モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」大本教篇

  「我が家の庭」

  我が家の庭に埋もれいる 金剛石を堀り出だせ 遠き異郷の他人の地に 宝を探す愚をやめて
 
  鏡に写る我が顔に 神の姿を思い見よ 我を離れて神は無し 神を離れて我も無し
 
  我が住む庭に咲き出ずる 花の色香を愛でよかし 尽きぬ縁に結ばれて 生まれ来たれる生命ゆえ
 
  我が故郷を慈しみ 我が生業を尊べよ 尽きぬ自然の恵みにて 生きて来たれる我が身ゆえ
 
  我が兄弟と睦み合い 我が友垣に親しめよ 常に苦楽を共にして 生きて行くべき人ゆえに
 
  我が家の祖先をいとおしみ 我が姓名を尊ぺよ 遠く神より連なりて 生まれ来たれる我が身ゆえ


 この我が家の庭と題する詩を得たのは確か昭和43年の秋頃であったと思います。その日生長の家世界救世教大本教の教会を訪ね、その夜就寝中、夢枕に長身白髪の老神が出て来られて「我家の庭に埋もれ居るダイヤモンドを堀り出だせ」と言われたのでありました。その言葉の意味を直感的に覚った私は「遠き異郷の他人の地に宝を探す愚をやめて」とお答えした処、老神は満足せられてたちまち姿を消されたのであります。夢枕に現われられた長身白髪の神は国常立尊でありました。そうして「我が家の庭に埋もれ居るダイヤモンドを堀り出だせ」という言葉は遠い昔印度の地にあったという古い物語から来ているものであります。
 
 昔、印度の或る村の農夫の処に1人の旅人が来て宿を頼むのであります。農夫が快く宿を引き受けると旅人は1つの美しい宝石を主人に見せたのであります。農夫はその美しい宝石を見てたちまち心を奪われ、自分もその様な美しい宝石を探し当てたいと思って自分の田畑や財産を売り払って路銀を作り、美しい宝石を探し求めて当てどのない旅に出て行きやがて宝石を探し求めることは出来ず、路銀を使い果して遠い異郷の地で淋しく死んで行くのであります。しかしその後農夫の売り払った土地から美しい宝石が発見されそこが有名なダイヤモンドの鉱山となったのであります。私はその物語を何かの本を読んで知っていましたので国常立尊が「我家の庭に埋もれ居るダイヤモンドを堀り出だせ」と言われたことの意味がすぐ判ったのであります。それで私が「遠き異郷の他人の地に宝を探す愚をやめて」と後の句を付けてお答えした処、国常立尊は私がその言葉の意味を充分理解したと思われて満足して姿を消されたのであります。
 
 私はその頃大本岡山主会を時々訪ねて岡山主会の瓜生師と色々話し合うことが有りました。そうして大本神諭を読んで色々と共感するものがあったのであります。例えば大本神諭に「学は神には勝てんぞよ」という神示がありますが実際に今日のあらゆる学問は矛盾だらけであるためにやがて消滅して行かねばならないものであることは事実であると考えていましたので大本教は真実を告げていると感じていたのであります。
 
 また私は昭和33年以来、新自由主義経済の研究に専念し、貨幣制度の誤りが自由経済を崩壊させた主なる原因であり、正しい経済社会では貨幣は必要なくならねばならないことを確信していましたので大本神諭にやがて貨幣制度がなくなる時が来るという予言の有るのを知り大本には素晴らしいものがあると思っていたのでありました。また大本教の万教帰一という言葉に新鮮な魅力を感じていたのであります。当時大本岡山主会に居られた瓜生師とは非常によく意気投合したというのか、私が訪ねると長時間色々と話し合うことがありました。そうして岡山主会で大本教の本を次々と買って読んでおりましたが、その内瓜生師から大本の宣伝使になって大いに活躍してくれないかという話がしばしばあり翌年夏頃岡山主会の信者の婦人の案内で大本の亀岡天恩郷に行き桜井重雄氏の講話を聞いたりして亀岡を辞し、綾部を訪ねて本部の大神殿へ参り天王平の墓地を訪ねたりして帰ったのでありました。その時岡山主会の瓜生師から本部の出口日出磨師に私に是非会って下さる様にという紹介状もあったと思いますが出口日出磨氏と会うこともなく帰って来たのであります。結局私は大本教団の中に入って活動する運命ではなかったのでありそのために折角大本教の本部を訪ねても何も得る処なく帰って来たのであります。しかしその頃私の心に最も大きな影響を及ぼしていたのは大本教であり、後年昭和50年3月16日に天照皇太神宮教本部を訪ねて本部の青木要氏と何時間か語り合う機会を得て大本教と天照皇太神宮教の2つが今後の世界を動かして行く基礎理論になると考える様になったのでありました。
 
 昭和43年頃の私にとっては他のどの宗教よりも大本教が大きく心を支配していたのは事実であります。しかし亀岡や綾部を訪ねて大本教の内部を多少でも見ることが出来、大本教の本を何冊も読んでいる内に、大本神諭そのものは素晴らしいことを予言しているにも拘わらず、大本教団そのものには大本神諭を実現に移して行く丈の正しい理念が無いことに気付き始めたのであります。大本教では「神が表に現われて善と悪とを立て替える」という様なことをしきりに説いているにも拘わらず、それが一体何時頃どの様にして実現されるのか全く判らないと言えるのであります。大本教では神が表に現われて社会改革をせられることにはなっていますが、神が直接人間の社会に出現せられることはないのであります。そうすると神の仕組みを社会の中に実現に移して行くのは人間でなければならないのであり大本の予言を実現して行く人物が出現しなければならないことになります。では現在の大本教団の中にそれ丈の大理想を実現に移して行くことの出来る人物があるかというとどう考えても見当らないのであります。神が表に現われて善と悪とを立て替えられねばならないのは事実でありますが、大本教団内部で出口家の一族の中に学才や文才のある人はいても国常立尊の顕現として社会を改革する丈の理想を持った人は居ないと思うのであります。
 
 「学は神には勝てんぞよ」とお筆先にはあっても、現代社会の中にある無数の学問の矛盾を見抜いて学問の改革を図ることが出来なければ大本は絶対に学には勝てないのであります。宇宙学では全ての学問はオリオン星座の悪魔が地球人類を騙し滅亡させるために教えた矛盾だらけのオリオン文化であるから1日も早く捨てなさいと教えているのであります。私も昭和33年以来、現代の学問は全て矛盾だらけであり社会の矛盾を正すには社会を動かす根本理論である学問の矛盾や誤りを改めることが先決であると考えて正しい学問や理論を創るために全カを尽して来たのであります。しかし、大本教では神諭はあっても新しい社会を建設するに必要な正しい学問や理論が存在しないのであります。それでは幾ら「学は神には勝てんぞよ」と言ってみても大本は現代社会を動かしている学問に勝つことは出来ず従って大本の力で世の中の立て替え立て直しを図ることは不可能なのであります。
 
 昔の狂歌に「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 口先ばかりではらわたは無し」というのがありますが大本もそれと同じ様なもので大本神諭や天祥地瑞のものものしさに比較すると教義とか理念が低過ぎると言えるのであります。万教帰一は理論としては非常に優れていますが現実には世界中の全ての宗教を統一融合するということは不可能であり、全ての宗教家が心から協力し合うことも不可能であります。世界宗教者平和会議などを本気でやっている人々もありますが彼等が何10回会議を開いても世界の平和や人類の幸福など実現出来るものではなくこけおどしに過ぎないのであります。
 
 万教帰一を説く大本教から生長の家世界救世教が分離独立したという事実も理想と現実に大きな開きがあることを証明しているのであります。また大本が中国の道院や紅万字会や西アジアバハイ教などと協力することが出来たとしても、キリスト教イスラム教、仏教など大宗教と協カし合うことは困難であります。また幾ら万教帰一を唱えても意見の相違から宗教や宗派が分裂することを阻止することも出来ないのであり、キリスト教でもイスラム教でも仏教でも教団が分裂して激しい対立を続けているのも事実であり、教団や宗派間の対立すら解消出来ないのに万教帰一を唱えても無駄であると言えるのであります。
 
 さて大本教にはお筆先はあっても正しい理念や学問がなく、世の中の立て替え立て直しを実現に移して行くことの出来る指導者が居るとも考えられないのであります。私が生長の家世界救世教大本教の教会を訪ねた日の夜、国常立尊が夢枕に現われられて「我が家の庭に埋もれ居るダイヤモンドを堀り出だせ」と教えられたことは、当時大本岡山主会の瓜生氏から大本教の宜伝使になって活躍する様に勧められていたことに対する神の戒めであったのであります。大本の宜伝使になれば大本の殻に閉じ込められ大本の小さな枠の中に小さくなって生きる他なくなり生長して行くことが出来なくなります。
 
 私には私の持って生まれた大きな使命即ち天孫降臨以来の日本肇国の大理想である八紘一宇の大事業の実現に向って努力しなければならないのであり、大本教の宜伝使になっては私の使命を果すことは出来ないのであります。国常立尊は「我が家の庭に埋もれ居るダイヤモンドを堀り出だせ」の言葉を以って私に必要な尊い宝は我が家の庭に埋もれているということ、即ちこれからの新しい世界を建設して行くに必要な尊い真理は私自身の心の中にあるのだと教えて下さったのであります。それ故に私は「我が家の庭にダイヤモンドが沢山埋もれていることも知らずに遠い異郷に宝を探し求めて出て行く様な愚かなことはやめて、神が私に与えて下さった尊い教えや真理を活かして理想の世界を建設するために努力致します」という意味で神にお答えしたのであります。故に私は大本岡山主会の瓜生師から勧められても大本教の宜伝使になってはならない立場にあったのであります。また私が幾ら多くの宗教に真理を求めても1つの世界を建設するために必要な真理は求め得ないということだったのであります。私が大本教について勉強してみても教えの中には現代の人類滅亡の危機を救い理想の世界を建設して行くために必要な理論は存在しなかったのであります。大本神諭に貨幣制度の消滅を告げるお筆先はあっても大本の中には現在の資本主義や共産主義の誤れる経済理論を改革することの出来る人もなく理論もないのであります。
 
 貨幣制度を改革し皆が豊かに幸福に暮らして行くことの出来る理論は大本の中にはなくて、私自身が長い間苦心研究して創り上げて来たのであります。学は神には勝てんぞよ、というお筆先にしても大本の教えが学界を動かすことが出来なければ大本が学に勝つことは出来ないのであります。岡山主会の瓜生師はもと共産主義者だったと私に話されたことがありました。同氏は昭和年22年頃知人に誘われて大本の本部を訪ね2代教主出口澄夫人に面会した処、出口澄夫人は「赤白や青紫をとり混ぜて錦織るなり愛善の道」という歌を書いて瓜生師に贈られたそうで、瓜生氏はその事に深く感動したと私に話されたものでありました。赤白や青紫と言う言葉の赤とは即ち共産主義と言うことであります。出口澄夫人は共産主義者であった瓜生師に共産主義も資本主義もあらゆる宗教も取り入れて素晴らしい理想の世界を建設しようとしているのが大本即ち愛善苑であると言われたものであります。成程大本教共産主義者をも受け入れたのは事実でありますが、大本の中に共産主義という思想そのものをも受け入れ融合した訳ではないのであります。大本が世界の多くの思想や宗教を受け入れて1つに融合することが出来たならぱ「赤白や青紫をとり混ぜて錦織るなり愛善の道」の歌はそのまま大本の心、姿として活きて来るでありましょう。しかし現実にはその様になってはいないのであります。
 
 さて世の中の立て替え立て直しを図るはずの大本が2度迄も神によって大本自体の立て替え立て直しを強行せられたと言うのは何故でありましょうか。嘗て出口王仁三郎氏は亀岡に月宮殿という神殿を建設した頃その神殿もやがては破壊されてしまうことを覚って嘆息したという話が残っています。王仁三郎氏が初めから大本の神殿が将来破壊されるのを知っていながら次々と豪壮華麗な神殿を建設したものとは思いたくないのであります。恐らく王仁三郎氏は多くの神殿を建設し終わってからそれらの神殿が全て破壊され尽してしまうことを覚り嘆息したのでありましょう。然るに戦後再び大本教団の人々は亀岡や綾部に巨大な神殿を建設しているのであります。亀岡や綾部の巨大な神殿を見れば多くの人々は大本は見事に再建されたと思うでありましよう。しかし私は最早大本の仕事は済んだと思うのであります。巨大な神殿や寺院を建設して教団の力を誇示する時代は既に終わっているのであります。大本が本当に世の中の立て替え立て直しを図るつもりならば神殿は最早必要はないのであります。

 真の神が宿り給うのは神社や神殿や寺院でもなければ神像や仏像でもないのであります。人間の肉体こそ最高の神の社であり人間自身こそ最高の神の顕現の姿なのであります。どの宗教も大きな神殿や寺院を建設して教団の勢力を誇示しています。しかし最早その様なことは無用であります。巨大な神殿を建て多くの供え物をし多くの信者を集めて盛大な祭りをすれば神が喜ばれるというものではないのであります。祀ったり拝んだり祈ったりお参りをしたりすることを正しい信仰と思うのは誤っているのであります。神は神殿の中に丈居ますのではないのであります。故に神社神殿寺院教会へ参らねば神に通じないというのではないのであります。また神は私達が熱心に拝んだり祈ったりすれば通ずるというものでもないのであります。また私達は神官や僧侶や布教師に取次ぎを頼まねば神に通ずることが出来ないというものでもないのであります。私達の住む天地大自然こそ神であり、皆の目に見え皆の耳に聞こえ心に感じている全てが神なのであります。故に私達は神杜神殿寺院に参らなくても常に神と共にあるのであります。また幾ら熱心に拝んだり祈ったりしてもそれで神に通ずる訳ではないのであります。神が有るのか無いのか神とは何かという様なことも何1つ判らずに何となく熱心に拝んだり祈ったりしていればおかげが受けられるかも知れないと思っている様な人に神が現われられることはないのであります。
 
 宇宙学で説かれている様に強く正しく明るく我を折り欲の心を捨てて皆と仲良く相和して感謝に満ちた楽しい生活を送り、憎しみや嫉みや猜みや羨みや呪いや怒りや不平不満や心配迷いや疑いや人を答める心やいらいらやせかせかなどの心を起さない様に心の修行に努めていれば心が正しく清らかになって自ら神に通ずる様になって来るのであって心が清らかな人は拝んだり祈ったりしなくても何時も心は神と通じているのであります。
 また私達が神官や僧侶や布教師などの人々に取次ぎを頼まねば神に繋がることが出来ないというものでもないのであります。全ての人々の1人1人が神に繋がる様に心の修行に努めなければならないのであります。神官や僧侶や布教師に取次ぎを頼まねばならない様では正しい修行は出来ないのであります。神官や僧侶や布教師ばかりが神に通じている丈では皆が幸福になることも賢明になることも出来ないのであります。1人1人が皆神に通ずる様に心の修行をすることに依ってのみ皆が賢明になり幸福になれるのであります。その点に於いて私が到達した結論も宇宙学の教えも同じでありました。
 
 大本を立て替え立て直すために神が破壊せられた神殿を再び再建したことは大本の大きな誤りであると言えるのであります。万教帰一を実現に移して行こうと思うならば神殿等必要ないのであります。大本教で幾ら万教帰一と言ってみた処で全ての宗教の教えは大同小異でどの宗教を信仰しても同じだと言えるものではないのであります。どの宗教も説いていることはそれぞれ違うのであります。全ての宗教や思想がそれぞれ違う教えを説いていながら全てが唯一の神に帰一すると考えねばならないのであります。故に全ての宗教や思想を信じて初めて1つの真理を覚ることが出来るとも言えるのであります。
 
 では私達が全ての宗教を正しいと認めて信ずるためには自分の家に全ての宗教の神々を祀り毎日お供えをしたり拝んだり祈ったりしなければならないと言えるでありましょうか。自分の家の神棚に世界中の宗教の神々を祀ることなど出来る訳ないのであります。では全ての宗教を信ずるためには全ての宗教の神殿や寺院や教会へお参りをしたり、毎月寄附や献金やお供えをしたり、説教を聴きに行ったり教団の行なう行事に参加したり協力したりしなければならないと言えるでありましょうか。その様なことも出来る訳はないのであります。多数の宗教の信者になって今日氏神の神社へお参りし、今日は仏教の寺院へ参り、今日は天理教の教会へ参り、今日はキリスト教会の礼拝に参加し、という様なことを限りなく続けていたならば、宗教の勉強は出来ても働く時間が無くなり収入の全てをお供えや寄附や献金につぎ込んでも足らなくなります。故に多くの宗教の信者になることも出来ないのであります。
 
 世界中の全ての宗教家が人類の幸福や世界の平和を念願するのであれば世界宗教者平和会議を開くこと自体は悪いことではないのであります。しかしそれを実際に効果のあるものにしなければ何の役にも立たないのであります。その為には全ての宗教家が自己の信ずる宗教の教えのみでなく、他の宗教の教えをも学び、正しい教えの全てを実践する様に心掛けけることであります。キリスト教聖職者がバイブルばかり勉強するのでなく仏教聖典をも勉強し、イスラム聖典コーランをも勉強し、日本神道をも勉強したりする様になるならばキリスト教そのものが大きく生長し発展することも出来るでありましょう。それは全ての宗教に就いて言えることであります。
 
 本当に全ての宗教家にお互いに信頼し合い尊敬し合い努し合う心があるならば仏教寺院へキリスト教の牧師を招いてイエスの教えを聴く機会があってもよい筈であり、キリスト教会へ仏教の僧侶を招いて信者達に仏教の教えを学ぶ機会を与えてもよい筈であります。そうして皆がどの宗教にもそれぞれ独自の尊い真理があることを認め合い宗教の相違を乗り超えて皆が信じ合い尊敬し合い協力し合う心になるならば万教帰一の教えも活かされ、世界宗教者平和会議も効果のあるものとなって来るでありましよう。しかしキリスト教徒はキリスト教丈を堅持し、仏教徒は仏教丈を堅持し、全ての宗教を信ずる人々が自己の信ずる宗教丈を堅持しがら世界宗教者平和会議を何十回開いても効果がある筈はないのであります。全ての宗教を信ずる人々が自己の信ずる教えの正しい部分は活かし誤った部分は改め他人の宗教の正しい部分をも学びながら宗教自体を改革し皆が協力し合うならば全ての宗教が一体となることも不可能ではないのであります。しかしそれは所詮実現出来ない夢であるとしか言えないのであります。
 大本教が説えた万教帰一論は確かに過去の宗教界に無かった新鮮な魅力を有していたと言えるのであります。それにも拘わらず大本教団が実践面に於いてそれを活かし切れなかったのは大本神諭霊界物語に頼り過ぎて、新しい時代に必要な学問や実践理論を生み出すことが出来なかったからであると言えるのであります。その様な意味では大本は時代の変革を矛言したということでその使命は終わったとも言えるのであります。




 次に「我が家の庭」について簡単な解説を加えたいと思います。
 

 ○我が家の庭に埋もれいる 金剛石を堀り出だせ 遠き異郷の他人の地に 宝を探す愚をやめて
 
  1番についてはすでに詳しく説明してありますのでここでは省略致します。



 ○ 鏡に写る我が顔に 神の姿を思い見よ 我を離れて神は無し 神を離れて我も無し
 
 神の最高の自己顕現は人間であるというのは事実であります。全ての人間は神の自己顕現であります。故に神とはどの様なお方であろうか、神はどの様な顔や姿をして居られるのだろうかと考えるよりも鏡に写る我が顔を見て神の顔や姿を思い浮かべよということであります、鏡に写る我が顔は自分自身の親なる神の姿であると考えればよいのであります。そうして他人の顔は他人の親神の顔であると思えばよいのであります。自己が本当に高貴な心や顔の持ち主であるならば自己は高貴な神の自己顕現であると考えればよいのであります。自己が邪悪で穢れた心や人相の持ち主であるならば自己は邪悪で穢れた神の自己顕現であると考えればよいのであります。故に自己と神とは一体であり自己を離れて何処かに神が在ると考えるのは誤っているのであり、神の世界から人間の世界へ自己顕現するために現われて来ているのが自己であり、人間界に在る自己の本の姿、親なる神は神霊界に居られるのであり、神の世界と人間の世界と隔てられていても神と自己とは常に一体となって繋がっているのであります。故に我を離れて神が存在するのでもなく、神を離れて我が存在するのでもないのであります。神と我とは一体であることを覚って神の子に相応しい、神の子の名に相応しい自己になる様に常に修行の努力を続けて行かねばならないのであります。


 

 ○ 我が住む庭に咲き出ずる 花の色香を愛でよかし 尽きぬ縁に結ぱれて 生まれ来たれる生命ゆえ
 
 我が家の庭に美しく大きく薫りの高い花が咲き誇ることもあれば、名もない人目に立たない小さな花がひっそりと咲くこともあります。しかし我が家の庭に咲き出た花がどんな花であろうとも尽きぬ因縁があるからこそ咲き出たのであります。故に我が家の庭に咲いた花のみすぼらしさを嘆き、他人の家の庭に咲いた花の美しさを幾ら羨んでも何にもならないのであります。自分に縁があるから我が家に咲くのであり、他人に縁があるから他人の家の庭に咲くのであり、故に他人の家の庭に咲いた花を見て羨ましく思い我が家の庭に咲いた花を見て嘆いてはならないのであり、尽きぬ因縁に結ばれて我が家の庭に咲いた花の色香を慈しみ愛するの正しいのであり、他人の家庭に天才児や美貌の子が産まれて来るのはそれ丈の縁があるからであり、自己の家に平凡な子や不良の子や不具の子が若し産まれて来たとしても、他人の家の子を羨んで、不肖の我が子や不幸な我が子を嫌ったり粗末にしたり憎んだりしてはならないのであります。例えどの様な我が子が産まれて来ようと全て前世からの尽きぬ因縁に結ばれて生まれて来た我が子なのであります。


 
 
 ○ 我が故郷を慈しみ 我が生業を尊べよ 尽きぬ自然の恵みにて 生きて来たれる我が身ゆえ
 
 自己の故郷が山間僻地等であろうとも故郷は常に尊いのであります。そうして自己の生業が他人に較べればつまらない収入の乏しい職業であろうとも自己の生業は尊いのであります。私達は何時も尽きせぬ大自然の恵みに依って生まれ、大自然の恵みに依って生かされているのであります。最近では農山村の過疎化が進み農山村の荒廃を招いていますが、人間が故郷を捨てて出て行くことはその土地を開いた祖先の霊達や土地の神々にとってはこの上なく悲しく寂しいことなのであります。誤れる社会制度や経済制度の故に農山村に住む人々が生活しにくくなり故郷を捨てて都市へ出て行かねばならないのは仕方ないことではありますが、現在の華やかな都市文明が長く続くことはないのであり、将来再び都市へ移住していた人々が農村へ帰らねばならない時代が来るでありましょう。大自然の愛に依って生まれ大自然の恵みに依って生かされている私達は他人の生まれ育った土地を羨み憧れて、自分の生まれ育った故郷を卑しんだり悲しんだりしてはならないのであります。我が故郷を慈しみ我が生業を大切にすることが神への報恩なのであります。



 
 ○ 我が兄弟と睦み合い 我が友垣に親しめよ 常に苦楽を共にして 生きて行くべき人故に
 
 人間は自分1人の利益や幸福、自分の一族丈の利益や幸福を図ろうとしてはならないのであります。皆と親しみ皆と仲良く協力し合わねばならないのであります。しかしまた私達は日本中の人々と或いは世界中の人々と親しく交際することが出来る訳でもないのであります。私達が一生の間に交際することの出来る人の数には限りがあります。此の地球に人間として生まれて来たことは皆がそれぞれ何かの縁があるからだとも言えますが、同じ家庭に兄弟姉妹として生まれて来たのはそれ丈深く尽きない縁があるからであり、同じ故郷に生まれ育って幼い時から友として親しむのはやはり深い縁があるからであります。故に同じ時代に生まれて来ても遠い処に生まれてお互に一度も会うこともなく死んで行く無数の人々は謂わば無縁の人々であるとも言えるのであり、同じ家庭に生まれ、親族に生まれ、同郷に生まれ、同じ学校に学び、同じ職場で働き、同じ趣味や職業や取引等で結ばれるのはそれ丈深い縁があるからであります。同じ有縁の人であっても親子や夫婦や兄弟姉妹や親族や友人や同僚等は特に深い縁に結ばれて生まれて来ているのであり一生苦楽を共にして生きて行くことが多いのであります。故に親子兄弟姉妹夫婦等が他人以上に睦まじくしなければならないのは当然のことであり、友人達とは一般の人々以上に親しくするのは当然のことなのであります。人間は自己の家族や友人ぱかりと仲良くすればよいという訳ではないのであります。しかし他人以上に家族と仲良くし、無数の無縁の人々以上に少数の有縁の人々と仲良くするのも自然の理であると言えるのであります。




 ○ 我が家の祖先をいとおしみ 我が姓名を尊べよ 遠く神より連なりて 生まれ来たれる我が身ゆえ
 
 祖先となり子孫となって同じ家系に生まれて来るのもまた尽きぬ縁に因るのであります。人間には血統と霊統があります。血統とは血や肉体の遺伝学的な繋がりであり、霊統とは霊の系統の繋がりであります。即ち血統は親から子へと遺伝に依って繋がって行くものであり、霊統とは火の徳の家には火の徳を持った霊が生まれ、水の徳の家には水の徳を持った霊が生まれて来るのでありそれが霊の系統即ち霊統と言えるものであります。故に例えば夫婦に子供がなくて血の繋がりのない他人を養子に迎えれぱ血統は一応絶える訳ではありますが、家が存在している限り霊統は続いて行くのであります。故に理想としては血統と霊統が共に続くことの出来るのが人情的には望ましいのであり、同じ養子を迎えるのでも全く血縁のない家の子を迎えるよりも兄弟姉妹の子等同じ血の繋がりのある人を養子に迎える方が祖先は喜ぶと言えるのであります。そうして子孫を絶やすということは血統と霊統の両方を絶やすことになりますので祖先に対してもっとも大きな不孝になるのであります。自己がその家に生まれて来たということは生まれて来る前からの尽きぬ因縁があるからであります。故にどの様な祖先であろうとも我が家の祖先を尊ぶのが子孫としての祖先に対する愛であり務めであると言えるのであります。
 
 しかし世間にはよく他人の祖先を羨み自己の祖先を賤しむ人々があります。例えば昔は源平藤橘などの名門の子孫でなければ高位高官につけず立身出世が出来なかったのでありました。そのために偽の系図を作って自己の祖先を偽り立身出世を図った人々も沢山ありました。例えば源氏の子孫でもないのに清和天皇第何代の後裔などと称して世間の目を誤魔化し立身出世すれば自己は幸福であるかも知れませんが、祖先霊達は決して喜ぶことはないのであります。源氏の子孫でない人が源氏の子孫だと称して立身出世をすれば家門の誉れは源氏の一族のものとなります。それでは祖先には自分の子孫が家名を興して呉れたことにはならないのであります。即ち世間の人々は源氏の子孫だからこの様な立派な子孫が現われるのであって他の名もない祖先を持つ人々の子孫から立派な人物が出ることはないのだと言うことになってしまうからであります。
 
 親は名もない人であっても子が有名な立派な人になって呉れれば一番嬉しく思うのであります。しかし子は親の無名を恥じてあの人は私の親ではないと言って無視したり否定したりすることは親として最も悲しいことであると言えるのであります。親がつまらぬ人間であるとか、罪を犯した人間であるとか、世間から卑しまれ嫌われる人であることを理由に親の名を無視して自己は別の人の子孫であるかの様に誤魔化す人もよくありますが、その様な行為は誤っているのであります。祖先が名も知れない卑しい身分の人であったことを恥じて系図を誤魔化したりして他人の子孫だと名乗ることは祖先に対しては最も大きな不孝であると言えるのであります。どんな先祖を持って生まれて来るのも尽きぬ因縁でありその縁を切り捨てることも無視することも出来ないのであります。
 
 例えば祖先が逆賊と言われた人であっても、犯罪人であってもその子孫として生きることが祖先への何よりの孝養であり報恩であると言えるのであります。例え自己が逆賊や犯罪人の子孫であろうとも、立派な人間になって世のため人のために尽くし多くの人々に親しまれ尊敬され愛される人になれぱ、逆賊や犯罪人の家系という不名警を消して立派な家系として世間からも認められ、子孫達も家系の不名警のために悩んだり苦しんだりしなくてもよくなるでありましょう。自己が逆賊や犯罪人の子孫であることを恥じて祖先の名を偽り家系を誤魔化すことは決して良いことではないのであります。祖先の不名誉を挽回し家名を再興し、祖先の犯した罪を贖ってあげることの出来る人は子孫しかないのであります。自己がその様な家の子孫に生まれて来たのはその様な祖先と因縁があるからであります。然るに子孫が祖先の罪や誤りを怨んだり怒ったりして祖先を無視すれば最早祖先の罪が贖われることもなく祖先の汚名が濯がれることもなく祖先が救われることもなくなるのであります。
 
 また特殊部落出身の人々の中には世間の白眼視や差別から遁れるために転々として住所を変わり本籍地を移動したりして素性を隠す人もよくあると言われます。それは社会がその様な階級を作り差別をすること自体が大きな罪であり誤りであって特殊部落の人々はその犠牲者であるに過ぎません。故に社会全体の誤った観念や差別の習慣を1日も早く無くする様に努力することは当然必要なことであります。しかし特殊部落出身の人々の中で学歴もあり才能もあり財産もある人々が世間の眼を誤魔化すために住所を変え自己は特殊部落の出身者ではないと世間に思わせ、同じ特殊部落の中に住む親族や友人等と縁を切って自分丈が一般人の社会に逃げ込んでしまったならば後に残された特殊部落の人々は益々救われなくなります。
 
 名門の子孫と称している上流階級の人々の中にも神の前には大罪を犯している邪悪で低級で穢れた人々は沢山居るのであり、それらの人々はいつか必ず神に審かれて後悔する日が来るのであります。その反対に世間からは差別され迫害されて不幸な人生を送っていても心の正しい人々はいつか必ず名誉は回復され幸福に成れる日が来ます。特殊部落の出身者であっても高貴な心を持ち有為な才能を持つ人々は沢山います。しかしそれらの人々が自分丈が特殊部落を脱出すればそれでよいと考えるならば今迄長い間差別に耐えて信頼し合い助け合って生きて来た人々を見捨てることになります。あの人は特殊部落の出身者であってもあれ程高貴な心や有為な才能を持つ立派な人だと多くの人々が尊敬し信頼する様な人になれば世間の人々の見方を少しでも変えることが出来、更に祖先の霊に対しても大きな慰めともなり孝養ともなるのであります。祖先と子孫との間には切ることの出来ない強い絆、因縁が存在することを覚らねばならないのであります。
 
 そうして祖先を尊び祖先を愛するということは立派な墓を建てよく墓参りをしたり墓掃除をしたりすることでもなければ、立派な仏壇を作り毎日線香や燈明を上げ意味も判らないお経を熱心に読んで上げることでもないのであります。祖先の中で生前罪を犯して死後霊界で苦しんだり迷ったり悩んだりしている霊があれば子孫が代って罪の障いをして上げたり、誤った人生を送ったために迷っている霊に対しては真理を説いて迷いや悩みを消滅させて上げたりするならば祖先霊は救われるのでありそのことを最も喜ばれるのであります。立派な仏壇を作って上げることが祖先に対する供養だとか孝養だとか報恩だと考えることは誤っているのであります。また祖先霊は子孫が幸福になり繁栄することを喜ばれるのであって、子孫が怠け者になったり遊び人になったり犯罪人になったり家を絶やしたりすることを最も悲しまれるのであります。故に自分自身が立派な人間になり良き家庭を作り、良き子孫を残し立派な家系が続いて行く様に努力することが祖先に対する本当の愛であり孝養であり報恩であると言えるのであります。
 
 次に我が姓名を尊べよということは姓名そのものを尊べよということではないのであります。自分自身を大切にせよということであります。しかし自己が世間の多くの人々と様々な交際をする時は自己の姓名を以って自己を表現するのであります。故に自己の姓名を尊ぶということは自分自身を尊ぶことであり、自分自身が高貴な人間になり世の人々に親しまれ愛され尊重され信頼されるということは世間に於いて自己の姓名が尊ばれるということでもあり、自己が自己の姓名を尊ぶことでもあると言ええるのであります。何故姓名を尊ばねばならないのかというと人間は死んでも姓名は人々の記億や歴史の中に残って行くからであります。悪名を残せばその人の実物を知らない人でも悪名丈は知ることが出来、昔この様な名前の悪人が居たということが何時迄も人々の心に残り、悪口や軽蔑や憎しみ等の対象となるのであります。生きている間にしたい放題の悪事を重ねながら、人間は死んだらそれきりだ、死んだ後で幾ら悪口を言われようと笑われようと憎まれようと痛くも痒くも何ともないと思って、高を括っている人が沢山居ますが、其れは大いに誤っているのであります。死んで肉体は消滅しても霊は存在し続けるのであります。其の事を知らずに死んだら全てが終わりだと思って悪事を重ねていれば、死後霊界では必ず悩んだり苦しんだりしなければならず、後世に至る迄多くの人々から憎まれたり笑われたりするばかりでなく、子孫や一族の人々に迄悲しい思いや辛い思いをさせて悩ませたり苦しめたりしなければならないのであります。

 例えば甲という人が乙という人を殺したのであれば甲が殺した当人の乙から怨まれるのは当然であるにしても、乙の家族からも怨まれたり憎まれたりしなければならないのであります。その上更に殺人事件が広く一般の人々に知れ亘れば何の関係もない無数の人々から怒りや憎しみや軽蔑の対象にされねばならないのであり、これ程馬鹿らしい大損になることはないのであります。そうして日本の田舎の片隅で起した小さな事件がマスコミ等で全国に報道せられて何の関わりもない人々からも憎まれたり軽蔑されたりしなければならないのであります。また歴史に残る様な大きな罪を犯して死んだ場合、後世に至る迄人々から憎まれたり蔑まれたりするのみならず、自己が生まれ変わって来てからも猶前世の自己の汚名が世の人々の軽蔑や悪口の対象になっているということにもなるのであります。故に自己の姓名を汚す様なことは絶対にしない様にしなけれぱ自分自身が一生苦しまねばならないのみならず来世に迄苦しまねばならない原因を作ることにもなるのであります。
 
 祖先が名も知れない人であろうとも悪人であろうとも全ての人々は神の顕現として此の世に生まれて来ているのであります。皆が神の徳を此の世界に、人間の社会に顕現するために祖先となり子孫となって尊い生命を血潮を心を受け継いで生まれて来ているのであります。どんなにつまらぬ祖先でも、どんなに悪い祖先でも祖先がなければ子孫である自己も存在しないのであります。名門や名家に生まれた人を羨んだり妬んだりしても自己の幸福に役立つことはないのであります。自己の祖先の名を恥じて他家の姓を名乗ったり、系図を誤魔化して自己の先祖を消し去ることは神を欺き先祖を欺き、他人を欺き子孫をも欺く誤った行為なのであります。また悪事をするのに他人の姓名を騙る人がありますがその様な行為は他家の先祖の名警を傷つけることであり大きな罪であります。自己の姓名を穢してはならない如く他人の姓名も穢してはならないのであります。
 神があるから人間があり、先祖があるから自己があるのであります。故に神から先祖を通じて連綿として受け継がれて来た尊い血を、尊い家系を、尊い自己の生命を決して疎かにしてはならないのであります。自己の先祖を愛し自己の姓名を大切にしながら、皆がお互いの家系を尊重し合い、全ての家や全ての子孫が繁栄して行ける様に努力して行かねばならないのであります。

 この「我が家の庭」という詩は昭和43年頃3番迄作っていたものを昭和54年8月31日に4番5番と作り、昭和58年10月7日に6番を作って完結したものであります。私が国常立尊から直接授けられた教えはこの「我が家の庭」丈であります。しかし長い間、私を指導し加護して下さったのは国常立尊でありまた豊雲野尊でありました。私は神に神示を求めたりお伺いを立てたりすることは決して良いことではなく正しいことでないと考えていますので神示を求めたりお尋ねしたりしないことにしているのであります。昭和40年頃、私が自己の将来について迷っていたことでどの様にすれぱ良いかお尋ねしたことがありました。その時「あなた自身の心で考え、あなた自身が正しいと信じたことを実践して行きなさい」と神より言われたのでありました。それ以来私は人間が自分で考え自分で学び自分で覚ろうとしないで判らないことは何でも神にお伺いを立て神示を求めようとすることは良くないことであると知って神示を求めることはしないことにしているのであります。
 
 宇宙学を学んでからもそのことをはっきりと感じたのであります。宇宙学でも神示を求めることは良くないことであると教えられています。「神示を求めるのは良くないことであるにも拘わらず、地球人は何かといえばすぐ神示を求めたがる。そのくせ神示を与えると実行しようとしない」と宇宙学では神示を求める誤りを厳しく戒めているのであります。何か判らないことや知りたいことがあるとすぐ神にお尋ねすれぱ真に便利であります。しかし自分で考え自分で判断する様に努力しなければ何時迄経っても進歩向上出来ないのであります。自分の理性で考え自分の理性で正しい判断を下し、自身の意志と努力で正しい人生を送って行くことが正しい修行なのであります。故に神社や教会へ参ってお取次を頼み神のお告げを求めて自分の方針を決めようとすることは低級な人間のすることであって決して他人に自慢出来ることではないのであります。欲の心や邪悪な心や穢れた心で何かしようとするから迷ったり失敗したりするのであります。無欲な心や愛の心や誠の心で正しい人生を送って行こうと努力するならば神にお伺いなどしなくても神はいつも人間が正しい道に進める様に導いて下さるのであり、必要な時には何もお願いしなくても守って下さり助けて下さるのであります。
 
 「我が家の庭」の詩は1番から6番迄全て自己を中心とした心の修行や生き方を説いているものであります。これは宇宙学を学んだ人々からすると宇宙学と反対の教えの様に考えられるかも知れません。しかし実際には宇宙学と表裏の意味であると言えるのであります。宇宙学の精霊賛歌に「洗え洗え心を洗え汚れた乱れた心を洗え、1人1人が目覚めて心を洗い清める時、地球は明るく開かれる」という歌があります。1人1人がそれぞれ心を洗い清めて神に繋がる丈の努カをしなけれぱ皆が本当に賢明になれることも幸福になれることもないのであり地球滅亡の危機を救うことは出来ないのであります。
 
 自分が空腹であるならば自分で食事をせねば空腹を満たすことは出来ないのであります。自分の体が汚れたのであれば自分で風呂に入って洗わねば綺麗にはならないのであります。他人に代りに食事をして貰ったり、他人に代りに風呂へ入って貫うことは出来ないのであります。自分が賢明になりたければ自分で勉強する他ないのであり、自分が高級な人間になりたければ自分で神の教えを守って心を洗い清める様に修行するしか方法はないのであります。自分で勉強しないで他人に勉強して貰って賢明になることは出来ないのであり自分で自分の心を洗い清めようと努力しないで他人に心を洗い清めて貰って高級な人間になることは出来ないのであります。全ての人々が自分の意志と努力で健康になり幸福になり賢明になり高級になる様に心掛ける以外には自分自身が救われることはないのであります。自己の洗心修行は相手がいなければ出来ないとか連れがいなければ出来ないというものでもなければ教会へ行かねば修行出来ないというものでもないのであります。私達は1人きりでも、何時でも、何処ででも心を洗い清める修行は出来るのであります。しかし宇宙学の本を読んでも只漠然としたことしか判らず、どの様にして自己の心を洗い清めればよいのかということはよく判らない場合が多いのであります。宇宙学では自分で自分を救うことは出来るが他人を救うことや他人に救って貰うことは出来ないと教えています。他人を救うことは出来ないと言っても川で溺れている人を助けたり、お金に困っている人を助けてあげたりすることは出来ます。しかし他人の心の誤りを治してあげることは容易ではないのであります。
 
 全ての人にその人自身に与えられた使命があり、その人のみに与えられた徳や個性があります。或る家に生まれることも或る土地に生まれて来ることも全て自己に与えられた使命であり尊い縁であります。故に全ての人々が自己に与えられた徳や個性や家系や郷里や職業や、親兄弟や妻子や友人などを大切にしなければならないのであります。他人に与えられた個性や徳や使命を羨んだり、他人の生まれた家や他人の生まれた土地や他人の職業などを羨んだりしてはならないのであります。宇宙学では「与えられたことに感謝し与えられなかったことに感謝せよ」と教えられていますが、それは自らに与えられた徳や個性や使命や家系や郷土や家族や友人や職業や地位や財産や収入やあらゆる面に亘って当て嵌まるのであります。自己に与えられたものを感謝して大切にし、自己に与えられなかったことにも感謝して不平不満を言わず疑いや迷いや怒りや嫉みなどの心を持たず、常に明るく朗らかに自分自身の修行に努め、自分自身に与えられた使命を果して行くのが感謝の生活であり、正しい修行であり、生甲斐や幸福に満ちた人生であると言えるのであります。
 
 神は全ての人々に対してその人に相応しいもの、その人に必要なものを与えて下さるのであります。そうして与える理由や必要があるから与えて下さる様に、与える必要がなく、与える理由がないから与えられないのであります。故に神が他人に幸福を授けられたのたから私にも授けて下さいと祈ったり、他人が神の教えを受けたのだから私にも教えを授けて下さいと祈るのも誤っているのであります。常に神の御教えを守って正しく清らかな人生を送って居りさえすれぱ神は求めずとも私達に必要なものを恵み与えて下さるのであります。自己が神の教えも守らず、正しい修行もしようとしないで神に何かを祈ったり願ったりすることは誤っているのであります。故に神に願を掛けたり、願い事をしたりする信仰は誤っているのであり、信者の願い事を取次いで神に祈って願い事を叶えて頂こうとする宗教家もまた誤っているのであります。