モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」日本の神々篇④

  過去数干年に亘る世界の歴史を振り返ってみますと多くの国々が興り亡び、多くの英雄か出現し活躍した事実を私達は知ることが出来ます。しかしそれらの栄枯盛衰興亡の跡の如何に儚く空しいものであるかということを私は深く感ずるのであります。如何に強大を誇った大帝国も、如何に豊かに富み栄えた大都市も何時か必ず滅亡しております。世界の歴史は常に盛衰興亡の歴史でありました。では人類の歴史は未来にもまた治乱興亡と栄枯盛衰を永遠に繰り返し続けねばならないのでありましようか。否、決してその様な状態が永く続いてはならないのであります。人類の最高最善のそうして窮極の理想とする処は永遠の平和であり、永遠の繁栄であり、全人類の利益と幸福なのであります。
 
 昔或る国家が非常に繁栄した時、その国に住む人々の全てが幸福であったという事実が果たして存在するでありましょうか。国家を支配する少数の人々のみが大多数の国民の犠牲の上に豊かな文化生活を送っていたのみではなかったでありましょうか。或いは1人の偉大な英雄が出現して頷土を拡張し大帝国を建設した時代に、近隣の諸民族は頷土を奪われたり多くの貢物を取られたり、様々な圧迫を受けて如何にに悩んだり苦しんだりしていたことでありましようか。1階級の利益は他の階級の犠牲に依って守られ、1民族の利益は他の民族の犠牲に依って得られ、1国の利益は他国の犠牲に依って確保されてきたのが過去の人類の歴史の偽らざる姿でありました。そうして他の階級を犠牲にして栄えた階級がやがて別の階級の犠牲となって亡び、他の民族を征服して栄えた民族が別の民族のために征服され、他国を亡ぽして栄えた国が別の国に依って亡ぽされたのがありのままの興亡の歴史でありました。
 
 私達は過去の人類の歴史を学ぶにあたっては興味本位であってはならないのであります。1つの階級や民族や国家が如何にして繁栄し、如何にして滅亡して行ったかという事実を良く見極めて、私たちが将来創造していくべき新しい歴史の上に役立て活かさねばならないのであります。過去の治乱興亡、栄枯盛衰の歴史を何時迄も続けてはならないのであります。それ以外には私達が歴史を学ぶ本当の意義も必要も存在しないのであります。全人類の利益と幸福の約束せられる1つの世界を建設することに依ってよってのみ治乱興亡もなく栄枯盛衰もなく、永遠の平和との永遠の繁栄を求めることができるのであります。そうして全人類の幸福と永遠の平和と繁栄の約束せられる理想の世界は1人の偉大な英雄や君主や政治家や宗教家の力に依って実現出来るのではないのであります.これからの世界にはもはや偉大な英雄は必要ないのであります。全ての人々が心を洗い清めて正しく清らかな心になり、真理を覚って賢明で高級な人間になり、皆が誠心を以って協力し合うことに依ってのみ、永遠の平和と繁栄の約束せられる理想の世界を建設することが出来るのであります。
 
 全人類の利益と幸福と世界永遠の平和の約束せられる1つの世界を建設するということは日本肇国以来の大理想なのであります。そうしてそれは単に日本民族の理想であるのみならず、全人類の共通の理想でなければならないのであります。またそれは全人類に共通の理想であると共に神の御意志なのであります。人類を此の地上に生み給うた神々が八紘一宇の大理想を説いて居られるのであります。そうして日本の国が神の生み給い神の治しめし給う神の国である様に、地球上の全ての国々もまた等しく神の生み給い神の治しめし給う神の国であり、私達日本人が神の子である様に世界中の全ての国の人々も神の子であることを知らねぱならないのであります。地球上の全ての国が神の国であり、全ての人々が尊い神の子であることを覚って、皆が神の子に相応しい立派な人間になり、神の国と呼ぷに相応しい理想の世界を此の地上に建設して行かねばならないのであります。この日本肇国の大理想が実現して、恰も神の花苑に咲く久遠の花の如く美しく馨しく咲き薫り、この神の国に栄光の光が輝き渡る日の1日も近きことを念願しながら、私達は理想の実現のために努力を続けて行こうではありませんか。
 

 さて日本神道古事記を研究している人々は非常に沢山います。しかし多くの人々の研究した結果はそれぞれまちまちであって余りにも相違点が多過ぎるのであります。「群盲象を撫でる」の例えの如く多くの人々が古事記の一面ばかりを見て全体を批評し結論を下している場合が余りにも多いのであります。では何故1つの古事記を研究してこれ程多くの結論が出るのでありましようか。その理由の1つは古事記が、後世の人々を迷わせ騙す目的でわざと解りにくくどんなにでも解釈出来る様に作られているということであります。古事記を簡単にそのまま信用することは甚だ危険なことであります。
 
 安田徳太郎氏の「天孫族」という本は言語学の立場から日本語の謎に挑み解明しようとしている点で非常に貴重な資料ともなりますが、古事記類語辞典であるとか漫才であるという説は神道というものにあまりにも無知であるからであります。安田徳太郎氏は神とか霊の世界のことをあまり知らなかったのだと思います。そのために言語学丈で万事解決出来ると早合点してしまったのであります。レプチャ語と古事記に繋がりがあるから天孫民族の故郷はヒマラヤ地方だと即断するのは思考が単純であると言えるのであります。古事記は神の世界から人間の世界に至る広い範囲のことを述ぺているのであり人間をも神として書いているのでありますから、古事記の何処迄が神のことであり何処からが人間のことであるか判りにくい点もあります。例えぱ天御中主神から伊邪那岐伊邪那美命の国産みに依って生まれたという神々は全て人間ではないのであります。
 
 では天照大神月読命須佐之男命は神であるのか人であるのかということになります。天照大神は太陽であり、月読命は月であり、須佐之男命は風であろうかと思われます。しかし現実には日本皇室の祖先は天照大神であるというのはどの様な意味かというと太陽の徳を人間界に顕現するために生まれて来た人は天照大神の分霊であり、天照大神の現神であると言えるのであります。日本皇室は太陽の徳を地上に顕現せられる家でありますから太陽神天照大神の子孫であると言えるのであります。私が国常立尊の分霊であるというのも大地の徳を持つ神である国常立尊の霊を分けて頂き、大地の徳を人間の社会に顕現するために生まれて来ているからであり、私は大地の徳のみでなく月の徳を持って生まれて来たということは月は地球と一体であると考えれぱ月は国常立尊の分身であると言えるのであり、狭い意味で考えれぱ地球は国常立尊、月は月読命となるのであり、その様な意味で言えぱ私は国常立尊月読命の徳を人間の世界に顕現するために生まれて来ていると言えるのであります。故に全ての人々が様々な神の徳を顕現するために生まれて来ているのでありますから皆が神の分霊であると言えるのであります。
 
 古事記には山の神の子孫とか海の神の子孫とかいう人々のことも書かれていますが、その様な点を思い違いすると全く訳が判らなくなります。古事記の何処迄が神の世界のことであり、何処からが人間の世界のことであるかという点はまことに曖昧でありますが、それは古事記の内容がわざと歪められたものなっていますから一層判りにくくなっていると言えるのであります。
 
 さて古事記の研究においては、「道ひらき」の開祖荒深道斎と「皇道大本」の出口王仁三郎氏が双璧であろうと思います。しかし荒深氏の説にも出口氏の説にも何か恐るべき嘘や矛盾が含まれていると思うのは果たして私だけでありましょうか。荒深氏と出口氏は深い対立関係にありました。そうして荒深氏の説と出口氏の説とは丁度相対立する内容であります。私は荒深氏と出口氏の本を読んでみると果たしてどちらが正しいのか、どちらが本当なのかと迷わされるでありましょう。私は荒深氏と出口氏は恐るべき宿命に依って繋がっている間柄であると思うのであります。荒深氏は明智日向守光秀の後裔であると称しているのに対して、出口氏は茶道の祖千利休明智光秀の後身と言っているのであります。更に出口王仁三郎氏は明智光秀の居城であった坂本城趾を買収して大本の聖地として亀岡天恩郷を建設しています。この様なことから荒深道斉氏と出口王仁三郎氏との間には相容れることの出来ないものがあったことは事実であると言えます。荒深道斉氏が本当に明智日向守光秀の後裔であるか否かということは私にもはっきりとは判りませんが、荒深氏の説には納得出来る点もあると考えられます。しかし出口王仁三郎氏の言う如く、干利久が明智光秀の後身であるという話には納得出来ないのであります。また明智光秀は山崎の合戦後も生き残っていたという話も伝わっていますから明智光秀の子孫が現存するのは事実かも知れません。しかしそれが誰であるかということを今更調べてみても大して得る処はないでありましょう。それにしても荒深道斉氏と出口王仁三郎氏とが明智光秀に絡んで対立しなけれぱならないのは何か私の想像も出来ない因縁が有るからだと考えられるのであります。もっとも大本教団の方は荒深道斉氏を問題にはしていなかったかも知れませんが荒深氏と出口氏とが相対立する思想の持主であったことは確かであります。

 古事記に対する見解は荒深氏の説は非常に科学的であり、出口氏の説は非常に神秘的であります。しかし古事記の解説という点では荒深氏の説の方が真実に近いと言えるのであり、真理の具現という面では出口氏の方が実力者であったと言えるのであります。それにしても荒深道斉氏の「道ひらき」の思想は世間に受け入れられる処とはならず、出口王仁三郎氏の実力を以ってしても世の中の立て替え立て直しは不可能であったことも事実であります。古事記そのものが必ずしも完全なものでなく一部の人々に都合の良い様にでっちあげられている部分も多いのでありますから幾ら研究しても謎の解けない部分も多々あります。それは私達が理性を以って判断する以外に方法は無いのであります。しかし古事記や日本神道が私達に何を説こうとしているかということは判るのであります。