モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」新しき光

 心にも太陽を 持ちて明るく美しく さわやかに ほがらかに 強く雄々しく生きてゆく
 
 人の世のくるしみも つみも悩みも悲しみも こらえつつしのびつつ たえつ雄々しく生きてゆく
 
 昨日去り今日は逝き 明日も空しく過ぐるとも とこしえに やすらかに はるか希望に生きてゆく
 
 新しき時は来ぬ はた新しき光満ちぬ ああされど ああされど 露と消えにしうたかたよ
 
 昨日また今日につぎ 今日は再び明日につぎ とこしえに やすらかに 遠き希望にもえてゆく
 
 新しき日は出でぬ はた新しき光充ちぬ ああさなり ああさなり 露と消えにしうたかたの
 
 けがれある人の世も 美しくする途はありぬ ああされど けがれなき 人の心を持ちてのみ
 
 貧しくも弱くとも 清き心の灯は とこしえに きわみなく 無量の闇を照らすなり
 
 弱くとも貧しくも すぐき心の一すじは とことわに きわめなく 無限の巌も通すなり
 
 美しき時は来ぬ はた美しき光満ちぬ ああさなり ああさなり 人の心の輝きに
 
 雨もあり風もあり 雪も嵐も雷(いかづち)も それは只 それは只 すぺて自然の業なるを
 
 美しき日は入りぬ はた美しき月出でぬ ああさなり ああさなり 自然の道理のそのままに
 
 輝ける朝あり はた美しき夕あり ああさなり ああさなり 人の摂理のそのままに
 
 新しき心あり はた美しき容あり ああさなり ああさなり 自然の摂理のそのままに
 
 輝ける生命あり はた美しき眠りあり ああさなり ああさなり 神の摂理のそのままに
 
 新しき言葉あり はた美しきひびきあり ああさなり ああさなり 人の心のそのままに
 
 新しき光あり はた新しき流れあり ああさなり ああさなり 時の流れのそのままに
 
 新しき生命あり はた新しき鼓動あり ああさなり ああさなり 人の血潮のそのままに
 
 新しき根は出でぬ はた美しき芽は萌えぬ ああされど ああされど 神の恵みのなくてかは
 
 降る雨に緑萌え 照る月影に色匂う うるわしく 美しき 人の心をそのままに
 
 汗多き夏過ぎぬ はた収穫の秋は来ぬ ああされど ああされど 人の力のなくては
 
 新しき日は昇り はた美しき月満ちぬ  ああさなりああさなり  人の生理のそのままに

 美しき春は来ぬ はた快き秋は来ぬ それも又 これも又 すべて自然の道なるを
 
 春もあり夏もあり はた秋もあり冬もあり それも唯 これも唯 すべて一つの過程なるを




 此れ等の詩は昭和38年8月15日朝、私の家より東約1キロ余りの処に在る吉備の中山の上に昇ろうとしていた太陽の光を拝して霊感を得て作ったものであります。8月15日早朝私が起きて家の外へ出て、現在の国道180号線真金十字路近くの家の処から東の吉備の中山の方を見ますと丁度その時朝日が山の上に昇ろうとしている処でありました。その時私の目に映じた太陽の光は嘗て見たことのない奇蹟の光でありました。その太陽の光を眺めて感激していた時、私の心の中に1つの詩が湧き出る如く浮んで来たのであります。それから暫く太陽を拝している間に詩の4番迄心に浮んで来たのであります。その日は1日中私にとっては色々と奇蹟的な出来事がありました。しかも太陽の奇蹟の光は日没迄変らず、私が太陽を肉眼で正視し続けても、眩いとか目が痛くなるとか、目が眩むという様なことは全くありませんでした。更に空の様子も常とは異なり、今迄見たことのない不思議な美しい青空でありました。

 さて私はこの「新しき光」の詩を得ると共に神から大きな試練を与えられたのでありました。その頃自動筆記の様な事をさせられたり、予言的な事を言わされたりしていた私は家族の目から見ると気が狂ったとしか思えなかったのであり、その結果として玉野市田井にある精神科の岡南病院へ強制的に入院させられてしまったのでありました。入院後数日して私は院長から数人の人と共に早朝、付近の山を散歩することを許可され、日の出前の田井の山を歩いたのであります。そうして山頂に昇って日の出を拝すると、再び太陽の奇蹟の光に接し、最初の日に詩の5番と6番を得、その後毎朝散歩に出る度に太陽の奇蹟の光に接して心に湧き出るままに3番ずつの詩を得、散歩に出始めて7日目の朝24番迄詩を作って完結したのであります。

 私にとって精神病院へ強制入院させられたことは非常に大きな悲劇でありました。しかし神は敢えて私を精神病院へ入院させられたのは深い理理由があってのことでありました。それは私に精神病の実態や邪霊の悪戯や精神病医学の誤りなどを粒さに研究させる為でありました。 私は岡南病院に於いて非常に多くの知識を得ることが出来ました。それは多数の精神病者の人々と身近かに接することに依って、精神病の実体を粒さに知ることができ、更に病院側の患者に対する治療の内情を詳しく知ることが出来たことであります。近代医学には非常に大きな、そして多くの矛盾が存在して居ります。しかもそれらの矛盾や誤りの甚しいのは精神病医学であると言えるのであります。何故ならば現代の物質文明は霊魂の存在を認めず、近代医学も霊魂の存在を認めて居らず、霊魂が生きている人間に取り憑いて様々な悪戯をするという事実を認めません。その為に神憑りとか霊憑りとか狐憑き等という様な状態になった人々は全て発狂したものとして取扱うのであり、邪霊に取り憑かれて苦しんでいる人々に対しても、邪霊を取り除くことを知らず、脳神経を痺れさせる様な強力な薬を強制的に飲ませたり、電気ショックという恐ろしい野蛮な治療を平気でしたりするのであります。

 私は岡南病院に於いて邪霊に取り憑かれて苦しめられたり騙されたりしている人々の実態を詳しく見て研究することが出来、更に精神病の治療法の誤りを充分に知ることが出来たのであります。そうして私は神が私に敢えて狂人の如き行為をさせられて、精神病院へ入院させられたことの真意が何であったかということを覚ったのであります。しかも病院に居る間中私は何時も太陽の奇蹟の光に依って元気付けられ、また多くの真理を学ぷことが出来たのであります。此の「新しき光」の詩は私が大きな不幸や悲劇の中にあって太陽の奇蹟の光を通じて神から与えられた真理なのであります。次に此の詩の大略の意味を述べてみようと思います。




 ○ 心にも太陽を 持ちて明るく美しく さわやかに ほがらかに 強く雄々しく生きてゆく
 
 この中の太陽とは現実の太陽であると共に、太陽神天照大神のことをも表しているのであります。私達人間は太陽の偉大な恵みに依って生かされているのであります。そうしてまた私達は太陽の様な明るく美しい心を持って爽やかに、朗らかに、強く雄々しく生き抜いて行こうという意味であります。


 
 ○ 人の世のくるしみも つみも悩みも悲しみも こらえつつしのびつつ たえつ雄々しく生きてゆく
 
 人間の世の中には様々な苦しみや罪や悩み悲しみが満ちています。しかし私達はどんな悩みや苦しみにも負けないで、堪えつつ、忍びつつ、耐えつつ雄々しく生き抜いて行こうという意味であります。


 

 ○ 昨日去り今日は逝き 明日も空しく過ぐるとも とこしえに やすらかに はるか希望に生きてゆく

 私達にとって理想の世界の建設は非常に困難なことであります。全人類の利益と幸福と世界永遠の平和の約束せられる地上天国を建設する為の努力が、過去には実現できないままに終わり、将来もその努力が何時報いられる日が来るかは判らないにしても、私達は絶望することなく、焦ることなく、永遠に心安らかに、遥かなる希望を胸に理想の実現の為に限りない努力を続けつつ生き抜いて行こうという意味であります。
 そうしてこの1番、2番、3番の3つが1組になって別の意味を表わしているのであります。1番は太陽神天照大神即ち日本神道を表わしており、2番はキリスト教を表わしており、3番は仏教を表わしているのであります。また1番はプラスの世界を表わし、2番はマイナスの世界を表わし、3番は零の世界を表わしているのであります。
 
 思想の世界では日本や中国等の東洋は精神文明でありプラスの文明であります。また西洋は物質文明でありマイナスの文明であります。更に西洋精神文明であるキリスト教はマイナスの精神文明なのであります。それに対して印度は無の文明の世界なのであります。日本神道教派神道の黒佳教、或いは生長の家はプラスの宗教であります。キリスト教はマイナスの宗教であり仏教は零の宗教であります。例えば日本神道は死を穢れと考えていますがキリスト教は死を賛美して居り、仏教は輪廻転生を説く如く生と死を対等に扱っている点があります。この様な点にも神道のプラス面、キリスト教のマイナス面、仏教の零の観念がよく現われているのであります。また数学の世界で零を発明したのは印度であると言われている様に印度は零の世界、無の世界であり、無の世界である印度に無の思想である仏教が生まれたのも当然のことなのであります。
 
 詩の1番が「心にも太陽を持ちて明るく美しくさわやかにほがらかに強く雄々しく生きてゆく」とプラスの言葉ばかりで作られているのも、日本神道の特徴を表わしているのであり、2番が「人の世のくるしみもつみも悩みも悲しみもこらえつつしのびつつたえつ雄々しく生きてゆく」とマイナスの言葉ばかりで作られているのもキリスト教の性格を表わしているのであり、3番が「昨日去り今日は逝き明日も空しく過ぐるともとこしえに安らかにはるか希望に生きてゆく」とプラスでもなくマイナスでもない零の言葉ぱかりで作られているのも仏教の特徴をよく表わしているのであります。また生長の家は、人間神の子無限の力、とプラスの教えを説いていますが、キリスト教は人間は全て罪人であるとマイナスの教えを説いているのであります。この様に世界の全ての宗教や思想はそれぞれプラス、零、マイナス等の特徴を有しているのであります。

 しかしプラスに片寄ってもマイナスに片寄っても零になり切っても決して正しい真理であるとは言えないのであります。私建にとってはプラスもマイナスも零も全てが必要なのであります。日本神道にはマイナス面が欠除しているのであり、キリスト教にはプラス面が欠除しているのであり、仏教は零であってプラスとマイナスの両面が欠除しているのであります。例えば黒住教は現世丈のことのみを説いているのであって死後の世界とか霊界については何も説いていません。尤も黒住教祖は「天照らす神の御心人心 一つになれば生き通しなり」という様な和歌を残していますが、仏教や天理教の如く輪廻転生や出直しの様なことは何も説いていないのであります。従って黒住教を幾ら信仰しても現世の生き方そのものは判っても人生の真理は覚れないのであります。生長の家では「物質本来無し肉体は心の影である」という様に唯心の教えを説いていますが、宇宙は霊魂と物質との世界であるのに物質の世界を否定して心の世界のことばかり説いているのは誤っているのであります。この様に日本神道や日本の文化にはマイナス面が欠けているために様々な矛盾を生じて来るのであります。

 また現世利益を説くのはプラスの宗教であり、死後の幸福を説くのはマイナスの宗教でありますが、現世の利益ぱかり考えて死後の幸福を考えないことも、死後の幸福ばかり考えて現世の幸福を無視することも共に誤っているのであります。生と死を繰り返しながら永遠に続いて行くのが人生であります。故に生前の幸福と死後の幸福の両方が得られる教えが正しいのであります。キリスト教には現世利益がありません。その点でもキリスト教はマイナスの宗教なのであります。
 
 その点仏教には大慈と大悲、煩悩と菩提、方便と正法、摂受と折伏、色と空という様な2面性があります。しかし仏教はプラスの面とマイナスの面を併せ持ちながらプラスとマイナスが相殺し合って零になっているのであります。プラスとマイナスが相殺し合うのでなく、活かし合い、長短補い合って初めて両面の教えが生きて来るのであります。仏教ではプラスとマイナスが相殺し合うから零になり何時迄経っても本当の進歩や発展が無いのであります。天理教では陰と陽との結合を「二つ一つの理」とか「助け合いの理」と説いていますが、プラスとマイナスは相殺すれぱ零となり、1つに結合すればプラスとマイナスになるのであります。零とプラスマイナスの区別がつかないのが今日の数学であります。
 
 例えば男性はプラスであり女性はマイナスであります。プラスの男性とマイナスの女性が結婚すれば、プラスとマイナスが相殺し合って零となるのではなく、プラスとマイナスが助け合い補い合って1つになるのであり、夫婦とはプラスマイナスの存在であると言えるのであります。零とは無でありますがプラスマイナスは有であります。仏教で有無という言葉には、有は即ち無であり無は即ち有であるという意味が含まれているのであります。しかし有と無の本当の相違点を知っている人は居ないと考えられるのであります。「昨日去り今日は逝き明日も空しく過ぐる」という様にプラスとマイナスが殺し合っていては何時迄経っても零から進歩しないのであります。プラスとマイナスを活かし合ってプラスマイナス即ち無から有に転ずる努カが必要なのであります。仏教が無の宗教から有の宗教に発展しなければ何時迄経っても空しいのであります。

 世界中のどの宗教にも何か尊い真理があります。しかし1つの宗教の真理丈で人間の真実の幸福や永遠の幸福は得られないのであります。例えば玄米は非常に栄養価が高く立派な食物であります。しかし私達は玄米ばかり食べて健康を維持することは出来ないのであります。玄米には蛋白質が不足しています。故に蛋白質の不足を補うために魚とか大豆製品等を食べねば健康を維持出来ないのであります。其の他野菜類や海草類等を食べて必要な栄養分を充分に摂ることで健康に暮らすことが出来るのであります。どの食品にもそれぞれ別の栄養分が含まれているのであります。しかし1種類の食物丈で必要な栄養分の全てを摂取することは出来ないのであります。様々な食物を取り合せて食べることに依って全ての食物の有無相通じ不足した栄養分を補い合うことが出来るのであります。

 宗教の世界にもそれと同じことが言えるのであります。仏教、キリスト教イスラム教という世界3大宗教でも宇宙の真理の全てを説いている訳ではないのであります。どの宗教にもそれぞれ独自の真理があります。しかしどの宗教にも矛盾もあり、欠けているものもあります。故に1つの宗教丈を幾ら熱心に信仰しても宇宙の真理の全てを覚れるものでもなけれぱ永遠の幸福を得られるものでもないのであります。まして自分の信じている宗教丈が正しい、他の宗教は全て誤っていると考えることは危険であり誤りであると言えるのであります。私違が様々な食物を食ぺて健康を維持する様に、全ての宗教の中に真理を求め、様々な真理を活かして自己の幸福や進歩向上を図ればよいのであります。




 ○ 新しき時は来ぬ はた新しき光満ちぬ ああされど ああされど 露と消えにしうたかたよ
 
 人類の過去の邪悪で矛盾だらけで不幸や悲劇に満ちた歴史は終わりを告げ、全人類の利益と幸福と世界永遠の平和の約束せられる理想の世界を建設して行かねばならない時代が来たのであり、新しい神の光が地球人類の上に満ち満ちています。しかし、ああしかし、地球人類の長い間の誤れる歴史の中で、宗教や思想や、民族や人種や国籍や、階級や党派等の相違の故に、或いは言語や文化や風俗習慣等の相違の故に、或いは金銭財産や地位や権力や名声や領土等に対する穢れた欲望の故に起こされた数多くの対立や戦乱の故に、その犠牲となって、心優しく罪無き人々の尊い生命が如何に沢山、露と消えて行ったことでありましょうか。「うたかた」とは歌方という意味でもあり音楽を愛する心の優しい清らかな人という意味であり、過去に英雄、偉人、大将軍、豪傑等と呼ばれて尊敬されて来た人々の多くは神の前には罪深く穢れた人々だったのであり、本当に人類の幸福と平和の為に尽した心の美しい清らかな人々の多くが邪悪な人々の為尊い生命を失っていったのであります。私達はこの尊い犠牲を決して無にしてはならないのであります。



 ○ 昨日また今日につぎ 今日は再び明日につぎ とこしえに やすらかに 遠き希望にもえてゆく
 
 私達は祖先から受け継いだ文化を発展させ更に子孫へ引き継いで次第に文化を発展させて行かねばならないのであります。私達は過去に人間に生まれて修行して来た様に、現在も人間に生まれて修行しているのであり、未来にも人間に生まれ変わり新しい修行を積みながら進歩向止し、更に高度の文明を発展させて行くのであります。故に私達は現実の社会の矛盾や誤りや不幸や悲劇等に負けることなく、永遠の理想の実現のために遥かなる希望を胸に情熱を燃やしながら力強く生き抜いて行こうという意味であります。




 ○ 新しき日は出でぬ はた新しき光充ちぬ ああさなり ああさなり 露と消えにしうたかたの
 
 新しき日は出でぬとは新しい時代が来たというのと同じ様な意味であると共に、新しい太陽即ち新しい指導者の出現という意味も含まれているのであります。そうしてこれは4番の「ああされどああされど露と消えにしうたかたよ」の後を継いでいるのであります。4番は宗教や思想や民族や人種や国家や階級や言語や文化や風俗習慣等の相違の故に起こされた多くの戦争のために心の優しく美しく清らかなうたかたの人々が犠牲となって露と消えていったことを述べているのであります。しかし6番は新しき日は出でぬという如く、過去に世界を支配してきた宗教や学問や法律や道徳に代わり新しい真理法則の下に新しい指導者が新しい時代を創って行く時が来たということを告げているのであります。

 そうして最後の審判はやがて終わり、過去、神の御教えに叛いて誤ったことをして来た人々は滅び、過去に何の罪無くして邪悪な戦争の犠牲となって死んだ霊達や邪悪な人々の為に滅ぼされ落ちぶれて社会の下積みとなって生き続けて来たうたかたの人々の上に新しい時代が訪れ、新しい光が満ちているという意味であります。今日上流社会にあって家柄血統を誇り、財産や地位や権力や名声を持ち誤まった行為を続け、罪を重ねている人々は滅亡して行かなければならないのであります。そうして社会の下積みになって世の為人の為に誠心を持って働いている心の正しい清らかな人々が神に認められて、新しい理想の世界を建設して行く時代が来たということを告げているのであります。 即ち6番は度重なる戦争や権力争い等の犠牲となって露と消えて行った人々や落ちぶれて社会の下積みとなって正しく清らかに生き続けて来た人々の上に新しい日が昇り、新しい光が満ち溢れているという意味であります。上流階級にあって財産や地位や名声や権力を握って罪を重ねている人々は罪を改めない限り生き残ることは許されないのであります。そうして学歴も家柄血統も金銭財産も地位も権力も名声も無くても正しく清らかな人々が神の助けに依って新しい社会を建設して行く時代が来たのであります。




 ○ けがれある人の世も 美しくする途はありぬ ああされど けがれなき 人の心を持ちてのみ
 
 今の社会は余りにも穢れ乱れ過ぎています。このままでは世界は滅亡して行く他ないのであります。しかし穢れ乱れ切ったこの世を美しく清らかな神の世界とする途はあります。しかしそれは家柄血統や学歴や地位権力名声や金銭財産を誇る人々の力に依って出来ることではないのであります。家柄血統や学歴も地位権力名声も金銭財産も無くても、心が正しく清らかで誠心のある人々が協力し合うことに依ってのみ美しく清らかな神の世界を建設して行くことが出来るのであります。美しく穢れなき人々の心のみがこの穢れ乱れた社会を浄化し滅亡から救うことが出来るのであります。




 ○ 貧しくも弱くとも 清き心の灯は とこしえに きわみなく 無量の闇を照らすなり
 
 現代の地球人類の前途は全く無限の暗黒の世界であります。ノストラダムスの予言や黙示録の予言やファティマの予言等に有る如く人類滅亡の危機は目前に迫っているのであります。単に予言書のみでなく、ローマクラブ等の科学的な総合調査に依っても地球滅亡の危機が迫っていることははっきりと確認せられているのであります。然るに世界中の有名な宗教家も科学者も政治家も企業も学者も、この目前に迫った危機から世を救うことの出来る対策を何1つ持ってはいないのであります。また人類滅亡の危機が迫っていることを覚っている人は未だましでありますが、多くの人々は人類に滅亡の危機が迫っていることも知らず、自分達が知らず知らずの裡に地球を滅亡させるためにせっせと努力している事すら気付いてはいないのであります。
 
 何故、宗教や思想や政治や経済や教育の世界を動かしている程の指導者の人々に現在の地球の危機を覚ることが出来ず、また危機を覚ってもそれを回避することの出来る道を見付け出すことが出来ないのでありましようか。それは社会の上流階級や指導層の人々の心が穢れ乱れているからであります。金銭財産や地位名声権カ等に憧れたり、それらを求めるために努カしたり、それらを得て他人に誇ったり自己満足したり、驕り昂ぶったり、贅沢な生活を楽しんだりすることは全て穢れているのであります。その為に上流階級や指導層の人々には真理を覚ることが出来ず、地球滅亡の危機を救う道を見付けることも出来ないのであります。幾ら熱心に勉強をしても私利私欲や立身出世が目的であれば真理を覚ることも神に繋がることも出来ないのであります。金銭財産地位名声権力等を求めようとするのでなく、立身出世の為に努力するのでもなく、自分自身の修行の為に黙々として真理を学び勤労に励み、世の為人の為に心から奉仕する人々の真心のみが神に通じるのであります。そうして貧しくとも弱くとも心の清らかな人が掲げる心の灯こそ、人類の前途に横たわる無限の大暗黒の世界を照らす無限の大光明、無量光となって輝き、暗黒の世界に迷う人々の前途を照らし、正しい道を教え、希望を与え、世を救うことが出来るのであります。





 ○ 弱くとも貧しくも すぐき心の一すじは とことわに きわめなく 無限の巌も通すなり
 
 弱く貧しきものの小さな力を以ってしては現在の穢れ乱れきった世の中を浄化し改革することは不可能であると誰しも思うでありましょう。しかし身は弱く貧しくとも正しく清らかな人の心の一念は必ず神に通じ、無限の大岩石をも貫き通す如く、不可能と思える程困難な大事業即ち神の世界をこの地上に建設するという大理想も何時か必ず実現させずには置かないのであります。私達にとっては正しいと思ったことは何処迄も守り抜く信念が必要なのであります。多くの人々は何が正しいのか何が本当であるのかを容易に見抜くことが出来ないのであります。そうして正しいと思ったことでも自分の利益にならないと思ったり、自分のために都合が悪いと思ったら平気で誤ったことをする人も多いのであります。また自分が正しいと思っても他人が反対意見を述べればすぐ同調して誤ったことに協力する人も多いのであります。また毀誉褒貶にすぐ心を動かされ、他人の中傷や批判や非難に負けて信念を捨てる人も多いのであります。その様な人は結局大きな理想に生き大きな事業を成し遂げることは出来ないのであります。正しいことは何処迄も信じ抜き、毀誉褒貶や中傷や批判や非難に負けず自らの節操を守り信念を貫き通す人のみが不可能と思える様な大事業をも実現出来るのであります。



 

 ○ 美しき時は来ぬ はた美しき光満ちぬ ああさなり ああさなり 人の心の輝きに
 
 美しい時代が来た、そうして美しい光が満ちているとは過去と比較してのことであります。過去にユダヤ教キリスト教イスラム教や仏教が栄えていた時代に、社会の全ての人々が幸福であったという歴史的事実はありませんでした。日本の歴史に於いても仏教が伝来して朝廷や藤原氏が大いに仏教を奨励し、僧侶を優遇し、全国各地に仏教の大寺院を建立した時代に、多くの民衆は大寺院の建設や、多数の僧侶を養うために大きな犠牲を払わされ貧しい生活に苦しんでいたのであります。世界の何れの国に於いても宗教が栄えて人々が本当に幸福になり、心から平和や繁栄を楽しんだ時代が果たしてどれ程あったでしょうか。印度の孔雀王朝は仏教を奨励したアソカ王の死後間も無く滅び、日本でも仏教を奨励した聖徳太子の一族は太子の死後間もなく滅びています。それは仏教の開祖釈迦の属したカピラ国も釈迦族も滅亡したのと軌を一にしているのであります。ユダヤ教キリスト教も仏教も成程一面の真理を説いています。しかしそれぞれの宗教の真理は宗教の一部分であるに過ぎず、一面の真理の裏に隠された恐るべき矛盾のあることに気付かねばならないのであります。
 
 過去に宗教の栄えた時代が本当に人々の幸福な時代ではなかった様に、宗教の光は真理の光ではなかったのであります。全ての宗教は何か真理を説いています。全ての真理を皆の利益や幸福の為に役立てることは出来ます。しかし1つの宗教で皆の利益や幸福や世界永遠の平和を実現することは出来ないのであります。例えば米がどんなに優れた食品であっても米ばかり食ぺて健康を維持することは出来ず、他の穀物や野菜や小魚や海草や果物等で米に欠乏している栄養分を摂取しなければならない様に、私達は1つの宗教丈で字宙の真理の全てを覚ることも出来ず、皆の利益と幸福の約束せられる理想の世界を建設することも出来ないのであります。故に多くの宗教の真理を求めて宇宙の真理を覚り、全ての真理を活かして皆の利益や幸福や進歩向上の為に役立てればよいのであります。

 またどんなに良い食品であっても私達に食べられない部分や毒になる部分もあります。例えば米の籾殼や栗の毬や渋皮や豆の鞘等は食べられないものであります。故に食べられない部分は捨て、有毒部分は除き、灰汁は抜いて食べなけれぱならないのであります。それと同じ様にどの宗教にも信じてはならない矛盾や誤りもあり、不完全な部分もあります。故に信じてはならない部分は自己の理性や良識を持って否定すればよいのであります。米でも麦でも豆でも野菜でも果物でもそれ1種類丈では各種の栄養分が不足し健康を維持することは出来ません。しかし米も麦も豆も野菜・果物も皆各種の栄養分が不足している不完全食品だから食べる価値がないと言ったのでは食べる物が無くなってしまうのであります。またどんな食品でも食べられない部分や有害な部分もありますが、不可食部分や有害な部分のあるものは食べないと言って居ては何も食べられなくなるのであります。全ての食品の栄養分は活かし不足した部分は他の物で補い、不可食部分や有毒部分は取除く様に心掛けるならば、全ての食品を立派な食品に変え、私達の健康を守るために役立てることが出来るのであります。
 
 全ての宗教に何か真理の有ることを認めず、矛盾や誤りや欠けた部分の有ることを理由に全ての宗教を邪教として否定し去ったのが宇宙学教室の田原澄女史であります。全ての宗教に矛盾があり、邪教としての傾向があるのは事実であります。故に全ての宗教や学問等を捨てよと言うことは必ずしも誤りではないのであります。しかし全ての宗教や学問を否定し捨て去るのであれば、それに代わる新しい教えや学問を与えねぱなりません。しかし宇宙学教室からは遂に全ての宗教や学問に代わって新しい社会を建設して行くに足る素晴らしい教えや学問は生まれては来なかったのであります。私は宇宙学の正しい発展を願って、過去の宗教や学問に代わる新しい学問を創造することの必要を考えたのでありますが、田原女史の教えを金科王條とし進歩発展を望まない宇宙学教室の人々の容れる処とはならず、宇宙学教室の前途に見切りをつけて私独自の道を進むことになったものであります。
 
 また宇宙学教室と反対の立場にあるのが大本教生長の家であります。谷口雅春氏は多くの宗教の良い処丈を取り出して新しい教えを作り、万教帰一を説いていますが、それで全ての宗教の統一も融合も出来る訳はありません。籾殻の付いた米や毬や渋皮の付いた栗や鞘付きの豆等をそのまま混ぜて美味しい食物を作ろうと思っても無理であります。あらゆる宗教の誤りや矛盾を取り除かない限り、宗教の融和を図ることは不可能であります。結局1つの宗教を狂信したり盲信したりして居ては真理を覚ることも幸福になることも進歩向上することも出来ないのであります。1つの宗教に拘らず、全ての宗教の中に真理を求め、全ての宗教の真理を活かして自己の幸福や進歩向上や、皆の利益や幸福を図る様に努力すればよいのであります。

 しかし世間の人々は1つの宗教を信仰しているのに別の宗教も信仰すれぱ罰が当たるのではないかと考えたり、今迄のおかげが無くなるのではないかと考えたりします。またあちこちの宗教を信仰していれば何処かでおかげが受けられるだろうとか、沢山のおかげがあるだろうと考えて欲の信仰をする人もあります。しかしその様な信仰で真理を覚ることも進歩向上することも出来ないのであります。全ての宗教の中に真理を見出し、全ての宗教の矛盾を覚り、全ての宗教の真理を活かして初めて皆が幸福になれるのであります。狂信や盲信やおかげ目当ての欲の信仰で真理を覚ることは出来ないのであります。拝んだり祈ったりお参りをしたりお供えをしたりしておかげを受けようという愚かな考えを止めて、謙虚な心になって全ての宗教の中に真理を求め、誠心を以って真理を実践して行くならば必ず皆が幸福になり、理想の世界を建設することが出来るのであります。それを実行するのは人間の理性や良識なのであります。理性や良識を以って正しい人生を送って行く処に素晴らしい心の輝きがあるのであります。






 ○ 雨もあり風もあり 雪も嵐も雷(いかづち)も それは只 それは只 すべて自然の業なるを
 
 大自然の気候は全て宇宙の法則に従って神が支配して居られるのであります。故に神仏に祈って人間に部合の良い様に天候を変えて頂くという様なことは誤っているのであります。今日世界的に異常気象が続発し、天災地変が激化しようとしています。それは人間が神の御心に叛き、大自然の摂理に反した文明を創造したことが原因となって起こっているのであります。例えばアフリカ大陸のサハラ砂漠は毎年拡大の一途を辿っていると言われています。これが天災か人災かということは意見の分かれる処であります。しかしサハラ砂漠は嘗ては雨も降り水も流れ樹木や草が茂り多くの動物が棲んでいたと言われているのであります。然るに人間が野生動物を殺し、牧畜を営む様になってから砂漠化が急速に進行し始めたということは先づ確実でありましょう。自然は人間丈の世界ではないのであります。人間が自分達の直接利益にならない動植物を片端から殺し、都合の良い動物や植物丈を生かそうとする様な誤ったことをするから生態系は破壊され自然環境が破壊されて異常気象や天災地変等が発生するのであります。尤も地震等は地殻の変動や火山の噴火が原因とされていますが、それとても人間の地下資源の乱堀やダムの建設や原水爆の実験等が原因となって起こっている場合もあると言えるのであります。人間に依る森林や草原の消滅、公害に依る大気や水や土地の汚染や荒廃等が今後益々異常気象を激化させて行こうとしているのであります。
 
 雨が降るのも雪が降るのも風が吹くのも雷が発生するのも、全て大自然の法則に従って起こっている現象なのであります。しかし人間が大自然に不当で大規模な干渉をすれぱ大自然の法則が破れて異常気象が発生すると言えるのであります。では人間が天気を制御し自然を改造することは自然の法則に叛き地球を滅亡させることになり罪になると言えるでありましょうか。決してそうではないのであります。人間が大自然に存在する全てのものを尊重し、全ての生命を愛し、神の御心に従って、大自然の法則のままに正しい方法で天気を制御し大自然を改造するのは差支えないのであります。今迄地球人は人間丈の利益や都合ぱかり考え、大自然の法則を無視して自分勝手で誤った方法で大自然を支配しようとして来たのであります。その為に大自然は荒廃し異常気象も激しくなって来たのであります。
 
 人間の我儘勝手で宇宙の法則を無視して、大自然を支配しようとか征服しようと考えることが誤っているのであります。神の御心を尊び、大自然の摂理法則に従い、全ての生命を愛し、全てのものと共存共栄を図ろうと努カするならば、現代よりも遥かに素晴らしい地球に改造することも出来るのであります。人間の愚かな知恵や不完全な科学の力で思う様に雨を降らせたり、気候を変えたり、台風やハリケイン等を制御したりしようと考えることは誤っているのであります。人間が正しく清らかな心に還り、神の御心に叶う様になった時、神は人間の為に今迄とは違った、人間にとって都合の良い穏やかで恵まれた天候にして下さるのであります。雨乞い等で容易に天気が変えられるものではないのであります。全ての人々が神の御教えを守って正しい生活をする様になった時、今迄の様な異常気象や天災は無くなるのであります。




 ○ 美しき日は入りぬ はた美しき月出でぬ ああさなり ああさなり 自然の道理のそのままに
 
 西の空に美しい夕日が沈み、東の空に美しい月が昇るということは私達が常日頃見なれた、何の変哲も不思議もない現象であります。しかし地球が1日に1回自転するのも、太陽の周りを1年かゝって1回転するのも、月が1ケ月に1回ずつ地球の周りを回るのも、星の運行も全ては大自然の道理であります。若し1日の時間や1年の日数等がしばしば変わるのであれぱ私達は安心して生活することは出来ないのであります。私達が何時も安心して平隠に暮らして行けるのは、大自然に存在するものの全てが、宇宙の法則に従って秩序正しく整然として運行しているからであります。私達が何時も見慣れている自然現象そのものこそ偉大なる宇宙の真理法則そのものであることを覚らねばならないのであります。




 ○ 輝ける朝あり はた美しき夕あり ああさなり ああさなり 人の摂理のそのままに
 
 日の出の美しさ、輝かしい朝ぼらけの様は、人生に喩えれば歓喜に満ちた青春の時代であり、輝かしい門出の時にも相当するのであり、壮厳な夕日の美しさは、人生を力強く正しく生き抜いて尊い使命を果たし終えて静かに神の御許へ帰って行く人の姿にも似ているのであります。




 ○ 新しき心あり はた美しき容あり ああさなり ああさなり 自然の摂理のそのままに
 
 私達は前世に生まれ、死んで現世に生まれ変り、現世に死んで来世に生まれ変わります。同じ霊魂が前世には前世の人として生まれ、現世には現世の人として生まれ、来世には来世の人として生まれ変わるのであります。しかし前世の自己と現世の自己と来世の自己とはそれぞれ異なった人間に生まれ変わるのであります。それは同じ霊魂であっても生まれ変わる時代や民族や気候風土や文化等の相違に依ってそれぞれ違った影響を受け、更に直接的には自己の両親や家系や職業や学校や友人等の相違に依って性格や肉体や能力等に相違を生ずるからであります。しかし生まれ変る毎に過去のあらゆる記憶を捨てて新しい心を持って生まれ、全くゼロの位置から新しい修行をし真理を学ぶのであり、前世よりももっと美しく立派な肉体を持って生まれ、新しい体験をし新しい技術や能力を身に付けて、精神的、肉体的両面で前世よりも現世、現世よりも来世と進歩向上して行くのであります。故に生まれ変わる度に頭脳も優秀になり肉体も美しく立派になり、人格、教養、技術、能力など全ての分野に亘って生まれ変わる度に進歩向上して行くのが永遠の人生なのであります。新しい心と美しい容姿を神から恵み与えられて生まれ変わり、段々と高次元の真理を学び難しい修行を積んで高級な人間になる様に努力を続けて行く処に限りない人生の歓びや生甲斐や幸福が存在するのであります。そうして人間が生まれ変わりを繰り返しながら進歩向上を続け永遠の人生を送る様は大自然の全てのものが生々流転と輸廻転生を繰り返しているのと全く同じなのであります。





 ○ 輝ける生命あり はた美しき眠りあり ああさなり ああさなり 神の摂理のそのままに
 
 私達は1日の中で昼間は働き夜は眠るのが普通でありますが、私達の人生も喩えて言えば生きて活動している間は昼間と同じ様なものであり、死んで肉体が土に還るということは夜眠るのと同じ様なものであります。人間は本来楽しく幸福な人生を送ることが出来る様に、その機会を神から与えられて此の世に生まれて来るのであります。然るに人間は神の御心を知らず、神の御教えを守らず、甚しきは神の存在迄も否定したりして、我儘気儘に邪悪で我欲で誤りだらけの人生を送る場合が多いのであります。病気も事故も災難も争いも、あらゆる人生の苦しみ悩み悲しみ不幸等も全て、神の御心に叛き宇宙の真理法則に反した誤った人生を送る人々が必然的に辿らねばならない運命なのであって、神の御教えを守って正しく清らかな人生を送る人々には病気も事故も災難も争いもなく、苦しみも悩みも悲しみもない楽しく幸福な、輝かしい歓びに満ちた人生が約束せられているのであります。そうして神の御心に従って正しく清らかで幸福な人生を終わった人々は、死後神の御許に帰って霊として神の御心のままに活動し、更に来世には神の国に相応しい立派な社会に生まれ変わり幸福になるのであります。

 しかし生きている間に神の御教えを守らず、邪悪で誤りだらけの人生を送った人々は死後霊界に入ってから、生前に犯した罪や誤りについて反省させられたり罰を受けたりしなければならないのであります。しかもそれらの霊は再び人間に生まれ変わる時には現在の私達の社会の如く病気や事故や災難や貧困や戦争や犯罪等の絶えない不幸な社会に生まれて多くの悩みや苦しみを体験しながら修行のし直しをしなければならないのであります。それが神が人間に与えた人生の法則なのであります。
 
 死は虚無に帰ることでもなく永遠の消滅でもないのであります。人間は大きな使命や意義を持って生まれて来るのであるということを覚らねばならないのであります。神の御心のままに清く正しく安らかに幸福な人生を送り、天寿を全うして神の御許に帰り霊魂としての新たなる活動に入り、時期が来れば再び立派な社会に生まれ変って幸福な人生を送ることは、生きる苦労も無く死の恐ろしさも無く悲しみも無い幸福に満ちた永遠の人生なのであります。人の物を盗んだり、嘘を付いたり、他人の目を誤魔化したりして社会の裏や暗闇の中でこそこそ生き、死後は霊界で悩んだり苦しんだりしなければならないのは惨めで哀れな人生であります。生きている間は太陽が照り輝く様に強く明るく正しく堂々と力一杯輝かしい人生を送り、天寿を全うした後は心安らかに神の世界に還り魂の休息と霊としての新たなる活動を始めるのが輝かしい生命と美しい眠りのある永遠の人生なのであります。

また15番は13番と対になるものであり、輝ける朝と輝ける生命、美しき夕と美しき眠りとが対応しているのであります。そうして13番は「人の摂理のそのままに」14番は「自然の摂理のそのままに」15番は「神の摂理のそのままに」と説いていますが、人の摂理も自然の摂理も神の摂理も結局は言葉が違う丈で同じ意味なのであるということを示しているのであります。






 ○ 新しき言葉あり はた美しきひびきあり ああさなり ああさなり 人の心のそのままに
 
 私達の話す言葉は時代と共に常に変化して行きます。古い言葉が廃れて新しい言葉が生まれ、話しにくい言葉や悪い言葉等は長い間に自然淘汰されて常に新鮮な感じの言葉、話し良く聞き良く理解し易い言葉へと進化して行くのであります。また、言葉は単に思いを通じ合うため丈のものではなく、人間の心を表現するものであり、美しい言葉は美しい心を、清らかな言葉は清らかな心を、優しい言葉は優しい心を、誠の言葉は誠の心を、愛の言葉は愛の心を表現しますが、その反対に嫌らしい言葉は嫌らしい心を、下品な言葉は下品な心を、憎しみの言葉は憎しみの心を、偽りの言葉は偽りの心を、悲しみの言葉は悲しみの心を、傲慢な言葉は傲慢な心をそのままに表現するのであります。
 
 世間にはよく心とは反対に口先丈で上品な言葉、優しい言葉、親切な言葉等を並べて他人を誤魔化そうとする人々がありますが、それは困難であり無意味であります。心の下品な人がどれ程上品な言葉を並べても、何時迄も他人を誤魔化すことは出来ません。憎しみの心に満ちた人がどれ程愛情のこもった様な言葉を使ってもどこかでそれが判ります。また言葉は心の鏡であり、心の泉でもあり、自己の心がそのままに言葉として表現せられるものであります。故に心が変わればそれにつれて、言葉も変わるのでありますが、その反対に言葉を変えれば心も変わるというものではないのであります。心が美しくなれぱ言葉もそれにつれて次第に美しくなって来ます。心が清らかになれぱ言葉も何時しか清らかに変わって来ます。心に誠がこもって来れぱ言葉にも誠がこもって来ます。心に愛が満ちて来れば言葉にも愛が満ちて来ます。しかし口先丈でどれ程美しい言葉や優しい言葉や親切な言葉を並べても他人を誤魔化すことが出来ない様に、言葉を変える丈でその人自身の心を立派にすることは出来ないのであります。また美しい心、清らかな心、愛の心、感謝の心、誠の心、豊かな心の様な立派な心はそのまま立派な言葉ともなり、立派な心や立派な言葉は自分自身丈でなく、周囲の人々や社会全体を美しく清らかに、明るく楽しく幸福にする大きく強い影響力を持っているのであります。またその反対に、憎しみの心、偽りの心、疑いの心、傲慢な心、嫌らしい心等の邪悪な心はそのまま邪悪な言葉となって、自分自身のみでなく、周囲の人々や社会全体へ、不愉快な、嫌な、恐ろしい感じを与えたりして社会に様々な悪い影響力を及ぼすのであります。故に私達は邪悪で低級愚劣で穢れた心を浄化して、正しく清らかな心に帰る様に心掛けると共に、悪い言葉を使わない様に努力し、正しい言葉を使う様に心掛けねばならないのであります。
 
 また新しき言葉とは私達の使う通常の言葉とは別に歌とか音楽という意味をも含んでいるのであります。言葉も心の表現であり音楽も心の表現でありますが、言葉は心の思いを表現するものであり、音楽は寧ろ感情を表現するものであるとも言えます。通常音楽を愛する人々は心の優しい心の美しい人である様に考えられたり、音楽を通じて情操を豊かにすることは非常に良いことである様に考えられておりますが、必ずしもそうではないのであります。音楽と一口に言っても非常に多くの種類があります。多くの音楽の中には立派な音楽もあれば、非常に下劣で低級な音楽も多数あります。古代の中国には「亡国の音」という言葉がありました。邪悪な音楽や下劣な音楽等は人の心を痺れさせ迷わせ、或いは下劣にして自己を不幸にし、社会を乱し、国を亡ぼす原因ともなるのであります。故に立派な音楽に親しむことは良いことでありますが、邪悪な低級な下劣な音楽は演奏したり歌ったり聞いたりしない様に心掛ける方がよいのであります。
 
 悪い音楽とは具体的にどの様なものかと言いますと例えば軍歌を挙げることが出来ます。軍歌は元々戦争を肯定し、戦争を美化したり正当化したりし、更に兵士の志気を振い立たせることを目的として作られたものであります。故に今迄例え軍歌として名曲であると言われたものでも、結局それは邪悪な音楽であると言わねばならないのであり、全人類の幸福と世界永遠の平和の約束せられる神の世界に於いては、軍隊も軍備も存在してはならない如く軍歌もまた存在の必要はないのであります。其の他、非常に悲しみを誘う歌とか、死とか悪魔とかを題材にした音楽とか、犯罪や悪人を取扱った歌とか、退廃的な歌とか下劣な歌とか無意味な歌等に親しむ人は自己の心を曇らせたり穢したり乱れさせたり堕落させたりするのであり、悪い音楽が世に広まると社会全体が穢れ乱れ堕落して行くのであります。故に私達はその様な悪い音楽を社会から無くする様に努めねばならないのであります。美しく清らかな音楽は私達の心を美化し浄化してくれます。また明るい音楽や楽しい音楽は人の心を明るく楽しくしたり慰めてくれたりします。そこに音楽の素晴らしさがあると言えるのであります。
 
 さて私達の遠い祖先の人々は日本を「言霊の幸はう国」と考え、言葉を大切にして来たのでありました。また和歌を「言の葉の道」と呼ぶのもその現われであります。言葉は人と人との心を結ぶ丈のものではなく、神と人とを結ぶ尊い役割をも果たしているのであります。故に言葉は決して疎かに使ってはならないのであります。言葉はお互いの意志を通じ合うものでもあります。故に意志が通じ合いさえすればどんな言葉でも良いと考える人も沢山います。しかし同じ意味を持つ言葉でも耳に美しい爽やかな響きを与えてくれる言葉もあれば、不愉快な嫌な響きを伝える言葉もあります。故に私達は常に新しく、話し良く聞き良く、そうして心に美しい響きを伝える様な良い言葉を用いる様に心掛け、また良い言葉を創造して行く様に努力しなけれぱならないのであります。人間の心が高級になるにつれて言葉も高級になって行くのであり、文化が発展して行くにつれて言葉もまた進化して行くのであり、言葉は人の心や社会の姿をそのままに写すものであります。






 ○ 新しき光あり はた新しき流れあり ああさなり ああさなり 時の流れのそのままに
 
 暗い夜が終わって東の空に朝の光が射し始め、水の潤れた川に高山の雪解け水が溢れて流れ出す様に、過去に人類を照らしていた宗教や思想や学問の光は消えて、暗黒であった人類社会に新しい光、即ち宇宙を創造し、また支配せられる神の御教えが真理の光となって輝き始め、また過去の停滞した物質文明は終わりを告げ、新しい時代の流れが起こりつつあるのも歴史的必然性であると共に、神の御意志であり宇宙の法則であると言わねばならないのであって、人知人カを以って阻止することの出来ない偉大な時の流れであると言わねばならないのであります。神の仕組みに依る偉大な時の流れに逆らって生き残ることも繁栄することも出来ないのであります。滅び行くべき宗教や思想や学問を後生大事に守って、一緒に滅亡への運命を辿るか、新しい時代の訪れを覚って過去のものを捨て、新しい時代と共に生き繁栄への道を辿るか、地球人類は今その岐路に立っているのであります。そうして時代の流れに逆らって滅亡への道を辿るか、時代の流れに乗って繁栄への道を辿るかは、全ての人々が自分自身の意志に依って決めねばならないのであります。






 ○ 新しき生命あり はた新しき鼓動あり ああさなり ああさなり 人の血潮のそのままに
 
 母胎に新しい生命が宿り、成長するにつれて胎児の心音や胎動が感じられる様になり、更に時が来て胎児が新しい1個の独立した生命として生まれて来る様に、古い歴史の中に新しい歴史の基礎が芽生え、やがて新しい歴史が生まれて来るのであり、古い時代の中に新しい時代が芽生え、やがて新しい時代が生まれて来るのであります。新しい歴史の誕生も、新しい時代の誕生も全ては人間の誕生と同じ大自然の法則に従っているのであります。そうして人間の血液が心臓から送り出されて身体中を巡り肺に還って浄化され、再び心臓から送り出されて全身を循環する様に、川の水も海へ流れ込み、水蒸気となって天に上り雨となって地上に降り注ぎ、川の水となって再び海へ流れて行く様に、血液も川の水も循環即ち生々流転と輪廻転生を繰り返しているのであります。そうして人間自身もまた現世の自己は死んでは祖先となり、来世生まれ変っては子孫となり、祖先、自己、子孫と永遠に生まれ変わりを続けているのであり、人間の血液も、人間自身も、川の水も、歴史の流れも、時代の流れも全ては生々流転、輪廻転生という宇宙の大法則に従って永遠に流れ続けているのであります。






 ○ 新しき根は出でぬ はた美しき芽は萌えぬ ああされど ああされど 神の恵みのなくてかは
 
 大地に蒔かれた種は先ず根を出して地中に張り、その後地上に美しい芽を萌え出させるのであります。しかし種が根を出し、芽を出して成長して行けるのも大地や水や大気や太陽等の大自然の恵み、偉大なる神の恵みがあるからであることを良く覚って、私達は神に対して常に感謝と敬意を失ってはならないのであります。
 
 またこの詩にはもう1つの深い意味があります。それは男女の性愛に関することであります。男性の性器は男根とか陽根などとも呼びます。そうして植物は根を出して地中へ入って行く如く、男性の性器は女性の性器の中に入ることに依ってその役割を果たすものであります。また女性の性器を畑とか田に喩えます。性交に依って精子卵子が結合し子宮の中で新しい生命が芽生えるのであります。故に「美しき根は出でぬ」は夫婦の性交そのもののことを述べているのであり、「はた美しき芽は萌えぬ」とは、畑即ち女性の体内に美しき生命が芽生えたということを表わしているのであります。そうしてもう1つ「はた美しき芽は萌えぬ」とは「はた美しき目は燃えぬ」という意味を持っているのであり、女性が男性の性器を受け入れることに依ってオルガスムスを得、その素晴らしい快感を得た歓びに美しい目が情熱に燃えているということを表しているのであります。

 古来仏教やキリスト教では性愛を罪悪とか穢れた行為と説いているのであります。釈迦は大般若波羅密多教の中の理趣教、別名大般若理趣分と呼ばれるお経の中で、性欲も性交も、性交に依って得られる快感もそれら自体は本来浄らかなるものであると説いているのであり、それらの全てが清浄なる菩薩の境地であると説いているのであります。それにも拘わらず仏教では僧侶の恋愛や結婚を罪悪とし、穢らわしい行為として禁じているのであります。これは仏教の大きな矛盾なのであります。そうして一方では真言立川流の如き一派が出現したり、親鸞の如く僧侶の身で妻帯する破戒僧も出現しているのであります。この様な事実は釈迦が恋愛や性愛が何であるかということをよく覚っていなかったことを証明しているのであります。
 
 恋愛の歓びや性愛の快美感や満足感は神が人間の為に与えて下さった素晴らしい贈り物であり、此の上ない人生の歓びなのであります。人生に於いて未知の男女が結婚し1つの家庭を創り共に協力し合って子供を生み育てて行くことは非常に苦労の多いことであります。しかしその苦労の代わりに神は人間に恋の歓びや性愛の歓びを与えて下さったのであります。故に恋愛も性愛も決して恥ずかしいことでもなく、穢らわしいことでもないのであります。しかし売春をしたり、性の快楽丈を追求しようとしたりすることは誤りであり、穢れた行為であると言わねばならないのであります。故に心から信じ合い、愛し合っている男女が性交をする時には、恥ずかしいとか、嫌らしいとか、穢らわしいとかいう嫌悪感や罪悪感や不浄感等を一切捨てて、神が人間の為に素晴らしい歓びを与えて下さったことに感謝し、心から愛し合う歓びを求め合い幸福な一時を過ごせばよいのであります。性愛の歓びも結婚に依って良い子供が生まれるのも全て尊い神の恵みであることを覚らねばならないのであります。





 ○ 降る雨に緑萌え 照る月影に色匂う うるわしく 美しき 人の心をそのままに
 
 神の恵みの雨に応えて草木の緑は鮮やかに萌え、照る月の光も届かない暗闇の世界にも、馨しい花の香は、私の目には見えずともそこに美しい花の有ることを知らせて呉れるのであります。それは丁度地位や権力や財産や名声を得ても人に驕らず、私利私欲を図らず、自らの得た地位や権力や財産を活かして神の御心のままに世の為人の為に尽して功を誇らず美しく清らかに生きる人の如く、或いは弱く貧しく苦しみや悩みや悲しみに満ちた人生の中にあっても、誰に認められたいとも褒められたいとも思わず、世の為人の為に奉仕しながら美しく清らかに生きて行く人に似ているのであり、草木の心も花の心も麗しく美しい人の心も同じなのであります。




 ○ 汗多き夏過ぎぬ はた収穫の秋は来ぬ ああされど ああされど 人の力のなくては
 
 田畑に種を蒔き、或いは苗を植え、そうして暑い夏の盛りに汗を流して耕したり水や肥料を与えたりした甲斐があって稔り豊かな収穫の秋を迎える時の歓びは、言葉では言い表わせない程大きなものであります。しかし豊かな稔りも偉大な神の恵みと共に、汗を流し土にまみれて苦労した人間の勤労の賜でもあることを知り、神の恵みに感謝しつつ、勤労の歓びを味わいつつ楽しく働けぱよいのであります。この詩は19番と対になって神の恵みと人間の勤労の尊さとを説いているのであり、神の恵みに感謝することを忘れてはならないと共に、勤労の尊さをも忘れて忘れてはならないということであります。

  


 ○ 新しき日は昇り はた美しき月満ちぬ ああさなりああさなり 人の生理のそのままに

 「新しき日は昇り」とは太陽が中天に昇ることを友わしていると共に受胎即ち精子卵子との結合をも表わしているのであり、「美しき月満ちぬ」とは月が満ちることを表わしていると共に妊娠をも表わしているのであります。女性の生理は月の満ち欠けに深い関係があり、人間が生まれるのは満ち潮の時、死ぬるのは引き潮の時と言われる様に、自然界のあらゆる現象と人間の生理現象とは、同じ大自然の摂理に従っているのであります。





 ○ 美しき春は来ぬ はた快き秋は来ぬ それも又 これも又 すべて自然の道なるを
 
 寒く厳しい冬の後に歓びに満ちた美しい春が訪れ、暑く苦しい夏の後に冷涼で快い秋が来るのであり、寒い冬を耐え忍んで生き抜いてこそ春を迎える歓びは一層大きいのであり、春の景色もまた一塩美しいのであります。また暑い夏に汗を流してこそ豊かな稔りの秋、涼しく快い秋を迎える歓びは一層大きいのであります。何時も春の様な暖かい気候の地に住んでいたならば春を迎える歓びもなく、春の美しさを愛する心も無いでありましょう。何時も涼しい秋の様な気候の国に住んでもやはり秋を迎える歓びはないでありましょう。寒い冬があるからこそ春を迎える歓びがあり、暑い夏があるからこそ涼しい秋を迎える歓びがあるのであり、そこに大自然の素晴らしい摂理が存在するのであります。
 
 また春という言葉は春情、春機、思春期という言葉がある様に男女の性愛を表わしているのであり、快き秋という言葉は「快き飽」という意味をも表わしているのであります。異性と愛し合いたいという欲望が起こり、心から愛し合った後に素晴らしい快美感を得て満足し安らかな眠りに就くのは楽しく幸福なことであります。しかし人間に性欲が起こらず、性交に依る快感が無いのであれば、愛し合う気持ちも起こらず、愛し合うことが苦痛や負担でしかないでありましょう。愛し合いたいという欲望が心に湧き出でるからこそ愛し合うことが出来るのであります。しかし欲望が起こって愛し合っても快感が起こらず、快感が有っても満足感が起こらなければ欲望が消えることがなく何時迄でも愛し合わねぱならず体力を消耗し健康を害するでありましょう。性欲が起きるから喜んで愛し合うことが出来、素晴らしい快美感を得て心も肉体も満足出来るからこそ愛し合うことが楽しく幸福なのであります。そこに神の摂理の偉大さがあり、人生の素晴らしい覚りの境地が有ると言えるのであります。「全て自然の道なるを」とは「すべて禅の道なるを」という意味でもあり、仏教で説く禅の境地であるということであり、大自然の摂理法則を覚ることが、そのまま人生の覚りを開く道である、という意味であります。





 ○ 春もあり夏もあり はた秋もあり冬もあり それも唯 これも唯 すべて一つの過程なるを
 
 自然界に美しく楽しい春もあれぱ、暑苦しい夏もあり、快よく楽しい収穫の秋もあれば、厳しい寒さに閉じ込められてひっそりと暮らさねばならない冬もある様に、人生にも歓びや幸福や希望に満ちた青春の時代もあれば、家庭を持ち子女を養育し、或いは一生懸命事業に打ち込まねばならない苦労の多い時代もあり、子女は立派に成人して独立し、事業も順調に発展し、満ち足りた人生上の歓びを謳歌することの出来る時代もあり、或いは家庭の事も事業等も思わしくなく苦労に耐え忍びながら幸福な時代の訪れる日を待ちながら、ひたすらに努カを続けなければならない時代もあります。
 
 しかし永遠の冬も無けれぱ永遠の春も無く、春が過ぎれぱ夏が訪れ、夏が過ぎれば秋が訪れ、秋が過ぎれば冬が訪れ、冬が過ぎれば必ず再び春が巡って来る様に、楽しい時もあれば苦労の多い時もあり、嬉しい時もあれば悲しい時もあるのが真実の人生であります。しかし寒さの厳しい冬にも冬を楽しく暮らす様に努力し、暑い夏にも夏を楽しく暮らす様に努力するならば、春夏秋冬一年中を通じて何時も楽しく幸福に暮らすことが出来るのであります。そうして苦しい時にも苦しみに負けず、悲しい時にも悲しみに負けず、どんな時にも強く正しく明るく、常に歓びや感謝や満足の心を持って生きる努力を続けるならば、何時も楽しく幸福な人生を送ることが出来るのであります。また何の苦労もなく、悩みもなく、悲しみもなく、努力もしないで何時も安楽に暮らして行ける人生には本当の面白さも楽しさも生甲斐も幸福もなく、進歩向上もないのであります。

 貧しい生活の中にあっては物の尊さや有難さを覚り、僅かな物をも大切に活かして用いる様に努力することは尊い修行であり進歩向上であります。苦しい時にも悲しい時にもその苦しみや悲しみに耐える努力をする時もあれば、苦しみや悲しみを乗り越える努力をする時もあり、苦しみを楽しみに変え、悲しみを喜びに変える努力をする時もあり、その様な努力や体験を通じて自分自身が賢明になり進歩向上して行けるのであります。そうしてその様な苦労や努力の中にこそ人生の真実の生甲斐や歓びや幸福が在ると言えるのであります。
 
 また春夏秋冬の四季もそれぞれ別個に存在するのではなく、一年の中の一時期、一過程として存在するのであり、人生に於ける幸福な時代も不幸な時代も人生の中の一時期であり一過程であるに過ぎないのであります。年月が春夏秋冬、春夏秋冬と輪廻を繰り返す様に、時の流れも過去現在未来、過去現在未来と輪廻を繰り返すのであり、人間もまた祖先自己子孫、祖先自己子孫と輪廻を繰り返すのであります。季節の移り変わりも、時代の流れも、人生も、春夏秋冬、過去現在未来、祖先自己子孫とそれぞれに輪廻を繰り返しつつ、永遠の過去から永遠の未来に向かって、休むことなく限りなく流れ続けて行く時の流れの中の一瞬間の存在であり、また全ての時が永遠の時の流れの中の一過程であるに過ぎないのであります。
 
 以上がこの「新しき光」の大略の意味であります。この詩は既にお気付きのことと思いますが1番から3番ずつ1組になり8つの部分に分かれているものであります。そうしてこの詩は太陽の奇蹟の光を仰いで霊感を得、太陽と私とが1つの心になり切れた時、心の奥から湧き出でた詩であり宇宙の真理なのであります。またこの詩は大自然と人間、大自然の生命と人間の生命、大自然の心と人間の心、大自然の法則と人生の法則という様に全ての面で大自然と人間とを対比して、大自然と人間とは一体であり、大自然の心と人間の心も同じであり、大自然の摂理も人間の摂理も同じであることを説いているものであります。
 
 さて日本人にとって太陽は太陽神天照大神であります。そうして世界に太陽は1つしかないのであります。日本人が見ている太陽も中国人が見ている太陽も印度人が見ている太陽も、世界中のどの民族の人々が見ている太陽も同じ太陽なのであります。故に日本人の太陽神天照大神ヒンドゥー教の太陽神、ヴィシュヌ神も、或いはまたペルシァ人やエジプト神やギリシァ人やヨーロッパ人やアメリカ原住民が信仰していた太陽神も結局は名が違う丈で同じ太陽神なのであります。地球人類にとって太陽は1つであり、全人類が同じ太陽の子であり皆が兄弟姉妹であると言わねばならないのであります。そうして皆が四海同胞の精神に目醒めて心に太陽を持ち1つの世界建設の為に協力し合わねばならないのであります。