モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』⑥  ─ 死者達の奇妙な証言 

 死者達の奇妙な証言

 心霊術やその他の方法で死者と交流することに真剣な興味を抱く人達は、死者達が最も執拗に主張することの1つが、この世とあの世とには大きな違いはないということであるのを知っている。その世界はこの物質世界の複製で、ただ違うのは多くの点で遥かに優れていることだ、と死者達はしばしば描写してみせる。こうした奇妙な死者達の発言は、確かに興味深く、検討の価値がある。死者との交信が(少なくとも場合によっては)可能だとすれば、彼らが存在している世界が我々の世界とよく似ているという証言は、驚くには当たらない。なぜなら、物質世界はより高次の世界の一側面、ないし一横断面に過ぎないという仮説と、それは符合するからだ。
 
 だとすれば、“あの世”は必然的に違う形の物質、恐らく現在の我々には知覚できないが、普通の物質が我々にとってそうであるのと同じ位、彼らにとって現実である物質からできているに違いない。その点では、高次の『空間』に他の形の物質が存在してはならないという決まりはない。我々は高次の『空間』を支配する法則をほとんど知らず、物質世界では不可能、不合理と見えるものも、高次の『空間』ではまったく自然に起こり得ることかも知れないのだ。
 死者達のもう1つの証言、彼らの世界は我々のと同じぐらい現実だが、多くの点で遥かに優れているというのも、驚くべきものではない。彼らの世界には結局のところ、我々が物質世界で感じているような『時間』と『空間』の制約がないに違いない。それだけで、途方もなく大きな違いが出てくることになる。
 
死者達はまた、自分達はどこに行ったのでもなく、今でもここに我々とともにいるのだが、交信しようとしても中々うまく行かない、とも主張している。この主張もやはり驚くに当たらない。彼らの世界は違う形の物質でできているばかりでなく、目に見えぬ『時間』の壁で、我々の世界から隔てられていることを忘れてはならない。当然、両世界の間の交信は、少なくとも我々にとっては、大変困難になるだろう。その上正直言って、我々は死者のことをできるだけ早く忘れて、人生に新たな関心を見付けようと努力することも多い。だから、死者達が何度か交信しようとして失敗した後、やはりあきらめて、我々を忘れることにしたとしても、何の不思議もない。何といっても、彼らの世界は我々の世界よりずっと興味深いだろうから、寂しがることは何もないのだ。
 
 ここで、人間が死んで、急に自分が見も知らぬ別世界にいることに気付いた後、一体どうなるのかを考えてみるのもいいだろう。そんな事は考えるのも嫌だという人もいるだろうが、この問題は直接我々の身に関わることである。いずれ我々も皆、遅かれ早かれ、この運命の旅に出て、その世界へ行かねぱならないのだから。
 
 言う迄もなく、ほとんどの宗教は、不滅の魂が来世にも生き続けると保証して、我々の疑問に答え、ある種の慰めを与えようとしてくれる。そこでは、善良な者は天国で様々に報われ、邪悪な者は灼け付く地獄であらゆる責め苦の罰を受けることになっている。しかし、この古風で、いささか素朴なあの世の概念で満足できる人はそう多くはない。裏付けとなる確かな証拠がないのもさることながら、余りにも大昔の無知な人達に合わせて作られたお伽話じみて聞こえるからだ。しかし、広い目で見れぱ、この話にもいくらか真実は含まれているのかも知れない。
 確かに、我々のほとんどは死そのものを怖れてはいない。本当に心配なのは、あちら側にはどんな生活があるのか、とりわけそこで、我々がどんな存在となるのかということである。あの世の性質について、特にそこではどんな形の存在が可能なのか、我々はどれだけ知っているだろうか?正直言って、確信を持って言えることはほとんどない。我々にできるのは、心霊術や超常現象や、その他多少なりとも信頼できる方法によって得られた僅かぱかりの証拠から、想像を逞しくすることだけだ。

 

 よリ高次な死後の世界
 
 しかし、あの世がこの世と同じようだ(ただし、いろいろな点で優れている)という前提を認めるなら、その世界が多くの点で、我々の物質世界に似ており、我々より進んだ賢い人達によって我々同様知的な社会に組織されているという可能性も認めざるを得ない。もしそうだとすると、各個人やその世界にやって来る全ての人々の生活は、各人の長所や能力や欠点を考慮に入れたマスター・プランに従っていなくてはならない。当人の用意ができ次第、誰もが差別なく、自分にふさわしい有用な仕事に就くのではないかと考えられるだろう。その人にとっても誰にとっても、『時間』は存在し続けるが、その『時間』は異なる種類のもので、意味も違っているのだ。何らかの形の『時間』がなければこの世界も存在できないのだから、それ以外には考えられない。
 死んであの世へ行っただけで、人は誰でも急にそれまで持っていなかった知識や才能に恵まれると思っている向きもあるようだ。残念ながら、そのような楽観的仮説を裏付ける根拠はなく、多分皆、以前と同じような人間のままでいるものと思われる−ただ1つ大きな違いを除いては。より高次の世界は多くの点で我々の世界より優れているので、物質世界の人生では知らなかった色々な利点を享受するようになるだろうということである。



 
 時間空間と物質
 
 古い物理学はある種の確定した基盤の上に成り立っており、そこでは『時間』と『空間』の属性が大変限定されている。『時間』と『空間』は別々に調べ、計算することができる。つまり両者の間に直接の関係はないとされていた。その上、存在するもの全てに対してただ1つの『空間』しかなく、全てはこの『空間』の中で起こる。また、存在するもの全てに対してただ1つの『時間』しかなく、全てのものは同じ時間尺度で測れる。言い換えれぱ、宇宙全体どこで起きることも、ただ1つの基準で測れると考えられていたのだ。この考え方の基礎にあるのは、宇宙における法則統一性に関するアリストテレスの思想である。物理学とは、『空間』の中の物質とその物質の現象を研究する科学である。だが、物理学は定義された量と、便宜上定義の要らない既知の量とみなされる未知の量とで処理されている。ソ連のO・D・チウォルソン教授は1923年、その学術論文『物理学教本』のはし書きに次のように書いて、初めてこの明白な欠点を指摘した人だ。

「この感覚の根拠を客観化するとき、すなわち、この根拠を『空間』の内の特定の場所に移し変えるとき、この『空間』には我々が物質ないし実体と呼んでいる何かが含まれていると考える…‥物質という用語の使用は、かつては我々の触覚器官に多少なりとも直接的な影響を与えられる物質にのみ限られていたのだが。」

 言う迄もなくチウォルソン教授は、我々が触わったり感じたりできるもののみを物質とみなす考え方の欠点を、指摘したかっただけだ。このような古風な物質観では、もはや我々も満足できない。




 生命とは何か?
 
 今日では誰でも知っているように、触わったり感じたりできるものの他にも、別の形の物質が存在するし、『時間』と『空間』は当初思われていたような単純で関連性のない現象ではまったくない。それどころか、『時間』と高次の『空間』は、これまで我々が知った中で最も複雑な現象なのである。物質世界で知られているような物質は、2つのカテゴリーに分けられる。右機物と無機物である。有機物とは、全ての生命組織を構成している物質で、それ以外は全て無機物のカテゴリーに属する。有機物の形をとる物質は、4つの基本的元素、水素と酸素と炭素と窒素に、その他の元素が若干加わってできている。生命は常に有機物的物質に見られる。だが、これだけでは生命の本質を説明したとは言えない。この問題はこれまで誰も真相を究めていないので、我々も推測を述べる他ない。だが、生命が高次の現象で、そのため我々にとって理解しにくいのは、疑いないことだろう。生命はまた、運動である。と言って、全ての運動が生命ではない。 生物学者の立場からすれば、生命とはタンパク質、脂肪、炭水化物、ステロイド、リポイド、シクローゼ、水分から成る多相組織における動態的均衡に他ならない。
 
 確かに、推理や創造や判断の能力を持った人間も含め、生きている組織の中に生物学者が見付ける構成要素は、これで全部かも知れない。だが、その論法でいけぱ、レンブラントの名画もありふれた1枚のキャンバスに多種の彩色材料を塗った物、「美しく青きドナウ」は様々な振動数と強度の騒音が体系化されたものに過ぎないことになる。だが、この様な論理では、しばしば純粋に知的な秩序に属する、当の研究テーマの最も重要な部分を見落としてしまうのがオチだろう。


 


 4次元の証拠−対称性の原理

 運動と『時間』のない世界
 
 既に見たように、あらゆる物質は原子からでき、原子は電子や陽子や中性子など非常に小さな電荷からできている。原子はちょうどミニチュアの太陽系みたいなもので、中央の陽子と中性子から成る原子核の周りを、電子が猛スピードで廻っている。だが、我々はそれと同時に、電子や陽子や中性子の大きさと比べたら、原子の大部分は何もない空間であることを知っている。それはちょうど、地球と太陽や他の惑星、天空の星達を隔てている広大な何もない空間に似ている。
 もしもそれが事実なら、どうして物質はあれほど現実らしく実体を持って見えるのだろう。この謎はわけなく説明できる。原子から成る物質は、運動によって、その存在を我々の意識に気付かせるのだ。運動は、宇宙の最も基本的な法則の1つである。目に見えない原子から巨大な天体まで、あらゆるものが常に運動している。この運動は決して止まらない。
  
 論点を明らかにするために、何か途方もない事故のために、巨大な岩を構成している原子の内部の運動が静止してしまったと仮定しよう。万一そんなことが起きたら、巨大な岩全体が空に−すなわち無になる。なぜか? それは、物質としての印象、つまり、我々がその巨岩から受ける実体や質量の印象は、それを形成する原子内の電子が運動している結果に過ぎないからだ。しかし、運動には『時間』が必要である。『時間』がなけれぱ、運動はありえない。もし『時間』を取り去ったら、物質もなくなる。あまり小さな量は、人間には知覚できないからだ。だが、それ自体を知覚できなくとも、それが運動していれぱ、その軌道や、軌道の軌道を知覚することはできる。
 
 宇宙空間は我々から見れば空ろだが、もし『時間』と『運動』がなかったら、固体物質もそう見えるにちがいない。宇宙空間の場合、見かけが現実とは一致しないこと、空のあの煌めき輝く小さな光点達が現実には、猛スピードで宇宙を動いている巨大な天体だということを知っている。だが、もし全ての天体が軌道の途中で停止したら、それはたちまち視界から姿を消し、広い大空はただ暗黒の何もない空間となってしまうだろう。
 物質との関連でこの運動の現象をよく理解するために、大きな回転する円盤の上に強力な光源を1つ乗せたところを想像してみよう。この円盤を回転させ始め、段々スピードを増していくと、光源の旋回運動によって円盤の直径に等しい明るい光の輪ができる。だが、非常に遠くから見れぱ、この大きな高速で動いている光の輪は、我々の目には動かぬ小さな光と映るだろう、ちょうど星のように。もし円盤の運動を止めれぱ、その小さな光は急に視界から消えるだろう。
 
 天体同士の関係を図で表わすとすれぱ、互いに距離を置いた小さな円盤か点で表わすことになるだろう。だが我々は、それが実際には静止した点ではなく、それぞれ猛スピードでお互いに回転し合っていることを知っている。そこで、この運動の進路を図にすれぱ、太陽の進路を1本の直線で表わし、地球の進路をその直線に絡んだ螺旋、月の進路を地球の螺旋に絡んだ螺旋で表わすことができる。

 もし太陽系全体の縮尺模型を作ろうと思えは、太陽を表わす中央の直線に、全ての惑星と小惑星の進路を示す螺旋を絡め、各惑星の衛星群の進路を表わす螺旋をさらにその惑星の螺旋に絡めなくてはならない。そんな模型を作るのは至難の業だが、もしそれが出来たとすれば、ちょうど物質の小さな構成粒子を何倍にも拡大したものと瓜2つになるだろう。さらに、その太陽系の模型を顕徴鏡を必要とするサイズにまで縮小できたとすれば、それは物質世界で我々が知っている普通の物質と同じように、貫通できない物質に見えるだろう。
 物質世界で我々が知っている物質や実体は全て、この太陽系と同じような造りになっている。我々は電子や原子を静止した点として知覚することはできないが、複雑に絡みあったその運動の軌跡を知覚し、それが質量感を与えるのだ。

 以上のような考察から、幾つかの重要な結論が引き出せる。第1は『空間』が虚ろか満たされているかの感じは、我々がその『空間』に含まれる物質(あるいは物質の構成粒子)を知覚する次元次第である。第2に、我々が当の物質を知覚する次元は、我々の体と比較される当の物質の構成粒子の大きさ、我々とその物質との距離、その運動に対する我々の知覚次第である。この知覚もまた、その運動の速度と我々の知覚の程度によって左右される。
 これらの条件が揃ったところで、我々がさまざまな物質を知覚する次元が決定されるのだ。例えば、1つあるいはそれ以上の太陽と、その周囲の『空間』を恐るべき速度で駆けている惑星や衛星から成る太陽系全体でも、厖大な距離で我々から隔てられていれば、空の小さな動かぬ光点としか知覚されない。それか非常に微小なものになると、逆のことが言える。極々小さな電子群はとてつもないスピードで動いて、互いに入り組みあった線に変形し、それが我々の目に固くて貫通できない物質の印象をもたらす。これが物質世界のあらゆるものを構成している種類の普通の物質である。言い換えれば、我々の知る普通の物質は、電子群の運動の軌跡が作り出す細かな蜘蛛の巣から成っている。更に原子に含まれる電子の数によって、物質世界でお馴染みの様々な物質のタイプが決まるだ。
 
 しかし、物質の構造をより高い視点から見るとき、この構造には異なった等級があるという考え方が必要になる。ある種の物質が別種の物質の構成単位からできているとみなすのは、正しいとは言えない。現実に存在する物質が、単に原子や電子から成り立っていると断定するのは、誤っている。確かに電子や陽子や中性子から原子ができ、原子から分子が、分子から物質の構成粒子ができてはいるが、物体、特に生命体が単に原子からできているというのは、正確ではない。
 原子や分子は物質的粒子とは見なせない。実際、別の時空間秩序に属するのだ。原子は『空間』の単位というより、むしろ『時間』の単位なのである。例えぱ「メトロポリタン・オペラハウスの初日に著名な選ばれた原子たちが集まった」と表現したら、正確ではないどころか馬鹿げている。「ニューヨーク市の人口は厖大な数の原子から成っている」というのも同じである。どちらの場合も、対象になっている人間は原子の集積には違いないが、単にその集合というのではなく、もっと異なる、より高い秩序に属するもののはずである。

 
 
  絡み合った螺旋の世界

 以上のような物質や実体の定義を論理的で正しいと認めると、昔ながらの科学理論の全体に疑念が生じ、再検討の必要さえ出てくるだろう。まず真っ先に疑念が持たれるのは、有名な引力の法則である。物理学の定義によれぱ、引力とは2つの物体が互いに引き合う力で、両物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。物質や質量の古い概念に基づく世界では、ある種の現象を説明するのに引力が必要だった。
 だが、絡み合った螺旋の世界では引力は必要ないのだ。ここではっきりさせておくが、引力、つまり物体間の牽引力という現象は確かに存在する−ただし、別の原因から生じていると言いたいのだ。引力の現象といえぱ、有名なサー・アイザック・ニュートンとリンゴの物語にも見られるとおり、この理論(後には法則)が重さや落下の現象を観察することと密接な関わりを持っているのは面白い。だが、引力で説明される現象と重さの現象が、実は全く無関係な現象で、何の共通点もないとは、誰1人考え付かなかったのである。

 この一見驚くべき主張も、我々の目にしている太陽や月や星が、実は我々の目に見えない螺旋の断面に過ぎないということを念頭に置けば、それほど驚くべきものではなくなるだろう。これら全ての天体の断面は、引力の法則のためにそれぞれの螺旋から落ちないのではない。それは全く別の理由−リンゴの断面がリンゴから落ちられないのと同じ理由と法則のためなのだ。勿論、リンゴはまるで地球の中心をめがけるかのように地面に落ちる。だが、それは全く別の、我々にはほとんど判っていないある法則のために起こる−“対称性の法則”である。