モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」宇宙学篇②

 全ての宗教や学問の中の正しい部分は受け入れ、誤った部分は取り去って正しい部分丈を活かして新しい文明を創造するためには全ての宗教や学問の中の正しい部分はどこであり、誤った部分は何処であるかということを正確に見分けることが必要であります。では宗教や学問の中の正しい部分と誤った部分とを見分けるにはどの様にすればよいのでありましょうか。宇宙学では洗心と心の調整の重要なことを説いています。例えば、綺麗な鏡には何でも綺麗にはっきりと写りますが、汚れた鏡には綺麗にはっきりとは写りません。汚れたり曇ったりしたガラスは充分に光を通しません。汚れた眼鏡を掛けて見ると何も正しくはっきりとは見えません。それと同じで私達の心が穢れ乱れていたならば真理を見抜くことが出来ないのであります。

 憎しみの心や嫉みの心や怒りの心や呪いの心や疑いの心や不平不満の心や我欲の心や我儘勝手な心や低級愚劣な心には真理は写らないのであります。例えば理性や良識があったならばネズミ講の様な矛盾したものに入る筈はないのであります。欲の心が有るからネズミ講の様な馬鹿げたものに騙されるのであります。憎しみの心や怒りの心で見たり考えたりすると必ず真実を見失なうのであります。真理を求める時に穢れた心は禁物であります。鰯の頭も信心からと言いますがその様なことをするのも欲があり心が低級だからであります。人を殺すのが罪悪であると言うのに、戦争で多くの人を殺す程手柄になるというのは矛盾であります。他人の財産を盗むのが罪悪であるのに戦争で敵国の財産を盗むのは役得で罪にならないと考えたりすることは誤っているのであります。私達の周囲にはこの様な矛盾が無数に存在するのであります。故に真理を学ぶためには洗心と心の調整をしなければならないのであります。しかし宇宙学を学んだ人々の中で本当に正しい意味での洗心と心の調整のできた人はあまり居ないと思われます。宇宙学を背負い発展させていく丈の人が出現せず宇宙学は衰微してしまったことからもはっきりと言えることであります。
 

 宇宙創造神は「憎しみ、嫉み、羨み、呪い、怒り、不平・不満、疑い迷い、心配心、咎めの心、いらいらする心、せかかせする心」は悪魔と繋がる心であるから決して出してはならない、と教えて居られます。この教えそのものは非常に判り易く覚え易く誰にでもすぐ実行し易い様に思われますが、これ程難しく実行の困難な教えはないと言えるのであります。この教えを本当に実践出来たならぱ確かに心が浄化され神や霊のことがよく判って来ます。しかし長年、宇宙学の勉強をし洗心と心の調整に努力しているはずの人で本当に神に繋がった人が果たしてどれ程いるのかと言うと、殆んどいないと言えるのであります。それは宇宙学の教えが観念的過ぎて実践するための科学的な裏付けがないからであります。
 
 宇宙学を信じている人は皆が「憎しみ、嫉み、猜み、羨み、呪い、怒り、不平不満、疑い迷い、心配心、答めの心、いらいらする心、せかせかする心」を出さない様に努カしているでありましょう。しかし本当にその様な心になり切ることは非常に困難なのであります。それは何故かと言えば、観念的には神の戒しめて居られる悪い心を出さない様にしても、どうしても出さずに居れなくなることが非常に多いからであります。人間の心の状態は食物に依って非常に大きな影響を受けるのであります。即ち食物の種類が精神状態を大きく左右し支配するのであります。多くの人々は食物と精神とに左程の関係があるとは思わないでありましょう。しかし食物の種類が人間の心理とか精神を支配することをよく理解しなけれぱならないのであります。
 例えぱ肉食と菜食とで精神的に大きな相違があることは多くの人々が認めていることであります。肉類を沢山食べる人程、霊が穢れ霊感や霊能が低下し神から遠ざかると言いますがそれは事実なのであります。肉食人種は大体に個人主義的で、利己心が強く、闘争心や競争心が強く、征服欲が強く、自尊心や誇りが強く、性格は狂暴になり易く、怒ったり、憎んだりする気持ちが強いと言われています。その様な性格は宇宙学では特に戒められていることであります。「強く正しく明るく我を祈り宜しからぬ欲を捨て皆伸良く相和して感謝の生活をする」心になろうと思うならぱ、肉類を食べてはならないのであります。肉類を多く食べていては、宇宙学の教えの如く皆仲良く相和するということは非常に困難なのであります。個人主義や利己心や闘争心や競争心や征服欲や自尊心や誇りを捨てなければ、皆が心から仲良くすることはできないのであります。私の交際している人々で肉や魚を食べないようになってから宇宙学が判るようになった人が何人もいますが、それは肉や魚を余り食べなくなると霊が清らかになり易いからであります。
 

 本来ならば宇宙学教室は大発展を遂げていてもよいはずであります。しかるにあれ程偉大な宇宙学教室が有るか無いか判らない程微々たる存在であり全く発展しようとしないことこそ真に大きな疑問であり矛盾であると私は感じたのであります。その主なる理由は宇宙学は観念的な教えであり実践理論が存在しないということであります。宇宙学は洗心と心の調整を説くと共に現代文明は矛盾だらけのオリオン文化であるから捨ててしまいなさいと説いているのであります。現代文明を捨てよということは現代文明は矛盾だらけであるから信ずることをやめて正しい新文明を創りなさいということであります。しかし現代文明の矛盾を覚り正しい新文明を創造するためには洗心と心の調整を図ることに依って神の光とカを頂くことが出来る様にならねぱならず、洗心と心の調整をするためには現代文明を捨てねばならないのであります。この2つが車の両輪の如く一体化して初めて本当の洗心が出来、正しい新文明を創造することが出来るのであります。
 
 宇宙学教室の人々はオリオン文化を捨てようとせず、オリオン文化のぬるま湯にどっぷりと浸かった状態で観念的な洗心修行をしていたのであります。そのために神に繋がる丈の洗心が出来た人が少なく、今日に至る迄宇宙学教室は全く発展出来なかったのだと言えるのであります。宇宙学教室の人々は現代文明は全て矛盾だらけのオリオン文化であると口先では言いながら、現代文明の矛盾や誤りがどこにあるのか、どの様にすれぱ正しい新文明を創造することが出来るのか全く判らなかったのであります。私は宇宙学を勉強してみて、本当の洗心と心の調整をして神に繋がる様にするためには先ず食生活を改革することが重要であると考え、宇宙学教室の代表である高木氏にそのことを進言したのでありました。しかしそのことは高木氏の理解される処とはならず、意見の衝突という様な状態になったのであります。

 高木氏の言われる処は、食生活の改善などする必要はない、好きなものや美味しいものを食べていればよい、田原女史は白米御飯でも肉でも魚でも菓子でも何でも食べて居られた、また田原女史は玄米御飯を食べなさいとも、何を食べてはいけないとも言われなかった、故に、玄米菜食主義がよいというようなことは田原女史の教えに叛くことになる、というような意見でありました。田原女史の言われたことは何でも正しいが、田原女史のせられなかったことや言われなかったことは一切してはならないという考え方はまったく進歩も発展も無いのであります。全ての宗教が教祖の教えを絶対のものとし、教祖の教えに誤りや矛盾があってもそれを認めず、教義の改革や進歩や発展を図ろうとしないように、高木氏も宇宙学の人々も田原女史の教えを絶対のものとし、それに反する考えは神の教えに叛くと言われたのであります。
 
 肉類の多食が多くの病気の原因でもあり精神病や犯罪の原因ともなっていることは多くの心ある人々が気付いていることであります。また白米や白パンや白砂糖が健康上如何に良くない食品であるかということも既に明らかにせられている処であります。しかし田原女史はその様な栄養学の知識を持って居られなかったから、白米でも白パンでも白砂糖でも肉でも何でも食べて居られたと言う丈のことであります。しかし田原女史はその様な食生活をしながら洗心修行をし神に繋がることが出来たのだから食生活と洗心は何の関係もないと高木氏は思っていたものと考えられます。しかし田原女史がしばしば悪い霊波や念波の攻撃を受けて苦しんで居られたのは食生活が誤っていたために悪い霊波や念波を完全に撥ね返すことが出来なかったからだと思うのであります。本当に健全な食生活を営んで居れば洗心も心の調整も容易であり悪い霊波や念波に対する抵抗力も強くなると考られるのであります。
 
 田原女史は食生活の改革をしようともせられず、食生活の改革の必要も説いては居られません。しかし宇宙学の教えには食生活の改革が必要であることを暗示している点は可なりあります。即ち「神は人問に生きるために食物を恵み与えて居られるのに地球人は食べるために生きている」といった言葉があります。また地球人は食べることぱかり考えているから何時迄経っても本当の洗心が出来ないのだと何度も教えているのであります。人間は生きるために食べるのであって食べるために生きるのではないという意味が宇宙学教室の人たちには覚れなかったのだと私は思うのであります。即ち生きるために食べるということは、生きるために必要なものを必要量丈食べれぱよいということであり、それに対して、食べるために生きるというのは美味しいものや珍しいものを沢山食べることを楽しみに生きることをいうのであります。しかしその意味が判らない人が多いのであります。    
 
 生きるために食べる人は、常に健康上良い食物を必要量丈食べるのであり、食べるために生きる人は健康上良い悪いに拘わらず美味しいものや珍らしいものを食べることを楽しみにして生きているのであり、美味しいから必要以上に沢山腹一杯食べたりするのであります。そのために様々な病気になることは当然であります。美味しいものを食べることを楽しみに生きることは誤っているのであります。その様な心では本当の洗心は出来ないのであります。神が恵み与えて下さった大自然の慈味豊かな食物を感謝して有難く頂いていれぱ健康で幸福な人生を送ることが出来るのであります。然るにに神の与えて下さった尊い食物に感謝と満足の心を持たず、もっと美味しいものが食べたい、もっと珍らしいものが食べたいと欲の心を起して過度に精白加工をしたり、有害な食品添加物を使用したり、必要量以上に食ぺ過ぎたり、必要でもないものや健康上有害なものを食べたりして健康を害する様なことを平気で続けて来たのが地球人であります。
 
 人間は少しでも健康で長生きをして多くの修行を積み賢明で高級な人間になる様に努カしなけれぱならないにも拘わらず、病気になっても早く死んでもよいから美味しいものを食べたいという人も多いのであります。神から与えられた尊い生命を大切にし楽しく幸福な人生を送るのが正しく賢明な人間のすることであるにも拘わらず、健康を犠牲にし寿命を短かくして迄美味しいものを沢山食べたいということは非常に誤った穢れれた行為なのであります。
 故に食べる楽しみを求めるために生きるという誤った考え方を改めなけれぱ本当の洗心は出来ないのであります。宇宙学教室にはそれが判った人が殆んどいなかったと言えるのであります。田原女史は霊が非常に高級であり意志が非常に強い方であったから誤った食生活を知らずに続けていても神に繋がることが出来たといえるのであります。然るに霊の低い意志の弱い人々が誤った食生活を続けていては田原女史と同じ様に神に繋がることは出来ないのであります。その様な誤った考え方を改められなかったために高木氏は宇宙学を消滅させようとした悪魔の計略に掛かって田原女史の教えを捨て佐々木氏の教えを受け入れてしまったのであります。生活の誤りを改めようとしないで観念的な洗心を何年続けても本当に心が清らかになることはなく神に繋がることもないのであります。