モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

『4次元宇宙の謎』④−夢と4次元宇宙

 カラーの夢と白黒の夢

 夢は大変身近な現象で、大概の人々は個人的経験から、夢がしばしば不合理で、覚醒中の現実とほとんど無関係であることを知っている。勿論、夢の中にも、特に奇妙なものとそうでないものがある。だが、一番正常な夢でも、どこか、覚醒中の現実とは一致しないところがあるものだ。例えば、ある夢があらゆる点で正常に進展していても、我々が一歩別の部屋に入ると、そこは別の国だったり、人生の別の時代だったりする。奇妙なことに、我々はそれを少しも不思議に思わず、まるでごく当たり前のことのように受けとってしまう。
 目覚めた生活では我々は自分のために何かをするが、その逆に夢は何かが我々に起こることと定義される。これは事実に即している。ほとんどの夢の中で我々は、我々のために創り出された、必ずしも好みではない状況や苦境に置かれている不本意な参加者に過ぎない。我々は気が付くとそこにいる。そこはしばしば奇妙な場所だったり、危険な、あるいは馬鹿げた苦境だったりするが、我々はそれをどうすることもできず、夢が終わるまで能力の限りを尽くしてその役を演じるしかないのだ。

 誰でも自分の体験からご存じのように、夢は『時間』と『空間』の要素が覚醒中の生活と一致しないことを除けば、あらゆる点で現実そっくりにできている。夢の中で我々は、目覚めた生活で経験するのとまったく同じ感覚や感情を味わう。喜びを経験し、苦痛を感じ、食物を食べ、酒を飲み、全てが我々にとって現実のように思われる。出会う人々や動物、物事なども、目覚めた生活で出くわすものと寸分違わぬように見える。実際、夢の中では5感が重要な役割を果たさないということはあるものの、両者の違いを見つけるのはほとんど不可能に近いのだ。
 
 気が付いていない人が多いが、テレビや映画と同じように、我々の夢にも2つの種類がある−天然色の夢と、普通は灰色がかった単色の夢だ。天然色の夢の方が現実味は強いが、灰色の単調な夢よりは珍しく、常に短時間しか続かない。天然色の夢はほとんどどんな時間、どんな状況でも起こり得るが、普通は半覚醒の状態か眠りかけの時に起こる。天然色の夢はごく良質の天然色映画によく似ている。小さな町の雑踏する街角や静かな田園風景、居間の内部など、ほとんどどんなテーマでも扱うが、必ずと言ってよいほどまったく見覚えのない場所である。天然色の夢では、ほとんど人に会うことはないし、普通の夢のように自分が積極的に参加することもない。むしろ受身な観察者の役まわりで、どこか離れた中立地点からその光景を眺めているだけである。
 
 しかし、夢の大半は灰色一色の方で、そこでは自分が主人公を勤め、夢が終わるまで積極的に参加を続ける。覚醒中の体験は色とりどりなのに、なぜ我々の夢の大半には色彩がないのか。これは実に奇妙であり、恐らく大きな意味があるのだろう。どういう訳か、我々は灰色一色の夢もまったく正常に感じている。確かに、黒白の写真や映画やテレピも憤れてしまえぱ正常に見える。だが、それだけでは、なぜ夢の大半に色が付いていないかという説明にはならない。

 身体に障害のある人達、例えぱ、目や耳の不自由な人はどんな夢を見るのか。既に見たように、外部の物質世界に関する我々の概念は、ほとんど知覚器官−すなわち5感に依存している。そこで論理的には、1つないしそれ以上の感覚を利用できない身体障害者の夢は、やはりその欠陥の影響を受けるだろうとも考えられる。だが、必ずしもそうとは限らない。目や耳の不自由な人々を対象とした調査の結果、7年間以上視力を持っていて失明した人は、視覚的イメージを伴う正常な夢を経験する力を失っていないことが判った。言い換えれぱ、例えもう視力をなくしていても、夢は正常というわけだ。しかし、生まれつきの盲人やごく幼い時に視力を失った人の夢には、視覚的イメージが欠けている。幼時に視覚と聴覚をともに失った、あるいは生まれ付きそのような人では、夢も残された感覚の判断様式に制約されてしまうのだ。
 
 有名なヘレン・ケラーの言葉は、同じような身体障害者の夢について、基本的な解説を与えてくれる。「1度夢の中で、両手に真珠をひと粒持ったことがあります。私には本物の真珠の姿の記憶がありません。ですから、私が夢の中で見た真珠は、想像力の創り出したものに違いありません。それは滑らかで、見事に形作られた澄んだ結晶でした。…私の真珠は炎のひとしずく、ヴィロードの様に艶やかなコケの緑、ユリの花の柔かな白‥‥」

ケラー嬢が彼女の真珠を表現するのに、手に触れたと言わず、見たという言葉を使っているのは興味深い。また、緑のコケ、白いユリという表現で色を正しく使っているのも面白い。彼女が夢全般について語った言葉は、さらに多くの示唆に富んでいる。「私は目を覚ましている時と同じ位、匂いや味を感じます。でも、触覚はそれほど大きな役割を果たさなくなります。眠っている時、私はほとんど手探りしません。誰も手を引いてくれるわけではありません。混み合った街頭でさえ、私は1人で用が足せ、現実の生活では経験したことのない独立した感じを楽しむのです」(注:ケラーは2歳で視覚を失っている。)




 高次現象としての夢
 
 フロイトの時代から現代に至るまでの夢に関する重要な学説を検討すると、全体的に見て、そこには夢の現象を説明しようとする良心的な努力の跡が窺える。ただしそこでは、夢がより高次の現象であり、覚醒中に我々を支配しているのとは異なった法則に支配されている可能性を、すっかり見過ごしている。我々は経験的に、睡眠や夢の間は気懸かりや不安や心配から解放されることを知っている。だからこそ、深刻な心配や不安にさいなまれている人達に対しては、ベッドに入って心配事を忘れてしまいなさいと助言することが多いのだ。事実、強い鎮静剤を用いてそうすることが、彼らにとってはしばしば救いになる。
 
 夢の世界は目覚めている時とはまったく別の世界で、同じ物差しで測ることはできないのである。原則として夢のほとんどは、当面自分が一番気にかけ、興味を持っている事とは無関係で、まったく馴染みのない事に関係していることがよくある。目覚めた時の現実とは少しも関係のない見知らぬ人びと、見知らぬ場所、見知らぬ状況が、夢の中では普通に現われる。すっかり忘れてしまった人や場所など、今では少しも興味を惹かれぬものの方が、むしろよく夢に出てくる。ところが、一番興味をもっているものを夢に見ることは滅多にないものだ。
 
 外界の影響は、一般に考えられているほど夢を変形させはしない。例えば、隣の部屋で電話が大きな音でいつまでも鳴っていたとしても、我々の夢の性質には少しの影響もない。ただ、終いにはその音がうるさくなって目を覚ますというだけのことだ。飛び過ぎるジェット機、子供たちが遊んだり喧嘩したりする声、近所の火事など、みんな同じことである。私自身、何度も実験して確かめたことだが、我々が夢の性質にある程度以上影響を及ぼしたりコントロールしたりできるかどうかは、大いに疑わしい。催眠術を使ってこの目的を達したとしても、信頼できる証拠にはならない。催眠術に掛かってトランス状態にある人間は、正常な夢を見ない。極めて暗示に掛かり易く、心に植え付けられたほとんどどんな暗示でもすぐ受け容れてしまう異常な状態にあるというだけだ。
 
 我々は夢のテーマや性格を選べない。夢は高次の『空間』に存在する無数の状況や可能性の中から勝手に現れて来て、我々は他にどうしようもないので、全力を尽くして夢の中の役割を演じるだけなのだ。夢をより高次の現象と考えるのは、我々が目覚めている時と違って、夢は『時間』と『空間』の制約を受けないからである。つまり過去、現在、未来に分割された『時間』などというものは、夢には存在しないのだ。夢が、目を覚ましてから我々の論理に当てはめて説明し理解しようとすると馬鹿げて思えるのは、主にそのせいである。
 
 しかし、夢は我々がそう感じるほど馬鹿げてはいない。もっと夢をよく理解するために、忘れてはならぬことがある。我々が目覚めている時の現実は“現在時”という狭い範囲に限定されるので、その限界の外で起こり、我々の5感が普通のやり方で確認できないものは、何でもすぐに意識上の心から疑いの目で見られ、幻覚と決め付けられがちだということだ。夢や超常現象は、残念ながらその部類に属するのである。
 
 知性の発達の長い過程のどこかで、人間は自分を“現在時”に閉じ込めてしまったおかげで、今になって、自分を解放することがほとんど不可能なのに気付き出しているという訳だ。 何世紀もの間、“現在時”に頼り切っていたために、我々は『時間』について間違った概念を持つようになり、そこから連綿と続く誤った概念を導き出してきたのである。我々は『時間』や高次の『空間』について、最も基本的な事実さえ知らないが、それでも『時間』や『空間』を組み込んだ複雑な法則や仮説を作り上げ、それを科学や技術や個人生活の需要に応じさせる妨げにはならなかった。
 残念ながら、我々の知る『時間』や『空間』の概念は、物質世界の限られた必要を満たすのが精一杯という、ごく限定された意味しか持たない未熟な代物である。そのために、“現在時”という狭い限界の外や高次の『空間』で起きることは、我々に理解できず、混乱や警戒や苛立ちの原因を作っている。
 
 だが、我々の全知識の基盤となっている『時間』や『空間』の概念は、我々が常にそう考えてきたほど健全で不変なものだろうか? 他のことはさて置き、我々は“現在”だけが間題であると教えられてきた。“過去”と“未来”は我々の手の届かないところにあり、したがって我々にとっては存在しないに等しい。さらに、我々は一時に1つの場所にしか存在できず、ある場所から別の場所に移るには、速度と距離に応じてある程度の時間が掛かるとも教えられている。
 普段の日常生活と実用的な目的にはこれで正しく見えるし、我々は何も疑わずにそのまま受け容れてきた。しかし現実には、一見不変とも思える『時間』と『空間』の法則が、1度どころか繰り返し破られているのだ。我々はとかくそれに目をつぷり、無視しようとしたがるが、正真正銘の超常現象が起こる度に、我々の『時間』と『空間』の法則は破られているのである。しかも、ぽつんぽつんと僅かな例が散らぱっているのではない。あらゆるタイプの超常現象が、太古の時代から現在に至るまで、毎日のようにあちこちで起こり続けているのだ。

  我々がそれを止めることのできない理由は簡単明瞭である。超常現象というのは実は、高次の4次元世界の自然な表われであり、この4次元世界は我々が好むと好まざるとに拘らず、常に存在しているからだ。しかし、我々もまた1人の例外もなく『時間』と『空間』の法則を破っているのだ。それも毎晩眠りに就いて夢を見る時に。夢は、その動機付けが何であろうと、高次の現象である。なぜならそれは我々の『時間』や『空間』の法則に従っていないからだ。
 
 夢の中で、我々は“現在時(present moment)”に対する意識の集中から自分を解き放つ。過去と現在と未来とが溶け合って、1つの『時間』−真の『時間』を作り出す。我々がよく夢の中で既に死んだ人や過去に属する人に出会うのは、そのためである。夢の中で、彼らは生き生きと甦って現実の存在となる。同じ夢の中で、我々はまったく見知らぬ人々にも行き会うだろう。まだ会ったことのない、我々の未来に属する人々に。1つの夢の中で、既に死んだ過去に属する人々と、まだ生きている現在に属する人々、未来に属する未知の人々が、一緒になって現われることもよくある。それでも、彼らが一緒にいることには何の不自然さも感じられないのだ。
 
 誰もが体験的に知っているように、夢の中には物理的距離も存在しない。そんなものは少しも意味を持たず、我々はドアを開け、あるいは道を横切るだけで、別の街、別の国、人生の別の時期に運ばれるが、それでいて少しも奇異には感じない。それどころか、もはや存在しない場所を訪ねて、何年も昔の姿のままなのを知ることもある。我々はそこで、既に死んだ古い友達や知り合いに会い、当時はまだ生まれていなかった若い人達にも会う。それでも、我々は驚かない。高次の『空間』では、何でも起こり得るからだ。
 その夢を我々はただ頭で考えたり、白日夢を見ているだけなのではないことは、今更言う迄もあるまい。我々は現実にそこに居て、あらゆるものが目覚めた時の生活と変わらぬ位本物に見えるのだ。

 夢とその『4次元』との関わりについて書かれた代表的な本の1つにイギリスの哲学者J・W・ダンが1927年に発表した『時間の実験』がある。彼は夜中に目を覚ます度にすぐ夢を書き留め、朝になって整理するという方法で、自分の夢の入念な記録を作成し、夢の大部分は未来の出来事を予測する、言い換えれぱ未来に属するものであることを立証した。もちろん、ダンは我々の夢が4次元現象であることに気付いていたのだ。
 高次の4次元現象としての夢の重要な特性は、何と言っても、未来を予測する力だ。現在や過去について夢を見ることは、何も珍しいことではない。我々は現在をよく知っているし、過去についてはちゃんと記憶かあるのだから。しかし、夢の中で未来を知る、あるいは予測するとなると、そう簡単には片付かない。伝統的な科学は決してそのような可能性を認めず、どんな手段を使おうが、未来は予知予測できないというのが、最近まで科学の暗黙の原則だった。
 
 既に見たように、我々は誰でも眠って夢を見る度、自分の未来について何かを見ている。だか、残念なことに、我々は夢にそれほど注意を払わず、目覚めた後では大抵全部忘れてしまう。そんな状態では、我々が夢で見た自分の未来に属する多くの事に気付かずにいたとしても、驚くにはあたらない。しかし、例え夢を全て憶えていたとしても、全ての夢の中から未来に属する断片を探し出して分離するのは、客易なことではないだろう。夢の中には、確かに多くの未来の断片が含まれている。だが残念ながら、過去と現在と未来とが1つの夢の中に渾然一体となっているので、我々は未来に属する大切な部分をとかく見失いがちである。





 悪夢、反復性の夢、生々しい夢
 
 夢が記憶に与える印象の深さは、その性格や鮮明さと直接結びついている。普通、悪夢は長い間はっきりと憶えているものだが、それは我々の記憶に深い印象を残すためである。誰でも悪夢を恐れている。悪夢は睡眠中の圧迫感や息詰まる感じと、恐ろしい内容の夢、声を出すことも動くこともできない無力感が特徴である。普通は精神的にひどく興奮した状態や病気、あるいはその両方が組み合わさった時に生じる。悪夢も他の夢と同じく、その中に未来に関わるものを含んでいるだろうか、普通はそれを思い出すのもいやで、何もかも全部忘れてしまおうとするものだ。
 
 反復性の夢は極めて稀だが、いったん見たとなったら、大体一定の間隔を置いて繰り返し現われるという特徴だけからでも、忘れ難いものとならざるを得ない。最近、運河地帯で働く友人が、とても奇妙な性質の反復性の夢に悩まされていると打ち明けてくれた。夢の中で、彼はいつでも同じ人々のグループと出会う。全員赤の他人で、それというのも彼らは遠い過去、厳密に言うとアメリカの植民地時代初期に属する人達だからだ。友人はこの夢をどう説明していいか途方に暮れているという。自分でも指摘しているように、彼もまたその遠い昔に生きたことがあり、その連中と何らかの関係を持っていたとでも考える他あるまい。
 
 生々しい夢も極めて稀だが、運よく見たら、それは一生忘れられない夢になるだろう。そうした生々しい夢に比ぺたら、普通の夢などは退屈で生気のないものに感じられる。生々しい夢は、驚くほどの強烈さとこの世のものならぬ感じのために深い印象を与えずにはおかない。おかしな話だが、生々しい夢は現実よりもっと現実らしく見えることがよくある。恐らく、現実の生活にはそれに負けない程のものが見付からぬためだろう。
 私は何年も前に見た生々しい夢を、今でもはっきり思い出すことができる。それは古代ギリシャの寺院があるどこかの小さな島に自分が立っている、とても快い夢だった。特に何かが起きたというのではないが、この夢で忘れられないのは、その不思議な光景を包み込むような淡いグリーンの明るい光線と、平和な静けさだった。何もかもがこの世のものとは思えず、現実の生活にもこれと比べられる程のものは今だに見つからない。




 夢で未来を予知する

 誰でも僅かな忍耐と努力次第で、自分の夢を探究することができる。方法は簡単だ。自分の見た夢をできるだけ、とりわけ後で思い出して確かめやすい一風変わった出来事や細部を、心に刻んでおくように努める。そして夜中に目を覚ます度にすぐそれを書き留め、朝になってからそのための専用ノートに書き溜めるのである。その夢の目立つところを簡単に書くだけでいい。例えぱ「黒い犬に追い掛けられた」「赤い小型のセダンにぷつけられそうになった」「陪審員として呼ぴ出された」「ずっと昔に死んだ兄のトムが現われた」「男の子が私の失くした財布を見つけてくれた」など。しばらくこれを続けていると、まず最初に気付くのは、夢を覚えておく能力がどんどん向上することだ。
もっと大きなことがある。日付とともにノートに書き留めたことの多くが、余り遠くない未来に現実に起こるのを知って皆さんはきっと驚くだろう。