モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』⑤

 『4次元』とは?

 『4次元』を推理と論理だけで究明することは、その本質から考えて、極めて難しい。実際、初期の研究者達はこの直接的なアプローチを好んで用いたが、結果は一層の混乱を招くばかりで、少しも成果は上がらなかった。しかし、高次の4次元世界と言えどもそれなりの自然法則に従っているから、それが物質世界に現われた部分(超常現壊の形で)を観察することで、貴重な知識が得られ、そこから何らかの結論か引き出せるはずである。
 恐らくその名前のせいで一般には誤って受けとられているようだが、『4次元』とは、幾何学的な意味で『空間』にもう1つ次元があることではない。他の3つの次元のように、それを物差しで測ることはできないのである。言う迄もなく、基本的には、『4次元』とは『時間』と『空間』である。だが残念ながら、この単純化されすぎた定義からは、あまり多くのことは分からない。というより、我々がこれまでに知っている以上のことは、何も分からない。

 
 
  いつ、どこに?
 
 『4次元』を理解するためには、従来あまりよく判っていない『時間』についてもっと理解を深めることが必要だ。『時間』というのは、人間が洞穴を後にして以来出会った中で、最も複雑な現象である。その上なお厄介なことに、我々はずっと昔の祖先から引き継いできた『時間』に関する誤った観念を、ハンディとして負っている。この事実は高次の『時間』と『空間』の性質を理解しようとする時、他の何にもまして不利な条件である。だから、我々はまず第一に、現在持っている『時間』と『空間』の概念を、新たに得た知識に照らして再吟味し、先入観を捨ててもう1度この問題にアプローチしなけれぱならない。
 
 まず初めに、我々が時計やその他の計時装置で測る『時間』は、真の高次の『4次元時間』とはほとんど無関係だ。高次の『4次元時間』は、高次の『4次元空間』同様、機械装置では測定することができない。どちらもより高次の秩序に属し、それ独自の自然法則に支配されている。問題は、我々がその法則についてほとんど何も知らないことにある。
 しかし、『時間』と『空間』は密接な関係にあり、どちらも全ての物体や生き物が存在するために必要である。物質世界でも高次の世界でも、『時間』と『空間』がなくては何物も現実の存在とは成れない。我々自体さえ、例外ではないのだ。
 これは訳なく立証できる。適当な物体を何か選んでみよう。例えば、1冊の本である。我々は何の造作もなくこの本の物理的次元を1インチの何分の1の細かさまで測ることができる。また、材料の質や正味重量をかなり正確に確認することもできる。

 だが、真の問題は、そのような純粋に物理的な要素だけで、この本を現実に存在させるのに充分か、ということだ。一見充分なように思えるが、実はそうではない。『時間』と『空間』が加わらない限り、この本は現実に存在することはできない。この主張は奇妙に聞こえるかも知れないが、それは我々が『時間』と『空間』の観点から考えることに慣れていないからに過ぎない。我々は、物質世界にある全てのものが神のお恵みだけで存在するという考えを、当然のように受け取ってしまっている。しかし、それはありえないことだ。『時間』と『空間』がなくては、何物も現実に存在できない。だが、『時間』と『空間』は基本的には『4次元』を意味するので、これは、何物も『4次元』の外には存在できないということだ。我々の物質世界は無論、より高次の世界も、文字通り『4次元』の中に存在するのだ。逆に言えぱ、『4次元』はどこにでもあることになる。
 
 それを確認するために、先ほどの本の例をもっと詳しく考えてみよう。本がいかにも現実らしく見えるのは、次の2つを自問してみるまでのことだ。
 (1)本はどこにあるのか?
 (2)本はいつ存在していたか?
 もちろん、この本が現実であるためには、『空間』のどこかを占めていなければならない。それが第1の前提条件だ。第2に、この本が現実であるためには、『時間』の中のある一定期間に存在しなけれぱならない。これが第2の前提条件である。
 この2つの前提条件がなければ、その本はただの抽象概念で、本当の本とは言えない。もちろん、それが我々にとって現実であるためには、その『時間』と『空間』は我々の“現在時”のそれと一致しなくてはならない。仮にその本の『時間』と『空間』がプラトンの時代の古代ギリシャに一致していたら、それはプラトンやその同時代人たちにとってしか現実ではない。もしも西暦2000年、あるいは3000年に一致していたら、その本はその時代の人々にのみ現実であるわけだ。
 
 ここで誤った結論を引き出してはならない。我々がまだ、自分のという狭い“現在時”という狭い範囲に制約されているために、上に述べたような原則が今の我々に適用されるのだ。しかし、我々が“現在時”の制約から解放された瞬間から、この本がいつ、どこに存在しようと違いはなくなる。どこにあっても、それに手が届くようになるのである。『4次元』はそのような性質であるために、ヒントン以来の研究者達を拒み続け、現在もまだあらゆる解明の努力に逆らい続けている。最も、それは驚くにもあたらない。我々は高次の『空間』の法則にまったく不案内だし、これほど大掛かりな問題となると、我々の限られた精神能力では如何とも為し難いのだ。



 
 『4次元』を類推する

 どういう訳かハワード・ヒントン、P・D・ウスペンスキー、クロード・ブラグトンなど初期の『4次元』研究者達は、類推が大のお気に入りだった。残念ながら、類推は誤りを犯しやすく、にっちもさっちも行かぬ行き止まりにぶつがり勝ちだ。とはいえ、昔の偉人達が『4次元』の謎を何とか解き明かそうとして使った代表的な類推を知っておくのも、無駄ではあるまい。
 
 恐らく実際的な理由からだろうが、類推はほとんど、伝統的な幾何学を元にしている。第1の類推は次のようなものだ。まず初めに1個の点を決め、その点を『空間』の1つの次元に沿って動かせば、そこに直線が得られる。さて、その直線を、最初の次元と直角をなす『空間』の第2の次元に沿って動かせぱ、平面が得られる。最後にその平両を、第2の次元と直角をなす『空間』の第3の次元に沿って動かせば、立方体が得られる。
 
 ここまでは問題なく、物質世界ではお馴染みの3次元立方体ができた。問題は、この立方体を今までの3つの次元と直角をなす『空間』の第4の次元に沿って動かそうとした時から始まる。もしそれができれば、我々は4次元立方体を得て、その過程で『4次元』を解明することができるだろう。しかし困ったことに、我々は既に知っている3つの次元と直角をなすような『空間』の次元など知らないし、考えつくこともできない、という訳で、行き止まりにぶつかったことになる。
 似たような類推に、次の様なものがある。仮に1本の直線が2個の点を隔てると仮定すれば、2本の直線は1つの平面を隔て、2つの平面は1つの立方体を隔てるはずである。そこで、類推によって、2つ、またはそれ以上の立方体は1つの4次元立方体を隔てるか合わせるかするはずである。これは論理に適っているし、正しい推理のように思われる。ただ困ったことに、我々はそのような立方体を並べたり離したりできるような、我々の『空間』と異なる『空間』を知らない。ここでもまた、行き止まりにぶつかった。

 恐らく最上の類推は、平面世界の物語だろう。まず初めに、ある平面世界に小さな平面人達が暮していたとしよう。この平面人たちは大変進んだ文化を持っているが、彼らもその世界も平面なので、『空間』の2つの次元−長さと幅しか知らない。彼らは第3の次元、高さや高度といったものを考えてもみないのだ。そのため、彼らの家もビルも刑務所も、ただの線でできていて、上方はがら空きだが、彼らにとっては、それで不都合はない。その線を乗り越えるには3次元方向の動きが必要だが、彼らはそれをまったく知らないでいる。

 仮に平面人の重要人物が彼らの厳重な刑務所の独房に入れられたとしよう。そこへ人間がやってきて上から眺めれば、刑務所の壁も扉もただの線にすぎず、上方ががら空きなことは一目瞭然である。彼にとっては、この平面人を逃がしてやることは児戯に等しい。平面人をつまみ上げて、外に降ろしてやりさえすればいいのだ。だが、胆を潰した平面人の方は、自分がどうやって刑務所の外に出られたのか理解できないだろう。『空間』の第3の次元、高さの観念がないから、理解のしようがないのだ。我々だって、もし誰かが『4次元』方向の動きを使って、厳重に閉ざされた地下牢から出してくれたら、びっくりするに違いない。
 
 この類推には、もう1つ重大な要素がある。そして、その方が我々にとってもっと重要なのである。この平面人とその世界がいかに平面、言い換えれば薄いといっても、必然的に幾らかの厚みを持っていなけれぱならぬ筈だ。例え彼らがそれに気付いていないとしても、この厚みがなけれぱ、彼らは存在できないからである。我々もこの平面人や平面世界と同じで、必然的に『4次元』の中へ幾らかの広がりを持っていなくてはならない、例え我々がそれに気付いていなくてもだ。この『4次元』への広がりがなければ、我々もまた存在できないのである。
 
 もう1つ面白い類推に、プラトンの“影たちの世界”がある。偉大な哲学者の考えたこの古典的傑作によれば、大勢の人間が巨大な洞穴の中に鎖で繋がれて一生を送っていた。外の世界について彼らが知っていることは全て、表の物体の影が洞穴の壁に映るのを見て得たものだ。当然、影は1日の時間や季節やその他の要因で変化する。この僅かな証拠から、洞穴の中の鎖で繋がれた人間達は、やがて外の世界について彼らなりの概念を作り上げたが、無論、それは現実とは一致しなかったのである。
 この類推を使うなら、我々は洞穴の中で鎖に繋がれた人達と同じだ。彼らと同様、知覚器官が与えてくれる僅かな証拠を元に、外の世界について我々独自の精密な概念を築き上げて来たのである。その概念が間違っていることは、言う迄もあるまい。



 
 永遠不変な『時間』
 
 こう考えてみると、問題の原因の大半は、我々が『時間』と高次の『空間』の真の性質を理解できないこと、さらに、知識を得る手段として知覚器官にほとんど頼り切っていることにあるのは疑問の余地がない。その結果、我々はいつの間にか一連の誤った信念や不必要な障害物の重荷を背負ってしまったのだ。“流れる”時間という幻想もその1つである。
 
『時間』に対する不完全な感覚は、“現在時”という概念をも生んだ。“現在時”は逆に『時間』を過去と現在と未来に分割してしまった。我々はそれと気付かぬ内に“現在時”の中へ逃げ込み、今では怯え上ってそれにしがみ付いている。なぜなら、“現在時”は我々が触れることのできる唯一の現実だからだ。残念ながら、“現在時”は我々の創り出した幻影に過ぎない。そして気が付くと我々は、現実には何の現実も持たないという奇妙な立場に立たされてしまったのである。
 幸い、我々はようやく、我々の『時間』の概念やそれに関連した様々なものに、多くの誤りがあることに気付き始めている。我々はまた、『時間』とは結局1つの、永遠で不変なものではないかと考え始めている。なぜなら、我々が時々過去に戻ったり、未来に進んだりできる時、そこには既に、かつて起きた事やこれから起きる事が、誰かにとって“現在”である時と同じ現実性を具えて、すっかり揃っているからである。




 ─反物質と4次元世界─
 
 現代科学と超常現象

 唯物論の見解によれば、人間の精神や意志、人類の歴史の全行程まで含めて、あらゆる事実は厳密に物理的な過程から生じ、それに左右される、少なくともそれに帰着させることができる、という。一般的に言えば、唯物論はあらゆる形の2元論や観念論と対立する。したかって、神に対する信仰や、魂や霊が肉体の死後も生き残ることができるとする信仰、さらにはあらゆる種類の自由意志、内観心理学とも対立する。唯物論は、考え方としては目新しいものではない。ギリシアの原子論者デモクリトスやルウキッポスは、認識や思考など複雑な精神現象に単純な物理的説明を与えた。この考えはソクラテスの厳しい反論に遭っている。19世紀には、唯物論思想家達がダーウインの進化論に大いに刺激され、唯物論は科学の方法や解釈の問題と結び付いて、アンリ・ベルクソンやサミュエル・アレクサンダー、A・N.ホワイトヘッド等の哲学者の関心の的となった。
 
 しかし、20世紀になると、唯物論は科学や哲学の新たな発展に直面せざるを得なかった。唯物論は、突如として確固たる基盤を失ったのだ。物理学においては、相対性理論量子論が因果論や宇宙決定論など古い観念を大幅に修正し、心理学や精神分析学の新しい研究によって、唯物論の教義が好んで用いる主張−精神は全て脳と神経系に依存するという単純な見方を信じることが、実際上できなくなった。近年になっても、唯物論は新たな足場を得られないままでいる。それどころか、現代科学の新たな発展が見られる度に、唯物論は敗退を続けている。中でも、現代科学が超常現象に対して明確な関心を示し、心霊研究の実験によって、精神的な出来事はほとんどいかなる意味でも肉体的出来事から独立的な関係にあることが明らかにされたことは、最悪の打撃となった。



 
 何もない空間
 
 我々は普通、肉休が肉と骨と血からできていると確信して暮らしている。衣服は羊毛や綿、絹、麻、合成繊維などからでき、自動車は様々な金属、合金、プラスチックから、食物は肉類や様々な野菜やその他の栄養物からできていると信じている。また何よりもまず、それぞれの基本材料は独特のもので、他のどれとも異なっていると確信している。例えぱ、バナナはレンガとは違うし、りんごは金槌とは違うというように。表面的には、そして実際の上でもほとんどこれで正しい。しかし、分析を突き詰めれぱ、あらゆる物質は原子からできている。その原子は正と負と中性の電荷からできているに過ぎない。これらの電荷は電子、陽子、中性子と呼ばれ、その異なる組み合わせが、これまで知られたあらゆる物質の基礎となっている。`
 言い換えれぱ、我々、ものを考える人間も、ただの原子や電荷の集合に過ぎない、ということである。美しい木々や、草花、河川、湖沼、海洋、そこに住む無数のあらゆる生物も含めて、この物質世界には沢山の原子や電荷以上に実質的なものは何1つない。我々人間の虚栄心は傷付くだろうが、それが真実なのだ。

 物理学では、原子とはあらゆる物質を構成する、単位粒子の一種と考えられている。水素のようにすこぶる単純な元素からウラニウムのように極めて複雑な元素まで、あらゆる原子では電子が様々な軌道に配列されている。それぞれの元素は、その電子の軌道運動、特に外殻軌道の電子によって決まる一定の化学的・電気的現象を示す。ある種の物質では、電子が絶え間なく軌道間あるいは軌道上の位置を変えている。原子はミニチュアの太陽系によく似ていて、いわば太陽と惑星と、広大な空っぽの部分から成る。この空っぽの部分は太陽や惑星にあたる部分よりもずっと大きい。だから、実際にはどんな原子も、ひいてはどんな物質も、その大部分は何もない空間なのだ。固い物質に慣れている我々には、これは信じ難いことかもしれないが、やはり事実なのである。



 反物質の世界
 
 反物質は原子物理学に属する新しい専門用語だ。しかし、テレビ、SF小説のおかげで、この言葉は(意味の方はともかく)誰にもすっかりお馴染みになっている。一体、反物質とはどんなもので、この字宙のどこかに実在するのだろうか? 反物質は我々が見慣れているのと同じ形態をした物質に過ぎない。ただ、その原子を構成する電子と陽子のプラスとマイナスが逆になっている。簡単に言ってしまえば、鏡に映った我々自身の姿に喩えてもいい。反物質は、普通の物質と切り離されていれば完全に安定な状態で存在できる。普通の物質と切り離されている限り、1つの世界、1つの完全な宇宙としてどこかに存在することも可能なのだ。

 だが、全てが反物質から成るこの世界や字宙がたまたま運悪く普通の物質から成る我々の世界や宇宙と接触することになれば、両者は一瞬のうちに完全に消滅するだろう。後に残るのは衝突によって生じる中間子などの不安定な素粒子だが、それらも1秒の何分の1かの間に自然に放射エネルギーに変化する。ガンマ線ニュートリノと呼ばれる質量のない安定な粒子へと。
 確かに我々の太陽系の中では、反物質はどこにも安定な形で存在していない。だが、宇宙のどこか遠くにまったく反物質から構成された銀河系がないとは言えないのだ。反物質が字宙のどこかに大量に存在するという考えは、単に感覚的に面白いというだけではない。創造の対称性という発想を考えるなら、物質世界で知られている全ての素粒子に対して、それと均衡をとるためにその片割れ−ただし正反対の−が、宇宙のどこかに存在するというのは大いに有り得ることだ。
 対称性の概念は、後で見るように、『4次元』の概念と直接重要な関連を持っている。理由は簡単である。物質から成る何かを創り出す(ただし正反対に)ためには、まだ知られていない次元−つまり『4次元』の中で動かすことが必要だ。他には方法がないのである。
 
 ただの遊びだが、仮にもし何かとてつもない事故によって、この物質世界のあらゆる物質が突然、反物質や未知の形の物質にそっくり入れ変わったらどんなことが起こるか、想像してみよう。奇妙に思えるかもしれないが、全く何も起こらない。有り難いことには我々は誰1人その変化に気が付かないだろう。理曲は簡単−我々自身もその新しい形の物質からできているので、何もかも同じでまったく正常に見えるため、変化が起きたことを知覚できないのである。
 
 そのような可能性を考えると、『時間』の壁の向こう、より高次の『空間』に存在する“あの世”−我々が高次の4次元世界と呼んでいる世界−の真の本質は、どんなものなのだろうか? その世界も何かの形の物質からできていることは、疑いない。そうでなければ、現実では有り得ないからである。