モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」世界救世教篇①  ー 森羅万象は悉く尊い存在である ー

「佛智の光」
 
 大宇宙は全て存在の世界である。大宇宙に存在する全てのものは等しく尊い存在の意義と必要性を有するのである。愚かな人間の目には善と悪、必要と不必要、有意義と無意義、薬と毒、益と害とがある様に見えるけれども、神の世界に於いては善も悪もなく、必要も不必要もなく、有意義と無意義もなく、薬も毒もなく、益も害もなく、森羅万象悉く尊い存在の意義と必要性を持ち一切万物全て絶対平等無差別の世界なのである。故に人間は全世界に存在するものの1つを尊び1つを卑しんではならない。1つを愛して1つを憎んではならない。1つを求めて1つを捨ててはならない。全ての尊厳性を覚り、全ての意義を知り、全ての必要性を認めねばならないのである。

 愛する者は愛され憎む者は憎まれる。尊べば尊ばれ卑しむ者は卑しまれる。信ずる者は信じられ、疑う者は疑われ、求める者は求められ、追う者は追われる。それが永遠に変わることのない神の世界の掟である。人間がその真理を覚り、正しい人間になろうと努力する時、初めて人間自身が生きて神となり仏となることの出来る道を得るのであり、また人間の社会がそのまま美しく尊く清く楽しき神の世界、仏の世界となり得るのである。                                                                                           昭和41年7月10日


 此の文章は世界救世教の信者であり、私の妻の知人であった江尻清野さんという方から世界救世教の御神書其の他多くの書物をお借りして勉強していた時、神よりの霊感を得て作ったものであります。私は少年時代からずっと農業には特別に深い関心を持ち山を開墾して農業の研究に打ち込んだことがありました。その様なことから自然農法に就いて関心があり世界救世教を通じて自然農法や自然食に関する新しい知識を得る機会を得たものであります。私は、世界救世教を通じて化学肥料や農薬の害、薬の害、食品添加物の害等を知り食生活の改革を図る端緒を得たのであります。私達が本当に正しい食生活を実行すれば殆どの病気に罹る可能性も無くなり、また誤った食生活によって罹った多くの病気も正しい食生活に還ることによって医者や薬に頼る必要も無く治るという事実を知ったことは非常に大きな収穫でありました。そうしてその頃から私は食生活に自然食を実行するようになり、更に積極的に玄米食や菜食主義の実行に移るようになったのであります。

 しかし世界救世教では農薬や化学肥料の害を説いてはいても、自然農法としては決して優れた理論とは言えず、食品添加物の害は説いていても正しい食生活の理論がないことを知って私は更に玄米菜食主義や食養について新しい研究をする様になったのであります。しかし世界救世教を学んで以来、私は薬を飲んだり注射を打ったりすることは全く止めて自分で健康を守る努カをすることが出来る様になったことが何より大きなお蔭であったと思うのであります。現実に世界救世教の信者の人々でも病気で困っている人も多いと思います。また病気になっても医者や薬を拒否して死んだという人も可也居るのであります。その点私は病気に罹らない様に努力しているお蔭で薬には縁のない生活が出来るのであります。自然食にしても自然農法にしても世界救世教の教えの中には素晴らしいものがありますが、その理論が教団内部や信者の人々の間で必ずしも充分活かされていないと私は感じるのであります。それは教義そのものにも不完全な部分や矛盾もありますが、信者の人々が正しい教えをよく実践しているとは限らないことを私は感じるのであります。自然食や自然農法を本当に活かし切ることが出来るなら非常に素晴らしい結果が得られると思います。しかしその為には教団や信者の人がもっと研究心をもって教義の中に含まれた矛盾を改め、不完全な部分を更に完全なものにする様努力すべきだと思います。
 
 
 
 次にこの「佛智の光」という詞について解説したいと思います。

 
 ◎大宇宙は全て存在の世界である。大宇宙に存在する全てのものは等しく尊い存在の意義と必要性を有するのである。

 宇宙は全て存在の世界であります。故に宇宙には非存在の世界は何処にもないのであります。宇宙は時間的には悠遠の過去から永遠の未来迄存在し続けるのであり、距離的には宇宙の如何なる場所も如何なる方角も如何なる遠くの場所も全て存在の世界なのであります。そうして永遠に無限の彼方迄存在し続ける大宇宙の中に存在する全てのものは等しく尊い存在の意義と必要性を有していることを私達は覚らねばならないのであります。例え其れが如何なるものであろうとも全ては神が創造せられたものであり、存在するものには存在する丈の正当な理由があり存在の意義が有るのであって、其れが存在するための存在理由も存在の必要性も意義も無くて、ただ莫然と無意味に無目的に存在しているものは何も無いのであります。
 

 
 ◎愚かな人間の目には善と悪、必要と不必要、有意義と無意義、薬と毒、益と害とがある様に見えるけれども神の世界に於いては善と悪もなく、必要も不必要もなく、有意義と無意義もなく、薬も毒もなく、益も害もなく、森羅万象悉く尊い存在の意義と必要性を持ち一切万物全て絶対平等無差別の世界なのである。
 
 
 人間はしばしば大自然の中に存在するものの或るものを、これは善である、これは悪であると差別しますが、神の世界には本来善と悪の差別はなかったのであります。例えば野生動物の世界では食物の奪い合いをすることがよくありますが、食物の横取りをすることは別段罪にはならないのであります。人間の場合でも、本来なら他人の物を横取りしたり盗んだりする様なことは犯罪ではなかったと言えるのであります。また騙したり誤魔化したりすることも犯罪ではないのであります。何故野生動物の世界では殺したり騙したり盗んだりするのが罪にならないかと言うと、全てが自由であり平等であるからであります。動物達は生きる為に弱い者を殺して食べ、生きる為に他のものを奪い、生きる為に偽態や保護色で敵を騙したり誤魔化したりするのであって、彼等には何の特権もなく、必要以上に殺したり、盗んだり、騙したりする様なことがないのであります。しかし人間の社会では特権を持ち自分丈の利益や幸福や平和や安全を確保しようとする人が多いのであります。必要以上に広い領地を持ったり、必要以上に多くの食物を摂ったりすることは野生動物の世界にはないことであります。自己が生きて行ける丈の縄張りを支配し、自己が生きて行くに必要な丈を食べて満足しているのが野生の動物の世界であります。故に野生動物達の行為は神が許された行為であって一切罪にはならないのであります。
 
 しかし人間は大自然の摂理に反して必要以上の領土を持ち、必要以上の財産を蓄え、必要以上に権力を求め、必要以上の我がままや贅沢をするから罪になるのであります。虎やライオンが草食動物を殺して食べるのは正当な行為であって犯罪ではないのであります。野生動物達は自己が生活するために必要な広さの縄張りしか持ちません。然るに人間は自己が生活するに必要な広さ以上の土地を占有しようとするのであります。その為に罪になるのであります。即ち神が正等と認められる以上のものを求めようとすることは全て罪であり悪であります。故に巨万の富を所有する人が泥棒に財産を盗まれた場合、盗まれたのが当然であり盗んだ者が悪人とは言えないのであります。大自然に於いては必要以上に沢山の物を持つことは許されていないのでありますから、持たざる者が持てる者から奪うのは正当な行為であり、盗みの罪にはならないのであります。およそ善悪というのは人間の社会に丈存在するのであって神の世界や動植物の世界にはないのであります。
 
 また必要と不必要にしても人間が自分勝手に必要、不必要だとか言って差別している丈であって、真理を覚った目で見れば人間が必要だと信じているものの中にも不必要なものが沢山あり、不必要だと思っているものの中にも必要なものが沢山あるのであります。また人間に不必要なものであっても動物・植物のためには必要なものも多く、神の世界に於いては必要不必要の区別はないのであります。また宇宙に存在する或るものは神が特別の目的を以って創造せられ、他のものは何の目的もなく創造せられたという訳でもないのであり、従って有意義なものや無意義なものという区別は一切存在しないのであります。また自然界には人間には薬になるものもあれば毒になるものもありますけれども、薬も用い方を誤れぱ毒になり毒も上手に用いれぱ薬になる場合もしばしばあります。人間の心の持ち方や用い方次第で薬も毒となり毒も薬ともなるのであって、神の前には薬と毒の区別は存在しないのであります。
 
 また人間の目から見れぱ益になると思われるものや害になると思われるものも沢山ありますが、真理を覚った目で見れぱ益と害、得と損という区別は存在しないのであります。例えば、自然界では人間にとって益虫とか益鳥と呼ぱれる動物と害虫とか害鳥と呼ぱれる動物との区別がありますが、人間中心の狭い心で見ることをやめて、大自然の摂理という広い視野に立って物を見る時、全ての生物は生命の世界の繁栄のために尊い使命や役割を有していることが判るのであり、益虫と害虫といった区別は存在しないことが判るのであります。病原菌も毒虫・毒蛇・毒草も人間や動物達を殺したり滅亡させたりする目的で生まれて来ているのではなく、生物界の均衡を保つために存在しているのであります。病原菌も毒虫も毒蛇も自然界に於いては大切な役割を果たしているのであります。
 
 森羅万象の全て、即ち大自然に存在する全てのものが、善と悪、必要と不必要、有意義と無意義、薬と毒、益と害という様な差別を超越して尊い存在の意義と必要性を有しているのであり、従って万物の全ては絶対的に平等であり無差別の世界なのであるにも拘わらず、人間が愚かであるために人間中心、自己中心で自分に都合の良いことばかり考えて、差別すべきでないものに差別をしているのであります。