モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

人間の運命は決まっている.....しかし運命に抗おうとすることによって人は進化する

『人の額に書かれた運命の文字はどんな水でも消せない』(モロッコの諺)



 『4次元宇宙の謎』の中で著者のバルデス氏が述べていたように睡眠中は潜在意識が“4次元宇宙”とアクセスし、未来を知ることができるようです。夢によって未来を予知したり、様々なインスピレイションを得た例は歴史上数多くあり、ウェブ上に公開されていないものを中心に御紹介したいと思います。

 まずは、レオ・タラモンティ著の『オカルトの世界』(大陸書房、S49年刊)に紹介されている事例です。

 ガリバルディ(イタリア統一に功労のあった国民的英雄である軍人、1807−1882)は、昼間、少しの間眠って夢を見た。夢の中で彼は、母親の葬式に出ていた。これは、1852年の3月に起ったことである。ちょうど、この将軍がアジアに向けて航海中のことであった。後で、夢の通信が正しいことが確かめられた。ガリバルディの母親は、実際、この日に亡くなったのである。


 また、ジュセピナ・ベルラスコは、恋人のルイギ・ドティシオの死を、同じように神秘的な方法で、ちょうどその瞬間に知らされたのである。彼は2,3年来、オーストリア・ハンガリー帝国に対する反逆罪に問われて獄中にあった。1851年10月11日の早朝、ジュセピナは自分の部屋で眠っていた。ベッドの中で転々と寝返りを打っていると、突然、親戚の者の絶望的な声が「私のルイギ!あいつらは、お前を殺してしまった!」と叫ぶのを聞いた。処刑は、正にこの瞬間に行なわれたのである。しかし、この事を知っていた者は誰もいなかった。最後まで、彼が赦免されるものと思っていたからである。



 別々の時間に、しかもかなり隔たった場所で起こった出来事の間には、しばしばある類似がある。

 2,3年前、イタリアの新聞が、バレンザポ出身の80歳になるアルフォンシナ・Cという婦人の異常な体験を、かなり詳しく報じた。それによると、彼女は、真夜中に悪夢を見て目を覚ました。その夢で、サンピ・エルダレンナに住む58歳になる娘が、動脈を切って死の床にあり、彼女はその娘に会おうとしていた。眠られない夜を過ごして、翌朝早く、生まれて初めてエルダレンナに娘に会いに出かけたアルフォンシナは、娘の家の前で再び不安に駆られてしまった。ノックしても何の応答もないのである。警察の手によって、娘は、ガスの充満した台所の床の上で動脈を切って死んでいるのが発見された。

 我々は、今、充分な間接証拠を手にしていると思う。この間接証拠は、夢が時間の枠を取り除くのと同様に、空間の枠をも取り除いてしまうことを証明している。

 1922年にノーベル物理学賞を与えられたナイルス・ボーアと1923年にノーベル医学質を与えられたカナダ人のフレデリック・バンティングの2人は昼間取り組んでいた問題の解答を夢の中で発見したのである。ボーアは魔術的な夢の幻の中で象徴的に、全く特異に円の宇宙体系を示された。彼は、量子論の理論的前提を考慮したあるものを得るのに、原子模型にどのような変化が行なわれるかを認識した。
ボーアによって有名になったこの原子模型は、今日では一般に承認されている。バンティングは夢の中でインシュリン─糠尿病に対する唯一の有効な手段であり、何年か前までは医学界はこれについて何も知らなかった─を実験室で分離する方法を発見した。


 1936年にノーベル物理学賞を受けたオーストリアの薬物学者オットー・レービィの例は、あまり知られていない。レービィは連続して2晩夢を見て、その中でよく効く薬品の完成に必要な作業の暗示を受けた。最初の夜、目を覚ました時、解読できない知らせを受けた。次の夜、無意識の自我が新たに作用していた時、起きて実験室に行き、夢の中で知った価値のある暗示を実行に移した。



 眠りは創造的な夢の潜在的力を芸術家の自由に委ねているように思われる。スティブンスンによって作られた一連の夢の中で曲解された人物はジキル博士と名付けられた。またハンス・クリスチャン・アンデルセンは夢の中で『裸の王様』の童話を思い付いた。作曲家も神秘の世界から作曲する。リヒャルト・ワグナーは午後のほんの短いうたたねの最中夢を見た。激流が自分を通り抜けて流れて行き、しかも、水のさらさらと流れる音が歌のように聞こえて来る夢だった。このようにして彼は長い間求めていた「ラインの黄金」の序曲のモティーフを見付けたのである。霊魂の深みからやって来るインスピレイションの通信はしばしば劇的な変装で登場する。おそらく夢の中で休息中の現存の意識に、はっきり焼き付けられるためであろう。




 バルデス氏の『4次元宇宙の謎』でも紹介されていた、夢を研究したJ・W・ダン(この書では「デューン」と表記されています。)にも言及があります。
 
 イギリスのJ・W・ダンは、近代において、夢の持つ予言の領域を厳密な理論的命題と、異論の余地なき実験方法とによって研究した。彼の著『時間による実験』は、今から40年前に出版されている。ダンはどうみても鋭い異常な感受性の持ち主であった。すなわち、その精神が、全く明らかにされていたい知覚(感覚に頼らない知覚)を持った特別な人間の1人であった。彼は、夢を見た後で、それを記録し、一定の手順と方法に従って誤りのないよう注意して、正夢を全て取り出し、その研究を行なった。その際、自分の夢だけでは足りないので、親しい人々にも、夢を記録する作業に協力してもらった。この実験は、長い時間と忍耐が必要であった。しかし、この一連の実験を整理し観察した結果、彼は、夢の予知の普遍的特徴を示すことができた。この普遍的特徴の中には、既に反駁されたものもあるが、逆に、これから報告する新しい研究によって実証され確認されたものもある。

 彼の最も重要な発見は、夜の予知的な活動が連続的な性格を持っているということである。この活動は、前述した内容の即物的目的に依存していない。ダンによれば、全ての人間が夜の間に、未来についての夢を見る。しかも、さらに重要なことは、この夢を思い出すこともできるということである。夢の中の体験は、目が覚めると同時に忘れてしまうという傾向がある。また眠っている者の精神は、間違った解釈や系統的とも言える歪曲に対し、非常に敏感である。夢の中の自我は、思想の連想についての有名な規則によれば、2つの光景が混じり合う傾向があり、目覚めた意識から見れぱ全く異質の自我である。すなわち、過去の体験が未来の領域に侵入しているのである。こうした点からみて、人間の隠された霊魂の広大な、本質的な特徴が理解される。夢の存在の様相は、エーリッヒ・フロムがよく用いる表現によれぱ、その中に知られざるある法則が働いている別の宇宙と、我々とを繋ぐ鍵であると言えるかも知れない。



「過去認知」にあたると思われるユングの体験も述べられています。

1924年に、彼はある夜、有名なスイスのボーリンゲンの塔で眠っていた。突然、塔の前の戸外で軽い足音がしたので目を覚ますと、彼の方に近付いてくるかすかな音楽と哄笑と言葉が木霊するのを聞いた。塔はシーンとしていて、村人達の集落からは遠く離れていた。彼はまた眠ってしまった。そしてもう1度、叫び声とやかましい何かをこする音、何かを叩く音、歌声、ハーモニカの音で目を覚ました。‥‥調べてみると、塔があるこの場所は中世には、春先、若者が徴兵のためにイタリアに出発するために、山村から別れの祝いに人々が集まった場所であった。





 次は『夢の不思議ミステリー』(青春ベスト文庫)からです。

 「夢で悪魔に魂を売り渡して得た名曲 タルティーニの『悪魔のトルテ』」

 夢が芸術活動にインスピレイションを与える例は多い。音楽のジャンルで最も有名なのは、1692年生まれのイタリアの作曲家ジュゼッペ・タルティーニのエピソードである。
タルティーニが21歳の時、夢の中に悪魔が現れる。悪魔は「魂を渡せば、曲を作ってあげよう」と、タルティーニに取り引きを申し出る。作曲が思うようにはかどらず苦しんでいたタルティーニは、彼にとって魂そのものである自分のヴァイオリンを渡してしまう。すると驚いたことに悪魔は、それまでタルティーニが聞いたこともない魅惑的なソナタを演奏してみせたのである。タルティーニは曲の美しさに感激し息を呑んだという。目を覚ましたタルティーニは、すぐさまヴァイオリンを掴むと、たった今、夢の中で聞いたばかりの曲を演奏し、それを譜面に書き写した。こうして完成させた『悪魔のトリル』は、今日でもよく演奏される美しい旋律の小品である。タルティーニは、この夢の話を天文学者の友人に打ち明け、その中で、「『悪魔のトリル』は、私の作品の中で最も優れたものだが、夢の中で悪魔が弾いた曲には比べようもなく劣っている」と言ったという。

 悪魔に魂を売り渡してもいい、と考える程心身を削る芸術家とは、こういうものなのである。私たち凡人は「夢を見る」という表現をする。日常生活では視覚に頼る比率が高く、夢の世界でもまた9割が視覚的であると言われている。けれど聴覚の発達した作曲家たちにとって「聴く」ことも夢を体験する時の大きなウェイトを占めるようだ。日本でも、4歳で失明した箏曲家の今井慶松氏が『千代の光』を作曲する時に、夢の力を借りている。今井氏はこの曲に苦心し、3日ほど眠れない夜を過ごす。その時、夢とも現(うつつ)ともなく、曲が聞こえてきたという。音楽は朗らかにウグイスが鳴く「ホーホケキョ」の声に変わった。今井氏はハッと目覚め、聞いたままを弾いてみると思い通りの曲が完成したのである。曲の中にウグイスの鳴き声の入った『千代の光』はこうして誕生したのである。




 「液状の鉛を雨垂れのように落として.....散弾の発想を夢で得た天才・ワット」
 
 世の中には、夢と上手にコンタクトをとる方法を心得ている者もいる。いわば、夢見の達人である。彼らは何気ない夢から凡人の想像も及ばないアイディアを汲み取ることができるのである。その筆頭は、発明の天才ジェームズ・ワットだろう。
 1736年、スコットランドの船大工の子として生まれたワットは、膨大な歳月を費やして蒸気機関を完成させる。イギリス社会の仕組みまで変えてしまう大発明を成し遂げた天才ワットが、散弾の製法に取り組んでいた時の話である。当時、散弾は鉛の板や棒を球形にして作られていた。しかし、このやり方は手間が掛かる。おまけに製品の出来栄えはバラバラ。どうやれば簡単に、しかも粒の揃った鉛の粒を製造できるかがワットに与えられたテーマだった。研究に取り掛かると、極端に熱中するタイプのワットは、昼も夜も散弾のことばかり考えていた。
 
 そんなある夜、ワットは夢を見る。どしゃ降りの雨の中、ワットは1人街を歩いていた。地面で跳ね返った雨のしずくは、小さな水の粒になる。その弾ける雨のしずくが、鉛に変わる。ワットはまったく同じ夢を1週間たて続けに見た。なぜだろうと心にひっかかり、夢の解釈をして閃くのである。(そうだ、鉛を溶かして、雨のように落とせばいいのだ)液体は高いところから落とすと、雨だれのように丸くなる性質がある。ワットは早速、鉛を溶かし、熱い鉛の液体を教会の塔から水の中へ落とした。鉛は細かく分かれ、真ん丸になり、水の中で冷え固まった。こうしてワットは夢をヒントに、望み通りの散弾の製法を見付けたのだった。
 



 19世紀のスイスの生物学者ルイス・アガシも、同じ夢をたて続けに見て、ある発見に辿り着いている。アガシは、夜毎、自分の夢に現れるイメージが、自分の研究中の化石の構造そのものであることに気付いた。ところが、目が覚めてノートに写し取ろうとすると、夢で見たその構造は頭から消えている。そこで、アガシはベッドの脇にノートを用意して眠ったという。翌朝、ノートを眺めると、夢で見た化石のスケッチが残っている。無意識の内に、スケッチしたらしかった。しかし、その出来栄えをみて、アガシは落胆する。まるでデタラメに見えたからだった。ところが後に、アガシが夢心地で描いた化石の構造こそが正確だったことが判ったのである。




  大きな災害や異変の前には、よく予知夢の現れることが知られている。だが、予知が被害を食い止めることばかりではなく、時には後で思い出すと、かえって皮肉な話となることも少なくない。後に「ウェールズの悲劇」と呼ばれた次の事件はそうした悲劇の内、悲惨な結末を迎えた例だ。

 1966年、イギリスのウェールズにある、アバーファンという炭坑の村での出来事。村の小学校に通う子供たちの多くが、奇妙な夢を見た。子供たちは両親に、夢の中で味わった恐怖感と圧迫感を話したが、いずれも無視された。
例えば、ある女の子は母親にこう訴えた。「学校に行ったけど、そこには何もないの。黒い大きな穴があるだけなのよ。私、怖くて泣いちゃった。」だが母親は、「変な夢を見ただけよ」と笑って相手にせず、学校に行かせた。娘の話を真面目に聞いていれぱと後悔することになるとは、その時分かるはずもなかった。もっと具体的な夢を見た女の子もいた。
「学校のあった場所が、ボタ山で埋まっていたのよ‥‥」この訴えも無視され、彼女は学校に送り出されてしまったが、2度と両親の元には帰ってこなかった。その日、村の小学校は、不安な予感に怯える子供たちを抱えたまま、側にあった石炭屑のボタ山に飲み込まれてしまったのである。生き埋めになり、死亡した児童数は100人を超え、最悪の結果となってしまった。大人たちが他愛もない戯言だと笑った子供たちの夢は、自分たちに降りかかる災害を事前に予知していたのだ。夢の中で彼らが感じた恐怖感や圧迫感は、生き埋めになった時のそれを表していたに違いない。



 大災害や戦争に関しては、よく予知夢が現れるようだが、第2次世界大戦についてのものが多く知られている。その中でもナチスドイツとの戦争では、予知夢に関する貴重な資料になるような様々な報告例がある。
次の例は、ソ連崩壊前に党の機関紙『プラウダ』で紹介された元兵士のエピソードだ。彼は対ナチス・ドイツ戦に参加していたのだが、ある時、小部隊とともに敵軍の後方に忍び込んだ。行軍で疲れ果てた部隊は塹壕に潜み、歩哨も立てずに眠ってしまった。ところが彼は奇妙な夢を見て、突然目を覚ます。夢の中に、死んだはずの彼の母親が現れ、彼を引っ張ったり彼の名を呼んだりした。そして彼に「すぐに起きなさい」と厳しい口調で命令したという。
驚いて目覚めた彼があたりを見まわすと、霧がかかっており、すでに夜は明け始めていた。彼はさらに注意深く周囲を見渡して肝を冷やした。なんと霧の中をドイツ兵が静かに近づいて来るではないか。あわてて部隊は防衛態勢をとり、かろうじて敵を退け、全滅の危機を逃れたのである。



 続いて紹介するのは、超心理学の専門家テンハフ博士によれば他の合理的説明が成り立たず、どうしても予知夢としか考えられないというケースだ。
1939年、アムステルダムに住むB・L氏が博士に語ったその夢は、ある工場の構内のある家にドイツ兵が押し入った、という内容だった。その工場は当時ガス灯関連の製品を作っていただけだし、家もただの民家だったので、なぜそこにドイツ兵が押し入るのか、わからないと言ったという。ところが、1942年、この家は「ユダヤ評議会」に買収され、事務所として使われることになった。そして、1943年、実際にドイツ兵が押し入ってきたのである。夢を見た時点では、その家が特別な役割を持つ場所になるとは考えもできなかった。しかも、夢は具体的なもので、偶然の一致にしては出来過ぎている。また、1939年にこのことを記録に残しているため、記憶違いという説明も成立しない。以上の根拠から、博士はこれを予知夢だとしている。







次は『世界の奇跡』 (庄司浅水著、教養文庫)からです。

「沈没潜水艦を救った夢」

  アランザス号のエドワード・ジョンスン船長は、全生涯を船乗りとして過ごした。彼はしばしば未来を予告するような夢を見たが、いずれも、その夢は後に事実となって現れた。

1920年9月、彼は例の如く、一連の夢を見た。夢の中で死んだ父が現れ、近い内に彼は沈没潜水艦の乗組員を救うことになるだろう、と告げた。ジョンスン船長は、夢の事を仲間に話し、ワシントンの海軍省にも電話で知らせた。仲間の内には、彼の話を真剣に聞く者もいたが、大抵は馬鹿にして取り合わなかった。しかし、その後もジョンスンの夢は続き、もし沈没潜水艦の乗組員を救おうとするならば、船を整備した上で、9月12日の午後3時までに出港しなければならぬ、と告げた。ところで、沈没潜水艦の乗組員を救おうといっても、一体、その船はどんな船で、どこに行けばその船に会えるのか、何も分かってはいなかった。いつ遭難するのか、果たして、夢のとおり遭難するのか、そんなことも分かっていなかった。
 だが、これは夢見る人、ジョンスン船長の知らぬことだが、9月11日、アメりカ海軍所属の潜水艦S5号が、ボストン港内の停泊地を離れ、外海に向かって出航していた。S5号は当時アメリカ海軍にとって最大の潜水艦で、全長70㍍、乗組員は海軍少佐チャールズ・M・クック艦長以下39名からなり、訓練のための出航命令を受けていたのだった。
 
 他方、アランザス号では、乗組員の賃上げ闘争が起こり、ジョンスン船長はこれを拒絶し、乗組員はストライキに入った。夢のお告げによれば、何が何でも12日の午後3時までには出港しなければならなかった。その前夜、船長はようやく友人2人を確保し、定員8名の甲板要員の代わりをさせることにし、辛うじて、予定日の午後3時、ノーフォークに向けて出港できた。いささか慌てたので、船長は無電技師を乗せずに来てしまった。
 
 その頃、S5号潜水艦は大西洋の沖およそ80キロのところを航行中だった。そこで急激な潜水を試みようとした際、どうした訳か、主要な誘導バルブがうまく閉まらず、通風装置に水が溢れ、やがてS5号は艦首の方を60度に傾斜させながら沈み、海面下50㍍の柔らかな底に膠着した。艦尾は辛うじて海面上に姿を現わしていたが、やがてその方も沈むかもしれない。クック艦長は極度にそれを恐れていた。増大するガスの圧力は、乗組員たちを次第に危地に追いやった。気温は135度にも達し、塩素ガスは乗組員の室にまで、少しずつ浸透し、彼らの目や喉を刺激し始めた。乗組員の1人が、ハンドドリルで、艦尾に15㎝×13㎝の穴を空けることに成功した。艦尾は海面上にあり、清浄な空気が艦内に注入された。時はすでに夜になっていた、

 その時、アランザス号は南の方に向けて航行中だった。ジョンスン船長は再ぴ夢を見、コースを東にとり、水平線上を絶えず注視するように指示された。S5号の乗組員たちが、25時間近く、地獄のような熱気と塩素ガスに悩まされていたちょうどその時、ジョンスン船長は、アランザス号の船首左舷を去るおよそ10㌔の地点で、艦尾を海面に現わしたS5号を発見した。「沈没した潜水艦が見つかったぞ!」しかし、無電技師をおいてきぼりにしてきたアランザス号は、その知らせをどこへも打電することができなかった。まもなく、アランザス号はS5号潜水艦に近付いた。それから同艦をそれ以上沈まないように、ケープルでしっかり支えた。S5号の人々に、水と空気をポンプで送った。やがてアランザス号上に遭難信号が掲げられた。
次の日、貨物船ジェネラル・ゴーザルズ号が、この信号を見て早速やって来た。そして、S5号の遭難を知ると、ただちにその旨を海軍省に打電した。駆逐艦曳船が現場に急行した。その間に、ゴーザルズ号のグレース機関長は、部下とともにS5号の艦尾に人が出入りするだけの穴を空け、全員を艦内から無事救い出した。




 スコットランドエジンバラ市に住む、新婚後まもないボルテウス夫人は、ある夜就床すると間もなく、不思議な夢を見た。夫人は夢の中で幼い男の子を見た。その子は子供部屋で、いろいろなおもちゃで遊び、傍らの椅子には、愛の眼ざしを注ぐ母親の姿が見られた。次の瞬間、子供は学校の教室で、大勢の子供たちと勉学に勤しむ10代の少年に成長していた。さらに次のシーンで、少年は若者になり、陸軍の制服に身を固め、海外での軍務に服するため、軍用船に乗ろうとしており、それを見送る両親の姿が映し出された。場面が変わると、若い兵士は再びエジンバラ市に帰り、市の警備隊長の制服を着ていた。やがて処刑の場面が描き出された。両腕を縛られた男が絞首刑を執行されるところで、警備隊長は部下を卒いてその場に臨んでいた。死刑の場面はいかにもむごたらしいものだった。刑場には大勢の群集が集まり、見物していたが、哀れな罪人が処刑されると、群衆は急に騒ぎ出し、死刑執行人に投石を始めた。この様子を見た瞥備隊長は、部下に暴徒に対して発砲を命じ、群衆の中から大勢の犠牲者を出した。さらに場面が変わり、警備隊長は失脚し、群衆に対する発砲の罪を問われ、薄暗い牢獄の中にしんぎんする身となった。やがて、憤激した群衆が牢獄に乱入し、隊長を引きずり出し、大通りで私刑を加え、死に至らしめた。
 以上はボルテウス夫人の見た、一編の夢に過ぎなかった。ところが、その夢は夫人にそのまま「正夢」となって現れた。夫人は男の子を産んだ。その子は成長すると、夫人の意志に反して軍人になり、海外駐屯部隊に配属され、数年して帰還すると、エジンパラ市の警備隊長となり、死刑囚の執行に際し、暴れ出した暴徒を取り静めるため発砲しで、多数の犠牲者を出し、それが因で失脚し、牢に繋がれる身となり、母親の努カにもかかわらず、母親の見た夢のごとく、ついに暴徒の手で私刑にかけられ、相果てた。19世紀末、スコットランドで実際にあった話である。





「夢のとおり暗殺された話」

 夢はしばしば驚くべき結果をもたらし、事件を予見することがある。

 1812年5月のある朝、イギリス首相スペンサー・パーシヴァルは、家族たちに、その前晩に見た恐ろしい事の話をした。彼は夢の中で、下院のロビーを歩いていると、突然、ピストルを持った変な男がその前に立ちはだかった。男はダークグリーン上着を着、きらきら光る真鍮のポタンをしていた。彼は無言のまま、首相に向かってピストルを発射した。弾丸は首相の胸に命中し、一命を奪ったというのだ。

 ところで、コーンウォールのレッドスルに住む富豪の実業家ジョン・ウィリアムズも、スペンサー・パーシヴァル首相が見たのと同じ夢を、首相より数日前に見た。ウィリアムズは、政治にはちっとも興昧を持たなかったが、1812年5月3日の夜に見た夢で、彼は下院の外套預り所の前に立っていた。ちょうどその時、目の前でダークグリーン上着を着た小柄の男が、もう1人の男にピストルを発射し、射たれた男は床に倒れて、そのまま息絶えてしまった。調べた結果、射たれた男はスペンサー・パーシヴァル首相であることが判明した。ウィリアムズは目が覚めると、傍らに寝ていた妻に夢の話をした。話し終わると、彼は再び眠ったが、同じ夢をまた見た。再び目を覚ましたが、夜明け前にもう1度眠り、3度同じ夢を見た,

 あまり不思議なので、ウィリアムズは親しい友人にそのことを話し、どうしたものだろうかと相談した。ロンドンに行って首相に会い、夢の話をしたらどうだろうとか、あるいは手紙でそのことを知らせたらどうだろうなどと、いろいろな案も出たが、友人たちは一笑に付して取り合わず、ウィリアムズもその考えを捨ててしまった。ウィリアムズがこの夢を見たのは5月3〜4日の夜であり、パーシヴァルが同じ夢を見たのは5月10〜11日の夜であった。
首相は夢を見た明くる朝、家族にその話をした。家族たちは、どうも変な予感がするから、今日の会議に出席するのは止めたら、と勧めたが、今日は大事な会議であり、それにそんな夢のために出席しないとあっては、後々まで物笑いになると言って、予定通り登院した。

 1812年5月11日の午前、パーシヴァル首相は、下院のロビーを歩いていた、すると、これまで首相が1度も会ったことのない、髪の毛がもじゃもじゃの男が、突然、柱の陰から立ち現われ、首相めがけてピストルを発射し、死に至らしめた。男は政府に不平を持つ精神異常者で、グークグリーンの上着を着、きらきら光る真鍮のボタンをはめていた。