モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」生長の家篇① ── 人間は神の最高顕現である ──

 「自然と人間」
 
 大自然は人間と共にあり、人間は大自然と共にある。人間は万物と共にあり、人生は万象と共にある。人間は万物の心と姿を表わし、人生は万象の諸相を表わす。万物が永遠不滅である如く人間もまた永遠不滅である。万象が無常である如く人生もまた無常である。大自然尊い如く人間もまた尊く、人間が尊い如く大自然もまた尊いのである。悠久なるかな天壌、儚きかな人生、されど天壌は悠久なるが故に尊く、人生は儚きが故に尊し。珠玉は稀少なるが故に尊く土壌は無尽蔵なるが故に尊し。珠玉は無尽蔵にして尊からず、土壌は稀少にして尊からず。聖人は稀にして尊く庶民は無数にして尊いのである。太陽が常に輝き続けるが如く人間もまた生き続けようとし、地上に昼と夜とが有る如く人間にも活動と休息が有り、月が満ちては欠ける如く人間もまた生長し老衰する。大空の星が無数である如く人間もまた無数であり、群星が多くの集団に分かれている如く人間の社会もまた多くの集団に分かれている。太陽が恒星の1つである如く偉人もまた1人の社会人であり、恒星の1つ1つが太陽である如く社会人の1人1人の全てが尊いのである。

 炎が炎々と燃え盛る如く人間の情熱が燃え盛る時もあり、水が鏡の様に静かである如く人間の心も平静である時もある。風が何処からともなく来たり、何処へともなく去るが如く、人間の様々な想いも何時とはなしに湧き起こり、何時とはなしに消えて行く。川の水が常に流れ続けて止まない如く人間の血液もまた体内を流れ続けて止むことはない。そよ風が囁く如く人間も囁き、嵐が怒号するが如く人間もまた怒号する。万物に個性と徳とが有る如く人間それぞれに個性と徳が有る。花にそれぞれの美しさが有るが如く人間にもそれぞれ別の美しさが有る。万物が人間に自己の心と姿を現そうとするが如く人間もまた万物の中に自己の心と姿とを見出そうとする。

 大自然が人間の最良の友である如く人間もまた大自然の最良の友である。大自然が神である如く人間もまた神であり、人間が神である如く大自然もまた神である。人間が大自然の恵みによって生きる如く大自然もまた人間の愛によって生きるのである。大自然は真理の大法則に従ってしかも自由自在であり、自由自在であってしかも一歩も道を踏み外すことがない。それは大自然が真理と一体であるからである。大自然は真理と共にあり、真理は大自然と共にある。大自然の心の中にこそ永遠の希望と歓ぴと安らかさが有り、大自然の姿の中にこそ永遠の美しさと新しさと健やかさが有る。人間よ自然に回帰せよ、人間よ神に回帰せよ、その時こそ人間の上に無限の希望と無限の幸福がもたらされ、人類の社会に無限の進歩と発展の時代が来るのである。                                                                                                                                                                                        昭和41年8月9日


 
 此の文章は私の母の妹に当たる叔母の嫁ぎ先である岡山市瓦町野田家の姑さんより生長の家の「生命の実相」を借して頂き勉強しているうちに霊感を得て書いたものであります。この文章について解説を加えて行きたいと思います。

 ◎大自然は人間と共にあり、人間は大自然と共にある。人間は万物と共にあり、人生は万象と共にある。

 大自然は人間と共にあり、人間は大自然と共にある」という言葉は大自然と人間とが密接不可分であるということを強調して同じ意味の言葉を繰り返しているのであります。大自然は人間が出現していなかった悠久の過去から存在していたのであります。しかし大自然が偉大な存在となったのは人間が出現した時以来であり、人類が万物の霊長として偉大な存在と成り得たのは大自然の偉大な真理を学んだからでありました。故に大自然あっての人間であり、人間あっての大自然であると言わねぱならないのであります。大自然と人間とが密接不可分の深い関係にあるのはこの様な理由に依るものであります。
 
 また人間は様々な霊魂と様々な物質との結合に依って生まれて来ます。即ち万物の結合に依って人間が生まれ、万物の恵みに依って生かされ、死んでは万物に還るのでありますから人間は万物と共にありと言えるのであります。そうして人生の上に起こる様々な出来事や変化は森羅万象即ち大自然に常に起こりつつある所謂自然現象と同じなのであります。故に人生は万象と共にあると言えるのであります。
 
 

 ◎人間は万物の心と姿を表わし、人生は万象の諸相を表わす
 
 人間は万物の様々な徳性を持って生まれて来ます。故に人間の個性は万物の個性を表現するものであります。生長の家谷口雅春氏は「神の最高の自己顕現は人間である」と説いていますがそれは真理だと言えます。動物も植物も全ての生物は神の自己顕現なのであります。そうしてあらゆる形の神の顕現の中で最高の自己顕現は人間なのであります。もっと判り易く言えぱ、万物が様々な人間に生まれて人間としての自己を表現しようとするのであります。例えぱ人間は火の徳や水の徳や風の徳や土の徳や金属の徳等様々な徳を持って生まれて来ます。火の徳を持って生まれた人は自己の心と姿を通して火の徳を表現するのであり、水の徳を持って生まれて来た人は心と姿を通して水の徳を表現するのであります。それは風の徳の人も土の徳の人も金属の徳の人も全て同じなのであります。自然界に存在する様々なものが人間に生まれて来て自己の徳を人間界に顕現するのであり、それが人間の個性であると言えるのであります。

 そうして人生は森羅万象の諸相を表現するのであります。それは判り易く言えば、火の性の人は燃え盛る火の有様や燃え拡がって何物も焼き尽くそうとする有様や何時迄も燻ぶり続ける火の有様等、様々な火の相を其の人生に於いて表現するのであり、水の性の人は、鏡の如く静かな水面の有様や、谷川のせゝらぎの爽やかな有様や洋々たる大河の流れる有様や、何物をも押し流そうとする激流の有様や、方円の器に従うこともあれば氷となって器をも破壊することもあり、熱湯となって蒸気機関を動かす様な事もあるという様々な水の徳を一生の間に表現するのであります。人間の個性そのものは火の性、水の性、風の性 土の性等様々でありますが、人間そのものは万物の愛や恵みによって生かされているのであります。即ち火の性の人は火の徳を心と姿とを通じて表現するものでありますが、その人自身が生きていくには火の力や火の恵み丈で生きていけるものではなく、水の徳や風の徳や土の徳などあらゆる徳のおかげで生かされているのであります。水の性の人も水の徳だけで生きていくことは出来ないのであり、火の徳や風の徳や土の徳など様々な徳のおかげで生かされているのであります。天理教に於いて十柱の神の十全の守護の理と説かれている様に、人間自身は天地の様々な理や恵みに依って生かされているのであります。
 人間が万物の徳や恵みに依って生かされているのは事実であってもその人の本然の心や姿、即ち個性には何の変わりもないのであって、火の性の人はあくまでも火の性であり、水の性の人はあくまでも水の性であると言えるのであります。火の性の人は情熱的であり水の性の人は理性的であるという様なのもその人の個性に依るものであります。そうして全ての人々が自己の個性を持って個性に相応しい人生を送りながら社会の中にそれぞれの徳を表現して行くのであります。


 ◎万物が永遠不滅である如く人間もまた永遠不滅である。万象が無常である如く人生もまた無常である
 
 霊魂の世界には「霊魂不滅の法則」があり物質の世界には「物質不滅の法則」や「質量エネルギー保存の法則」がある様に万物は永遠不滅なのであります。しかし霊魂も物質も永遠に同じ姿、同じ状態で変化することなく存在し続ける訳ではないのであります。万物は様々な変化を繰り返しつつ永遠に存在し続けるのであります。それと同じ様に人間も永遠不滅であり人間の社会も永遠不滅でありますが、人生は生長や老衰があり生や死があって永久不変ではないのであります。霊魂も物質も言い換えれぱ万物そのものは永久不滅であるにも拘わらず、その万物が起こす森羅万象は栄枯盛衰、離合集散、生々流転、輪廻転生と変転常なき無常の世界なのであり、人間も人間の世界も永遠不滅であってしかも諸業無常であると言わねぱならないのであります。生々流転と輪廻転生を繰り返しながら永遠に存在し続けるのが永遠不滅の万物のありのままの姿であり、生と死を繰り返しながら永遠に続いて行くのが永遠の人生なのであります。



 
 ◎大自然尊い如く人間もまた尊く、人間が尊い如く大自然もまた尊いのである
 
 大自然が尊く偉大である如く、大自然を父母として生まれ大自然の懐に育った大自然の子の人間もまた尊く偉大なのであり、大自然の摂理が偉大である如く、偉大なる大自然の摂理を覚った人間もまた偉大なのであります。大自然と人間といずれが尊いとか卑しいと言うのではなく、偉大なる大自然の愛と恵みがあって初めて人間が生きて居られるのであり、人間が大自然の偉大さを覚って初めて大自然も本当に偉大となるのであり、故に大自然も人間も共に尊いのであります。
 

 


 ◎悠久なるかな天壌、儚きかな人生、されど天壌は悠久なるが故に尊く、人生は儚きが故に尊し
 
 悠久窮まりない天地と儚く束の間の人生とを較べてみますと天地の余りにも偉大であるのに対して人間の余りにも小さく人生の余りにも短いことを今更の様に深く感じるのであります。しかし私達は天地の悠久窮まりなくしかも天地の限りなく広大であるのに対して人生の余りにも短く人間の余りにも小さいことを、些かも歎く必要もなく悲しむ必要もなく卑下する必要もないのであります。天地は広大無辺であり悠久窮まりないからこそ尊く偉大なのであります。若し天地が小さく短い寿命であったならば天地は決して尊くもなく偉大でもないのであります。しかしまた人間が余りにも巨大であり人生が何十万年も何百万年もの長さであったならば人間には生きる歓びも楽しさも感じることは出来ないでありましょう。人間が天地に較べて余りにも小さく、人生が天地に較べて余りにも儚いからこそ、人間は大自然を偉大であると思い、大自然の中に生きる大きな歓びや生甲斐や希望を持ち安心して生きて行けるのであります。故に天地は広大無辺であり悠久であるから尊く、人間は小さく人生は儚いからこそ尊いと言わねぱならないのであります。

 


 ◎珠玉は稀少なるが故に尊く土壌は無尽蔵なるが故に尊し。珠玉は無尽蔵にして尊からず、土壌は稀少にして尊からず
 
 美しい宝石はそれが余りにも少なく稀にしか存在しないからこそ人々から尊ばれるのであります。そうして土壌はそれが無尽蔵と言えるほど多量に存在するから尊いのであります。しかしその反対に宝石が石や砂のように無尽蔵であったならば、もはやそれを高貴な宝石として尊ぶ人は居ないでありましょう。宝石がもし無尽蔵に存在したならばそれが何か立派な役に立つことがあるでしょうか。例えばダイヤモンドが工業用として用いられる場合もありますが、それは寧ろ例外なのであり、ダイヤモンドが無尽蔵にあるのであれば例え工業用に大量に使用するのであっても高価に取引されることはなく貴重な品物として尊ばれることはないのであります。全ての貴金属も宝石も同じことなのであります。しかしその反対に土壌は稀少であったならば決して尊い存在とはなり得ないのであります。土は無尽蔵に存在するからこそこの地上に無数の生命を繁栄させることが出来るのであります。見渡す限りの大平原が全て宝石でできているならば其処に植物は育つことは出来ないでありましょう。土は無尽蔵に存在するからこそ無数の生物を育てることができるのであります。故に土が地球上に僅かしか存在しなかったならば稀少性の故に尊重せられるというものではないのであります。宝石はそれが無尽蔵に存在しても土の様な尊い役割を果たすことは出来ないのであります。土はそれが如何に稀少な存在であっても宝石と同じ様に尊ぱれることはないのであります。故に珠玉は稀少であるからこそ多くの人々に尊ばれるのであり土壌は無尽蔵であるからこそ尊い存在であると言えるのであります。