モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

心霊研究とその歴史 Ⅰ -死が定めの生き物がそれに疑問を抱くだろうか?

『霊魂の世界 −心霊科学入門−』 (徳間書店 S.42年刊)<著者略歴>
板谷樹(いたや・たつ)

昭和5年 早大理工学部機械工学科卒業。
工大助手,助教授を経て,現在,工大教授
財団法人日本心霊科学協会理事。エ学博士


宮沢虎雄
明治19年,東京に生まる。
明治42年,東大理学部実験物理科卒業。
明治44年より海軍機関学校教官として25年間奉職。
現在,財団法人日本心霊科学協会理事。





 はしがき

 いま著者らが読者の皆さんに、「人間にはそれぞれ自分の心といわれるものが在ると思うが、皆さんはどう思われますか。そして、もしも在ると思うなら、心とは一体、何もので、物質なのか、物質以外のものなのか?」と、質問をしたら、皆さんは必ずむっとして、少し考えてから「心は在るに決まっている。心は何だかわからないが、物質ではないことは確かだ」と、ぶっきらぼうに答えられるに違いない。ところが、わが国では昔から心を発動させる"自分自身”すなわち"自我の本体"を霊魂と呼んできた。皆さんの中には霊魂を否定していられる方も多いと思われるが、「心は存在する」と答えた前記の回答は、目に見えない霊魂の存在を認めていることになるのである。
 まさに霊魂こそは"自我の本体"すなわち"自分自身”のことであり、我々"心”について研究する前に、心を発動させるその根源である霊魂について、もっと早くから、研究すべきではなかったのではないだろうか。
 幸い、1848年、アメリカのニューヨーク州に起きたハイズビュ事件によって心霊現象が科学の対象となりうることが証明されて以来、知名な科学者たちと、これに協力するすぐれた霊媒の努力とにより、心霊現象をその研究対象とする新しい"心霊科学"が誕生し、欧米ではすでに広く普及している。
 そしてこれにより神の概念も明確となり、従来、奇跡とか不思議とか言われてきた現象や、迷信扱いされてきた事柄も、単なる心霊現象に過ぎなかったことが証明され、さらに、科学がいかに進歩しても、人知では解き得ない何物かがあると考える神秘思想も、その姿を消しつつある。今や、正しく養成された霊能者は、死に際して肉体から、霊魂が離れていく様子や、幽霊や夢枕に立つ霊魂を視、霊魂と会話を交えることもできる。そして、このようにして姿、顔形、声、服装その他の特徴をあげ、さらに、故人以外は知らないことなどを聞き出して霊魂の存続を実証しつつあるのである。本書は霊魂と霊魂の働きについて今までに科学的に明らかにされた事項を記述したものである。







 第一章
 心霊に関する記録と文献

 
 初めに
 
 昔から不思議とか奇跡とか言われてきたもの――いわゆる“霊魂”や"神のような万能なあるもの”の存在を認めなければ説明のつかない超常現象は、世界歴史のすべての時期に、すべての国で報告されている、いたるところで人々は超常現象に遭遇し、それらに深く印象付けられてきた。もしも、これらが真実でないとしたら、何千年もの間、世紀から世紀へ、国から国へと語り伝えられ、科学の進歩した今日でも同様に、田舎と都会の区別なく毎日のように超きている現実をどう説明したらよいだろうか。またこれらの超常現象が、すべて統一された類似性をもち、霊魂や神のようなものの存在を暗示しているのはどういうわけだろうか。
 これは、これらの超常現象が約百年前アメリカで発足し、いまだ未完成ではあるが、ほぼ体系づけられた霊魂や死後の世界をその研究対象とする新しい自然科学、心霊科学の法則に従って起こる自然現象にすぎないからである。そして心霊科学は、すでに50年前、わが国へも輸入されていたが、どういうわけか、わが国では普及しないのである。

 著者らが、こうした事実を明らかにしても、人々は、そんな馬鹿なことがとか、霊魂の存在は科学と矛盾するとか現在の科学で説明できないものを信じるのは迷信であるとかいって、先進諸外国では、心霊科学はすでに大衆の常識になっていることも知らないで、なんら根拠のない概念的な言辞を弄し、霊魂の存在を信じる人々を軽蔑する。
 そのくせ、一方では死者に戒名をつけ、引導を渡し、花を供え、慰霊祭を催して霊魂を慰め、墓参をしてその冥福を祈るなど、あたかも霊魂の存在を肯定するかのような行ないをしている。著者らは、これらの人々の軽蔑や、著者らの研究をやめることを望む親族たちの圧迫に遭うたびに、つくづく日本人は不思議な国民であると思わないわけにいかないのである。そしてこの原因は日本人のものの考え方が概念的であり、事実より概念を重要視し、概念によって物事を決めてしまう習慣があるからだと思うのである。裁判の判決にも、そう思われる例がときどきある。霊魂に関する問題もその1つで、日本の大部分の方々は、霊魂や神に関する問題は、自然科学より哲学の領域で討議する問題のように考えているらしい。その証拠に著者らはよく、「自然科学を研究しているあなたが、どうして心霊の問題を研究するのか」と訊かれる。

 人魂や幽霊などのように霊魂の存在によって発生する問題は、人間の出生や死亡と同様に厳として存在する自然現象であって、人間の頭で考えられる形而学上の概念とは違うのである。したがって自然科学者の研究に適した問題であり、概念の討議を専門とする哲学者が扱う問題ではない。哲学者は人魂や幽霊は存在すべきか否かという問題を議論するかも知れない。しかし彼らは、自分の手の中の鉛筆、食べているご飯ですら、その実在を証明するのにめんどうな手続きを経て、これを認識してからでないとできないのである。これに対し、現実に種々の問題を1つ1つ解決し、一歩一歩確実な進歩を遂げて、人類を物質的にも知識的にも今日の水準にまで向上させたのは科学であり、今後、霊魂や神の問題を具体的に解明しうるのも科学だと思う。それは科学が事実を重んじ、事実だけが正しいとして、物事を一つ一つ決めてきたからである。
 レオナルド・ダヴィンチは、500年前にこう言っている。「知識とは事実の集積であり、それは実験その他の合理的な方法で、その事実が確証されるものでなけれぱならない」と。風俗、習慣や物の考え方が世界各地で違うように、霊魂観もそれぞれ違うことは想像されるが、霊魂の否定を文化的と考えているのは日本だけの、しかもここ4,50年の一時的な現象である。著者らは事実より概念を重んじてきた日本人が、今後は概念より事実を重んじる、いや事実だけが正しいのであると考えるよう、心の転換を図っていただきたいと思うのである。

 以上が心霊研究に対する著者らの信念である。それゆえ、あくまで事実にもとづいて、霊魂が厳として存在し、人間生活にいかに重大な影響を及ぼしているかを証明し、既成科学と同様、心霊科学の知織の重要さを述べていこうと思う。




 1.古代の人々の霊魂観
 
 現代人と比べて古代の人々の間には霊能者が多く、したがって霊的体験者も多かったことが想像され、そのためか現在の未開の土地の人々と同様、古代の人々は霊魂と神の存在を信じていたものと思われる。たとえば古代エジプト人は当時からすでに人間には顕在意識と潜在意識に相当する二つの霊魂カーとバーがあり、カーは肉体がその使命を終えたとき、肉体を離れて飛び去るが、肉体が元どおりの形で存在すれば、いつまでも離れずにいると考えてミイラを作り棺の中に『死者の書』(神への讃歌や祈祷文を収録したもの。これは世界で最も古い宗教的文献の一つで、正直、慈悲、不殺生などに関する道徳的思想は旧約聖書中のモーゼの十戒に劣らないといわれている)の写しを入れ、王の遺体の安置場所としてピラミッドを造った。


 次に古代の神託(巫女を使って神殿で行なわれる霊言)としては、アポロ神殿の神託が最も有名である。アポロ神殿は音楽・詩・予言などを司る神、アポロンアテネ西方150キロメートルのデルフィーに建てた神殿で、神託はきわめて正確であったため、高度の精神文化をもった当時のギリシャにおいても人々は神のお告げとして、これを率直に受け入れたのである。
 有名な歴史家ヘロドトス(西紀前469〜399)は、リデア王クローサスが数人の神託者に使いを出して、100日後の自分の行動を予言させたところ、一人の神託者の言が事実とまったく一致したことを記している。
 次にアテネの哲学者ソクラテス(前470〜399)は、常に自分の中にいるダイモニオンと称する守護霊の声に従って行動し、また彼の予言はよく適中したが、国家の神々を信ぜず、新しい神を説いて青年を堕落させたという罪を理由に死刑の宣告を受けた。
 また医術の祖といわれるギリシャの名医ヒポクラテス(前475〜377)が、「常に眼を閉じ、霊魂によって診断せよ」と説いたことは、最近の医学図書にも載っている。このように昔の人々は霊魂の存在を信じ、霊魂に対するその考えは、心霊科学の研究結果に近い。

 

 2 幽霊を見た記録

 心霊に関する記録のうち幽霊を見た記録が最も多いので、本節では幽霊と複体に関するものだけを挙げてみよう。ここに掲げる例は記録されている歴史上の知名人に関するもののうちの、ほんの一部だけで、一般庶民に関するものを列挙したら、その数は夥しいに違いない。
 古い方では、ペルシャ王クセルクス(前519〜465)、スパルタの武将ポーセニアス(〜470)、ジュリアス・シーザ(前100〜44)、シーザーを暗殺したブルートス(前85〜42)、ローマの武将ドルーサス(前38〜9)、同皇帝トラヤン(西紀後52〜117)、同カラカラ(188〜217)、同ユリアン(331〜36)、同テオドシュース(346〜395)は、それぞれ幽霊を見、深い印象を受けたことや、これに関連した恐ろしい出来事が記録されている。その後12、300年間はキリスト教の影響のためか、他の一般事項と同様、幽霊の記録はあまり見当たらない。
 ダンテ(1265〜1321)の『神曲』最後の13編の原稿は、彼の死後、一夜、ダンテが息子の夢枕に現われて、その在り場所を正確に教えたため、彼の息子によって発見されたと伝えられている。フランス王ヘンリー4世(1387〜1422)夫妻は、リヨンの大司教および3人の女官と、ある枢機官の幽霊を見たが、それはその枢機官の死亡時間と一致していた。スコットランド王ジェームス4世(1473〜1522)は、幽霊の警告に従ってイングランド遠征を思い留まり、イギリス王チャールズ一世(1600〜1649)は、幽霊の警告を無視したため、ネスビの戦いで敗れた。

 ドイツの宗教改革マルティン・ルター(1483〜1542)は、幽霊を見たことを彼自身で記録しており、イタリアの有名な彫刻家チェリー二(1500〜1571)は、生前しばしば彼を訪ねて激励してくれた青年の幽霊の指示によって自殺を思い留まり、イタリアの詩人タッソー(1544〜1595)は、周囲の人々には見えない幽霊と常に話をしていた。
 イギリスのエリザベス女王(1523〜1603)は、彼女自身の複体から死を警告され、ブロシャのブルーチャー元帥(1742〜1819)は、幽霊によって死を知らされ、ナポレオン(1769〜1821)はセントヘレナ島で王妃ジョセフィンの幽霊と話をし、死が迫りつつあることを知らされた。

 メソジスト教会創立者ジョン・ウェスリー(1703〜1791)が幽霊屋敷に住み、常に幽霊を見、種々の音を聞き、文豪ゲーテ(1749〜1832)が彼の弟子と散歩中、彼の帰りを待ちわびていた詩人シラーの生霊と街頭で話をしたこと(この時シラーの生霊は弟子には見えなかった)は有名である。ゲーテはまた、彼の横でいろいろな状態で坐っている彼自身の複体を見、晩年、そのとおりになったと人々に話した。
 作曲家モーツァルト(1756〜1791)は、不思議な男から『鎮魂曲』の作曲を頼まれ、何回も督促をうけたが、曲が完成されるとその第は姿を見せなくなった。しかしそのお蔭で彼の鎮魂曲は彼自身の葬儀に間に合った。
 イギリスの政治家ロバート・ピール卿(1788〜1850)は、彼の兄弟とともにロンドンで詩人バイロン(1788〜1824)の姿を見たが、その時バイロンアテネ西方200㎞のバトラスで危篤状態だった。バイロンの生霊は同時に他の人々の許にも姿を現わした。
 その他イギリスの哲学者フランシス・べーコン(1561〜1626)、血液の循環機構を発見したイギリスの医者ウイリアム・ハーべイ(1578〜1657)、クエーカー教の創立者ジョージ・フォックス(1624〜1691)、奴隷解放運動者ウイルバー・フォックス司教(1759〜1833)、フランスの女流文学者スタール夫人(1766〜1817)、イギリスの女流小説家マライア・エッジロース(1767〜1849)、同海洋小説家キャピテン・マアセット(1792〜1848)、同化学者ハンフリイ・ディヴイ卿(1778〜1820)、スコットランドの著述家で地質学者のヒュー・ミラー(1802〜1856)、カトリック枢機官ニューマン(1801〜1890)らは、それぞれ自分で幽霊を見たことを書き残している。




 3 キリスト教関係の心霊の記録

 聖書には死後のイエスの幽霊がたびたび姿を現わしたことや、イエスその他の人々の行なった多数の奇跡が載っている。これらのうち、心霊科学に照らしてみると明らかに誤りと思われる個所もあるにはあるが、イエスの行なった奇跡の大部分は、心霊科学で説明でき、イエスが偉大な霊能者だったことを示している。これらの聖書に載っている心霊現象を、心霊科学で正しく説明するだけでも、優に一冊の部厚な本ができそうである。
 ジェスイット教団の創始者イグナチウス・デ・ロヨラ(1491〜1556)は、祈祷中、彼の体が、地上30センチほど浮上したといわれるが、聖者たちの身辺に起こった物品移動、音、声、光、香気に関する記録は非常に多い。心霊史上の汚点は、中世紀における魔法使いへの圧迫である。これらの罪のない多数の霊能者は、神と同様、奇跡を行ないうるという理由で、魔法使いの汚名を着せられ処刑されたのである。
 またフランス東北部の僻村ドムレミーの農家の娘ジャンヌ・ダルク(1412〜1432)は、幼時から常に天使の声を聞いたといわれるが、百年戦役の後半フランスの国運が危くなったとき、十六歳の彼女は神の命に従い、白馬に跨り陣頭に立って祖国を勝利に導いた。


《ルールドの奇跡》
 
 ルールドは南フランスのピレネー山脈の北麓にある小さな町に過ぎなかったが、1858年、以下に述べる奇跡が起きてから一躍有名になり、その日から1958年までの百年間に、世界の各地から集まった巡礼者は一億に達するといわれている。生まれつき病弱で、しかもときどき発作を起こした少女ベルナデッタ・スービルーは、幼いころから変わったところがあり、恍惚状態でローソクの炎の上に手をかざしても火傷を負わなかった。ある日、彼女は村はずれの洞窟の入口で聖母マリアの姿を見、それ以後たびたびマリアの姿を見、その指示によって洞窟内に湧く泉の水を飲み、浴することによって病気が癒されることを教えられた。そして爆発で眼をつぶした石工が、泉に浴し、眼が治ったことを聞き伝えた人々が次々と集まり、みな病を癒やされ、このようにして閑村ルールドは一躍キリスト教のメッカとなったのである。
 
 フランスの著名なノーベル生理医学賞受賞者アレキシス・カレルは、自著『人間−この未知なるもの』の中で、リヨン大学教授時代に患者に付き添ってルールドに行き、その奇跡を目の当りに見た体験を語り、次のように述べている。
 「自分が1902年に神秘的治療の研究を始めた頃は、整理された資料も少なく、またこのような研究が自分の将来に禍を及ぼす危険もあったが、今では医師は患者とともにルールドに来て病人を観察し、医務局に保存されている記録を調べることができる。ルールドには国際的た医学協会が組織され、たくさんの医師が会員となっており、文献は豊富で関心のある人々は、さらに深い研究を続けつつある‥‥」
 著者の1人も5年前、ローマからスペインに向かう飛行機の中で、ルールドに向かう黒い衣をまとったメキシコの巡礼者の一団と同席し、彼らのルールドに対する強い憧れを知って驚いたことがある。





 4 わが国の心霊に関する文献

 わが国にも心霊現象に関する記録や文献は多数あるが、その中から、古く、かつ心霊科学的に興味あるもの2,3挙げてみよう。


 《神功皇后の霊言》
 
 『古事記』に載っている有名な神功皇后の神託の記事の始めの部分に、次のような個所がある。
 仲哀天皇筑前の香椎の宮に着いて、熊襲の国を平定しようとした時、天皇が琴を弾き、皇后が巫女となり、武内宿禰審神者(出てきた霊と問答する役)となって神の心を伺った。すると皇后は神がかりして
「西の方に国があって、金銀はじめ目の輝くようないろいろな宝物がたくさんあるから自分が今その国を帰順させよう」
と言った。ところが天皇は、
「高い所へ登って西の方を見ても、そんな国は見えず、見えるのは海ばかりです」
と答え、この神は偽りを言うと考えて琴を押しやり弾くのを止めてしまった。神は大層怒って
「だいたいこの国はおまえの治める国ではない。おまえは黄泉の国へ行く道に向かえ」
と言う。驚いた武内宿彌が、
「恐れ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾きください」
と言うと、天皇はいやいや琴を引き寄せて、しぶしぶ弾き始めたが、そのうち琴の音が聞こえなくなったので、灯火を近づけて見ると、既に崩御あそばされていた‥‥というのである。


 
 《複体の記録》
 
 複体に関する欧州での記録については前に述べたが、わが国での複体の最も古い記事は『今昔物語』の中にある。
 
 平安朝頃、女御の許に仕える小中将という若い女がいた。容姿も心ばえも美しかったので、美濃守藤原隆経に愛されるようになった。
ある日の暮れ方、小中将が灯をつけていると、灯の許に、着衣も容姿も小中将と瓜二つの姿が現われた。傍にいた女房たちが、「あやしくも似たるものかな」と騒ぎ興じるうち、小中将が手を挙げて、あやしい姿をたたき捨てるようにすると消え失せた。そこで女房たちが、小中将に「なぜかき落としたか」となじると「賎しい姿をよってたかって眺められるのが恥ずかしかったので」と答えた。
 それから二十日ばかり経って、小中将は風邪気味で二、三日、局で臥した。が治らず、親の許へ保養に行くと暇をとって太泰へ帰った。そこで隆経は小中将に逢いに行き、両人まめやかに語り睦んで明け方に遠る途中、後ろから使いがきて小中将が死んだことを知らされた。
 灯の前に姿が立ったとき、よくよく祈らねばならないのに、かき落としてそのままにしたからだ、と語り伝えられたということである。






 第2章 催眠術の起源

 1 スウェデンボリの霊能

 エマヌエル・スウェデンボリに関しては、わが国はもちろん、世界各国にスウェデンボリ研究会があり彼の名はよく知られている。彼は在世当時から有名人だったため、彼の超常的な行動については多くの記録がある。
 彼は1688年ストックホルムで生まれ、ウプサラ大学卒業後、ロンドンで5年問、物理学者のニュートン天文学者のハーレー、数学者のラ・イールらについて研究し、帰国後、王立鉱業大学の副校長に任名され冶金学の権威となった。この間、天文学(星雲説を初めて発表したのは彼である)・鉄・銅に関する有名な論文を発表し、後に人体生理学の研究によって、性格の相違を発見しようとし、頭脳・感覚・皮膚・血液・舌などに関する解剖学的・生理学的な多数の論文を発表し、科学者・行政官として業績を挙げ、31歳で貴族に列せられた。
 彼は若い頃から超常現象を行なったが、彼の言によれば、55,6,7歳のとき3回、それぞれイエスの姿を見、それ以来、千里眼がきき、また霊魂たちと話ができるようになった。特に3回目にイエスを見たとき以来、イエスの命に従って一切の実務をやめてキリスト教関係の著述に従事した。これらの文章はすべて神の啓示により、驚くべき速さで書かれたもので、人間技とは思えない膨大な量のものである。
 
  次の2,3の挿話は、彼の霊能を示すものとして有名である。
 それは彼が71歳の時、イギリスから母国に帰る途中、ストックホルムから直線距離で420㎞離れている港町ゲーテンボルグに上陸し、知人の家で晩餐会に招かれた時のことである。ちょうど、そのとき発生したストックホルムの大火を千里眼で手にとるように見、人々に伝え、さらに翌朝、同地の総督に詳しく話した。これは2日後に到着した飛脚の報告と完全に一致したので、彼は一躍有名になった。
 その翌年のことである。ストックホルム駐在オランダ大使の死後、同大使夫人は貴金属商から銀製食器の代金支払いの請求を受けた。
夫人は大使から支払った旨の話を聞いた記憶があるのに領収書がみつからないので、スウェデンボリに相談にきた。3日目に彼は同夫人を訪ね、階上の一室内の机の引出しのうしろに、特別に作られた大使以外は知らない秘密の箱の在り場所を教え、そこから大使の私信とともに入れてあった領収書を発見して、貴金属商の二重横領を防いだ。また彼は前々から、自分は1772年3月29日に霊界入りすることを人々に伝えていたが、その日、84歳で死んだ。
 哲学者カントもスウェデンボリについて研究し、『霊界予言者の夢』なる論文のなかで彼の超常能カを認めている。



 2 メスメルの催眠療法

 スウェデンボリの死後数年を経た1778年、ウィーンの医師アントン・メスメルはパリに出て新しい病気治療法を宣伝し、大評判となった。彼は動物磁気と称する一種の宇宙生命が人体に満ちており、術者の接触や手の動きで、これが作用して痛みを除き、全身の感覚を失わせて無痛分娩や無痛手術が行なえ、またあらゆる病気が治ると称し、また事実、多数の患者の病気を治したが、医師団の強硬な反対にあい、パリを離れざるを得なかった。しかし彼の弟子たちは彼の意志を継ぎ、メスメリズム(メスメルの学説による催眠療法)は、ますます普及した。興味あることには、特殊な被術者は深い催眠状態に陥って、施術者の言うなりに種々の行動をし、さらに千里眼・患部の透視・病気の治療法・予言や目かくしで町のなかを歩くなどの超常現象を示したが、催眠状態から覚めると何も記臆していなかった。
 その後、メスメリズムの学問的研究は、イギリスの各大学で取り上げられ、1841年、ジェームス・ブレイドは、催眠術論(暗示などの心理的過程によって被術者を術者の意志のもとにおく現在の催眠術)を発表し、またこれとともに、人間の心の奥には、自分には意識されないもう一つの心、潜在意識のあることが知られるにいたった。
 メスメルの病気治療法はエーテルクロロホルムなどの麻酔薬の発見によって大いにその利用価値を減じたが、催眠術の普及と、人間に潜在意識のあることや、超常能力を持った人のいることを明らかにした点で、心理学および心霊学史上、重大な役割を果たしたのである。

 アンドリュー・ジャクソンデイビスは、アメリカ・ニューヨーク州のハドソン河に沿う小さな町の靴屋の子として牛まれた。家が貧しくて家業を手伝っていたため、学校へ通ったのは2〜3週間だったといわれている。
彼が17歳の噴、町へきたメスメリズムの施術者の実験台となり、彼に千里眼その他の超常能カのあることが認められたため、しばらく施術者の助手をして病気治療に従事した。しかし翌年、彼の言に従えば、ある夕、突然、半悦惚状態となり、気がついたときは家から60kmもある荒涼たる山の中にいた(わが国にもこういう例はいくつもある)。ここで彼は2人の老人、ガレン(解剖学の祖といわれるローマ時代の名医・哲学者)と、72年前に他界したスウェデンボリの霊に会い、医術と道徳について教えを受けた。
 それ以来、何物かに憑かれたように著作の欲望にとりつかれ、催眠状態にある発言(霊言現象)を筆記してもらった。その内容は、ずばぬけて優れたものであったため、次々と多数の知名人がこれに立ち合うようになった。1846年、『自然の神の啓示』『自然の原理』『人類に与う』なる3部作が刊行された。その後は、施術者や立会人のカを借りないでも、ひとりでに手が動いて文章を書くようになリ(自動書記現象)、次々と30冊以上の秀れた箸書を刊行し、ロングフェロー、エマーソンなど多数の人々に愛読された。エドガー・アラン・ポオは、しばしば彼を訪ねている。

 以上において興味のあることは、無教育で一冊の本さえ読んだことのない彼の文章中に、言語学・考古学・歴史・地質学・医学その他のすべての分野に対していかなる天才も及ばないほどの正確で豊富な内容を蔵しているといわれていることである。この現象はスウェーデンボリ、その他の高い霊が彼に書かせたと考える以外に説明がつかない。なお、彼が催眠状態中に書いた『自然の原理』の中で、彼は、「人間は霊界に住む霊魂」と交わることができる。今や霊界からの呼びかけが殺到しており。、近く霊界との通信が確立されるだろう」と述べたが、まさにその2年後、彼の予言にたがわずハイズビュ事件が起きて、霊界との通信の道がひらけ、近代心霊科学発足の動機となったのである。



 3 霊魂の著述
 
 前節と同じ例はハドソン・タットルにも見られる。彼の父は、百姓をやるかたわら巡回説教師をやっていた。彼は少年時代の大部分をアメリカ北部のエリー湖西岸の荒地で過ごし、学校へ通ったのは11カ月だけだった。あるとき、父の同僚の牧師がロチェスター市の叩音の話を聞いて降霊会を催し、当時16,7歳だった彼も招かれた。ところが間もなく彼は悦惚状態となり、自然に手が動いて(自動書記現象)、霊界からの通信文を書き、その後盛んに文章を書き始めた。

 彼が書くのはラマルクという名の霊の指示によることを彼はよく知っていたが、ラマルクこそは23年前に死んだフランスの有名な生物学者で、進化論の先駆者であることを彼は知るよしもなかった。彼の著作中、最も有名なのは『自然界の神秘』『心霊学説の神秘』『心霊科学における諸研究』である。これらは1853年、彼が18歳のとき書かれたもので、当時としては驚くほどの科学的材料を含んでいたといわれている。ドイツの極端な唯物論者で哲学者で医者であるブュヒナーは自著『カと物』の中でタットルの『自然界の神秘』中の文章を、また、有名なイギリスの博物学ダーウィンは彼の著書『人類進化の歴史』の中でタットルの著書『自然人の起源と古代の風習』中の文章を引用ている。
 これによってもタットルの著書が高く評価され、欧州においても広く読まれていたことはわかるが、2人の知名な唯物主義の学者は、彼らの引用した文章が、霊の口述により(霊聴現象)無知な18歳の農民の子によって書かれたことは、少しも知らなかった。

 イギリスの有名な小説家デイッケンズは、生前から霊魂の存在を信じ、心霊実験会を催したこともあったが、彼が毎月継続して発表していた彼の最後の小説「エドウィン・ドルードの神秘』は1870年7月8日、彼の死によって中断された。ところがアメリカ・バーモンド州ブラットボロの無教育な一工員T・P・ジェームズは、自動書記でデイッケンズという署名のある霊界よりの通信文を得、それによって1872年(デイッケンズの死後2年後)のクリスマスの日から始めて、翌年の7月8日、すなわち、彼の命日までに前記の小説の未完の部分を完成した。この自動書記で書かれた部分はデイッケンズが生前書いた部分よりも長く、考え方、文体、綴り方の癖まで驚くほどよく連続している。この2つの部分はデイッケンズの霊の指示により1874年ジェームズによって前記の題名で出版されたが、このことを知らぬ後世の一般読者や英文学研究者には全編デイッケンズ作と考えられている。







 第3章 心霊研究学会の創立

 ケンブリッジ大学の亡霊学会

 ハイズビュ事件の3年後の1851年、ケンブリッジ大学内に、亡霊学会(Ghost Society)が結成された。後にカンタベリー寺院の大司教になったエドワード・ベンソン教授が主導者となり神学教授ライトフット、同ウェスコット教授、同ホルト教授(以上は西洋人名辞典に載っている)、マイヤーズ、ガーネイ、有名な哲学教授ヘンリー・シジウィック、大科学者で物理教授のレーリー卿、バルフオア嬢(大政治家バルフォァ伯の妹、後にケンブリッジ、ニューハム・カレッジの校長となる)らが参加し、1882年に創立された心霊研究協会(S・P・R)の前身的役割を果たした。
 一般に大学内に作られる小グループの学会は長続きしないのが普通であるが、亡霊学会は設立の時期がよく、かつ外部の支持を得て長く続いた。すなわち翌年の1852年にはアメリカから優秀な叩音専門の霊媒ヘイデン夫人、同55年には物理的心霊現象を現わす大霊媒D.D.ホーム、同64年にはダーベン・ポート兄弟、同71年にはケイト・フォックス(前出)、同76年にはマーガレット・フォックス(前出)が次々にアメリカから来て、欧州各地で実験会を開いたため、はじめは賛否両論に分かれて激論を闘わした新聞紙上の論説も、次第に心霊現象の実在を認めるようになり、知名なロンドン大学の数学教授ド・モルガン(デ・モーガン)、社会主義者ロバート・オーエンほか多数の学者、政治家、知名人もこれを支持した。大政治家グラッドストンも公式の席上で「心霊現象の研究は、現在、最も急がねばならぬ重要な問題である」と演説している。
 
 亡霊学会の最初のまとまった仕事は、"幽霊"や"お化け屋敷”のように偶然に発生する心霊現象の資料を巡回して調査し収集することだった。この仕事はオックスフォード大学の"現相学会"のほうが着手は早かったといわれているが、1882年のS・P・R創立後も続けられ、1888年『幽霊』という本が出版され、当時、確実な証拠があった数百の幽霊とお化け屋敷の例が集められている。なお、この本はその後も補充され、1923年版の複製本が1962年にも発行された。




 オックスフォード大学の現相学会

 ケンブリッジ大学の亡霊学会にすこし遅れてオックスフォード大学にチャーレス・オースマン卿を指導者として「オックスフォード現相学会」が発足し、これには同大学出身の博物学者、思想家として知名なアルフレッド・ウォレス、ステントン・モーゼス司、バーレット教授、大科学者サー・ウィリアム・クルックス教授らが協力した。
 心霊研究の主流は、たしかにケンブリッジ大学にあったといえるが、オックスフォード大学関係者の研究が心霊知識を普及せしめ、S・P・R創立の機運を盛り上げた功績は高く評価されている。
 
  例えばクルックス教授は、当時イギリスの一流学者によって結成されていたロンドン弁証学会の「心霊現象調査委員会」が、心霊現象を認める方向にあるのを知り、科学者として、それらが馬鹿げた原因に基づくことを発見して心霊問題の混乱を一掃しようと思いたち、1870年、『クォータリー・ジャーナル・オブ・サイエンス』誌に「科学の光を浴びる心霊現象」という表題で、「どんな結果になるかわからないから、先入観をもたないで研究を始めるが、いろいろな科学的方法を用いで、正確に観察すれば、たぶん心霊学説の無価値な残滓は、魔法と降霊術の未知の淵へ追い落とされることになるだろう」
という一文を載せ、心霊反対論者の大喝采を浴びた。
 
ところが翌年、有名な物理霊媒D.D.ホーム(前出)の調査に着手して以来、彼の先入概は完全に覆えされ、彼の言によれば「心霊現象は従来の科学的常識に反する異常なもので、既知の科学的概念からは不可能だと断言したい気持と、事実として忠実に認めなければならないという理性との対立」に悩んだ。しかし彼はついに意を決し、1871年以後『新しいカの実験的研究−心霊カに関する実験」「心霊力と近代心霊学説」など、心霊現象を認める報告書を次々と発表した。むろん、彼は、著名な科学者であったため、その報告はまたまた大波乱をまき起こした。すなわち心霊主義者は双手を挙げて歓迎したが、反対者は彼の名誉を傷つけるような記事まで書いて攻撃した。しかしクルックは、これらの悪評をものともせず、実験を続け、1874年、その結果をまとめて長文の論文を発表した。
 その内容は真摯な科学者である彼が納得行くまで実験し、その真実であることを確かめた物品移動、人体浮揚、叩音光球の出現、手の出現、幽霊の出現、物体通過、物品引寄せ、直接書記(以上後記)等、従来の科学では、とうてい考えられない現象に関するものであった。




 3 クルックスの研究

 つづいてクルックスの名をいやがうえにも高めたのは、フローレンス・クックという当時15歳の少女霊媒についての報告である。これは『フローレンス・クックの霊能』『幽霊の諸現象』『ケティー・キングの最期』という3つの報告書に記載されたもので、これらの報告書から興味のある部分を抜粋してみよう。
 これらは一度も実験を見られたことのない方々には、到底信じられないことと思うが、あくまで事実であり、後に述べる説明によって理解されるものと思う。
霊媒フローレンス・クックによって出現した物質化霊は、300年前、時の英国王チャールズⅡ世からジャマイカの総督に任命された元海賊ヘンリー・オーエンス・モルガンの娘ケティー・キングだと自称した。ケティーの物質化霊が人間らしく親しみのあったことは、たとえばクルックス夫人がコナン・ドイルに送った手紙によってもうなずける。
「私の息子の一人は当時、生後3週間の赤ん坊でしたが、物質化したケティー・キングはその赤ん坊をおもしろがり、自分で抱いて軽くあやしたりしました‥‥」またクルックス教授の令嬢の1人が、「キングは自分ら子供たちを集めて南洋の面白い物語をしてくれました‥‥」
と往時を回想していることでも分かる。



 《タップ氏の記録》
 ある晩の実験会で、私は許されてキングの腕に触れた。それは大理石か蝋のように滑らかで体温も人間のようであったが、不思議なことに彼女の腕には骨がないので、このことを訊ねた。キングは微笑したが、1、2分すると、また、その腕を差し出したので、握ってみると、今度は骨らしいものが感知できた。またあるとき、すこし冗談を言ったらキングは拳を固めて私の胸を打ったので、思わずその腕を握ったらクシャクシャにしぼんでしまった‥‥。



 《マリアネット女史の記録》
 
 私はクルックス卿がキングを秤にかけるのを見ていたが、キングの物質化が全身に及ぶ場合は、霊媒クック嬢の平常の重さのちょうど半分あった。またある実験会で、列席者の1人がキングに向かい、「なぜ、あなたは1個のガス灯だけより明るい場所には出られぬか」と問うと、キングは、「理由は私にはわかりませんが、どうしてか出られないのです。今夜ひとつ試してごらんなさい。その代リ今夜はそれきり出られません」と答えた。
 そこで一同で実験の準備をし、3個のガス灯を一度にパッとつけた。部屋は白昼のように明るくなった。キングは両腕を広げ、痛ましげな表情をつくっていたが、一秒、一秒と、その体は消え始めた。その光景は、あたかも蟻人形が熱火の前に溶けるがごとくで、目鼻の輪郭が崩れ出したと見る間に眼窩だけとなり、鼻が消え、手足がなくなり体はだんだんと降りながら消滅し、ついに床の上に頭骸骨の残骸が残るのみとなり、それも間もなく白煙のごとく消えていった。
 キングの衣服はつねに白色で、布地は時によって異なり、木綿のように見えたり、毛織のように感じられたり、時としてレースのようなこともあった。実験ではしばしば衣服の端を記念にと望まれ、切って与えるが、貰った人がどんなに厳重に密封して持ち帰っても、自宅で改めると消えているのだった。
 あるとき、一同の前で私はキングの頭髪を切り取るよう言いつかったので、一生懸命でその毛を切ったが、切られた毛が床に落ちるか落ちないうちに切跡には元どおりの毛が生え、同時に落ちた毛は消減してしまうのだった。
 こうして生ける人のように我々と親しんだ彼女も、ついにこの世から永遠に去る日がきた。彼女は前から1874年5月以後は出ないと言っていたが、いよいよその月に入ると21日を訣別の日と決めた。その日、彼女は特に親しくしていた地上の友を集め、あらかじめ頼んで用意した数種の花とリボンで、手ずから花束を作り、一人一人に記念として与えた。私は鈴蘭と葵の花束を貰ったが、それは今なお私の手許にある。去りゆくキングを惜しむ私たちの気持は、ちょうど親しい者に死別するのと同じだった。そしてクック嬢には間もなくメリーと呼ぶ、ぜんぜん別の物質化霊が現われることになった。




 4 ケティー・キングの最後

 《クルックス教授の記述》

キングが、われわれ地球人の前から永久に消えることとなった前の週に、彼女は毎夜のように私に写真を撮らせてくれた。写真機は5台で、撮影は私と助手の2人で行なった。過去6カ月間、私の家の実験室の電灯の下で、キングとクック嬢を並ばせて実験したこともあるが、恍惚状態のクック嬢は不安らしく動き、ときには唸ることもあった(霊媒は光を当てると苦しがる−著者註)。
 いよいよ別れの時刻が近づいたとき、キングは私を暗室内に招き入れ、いろいろと語り、それからクック嬢の横たわる床のところへ行って彼女の体をゆすり
「覚めよ嬢よ、私は今、あなたと別れる時期が来た」
と言った。クックが目を開いて、涙ながらに、もうしばらく目を延ばしてくれるように哀願すると、
「親しき友よ、私の仕事は終わった。神はあなたを祝福してくれるであろう」
と言い、その後も私と数分会話を続けたが、クックは涙にむせんで泣きだし、ついに床の上に倒れた。私はキングの言いつけに従い、クック嬢を助け起こそうと1,2歩前に進んだ瞬間、キングはこの世から姿を消した。
 
 クルックス教授はタリュウム原子を発見し、輻射計、クルックス管を発明し、1863年王立協会員、1875年国王メダル、1894年ナイト爵位、1910年には有功勲章を受賞し、王立協会会長、化学協会会長、電気学会会長を歴任した英国きっての大科学者であるが、彼が1899年、大英帝国学術協会会長に就任した時の就任挨拶の辞中に次の句がある。

 「私の生涯中、私が世の中でいちばん評判になったのは、私が心霊の研究に従事したときのことであります一我々の科学的知識以外に、ある未知のカが存在することを証明する種々の実験記事を私が発表してから、すでに30年の年月が経っています。むろん、このことは今回、私を本会会長に選挙された皆さんのよく知るところであり、本日、私がこの点に言及するか、または、これを黙殺するかについては、たぶん、皆さんは好奇の心をもって聞かれていることと思います。しかし私はたとえ簡単でも、これについて一言したいと思います。心霊問題を無視することは卑怯の行為で、あえて私のとらぬところであります。」

 テーブル・ターニングの最初の研究家、フランスの大臣ガスパラン伯は、1853年パリ、1857年ニューヨークで『心霊学説の科学』を、ペンシルバニア大学の化学教授ロバート・へーア博士は『霊の出現の実験的研究』を、ニューヨーク州最高裁判所判事で上院議員ジョン・エドモンドはニューヨーク・トリビューン社から心霊シリーズを出版するなど、欧米ではすでに百年以前から、多数の心霊関係の印刷物が続々発行されるようになった。






 第4章 心霊科学について

 霊魂によってひき起こされる現象を心霊現象といい、心霊現象と霊界の事象を系統的に研究、整理して、一般約法則を見いだし、これを応用する学問を心霊科学という。


1 常識という壁

 人間の常識は、個人によって相当違うが、宗教や国や時代によっても非常に違う。ところが人間は現在の自分の常識こそ唯一の真理と思いこみ、これと違う事柄を誤りと考えることが多い。政党や宗教の宗派間の闘争などは、その代表的な現われの1つと思う。

 今でこそ、科学知識が普及し人々が当り前と思っている事柄でも、それが発見され、人々の常識となるまでには、いろいろな悲喜劇、深刻な問題をひき起こした例が極めて多い。そしてその事柄が重大であればあるほど、世間の堅固な常識の壁を破るのに永い時間を要したのである。
 
 昔、ギリシャピュタゴラス派の学者たちが地動説を発表したとき、プラトンアルキメデスのような大学者までが、「地球が回転すれば、人間は逆立ちになってしまう。それより真っ先にピュタゴラス派の連中が気狂いになるだろう」
と言って嘲笑した。その当時の地動説の反対者は、それから2000年後、ガリレイを宗教裁判にかけたローマ法王ウルバン八世たちと同様、地球が回転することなどは真にありえないと信じていたのである、

1750年、ベンジャミン・フランクリンが初めて雷は電気であるという論文を発表したとき、ロンドン学士院会は悪罵を浴びせて、雷の電気説を誰も信じなかった。

1769年、バリの学士院会は、リュッセに落ちた隕石を、「天から石が落ちるはずがない」と言って否定した。その翌年、フランスのジュリアック村役場が、畑や屋上に降った多数の唄石の調査書を作ったところ、当時の新聞は一斉に、その馬鹿らしさを論評した。

1772年、ラボアジュが空気は酸素と窒素が主成分であることを発表した時、有名な液体比重計の発明者ボーメまでが2,000年前からの火、土、水、空気の4元説の正しいことを主張して、ラボアジュの説に反対した。

1786年、蒸気船がフィッチによって発明され、試運転も成功したが、フランス科学協会は火と水とを結合した発明の馬鹿らしさを嚥笑し、政府に不利な上申をしたため実用化されなかった。またアメリカ人フルトンも、フランスで蒸気船を発明したが認められず、アメリカヘ帰って実現できた。

1786年、フランスのルボンはガス灯を発明したが、人々は「灯心のないランプが燃えるはずはない」と言って使わなかった。ロンドンにガス灯がともったのは、それから20年後である。

1796年、ジェンナーが種痘接種法を発見したとき、学者、友人に嘲られ、民衆の激昂にあって一時は外国へ逃避することも考えた。人々は種痘した子どもは顔が牛に似、声まで牛に似てくると真面目に考えた。

1878年、バリ科学協会の講演会で、エジソンの発明した蓄音機の紹介者が、演壇に登ろうとしたとき、ある学者が、「この大嘘つきを引きずり下ろせ」と叫んで殴りつけ、一騒ぎが起きた。そのとき会員のゴイヨー博土は、
「金属が人間の声を発するなどということはありえない。したがって蓄音機は耳の錯覚である」と演説して大喝采を浴びた。

 その他、この種の例は枚挙にいとまない。これによっても一般大衆は、、正しいか正しくないかは別として、その時代の常識を唯一の真理と信じこみ、これと違う事柄は常識の壁で遮断して一歩も中へ入れようとしないものであることがわかる。心霊の問題もそのひとつである。



 2 科学的真理とは

 しかし調べて見ると、常識にはきわめて曖昧なものが多い。最近の科学の進歩の状況をみて、科学は人間の謎をほぼ解明しえたと考えている人々もあるかも知れない。しかし実はまだまだ、いや永久に解きえないと思われる問題がたくさんある。たとえば我々は地球上に棲息しているが、この地球がどうして出来、将来どうなるのかわからない。また、我々は地球上で地球の引力の中で生活しているが、どうして物質には引力があり、またその引カがどういう伝達機構で他の物質に伝わるのか全然わかっていない。我々は毎日ラジオを聞き、テレビを見、四六時中、電波の中で暮らしているが、この電波がどうして空間を伝わってゆくのか、これもよくわかっていない。それよりも生物がどうして発生し、心がどうしてできるのか誰にも答えられない。
 このように考えてくると、わからないことばかりであるのに、実際は科学者は引カを利用して人工衛星を飛ばし、電波を利用して地球の裏側でもテレビを見えるようにし、生物学を利用して酒やペニシリンを作っている。一体これはどういうわけだろうか。
 それは科学がどうして(Why)という問題の答は哲学にまかせ、どうなっているのか(How)という」問題探究に努力してきたからである。すなわち、どうして物質には引カがあるのかとか、どうして心ができるのかという物の根本に関する、人間には解きえない問題には触れないで、それがどうなっているかということを調べ、それを法則づけ、その利用を考える。これが科学なのである。

 この法則付けは普通、次のように行なう。すなわち、我々が従来の科学的常識では説明できない現象にぶつかった場合、まずその現象は正しいかどうか(錯覚や計算違いや測定機の誤差や、その他の誤りではないかどうか)を調べ、それが誤りでないことがわかった場合には、その現象が起こるために必要な原因を堆論(または仮定)する。この推論、すなわち新仮説は、従来の常識では説明できなかった現象が説明できるようになることが必要であり、これが新しい法則樹立に必要な第一条件である。
 
 次にこの仮説は、他の分野の現象に対しても当てはまること、また、少なくとも他の分野の問題に矛盾を来さないことが必要である。科学法則は科学の全分野に適用しなければならない。これが新しい法則付けに必要な第二の必要条件である。
 次にこの仮説は実験や測定により、誰がやっても事実とよく一致することが確かめられねばならない。これが第三の条件である。
 
 このように、我々は自然科学上で、わからない問題にぶつかった場合、新しい法則を仮定し、その仮説によってその現象が説明でき、他の分野の問題に対しても矛盾をきたさず、実験によってその仮説どおりになっていることが確かめられた場合、すなわち三条件そろった場合はその間題を解決しえたと考え、それが一般に認められるようになると、その新法則は科学上の真理として取り扱われるようになるのである。
 
 例えば、光は細かい粒子が飛んできて物にぶつかり、はね返って我々の目を刺激するため、物が見えると考えられてきた。ところが光の屈折、偏光、干渉、回折等のいろいろな現象は、光を粒子と仮定すると説明できないことがわかり、光はエーテルの波動だという仮説が立てられ、光のエーテル説は長い間、真理と考えられてきた。
 ところがその後、量子論が発表され、さらに、光電効果コンプトン効果等、エーテルの波動説では説明できない諸現象が発見され、わかりやすくいえば、光は粒子が振動しながら飛んでくるという仮説に修正され、これによって現在の光に関する現象は全部、説明できるようになった。しかし、また将来、波動粒子説では説明できない現象が発見されて、さらに新しい仮説が設けられるかどうかわからないが、今のところ、光に関するすべての現象が、この波動粒子説で説明できるうえ、物理学以外の他の各専門分野の問題に対しても矛盾をきたさず、さらにこの仮説に基づくすべての計算は測定結果と一致するので、現在、光の波動粒子説は真理と考えられている。





 3 霊魂の存在に対する科学的考証

 心霊科学もこれとまったく同じなのである。たとえぱ人魂や幽霊や人が死ぬとき現われる夢枕などの現象は、よく調査してみると、決して偶然の一致とか、幻想や錯覚でないことがわかる。そこで、これらの現象が発生するための必要な原因をいろいろ考えてみると、どうしても霊魂のようなものが存在しなければならないという結論に達する。
 そこで人間の死後も霊魂は肉体を離れて存在し、霊能のある者のみがそれを知覚できると仮定すると、心霊現象はすべて簡単に説明できる。また、こう仮定しても物理、化学、生物学、その他すべての分野の既成の法則に対して、何ら矛盾しないばかりか、心理学や精神医学などの分野では、いままで説明できなかった現象も、霊魂説でその原因や理由が、はっきり説明できる。それゆえ、この仮説は科学的真理の第一、第二条件を満足していることになる。
 
 次に、霊魂の存在を証明する第三条件の実験については、守護霊や幽体離脱を見る実験、オーラを見る実験、招霊実験、除霊による精神病その他の病気治療、因縁調査、テレパシーの実験(以上後記)など、いくらでもある。ただ、ここで一言したいのは、以上はすべて霊能者に対しての実験であることである。すべての人に適用できなければ科学ではないという人もあるが、同じ程度の霊能者について実験し、いずれも同じ結果が得られるならば、私はこの実験は普遍性を有するものとして、科学の領域へ入れてよいと思うのである。
 
 さらに人為的実験ではないが、幽霊、夢枕、人魂など、霊魂説の仮説を実証する偶発的出来事が次々と起きており、科学的法則樹立に必要な第3条件は十分満足されているといってよい。それゆえ、霊魂説が普及して人々がこれを認めるようになれば、霊魂の存在は科学的真理であると、はっきりいって差し支えない。そしてこのようにして心霊科学は研究されて体系づけられたのである。
 これに対して霊魂否定説では心霊現象は説明できない。読者のなかには人魂を見られた方や、夢枕、幽霊その他の心霊的体験をお持ちの方が多数おられると思うが、これらの現象は霊魂否定説では1つも説明できない。すなわち霊魂否定説は科学的真理を満たすに必要な第一条件から失格であり、霊魂否定説こそ非科学的な学説なのである。霊魂否定説の支持者たちは心霊現象を、偶然の一致とか、錯覚という言葉で抹殺しようとしているが、これらの言動は科学的探求心の欠除によるものか、前章のクルックス卿の言うように、大衆の常識に従うのを得策と考える卑怯な精神に基づくものと思わざるをえない。
 
 次に、我々は、それぞれ心を持っているが、心とは物質か物質でないか、いったい何であろう。個性と自由意志をもち、将来のことを考え、新しいことを発明し、希望や理想をもつことのできるこの心の発動体すなわち心の持主を心霊学では、魂と名づけている。
 ところが従来、医学の分野では、心が何であるかわからなかったため、細胞が集まればひとりでに心ができるのだと説明してきた。ところが終戦後、アイソトープを利用する道が開け、人体の細胞の寿命が測定できるようになり、それによると、早いものは2 〜3週、骨の細胞のように寿命の長いものでも約7力月で全部新しい細胞と入れ替わることが判明した。
 ところが誰にでも判るように、細胞は変わっても、人の心は進歩はしても、心そのものは変わらない。そのため現在の医学は心の問題で行き詰っているそうだ。さらに人間の細胞、たとえば癌細胞を取り出して、それに適当な栄養を与えると、いくらでも生かしておけることが判ってきた。しかし癌患者はとっくに死亡している。それで、どうしても細胞と心は別だと仮定せざるを得なくなってきたとのことである。筆者らは将来、医学の分野自身でも、心は肉体とは別だと言い出す時期が、必ず来ると確信している。

 テレビがどうして見えたり聞こえたりするかとかは、機械学では説明できない。同様に医学や化学の知識でも説明できない。
 またプロペラを回わせば水や空気が流動する現象は機械学の理論の分野に属する現象で、電気学や医学や化学の知識ではプロペラの理論は説明できない。これによっても分かるように、現在の科学はお互いにその分野の知識がなければ、その分野の現象は理解できない専門分野の集りなのであって、ある分野に属する現象を他の分野の知識で理解することはできないのである。
 
  従って心霊科学の分野の出番は、心霊科学の知識のない人には理解できないのが当然であり、筋違いの他の分野の知識で心霊問題を批判したり、否定することは僭越もは甚だしいと言わざるをえない。そして否定や批判をする原因は、心霊問題を全然教えていないばかりか、逆に否定するように教育しているからであると思う。そのため日本人の70バーセントが、心霊現象を自身体験したり、人から体験談を聞いていながら、幻覚とか偶然の一致で片づけているのである。
 また霊を見たり、霊の言うことを聞いたりできる霊能者が少ないことも、わが国に霊魂否定説者が多い一因だと思われる。我々の調査によると日本人でやや霊能のある者は、1〜2バーセント程度である。これはちょうど色盲とか色弱のバーセントと同じで、現在はさいわい色弱の人が少ないから色弱の人の言うことは抹殺されているが、心霊問題も、これと同様で、霊能者が少ないため、それらの人たちの言うことは否定、抹殺されているのである。
 ところが、外国ではこれが逆で、心霊科学の知識は人々の常識となっており、日常の生活にまで取り入れられている。