モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」生長の家篇②

 ◎聖人は稀にして尊く 庶民は無数にして尊いのである

 聖人と呼ばれる様な立派な人は非常に稀にしか世に現われることはありません。その為に聖人は世の人々に尊敬されるのであります。しかし全ての人々が聖人の如く立派であったならばそれが当然のこととなり誰も尊敬せられることはなくなるでありましょう。例えば大学卒の人々が稀である時代には大学卒の学歴が社会で尊重されますが、皆が大学を卒業する様になれば大学卒の学歴が尊重されることはなくなるのと同じ様なものであります。有名な学者や技術者や芸術家等は稀にしか存在しないから尊ばれるのであり、宗教家や政治家や実業家や科学者や文学者や技術者や芸術家等の人々が無数にいるのであれぱそれらの人々が特に尊敬せられるということはないのであります。また聖人の様な高貴な人々の中に平凡で愚かな人が稀にいたとしてもその様な人は稀な存在として尊ばれることは決してないのであります。稀少な存在であれば何でも尊ばれるというものではないのであります。愚かな人や邪悪な人や低級な人は例え稀であってもそのために世間から尊敬されることはないのであります。そうして庶民は無数に存在していますが無数であって全てが尊いのであります。

  例えば地上に聖人の様な立派な人々丈が少数住んでいる丈であったならば人類の高度の文明は決して創造出来なかったのであります。無数の庶民の1人1人の小さな力が集まって大きな力となり高い文明を築いて来たのであります。無数の庶民の努力の結晶が現代文明を創造する原動力となったのであり、また無数の庶民の小さな力が集まって底辺を支える力となり、その上に現代文明は存在し得るのであります。人口の稀薄な極地や砂漠や密林や山奥や絶海の孤島等から偉大な思想や学問や技術や文学芸術等が生まれて来ないのには当然の理由が存在するのであります。一見大した智恵も学問も技術も力も持たない様に思われる無数の一般民衆の力がその社会の中に偉大な宗教や学問や技術や文学や芸術等を生み育てて行く大きな原動力、推進力となっていることを私達は知らねぱならないのであります。

1人の偉大な宗教家や政治家や学者や技術者や芸術家等というものも、その人個人の力のみで世に出るものではないのであります。その様な人々を生み育てるに足る素地とも言えるものが1つの社会の中に存在して初めて聖人とか偉人とか英雄とか言われる人々も出現出来るのであります。1粒の種が地にこぼれ落ちて美しい花を咲かせ立派な実を実らせるためにはその種自体も立派でなければなりませんが、更に肥沃な大地や恵まれた気象条件等も必要であります。それと同じ様に社会に偉大な人物が現われて偉大な事業を成し遂げる為にはその人自身の立派な素質が必要であり、肥沃な大地に喩えられる立派な社会や文化が必要であり、恵まれた気候にも喩えられる多くの民衆の協力等が必要なのであります。その様な条件の揃わない処に突然に偉大な思想や学問や芸術や技術等が出現することは決して有り得ないのであります。故に世の中に稀に生まれてくる聖人が尊い如く、1つの社会の中に偉大な人物を生み出し、偉大な文化を創造して行くことの出来る無数の民衆もまた尊い存在なのであります。1つの社会を構成する無数の庶民全体の知的水準が低く、人々の心が穢れ乱れていたならば、その社会に偉大な思想家や偉大な文化を生み出すことは出来ないのであります。原始未開の社会の中に突然に偉大な人物が出現し偉大な文化を創造して行くことは決してあり得ないと言わねばならないのであります。故に社会を構成する無数の民衆の文化的水準が高くならなければその社会に高度の文明を発展させることは出来ないのであります。

 心の穢れ乱れた人々の中から高貴な心を持つ聖人が現れることはないのであり、野蛮未開な人々の中から高度な文化人が現れることもないのであります。また邪悪で低級で穢れきった人々の社会に外部から聖人が入ってきて教化し指導しようとしても決して容易に受け容れられるものでもないのであります。或いは野蛮未開の人々の社会に高度の文化人が入り込んで高い文化を植え付けようとしても出来ないのであります。それは例えば大学教授が小学生に大学の学問を幾ら熱心に教えようとしても小学生達には理解できないのとまったく同じなのであります。世の中の人々の1人1人が正しく清らかで高貴な心の持ち主になるように努力しない限り、1人の聖人の努力で穢れ乱れ切った社会を浄化することは出来ないのであります。そうして世の中の人々の全てが真理を覚って高級な文化人になるように努力しなければ高度な文化を創造することは出来ないのであります。そうして人間の社会の最終的な理想は1人の聖人が出現して無数の無知な民衆に尊敬されることではなく、無数の民衆の1人1人が聖人の如く立派な人間になって社会全体が立派になり特別の聖人や偉人の出現を求める必要が無くなることであります。要するに大宗教家とか大英雄とか大指導者とか言われる人々が必要であるのは、社会全体の一般民衆の精神的文化的な水準が非常に低いからだと言わねぱならないのであります。故に1人の類い稀な聖人が社会で尊敬せられるのではなく、全ての民衆が皆高貴な人間になって皆が尊敬し合える社会となることこそ私達が最終の理想としなけれぱならない処であります。



 ◎太陽が常に輝き続けるが如く人間もまた生き続けようとし、地上に昼と夜とがあるが如く人間にも活動と休息があり、月が満ちては欠ける如く人間もまた生長し老衰する

 太陽が常に輝かしい光を放ち続ける様に人間もまたその人生に輝かしい業績を残しながら生き続けたいと念願もし努力もします。そうして地上に昼と夜との区別がある様に人間にも活動の時と休息の時があります。それは小さな意味では昼の働く時間と夜の眠る時間との区別であり、大きな意味では永遠の人生の中で生存し活動している時代と死んで神の世界に帰り霊魂として活動している時代との区別でもあります。そうしてまた月が満ちたり欠けたりする如く、人間も一生の間には生長もし老衰もするのであり、もっと小さい意味では自己の事業其他にも発展の時もあり衰退の時もあります。この様に大自然に於ける太陽や月や地球の運行や変化の有様が其のまま人生の中に写し出され繰り返されているのであります。人生は万象の諸相を表わすという言葉の意味にはこの様なことも含まれているのであります。



 ◎大空の星が無数である如く人間もまた無数であり、群星が多くの集団に分かれている如く人間の社会もまた多くの集団に分かれている
 
 大空には無数の星が存在する様に、地上にも無数の人々が住んで居り、大空の星が多くの集団に分かれている様に人間の社会もまた多くの集団に分かれているのであります。人間の集団は何故存在するのでありましょうか。家族、氏族、民族という様な血縁に依って集団を作る場合もあれば、地域、国家などに依って集団を作ることもあり、職業に依って集団を作る場合もあり、宗教や思想に依って集団を作る場合もあります。様々な必要があって集団を作るのはそれでよいとしても集団を作る目的が、他の集団を排除したり攻撃したりすることが目的であってはならないのであります。
 
 例えば太陽系は9個の惑星と多くの衛星と、無数の小惑星と、彗星等から成る星の集団でありますが、全ての星が太陽を中心として秩序正しく整然と運行しているのであり、太陽系以外の恒星系も同じであり、更に銀河系島宇宙を例にとってみても全ての恒星が秩序正しく整然と運行しているのであり、全てが1つの集団となって有機的に結合し一体化しているのであります。然るに人間の社会は個人個人がそれぞれ各自勝手なことをし、集団は集団で他の集団と対立し合っているために世界が1つにまとまることがなく様々な不幸や悲劇の起こる原因となっているのであります。宇宙は1つであり全ての島宇宙が1つの意志のもとに統一され一体となって秩序正しく運行しているのであり、銀河系島宇宙も1つであって1,000億個以上と言われる恒星の全てが有機的に結合して一体となって運行している様に、地球人類も個人や団体が各自勝手な事ばかりすることを止めて全人類が1つの心になって皆の利益と幸福と世界の平和の為に協力し合わねばならないのであります。

 

 ◎太陽が恒星の1つである如く偉人もまた1人の社会人であり、恒星の1つ1つが太陽である如く社会人の1人1人の全てが尊いのである
 
 私達地球人類にとっては太陽は真に偉大な天体でありますが、天文学的に見れば太陽もまた銀河系島宇宙の中に1,00億個以上も存在すると言われる恒星の1つなのであります。それと同じように偉人と言われる人々もやはり1人の社会人であることに変わりはないのであります。そうして大空の無数の恒星も太陽と同じ様に自ら光り輝いている星である様に社会を構成する1人1人の民衆もまた偉人と呼ばれる人々と同じ様に尊い人間なのであります。



 ◎炎が炎々と燃え盛る如く人間の情熱が燃え盛る時もあり、水が鏡の様に静かである如く人間の心も平静である時もある
 
 炎が炎々として燃え上がる如く人間が或る目的を実現させるために熱い情熱を燃やして努力する時もあり、埋もれ火が人の目には付かなくても何時迄も消えることなく燃え続ける様に、人間の情熱が世間の人々の目にはそれと映らなくても何時迄も燃え続けることもあり、野火が燃え拡がって行く様に人間が情熱の赴くままに自己の勢力の拡張を図ったり、学問や事業や芸術などの新分野へ次々と手を延ばしたりすることもあります。そうして水が鏡の様に静かである様に人間の心も静かで穏やかな時もあり、激しい風の為に大きな波が立つ様に外部からの働きかけに対して心が平静さを失わない大きな波を立てていることもあり、激流が何物をも押し流して行く様に人間が自己の目的の実現の為にあらゆる障害をも乗り超え、邪魔物の全てを押し流してひたすらに目標目指して突き進んで行く時もあります。また水がある時は方円の器に従う如く人間の心も周囲に対して従順である時もあり、水が1度凍れば鉄管をも破裂させ、器をも破壊し、岩石をも破壊することがある様に、温和で従順な人も一旦怒れば何如に強力な圧迫をも撥ね返す程の強力な力を発揮することもあります。また火が何物をも焼き尽してしまう様に人間の心は自己に反対する人々や邪魔になる人々を滅ぼし尽そうとすることもあれば、水が氷や雪となって何物をも凍りつかせたり閉じ込めたりする様に、人間の心が或る時は冷徹に反対勢力を凍結させたり封じ込めたりする様なこともあります。

 例えば戦国時代の武将織田信長は火の如く自己に反対する全ての者を焼き尽し滅亡させ様としたのであり、明智光秀は水の如く冷静な人物であったにも拘わらず、一たび怒れば主君の織田信長をも攻め滅ぼしたのであり、豊臣秀吉は風の如く、或る時はさながら大暴風の如く各地を席巻し、或る時は爽やかな春風の如く人々と平和を楽しんだりしたのであり、徳川家康は水が方円の器に従う如く、今川義元服従し、織田信長服従し、豊臣秀吉服従しながら最後には豊臣家を滅ぼして天下を手中に収めたのであります。この様に全ての人々は火の性や水の性や風の性等自己の持って生まれた個性を目己の人生に於いて表現するのであります。




 ◎風が何処からともなく来たり、何処へとも去るが如く、人間の様々の想いも何時とはなしに湧き起り何時とはなしに消えて行く
 
 私達は通常風が何処で発生して何処をどの様に通って何処へ消えて行ったかという様なことは考えないでありましょう。風は何処からともなく来たり何処へともなく去って行く様に、私達人間の様々な物想いも何時とはなしに心の中に湧き起こり、何の記憶をも残さず何時とはなしに消え去り忘れられて行きます。しかしまた激しい嵐が起こって大きな爪跡を残して去って行く様に私達の身の上にも大きな不幸や悲劇が襲って来て、心に忘れ難い傷跡を残して去って行くこともあります。或いは私達の接する有縁無縁の多くの人々は何処から来たのか知れず、誰であるかも知れず、何処に帰って行くのかも知れず、只目の前を通り過ぎて行く丈の人々もあれば、ほんの2言、3言言葉を交した丈で去って行き再び会うことのない人々もあり、心に何か忘れ難い想い出を残して去って行く人々もあります。その有様はさながら風の心や風の姿にも似ているのであります。