モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」黒住教篇 ②

 さて「我思う故に我あり」というデカルトの言葉があります。我、自己があるのは自己の個性と意志があるからであります。自己の個性と意志とが無いならば我というものは無いのであります。皆が同じ顔、同じ姿、同じ考え、同じ目的等を持ち、同じ行動ばかりするならば其処には何の面白さも無いのであります。また人間に個人の自由意志が無ければ、何の苦悩も悲しみも無い代わりに何の生き甲斐も幸福も無く何の進歩向上も無いのであります。人間に個性と個人の自由意志が無いならば、人間の社会は同一規格で何10億個も大量生産され誰かの意志に依って操られるロボットの大集団と何ら変わりはないのであります。人生の素晴らしさは実に全ての人々がそれぞれの個性と個人の自由意志を持って生きて行ける処にあると言わねばならないのであります。しかし個性や自由意志が自分丈利益や幸福や進歩向上の為に用いられ、他人の利益や幸福や進歩向上を害する為に用いられるならば、人間の社会は非常に不幸なものになってしまうのであります。個性や自由意志とは自己の利益や幸福や進歩向上の為に用いられねばなりません。しかし自己の利益や幸福や進歩向上は社会全体の利益や幸福や進歩向上と相反するものであってはならないのであります。全ての人々が自己の個性と自由意志を活かして自分自身の利益や幸福や進歩向上の為に努力すると共に、皆が自己の個性や自由意志を活かして皆の利益や幸福や進歩向上や世界の平和の為に奉仕し合う処に素晴らしい人生の生甲斐や歓びや幸福があると言えるのであります。
 
 さて全体と個人とは一体であって別々であるとも言えますし、別々であって一体であるとも言えます。故に「我無けれど我有り」とも言えますし、「我有れど我無し」とも言えるのであります。私達は自分自身の為に個性を活かさねばならない時もありますし、社会全体の為に個性を活かさねばならない時もあります。また反対に自己の為に個性を捨てねばならない時もあり、社会全体の為に個性を捨てねばならない時もあります。それは個人の自由意志についても同じことが言えるのであります。そうしてそれは皆の正しい判断に依って決めねぱならないことであります。個性や自由意志は是非必要であります。しかしそれはどんな個性や自由意志でも良いという訳ではないのであります。各個人の正しい個性や自由意志は必ず個人の利益になると共に社会全体の利益にもなるのであります。しかし各個人の悪い個性や自由意志は必ず個人を不幸にすると共に、社会全体をも不幸にするのであります。故に全ての人々が正しい個性や自由意志の持主になる様に努カしなけれぱならないのであります。そこに正しい心の修行が必要になってくるのであります。

 例えば現代の精密機械の中には何千個、何万個の部品を組み立てて造られたものが沢山あります。しかし規格の違う部品を幾ら沢山集めても機械を組み立てることも出来ませんし、粗悪な部品をいくら沢山集めても立派な機械を造ることは出来ないのであります。優秀な完全な部品ばかりを集めて組み立てて初めて立派な精密機械を造ることが出来るのであります。そうして何万個という優秀な部品の中に僅か数個の粗悪な部品が混っていたために機械の性能が大幅に低下したり、大事故を起こしたりすることはしばしば有り得ることであります。それと同じ様に愚かな人間や邪悪な人間や低級な人間ばかりが集まり正しい理想の社会を建設することは出来ないのであります。社会の全ての人々が1人残らず立派な人間になる様に努力しなければ本当に立派な社会を建設することは出来ないのであります。世の中には自分さえ正しい立派な人間になればよいと考えている人々が沢山あります。またその反対に自分1人位悪いことをしようと低級なことをしようと構わないと考えている人も沢山います。しかしその様な考え方はどちらも大きな誤りであります。今日の社会では自分さえ立派な人間になればよいと言う人々や、自分なんかどうでもよいと言う人々が余りにも多過ぎるのであります。
 
 何万個という優秀な部分品の中に僅か数個の粗悪な部分品が混っているために機械の性能が大巾に低下したり、使用不能になったり、大事故を起こしたりすることがしばしばある様に、社会の中に少数の邪悪な人や穢れた人や低級な人が居る為にどれ程大きな損害や不幸や悲劇が起こっているか計り知れないのであります。社会の中に占める盗人の数は僅かであります。しかし社会の中に少数の盗人が居る為に皆が家や財産に錠を掛けたり防犯燈や防犯ベルを設置したり、盗難保険に加入したり、番人や守衛や番犬を置いたり、外出の時には何時も戸締りを気にしたり、社会には多数の警察官を雇って警戒したりしなけれぱならないのであり、その経済的損失や負担や心理的不安等は非常に大きいのであります。
 また子供の火遊びや、主婦の火の不始末や煙草の吸殻など小さな不注意の為に起こる火災の件数や物的損害や人的損害や、社会的負担等も甚だ大きいのであります。社会に少数の邪悪な人や低級な人や愚かな人が居るために起こされる損失や不幸や悲劇は決して無視出来ないのであります。結局皆が立派な人間になる様に努力しない限り理想の社会を建設することは出来ないのであります。

 また沢山の粗悪な部分品の中に少数の優秀な部分品を混ぜても決して優秀な機械は造れない様に、社会の少数の人々が自分さえ立派な人間になればよいと考えて幾ら努力しても理想の社会を建設することは出来ないのであります。然るに自己の利益や幸福や進歩向上を図る為に他人の利益や幸福や進歩向上を阻止しようとする人々が多いのであります。豊かな知識を持つ学者が知識を独占することに依って自己の学識を世間に誇り、金銭や地位や名声を独占し私利私欲を図っています。しかし全ての人々が豊かな知識を持ち高い教養を持ってこそ文化は更に進歩発展することを知らねばならないのであります。皆が賢明になっては自己の知識を他人に誇ることが出来ず、利益や地位や名声を確保することが出来なくなると考えて、愚かな知恵で学問の独占を図っているのが多くの学者の浅ましい姿であります。

 或いはまた富豪とか資本家とか言われる人々は自己の富の豊かさを貧しい人々に誇り、多くの同業者を倒し、或いは多くの人々の職を奪ってそれを正しいことと思っていますが、皆が豊かになってこそ産業経済も文化も健全な発展を遂げられるのであります。皆が賢明になることは自己が賢明でなくなることではなく、皆が豊かになることは自己が豊かでなくなることでもないのであります。学識や富を独占して自己の学識や富を世間に誇る人々こそ本当は愚かで心の貧しい人であることを知らねばならないのであります。自己の豊かな学識や豊かな富は皆が賢明になり、皆が豊かになる為に役立てられてこそ活かされるのであります。個人の利益と幸福は常に全体の利益や幸福と一致しなければならないのであります。そうして全体の利益を重んじる共産主義の理想も、個人の利益を重んじる自由主義の理想も窮極は同じなのであります。しかし共産主義の理想も自由主義の理想も立派な個人が集まり協力し合わねぱ絶対に実現出来ないのであります。自分自身が正しく賢明な人間になる為に努力するのが自己完成への途であり、皆が正しく賢明な人間になる為に努力し協力し合うのが人間完成への途であると言えるのであります。
 
 さて人間は言わば神のお創りになった機械であります。しかし人間には個性や自由意志があります。それに対して人間の作った機械には個性や自由意志がありませんが、その点が人間と機械との大きな相違点なのであります。機械には個性や意志が無いために製作者である人間の意志に反して勝手な行動をするということがありません。しかし人間には個性や自由意志が与えられているために、しばしば創造主である神の御心に叛いた勝手な行動をするのであります。その為に多くの不幸や悲劇が起こって来るのであります。神は人間が神の御心に従って生きるならば楽しく幸福に暮らすことが出来る様に仕組んで居られるのであります。人間に与えられた個性や自由意志が即ち「我」であり、人間が神の御心のままに正しく清らかに生きている時を「無我」の境地、即ち神と一体の状態と言うのであります。座禅を組んで何も考えないでいる状態を無我の境地と呼ぶべきではないのであります。何も考えていないのは眠っているのと同じなのであります。人間が神の御心のままに考え、行動し、生活している状態が無我の境地なのであります。そうして神の御心に叛いて勝手なことを考え、勝手な行動をしているのが「自我」なのであります。座禅を組んで無念無想になれば神と一体の境地になれると考えるのはとんだ大間違いであり、神道諸派の如く「鎮魂帰神」の行をすれば神に通ずると考えるのも誤りであります。その様な修行でまともな神に通ずることはないのであります。自己の自由な意志や個性無くして人間は有り得ないのであり、人間にとって自由な意志や個性は何物にも代え難い程尊いものであると言わねばならないのであります。その尊い個性や自由意志を活かして神の御心のままに正しい修行に励んでこそ即身成仏の境地、即ち神の子に相応しい正しく清らかな人間になれるのであります。
 
 中世日本の仏教界では僧侶が樹の実を食べたりして死後遺体がミイラに成り易い様にし、ミイラになった遺体を即身成仏と称していた事実がありますが、その様な考え方は全く誤りであります。死んで神になれるのでもなく、死んで悟りが開ける訳もないのであります。生きている間に神の御心に叶う正しく清らかな人間になることが即身成仏の境地なのであります。そうして世の中の全ての人々が自己の意志や個性を活かして神の御心のままに正しく清らかで高級な人間になり、協力し合う時初めて皆が楽しく幸福に暮らすことの出来る理想の世界、即ち仏教で言う処の極楽浄土、神の世界を此の地上に建設することが出来るのであります。日蓮の如く世の中で自分程偉い者はいないと公言して折伏に努力する如きは決して天上天下唯我独尊の境地ではないのであり、念仏や題目を如何に熱心に唱えても御経をどれ程熱心に読んでも、何年座禅に励んでも、火の行や水の行を熱心にしてもその様なことで即身成仏には成れないのであり、如何に他力にすがっても極楽浄土へ往生出来る筈もないのであります。
 
 さて人間完成、自己完成、即身成仏と言っても現実には人間が一生の間に完成の域に到達することは不可能であり、即身成仏と言っても宇宙の真理の全てを覚り切って完成されたという意味の仏に成れるはずはないのであります。即身成仏とか神人一如の境地というのは人間が諸々の煩悩、言い換えれば様々な欲望や邪念を捨て去って神の御心に従い、宇宙の真理法則を守って正しい道を歩みながら神の世界に到達する為に修行を続けることが出来るようになった状態であると言えるのであります。心が邪悪で穢れていては正しい修行は出来ず、従って真理を覚れる訳もないのであります。様々な邪念や妄念や欲望が消え去って心が正しく清らかになり、神の教えや宇宙の法則を学ぶことが出来るようになった状態が即身成仏であり神人一如の境地であると言えるのであって、即身成仏とは宇宙の真理を覚り切って仏になったということではなく、神人一如も真理を覚り切って神になったということではなく、神の光や力を戴いて正しい修行が出来る様になったということであります。故に人間完成、自己完成と言っても自己が神と同じ様に完成された人間に成れるということではないのであります。厳密に言えば人間完成、自己完成は永遠に有り得ないと言えるのであります。
 
 しかしもっと見方を変えるならば自己完成も人間完成も有り得ると言えるのであります。例えば小学生は小学校で学ぶべき事を充分理解し得たならば、小学生としては一応完成したとも言えるのであります。しかし学問は小学校丈で終わるのではないのであり更に中学校へ進学しなければならないのであります。そうして中学校で学ぶべき事を充分会得し終わったならば中学生としては完成したと言えるのであります。高等学校に於ける過程を充分会得し終われば高校生としては完成したことになるのであり、大学の過程を充分会得したならば大学生としては完成したと言えるのであります。人生には多くの過程や段階があります。小学校に於いては小学生として完成し、中学校に於いては中学生として完成し、高校に於いては高校生として完成する様に努力することは必要なことであります。現世に於いては現世に修行すべきことを完成し、来世は来世の過程を完成して行けば無限に進歩向上して行けるのであります。故に永遠の人生に於いて窮極的な意味での人間完成、自己完成は有り得なくても、それぞれの段階や過程に於いての人間完成や自己完成は有り得るのであります。現世に於いて無限に高い境地に到達することは幾ら努力しても不可能であります。しかし一段階に到達し得たことを以って満足し、自己完成の気分に浸って進歩向上の努カを止めることは危険なことであり誤りであります。人生の理想、目標とする処は無限の彼方にあります。故に私達は無限の彼方にある理想の世界に到達することを目標として永遠に進歩向上の努力を続けねぱならないのであります。その為には着実に一歩一歩前進し、一段一段と昇って行かねばならないのであります。
 
 小学校の過程を終えずして中学校へ進むことは出来ず、中学校の過程を終えずして高等学校へ進むことも出来ない様に、1つの過程を完了せずして次の過程へ進むことは出来ず、1つの段階を経ずして次の段階に上ることは出来ないのであります。故に私達は1つの過程や段階を大切にし、それぞれの過程を充分に完了してから次の過程に進む様に全力を尽くさねばならないのであります。それぞれの過程に於いて最大限度迄自己を完成させるために努力することが、次の過程に於ける修行や進歩向上を容易にし早くすることになるのであります。その様な意味に於いて人生の1過程や段階での自己完成や人間完成は必要であると言えるのであります。しかし真理の世界は無限に広く、理想の世界は無限の彼方でありますから、私達は限られた目標に到達したことに満足し慢心し、進歩向上の努力を怠ってはならないのであります。理想の世界は無限の彼方にあり、私達は常に未完成であることを忘れず、進歩向上のための精進を続けねばならないのであります。そこに人間としての無限の進歩向上があり、人生に於ける無限の生甲斐や幸福があり、人類社会の無限の進歩発展があると言えるのであります。
 



 ◎彼方は此方(こなた)であり、此方は彼方であり、あの世も此の世も全ては神の世界である。愚かなる人々にはそれを覚ることが出来ない丈のことである。
 
 彼方とは彼岸であり此方とは此岸であります。川の東岸に立って西岸を望めば西岸は彼岸でありますが、西岸に立って東岸を望めば東岸は彼岸であります。それと同じ様に人間の世界から神の世界を見れば神の世界は彼方の世界であり、神の世界から人間の世界を見れば人間の世界は彼方の世界であります。人間の世界は人間から見れば此方の世界であり神の世界から見れぱ彼方の世界であります。故に同じ世界が見る者の立場の相違に依って、彼方の世界ともなれば此方の世界ともなるのであります。あの世とは神の世界であり、霊魂と物質との世界であります。人間はあの世から此の世へ生まれて来、死んで此の世からあの世へ帰るのであります。故にあの世も此の世も私達自身の世界であると共に神の世界でもあると言えるのであります。
 
 日本神道では死後の世界を冥の国と呼び非常に穢わらしく無気味で恐ろしい世界である様に教えてきたのであります。キリスト教では「天にまします我らの父」と言う如く人間の世界を罪や穢れに満ちた世界と考え、死後の世界に神の居ます天国が存在する様に教えて来たのであります。仏教でも浄土宗等では此の世を穢土即ち穢れた世界と考え、あの世に極楽浄土極楽浄土が存在すると説いているのであります。しかしその様な考え方の全てが誤りなのであります。では何故その様な誤った考え方を人間が信ずる様になったかと言うと、人間は何故生まれて来るのか、何故生きているのか、死とは何か、死後人間はどうなるのかという様なことに就いて正しい知識を持っていないからであります。
 
 霊魂と物質とが神のお力に依って結ばれ心と肉体を持つ人間に生まれて来るのであり、死後心は肉体を離れて霊魂の世界に帰り、肉体は分解して様々な物質に還元するのであります。故に死は大自然そのものに還ることであり、生まれることは大自然の中の人間の社会に還ることであり、生の世界も死後の世界も同じ処に存在するのであり、十万億土という様な遠い処に死後の世界が存在するのではないのであります。故に神の世界も人間の世界も同じ宇宙の同じ大自然の中に存在するのであり、神が創造し給い、神が治しめし給う同じ世界なのであります。只、心が穢れ乱れ曇っている人々にはそれを覚ることが出来ない丈のことであります。





 ◎自己を信ずることは全てを信ずることであり、全てを信ずることは自己を信ずることである。それが正しい信仰の姿である。

 
 自己が現在人間として生きているという事実を疑う人はいないでありましょう。しかし自己が人間として生きていることが出来るのは神の愛、神の恵み、父母や兄弟や無数の世の人々の愛や善意や助けがあるからであります。故に自己の存在を信ずるならば、神の愛や大自然の恵みや無数の人々の愛をも信じなければならないのであります。しかし神があり大自然があり無数の人々がいても自己が存在しなけれぱそれらの何ものをも見ることも知ることも信ずることも出来ないのであります。自己が存在するから全ての存在を知ることが出来るのであり全てが存在するから自己も存在することが出来るのであります。故に自己の存在を信じながら他の全てを疑ったり、他の全ての存在を信じながら自己の存在を疑うことは共に大きな誤りなのであります。自己の存在を信じ、全ての存在を信じ、自己の存在の意義を覚り、全ての存在の意義をも覚り、自己をも含めた全体の利益や幸福や進歩向上の為に常に努力を重ねて行くことが正しい信仰の在り方なのであります。
 
 そうして自己に存在の理由がある様に全てに存在の理由があります。善には善としての存在の理由がある様に、悪には悪としての存在の理由があることを覚らねばならないのであります。神にも存在の理由があり悪魔にも存在の理由があります。全ての生物にも存在の理由があり全ての物質にも存在の理由があります。全ての宗教にも思想にも学問にも存在の理由があります。故に私達は存在するものの全てを信じなければならないのであります。存在するものを存在すると信じ、存在しないものは存在しないと信ずるのが正しいのであります。孔子は「之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らずとなす。之知るなり」と説いています。それと同じ様に存在するものを存在すると信じ、存在しないものを存在しないと信ずるのが正しい信じ方なのであります。しかし存在しないものを存在すると信じ、存在するものを存在しないと否定することは大きな誤りであります。また正しいものを正しいと信じ正しくないものを正しくないと信ずるのも正しい信じ方なのであります。存るものをあるがままに見てありのままに受け入れるのが正しい信じ方なのであります。しかし目を閉じて見れば有るものも見えず色眼鏡を掛けて見れば本当の色が見えない様に、地球人は心の目を閉じているために有るものが見えず、見えないから無いと信じてしまったり、偏見でものを見るために真実が判らず誤った判断をすることが余りにも多いのであります。それでは物事を正しく見窮め、正しく受け容れていると言えないのであります。
 
 或る宗教を信ずるのであればその宗教の真理を求め、真理を生活の中に実践してみるべきであります。正しいと信じた教えを真心から実践することに依って、自己の信仰体験を通じて教えが正しいかどうかを知ることが出来るのであります。しかし正しいと信じた教えを守って幾ら実践してみても、幸福にもなれず、賢明にもなれないならば自己の信仰のあり方が正しいか否か、実践方法が正しいかどうか、修行の努力が充分であるかどうかをよく反省して見るべきであります。そうして自己の信仰のあり方が誤って屠らず、実践方法も正しく修行の努力も充分にしているにも拘わらず、幾ら信仰しても何のお蔭も得られないというのであれぱ、教えそのものが正しくないのではないかと判断してみるべきであります。或る宗教の信者になっても教えを学び実践しようともせず、単に祝詞やお経を読んだり、お参りを熱心にしたりして真面目な信仰だと思っている人が沢山居ますがその様な信仰では真理を覚ることもお蔭を受けることも出来ないのであります。

 宗教は教えであります。故に教えを学び実践するのが正しい信仰であります。また世界中には多くの宗教が存在します。しかしどの宗教も宇宙の真理の一部分しか説いてはいないのであります。故に1つの宗教丈信じたのでは宇宙の真理の一部分しか分からないのであります。どの宗教にも何か真理はあります。故に全ての宗教に真理を求め、全て宗教の中の正しい部分は受け入れ、誤った部分は捨てれば良いのであります。全ての中に真理を求め、全ての中の矛盾を捨て去ればそれ丈多くの宗教の真理を会得することが出来るのであります。しかし全ての宗教の全体を信じ受け入れることは不可能であり、全ての宗教の全体を捨てることは真理を否定してしまうことになるのであります。 また教祖の教えだからと言って何でも全部を正しいと受け入れることも誤っているのであります。全てを信じよと言うことは全ての中の正しい部分は正しいと信じ誤った部分は誤りと信ずることであります。故に全てを信ずるか否かは自己の理性や正しい理解力、判断力に頼らねばならないのであります。故に自己の理性や良識を信じ切る丈の勇気や信念がなければ全てを信ずることも正しい信仰をすることも出来ないと言えるのであります。全てを信ずると共に自己の理性や良識をも信ずるのが正しい信仰なのであります。
 
 



 ◎人間よ神に還れ、神よ人間に還れ、それのみが理想の社会を築く唯一つの道である。

 仏教やキリスト教では僧侶とか修道士等に対しては一般の信者よりも多くの戒律が与えられています。しかし聖職者は守らねばならないのに一般の信者は守らなくてもよいという戒律の差別など存在する筈はなく、存在すべきではないのであります。正しい神の御教えには聖職者も信者もなく、全ての人々が同じ様に教えを守らねばならないのであります。故に「人間よ神に還れ」とは、全ての宗教の聖職者や信者の人々よ、誤れる宗教を捨てて、真実の神の教え、宇宙の真理法則そのものを信じなさいということでもあります。1つの宗教を守っていては宇宙の真理を覚ることは出来ないのであります。そうして聖職者丈が神に仕えるのではなく、皆が神の御弟子となって真理を学び、皆が神の下僕となって神に奉仕し、清く正しく幸福な人生を送りなさいということであります。「神よ人間に還れ」とは、神官や僧侶や神父や布教師等の人々よ、聖職者であることをやめて普通の社会人に帰り、皆と共に働きながら神に仕え働きながら真理を説きなさい、という意味であります。
 
 また教祖や教主で生き神と名乗り自己を神格化して生きている人々よ、神であることをやめて人間に帰り人間として幸福な生活を送りなさいという意味でもあります。更に死後神として神社に祀られている故人の霊達よ、神であることをやめて再び人間に生まれ変って新しい修行を積み幸福な人生を送りながら新しい理想に生きて行きなさいという意味なのであります。古来日本では有名な人の死後その霊を神として神社を建てて祀るという習慣がありました。しかし故人の霊を後世の人が神と呼び、神社を建てて祀ったからといって、その霊が早速神に成れる訳ではないのであります。神社に祀られている故人の霊で神と呼ぶに相応しい程高い修行を積んだ人は居ないのであります。人間が神として祀れば誰でも神になれるのだと考えることは誤っているのであります。神社を建てて故人の霊を祀り神と呼べばすぐ神になれると言うのであれば、人間は幾らでも都合の良い神を作って利用したり役立てたりすることが出来る筈であります。しかし人間が人間を神にでっちあげて様々な願い事をすれば叶うというのであれば人間に何の苦労も要らずに皆が豊かに楽しく幸福に暮らすことが出来ることになります。しかしそんな馬鹿なことはないのであります。また靖国神社護国神社に戦死者の霊を多数祀っていますがそれらの霊も靖国の神と成れる訳はないのであります。日本人は靖国神社と言えば特に尊い神社であるかの様に考えますが、戦場で死んだのだから神になる資格があるというものではないのであります。日本人が戦死者の霊を靖国神社に神として祀るのは自由であっても、戦死者の霊が靖国神社の神になれると考えることは誤っているのであります。多くの人々には霊や神の姿が見えないが故に戦死者の霊が靖国神社に神となって鎮座しているものと思い込んでいる丈であります。この様なことはよく理性を以って考えてみるぺきであります。
 
 神が宇宙を創造され人類をも創造され、宇宙の法則を定めて宇宙を統治して居られるのでありますが、然るに神に依って生かされている人間が神を造るということが出来る筈はないのであります。神に依って創造され活かされている人間が幾らでも人間に都合の良い神を造ってお蔭を受けたり出来る訳はないのであります。これからの新しい時代にはもはや神道も宗教も必要なくなるのであります。従って神社も寺院も教会も、神官も僧侶も布教師も存在の必要はなくなるのであります。霊魂や物質そのものが神であり、宇宙そのものが神の世界であります。故に皆が宇宙そのものを神として尊び、宇宙の法則そのものを神の定められた真理法則として信じ守り、全人類が1つ心になって協力し合うことによってのみ理想の社会を建設することが出来るのであります。