モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

 『4次元宇宙の謎』② ーこの宇宙はリアルな幻

 物体とその特性
 
 我々は日常よく、次のような言い方をする。「この金貨は丸くて黄色で、ひどく重い」「昨夜はとても暗くて寒かった」「この肉はひどい臭いがする」「この緑色のシャツは絹のようにしなやかだ」等々。ほとんど習慣的にそんなことを言う時、いつでも我々は、万人に認められた事実を喋っているに過ぎないということを前提にしている。
 
 残念ながら、この仮定は事実からほど遠く、それを支持する証拠もない。現実には、我々が物体や事物に知覚する“特徴”は、ほとんどがただ知覚器官の生み出した産物以上のものではない。 実際、我々が物質世界の物体や事物に与えている“特徴”は、観察者である我々の存在なしにはありえないものだ。我々が物体や事物に見い出す特徴は、全て知覚器官を通して知覚されるのだから、それも当然なのである。
 
 我々は氷に覆われた極地方から熱帯に繁茂する植物まで、夢の様な自然の美しさに慣れている。そして物質世界のあらゆるものに知覚される特徴は、誰もいない時でも、そこに存在しているものと思い込んでいる。これは妄想に過ぎない。実際には、顕微鏡を必要とする単細胞のアメーバから巨大な氷山に至るまで、何ものであれ、それが存在しているか、何かの特徴を持っているかどうかは、ものを考える観察者の存在がなくてははっきり知ることが出来ない。
 話をはっきりさせるため、田舎道を歩いていて無作為に石ころを1つ拾い上げたとしよう。我々はその石ころを調べ、それが丸くつるりとして重く、焦げ茶色なのを知る。ほのかに新鮮な、湿った土の匂いがする。以上はその石ころが我々にどう見えるかということである。本当に丸く茶色で、つるりとして重く、ほのかに湿った土の匂いがするかどうか、確かなことは分からない。我々がそれらの特徴を認めるのは、その石が我々の知覚器官にそのような効果を与えたからに他ならない。

 奇妙に聞こえるかも知れないが、物質世界の物体や事物が本当に固有の色や形、密度、匂いなどを持っているかどうか、我々には分からない。それを確認する確実な方法がないからだ。 我々の物質世界についての知識は、全て知覚器官に依存しているが、それはよく我々を欺く。しかも、我々が物質世界の物体や事物に与えている“特徴”は、それを知覚するのに使う知覚器官の特性と限界に左右される。我々とは異なる知覚器官を持つ別の惑星からの訪問者にはきっと何もかも違ったように見えることだろう。




 
 存在と知覚の哲学−全ては幻想に過ぎない
 
 疑いもなく、バークレー(バークリー)主教は偉大な哲学者だった。どれほど偉大だったかと言えば、カリフォルニア州バークレーの地名は彼の名に因んで付けられた程だ。しかし、彼が我々にとって特に重要なのは、この世界には何1つ現実はなく、一切は幻想に過ぎないと述べているからである。本当に、バークレーはそんなことを言ったのか? まあ、正確にそう言ったわけではないが、それにかなり近い線まで言ったのは確かだ。偉大な哲学者の中で、一際ユニークな存在と言ってもよい。その上、バークレーの哲学はその性格上、極めて反論しにくいものとなっている。
 
「存在とは知覚されること」これはバークレーの最も重要な主張である。別の言い方をすれぱ、知覚された物体が存在するのは、それが知覚されたということのためというのだ。簡単に言えぱ、色とは我々の目に見えるもののことであり、音とは耳に聞こえるもの、形とは見たり触れたりできるもの。動きとは『空間』内の位置の変化として目や感触で捉えられるものという意味である。だから、そのような特性が精神によって知覚される以前から単独で存在していたと考えるのは、初歩的な論理の誤りとする。
 バークレーの論理によれぱ、物質的という言葉は、常に知覚的ということと同義である。言い換えれば、物質的な世界について知ろうとすれば、常に知覚器官に頼らざるをえず、そうして分かったことしか我々は知りえない。例えぱ、岩はただ形や抵抗、色などでしかない。つまり物質世界全体は、意識の対象物の集合、観念の体系としてしか存在しないことになる。
 
 このように、「存在とは知覚されること」という言葉は論理的分析の結果であり、我々の感覚が知覚するものは、全て精神によって左右されることを意味している。そこまでは何の問題もない。だが次に、我々が知覚する対象物はどんな精神によって左右されるかと考える時、バークレーは論理を離れて便宜主義に陥る。彼の示した答は、字宙精神(Cosmic Mind)、言い換えれば『神』だったのである。
 
 物質や物質的な世界に関するバークレーの見解は、一風変わっていて、『4次元』について考察を進める上でも、特に重要である。後の章で見るように、我々は知覚器官を通して、物質世界の物体や事象を認識する。このことは基本的真理だが、案外理解されていないのは、もう1つ重要な要素がなければ、我々にはものを知覚することができないということだ。その要素とは『時間』である。『時間』がなければ、ものは存在しない。万物は存在するために『時間』を必要とし『時間』の中でだけ存在するのだ。しかしまた、それを知覚する構神がなければ、何1つ存在できないのも確かだ。分析を突き詰めると結局、現実はものを考える観察者−すなわち我々自身の存在に大きく依存することになる。その点で、バークレーは正しかったのである。




 「認識と第6感」
 
 知覚についての疑問
 
 我々は、初めて生きていることを意識した時から、つまり幼児の時期から、自分が2つの明白な事実に直面していることを知っている。まず第1は、我々が生きている世界の存在すなわち、外部の物質世界だ。第2は、我々自身の存在、物質的な肉体と精神的な生命を持ち、周りの外部世界からまったく独立したものとしての存在である。我々はまもなく、自分の親や兄弟、姉妹、友達も敵も、自分以外の人間はみんな、それに動物や木や草や虫なども、外の世界に属していることを学ぶ。我々は自分の肉体の中に完全に隔離されて、誕生から死までの人生を送らなくてはならないということを知る。やがて、我々は体験によって、自分以外の人間に起きる出来事とは、それがどんなに身近で大切な人であっても、何となく遠く隔ったことだが、自分に起きたことはそれとは大違いで、直接我が身に関わりがあることを知る。
 
 我々が外の世界について学び、知識を得るやり方は、ちょっと見ほど単純明快にはいかない。実を言えば、プラトンアリストテレスの時代以来、大勢の偉大な哲学者達がこの問題を考えてきたが、今だにはっきりした結論は出ていないのだ。それどころか哲学者達は、我々が知覚器官を通して得た外部の物質世界についての知識が、どれだけ信頼できるものかということさえ確信できずにいる。

 



 
 プラトンの4次元観
 
 紀元前4世紀のブラトンは、認識の本質を追求し、その問題点を論じた最初の人間ではないが、この問題を特に大きく取り上げた点では、彼が初めてである。プラトンの手法は、まず彼が事実を考えたこと、すなわち認識は可能であるという点から出発し、現実で安定していて変化しないものは何か、と疑問を投げる。何故なら、あるものがこうだということを認識したと主張しても、そう言っている内にか、その後で、そのものが変化してしまったら、我々の主張は妥当性を欠くことになるからだ。
 
 次の段階でプラトンは、何かが現実で安定していて変化しないと見なすには、どのような条件が必要かと考えた。すぐに思いつく自然な答は、物質世界の事物や物体はその要件を全て満たすというものだが、プラトンはきっぱり否定した。我々がこの世界を実在するというのは、それによって生じる問題を考えてみないからだ、とプラトンは指摘する。知覚される世界の最も際立った特徴は、変化を受けやすいところにある。あらゆる有形物は、絶えず生成と消滅のプロセスを繰り返しているのだ。さらに有形物が多様な形をとることも、現実であることを否定するように見える。同時に相反する特性を持つように見えることも、そうだ。例えば、ある状況である人に美しいとか大きいとか見えたものも、別の人が別の状況で見れば、醜く小さいと思われるかも知れない。このように、我々が感覚経験で知った世界は、認識に必要な条件を満たすことができないのが明らかになる。
 
 さらに、数学や幾何や倫理に見られるように、我々の概念の少なくとも一部分は、感覚経験によっては得られない。我々は完全な直線や完全な円を実際に見たことはないが、それでもその概念を幾何に利用している。美徳や勇気について考えることはできるが、実際に出会うのはせいぜいその不完全な実例である。
 
 このように物質世界が一貫性を欠き、不備だらけなのを見て、プラトンは、知性によってしか到達できない別の世界があるに違いない、という結論に達した。それは物質世界の持つ不完全さや矛盾、変わり易さなどが存在しない世界である。プラトンはこの上位の世界を、形相、あるいはイデアの世界と呼んだ。それが存在するという点では、プラトンは正しかった。その世界は常に存在していた。これこそ、高次の4次元世界なのだ。

 

 アリストテレスの認識論

 アリストテレスはブラトンの弟子で、長い間その影響を受け続けた。単に偶然的なだけでない科学的な認識が必要であるとする点では、プラトンに同意した。だが、そのために形相の存在が必要だというプラトンの見解は、否定している。アリストテレスの考えでは、形相(形式)と質料(内容)は知性で区別することはできるが、分割できるものではなく、現実にはどちらかその一方だけでは存在できない。例えば、赤鉛筆の形相ないしイデアは、どこかの時点で現実の赤鉛筆がなければ存在しえない。我々は1本の赤鉛筆を見て、初めて赤鉛筆一般について語ることができる。言い換えれば、形相は何か実体のある物体と結び付いていない限り、何の意味も持たない。それには内容が必要なのである。

 感覚器官による知覚についてのアリストテレスの考えは、大筋ではプラトンと同じだが、細かな点ではかなり相違がある。アリストテレスは、知覚はただ与えられたものを受動的に受け取ることではなく、識別の作用だと強調した。彼の考えでは、魂そのものが知覚された物体の形式をとる。言い換えれば、それに関わった感覚器官がその物体に同化するわけだ。例えば、赤い物を見ると、その過程で目は赤くなる。他の器官も同じような作用を示す。すなわち、厳密に言えば、轟音を上げて流れ落ちる滝も、その場に人間が居て聞かない限り、音を立てないことになる。