本当の眠りではない。ただ意識のみが自らの意識を、ただ心のみが自らの心を、認識し得るのである。
 そして、私たちには、いわゆる「無意識」という観念は理解できても、「絶対意識」という言葉は理解できない。すなわち、意識(または認識)という働きは、本質的に相対性の上に成り立つということが分かる。つまり、意識(認識)という行為は、意識(認識)する主体と、意識(認識)される客体との、相互間の働き合いということになる。
「無意識」を意識するのは、「無意識」状態にある当人ではない。ちょうど、眠れるあなたを認識するのは、眼覚めた奥さんだけであるように、「無意識」状態の人を認識するのは、意識状態にある人のみに可能なことである。




 「無意識状態」の肉体に働きかける別の「意識」
 
 眠りも無意識も、それは「死」ではない。眠れる人も、失神状態の人も、その肉の裏では、心臓が静かに脈打っている。ということは、彼らの心臓を動かしているものは、彼らの肉体意識ではない、ということになる。つまり、彼らの肉体意識が不在の間にも、なお、彼らの生命体の機能を司る「何ものかの意識」が厳然として働いているということである。では、その無意織状態の肉体に働きかける「意識」とか何者か? それこそ、私たち万人の生命の根源、生命の主体、意識の主体、すなわち「神」である。私たちが、
「これは俺の意識だ」
とか、
「これは私の肉体だ」
と意識するのは、私たち万人に共通の「意識の主体」(すなわち「神」「普遍意識」)が、私なら私という肉体を1つの客体として、その客体を「自己」とし、「私」として認識するということに他ならない。私たちが「客観的事象」と称して、外界に共通の世界を認識し得るということは、私たち個々の肉体に、その肉体の相対性(ばらばらな存在状態)を超越した、共通普遍の「ただ1つの意識主体」が働いている、ということに他ならないのである。
 もしも、私たち個人個人の心というものが、一部の唯物論者達の言うように、単に、肉体頭脳という一種の「精密機械」の自己操作に過ぎないとするならば、早い話が、飢えた人には靴がパンに見え、守銭奴には石ころ道が金貨の山に見えなけれぱならないのである。私たち、他の「機械」には、それを「幻覚」と決めつける資格や根拠は、どこにもないのである。殺人現場を写した1枚のネガが、法廷で動かぬ証拠となり得るのは、それは、「健全な意識主体」を持った複数の人間が、そこに、同一の黒白陰影を見るからである。そしてさらに、現場に残された指紋を突き出された時、犯人がぐうの音も出なくなるのは、「同じ指紋を持った肉体が、この世に2つと存在しない」ということが、彼(犯人)とまったく違った指紋を持つ裁判官の心にも、厳然たる真理であることを、彼(犯人)は知っているからである。
 もしも、「心」というものが、単に肉体頭脳という「精密機械」の営みに過ぎないのであるならば、まさに、指紋の異なる2人の人間が同一の「頭脳装置」を持つはずがない、という明確さにおいて、2人の人間が1枚の写真に同じ映像を見るということは、永遠にあり得ないのである。これは、あまりにも解かり切ったことである。

「天にひとつの陽(ひ)があるように この世に道理がなくてはならぬ」
という文句の歌謡曲がある。こういう歌を、ただ「低俗だ」とかと一方的に決め付ける前に、この世がどうにか「修羅場」と化さないで、何とか保っていられるのは、私たち個々の「心」と「心」とを繋ぐ、眼に見えぬただ1つの「大いなる意志」が、天に燦然と輝いているからに他ならないということに気が付いて欲しい。