モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」ー 真理の彼方に 

第2章

 行こうよはるか希望の大空へ 真理のかがみにうつりつつ   行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限にうつりつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 貞理の姿をよそいつつ     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限をよそいつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の衣をまといつつ     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限をまといつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の絆を結びつつ      行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を結びつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の証明を重ねつつ     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を重ねつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の世界を造りつつ     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を造りつつ
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理の世界を後にして     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を後にして
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理の力を超えて行く     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を超えて行く
 
 行こうよはるか希望の人空へ 人智の力を超えて行く     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を超えて行く
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理の世界を神として     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を神として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを御子として   行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を御子として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを父として    行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を父として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを夫として    行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を夫として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真珪のあなたを友として    行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を友として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを御師として   行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を御師として
 
 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを君として    行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を君として

 行こうよはるか希望の大空へ 真理のあなたを下僕として   行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を下僕として

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の御樟(みさお)を渡しつつ 行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を渡しつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理のかなたを求めつつ    行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を求めつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 真理の故郷に帰りつつ     行くは遠きかなた近きかなた  有限無限に帰りつつ

 行こうよはるか希望の大空へ 人智の故郷に帰りつつ     行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限に帰りつつ





 此の「真理のかなたに」と題する詩は昭和38年8月、仏教の信仰や勉強をしている裡に霊感に依って得たものであります。私の生家は真言宗であり、昭和38年6月頃から霊が私にしきりに働きかけ、遂に私は岡山市三門の真言宗醍醐派に属する成願院不動尊に参って同所の高森禅道師に色々の教えを受けたことがありました。もっとも私は高森禅道師に仏教の教義に就いて教えを受けたことはないのであります。高森師から教えられたのは日本神道の神のことについてであり、高森師は私が尋ねたことのみでなく、尋ねないことについても不思議な話を聞かされたものでありました。その頃高森師は私に「安原さん、あなたが今考えていることは正しい、しかし残念ながらあなたには学歴がないから、誰もあなたの言うことを認めないのだ。あなたに学歴と地位があったらあなたの説は今すぐにでも世間に受け容れられ世界を動かすことが出来るのだ」と言われたことがありました。高森禅道師との出合いは霊に依る繋がりであり真に思い出深いものがあります。しかしその高森禅道師は早く亡くなられ、後を継がれた子息の高森昌道師も早く亡くなられ、今は私の妻の高校時代の同窓生である高森昌道師夫人が成願院の後を継いで居られるというのも何かの因縁の様な気がします。私は高森師からは仏教の教えについて何も学んだことはなく、自分で色々と仏教について研究していたのであります。
 
 その頃私は霊的に非常に多くの体験をすると共に、自然科学についても色々と研究して居りました。それは流体力学や生物学とそれに関連する遺伝学或いは優生学、人類学等の新分野の研究、新しい熱力学、天文学等の研究であります。何故その様な研究をする様になったかと言うと、現代文明はあらゆる分野に亘って非常に多くの矛盾を含んでいるのであり、このままでは迷路に踏み込んで抜け出ることの出来ない様な状態になっていると感じたからであります。私が現代科学の中で例えば物理学、化学、生物学等に大きな矛盾が存在すると気付いてその謎を解明すべく努力する様になって初めて、日本神話に秘められた驚くべき謎や天孫降臨の真実の意味等が理解出来る様になって来たのであります。その様な研究の成果と共に得たのがこの「真理のかなたに」の詩であります。
 
 さて今日、アメリカとソヴィエトの政府や科学者は人類の宇宙への進出を夢みて多くのロケットや宇宙船を月や火星や金星等に向けて発射していますが、それは大きな誤りであります。ニュートン万有引力の法則やアインシュタイン相対性理論には非常に大きな矛盾が含まれていると私は思うのであります。故にその様な誤った理論の上に発展して来た近代科学や近代技術そのものが、取り除くことの出来ない大きな矛盾を含んでいるのであります。物理学的に言って、現代のアメリカやソヴィエトのロケットや宇宙船では人類の本格的な宇宙への進出は不可能なのであります。科学者達は近い将来に原子カエンジンを利用するロケットや光子ロケットなどが完成して人類が宇宙へ進出する様になると信じていますが、それは絶対に不可能なのであります。大型のロケットを多数打ち上げることは地球の地軸を異常に傾斜させ、異常気象とか地震等を起こす原因ともなり、更にそれが激しくなれば地球の自転や公転が狂い出し地球が軌道を外れて彗星や流星になり全人類が一瞬の裡に滅亡する危険も存在するのであります。

 さて地球人類にとって地球以外の星に人類が住むかどうかということは非常に重要な問題であります。理論的には銀河系内丈でも地球と同じ様に生物が存在出来そうな惑星は数百万個も有るだろうと言われています。しかもそれらの惑星の中には高度の文明を創造している人類が相当数あると考えられるのであります。しかし今の地球人類にとって地球以外の星に人類が生存するということを実地調査に依って確認する方法は何もないのであります。太陽系内の星にしても人類が生存しているかどうかということは科学的には証明せられて居りません。しかし太陽系内の諸惑星に人類が住んでいるという説は存在します。それはスウェデンボリ、宇宙学教室の田原澄女史、白光真宏会五井昌久氏等の人々の他、UFO研究家等が宇宙に人類が存在することを説いているものであります。しかしそれらの全てが星の世界へ行って確認して来たものでないことは事実であり、どの説もそれぞれ異なりどれが信ずべきものかは容易には判断できないのであります。



 
 .行こうよはるか希望の大空へ 真理の世界を前にして 行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限を前にして

 地球の歴史は今大きく変わろうとしているのであります。地球人類は長い間地球という狭い世界に閉じ篭って生きて来ましたがこれからはもっと大きな心をもって大宇宙のことを考え、宇宙の真理法則を学び人間として更に進歩向上して行かねばならないのであります。地球の文明は地球人自身から考えて見ると非常に高度に発達した偉大な文明であるかの如く思えるかも知れません。しかし神の世界や高度の文明を創造している宇宙人達の目から見れば、現代の地球文明は非常に低次元にあり、しかも誤りや矛盾に満ちているのであります。しかも地球人類は現代文明の矛盾や誤りのために滅亡の危機に頻しているにも拘わらず、多くの人々は人類滅亡の危機を覚ることも出来ず、危機を知っている人も如何にして人類を滅亡から救うかということについて何らの具体策も持っていないのが現状であります。私達は地球の現代文明の殻を破ってもっと高く奥深い無限の大真理の世界に目を向けねばならない時であります。
 
「真理の世界を前にして」の言葉の如く私達の目の前には私達の想像を絶する様な素晴らしい真理の世界が展開されているのであります。唯、現代文明の矛盾や誤りに気付くことが出来ず、現代文明を絶対のものと信じている人々には目の前に展開されている素晴らしい真理の世界を見ることは出来ないのであります。現実の世界と理想の世界とは常に相対しているのであります。そうして人間の世界と神の世界も常に相対しているのであります。仏教では彼岸という言葉があります。人間の世界は此岸であり、仏の世界は彼岸であります。此岸と彼岸とはお互いに向かい合って永遠に対峙しているのであります。私達人間は常に彼岸即ち神の世界の方に向いているのであり、私達の前に神の世界が存在するのであります。
 
 今、地球には新しい時代が始まろうとしているのであります。そうして私達は今真理の世界、神の世界を前にして、これからその真理の世界、神の世界へ向って歓びに満ちた第一歩を踏み出して行く時が来たのであります。私達は不完全で未完成な人間の世界から、限りなく遠き理想の世界、神の世界へ到達することを目標として進んで行くのであります。しかし神の世界、真理の世界は私達のすぐ目の前に横たわっていながら、しかも進めば進む程奥深く、昇れば昇る程高い世界なのであります。故に私達が一生掛かって幾ら努力を続けても宇宙の真理の全てを覚ることなど出来る訳もなく、未来に2度や3度生まれ変って努力しても猶且宇宙の真理を覚り切ることは出来ないのであります。真理の世界は無限の彼方にあります。故に私達は永遠に無限の努力を続けなければ真理の世界に到達することは出来ないのであります。敢えて言えば人間は永遠に真理の彼岸に到達することは出来ないと言えるかも知れません。しかし真理の彼岸に到達することは出来なくても、真理の彼岸に到達することを目的として努力を続けて行く処に、無限の進歩向上と無限の生甲斐や幸福のある永遠の人生があると言えるのであります。
 
 新しき光の「昨日去り今日は逝き明日も空しく過ぐるともとこしえにやすらかにはるか希望に生きてゆく」は仏教を表わしていることは既に述べた通りであります。仏教では即身成仏を説き、或いは死者を仏とも言いますが、仏というものは真理を覚った者という意味であります。しかし真理の世界は無限であり、一生の間に宇宙の真理を覚ることも出来なければ何度生まれ変って修行しても真理を覚り切ることは出来ないと言えるのであります。故に厳密な意味では永遠に仏には成れないとも言えるのであります。しかし私達が何度も生まれ変わりを繰り返しながら修行を続けるならば私達は出発点から見れば無限に進歩向上して行けるのであります。故に昨日去り今日は逝き明日も空しく過ぐる如く、前世も修行し、現世も修行し、来世も修行しても猶仏には成れなくとも、失望落胆することなく、安らかなる心を以って永遠に努力を続けて行く処に永遠の修行と無限の幸福と無限の進歩向上の機会があると言えるのであります。釈迦が常に無限に広い真理の世界、無限に高い仏の世界、永遠の修行を説いているのはその事であると言えるのであります。私達が幾ら努力しても仏には成れず、人間として完成することはなくても、努力した丈は進歩向上しているのであります。完成すれぱ進歩向上は終わるのであります。しかし完成することがなければ無限に進歩向上して行けるのであります。
 
 ナポレオンがロシアの首都モスコーを占領し雲雀が丘の上に立って東方に横たわるロシアの大平原を望みながら「征服とはかくも儚きものか」と言ったそうですが、人生の真実の歓びは目標に到達し得た時にあるのではなく、大きな目標を持って目標に到達するために苦労を重ねながら絶え間ない努力を続けて行く処にあると思うのであります。私達にとって宇宙の広さは無限であり、真理の世界も無限であり、彼岸の世界は永遠の彼方にあります。しかし無限の真理の世界の中に真理を求めることに依って私達は無限に進歩向上して行くことが出来るのであり、無限の彼方にある彼岸の世界、神の世界に到達することを理想として限りない努力を続けて行く処に永遠の人生と無限の幸福が存在するのであります。私達は今私達の目の前に横たわる無限の真理の世界に真理を求め、無限の彼方にある神の世界に向かって修行の第1歩を踏み出す新しい時代を迎えているのであります。
 
 さて有限は男性を表わし無限は女性を表わしていることは既に述べた通りであります。「有限無限を前にして」とは男性は女性を前にして、女性は男性を前にしてという意味であり男性と女性とは常に対等の立場にあって正面から向き合っているのであります。男性の後に女性がいたり、女性の後に男性がいたりするのではないのであります。故に男女は平等であり、男尊女卑も女尊男卑も共に誤った思想なのであります。そうして男性は常に男性として女性に対し、女性は常に女性として男性に対し、共に修行に励みながら良き家庭や社会を建設して行くために協力し合わねぱならないのであります。結婚生活に於いても男性は男性としての自覚を持ち、女性は女性としての自覚を持って新しい人生への第一歩を踏み出して行かねばならないのであります。
 男性のみ、或いは女性のみでは杜会も家庭も存在し得ないのであり、その意味では男性も女性も共に不完全なのであり、男性と女性とがお互いの短所を補い合い助け合うことに依って初めて立派な家庭や社会を建設することが出来るのであります。雨の降る中を進んで行くのに傘を差して行けぱ濡れないで済む様に、理想の世界を目指して進んで行く私達の前途には様々な困難や不慮の災難等が雨の如く降りかかって来ることもあります。しかし私達が神の教えや真理を守って常に正しい人生を送るならば、どんな困難や不慮の災難も無事に払い除けて通ることも出来るのであります。故にここでは人生行路に降りかかって来る様々な困難や不慮の災難等を雨に喩え、神の教えや真理を傘に喩えて、正しい生き方を説いているのであります。「有限無限をさして行く」とは2番と同じように男性は女性の助けを得、女性は男性の助けを得て共に理想の家庭や社会を建設して行こうという意味であります。

 私達は自己の姿を鏡に映して見ることに依って顔容や姿を調える様に、神の教えや真理を鏡として自己の心や姿を映して見ることに依って自己の考え方や行動が正しいか否かを常に反省しながら修行に励んで行こうという意味であります。人間は愚かであり不完全でありますから主観的に自分1人で判断することは危険であります。故に神の教えや真理を鏡として目己の心や姿を映して客観的な立場で自己を見直し常に正しい道を進んで行く様に心掛けねばならないのであります。男性は女性を鏡として女性の中に自己を映し、女性は男性を鏡として男性の中に自己を映して見ることが必要であります。世間には男性からは尊敬され親しまれても、女性には嫌われたり軽蔑されたりする男性もあり、女性からは尊敬され親しまれても、男性には嫌われたり軽蔑されたりする女性もあります。しかしそれではいけないのであります。男性から尊敬され親しまれると共に女性からも尊敬され親しまれる男性になる様に努めるのが男性として立派な生き方であり、女性から尊敬され親しまれると共に男性からも尊敬され親しまれる女性になる様に心掛けるのが女性として立派な生き方なのであります。神を鏡として自己を映して神に認められ信頼される様な人間になる様に努力し、異性を鏡として異性の中に自己を映して見て異性にも尊敬され親しまれ信頼され愛される人間になる様に努力しようと言うことであります。

 
 

 「行こうよはるか希望の大空へ 真理の姿をよそいつつ 行くは遠きかなた近きかなたに 有限無限をよそいつつ」

 人間はとかく実質以上に自己を良く見せようとして偽りを書いて見栄や虚飾に満ちた人生を送り勝ちであります。偽りや見栄や虚飾で愚かな人を騙すことは出来ても神の目を欺くことは出来ません。しかも偽りや見栄や虚飾や虚勢を張るために幾ら努力しても罪を重ね、堕落して行くのみであり何の利益にもならず進歩向上にもならないのであります。本当の利益にもならず損にしかならないことの為に努力するのは愚かなことであります。自己をより良く装いたいと思うならば健康に注意し、心の修行に努め、学問に勤労に、社会への奉仕に努めることであります。病気の体に幾ら化粧をしても本当の美しさはないのであります。学問をしないで家柄血統や財産で虚勢を張っても笑われるばかりであります。神の御教えを守って常に正しい人生を送り、肉体は健康で、心は何時も明るく爽やかで、愛や誠や感謝や満足感に満ち、皆から尊敬され、信頼され、愛され、親しまれる様な人間になる様努力することが真理の姿を装うことであります。「有限無限をよそいつつ」とは男性は常に男性らしさを装いつつ、女性は常に女性らしさを装いつつという意味であります。男性には男性としての使命や天幟や生甲斐や幸福があり、女性には女性としての使命や天職や生甲斐や幸福があることを覚り、男性は男性らしさを守りつつ、女性は女性らしさを守りつつ修行に励みながら幸福な人生を送る様に努力すればよいのであります。





 「真理の絆を結びつつ」とは神の御教えを堅く守り神との絆をしっかりと結びながら理想の実現の為に努力を続けて行こうという意味であります。
 
 人類は多くの学問を創造して来ましたが或る学問と他の学問とは全く無関係でばらばらである様に考えています。そのために地球人は宇宙の真理を覚ることが出来ないのであります。物理学も化学も心霊科学も医学も栄養学も生物学も全ては唯一つの宇宙の真理の中の一部分であり、他の学問や真理と有機的に結合し一体となっているのであります。私達が機械をばらばらに分解してしまったならば、部分品の集まりではあっても機械としての役は果たせなくなるのであります。それと同じ様に1つの宇宙の真理を分解してばらばらのこま切れの学問にしてしまったならぱ、学問ではあっても真理としての価値は無くなるのであります。故に全ての学問を独立の分野の学問と考えず、全ての学問が宇宙の真理の一部分であり、他の学問と深い繋がりを有していることを覚り、あらゆる学問を1つの真理として結び合わす様努力しなければならないのであります。
 
 科学は実験に依って結果を確認し正しいことを証明することを繰り返すことに依り着実に進歩発展して行くものであります。人生の修行もそれと同じことであります。1つの宗教を信仰するにしても教えを生活の中に実践しなければ何にもなりません。正しい教えを実践すれば必ず賢明になり幸福になれるはずであります。教えを生活の中に実践して本当に賢明になり幸福になれたとすれば教えが正しいということの証明になるのであります。教えを実践しても賢明にもなれず幸福にもなれないのであれば教えは正しくないと考えねばならないのであります。その様に実践を通じて教えが正しいかどうかを確認するのが科学的、合理的で正しい信仰であり、正しい修行であると言えるのであります。
 
 科学の世界は常に実験と証明を重ねて発展して行くのであります。然るに宗教の世界には実験や証明が欠けているのであります。真理は万人共通であり永久不変であります。例えばマッチを擦れば火が点くというのは科学的な事実であり、それは誰がやっても同じ結果を生ずるものであります。真理とはその様に万人共通のものであります。塩を舐めれば辛いと思い、砂糖を舐めれば甘いと思うのも万人共通の真理なのであります。しかし宗教を信仰して或る人は幸福になれたのに他の人は幸福になれないというのであれば、その宗教の教えは万人共通の真理ではなく、正しいものではないと言わねばならないのであります。同じ宗教を信仰しているのに或る人は病気が治ったり、商売が繁盛したり、家庭が円満になったりしているのに、他の多くの人々は病気も治らず、商売も思わしくなく、家庭も不和で困っているというのであれば何処かが誤っているのであります。教えが誤っているのか、信仰の仕方が誤っているのかよく考えてみるべきであります。教えが正しく、皆の実践も正しいのであれぱ皆が救われ幸福になれるはずであります。教えが正しくなけれぱ皆が幾ら努力しても幸福にはなれない筈であります。科学が実験と証明を重ねることに依って正しいことを確認する様に、宗教も実践と証明を重ねることに依って正しいことを確認するならぱ健全な発展を遂げることが出来るのであります。しかし教えを正しく実践する人が少ないために全ての宗教は正しいのかどうか多くの人々には判らないのであります。そうして時たま起こる奇蹟を見てその宗教は正しいとか偉大であると思い違いをしてしまうのであります。私達は宗教の奇蹟に迷わされてはならないのであります。教えを実践してその結果を見て正しいか否かを決めるべきであります。




 「真理の世界を後にして」とは私たちは長い間住み慣れた懐かしい地球を後にして喜びや幸福に満ち溢れた無限の大空の彼方に新天地を求めて進出して行こうという意味であります。しかしそれは私達が今すぐ生きた人間として宇宙船に乗って宇宙に進出して行けるという訳ではないのであります。現代の地球文明は余りにも矛盾や誤りが多く、アメリカやソヴィエトが開発している様なロケットや宇宙船では人類の宇宙への進出は不可能なのであります。私達は矛盾だらけ誤りだらけの現代文明を捨て、宇宙の法則に叶った新文明を創造し新しい科学理論や技術を以って新しい宇宙船を建造しなければならないのであります、また宇宙への進出は生身の人間として宇宙へ進出するとは限らず、来世地球以外の星の人類の子孫に生まれ変ることも宇宙への進出と言えるのであり、私達が神の御心に叶う様な高級な霊の持主になったならぱ、来世生まれ変る時には地球よりももっと高度な文明の発達した天国の様な星に生まれ変ることを神は許して下さるのであります。釈迦は仏の教えを守って正しい人生を送れぱ極楽往生が出来ると説いていますが、極楽往生とは極楽に往きて生まれ変るということであり、仏教では観念的なことしか説いてないために真実を理解することが出来ないのであり、実際には真理を覚って高級な霊になったならば極楽と呼ぷに相応しい星の世界の人類の子孫に生まれ変って幸福な人生を送ることが出来るのであります。「有限無限を後にして」とは子孫達や多くの生物達に地球を譲り、彼等を後に残して新しい星の世界へ進出して行こうよという意味であります。





 「真理の力を超えて行く」とは大自然に存在する力を超えた、もっと偉大な力を以って新しい理想の世界を建設しようという意味であります。即ちこれは学問的、科学技術的な意味で、大自然の力では出来ないことを偉大な新文明の力で実現して行こうという意味であります。例えば雨の降らない砂漠にも人間は新しい科学のカを以って水を注ぎ緑豊かな農場を建設することは出来るのであります。更に月や火星や金星等自然な状態では生物が住むことの出来ない星にも科学技術の力を以って移住し高度の文明を創造することも出来るのであります。即ち真理の力を超えるとは大自然の力をも超えるということであり、大自然に出来ないことを人間が実現させるのであります。しかしそれは人間丈の力で出来ることではないのであります。人間が神の御教えを守り、宇宙の法則を守ることに依って初めて大自然の力を超えることが出来るのであります。大自然の力と人間の力とが1つに結合して初めて大自然の力でも人間の力でも出来ない偉大な仕事が出来るのであります。

「有限無限を超えて行く」とは男性の力、女性の力を超えるということであります。即ち男性のみの力で子供を産むことは出来ず、女牲のみの力で子供を産むことも出来ないのであります。男性と女性が信じ合い愛し合い協力し合うことに依って初めて子供を生み育て立派な家庭や社会を創って行くことが出来るのであります。夫婦は一心同体と言われる様に、男性と女性が愛し合い協力し合い一心同体と成り得て初めて、男性のみの力や女性のみの力を超えることが出来るのであります。夫となり妻となり、父となり母となることは男性であって男性の力を超え、女性であって女性の力を超えることなのであります。





 「人智の力を超えて行く」とは人間が我欲で我儘で邪悪で低級な心を持っている時は人間としての能力しか発揮出来ないけれども、人間が邪悪な心や欲の心を捨て清らかな心になった時神の光と力を頂くことが出来る様になり、神の子と呼ぶに相応しい高級な人間になって、過去の人間の智恵では出来なかった様な偉大な事業を実現することが出来る様になるという意味であります。仏教では凡仏一如とか即身成仏を説き、神道では神人一如と説いていますが、座禅や瞑想や読経を100年続けても仏になれる訳でもなければ、鎮魂帰神の法やお祓い修行を100年続けても神人一如の境地に到達出来るものでもないのであります。勉強や勤労や修行を通じて大自然の中に偉大な宇宙の真理法則のあることを覚り、我欲や我儘な心を捨て、憎しみや怨みや怒りや不平不満や疑いや迷い等の心を洗い清めて正しく清く明るく、愛や誠や感謝の心になって生きて行くならば自ずから真理を覚ることが出来、心が神に通ずる様になり人智の力を超えた神人一如の境地に到達することが出来る様になるのであります。




 「真理の世界を神として」とは、大自然こそ神であり、大宇宙、大自然こそ神の世界であり、大宇宙の法則、摂理と考えられているものこそ神の定められた宇宙の大真理であることを覚って、大自然を神として尊び、大自然の摂理を神の教え、神の定められた宇宙の真理と覚って、大自然の法則を尊び常に正しく清らかで高級な人間となり、神に仕え奉る謙虚な人間として生きて行こうという意味であります。「有限無限を神として」とは男性も女性も、人間自身が神としてということであります。大自然、森羅万象こそ偉大なる神であります。そうして大自然の子として生まれた人間は当然神の子であるべき筈であります。しかし人間自身に神の子としての目覚と素質がなけれぱ、所詮人間の子は人間であるに過ぎないのであり神の子とは言えないのであります。大自然は偉大であり、大宇宙の真理も偉大であります。そうして大自然の偉大さを覚り、大宇宙の真理の偉大さを覚る人はその人自身が偉大なのであります。大自然が偉大なる神であることを覚り、大宇宙の真理の偉大さを覚って、神の子としての自覚を持ち、神の子に相応しい使命に生きて行くことの出来る人が本当の神の子に相応しい人であると言えるのであります。仏教は神を立てない宗教であり、仏教徒には大自然の真実の偉大さは判らないのであり、従って仏教徒には神の子としての自覚も使命も持てないと言えるのであります。しかし大宇宙の偉大さを覚らず、真理をも覚らずして現神であるとか神の子であるという自負を持つことは誤りであります。また有限無限を神としてとは父母を尊び大切にし、神に仕える心を以って孝養を尽くし楽しく平和な家庭を造って行こうという意味でもあります。




 「真理のあなたを御子として」とは大自然に生存するあらゆる動物や植物達も神の愛に依って生まれ神の恵みに依って生かされている神の子であり、全ての生物達も生命の世界の繁栄の為に尊い使命を持って生まれて来ていることを覚り、人間の一方的な利害丈を考えて憎んだり迫害したりすることを止め、愛と慈しみの心を以って全てを神の子として大切に育てて行こうという意味であります。「有限無限を御子として」とは男の子も女の子も共に同じ我が子であり、同じ神の子であることを覚り、家庭に男の子が生まれることを喜び、女の子が生まれることを嘆いたりする誤った考え方を捨て、また自分の子の利益や幸福ばかりを考え他人の子の不利益を図ったり、他人の子を不幸にしたり粗末にしたりすることをやめて、男の子も女の子も、我が子も他人の子も、全ての子供達が神の子に相応しい立派な人間になり、皆が信じ合い協力し合って立派な社会を建設し皆が幸福な人生を送ることが出来る様に教育し指導して行こうという意味であります。




 「真理のあなたを父として」とは天を父に喩え大地を母に喩えることがある様に、天地は私達にはこの上なく優しい慈父でありまた慈母であり私達は天地の限りない愛と恵みに依って此の世に生まれさせられ活かされているということであります。天地を神と思えぱ、神は人間にとって何か偉大で近づき難い存在であるかの様にも考えられます。しかし天地は私達にとってこの上なく厳しくもまたこの上なく優しく愛情の深い慈父であり慈母であります。故に私達は優しい慈父や慈母である大自然の懐の中に育てられていることを感謝しまた喜んで楽しく幸福に暮らして行こうということであります。また真理のあなたを父としてということは神を父とし人間を母として、神と人間との協力に依ってこの麗しい大自然に神の子である無数の生物達が楽しく幸福に繁栄して行くことの出来る美しく豊かな生命の世界を建設して行こうという意味であります。
「有限無限を父として」ということは男性は父として女性は母としての使命を果たしながら修行に励み幸福な人生を送って行こうという意味であります。男性も女性も成人しても結婚しなければ夫でもなく妻でもないのであります。そうして結婚しても子供を産まなければ大人の男性であり女性であるに過ぎず父でもなく母でもないのであります。子供を産み育て父として母としての様々な苦労をし体験を積むということは人生にとって大きな修行の機会であり、子供の生長と共に自分目身も人間として更に生長し進歩向上して行けるのであります。故に一生を独身で過ごすということは或る面では気楽で苦労の無い人生であると言えますが、それは自然の摂理に反することであると共に人間として貴重な修行の機会を捨てることであり人生の大きな損失となるのであります。
 



 「真理のあなたを夫として」とは神を夫に喩え人間を妻に喩えて夫婦が一心同体である様に、人間は神と一心同体になって此の地上に神の国を建設する為に努力して行こうという意味であります。「有限無限を夫として」とは全ての男性と女性が結婚して夫となり妻となって愛し合い信じ合い協力し合い修行に励みながら新しい人生の生甲斐や幸福を求めて生きて行こうという意味であります。夫という字は「つま」とも読みますが夫にとっても妻にとってもお互いに相手は「つま」なのであります。神は本来、人間が成人すれぱ結婚して家庭を持つ様にお創りになって居られるのであります。未知の男女が愛に依って結ばれ1つの家庭を造り様々な努力を重ねて行く処に新しい人生の歓びがあり幸福があり進歩向上の機会が存在するのであります。然るに結婚を拒否し独身生活の気楽さを謳歌して気儘で放縦な人生を送ることは大きな誤りであります。
 
 またキリスト教や仏教の僧侶は神や仏に仕えるため一生独身で過ごすという例がありますが、それも非常に大きな誤りであります。神に操を捧げて一生を修道僧や修道尼として送るということは決して清らかな人生でもなければ立派な人生でもなく愚かで無意味な人生でしかないのであります。神に操を捧げるということ自体が全く観念的で無意味な事なのであります。男性は清らかな操を女性に捧げ、女性は清らかな操を男牲に捧げ、立派な夫として、立派な妻として愛し合い信頼し合い協力し合い尊敬し合って、良き家庭や良き社会を建設する為に努力してこそ本当の意味で清らかな操を神に捧げることになり清らかな人生を送ることにもなり、人間としての素晴らしい進歩向上の機会を得るのであります。





 「真理のあなたを友として」とは私達の棲む大自然を良き友として、大自然と共に生き大自然と共に語り大自然を理解し大自然と協力してより豊かな素晴らしい大自然や文化を創造して行こうという意味であります。大自然は私達にとっては神でもあり親でもあります。しかしまた大自然は私達にとって最良の友でもあります。神として接する時の大自然は真に偉大であり、親として接する時の大自然は真に慈愛に満ちた有難い存在でありますが、友として接する大自然はこの上なく親しみ深い存在であると言えるのであります。

 「有限無限を友として」とは男性は女性を友とし女性は男性を友としてお互いに理解し合い信頼し合い親しみ合って楽しく幸福で平和な社会を建設して行こうという意味であります。孔子は「男女7才にして席を同じくせず」と言い、釈迦は「女人と小児は養い難し」と言ったり女性を穢れた存在と考えていますがそれは誤っているのであります。男性が男性のみを友とし女性が女牲のみを友としていては人間として完全な生長は遂げられないのであります。同性の友を持つと同時に異性の友を持って異性の立場や考え方等を理解し合うことは結婚生活の為に社会の為にも是非必要なのであります。男性にとって良き女性の友を得ることは素晴らしいことであり、女性にとっても男性の友を得ることは素晴らしいことなのであります。しかし目己が良き友を得たいと思うならば自己もまた他人の為に良き友となる様に心掛けねばならないのであります。常に相手のことを理解し、相手の立場をも尊重し、相手の為に尽くす様に心掛けることが良き友となる道であります。男性は女性の為に良き友となる様に心掛け、女性は男性の為に良き友となる様に心掛けることが、良き異性の友を得ることの出来る最良の方法なのであります。





 「真理のあなたを御師として」とは大自然を師として大自然の法則を学び、賢明で高級な人間になる様に努力しようという意味であります。私達が日常見慣れている大自然の出来事の1つ1つが偉大な神の摂理であり永遠不滅の大真理なのであります。故に大自然を観察し大自然を師として大自然の法則を学ぶことに依って私達は宇宙の大真理を覚ることが出来るのであります。多くの人々が何気なく見逃している事の中にも素晴らしい真理が隠されているのであります。しかし心が曇っていたり、心が穢れていたりすると偉大な真理を目の前にしても真理と気付くことが出来ないのであります。真理というものは知りたい見たい聞きたい等と思って必死になって求めても必ずしも知ることは出来ないのであります。穢れた心や乱れた心や欲の心や邪悪な心や偽りの心で真理を求めようとしても決して求められるものではないのであります。無欲な心、正しく清らかな心、愛の心、誠の心、感謝の心、信ずる心等になり切って無心に大自然に接している時、求めずして自ずから偉大な真理が清らかで澄み切った心の眼に映じて来るものであります。常に大自然を愛し、大自然に親しみ、大自然を尊敬し、大自然を信頼していれば自ずから大自然の真理は覚れるのであります。
 
 また人間は師について様々なことを学ぶということは大切なことであり、師を尊敬するということも尊いことであります。しかし人間が何時迄も師を頼りに判らない事は何でも師に尋ね教えて貰おうとしていては一生弟子として進歩向上は出来ないのであります。師を尊敬し帥に学ぶことは大切なことでありますが、また自分で学び目分で考えて真理を覚る様に努めることも大切なことであります。弟子から尊敬せられることは師にとっては喜ばしいことであります。しかし師にとって最大の喜びは「出藍の誉れ」という言葉がある様に自己が教え導いた弟子が何時しか師である自己を超える様な立派な人物に成ることであると言えるのであります。弟子が師よりも偉くなれて初めて学問も文化も進歩発展を遂げることが出来るのであります。人間は誰でも親に対しては子であり先輩に対しては後輩でありますが、子に対しては親となり、後輩に対しては先輩にならねばならないのであります。それと同じ様に師に対しては弟子として謙虚な心で教えを受ける様に心掛けねぱなりませんが、後人達に対しては良き師となって指導する様に心掛けねばならないのであります。人間は何時迄も弟子であってはならないのであります。自己もまた後人の為に良き師となる様に心掛ける処に良き修行と進歩向上の機会があるのであります。





 「真理のあなたを君として」とは大自然の豊かな恵みに依って生かされている私達は大自然を良き主、良き君として尊び常に感謝の心を失わず、大自然を征服しようとか支配しようとかいう思い上った心を持たず、大自然の意志を尊び大自然の摂理に従って謙虚に生きて行こうという意味であります。「有限無限を君として」とは男性は女性を良き君として、女性は男性を良き君として尊敬し合い、謙虚な心でお互いの幸福や進歩向上の為に尽し合おうということであります。また君主や政治家や指導者等社会の上の地位にある人々は暴君や悪徳の主人となることなく、全ての国民のために良き君となる様に努めねばならないのであり皆が目下の人々に対しては良き君となる様に心掛けようという意味であります。




 「真理のあなたを下僕として」とは人間の為に様々な形で役立って呉れている多くの動物や植物や或いは機械や道具等の全てを良き下僕として愛や慈しみや労わりやねぎらいや感謝の心を以って接し、下僕達の利益や幸福や進歩向上を図り、また下僕達の力を活かして皆が豊かに幸福に暮らすことの出来る麗しい社会を建設して行こうという意味であります。「有限無限を下僕として」とは人間は皆が神の下僕として神に仕え奉る心になって立派な家庭や社会を建設して行こうという意味であります。男性は女性の下僕として、女性は男性の下僕として仕える心を以って、また皆が下僕として奉仕する心になって世の為人の為に尽し合おうということであります。




 「真理の御樟を渡しつつ」とは神に人間としての真実の操、真心を捧げつつ此の地上に清らかな神の世界を建設して行こうという意味であります。操とは単に夫婦の間に於いて守られねばならないことではないのであります。貞操、節操という言葉もある如く、君と臣、主人と下僕、親と子、男性と女性、師と弟子等の関係も清らかな操に依って維持せられて行くものであります。また操を守ると言いますが、操は守ると言うよりもむしろ相手方に捧げると言うべきものであります。全ての人々が清らかな操を捧げ合うことに依って麗しい人間関係が維持せられると共に社会の平和や秩序が維持せられて行くのであります。




 「真理のかなたを求めつつ」とは私達は現実の世界にあって常に理想の世界を求め、人間としては常に神の世界を求め続けつつ永遠の修行に励み無限の進歩向上を目指して努力を続けて行こうという意味であります。人間が如何に努力し如何に進歩向上しても人間は所詮人間であって神には決して遠く及ばないのであります。神は最高最善であり、絶対であり、永遠であります。故に人間はどれ程修行を続けても神の世界に到達することは出来ないのであります。しかし人間が永遠に無限の努力を続けて行くならぱ無限に進歩向上して行ける司能性は残されているのであります。そこに限りない人生の生甲斐や幸福が存在するのであります。仏教では仏の世界のことを彼岸と言います。そうして彼岸の世界に到達することを目標として仏道修行に励むのであります。しかし神の世界、真理の世界は無限の彼方にあって人間が到達出来る世界ではないのであります。唯、理想の世界を目標として永遠に努力を続けて行くのが人生なのであります。

  「有限無限を求めつつ」とは男性は永遠に女性を求めつつ、女性は永遠に男性を求めつつ幸福に生きて行くという意味であります。人間がどれ程進化し高等な人類になっても、男性にとって女性は永遠に憧れの対象であり、女性にとっては男性が永遠に憧れの対象なのであります。男性の能力を引立たせるものは女性の愛であり、女性の能力を引立たせるものは男性の愛であります。そうして素晴らしい異性の愛を得ることは男性にとっても女性にとっても活動の原動力と進歩向上の原動力を得ることであり、限りない歓びや幸福を得ることなのであります。故に男性は理想の女性を求めるために自分自身も理想の男性となる様に修行の努力を続け、女性は理想の男性を求めるために自分自身も理想の女性となる様に修行の努力を続けて行く処に素晴らしい修行の歓びがあり、また永遠に失うことのない恋の歓びが存在するのであります。





 「真理の故郷に帰りつつ」とは人間としての一生を終わって死ぬることであり神の世界へ帰るということであります。死ぬるということは霊魂と物質との結合に依って生まれ活動していた人間が一生を終って心は霊魂の世界に帰り、肉体は物質の世界に還ることであります。故に人間にとっては霊の世界は心の故郷であり、物質の世界は肉体の故郷であります。死とは大自然を父母として生まれ、大自然の恵みに依って生かされて来た人間が大自然そのものの中に還り大自然と一体になることなのであります。故に死ぬるということは全く未知の世界、別の世界へ行くことではないのであります。霊の世界から来た心が元の霊の世界へ帰って行き、物質の世界から来た肉体は元の物質の世界へ帰って行くのみであります。此処に彼岸という言葉に新しい意味が加わって来るのであります。彼岸とは即ち死後の世界でもあるということであります。人間の世界、生前の世界は此岸の世界、此方の世界であり、神の世界、死後の世界は彼岸即ち彼方の世界なのであります。
 
 では人間は誰でも死なねばならず、死ねば必ず彼岸の世界に帰るのですから、必然的に神或いは仏に成れるのかということになって来ます。霊魂は修行し宇宙の真理を学び賢明になり高級になり進歩向上して行く為に人間として、或いは様々な生物に生まれて来るのであります。そうして人間も生物も此の世で修行した丈以上に高級になれる訳ではないのであります。例えば平凡な人間でも死んで霊界に入れば神とか仏と言われる程高級な霊に成れるかというと決してそうではないのであります。凡人の霊は死んでもやはり凡人の霊以上のものには成らないのであります。人間は何度も生まれ変わって来て新しい修行を積み次第に高級な霊に成って行くのであります。
 霊の世界にも男性霊と女性霊の区別があります。しかし男性霊は何時も男性に生まれ、女性霊は何時も女性に生まれるとは限らないのであります。修行の為には男性霊が女性として生まれて来ることもあり、女性霊が男性に生まれて来ることもあるのであります。しかし男性に生まれて来た女性霊は死後は元の女性霊に帰り、女性に生まれて来た男性霊も死後は元の男性霊に帰るのであります。




 「人智の故郷に帰りつつ」とは死んで神の御許に帰った霊魂が未来に再び人間に生まれ変って新しい心と肉体を持って新しい人生に新しい幸福を求めて生きて行くことであります。人間の世界から神の世界へ帰り、神の世界から人間の世界へ帰る私達にとっては死ぬることは神の故郷へ帰ることであり、生まれ変わることは人間の故郷へ帰ることであります。私達が人間として生きている時は神の世界は故郷であり彼岸であります。しかし私達が死んで神の世界に帰った時、人間の世界は故郷であり彼岸であるとも言えるのであります。故に生きている間は神の御教えを守って楽しく幸福な人生を送り、死後は安らかに神の御許に帰り霊魂として活動し、時が来れば神の世界から再び人間の世界に生まれ変わって、新しい人生に無限の幸福と進歩向上を求めつつ永遠の理想に生きて行こうという意味であります。「有限無限に帰りつつ」とは再び新しい男性や女性に生まれ変って新しい人生の歓びを求めつつ理想の実現の為に生きて行こうという意味であります。

 以上を以ってこの詩の解説を一応終りたいと思います。この詩は非常に難解であり、深遠な真理を含んでいるために私自身これ丈で詩の意味を充分に解説し得たとは思って居りません。しかし大略の意味については理解して頂くことも出来るかと思います。この詩は私が最初に得た真理であります。第一章の「新しき光」は私が日本神道について信仰と勉強をして得た真理であるのに対して、この詩は仏教の信仰を通じて得たものであります。しかし私は仏教聖典の多くを読破したという訳でもなければ、読経や写経や座禅や瞑想に耽ったこともないのであります。私の家は代々真言宗の檀家であります。故に私が仏教について深い関心を持ったのは当然のことであると言えるのであります。

  しかし私は仏教徒として今日の仏教界の有様を黙視し得なかったのであります。葬式や死者の供養を仕事と心得ている僧侶、仏の教を勉強しようとも実践しようともせず、読経やお寺参りを信仰と思っている信者達の姿を見るに忍びず、仏教の改革と健全な発展を図るには皆が教えを勉強し、真理を実践し家庭や社会を改革して行く他は無いと考えたのであります。しかし少なくとも真言宗という教団に於いては僧侶にも信者にもその様なことは望み得ないことを知ったのであります。僧侶に仏教聖典の意味を尋ねてもまともに教えようとはせず、このお経は有難い尊いお経ですから意味は知らなくても朝晩仏前で読経をして居れば、必ず功徳があり幸福になれますという様なことを平気で言う僧侶もいます。或いはまた日蓮正宗の如く誤れる教えを拡めるために教学の勉強に力を入れている教団もありますがその様なあり方も誤っていると言えるのであります。仏教が多くの宗派に分裂して対立し合っていることも決して正しいこととは言えないのであります。この様なことから私は仏教教団の改革が不可能であると思うに到ったのであり、釈迦の教えそのものが絶対のものであるのか、本当に正しいものであるのか、釈迦の教えを乗り越えることは出来ないものかとも考える様になったものであります。この様に言えば日蓮宗系の人々は日蓮こそ釈迦を超えた人物であると言いますが釈迦の教えの一部分であるに過ぎない法華経を根本聖典としそれから一歩も進歩してない日蓮宗が釈迦の仏教を超えている筈はないのであります。

 釈迦の教えにも真理はありますが、それが正しく解釈され伝えられ実践されているとは限らないのであります。如何に正しい教えも誤って解釈されることは危険であり、実践されなければ無意味であります。また誤った教えを正しいと信ずることも危険であります。まして2,500年以上もの昔、文化の程度が現代よりも遥かに低かった時代に印度で説かれた仏教をそのままの形で現代人が信仰するということこそ誤っているのであります。私が仏教の信仰を通じて得た真理は仏教とは異質のものであります。しかし今、私達は釈迦の説いた教えの何処が正しいのか、何処が誤っているのかということに就いて反省し、釈迦の教えを乗り超えるように心掛けねばならない時であると思うのであります。