モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』①


 ラモン・バルデス・ジュニア著の『4次元宇宙の謎』(S56年刊)ですが、わが国に於ける超常現象研究の第一人者である南山宏氏の訳も素晴らしく、とても面白い内容です。ラモン・バルデス・ジュニア氏並びに南山宏氏に感謝の意を捧げ、本書をご紹介したいと思います。
 まずは、南山氏による本書の後書きから、内容と著者の人となりをご紹介したいと思います。
 
「本書『4次元宇宙の謎』の著者ラモン・バルデス・ジュニアは、いわゆる“4次元”の真の性質について、現代ではとんでもない誤解と幻想がはびこり過ぎているとし、その原因が5感による知覚だけしか信じない現代人の偏狭な物質世界観にあると見る。「実のところ“4次元”には神秘なところも超自然的なところもない。それは“時間・空間"に元々具わった特性であり、ちゃんとした自然法則に従って成り立っている別の形の物質世界なのだが、ただ人間の限られた5感と誤った時空認識のために、実在すると思われていないだけなのだ‥‥」これが彼の基本的主張である。
 一見難しそうな“4次元”論議だが、バルデスはそれを歴史上伝説上の異常な人物の面白いエピソード、日常生活でよく起こる超常的体験、人間全てにある潜在意識の不思議な働きなどを豊富に引例しながら説明していく。そのまたがる範囲は、物理学、心理学、哲学から、神秘主義、心霊現象を含めた超常現象研究に迄及ぶが、彼はそのどれにも偏らず、あくまでも明快、平明な論理をクールに展開して、我々が日頃少しも疑うことのない現実と物質世界に対する考え方を打ち砕いてくれるのだ。
著者の経歴を見ると、科学者ではなく、電波通信関係のエンジニアらしいが、却ってそのおかげで、従来の伝統的な科学観に捉われぬ、このような自由で大胆でしかも論理的な発想が可能になったのだろう。その職歴も変化に富んでいる。

 1910年に中米のパナマで生まれ、ペルギー、バナマ、アメリカで地形学、建築設計、ラジオ、エレクトロニクスを修めた後、外交界入りし、バナマ副領事としてニューヨークヘ赴任、10年間勤め上げた。駐ドミニカ公使を経て本国に戻ると、今度は通信エレクトロニクス業界にも進出、バナマ政府の電波通信長官に任命され、12年間その地位にあった。」







 ラモン・バルデス・ジュニア著 『4次元宇宙の謎』
 
 前書き

 純粋に抽象的で超常的な問題が、人々に顧みられなかった時代は、そう遠い昔のことではない。実際的な知識と効率だけが重視される世界では、そんな問題には少しも重要性がなかったからである。だが、時代は移り、それとともに人々の精神的姿勢も変わってきた。とりわけ以前は誰の関心も惹かなかった多くのことに対して、そうなのである。恐らくこれは、物質世界がみるみる変貌して、コントロールが利かなくなり、どんどん悪化する一方のように見えることに我々が次第に不安と警戒心を強めてきたからだろう。
 残念なことに、この種の研究はそう容易いものではない。大半の心霊、超常現象は実のところ、高次の4次元世界がほんのちょっぴり現れたものに過ぎず、そのため、従来の実験的方法では調査が難しいのだ。近年、『4次元』は映画、テレピ、SF、さらにはコミックでさえ、人気のあるテーマとなった。「時間内の転位によって」とか「時の壁を破って」とか「未知の次元ではあらゆることが可能だ」とかいう表現が、一夜明けたらありふれたものになってしまった。それがいけないというのではないが、ただ遺憾なのは、『4次元』というものが時折いい加減に扱われており、これでは必ず人々の誤解と混乱を招くに違いない。私は『4次元』研究の権威であると主張するつもりはない。率直に言わせてもらえぱ、『4次元』研究には権威者などいないのだ。理由は簡単で、『4次元』は現在もなお、掴まえどころのない深遠な謎だからである。たまたま私が『4次元』について他人より知識があるのは、ただ生涯の多くの歳月をこの魅力的な問題の研究に捧げてきたからに過ぎない。
 本書は、ハワード・ヒントン、J・W・ダン、クロード・ブラグドン、P・D・ウスペンスキーといった学者たちの初期の研究書の延長線上に来る、もう1冊の『4次元』研究書と言うつもりはない。私の目的は、『物質』と『時間』と『空間』の真の性質と、この3者の間に存在する密接な関係を理解するのに必要な基本知識を、最も分かりやすく、面白い形で読者に提供することにある。私は『4次元』の存在を証明するつもりはないが、読者はきっと本書を通して、物質世界に起こるあらゆる現象のなかに、『4次元』が顔を覗かせていることを、自ら発見するだろう。それには我々自身の生命も関係しているのだ。言いかえれぱ、『4次元』はどこにでも存在しているのである。
                           
                                                                                     ラモン・バルデス・ジュニア




         誰にも死というものはない、
         それはただ見かけだけ。
         誰にも誕生というものすらない、
         それはただそう見えるだけ。
         在ることから成ることへの変化、
         それが誕生に見え、
         成ることから在ることへの変化、
         それが死に見える。
         だが、本当のところ誰も生まれず、
         誰も決して死にはしないのだ。
            
             −ティアナのアポロニウス



 滅びゆく肉体と不滅の超越的精神

 我々は自分の肉体を、真の心霊的自我から分離された別個の存在と考えがちである。特に病気であったり何らかの理由で不具な状態に置かれている時など、自分の肉体を酷く疎ましく思い、生まれた時からずっと自分を“縛りつけて”きた余計な邪魔物と見做しがちである。そう考えるのは自然で、理解できることだ。真の心霊的自我に比ぺて、肉体は物質的なもの全てに付きまとう不備や欠陥だらけである。一層悪いことに、肉体に対するコントロールには限度があることを、我々はよく知っている。
 我々が若くて強健で美しい時に感じる肉体への賛美も、長くは続かず、普通若さの終わりとともに消える。その頃には、我々の肉体が夢に見ていたような不滅の半神半人ではないことも分かってくる。この世で最も逞しく、得意の絶頂にある人間でさえ、5セントの弾丸1個、場違いな場所にあったバナナの皮1枚で、あえなく命を落とすことになりかねないのだ。
 
 だが、我々が自分の肉体で一番もどかしく感じるのは、そのはかなさと、いとも愚かな形であらゆる種類の事故や病気の餌食になることだろう。長く生きれぱ生きるほど、それが身に沁みて判ってくる。何故なら、真の心霊的自我は歳月とともに知識や経験や一般的な分別を蓄えて行くのに、肉体は衰えて行くぱかりだからである。運よく60歳、70歳になる頃には、肉体はかつて存在した自己の滑稽な戯画に過ぎなくなっている。このようなことは隠しようもなく歴然たる事実だから、1人前の人間なら誰でも承知しているはずだだが、そこから何か結論めいたものが引き出せるとしたら、一体どんなことだろうか?
 確かに、我々は貴重な結論を引き出すことができる。中でも重要なのは、人間は恐らく太古の昔から誰の手も借りずに、真の心霊的自我と自分の肉体を別個の2つの実在として区別することを学んだということである。誰にも2重の人格かあるというこの本能的な認識からやがて発展したのは、死を免れない物質的肉体から分離した、超越的な精神ないし魂、霊が各人の中に存在するという概念を含むあらゆる哲学と宗教的教義である。




 心霊的人格は高次の4次元実在物
 
 我々の肉体はその物質的性質ゆえに、物質世界の一部であり、肉体はそこに属し、そこに帰らなくてはならない。「土より出しものは土へ」という古い言葉は、死者を送る決まり文句というだけではない。それこそ真理なのだ。
 一方、真の心霊的自我は上位の実在物として、高次の4次元世界に属する。そのために、肉体には許されない能力を与えられている。しかし、肉体が滅びるまで生涯付き合っていく間は、真の心霊的自我も物質的なものに共通する制約の大半に従わなくてはならない‥‥少なくともある程度までは。既に見たように、真の心霊的自我はしぱしぱ物質世界の法則を破って、思いがけない形で姿を見せるからだ。それが超常現象と呼ぱれる。
 精神、魂、霊という言葉については、混乱を避けるために少しはっきりさせておかねばなるまい。精神−精神という言葉は、脳に発生し、また脳に関連する意識と無意識のプロセス全体を含んでいると考えられ、特に認識、知能、知性などに関わるプロセスを意味する。
 
 魂−魂という言葉は、人間の理性、感情、意志の力を持ちながら、肉体からは区別され、時には独立に存在できるものと定義付けられている。霊−霊という言葉は、人間の中の非物質的な目に見えない部分で、知性や人格、自意識、意志などを特徴とすると思われる実在物を意味している。
 このような定義からも分かるとおり、精神、魂、霊という言葉には、明確な区別はない。というより、どれも同じもの−物質的な肉体と区別された人間の心霊的ないしは精神的部分を意味すると考えていいだろう。しかし、魂という言葉は特に宗教的信仰に、霊という言葉は特に精霊、幽霊、霊現などに、精神は特に脳に関連して使われることが多い。真の心霊的自我という言葉も曖昧で誤解を招きやすいので、ここでは一番適切な用語として、真の心霊的人格を使用することにしたい。無論、そこには我々の考える超越的な実在物が、高次の4次元実在物でもあるという意味も含まれている。



 
 4次元世界と超常現象
 
 肉体と区別され、それを超越した心霊的な実在物があるという考え方は大変古く、人類の本能的なものだ。それはまた、我々にとっても大変重要である。というのも、我々の物質世界とよく似ているが、それを超越した高次の4次元世界という概念は、人間1人1人にその世界に住める心霊的実在物が潜んでいる、という仮定の上に成り立っているからだ。人間の中に高次の実在物がなけれぱ、この高次の4次元世界が存在することを正当化しても何にもならない。肉体だけでは、その世界に存在することは金輪際できないのだから。一旦この前提を受け容れれぱ、あらゆる形の超常現象はこの高次の4次元世界が偶然に姿を現わしたもので、我々の中の高次の心霊的実在物にだけ知覚できるという仮説も、一層よく理解できるようになる。
 その意味で、多くの古代宗教や原始信仰で、人間より未熟で程度が低いとはいえ動物や植物にも独自の魂があると信じられていたのは、興味深い。我々の見る限り、その仮説を否定する根拠は全くない。むしろ、動植物にも何らかの形で高次の心霊的実在物がなけれぱ、高次の4次元世界には存在できないだろう。実際、多くの動物が時には人間よりも優れた心霊的感覚を持っているという考えには、ちゃんとした裏付けがあるように思える。犬や猫や馬などの動物が、人間が気が付くより早く、幽霊や霊現などの心霊現象を感じ取っていたという話は、誰でもよく知っている。
 



 滅びゆく肉体

 より高い実在である真の心霊的人格は、高次の4次元世界に近い。そこで、一時的にそれを宿す肉体とそれとの違いや関係を知ることが大切である。この両者には大きな違いがある。真の心霊的人格は実体がなく、非物質的で、5感には捉えられない。そのため、肉体の脆さに影響されず、『時間』の経過から自由でいられる。実際、真の心霊的人格は『時間』の経過とともに知識や分別を獲得するが、肉体は損なわれて行くだけである。我々はこの事実に気付かず、その人間の全てを肉体的外観で判断したりすることも多い。
 生まれ付き賢明で、全ての答を知っている人間はいない。例えプラトンの時代から若い者は兎角そう考えない傾向があるにしてもだ。どんなに愚かで無知な人間でも、生きているだけで何かを学び、20歳の時よりは30歳、30歳の時よりは40歳の方が賢くなっている。それほど経験の代用になるものはない。老年に達した人間がよく皮肉っぼく見えるのは、長い人生の間にあらゆることの無益さを知ってしまったためなのだ。
 肉体の状態はその人の行動に大きな影響を及ぼすというのが、一般の通念である。大抵の場合これは正しい。というのも、心霊的人格と肉体は密接に関わっており、当人が生きている限り、お互いに依存し合っているからだ。しかし、肉体が全てではなく、やはりいつでも真の心霊的人格が主人なのである。誰もが日常の生活で知っていることだが、愚かで凡痛な人々−時には人生の落伍者が、強靭な肉体を持ち、反対にか弱く脆い肉体に拘わらず、賢明で野心に溢れた人々が人生に成功する。歴史はそんな実例で満ち満ちている。

 我々には2世紀でも3世紀でも壮健に生きる資格があると思うのに、なぜ肉体はこれほど早く老いさらぱえてしまうのかと、疑問に思うことは多い。勿論、それにはちゃんとした理由があるに違いない。なぜなら、我々が本来属しており、戻っていくはずの高次の世界では、何1つ偶然に任されたりはしないのだから。
 しかし、我々が物質世界を通過するのはほんの一時であり、いかに恵まれた人にとっても人生は決していつも安楽ではないことを思えば、なぜもっと上等な肉体や永遠の若さを与えられなかったのか、理解できるような気がしてくる。実際のところ、我々が70歳に達するまでには、時にはもっと早くから、自分の肉体や人生全般にすっかりうんざりして、何の未練もなくこの世を後にする用意が整っているものだ。
 とはいえ、我々の肉体は多くの弱点があるとはいうものの、これまで創り出された中では最も完璧な機械装置なのである。極めて不利な条件下で機能する効率の良さと能力の点では、どんなものもその足元にも及ばない。ただし、実際にものを考え、指令を出すのはあくまで真の心霊的人格であることを、忘れてはならない。この高次の実在がなかったら、人間も地球上に溢れる他の生物と少しも変わらぬ、ただの生き物になるだろう。
 


 脳−肉体の中央制御盤とコンピューター

 多くの学説に反することになるが、個人の人格は脳にあるのではない。脳はただ、知覚器官から供給される全ての情報を受け取り、蓄え、分析する機能を持った肉体的器官に過ぎない。言い換えれば、脳は肉体の中央制御盤とコンピューターに過ぎないのだ。実際の“プログラミング”と思考と指令を司る真の心霊的人格かなければ、何の役にも立たない。だが、真の心霊的人格も生まれながらにして教養を持ち、あらゆる答を知っているわけではない。肉体と繋がりを持っている間に、知識を学ぴ、獲得する能力があるだけなのである。言う迄もなく、心霊的人格には2つと同じものはない。どれも同じ高次の秩序に属するが、だからと言って、皆が皆、同じ知的能力、同じ感情や情緒、同じ道徳的強さ、同じ善悪の性向を持ち合わせているわけではない。どの時代をとっても世界中に住む大勢の人々の間に、甚だしい格差が見られるのはそのためである。

 唯物論者達はよく、脳に損傷かあれぱ必ず当人の人格が変わるではないかと主張する。表面上は、確かにそう見える−だが、その理由は別にあるのだ。適切な視点から考えれば、そんな場合本当は何が起きているのか、すぐ分かるはずである。心霊的人格が正常な人間に期待される正常な機能を発揮させられるかどうかは、肉体の重要器官−なかでも脳−の適切な機能遂行の如何に懸かっている。そこへ脳のような重要な器官が損傷を受ければ、当然その能力が影響を被り、その結果人格も影響を受けた様に見えることになる。しかし、この変化は外部だけに過ぎず、肉体の特定機能だけに限られる。心霊的人格そのものは少しも影響されないのだ。

 次のような例を挙げれば、もっとよく分かってもらえるだろう。ここに1人の熟練した船乗りで航海士という男がいて、自分のモダンなクルーザーで単独航海に出たとしよう。どこからも何海里も離れた海上に出た所で船に爆発が起こり、無線や羅針儀、灯火、操舵装置などが破損する。まったく突然にこの男は、操船の利かない船に乗ったまま、通信手段もなしに洋上を漂う羽目になったのだ。さて、誰かかこの男のふらつく船のコースを遠くから眺め、無線の応答もないとしたら、船の男は気違いか酔っぱらいか、航海術をまったく知らない奴だという結論にすぐ飛付くだろう。
 だが、男は別に何ともないのだ。損傷は船が被っただけなのだが、おかげでいつも通りに船をコントロールできなくなってしまったのである。言い換えれば、クルーザーの男が陥った苦境は、頭を殴られて脳に損傷を受けた男のそれと同じである。彼の心霊的部分は何ともないのだが、脳の損傷のために肉体の特定の機能をいつも通りにコントロールできず、その結果、外から見ると心霊的人格まで彰響を受けた様に見えるのである。

 我々は外見に欺かれやすい。しかも、唯物論者は心霊的な存在を初めから否定しているので、滅多に他の説明を考えてみようとはしないのだ。煎じ詰めれば、脳は柔かな数ポンドの灰色と白の物質に過ぎず、徹底を極めた実験室での検査でも、他には何も見付かっていない。それどころか、白痴と天才の脳を較べてみても何の差異も見付からなかった。どちらもそっくり同じだったのである。白痴と天才の遠いは、彼らの脳の質にではなく、その脳に指令を出す心霊的実在の質にあるのだ。
 では、もし何かの事故や病気のため、長期間に亘って麻痺したり意識を失ったりする揚合は、真の心霊的人格はどこに行ってしまうのだろうか。そんな状況下では、心霊的実在がそのまま肉体に留まっている必然性かないので、好きな時に肉体を離れて、それが本来属する高次の4次元世界をさ迷うことができる。これはただの想像ではない。昔から意識を失なって死に近付いた多くの人々の実例が、これを裏付けている。ほとんど全員が、我々の世界とよく似ているがずっと魅力に溢れた別世界で、素晴らしい体験をしたと語っている。物質世界の冷たい現実に戻って来たことを、残念がることさえ多い。
 いつか『4次元』の間題が解明されたら、肉体と真の心霊的人格の現在の関係は劇的な変化を遂げることになるに違いない。それどころか、直接間接にそれと関係する色んなことにも、影響は避けられないだろう。それは自然の成り行きであり、『時間』の理解を深めれぱ、当然起こってくることなのだ。



 肉体を自由にコントロールできる世界

 物質と心霊的実在との間に存在する真の関係を理解できるようになれば、我々の眼前には沢山の未知のものが開けるだろう。その時、我々は初めて肉体のあらゆる秘密を知り、その時々の必要に合わせて肉体を変形し、また目的に応じて意のままに肉体を捨てたり取り戻したりする方法を学ぶことだろう。我々の肉体はもはや老化から死への容赦ないプロセスに従わず、それを意のままに止めたり反転させたりできるようになる。『時間』を前後に動いて、好きなだけ若くなったり老いたりできるのだ。もはや物理的な距離は我々にとって存在せず、遠い天体も含めてどんな時空間位置へでも即座に移転できるだろう。その素晴らしい世界では、何事も不可能ではない。そんなユートピア世界は、現在はまだ想像も付かないが、既に存在しているのだ。それが高次の4次元世界で、我々の物質世界はそのほんの一側面に過ぎない。無論、これは全てまだ遠い未来のことで、恐らく我々の世代には間に合わないだろう。
 
 心霊的実在と肉体との間に現在見られる関係は、車と運転者の関係に喩えると一層よく分かる。勿論、車が肉体で心霊的実在が運転者である。人は誰でも皆、生まれたその日から自分用の車を割り当てられる。選択はより高いレヴェルで行なわれ、異議は許されない。運転者は割り当ての車を押し付けられるだけで、自分ではどうすることもできない。その車の車種や型、色などの特徴か気に入らなくても、受け取りを拒否したり交換したりはできない。車を捨てて隊列から外れる覚悟でなければ、どうあろうとその車から逃げることはできない。運転者にできるのはせいぜい、あちこちに少しずつ手を加えて、見てくれや性能を向上させることだけだ。
 
 しかし、自分の車の運転ならある程度の自由を許される。隊列が全体として向かう方向に進む限り、どの道を通るかは制約されないのだ。だが、全体の方向は変えられない。運転者は駐車を許されないので、常に自分の車を整備し、よく走れる状熊にしておくことが大切だ。もし止まったりすれば、運転者はただちに車から降りて隊列からも抜けるしかないのである。時には、これといった理由もないのに、他の運転者が自分よりずっといい車を割り当てられるのを見て、心を傷付けられるかも知れないが、自分ではどうすることもできない。尤も、そういう運転者達が立派な車に相応しいとは限らない、無暴で自惚れの強い愚かな運転者で、結局自分の立派な車をだめにしてしまうことも多いのだ。
 
 長い間の習慣で、全ての車は毎日数時間、普通は夜間に、ただしエンジンは掛けたままで停車する。運転者と車に短時間の休息を与えるためである。夜間の停車時間中には、運転者は自由に車を離れ、近くを探索したり、隊列中の他の運転者を訪ねたりできる。だか、いつでも予告があればすぐ、自分の車に戻れるようにしておかなくてはならない。車を降りた運転者は、ずっと大きな行動の自由を与えられ、自分が走っている道の周辺だけに縛られることもない。それどころか、ずっと昔に車を失って、もう隊列に加わっていない運転者と会うこともできるのだ。

 車はみないずれは使い古され、どんなに手を入れても元の状態には戻らなくなる。他より長くもつ車はあっても、いずれは皆、最後の停車地点に着く。ほとんどの車は少しずつ古ぼけていくが、中には衝突などの事故で、哀れな最期を迎える車もある。どの車も、時には運転者自身の責任で、突然に破壊される危険から免れることはできない。理由はどうあれ、車が最後の停車地点に着くと、それは道路から取り除かれ、特別な場所に運ばれて、埋められたり焼かれたりする。
 
 これは車の最後だが、運転者は別である。運転者は生き続け、やはり車を失った他の運転者達に加わって、美しい青々とした放牧地で、当然受けるべき休息をみんなと楽しむことができるのだ。