モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」世界救世教篇②

 ◎人間は全世界に存在するものの1つを尊び1つを卑しんではならない。1つを愛して1つを憎んではならない。1つを求めて1つを捨ててはならない。全ての尊厳性を覚り、全ての意義を知り、全ての必要性を認めねばならないのである。
 

 世の中に存在するものの全てに尊卑や愛憎の差別をしてはならないのであります。神の世界にはその様な差別は一切ないのであります。故に人間は世の中の善とか必要とか有意義とか薬とか益とかいう一方のものばかりを尊んで、悪とか不必要とか無意義とか毒とか害とかいう様な反対側の世界、マイナスの世界を卑しんではならないのであります。世の中に存在する相反する2つのものの中で一方丈を尊び一方丈を卑しんだり、一方丈を愛して一方丈を憎んだり、一方丈を求め大切にして一方丈を捨てる様なことをしてはならないのであります。全てのものが尊く、全てのものが何か存在の理由を有し、何か必要性があると覚らねばならないのであります。

 例えば地球人は金銀や宝石等を尊いと思い、土や水や空気や日光等の尊さを知らないのであります。成程経済的金銭的な面のみから見れば金銀や宝石類は非常に高価なものであるのに対して、空気も水も日光も無料で必要な丈使うことが出来るものであります。しかし金銀や宝石等が無くても私達は健康で幸福な人生を送ることは出来ますが、空気や水や日光が無くては生きては行けないのであります。金銀や宝石が幾ら高価なものであってもそれは人間の虚栄心を満足させる為にしか役立たないのであり、私達の健康や幸福を守って呉れるものではないのであります。空気や水や日光は殆ど無料で与えられているのであり、空気や水や日光までお金を出して買わねばならなくなれば私達の生活はどんなになるでありましょうか。私達は無料で恵み与えられている空気や水や日光の有難さをよく知らねばならないのであります。

 また人間は大自然に生存する無数の動物や植物のうち、直接人間の食料や衣料や建築材料等に利用できるものばかりを愛して大切にし、その反対に利用できないものや人間に害になる物を憎んだり追い払ったり絶滅させようとしたりします。例えば太古人類が牧畜を営むようになって以来、人間は肉食動物であるライオンや虎や狼等を害獣として滅ぼすように努力してきたのでありました。その結果、牛馬や羊等の家畜が増加し過ぎて山野の植物を食べ過ぎ、次第に植物が生育しなくなり、不毛の砂漠や荒地となった例は多いのであります。アフリカやアラビアやインドや中央アジアや中国等にはその様な人間の無知故に砂漠や荒地となった地方が多いと思われるのてあります。或いはマレイ半島に於いては虎や錦蛇を殺し過ぎてその結果野豚が大繁殖し、農作物に大きな害を及ぼして困ったという例があります。自然界で狼や虎等の肉食動物が居なくなれば羊や牛馬や鹿などが増加し過ぎて、彼等草食動物の食糧となる植物が喰べ尽されて充分生長出来なくなり大自然が荒廃して行くことはよく知られていることであります。アフリカではサハラ砂漠などが年々急速に周辺の緑を滅ぽして拡大し続けているということも、その原因は過度の牧畜に依って植物が生存出来なくなることが大きな理由の1つであろうと考えられるのであります。
 
 また虫の仲間ではかまきりや蜘蛛等はしばしば人間に嫌われてよく殺される虫でありますが、何れも農業の為には貴重な益虫であることもよく知られている事実であります。更にまた動物の死体を好んで食べる動物や鳥類は人間から特に嫌われたり卑しまれたりしていますが、それらの動物や鳥類が居なくなれば山野に動物の死体が累々と重なり無気味な世界となるでありましよう。ハイエナやハゲタカや烏等は死体を好んで食べることに依って自然の浄化の為に大きく役立っているのであります。しかし人間は彼等が死体を好んで食べる動物であるという理由で何となく嫌な気持ちを持ったり卑しんだりするのであります。また動物の糞や汚物に湧く蛆虫などは汚ないものと思って人間は非常に嫌がりますが、彼等もまた汚物を食べることに依って生きる歓びを得ているのであり、更に彼等自身はもっと大きな虫等の食物となることによって大自然を浄化し美化し生命の世界を繁栄させるために役立っているのであります。動物の糞や死体や汚物に湧くから蛆虫は汚ないと考えるのは人問の思い違いであります。糞や死体や汚物は決して美しいものでもなく見て快よいものでもないのであります。故に死体や糞や汚物を食べる動物や烏や虫達は汚物を無くして大自然を浄化し美化するために神から尊い使命を与えられて生まれて来ているのであります。
 
 人間の社会に於いても死者も出れば排泄物も沢山出来、塵や汚物も大量に出るのであります。それらの処理をしなけれぱ快適な生活を送ることは出来ないのであります。しかし多くの人々は死体や糞尿や汚物を作り出すことはあっても自分で処理をする人はいないのであります。皆が死体や糞尿や汚物を処理し環境を浄化することを、汚らわしく下品な嫌な仕事の様に思い、それらの仕事に従事する人々を軽蔑したり卑しんだりする傾向があります。しかし自然界では死体や糞や汚物を食べる動物や鳥や虫達は汚物を食べて大自然を浄化することに生きる歓びや幸福感を持って楽しく力一杯生きているのであります。故に私達は死体や糞や汚物を食べて生きている動物達を卑しんだり苛めたりしてはならないのであります。人間は猛獣であるという理由で憎んだり死体を食べているという理由で卑しんだり、糞や汚物に湧く虫であるという理由で汚らわしいと考えたりします。しかしそれは大きな誤りであり罪であります。彼等もまた自然の中に於いて尊い使命を果たすために生まれて来た神の子であり生きる歓びを与えられているのであり、人間は彼等の生きる権利や幸福を奪ってはならないのであります。
 
 或いは植物の世界に於いても食料にもならず、衣料にもならず、建築用材にもならず、燃料にもならないという木や草も沢山あります。また嫌な匂いがしたり、触れれば被れたり傷を付けたりする様な植物も沢山あります。しかしそれらの植物は人間の役に立たないという理由や、人間に嫌がられたり恐れられたりするという理由そのものの中に尊い存在の意義や必要性があると言わねばならないのであります。食糧になるものや衣料になるものや建材になるものや燃料になるもの等、様々なものがあるから私達の生活が成り立つ様に、食糧にも衣料にも建材にも燃料にもならない植物が沢山あるから森林や草原が滅亡しないで済んだのであります。全ての植物が動物の食料となり人間の役に立つものであったならぱ人間や動物の数が多く成り過ぎて植物が食べ尽され大自然は次第に荒廃して行くでありましよう。一見何の役にも立たないと考えられている動物や植物もまた大自然の生態系を維持するために大いに役立っているのであります。
 
 また田畑に草が生えると大抵の人々は作物の成長を妨げるとか肥料を横取りするとか考えて1本も残らず抜いてしまうことが多いものでありますが、ある種の草が生えている方が作物の生長が良い場合もあれば、雑草が一緒に生えているから作物が病虫害に犯されにくいという利点も案外に沢山あると言えるのであります。一般に自然界では1種類の植物や動物丈が広範囲に亘って生息しているという例は非常に少ないのであります。多くの動植物がそれぞれ助け合い協力し合って生活している場合が多いのであります。

 然るに1種類だけの植物が広い範囲に栽培せられるようになると植物同士や動物同士の助け合いとか協力関係が無くなり、ある種の病虫害が大発生することも多くなるのであります。故に畑の雑草や道端の雑草を見ると邪魔者扱いにして抜いて捨てることが必ずしも利益になるとは限らないのであります。また田畑に害虫が大発生して農作物に大きな被害を与えるのも、人間が自然の摂理に叛いた誤った方法で農業を営んでいるからであって、自然界では或る種の害虫が大発生して植物を全滅させるという様なことは先ず起り得ないのであります。山林で松喰虫が大発生したりするのは過去に人間が自然の生態系を破壊したからであると言えるのであります。木や草の芽や葉を食べる虫達も自然界では害虫と言って恐れたり僧んだりする程の大きな被害を及ぼすことは余り無かったのであります。人間が自然の摂理に叛いた牧畜業や農業を営む様になったから或る種の動物が特に害虫とか害鳥と呼ぱれる様になったのであって、本来は害虫というものは存在しなかったのであります。故に害虫というものは人間が作り出したものであって、本来は存在しないのであります。

 そうして害虫を殺せぱ農作物の被害が減少すると考えて、大量の殺虫剤を散布して害虫を殺そうとした結果、多くの益虫迄全滅させ更に残溜農薬のために人間の健康をも害することになり、その上害虫は農薬に耐性を持つ様になって農薬を使用しても容易に死なない様になり、その結果は生態系の破壊や土地の荒廃を激化させることになったりしたのであります。この様なことは人間が自分達の犯している誤りや罪を覚らず、害虫でないものを害虫にし憎しみの心を持って滅亡させようとしたために自らが招いた不幸や悲劇であると言わねばならないのであります。故に私達は人間の浅はかで愚かな智恵だけで判断して或る種の動物や植物丈を有益なものとして大切にし、他の動物や植物を無益なもの、有害なものと考えて嫌がったり殺そうとしたりしてはならないのであります。

  また私達は様々な物質を薬として用いますが、良く効くと言われる様な薬程、副作用が激しい場合が多いのであります。またその反面、毒と言われている物質でも極く少量を上手に使用すれぱ立派な薬になる場合もあります。今日、薬の副作用や害等が大きな社会問題となっていますがそれは当然のことであります。どれ程立派な薬も用い方を誤ったり、みだりに用いたりすれば必ず毒になるのであります。また毒物も工業のためには非常に有用な物質となることも多いのであり、水銀や青駿加里などの猛毒も塩酸や硫酸等の劇薬も産業のためには非常に有用であり無くてはならないものも多いのであります。故に私達は薬であるからといって何でも容易に尊重したり、毒物であるからと言って恐れたり嫌がったりするばかりではいけないのであります。薬を薬として有効に活用する様に努力すると共に毒物をも人間の利益や幸福のために役立てる様に努力して初めて薬と毒の差別なく、全てが尊い物質として人間の利益や幸福を増進させて呉れる様になるのであります。
 
 更に私達が日常生活に便利であるとか利益であると考えている物の中にも便利である反面に大きな弊害をもたらしているものも無数にあります。その反面に不便であるとか、不利益であると考えられている物の中にも人間の為に非常に役立っているものも多いのであります。プラスチックやビニールやナイロン等が腐敗したり酸化したりしないために非常に便利であると言われている反面、腐敗も酸化もしない為に何時迄経っても自然に還元せず、山野や河川や海等に捨てられて様々な弊害を起こしていることも事実であります。腐敗したり酸化したり変質したりすることは非常に不便であり不利益であると考えられている反面、腐敗や酸化や変質などの現象が起こらなければ困ることも非常に多いのであります。
 
 食物でも良く消化吸収される物が良い食物であると考えて過度に精製加工した結果は排泄が困難になり便秘になる人が多くなって様々な病気の原因となっているという様な事実も消化吸収のことばかり考えて排泄のことを無視した報いであると言わねぱならないのであります。農薬や食品添加物が非常に便利なものであると考えられている反面にその弊害もまた恐るべき大きなものであることを知らねぱならないのであります。化学肥料が農作物の収穫を一時的に増加させてきた反面に、農作物の品質が次第に低下したり、病虫害に対する抵抗力が弱くなったり地力を低下させたりして農地の荒廃を招いている事実もまた見逃すことはできないのであります。私達は一面の利益一面の便利さのみを追求して容易に新しいものを用いたり、一面の不便さや不利益のみを嫌って折角人間のために役立っているものを無視したり捨てたりしてはならないのであります。
 
 一面から見れば善であると思えるものが他の面から見れば悪であり、一面から見れば必要であると思われるものも他の面から見れば不必要であり、一面から見れば有意義であると思われるものが他の面から見れば無意義であり、一面から見れば薬と思われるものも他の面から見れば毒であり、一面から見れば有益と思われるものも他の面から見れば有害であるものも多いのであります。その反対に私達が悪と思っていたものが本当は善であったり、不必要であると思っていたものが本当は必要なものであったり、無意義であると思っていたものが本当は有意義であったり、毒と思われていたものも本当は薬であったり、有害であると思っていたものが本当は有益であったという様な場合も非常に多いのであります。故に私達は人間の愚かな智恵で判断を下すことをやめて、神の心になって全てのものの真実を見窮め全ての尊いことを覚り、全てを人間のために役立てる様に心掛けねばならないのであります。

 

 
 ◎愛する者は愛され憎む者は憎まれる。尊ぶ者は尊ばれ卑しむ者は卑しまれる。信ずる者は信じられ疑う者は疑われる。求める者は求められ追う者は追われる。それが永遠に変わることのない神の世界の掟である。
 
 他人を愛する人は他人からも愛され、他人を憎む人は他人からも憎まれます。他人を尊ぶ人は他人からも尊ばれ、他人を卑しむ人は他人からも卑しまれます。他人を信ずる人は他人からも信じられ、他人を疑う人は他人からも疑われます。他人を求める人は他人からも求められ、他人を追おうとする人は他人からも追われるのであります。愛さなければ愛されることもなく、憎まなければ憎まれることもないのであります。尊ばなけれぱ尊ばれることもなく卑しまなければ卑しまれることもないのであります。信じなければ信じられることもなく、疑わなければ疑われることもないのであります。求めなければ求められることもなく、追わなければ追われることもないのであります。

 1人を愛して1人を憎めば1人からは愛されても1人からは憎まれるのであります。1人を尊んで1人を卑しめば1人からは尊ばれても1人から卑しまれるでありましよう。1人を信じて1人を疑えば1人からは信じられても1人からは疑われるでありましよう。1人を求めて1人を追えぱ1人からは求められても1人からは追われるでありましょう。全てを愛する人は全てから愛され全てを憎む人は全てから憎まれます。全てを尊ぷ人は全てから尊ばれ、全てを卑しむ人は全てから卑しまれます。全てを信ずる人は全てから信じられ、全てを疑う人は全てから疑われます。全てを求める人は全てから求められ全てを追う人は全てから追われます。それが永遠に変わることのない神の世界の掟であり宇宙の法則であり大自然の摂理なのであります。

 神を信ずる人は神からも信じられ、神を尊ぶ人は神からも尊ばれるのであります。神を疑う人は神からも疑はれ神を卑しむ人は神からも卑しまれるのであります。黒住教祖は「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」と詠んでいますが、真に人の心は己が姿を写す鏡であります。自己の心が他人の心にそのまま写ると言えるのであります。1つの神を尊んでも他の神を卑しむならば1つの神からは尊ばれても他の神からは卑しまれるのであります。1つの宗教を信じて他の全ての宗教を否定するならば、1つの宗数の真理は得られても他の全ての宗教の真理を得ることは出来ないのであります。
 
 全てを愛し、全てを尊び、全てを信じ、全てを受け入れる人のみが、全てから愛され、全てから尊ばれ、全てから信じられ、全てから受け入れられるのであります。世の中のことの全てが自己の心に応じてそれに相応しいものとして現われて来るのであります。神を信じ尊ぶ人は自己の心が神の心となるのであり、悪魔を信じ尊ぶ人は自己の心が悪魔の心となるのであります。故に自己の心が神となれば周囲に存在するものも神となり、自己の心が悪魔となれば周囲に存在するものも悪魔となるのであります。しかし憎む者には憎しみを以って答え、卑しむ者には卑しむ心を以って答え、疑う者には疑いを以って答え、拒絶する者には拒絶を以って答えていては永遠に憎しみや対立の不幸が無くなることはないのであります。愛することの出来ない者をも愛し、尊ぶことを知らない者をも尊び、信ずることの出来ない者をも信じ、受け容れることを知らない者をも受け容れようと努力することが、正邪善悪恩讐愛憎を超越した大きな愛であり、全てを愛し、全てを尊び、全てを信じ、全てを受け容れて、全てを活かすことの出来る道なのであります。

 
 
 
◎人間がその真理を覚り、正しい人間になろうと努力する時、初めて人間自身が神となり仏となることの出来る道を得るのであり、また人間の社会がそのまま美しく尊く清く楽しき神の世界、仏の世界となり得るのである。
 
 人間にとって大宇宙の真理を悟ることほど素晴らしい事は無く、これほど大きな歓びはないのであります。大宇宙は虚無の世界ではなく実在の世界であり永遠に不滅の世界であります。そうして大宇宙に存在するものの全てが尊く、全てが有意義であり、全てが有用なのであります。大宇宙は何という偉大な世界でありましょうか。そうして大宇宙の真理もまた何と偉大であることでありましょうか。そうして全てを愛し、全てを尊び、全てを信じ、全てを求め受け容れることが出来るということは何という有難いことでありましょうか。そうして更に、全てから愛され、全てから尊ばれ、全てから信じられ、全てから求められるということは何という幸福なことでありましょうか。この偉大な真理を悟り、全てを愛し、全てを尊び、全てを信じ、全てを求め、全てを活かし、全てと共存共栄を図るように心掛ける時、人間の社会がそのまま神の世界、仏の世界、地上天国とも言うべき美しく尊く清らかで楽しい理想の世界となり得るのであります。
 
 世界救世教は言わばマイナスの世界の教えを説く宗教であると言えるのであります。その点で金光教キリスト教に通ずる面もあると言えるのであります。私が金光教から得たものは、人間が神を卑しんだり疎かにするから神の怒りに触れ、様々な災難を受けねぱならないのであり、悪魔邪神は本来は存在せず、人間が悪魔邪神を作って自ら苦しんでいるのだということであった様に、世界救世教に於いて得たものも、人間が宇宙に存在するものの中の或るものを憎んだり卑しんだり疑ったり拒否しようとするから人間の心の反映で、人間もまた僧まれたり卑しめられたり疑はれたり拒否されたりするのだということでありました。
 
 それは世界救世教が自然食や自然農法を説き、薬害を説いているのをそのまま裏付けするものであります。人間が大自然の摂理法則を守って正しい生活を送るならば病気になることはないのであり、病原菌を恐れる必要もないのであります。そうして誤った生活を改めないで病気を治すことは出来ないのであり、薬は病状を一時的に抑えることは出来ても、病気を完治させるとか、病気の原因そのものを消滅させるものではなく、よく効くと言われる薬程薬害とか副作用が大きいということも事実なのであります。そうして人間の様々な災難や不幸も人間がその原因を作るのであり、人間の心の反映そのものであるということであります。世界救世教では浄霊という事を重要な事としています。自らの心を浄化しなけれぱならないことは確かであります。しかし宇宙の真理を覚り実践しなければ自己の心の浄化は図れないのであり、世界救世教の浄霊の如く、手をかざして信者の心を浄化することは出来ないのであります。