モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」黒住教篇①

「 真理の世界 」

 過去は未来であり未来は過去であり全ては現在である。

 祖先は子孫であり子孫は祖先であり全ては自己である。

 東洋は西洋であり西洋は東洋であり世界は1つである。

 物質も神であり霊魂も神であり全ては神である。

 有限は無限であり無限は有限であり存在は1つである。

 瞬間は永遼であり永遠は瞬間であり時の流れは1つである。

 真理は1つであって無数であり無数であって1つである。

 これが宇宙の真理である。

 悪は善であり善は悪であり全ては自然である。

 光明は暗黒であり暗黒は光明であり全ては無である。

 理想は未来であり過去と現在は未完成である。

 これが現実の社会の姿である。


 自己を愛することは全てを愛することであり、自己を尊重することは全てを尊重することであり、自己に正直であることは全てに正直であることであり、全ての人間は自由であり平等である。自己を愛し、自己を尊重し、自己に正直である様に努めつつ、唯一筋に道を求め真理を探求することのみが人間が神の世界に到達することの出来る只一つの途である。人間完成、自己完成こそが釈尊の説き給うた天上天下唯我独尊の境地であり、即身成仏の姿であり、現世を極楽浄土たらしめる唯一つの方法である。彼方は此方であり、此方は彼方であり、あの世もこの世も全ては神の世界である。只愚かなる人々にはそれを悟ることが出来ない丈のことである。自己を信ずることは全てを信ずることであり、全てを信ずることは自己を信ずることである。それが正しい信仰の姿である。人間よ神に帰れ、神よ人間に帰れ、それのみが理想の社会を築く唯一つの途である。                     




 真理の世界と題する此の文章は私が昭和38年10月6日から岡山市大井(当時は吉備郡大井村)にある黒住教大井中教会所に日参をし、千度祓いの修行をして満願の日に得たものであります。私が日本の新興宗教に接したのは黒住教が最初であり、教会に於いて修行らしいことをしたのも黒住教のみであります。私は教会に於いて神に特別の願い事をした訳ではなく、日本神道の謎や古事記祝詞の謎を解きたいと思って日参をし干度抜を続けたのであります。黒住教で得たものは色々ありましたが、特に黒住教と仏教との興味ある対照を知ったことが私にとって大きな収穫であったと思います。


 
 次にこの文章について解説したいと思います。
 
 ◎過去は未来であり未来は過去であり全ては現在である

 時は永遠の過去から永遠の未来に向かって休む時なく流れ続けて居ります。私達が生きている時が現在であり、現在は刻々と進行し続けているのであります。現在はやがて過去になり、未来はやがて現在になります。しかし私達が死んだ時、私達にとって現在は終わりを告げ、私達は過去の世界の中に入って行くのであり、現在は後輩や子孫達の上に移って行くのであります。故に祖先達にとっては彼等が生きて活動していた時代が現在だったのであり、私達にとっては今が現在なのであり、子孫達にとっては彼等が生きて活動する時代が現在なのであります。私達は自分自身のことを中心として考えるから、自分達の生きている時丈が現在となり、祖先達の時代は過去となり、子孫達の時代は未来となるのであります。立場が変わればそれに応じて全てのものが変わって来るのであります。しかし人間は生まれては死に、死んでは生まれ変わるのでありますから、未来の人である子孫の時代の後に過去の人であった祖先の時代が訪れ、その後にまた私達の時代が訪れてくるのであります。故に私達人間の生存する時代そのものが、私達の輪廻転生と共に過去現在未来と永遠に輸廻を級り返して続いて行くのであります。



 
 ◎東洋は西洋であり西洋は東洋であり世界は1つである
 
 東洋とか西洋とかいうのは人間が便宜上つけた区別であり、名称であるに過ぎないのであり、東洋の東に西洋があり、西洋の西に東洋があるのが現実であり、絶対的な意味では地球上に東洋とか西洋とかの区別は存在しないのであります。故に東洋人とか西洋人とか、東洋文明とか西洋文明とかいう差別や偏見を捨てて、地球は1つ、世界も1つ、そうして全人類は皆同じ様に地球人類であることを覚り、皆が平和に幸福に暮らすことの出来る1つの世界を建設しなければならないのであります。



 ◎物質も神であり霊魂も神であり全ては神である
 
 宇宙は霊魂と物質の世界であります。霊魂は神の御心であり、物質は神の御身体であります。そうして私達は神の分け御魂(みたま)を心として頂き、神の御分身を肉体として頂いて人間として生まれて来るのであります。霊魂も物質も神であるならば、霊魂と物質との結合に依って生まれて来る人間を初め、全ての生物は皆神の子であると言えるのであります。しかし、霊の世界にも非常に高級な大神霊と低級な小霊との区別が存在するのであります。それは星の世界にも進化の段階で非常に大きな相違があり、巨大な恒星や小さな惑星の区別が存在するのと同じなのであります。同じ様に神の子である筈の人間にも貴賎や高下の差が生ずるのは霊の高低や大小や進化の相違に依るものであると考えられるのであります。



 ◎有限は無限であり無限は有限であり存在は1つである
 
 有限と無限とは別の存在の如く見えても別の存在ではないのであります。有限のものが無数に存在するから無限になるのであります。数学の世界では1が最少の単位であります。1が10個集まったのが10であり、100個集まったのが100であり1万個集まったのが1万であり、1を無数に集めた数が無限なのであります。故に1も有限であり、10も有限であり、100も千も万も億も兆も有限なのであって、有限の大きさの相違がある丈であります。1石の米も1粒ずつの米の集合であり、大きな数の全てが有限の最小単位である1の集合したものであり、1がどれ程集合したかということで大小や多少の相違を生ずる丈であります。例えば地球も有限の世界であり、太陽系も有限の世界であり、銀河系も有限の世界であります。その様な有限の世界が何処迄も無限に拡がっているのが無限の大宇宙であり、宇宙に存在するものは全て有限であり、有限なるものが無限に存在するから無限になるのであります。有限であって無限、無限であって有限であるのが宇宙の真実の姿なのであり、有限即無限、無限即有限というのはその様な意味なのであります。



 
 ◎真理は1つであって無数であり、無数であって1つである。これが宇宙の真理である
 
 大宇宙は1つであります。故に宇宙の真理も1つなのであります。しかし大宇宙が無数の島宇宙に、島宇宙が無数の恒星に分かれている如く、宇宙の真理もまた無数に分かれているのであります。そうして1つの島宇宙や1つの恒星を宇宙の全てと思うことが誤りである様に、無数に存在する真理の中の1つを唯一絶対の真理であると考えることも大きな誤りであります。心霊科学も物理科学も、生物学も数学も、全て宇宙の真理の中の極く一部分であるに過ぎないのであります。しかも無数の恒星や無数の島宇宙が宇宙の法則に従って秩序正しく運行している如く、無数の真理も宇宙の唯一の大真理に統一融合せられているのであって、全くばらばらに無関係に存在するものではないのであります。
 
 過去に多くの人々は宇宙の真理の一部を知ってそれを宇宙の唯一の真理、絶対の真理と信じて来たのであります。そこに現代文明の大きな誤りが存在するのであります。現在社会には多数の宗教や思想があります。しかしどの宗教も思想もそれぞれ別のことを説いています。別の教えを説いているのにどの宗教や思想にもそれぞれ何か真理が含まれているのは、どの宗教も思想も宇宙の真理の中の一部を説いているからであります。仏教もキリスト教イスラム教も資本主義も共産主義も全て宇宙の真理の中の一部分であるに過ぎないのであります。仏教聖典や聖書やコーランを幾ら学んでも宇宙の真理の極く僅かな部分しかないのであります。故に私達が宇宙の真理を学びたいと思うならばあらゆる宗教や思想や学問の中に真理を求めるべきであります。1つの宗教や思想や学問を研究して真理を覚ったと自己満足する人々は本当の真理を覚ることは出来ないのであります。宇宙の真理は1つであっても無数の部分に分かれているのであり、無数の部分に分かれていても全体が有機的に結合して統一され1つの真埋として宇宙を統制御しているのであります。




 
 ◎悪は善であり善は悪であり、全ては自然である
 
 長い歴史を通じて人類が決めて来た悪とか善とかの区別は真実の意味では正しい判断に依って決められたことではないのであります。故に善であると考えられていることが悪であったり、悪であると考えられていることが善であったりする例は非常に多いのであり、その結果として神の目から見れば悪人である人々が善人として多くの人々から尊敬せられ高い地位について多くの人々を迷わせていたり、その反対に神の目から見れば正しい人々が社会では悪人として迫害され不幸な日々を送ったりして来たのが今迄の誤った社会の真実の有様でありました。今迄地球人は善と悪について正しい判断を持っていなかったのであります。また現代人には正しい意味で善悪の基準となるものが無いのであります。善悪は神の目から見て決められるべきものであって、愚かな人間の智恵で判断出来ることではないのであります。例えば戦争をするということは特に恐ろしい罪悪であるにも拘わらず、「勝てば官軍」等と称して戦争は勝ちさえすれば正当化されてしまいますが、人間はそれで満足しても神はお許しにはならないのであります。まして戦場では多くの敵を殺した人程立派な軍人だという考え方は全く誤っているのであります。また戦争で敵方の財産を盗んだり、婦女暴行を働いたりすることは法律の上では罪にならなくても神の前には重罪となるのであります。また原子爆弾水素爆弾中性子爆弾や細菌兵器やミサイル等は使用することが重罪になる丈でなく、その様な恐ろしい兵器を生産することも発明することも重罪であります。
 
 人間は善悪の区別をしますが神の国と言うに相応しい高度の文明社会では善と悪の区別は存在しないのであります。誰も善人にならず誰も悪人にならず皆が豊かに幸福に暮らせる社会が理想の社会なのであります。社会に善悪の区別のあることが本来誤っているのであります。地球人の社会には巨万の富を貯えて驕り昂ぶった贅沢な生活を送っている人々がいる反面、土地も無く家も無く財産も無く職も無い貧しい人々もいます。また幾ら働いても一家の生活を支えることの出来ない人々もいます。真面目に働いても生活出来ない人が仕方なく豊かな人の物を盗んだり騙し盗ったりしなければならないのは社会そのものや政治が悪いのであり、社会全体の責任であると言えるのであり、盗んだり騙したりするする人丈の罪ではないのであります。皆が平等に豊かに楽しく暮らすことの出来る社会では生活苦の為に盗んだり騙し取ったりする人は居ないのであり、困っている人を助けねばならないということもないのであります。世の中に善人が出来るから悪人が出来るのであります。故に悪人を作るのは善人であるとも言えるのであります。誰も乞食や泥俸や嘘付きにならず、誰も慈善事業等せず、皆が仲良く楽しく幸福に幕らして行ける社会が神の御心に叶う正しい社会なのであります。故に理想の社会とは善人も悪人も居らず、警察も裁判所も刑務所も必要ない社会のことなのであります。正邪善悪を超越した社会が理想の社会であります。
 


 

 ◎光明は暗黒であり暗黒は光明であり全ては無である
 
 光明とは幸福に満ちた人生であり、暗黒とは不幸に満ちた人生であります。しかし何が幸福な人生であり、何が不幸な人生であると言えるでありましょうか。広壮な邸宅に住み、巨万の常を有し、高い地位にあり、名誉や名声に埋もれて、何不自由なく思うがままの人生を送っている人々を世間では幸福な人であると思っています。しかし人の一生は修行のためにあり、修行は一歩でも神に近付くためであります。修行して神に近付くためには広壮な邸宅も巨万の富も高い地位も権力も名誉も必要ないばかりでなく、却って無い方がよいのであります。巨万の富や高い地位や権力や名声を持ちながら正しく清らかな人生を送り高級な人間へと進歩向上して行くことは非常に困難なのであります。富も地位も権力も名声もしばしば人間を堕落させ邪悪にし低級に愚劣にすることが多いのであります。誤った人生を送れば死後霊界に入って悩み苦しまねぱならないことが多く、来世人間に生まれ変ってからも多くの悩みや苦しみに遭わねばならないことが多いのであります。故に常や地位や権力や名声を得て世間の人々に羨ましがられて幸福そうな人生を送っている人々こそ本当は不幸で哀れな人であると言わねぱならないのであります。富も無く地位も無く権力も無く名声も無くても神の教えを守り宇宙の法則に従って正しく清らかな人生を送っている人は素晴らしい幸福な人生を送っている人であると言えるのであります。
 
 人生にとっては学ぶことや働くことこそ最も尊い修行なのであります。そうして世の為人の為誠心を持って奉仕することもまた此の上なく尊い修行なのであります。富も地位も権力も名声も、死後あの世へ持って行くことも出来なければ来世の自己の幸福の為にも役立つことはないのであります。死後の世界迄持って行け、来世の幸福のためにも役立つものは自己が一生の間に世の為人の為に奉仕した功徳と、修行に依って覚り得た尊い真理丈であります。人間が生きて行くためには食物も衣服も住居も地位も必要であります。しかしそれは自己の生活と修行に必要な丈のものがあればよいのであって目己が一生かかっても使い切れず子や孫の代迄使っても使い切れない程の財産を持つ必要はないのであります。必要以上に多くの富を持ち死蔵することは無駄であり誤りであり罪であります。或いは多数の会社の社長や重役を兼ね、多くの団体の役員などを兼ねている人々がありますが真面目に真剣に専業に打ち込むつもりならぱ多くの地位に就くべきではないのであります。人間の本当の幸福は多くの富を貯えることではなく、与えられた富を活かして世の為人の為に尽くすことであり、地位や権力を求めて自己の利益や幸福や繁栄を図ることではなく、与えられた地位や権力を活かして社会のために奉仕することであります。故に富を得て富を活かさず、地位や権力を得ても地位や権力を活かすことが出来なければ罪や穢れとなって、死後や来世の苦しみや悩みの原因となる丈であります。不当な富や地位や権力を持つことは借金を負ったり罪を背負ったりするのと同じなのであります。
 
 多くの富は無くとも僅かな富を活かして自分自身の修行や社会への奉仕に努めることは神の国に多くの財産を蓄えて死後の幸福や来世の幸福を図っているのと同じなのであります。イエス・キリストは地上に宝を貯えず天国に宝を貯えよと説いて居り、天光教では死後、先の世迄も持って行けるのは神徳であるから、霊の幸福の為にも生きている間に神徳を積む様にと説いていますが、人間は生前丈の幸福を考えてはならないのであり、死後の幸福や来世の幸福をも考えねばならないのであります。巨万の富や強大な権力等を持って人に羨しがられる様な人生を送っている人は死後や来世の不幸の原因をせっせと作っているのと同じであります。そうして財産も地位も権力も名声もなくても、正しく清らかな人生を送り修行と奉仕に努めている人々は死後や来世の幸福の種を蒔いているのと同じなのであります。故に光明に満ちた人生を送っていると思われている人々は本当は暗黒の世界に住んでいるのと同じであり、暗黒の世界に住んでいると思われている人々が本当は大光明の世界に生きていると言えるのであります。

 


 
 ◎理想は未来であり過去と現在は未完成である
 
 人間個人にとっても社会にとっても全てが完成し、もはやこれ以上進歩向上することは出来ないとか、改善の余地はないということは決してないのであります。人間自身も社会も、過去と現在は不完全であり未完成であって未だ幾らでも修行して進歩向上し、社会の改革や文化の発展を図らねばならないのであります。私達は常に不完全、未完成の世界に住んでいるのであります。完成の時は永遠の未来であり、理想の彼岸は無限の彼方にあります。故に私達は常に未完成であり不完全であることを自覚して、更に進歩向上を目指して永遠に努力を続けて行かねばならないのであります。

 人類にとって理想の社会はこれから将来私達が努力して建設して行かねぱならないのであって、過去に栄えた社会も現代の如何なる社会も全ては不完全であり未完成なのであります。過去に栄えた大帝国も1階級や1民族の利益を守るために建設せられたのであり、現代の自由主義世界も共産主義世界も一部の人々の利益や幸福を守るために存在しているのであり、全人類の利益と幸福、世界永遠の平和の約束せられる理想の世界が建設せられたことは今迄1度も無かったのであります。病気も貧困も災難も公害も戦争も無く、皆が健康で豊かに楽しく幸福に暮らして行くことの出来る社会が理想の社会であります。故に大英雄や大政治家や大将軍や大宗教家などが存在する社会は決して正しい社会ではなく、軍隊や軍備や警察や裁判所や刑務所や、病院や養老院や孤児院等の必要な社会は決して理想の社会ではないのであります。病気も貧困も災難も公害も犯罪も戦争も無くなり、皆が正しく清らかに、健康で豊かに幸福に、皆が伸良く協力し合って楽しく平和に暮らして行ける社会が地上天国であり神の国であり理想の世界であります。今の地球人類にとってその様な社会を建設することは不可能に近い程困難であると言えます。しかし私達は如何なる困難をも乗り超えて理想の世界を建設するために永遠に努力を続けて行かねぱならないのであります。




 
 ◎自己を愛することは全てを愛することであり、自己を尊重することは全てを尊重することであり、自己に正直であることは全てに正直であることであり、全ての人間は自由であり平等である。
 
 自己を愛するということは自己の利益や幸福を図ろうとすることであります。しかし自己を愛する余り、他人の気持ちや立場や都合を考えず、他人の利益や幸福を無視するならば、必ず他人の怒りや憎しみや怨みを受けるでありましょう。そうして一時的に利益や幸福を得た様でもやがてそれは失われる時が来るのであります。その反対に他人の利益や幸福の為に尽すならば、他人に感謝され他人に愛され親しまれ尊敬せられて自分自身も利益を得られるのであります。しかし100人の人を愛しても1人を憎んだために、1人から怨まれ生命を奪われて不幸な一生を終わるということもあります。100人を愛し100人から愛されても1人を憎んで1人から憎まれることは決して幸福なことではないのであります。皆を愛し皆から愛されるのが、最大の幸福であると言えるのであります。全てを愛するということが結局最も自己を愛することなのであります。全ての人々が自己をも含めた皆を愛し、社会全体の利益や幸福のために奉仕し合うならぱ世の中の人々が1人残らず幸福になれるのであります。故に本当に完全な意味で自己を愛するということは自分1人を愛すればよいということでなく、全ての人々を愛するということなのであります。
 
 自己を尊重するということもそれと同じなのであります。自己を尊重するということは他人に自慢したり、驕り昂ぶったり、自己の家柄血統や学歴や財産や地位や名声などを他人に見せびらかし他人に誇るということではないのであります。自己を尊重するということは、他人に対して自己を偉く見せようとか立派に見せようとすることではないのであります。また他人を軽蔑し他人を卑しめることが自己を尊重することになるのでもないのであります。自分1人が尊い、自分1人が偉い、自分1人が賢いと思って他人を軽蔑し、他人に対して傲慢な態度を取れば、他人からも軽蔑され、憎まれることになり結局は自分目身を卑しい人間にしてしまうのであります。自己を誇るのでもなく他人を見下げるのでもなく自分自身の修行や進歩向上の為に努力し少しでも神に近付く様に努力することが自己を尊ぷことなのであります。
 
 孔子は「古の学者は己の為にす、今の学者は人の為にす」と説いています。これは昔の学者は目分自身の修行の為に努力していたが、今の学者は他人に認められたい、他人に褒められたい為に努力しているという意味であります。他人が認めてくれようと認めてくれまいとそんなことは気にせず己自身の修行と進歩向上の為に努力するのが自己を尊重することであります。また常に謙虚な心で多くの人々に接し、多くの人々を尊重し、多くの人々に学ぶ様に心掛けるならば多くの人々からも信頼され尊敬されることになるのであります。故に全ての人々を尊重することが自己を尊重することにもなるのであります。自己に正直であるということは自己に忠実であるということであります。全てに正直であるということは全てに忠実であるということであります。他人を騙し他人を誤魔化そうとすることは大きな罪であると共に愚かなことであります。他人を騙し誤魔化したりすれば結局自己が信用を失い自己が損をすることになるのであり、自己も他人に騙されることにもなるのであります。故に他人に不正直であるということは自己に不正直であることになるのであります。
 
 自己が他人を偽ることは愚かなことであります。しかし自己が他人に騙されるということは不幸なことであります。故に全ての人々に正直であり忠実である様に努めるならば、全ての人々も自己に対して正直であり忠実であってくれるのであります。全てに対して正直であり忠実である様に努めることが自己に対して正直であり忠実であることになるのであります。
 また人間には様々な欲望がありますが、それらの欲望の赴くままに生きることは危険なことであり、正しいことでないのであります。例えば健全な男女の恋愛や結婚を罪悪視して一生を独身で過ごさせようとする如きは仏教やキリスト教に見られる大きな矛盾でありますが、その矛盾に気付かないで修道僧や修道尼等になって独身で一生を送る人々は自己に正直でなく忠実でない人々であると言わねばならないのであります。

 神が人間に与えて下さった自然の摂理に叛いて幸福な人生を送れる訳はないのであります。誤れる宗教の戒律に誤魔化されて自分は神に忠実な善良な人間であると信じ、正常な人生を送っている人々を邪悪で愚かで穢れた人間であると考えることは自己に正直でもなく忠実でもなく、更に他人にも正直でなく忠実でない人であります。心が本当に正しく清らかであるならば他人を騙すことがない様に他人に騙されることもないのであります。また偽りの宗教の戒律や倫理道徳等に騙されることもないのであります。自己に正直である様に全てに正直であり、全てに忠実である様に自己に忠実であることが本当に正直で忠実な生き方であります。しかし全ての人間は自由であり平等であります。正しく清らかな人生を送るということは自己の自由な意志で実践すぺきことであって他人に強制したり強制せられたりすべきことではないのであります。
 
 また全てを愛し、全てを尊重し、全てに正直であるということは邪悪や偽りを愛し尊重するということではないのであります。全てを愛せよということは泥俸や詐欺師やごろつきや乞食をも愛せよと言うことではないのであります。盗人を盗人として愛し、詐欺師を詐欺師として愛してはならないのであります。盗人も詐欺師もごろつきも乞食も本来は神の子として尊い修行を積み幸福な人生を送るために生まれて来ているのであります。故に盗んだり、騙したり、物貰いをしたりしないで正しい真面目な人間として生きる道を与えることが全てを愛し全てを尊ぶことなのであります。盗人であっても神の子であることを認め、盗みを止めて神の子に相応しい人生を送る機会を与えることが盗人をも愛することなのであります。また盗人に金を出せと言われて無いと答えるのは不正直とか他人を騙すことにはならないのであります。誰しも幸福な人生を送る権利を有しているのであって、他人の自由や平等を犯そうとする盗人や詐欺師等から自己の安全を守ろうとするのは正しいのであって、彼等の犯罪を助長し自己の利益や安全を犠牲にする必要はないのであります。故に全てを愛すると言っても邪悪な行為を愛する必要はないのであり、神の教えに叛いている人々を尊敬する必要もないのであり、押込強盗に財産の在り処を教える必要もないのであります。
 
 世間ではよく「罪を憎んで人を憎まず」と言う人がいます。しかし罪そのものを憎んで一体何になるのでありましょうか。自己の肉親を殺されたりして、憎いのは罪であって殺した人ではないと言って慰められるでありましょうか。社会や政治が悪いから良民が罪を犯さねぱならなくなったり、心が穢れ乱れているから罪を犯したりするのであります。罪を憎んで人を憎まずと言うのは全く非現実的であり無意味な言葉であります。イエス・キリストは「汝の敵をも愛せよ」と説いています。敵を憎むということは確かに良くないことであります。しかし敵を敵として何時迄も愛し続けることは出来ないのであります。お互いに邪悪な心や欲の心を持つからこそ敵味方に分かれて争わねばならないのであります。故に他人を敵にし、敵を持つということが誤りであり不幸なことであります。敵を愛することでなく、敵を作らず、皆が1つ心になって仲良く協力し合う様に努力しなければならないのであります。敵を敵としたままで愛するのではなく、敵味方の相違を超えて皆が理解し合い、和解し合い、1つの心になって協力し合い愛し合う様に心掛けることが本当の意味で敵をも愛することになるのであります。





 ◎自己を愛し、自己を尊重し、自己に正直である様に努めつつ、唯一筋に道を求め真理を探求することのみが人間が神の世界に到達することの出来る只一つの途である。

 本当に正しい意味で自己を愛し、自己を尊重し、自己に正直である様に努力しつつ、神の御教えを守って賢明で高級な人間に成る様に修行に勤しむことのみが人間が神の世界に到達することの出来る只1つの方法なのであります。自己を愛せよ、自己を尊重せよ、自己に正直であれということは神から人間に与えられた命題なのであります。故にどの様にして自己を愛し自己を尊重し自己に正直であろうと努めるかということは各自が自分の自由意志で考え実行すべきであります。

 例えば此処で各自に「自己にとって最大限度の利益になる様に商売をしてみなさい」と命令せられたと仮定してみましょう。或る人は自己が最大限度に儲けるためには商品を安く仕入れて高く売るに限ると考えるでありましょう。また或る人々は安物の粗悪な商品を仕入れて高級品に見せかけて高く売りぼろ儲けをしようと考えるでありましょう。また或る人は商品の目方や数量や価格を誤魔化して余分に儲けようとするでありましょう。また或る人々は仕入商品を値切り倒したり、代金を踏み倒したりして目己の利益を図ろうとするでありましょう。また或る人々は他店より安く仕入れて安く売り大量販売で利益を増やそうとするでありましょう。また或る人々は同業者を倒し市場を独占して利益を1人占めにしようとするでありましょう。また或る人は仕入先の利益を考え、消費者の利益を考えて皆に奉仕しようとするでありましょう。この様に自己が利益を図る手段は多数あります。しかし多くの方法の中でどの方法が最も正しいか、どの方法がもっとも効果があるかということは自ら実践し体験を通じて覚らねばならないことであります。それが人生の修行なのであります。そうして愚かな人や邪悪な人や穢れた人や欲深い人は他人の利益を無視して自分の利益ばかりを考え、心の正しく清らかな人は自己の利益を犠牲にしてでも皆の利益を図ろうとするでありましょう。そうして誤った方法で自分ばかりの利益を図ろうとした人々は失敗して自分の誤りを思い知り、考えを改めねばならなくなるでありましょう。様々な失敗を繰り返し悩んだり苦しんだりしなければ真理を覚ることが出来ないのは低級な人であります。他人の利益を図って己の利益を得ることの出来る人は高級な人なのであります。自己を愛することも、自己を尊重することも、自己に正直であることもそれと同じであります。
 
 自己を愛せよ、自己を尊重せよ、自己に正直であれという神から与えられたこの命題を如何にして実践して行くべきかということについて最高最善の解答が、自己を愛することは全てを愛することであり、自己を尊重することは全てを尊重することであり、自己に正直であることは全てに正直であることであるということなのであります。しかしこの様なことを述べると、兎角誤解する人があります。宇宙学教室で田原女史の教えを生かじりし、いい加減な観念的洗心に耽って自己満足している連中は、自己を愛することは全てを愛することであるというのは誤りであり、全てを愛することが自己を愛することであるというべきだと屈理屈を並べます。彼等は単に文法論丈で正邪の判断を下す能力しかないのであります。人間は自分目身の為に自分で修行をするのであります。故に先ず自分の立場で自分自身の利益や幸福や進歩向上を図る様に努カしなければならないのであります。自分の利益を図る道を知って他人の利益を図る道をも知るのが順序であります。故に宇宙学教室の連中が言う様に「全てを愛することが自己を愛することである」というのは人間が長い間の修行の結果得た結論であるに過ぎないのであり、初めに説くことではないのであります。
 
 孔子は「修身斉家治国平天下」と先ず自分自身の修行の必要を説いているのであります。仏教では「上求菩提下化衆生」と説いています。即ち先ず自己が上に真理を求めて修行し、然る後に後輩の指導をせよ、ということであります。それと同じで先ず自己を愛することを知り、自己を尊重することを知り、自己に正直であることの必要を覚った後に全てを愛し、全てを尊重し、全てに正直であらねばならないことを覚れよ、ということであります。自己を愛することの出来ない人に他人を愛することは出来ず、自己を尊重することの出来ない人に他人を尊重することは出来ず、自己に正直でない人が他人に正直であることは出来ないのであります。人間は他人の為に修行するのではなく、自分自身の為に修行するのであります。故に先ず自己を愛し、自己を尊重し、自己に正直である様に努力し修行することを通じて、全てを愛し、全てを尊重し、全てに正直であらねばならないことを知るのであり、そうして全てを愛することが自己を愛することであり、全てを尊重することが自己を尊重することであり、全てに正直であることが自己に正直であることを覚るのであります。それが修行の順序であり筋道なのであります。自己を愛することを知らない者に皆を愛することを説いても理解出来る訳も無ければ、自己を尊重することの出来ない者に全てを尊重することなど出来る筈も無いのであります。宇宙学教室にその事を覚ることの出来る者も居なかったということは宇宙学教室が田原女史1代のものでしかなかったということであろうと私は思うのであります。
 
 「幾何学に王道無し」という言葉がありますが神の世界に到達するのに、楽で早くて便利な近道は存在しないのであります。人間は正しく清らかで、愛や誠や感謝や満足の心で生きている時にのみ、世の中の正邪善悪や理非曲直や矛盾や誤りを見分けることが出来、迷うことなく、立止まることなく、後退することなく、横道に逸れることなく、常に正しい道を着実に神の世界に向って進んで行くことが出来るのであります。しかし邪悪な心や欲の心や穢れた心や低級な心で如何に一生懸命に勉強しても真理を覚ることも出来ず、神の世界に到達することも出来ないのであります。他人よりも楽をしたい、他人よりも偉くなりたい、他人よりも豊かになりたい、他人よりも早く出世したい、他人を見下して生活したいという様な穢れた心で有名大学へ入学し、他人を蹴落として良い成績で卒業しようとする学生達に真理を覚れる訳はなく神の世界へ到達する途もないのであります。神の御心のままに正しく清らかな人生を送りながら進歩向上の為に修行の努力を続ける人のみが、探し求める心なくして自ずから真理を覚ることが出来、到達しようとする心なくして自ずから神の世界に到達することも出来るのであります。
 
 宇宙学では「見たい聞きたい知りたいと思うのも欲である」と説いています。真理は無限の彼方に存在する様に私達の周囲にも無数に存在するのであります。しかし人間が穢れた心で真理を求めるから何時迄経っても目の前にある真理すら見付けることが出来ないのであります。俳人松尾芭蕉は「静かに見れぱ物皆自得すと言えり」と述べていますが、私達が清らかな澄み切った心に還るならば今迄見えなかったものが見え、聞えなかった声が聞え、判らなかったことも自ずから判る様になるのであります。心の目が盲目となり、心の耳が聾となり、心が混乱してしまっているために、幾ら、見たい聞きたい知りたいと思っても、真実の姿は見えず、神の声は聞こえず、真理は覚れないのであります。故に真理を求めるためには、心を洗い清めて心の眼を開き、心の耳を開き、心の穢れを取り去る様に修行すべきであります。見たい聞きたい知りたいの欲の心を捨てて、心を洗い清める時、求めずして自ずから見たいものが見え、聞きたいという様に解釈することは大きな誤りであります。唯我独尊の我とは私とか自己という普遍的な意味であって、甲にとっては甲自身が我であり、乙にとっては乙自身が我であり、丙にとっては丙自身が我なのであります。
 
 故に天上天下唯我独尊の意味を判り易く拡大して説明すれば、天地の間で自分自身程尊い者は無い、私にとって最も尊いのは私自身であり、あなたにとって最も尊いのはあなた自身であり、彼にとって最も尊いのは彼自身であり、全ての人にとって最も尊いのはその人自身なのである。故に全ての人々は自分自身の尊さを覚り、自分を大切にする様に心掛けねばならない。かけがえの無い自分自身を何よりも大切にしなければならないという意味になるのであります。即ち仏教は自己尊重、個人の尊厳を説く宗教なのであります。しかし自己尊重や個人の尊厳を重んずることの意味を誤解している処に、仏教の大きな矛盾や悲劇や堕落や退廃があると言わねばならないのであります。自己が現在1人の人間として自己の意志や個性を持って社会の中に生きているということは明らかな事実であります。そうして自己程尊い者はないという意味は他人と自己とを比較して他人よりも自己の方が偉く立派であるという意味ではないのであります。即ち「私は誰よりも強い、私は誰よりも賢い、私は誰よりも美しい、私は誰よりも豊かだ、だから私が世の中で1番偉く立派なのだ」という様な意味ではなく、「私は誰よりも弱くとも、私は誰よりも愚かであろうとも、私は誰よりも醜くとも、私は誰よりも貧しくとも、私にとっては私自身より尊く大切なものはない」という意味なのであります。自分にとって自分より尊いものはない、だから自分自身を尊び大切にしなければならないというのが仏教の神髄であると言えるのであります。
 
 また他人が自己より賢明であるということは自己にとって何の誇りになることでもありません。他人が自己よりも豊かであることは自己が豊かであることとは別であります。他人が自己よりも幸福であっても自己には何の足しにもなりません。自己が賢明であり、自己が豊かであり、自己が幸福であってこそ、自己が人間として生きて行くことが素晴らしいのであります。しかし自己よりも賢明な、或いは豊かな、或いは幸福な他人を見て羨ましく思っても、怒ってみても、或いは憎んでみても、それに依って自己が賢明になれることも、豊かになれることも幸福になれることもないのであります。それと反対に自己よりも愚かな、貧しい、不幸な人を見て笑ったり、憐れんだり、軽蔑したりしても、それに依って自己が賢明になれるのでもなく、豊かになれるのでもなく、幸福になれるのでもないのであります。また自己の愚かさや貧しさや不幸わせを怒ってみても怨んでみても悲しんでみても、それに依って自己が救われることもないのであります。
 
 自己よりも賢明な他人もあれば自己よりも愚かな他人もあり、自己よりも豊かな他人もあれば自己よりも貧しい他人もあり、自己よりも幸福な他人もあれば自己よりも不幸な他人もある、それらの諸々の存在を知ることが出来るのは自己が人間として存在しているということ、即ち「我」があるからであります。また父母があり、兄弟姉妹があり、夫や妻があり、多くの友人知人があるのも自己があるからであります。故に自己が存在するという事実こそ何物にも増して尊いのであります。しかし全ての人々にとって愚かであるよりも賢明である方が尊く、低級であるよりも高級であることの方が尊く、邪悪であるよりも正しい方が尊く、貧しいよりも豊かである方が尊く、不幸であるよりも幸福である方が尊いのが事実なのであります。赦に自己の尊さを覚るならば自己が賢明になり、高級になり、正しい人になり、豊かになり、幸福になる様に努カしなければならないのであります。しかし他人の努力は他人の上に帰し、自己の努力は自己の上に帰すのでありますから皆が自分自身で正しい努力を重ねる以外に自己が賢明になれることも幸福になれることもないのであります。
 
 宇宙学では自分で自分を救うことは出来るが他人を救うことは出来ないと説いている様に自分で自分の進歩向上の為に修行する以外には自分が救われることはないのであり、自分で努力しないで他人に救って貰う方法はないのであります。自分自身がより賢明で高級な人間になるために進歩向上の努力をすることが自己を尊ぶことであって、自己を誇ったり、他人を軽蔑したりすることが自己を尊ぶことだと考えるのは全く誤っているのであります。自己が尊い様に全ては尊く、全てが尊い様に自己も尊いのであります。そうして自己が存在するから全てが存在し、全てが存在するから自己も存在し得るのであります。故に全ての存在を認め、全ての尊さを覚らねばならないのであります。