モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」天理教篇⑤

 そうして更に私が天理教から得たものは「神の貸しもの」という教えでありました。私は昭和33年11月以来、新自由主義経済学の研究に専念しその基礎理論の完成に心血を注いで居りました。しかしその頃の私は共産主義と言えば無神論であり唯物論であるからそれを受け入れる気持ちはありませんでした。そのうちに昭和38年8月以来しばしば神の啓示を受けるようになると共に自由主義経済に対する認識に変化が起こり、更に共産主義経済学に対しても新しい考えを持つようになったのであります。
 
 天理教に於ける神の貸しもの、人間の側から言えば神からの借り物という考え方は「恒産なければ恒心なし」という自由主義のの経済観を大きく変えることとなったのであります。そうして私は現在のマルクス主義経済学即ち唯物論共産主義無神論共産主義に対して、全く新しい共産主義経済学が出現してもよいのではないかと気付いたのであります。共産主義といえばマルクス主義とかラッサール主義というものしか有り得ないとか、共産主義唯物論であり、無神論であり、弁証法でなければならないという固定観念は改められねばならないことを私は感じたのであります。そうしてマルクス共産主義に対する新共産主義唯物論共産主義に対する唯心論共産主義、神の存在を否定する無神論共産主義に対して、神の存在を認め神の教えを尊び神を中心として皆が仲良く信じ合い協力し合うことの出来る神道共産主義とでも言うべき新しい共産主義が日本に出現しても良い時代が来ているということに気付いたのであります。自分の土地、自分の家、自分の財産、自分の地位等というものは本来存在しないのであり、全ては神のものであると共に皆のものであると言わねぱならないのであります。

 世の中には自分の物は大切にするが他人の物や公共の物は粗末にするという様な人がいます。反対に他人の物や公共の物は大切にするが自分の物は粗末にするというような人も居ます。しかし自分の物を粗末にすれば自分の損になるから大切にするが、他人の物や公共の物は粗末にしても損にならないから粗末にするということは誤っているのであります。また自分の物はどんなにしようと自分の自由であり勝手であると考えることも誤りであります。全ての物は神の物であり自分の物は存在しないのであります。故に土地も財産も地位も自分のものであると考え自分1人の利益や幸福だけを図るために用いてはならないのであります。全ては神のものであり皆のものでありますから、全てのものを神の御心のままに皆の利益や幸福のために役立てるように心掛けねばならないのであります。
 
 しかし今の天理教団には神の貸しものという教えは活かされていないと思うのであります。信者の寄進によって本部に巨大な神殿其の他を建設し、地方に多くの教会を建設し、「おじば(お磁場)帰り」と称して遠方の地方の信者へお参りを奨励してもその様なことで皆が陽気暮らしを楽しむことの出来る世の中に成ることはないのであります。信者の寄進に依って巨大な神殿や教会を建設したり、多額の旅費を使ってしばしばおじば帰りをしてもそれで皆が賢明になり幸福になり社会が良くなるというものではないのであります。天理教を信ずる人々がもっと天理教の真理の偉大さに気付くと共に天理教の大きな矛眉をも認め、誤りを改めながら尊い真理を活かして理想の世界を建設するために皆で協力し合う心にならない限り天理教の健全な発展はあり得ないのであります
 
 現代の資本主義も共産主義も共に誤っているのであり、資本主義や共産主義で皆の利益や幸福の約束せられる理想の世界を建設することは出来ないのであります。土地も財産も地位も全ては神のものであることを覚って、皆が自己の持つ土地や財産や地位を神にお返しし、改めて神の御心のままに全てのものを皆の利益や幸福や進歩向上のために使わせて頂く様に心掛けるならぱ、資本主義や共産主義を超越して新しい理想の世界を建設して行くことが出来るのであります。これからの新しい世界を建設して行くために必要な経済学は資本主義や共産主義官僚主義ではないのであります。新自由主義経済学であると共に新共産主義経済学とも言うことの出来る新しい理論でなけれぱならないのであります。資本主義の矛盾と共産主義の矛盾を解消し、資本主義と共産主義の長所を活かしつつ、皆の利益と幸福の約束せられる理想の経済社会を建設して行くことの出来る新しい経済理論、それは私が長い間完成のために努力して来た新経済学理論即ち新自由主義経済学であって同時に新共産主義経済学とも言うことの出来る新実践経済学なのであります。
 
 昭和42年7月23日、天理教本部を訪ねて太陽の奇蹟の光に迎えられ、天理教を通じて新しい真理を覚り得た私が霊感を得て作った幾つかの詩のうち「生命芽生えて幾億年この地の上に人は満つ さあれ人なき天つ国 我がおもむくを待ち望む」とは悠久の昔この地上に原始生命が芽生え、出直しを繰り返しつつ進歩向上を続け遂に人類が地球上に満ち溢れる様になったけれども、遠い大空の彼方には人類が住んでいない星も沢山あるということであり、神はそれらの星に人類が移住して素晴らしい社会を建設し幸福な生活を送ることが出来る様になることを心から待ち望んで居られるということであります。
 
 「いでや詩人諸共に 神なき国に新しき 神の世界を築くため いざおもむ神として」とは私達地球人類は宇宙の彼方の人類の住んでいない星に移住して新しい社会を建設しようという意味ではあります。しかし神なき国とはどの様な意味かと言うと、大自然は神の世界であっても人間が住んで初めて神の世界と呼べるのだと言えるのであります。大自然が幾ら偉大でも大自然を偉大であると思う人間が居なければ偉大であるとは言えないのであります。人間が大自然を眺めて偉大であると思うからこそ大自然は偉大であると言えるのであります。例えば人間が成人しても結婚しなければ1人の男性であり女性ではあっても夫でもなけれぱ妻でもないのであります。また結婚しても子供を生み育てなければ父でもなく母でもないのであります。例え子供を産んでも子供を愛し立派に養育しようとしなければ立派な親とは言えないのであります。親として子供を愛し、子供を立派に養育し、子供から良き親と慕われて初めて名実共に立派な親となれるのであります。
 
 神もまたそれと同じなのであります。霊魂も物質も神であり、宇宙は全て神の世界であります。しかし人間がいなければ誰が偉大なる大自然を神として尊ぶでありましようか。人間が存在するから大自然は偉大なのであり、神と言えるのであります。天理教では「神は人間の陽気暮らしを見て楽しみたいと思って人間を御創りになった」と説かれていますが、そのことは真によく神の御心を伝えているのであります。人間にとっても家庭に子女が満ち溢れ、子供達が皆健康で楽しく幸福に暮らしながら立派な人間へと成長していくことは親にとって何よりも大きな歓びであると言えるのであります。神にとっても地上に人が満ち皆が楽しく幸福に暮らしながら立派な人間へと進歩向上していくのを見ることが何よりも大きな歓びなのであります。
 
 しかし神は地球に多くの生命を創造せられましたけれども、神の御力を以ってしても生命を創造されることの出来ない星は沢山存在するのであります。例えば宇宙学では金星や火星や木星に人類が住んでいると説いていますが、それらの星に自然な状態で生命が発生し進化することは有り得ないと考えられるのであります。故に火星や金星に人類が住んでいるのが事実であるならば、それらの人類は火星や金星で発生し進化した人類ではなく、遠い宇宙の彼方から宇宙船に乗って移住して来た優秀な宇宙人達であると考えなければならないのであります。金星や火星や木星土星は生命が発生するに必要な条件を備えているとは考えられないのであり、自然の状態で金星や火星や木星に生命が発生し人類に迄進化することは不可能であると考えられるのであります。しかし非常に高度の文明を創造した高級な宇宙人達ならば高度の科学の力を以って、自然の状態では生物が住むことの出来ない星の世界へ移住して新しい社会を建設することも決して困難なことではないのであります。しかしそのためには私達自身が余程高級な人類へと進歩向上し高度の文明を創造することが出来る様にならなければならないのであります。動物も植物も住むことの出来ない星に移住して高度な文明社会を建設するためには私達自身が正しく清らかな心に帰り、賢明で高級な人間にならなけれぱならないのであります。「神なき国に新しき 神の世界を築くため いざおもむかん神として」ということは私達自身が神の子に相応しい高級な人間になって、生物の住むことの出来ない星の世界へ移り素晴らしい神の世界を建設して行こうという意味であります。
 
さてこの短い論文を以って天理教について充分な意見を述べることは不可能であります。天理教の中にはもっと別の真理もあれば、もっと別の矛盾もあります。それは他の多くの宗教についても言えることであります。私自身将来天理教について新しい意見を発表するかどうかは判りません。しかし私が過去に天理教を学んで得た真理を少しでも社会の利益の為に活かしたいと念願して、心に思い浮かぶままに発表した次第であります。