モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』⑧−死を迎えるその時まで、常に“現在”なのは何故か?

 意識と潜在意識
 
 一部の学派に言わせると、我々には2つの精神があるという−意識と潜在意識である。正確には、2つの精神があるというより、1つの精神に“2つの状態”があって、それぞれが異なる条件のもとで異なる機能を果たすという。言うまでもなく、意識精神は人間が目覚めている間の意識と直接の関連を持ち、潜在意識精神はその他の自分自身や自分の住む物質世界を充分意識していない状態全てと関連している。しかし、高次の『時間』と『空間』の性質を理解できるにせよできないにせよ、そこにはこの2つの精神が重要な役割を演じているので、その可能性や限界をもっとよく知ることが必要である。
 
 意識という用語はラテン語の複合語で、ともにものを知るを意味する。また、人間が自分自身と共有する知識の意味にもなる。この言葉を最初に英語に採り入れたのは、哲学者フランシス・ベイコンで、1601年、ローマ皇帝アウグストゥスについて、自分がその役をうまく演じたことを意識していた、と評した。ジョン・ロックも大体同じ意味合いでこれを使用し、「人間は常に自分が考えていることを意識している、と言われる」と述べている。ロックはまた、初めて抽象名詞コンシャスネスを使い、「自分の精神の中を通り過ぎるものに対する知覚」を説明した。1690年のことである。19世紀の初期には、心理学はよく「意識の科学」と定義されることが多かった。そこからこの名詞は、「感覚、心像、思考、欲求、感情、意欲など、我々が折にふれて気付く経験の様々な要素全て」を含むものとして日常的に使われるようになった。後には、意識という用語は動物や人間が目覚めている通常の状態を、睡眠中や昏睡状態、薬品の影響を受けている状態などと区別して表わすために使われた。後者の状態は、無意識の状態と呼ぱれた。
 
 しかし、意識を1つの実体ないし属性と考えると、いくつか困った間題が持ち上がる。例えぱ、我々が自分の観念だけしか知ることができないとしたら、どうしてその外に出て物体の存在に気付くことができよう。
 イギリスの現代哲学者G・E・ムーアは1903年の著作『観念論に対する反論』の中で、知覚されなくなっても物体が依然として存在することを論証しようとした。例えば、古い車や古い上等なオーバーなどは、お払い箱にしてもう2度と見なくても、やはり存在し続ける。ドイツの哲学・心理学者フランツ・ブレンターノは、5感で知覚できるものは物体そのものの一部だと信じた。新実在論者のほとんどはこの見解を採った。彼らに言わせれぱ、我々が緑色の絹シャツを見るとき、そこに見える色や素材のしなやかさは、その物体そのもの−言い換えれぱ真の緑色の絹シャツの不可欠な属性である。尤も、我々の耳にする音、感じる痛み、鏡に映った幻影、視界が2重に見える時などの問題になると、同じ見解をそう容易く当てはめるわけにいかない。
 
 アメリカの心理学・哲学者ウイリアム・ジェイムズは率直に、意識に関する学説には精神と物質という最少限の2元性が必要であるように思われる、と認めている。イギリスの現代哲学者バートランド・ラッセル1921年の『精神の分析』で、同様の見解を採った。盲人も物質の性質についてあらゆることを知ることはできるが、正常な視力を持った人間は、盲人には知覚も想像もできないような多くのことに気付くと指摘することで、その論点をはっきりさせている。
 意識が脳の機能に多くを頼っていることは、太古から知られていた。近年では脳波計を広く使用し、脳波のパターンによって意識のレヴェルが決定されるようになった。こうして、覚醒した意識の状態では、脳波のパターンは振幅の小さい急速な不規則波で、睡眠中はもっとゆっくりした振幅の大きい波形を描くことがわかっている。このような脳波パターンが、人間の心霊的側面との関係で何を意味するかはまだ分からない。結局のところ、新知識を求める永遠の探究の中で脳波計やコンピューターや様々の精巧な機械を考え出し、作り上げることのできる人間でも、そうした機械を使って思考まで測定することはできないのだ。




 潜在意識と無意識
 
 心理学では、潜在意識とは意識の中心でも周辺でもないところにあるもの全てを言う。言い換えれば、注目を惹かないので現実の経験の瞬間にはそれと認識されないが、それにも拘わらず何らかの形で我々に影響している何かである。潜在意識と無意識は密接に関係している言葉で、同じものを指して使われることも多い。困ったことに、“無意識”という言葉は、しばしばまったく異質の矛盾する使い方をされる。無生物とか人間以下の同義語として、識別力がない、または正常な行動のできない人間や動物を表すのに使われるのである。また、ただぼんやりしているとか、白日夢を見ている、催眠状態にある、眠っている、麻酔をかけられているなどといった様々な状況も、いい加減な根拠からよく無意識と呼ぱれている。
 
 無意識という言葉がいろんな使い方をされるのは、学派によって意見に大きな相違があることを反映している。甚だしい時には、同じプロセスが、ある意見では意識と呼ばれ、別の意見では無意識とされることさえある。要するに、意識と潜在意識の性質や、それぞれが示す複雑なプロセスがどうして出現するのかについては、心理学者の間でも一般的な合意か成立していないのだ。むしろ、見解が大きく食い違うことの方が多いのである。我々が潜在意識精神の本質を理解できない第1の理由は、おそらくそれを意識精神の余分な複製品のようにみなし、真の働きや目的を知ろうとしないことにあるだろう。それを説明しようと苦労した挙句、とんでもない結論に達してしまうことが多い。
 
 第2の誤ちは、意識精神の基準によって潜在意識精神を測定し、評価しようとしていることだ。それでは当然ながら、潜在意識精神は気まぐれであてにならぬ、意地の悪い妄想好きの性質があるという、不当な結論に行き着くことになる。いずれにしても、この2つの精神が互いに理解し合わず、おおむねいつでもあからさまな反目状態にあることには、疑問の余地がない。いや、もっと正確に言えぱ、意識の側の方がいつも潜在意識の側を理解できないでいるのだ。
 
 少し考えると、同じ1人の人間の中にありながら、奇妙で馬鹿げたことのように思えるかもしれない。だが、もっと高い視点から見てみればそうではなくなる。意識精神と潜在意識精神が互いに理解し合えないのは、両者が異なる意識レベルで働いているからだ。言い換えれぱ、『時間』と『空間』のレベルが異なるのである。事実上、両者は異なる言語を喋り、現実についての観念も大きく食い違う。それも驚くにはあたらない。両者は異なった秩序に属するからである。意識精神は、我々が物質世界と直に接触する接点である。それは“現在時”の制約を受け、“現在時”は我々が目覚めている間、唯一の現実を形作る。潜在意識精神は、我々がより高次の4次元世界と直に接触する接点である。潜在意識精神は“現在時”に制約されず、その現実に対する考え方は意識精神よりも広く自由で、より真実に近い。



 間違った種類の「時間」
 
 我々は普段、意識精神の方にかなり重きを置いている。そこで、まずそちらから考察してみよう。意識精神にとっては、我々が目覚めている間に知覚され、5感によってはっきり確かめられるものだけが、現実とみなされる。5感の範囲を越えるものは、全て疑いを持って見られ、幻覚と決め付けられることが多い。そこには、夢からほとんどの超常現象まで、沢山の現象が含まれている。意識の精神は自分の作り出した厳密な基準に照らして、全てのものを評価する。残念ながら、この基準はほとんど全面的に、知覚器官がもたらす証拠に依存している。既に見たように、知覚器官はおよそ当てにならず、しばしば我々を歎く。その結果、意識精神は多くの錯覚に陥って、それを絶対的真実と受け取ってしまう。そんな錯覚の1つが『時間』である。
 意識精神にとっては、『時間』は物質世界のもっとも重要な属性である。『時間』がなければ物質世界は存在できなくなるのだから、そう見なさざるを得ないのだ。ただ残念なことに、意識精神の考える『時間』は、間違った種類の『時間』なのである。この『時間』についての誤った概念は、必然的に我々を“現在時”という極めて狭い時間領城に孤立させた。意識精神にとっては“現在時”だけが重要で、なぜならそれか唯一の現実を構成するからだ。
 問題は、我々がその中に孤立し、後生大事にしている“現在時”というものが決して静止しておらず、常に過去から遠ざかり、未来に向かって変化していることだ。この変化は留まることがなく、たった今我々にとって現在で現実であったものが、1秒後には過去へと姿を消し、我々にとって存在しなくなってしまう。言い換えれぱ、我々は決して安定した永久不変の現実など持てないのだ。さらにやっかいなことには、我々の現実は未来と呼ぱれるものから来るとされているが、それもまた手の届かない、したがって我々にとって存在しないものなのである。
 
 こうした全てを考え合わせると、結局意識精神は、自ら何が真の現実かを裁定する立場につく基盤なり根拠なりを失ってしまうのである。今、新たな知識に照らして、あらゆることを再考し再吟味するなら、問題の大部分は遠い昔の祖先達に発していることが分かるだろう。彼らが我々に『時間』の誤った概念を与え、我々の意識精神はこれを絶対的真理として受け容れてしまったのだ。
 しかし、どれほど初歩的な論理を以ってしても言えるはずはないのだ。何かが−ましてや物質世界全体ならなおさらのこと−“現在時”と呼ぱれるほんの一瞬だけ、急に無から物質化して現実となり、すぐまた我々にとっては存在せぬ過去へと消え去るなどとは。
 
 事実は単純そのものだ。太古の昔以来あらゆる“現在時”ごとに、我々にとって物質世界が現実化したのならぱ、それはただ既に未来から存在していたからに過ぎない。当然過去でも存在し続けることだろう。過去と未来が我々にとって存在しないのは単に、我々の手の届かぬ高次の『空間』に存在しているからに過ぎず、それ以外の理由は何もない。
 
 それはちょうど、映画館で観ている映画のフィルムが直前まで何も写っていない空白で、1コマ1コマがスクリーンに達する1秒前に、何か神秘的な方法で動きも色彩も音も何もかもが瞬時に焼き付けられ、1秒後にはまた空白に戻ると考えるのと、同じ様に子供じみている。もちろん映画の場合には、誰もがそんなはずのないことを知っている。映写機にかけられるずっと以前から、フィルム全巻が完成していつでも映写できるようになっている。映写機から外された後も、何もかもそっくりそのままフィルムに残っているのだ。
 映画のフィルムと同じように、物質世界も、我々にとってそれが現在となるずっと以前から、高次の『空間』に細部までそっくりそのまま存在し、我々にとって過去となるずっと後まで存在し続けるのだ。




 潜在意識には超常能カが具わっている!
 
 誤解を防ぐために、実際には我々には2つの精神があるのではなく、1つの精神が意識の異なるレヴェルで働いているのだということを思い出して頂きたい。潜在意識精神は、意識のより高いレヴェルで働き、“現在時”という強制された狭い領域に制約されない。そのため『時間』『空間』、現実の捉え方が、意識精神のそれとは一致しないのだ。潜在意識精神にとって、『時間』は決して過去と現在と未来に分断されず、常に永久不変の1つの時間として存在する。主にこの理由から、意識が不可能な夢物語とみなす沢山の事が、潜在意識にとっては可能で自然なことなのだ。その中には、夢や超常現象の他、5感の範囲を越えた様々な事象が含まれる。
 
 一部の心理学者は、超常現象をいたずら好きな潜在意識の作り出す幻覚的産物に過ぎないと主張する。当人は信じ切っていることが多いが、ほとんどどんな場合でも、実は欺されているだけなのだという。勿論、少しはそういうケースもあるだろう。だが、全ての超常現象が幻覚で潜在意識の産物に過ぎないと断定するのは、不当な主張であるぱかりか、自己矛盾を犯すことにもなる。なぜなら、それは潜在意識に、自分達が否定したがっている力を認めることにもなるからである。
 例えぱ、ある人が末来の透視を経験し、後からそれが細部まで正しかったと確認されたとしよう。それが全て、当人の潜在意識の産物に過ぎないと断定すれば、結局、潜在意識に未来を予見する力があると断定するのと同じことになるではないか。別の例を考えてみよう。ある人が固体を通して物を見る能力を発揮したとしよう。そんな見世物は当人の潜在意識の産物に過ぎないと断定すれば、結局、潜在意識に固体を見通す力を認めることになる。超常現象のほとんど全ての場合に、同じことが言えるのである。
 
 我々はそのような断定に異議を唱えるわけではない。むしろ、双手を挙げて賛成する。確かに潜在意識精神には、意識精神には許されない超常能力が具わっている。しかし、実のところ超常現象は潜在意識の産物ではない。ただ潜在意識を通して知覚されるに過ぎない。というのも、潜在意識には超常現象が起きるのと同じ高いレベルにまで達する力が具わっているからだ。例えぱ、盲人に月を見る力がないように、超常現象は我々の5感の範囲を超えているため、意識精神にはそれを知覚する力がないのである。こう考えてくると、どうしてもある重大な疑問に行き着く。それはこんな疑問だ。この2つの精神がついに理解し合い、1つになる可能性はあるのだろうか。あれこれ考え合わせると、その可能性は充分あると思う。何と言っても、両者は根は1つであり、その対立も調停できないものではない。
 
 幸いなことに、意識精神は既に問題に気付いている。現在の『時間』の観念がどこかおかしいのを知っている。これまた幸いなことには、意識精神にはこの課題を解決する能力が具わっている。今進んで自らを新たな知識に照らして再検討し、また、何世紀も抱き続けてきた『時間』の観念に誤りがあって、見直しが必要であることを進んで認めようとしているその態度に、それは表われている。さらにもう1つ幸いなことに、この2つの問題は密接に関違しているから、2つの精神の問題が解決されれぱ、自ずと『時間』や『4次元』の理解を深める道も開けることになるだろう。




 我々は常に“現在時”にいる
 
 我々は時計に慣れ過ぎてしまって、どんな時計も“現在時”を示す以上のことはできないことを考えてみようともしない。時計はそれ以外のものを示すことはできない。なぜなら、時計そのものも“現在時”に、もっと正確には我々にとっての“現在時”に存在しているからだ。さもなけれぱ、我々の目に見えないはずである。
 さて、『時間』の転位が起こって、我々がオフィス内にある一切合財とともに、5年過去へ運ばれたものとしよう。この場合壁時計もやはり我々とともに運ばれ、その時計の指す時刻は、過去のその特定の時点に対応する時刻になるだろう。たまたまその時計がその頃はまだなかったとすれば、そこにはその時計も存在していないだろう。言い換えれぱ、時計は針の位置に関係なく、常に“現在時”を指しているのだ。なぜなら、時計そのものが“現在時”に存在し、物質世界全体と一緒に“現在時”の一場面から次の場面へと動いているからである。
 
 既に何度も述べたように、『時間』はどの方向にも“通過”したり“流れ”たりはしない。我々が静止していて、その眼前を『時間』が“流れ”て行くのを見ているわけではない。実はその反対が真実なのだ。『時間』は静止しており、我々の方が−物質世界全体と一緒に−より高次の『空間』の中を“現在時”の一場面から次の場面へと動いて行くのである。我々の意識に知覚されるこのプロセスは永久に続く。だからこそ生涯の最後の目まで、我々にとってはいつも“現在時”のままなのだ。
 
 この現象は、我々が“現在時”に隔離されているせいである。それはまた、我々にとっての『時間』を過去と現在と未来とに分割する。我々にとっては、知覚器官の手が届く“現在時”だけが現実である。一方、過去や未来は“現在時”枠をはみ出し、5感の及ぶ範囲を越えるので、我々は遥か昔から、実際上それを幻と考え、、存在しないものと見なすようになった。日常生活の中では、あるいは実際的な目的のためには、それでかまわない。だが、本当は過去も未来もより高次の『空間』に常に存在している。それが我々や他の誰かにとって現在になった時に現実化するのと、少しも変わらぬ現実らしさで存在しているのだ。
 『4次元』の概念は、よく次のように定義される。「我々にそう見えるような過去と現在と未来に分断された時間は、『4次元』に対する我々の感覚が不完全なために生み出された一時的な錯覚に過ぎない。本当は永遠不変の、ただ1種類の『時間』しか存在しない。



 
 永久不変の『時間』

 物質世界では後戻りはできない
 
 既に述べた通り、『時間』はただ1つしかなく、それは永久不変である。こう断定すると、運命論の教義を是認するように思われやすい。運命論というのは、ご承知の通り、あらゆる出来事は運命によって予め決められており、したがってそれを変更することはできない、とする教義だ。そこで、あらゆるものは『時間』の中で永久不変だというと、我々にはまったく行動の自由がなく、何1つ変更も変革もできないという意味に思えるかもしれない。しかし、そうではないことを、これから見ていこう。ただ一種の永遠不変の『時間』という考えは、必ずしも東洋的な運命論の最悪の形を意味しない。それはともかく、絶対的運命論などというものはどこにも存在しないのだ。我々はいつでも、自分に定められた運命を実現する手段や方法については、多くの選択を許されているからである。結末は同じかも知れないが、それを成し遂げる手段や方法は自由に選ぺる。
 
 元々運命論は、バークレー主教の哲学と同じで、正しいとも間違っているとも、実は証明し難いものである。例えば、ある男が飛行機の墜落事故で唯一の生存者になったとすれぱ、運命論はそういう筋書きができていたと述べることかできる。同じ男が唯一の死傷者だったとしても、運命論は同じように言えるわけだ。言い換えれば、何が起こっても、運命論は常に、そういう筋書きができていたと言える。それが本当かどうかを確かめる方法はないのである。万物が『時間』の中で永久不変だといっても、高次の実在としての我々までが、その永久不変の『時間』の一部であることにはならない。高次の『空間』では物体や事物は永久不変であるかも知れないが、我々は違う。我々は高次の『空間』においても、物理的な物体ではなく、知性と自由意志を持った心霊的実在なのである。実際、我々の最終目的が何であるにせよ、そこに辿り着くには沢山のコースが用意されている。そして選択するのは我々だ。我々はまた、好きなだけ何度でもコースを変更することができる。ただ、そのために後戻りはできない。これが物質世界の最大の欠陥であることは、疑うまでもない。我々は文字通り“現在時”に“捉われており、過去に戻って何かを訂正することはできないし、未来については何1つ知らない。
 
 国家として、あるいは個人としての我々の誤ちの多くは、この事実が原因していることに疑いの余地はない。我々が時として無謀で危険の大きい冒険に乗り出すのは、過去の歴史をおこがましくも無視するためばかりでなく、未来について何1つ知らないためである。どんなに慎重に取るべき道を選んでも、散々な結果になって間違っていたと判ることも多い。行く手に何が待っているか前もって知っていたら、そのコースに拘わったかどうかは疑問である。人間は時に愚かなこともするが、決してそれほど馬鹿ではない。