モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」天理教篇②  

 次に天理教では十柱の神の守護の理を説いています。ヨーロッパでは物理学とか化学とか言われる分野のことを、天理教では、神の徳、神の力、神の守護と説いている訳であります。この点はヨーロッパ物質文明に欠けているものであります。現代物理学や化学や天文学では、巨大な島宇宙や恒星や惑星等が何故運行しているのか理解できないのであります。物質の世界に様々な現象を起こしているのは神の力なのであります。天理教の十柱の神の守護の理は数学的には10進法の良い点を説いていると考えられます。それは10進法は2進法や5進法や12進法に較べて非常に優れているからであります。
 
 さて十柱の神は「くにとこたちのみこと」と「をもたりのみこと」「くにさづちのみこと」と「月よみのみこと」「くもよみのみこと」と「かしこねのみこと」「たいしょく天のみこと」と「をふとのべのみこと」「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」のそれぞれ2柱づつの神が人間に喩えれば夫婦の様な間柄にあります。1つの宇宙が霊魂と物質との2つの世界に分かれている様にあらゆるものが相反する2つの世界に分かれているのであり、例えば天と地、火と水、陽と陰、動と静、生物と無生物、動物と植物、男性と女性、善と悪、正と邪、直と曲、有と無という様な具合であります。1つの存在が相反する2つの存在に分かれ、その相反する2つの存在が反発し合うのでなくて、協力し合い助け合い、長短補い合って1つの働きをしているのであります。天理教ではそのことを「二つ一つの理」と呼びまた「助け合いの理」とも呼んでいます。「二つ一つの理」と「助け合いの理」は霊魂の世界にも物質の世界にも生物の世界にも人間の世界にも全てに当て嵌まっているのであります。

 次に十柱の神と「二つ一つの理」について少し私の意見を述べたいと思います。天理教では「くにとこたちのみこと」と「をもたりのみこと」とが夫婦に当る神であり「二つ一つの理」に繋がる神であります。「くにとこたちのみこと」は天では月地では水、人体では「めどううるおい」「をもたりのみこと」は天では太陽、地では火、人体では体温として現われている、と説かれているのであります。これはどの様な意味であるかと言うと、宇宙間のあらゆる場所に於いて、1つの道理がそれぞれの場所に応じて様々な形をとって現われ世界や人間を動かし、或いは守護しているということを示しているのであります。「くにとこたちのみこと」は天では月として現われているが、地では水の守護の理、人体では「めどううるおい」として現われているということは「くにとこたちのみこと」の守護の理は天では月となって現われ、地では水となって現われ、人体では体の潤いとなって現われるということであります。また「をもたりのみこと」の守護の理は天では太陽となって現われ、地では火となって現われ、人体では体温となって現われるということであります。 例えば宇宙にはエネルギーが存在しますが、そのエネルギーが太陽ともなり、地上では火となり、人体では体温となっているのであって、宇宙のエネルギーが場所に依って様々に形を変えて現われているということであります。いわば大自然の1つの道理が天にも地にも人間にも様々な形で現われているのであって、天に現われる道理も地に現われる道理も人間に現われる道理も元を辿れば1つの繋がりを持っているということであります。
 
 また「くにとこたちのみこと」の守護の理は「人間を宿し込みの時のつく息の理」「をもたりのみこと」の守護の理は「人間を宿し込みの時のひく息の理」と教えられています。つく息の理と引く息の理とは性生活に於ける能動的な行為と受動的な行為を表しているのであります。男性は精神的にも肉体的にも能動的な働きをし、女性は精神的にも肉体的にも受動的な働きをします。その能動的な力と受動的な力とが1つに結ばれ助け合うことによって家庭生活や社会生活が成り立っていくのであります。

 次に「くにとこたちのみこと」は差し潮の理、「をもたりのみこと」は引き潮の理と教えられていますが、差し潮の理という言葉には出生、生長、発展、興隆の徳が含まれ、引き潮の理という言葉には老化、衰退、滅亡の徳が含まれていると私は考えます。私達人間を始めとして全ての生物には発生と死滅、生長と老衰の相反する現象が見られます。あらゆる民族や企業や国家や文化にも発展興隆の時代があり、衰退滅亡の時代もあります。そうしてその相反する2つの理が結合して生物界に於ける世代の交代が起こり、世界のあらゆる現象が時代と共に変転し進化し発展して行くのであります。
 
 更に「くにとこたちのみこと」の徳は人体では眼の潤い、世界では水の守護、理性的なものを象徴し、「をもたりのみこと」の徳は人体では体温、世界では火の守護、惰熱的なものを象徴すると説かれています。天理教の教義の素晴らしい点は此処に在ると私は思います。「くにとこたちのみこと」の徳は物質の世界では水として現われるが、精神的な世界では理性や知性として現れるのであり、「をもたりのみこと」の徳は物質の世界では火として現われるが、精神的な世界では情熱と愛情として現われるということであります。人間は大別すると理性的な人と情熱的な人、思索型の人と行動的な人との区別があります。理性的で文学や芸術等を愛し静かな思索の時を好む人は月や水の徳を多く持っている人であり、情熱的で行動的でスポーツ等を好みあらゆる方面で活動することを好む人は、太陽や火の徳を多く持つている人であると言えるのであります。人間は霊魂と物質との結合に依って生まれて来ます。そうして人間の肉体は火の徳と水の徳との協力や結合に依って生存し、心は惰熱や愛情と理性、知性の結合に依って活動しているのであります。

 「をもたりのみこと」は天では太陽でありますが、太陽の徳は熱即ちエネルギーであります。エネルギーは太陽のみが持つものではなく、宇宙に無数に存在する恒星は全てエネルギーの源泉であります。只私達地球人類にとって最も代表的なエネルギーの源泉は言う迄もなく太陽でありますから「をもたりのみこと」は天では太陽として現れるということになるのであります。しかし太陽のエネルギーも地球の内部にある地熱エネルギーも、或いは私達が木材や石炭や石油を燃やして得るエネルギーも、また私達の肉体のエネルギーもその発生源や発生原因は違っても、宇宙に無限に存在するエネルギーと同一のものであることに変わりはないのであります。

 「をもたりのみこと」の守護の理は物質の世界では火やエネルギーそのものとして現われ、霊魂の世界や人間の心に於いては情熱や愛情として現われ、人間の肉体に於いては温もり、体温として現われているというものであります。「くにとこたちのみこと」の守護の理は物質界では水の徳として現われますが、霊魂の世界や人間の心に於いては理性知性として現われる訳であり、人間の体内では眼の潤いや血液の循環や潤いとして現われているというものであります。この様に「くにとこたちのみこと」の神徳と「をもたりのみこと」の神徳とが助け合いの理に依って人間の心や肉体で働き、或いは世界で働いているのであり、そのいずれか一方の守護の理のみでは人間は幸福な人生を送ることも出来ませんし、社会も正しく発展して行くことは出来ないのであります。
 
 例えば私達の肉体には水は絶対に必要であり、体温を維持したり活動したりする為のエネルギーも絶対に必要であります。しかし私達が水を飲んで水を体内でエネルギーに変えることは出来ませんし、火に当たって喉の渇きを癒すことも出来ないのであります。火のカと水のカとはそれぞれ独自の働きをしながらしかも互いに助け合っているのであります。私達が摂取した飲食物が体内で化学的に変化し、火のカと水の力とが結合して初めて私達は生存して行けるのであります。或いはまた日常生活に於ける食物の煮炊きも火と水の力の助け合いであり、工業に於ける蒸気機関の如きも火と水の力の助け合いであり、植物が生長するのも火と水の力の助け合いに依るものであります。
 
 また人間の精神的な面でも情熱や愛情が豊かでも理性や知性が欠けていては立派な人とは言えませんし、理性や知性が豊かでも情熱や愛情が欠けていては立派な人であるとは言えません。私達はよく火の様に熱い情熱とか暖かい愛情とか言い、或いは氷の様に冷たい心とか水の様に澄み切った冷静な心とか、水の様に静かな理性とをいう様な表現をしますが、人間の情熱や愛情に満ちた顔は火の相の現われであり、理性や知性に満ちた顔は水の相の現われであります。また人間の肉体的活動は太陽の徳の現われであり、思索は月の徳の現われなのであります。この様に「くにとこたちのみこと」と「をもたりのみこと」の相反する2つの徳や守護の理が世界の様々な場所でそれぞれの時や状態に応じて様々な形でそれぞれの特徴を生かしつつ相互に助け合っていると言えるのであります。