モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」神の摂理篇②

 ◎統合することも必要であり分割することも必要である。
 
 私達は様々なものを統合することもあり分割することもあります。統合するということは全体を重視するということであり、分割するということは部分を重視するということでもあります。例えば政治に於ける全体主義は国民全体の利益や幸福を守ろうとするものであり、個人主義は個人の自由や利益や幸福を守ろうとするものであります。しかし全体の利益や幸福ということは社会を構成する全ての個入の利益や幸福でなけれぱならないにも拘わらず、ソヴィエトや東欧諸国や中国等の共産主義国では全国民の平等や利益や幸福が約束せられている訳ではなく、一部の特権階級の人々は優遇せられて豊かな生活や自由を楽しんでいる反面、多くの民衆は自由を束縛され貧しい生活を強制されていると言えます。この様なことは共産主義世界の全体主義が全体の利益や幸福を約束する正しい政治ではないことを証明しているのであります。

 しかしアメリカやヨーロッパ諸国などの個人主義自由主義も決して正しいものではないのであります。個人の自由や利益や幸福は社会に存在する全ての個人即ち全体の自由や利益や幸福でなければならないにも拘わらず、社会の中の少数の個人ぱかりが巨万の富を占有し特権を与えられており、その半面に多くの個人が貧しく不幸な生活を送っているのであって、この様な事実はアメリカやヨーロッパの自由主義個人主義が全ての個人の自由や利益や幸福を約束するものではなく、一部の少数の個人の自由や利益や幸福の為に悪用されていることを証明しているのであります。全体とは社会の全ての個人のことであり、個人とは社会の全ての個人即ち全体のことでなければならないのであって、全体的な立場から個人の幸福を考えるか、個人的な立場から全体の幸福を考えるかという丈の相違であって、理想とする処は同じでなければならないのであります。全体を重視しながら個人のことを忘れず、個人を重視しながら全体のことを忘れないように心掛けるならば全体主義であろうと個人主義であろうと同じことになるのであります。
 
 さて西洋人たちは学問を次々と分割して狭い範囲の専門の分野を深く研究しようとする傾向が強く、東洋人達は学問を全体的に考えようとする傾向が強いといえます。東洋医学と西洋医学を比較してみると強くその事を感じるのであります。漢方では身体全体の機能の回復とか増進ということを重視しているのに対して西洋医学では身体の局部即ち病気の部分だけを重点的に治療しようとするものであります。ではどちらが優れているかというと一長一短であると言えます。例えば、ヴィタミンBの欠乏が脚気の原因であるとか、ヴィタミンCの欠乏が壊血病の原因であるとかヴィタミンAの欠乏が夜盲症の原因であるという様な知識は学問を分割して専門分野を深く研究しようとする西洋医学のお蔭で得られたものであり、各種の栄養素の過不足と病気の関係が判ったのも西洋の科学の成果であると言えるのであります。その点各種の薬草を配合して身体全体の健康増進を図ろうとする漢法医学では全体的に大まかな知識は得られても部分的に詳しいことは判らないのであります。その点に漢法医学の短所があると言えます。
 
 真理というものは全体像が大雑把に掴めていればそれで良いというものでもなければ、部分のこと丈詳しく知っていれば全体のことは判らなくても良いと言えるものでもないのであります。全体像が大まかに判った丈では真理を覚ることは出来ないのであります。しかし一部分をいくら深く究めても他の部分との関係や全体像が余り掴めなければ折角の知識が活かされないのであります。各部分部分を詳しく知ってしかもそれぞれの繋がりや全体像を掴んで初めて真理を知り、役立てることが出来るのであります。故に漢方医学は西洋医学に学ぶべき点も多く、西洋医学漢方医学に学ぶべき点が多いと言えるのであります。
 また企業や組織にしても同じことが言えるのであります。全体を多くの部分に分け、専門の部や課を設けて役割や責任の分担を明らかにすることが混乱を避け能率を向上させる基になるのであります。しかし各部課が縄張り争いをしたり、他の部課との協力が円滑に進まなければ組織の正しい運営や発展は望めないのであります。故に分割することも必要でありますが、各部分を常に統合し有機的に一体化し全体が1つの意志のもとに運営される様にしなければならないのであります。

 

 
  ◎建設することも必要であり破壊することも必要である。
 
 新しいものを建設するために古いものを破壊し、より優れたものを建設するために粗雑なものを破壊するということは常に行なわれていることであり正しいことであります。しかし建設するために破壊するのであって、破壊するために建設するのではないのであります。また立派なものを破壊して粗雑な物を建設するというのも誤りであります。建設は主であり破壊は従であります。建設も破壊も共に必要でありながら、建設は破壊より尊いのであります。しかし人間はしばしば立派な大自然の環境や美を破壊して、自然よりも遥かに劣った人工の環境や美を建設しているのであります。それは真に憂慮すべきことであります。劣悪な建設は破壊よりも遥かに多くの損害を与え多くの不幸や悲劇を招く元であります。また単なる趣味や気まぐれで次々と新しい物を建設したり創造したりすることは非常に危険であると言わねばならないのであります。また破壊することに楽しみや興味を持つということは大きな罪なのであります。




 ◎進むことも必要であり退くことも必要である。
 
 人生とは生きることであり、生きて行くということは正しい目標、高い理想を目指して前進することであります。人間は一生を通じて修行を続け進歩向上を目指して前進を続けねばならないのであります。しかし人間はよく誤った道へ迷い込むことがあります。その様な時には思い悩むことなく出発点へ引き返すべきであります。そうして正しい道へ向って再出発すべきであります。誤った道に長く留まる程、或いは正しい道へ向かって再出発することを長くためらう程大きな損失となり不幸となるのであります。世の中には絶対に敵に後を見せないとか後退はしないとかいう主義の人がいますがそれは誤っているのであります。誤った方向へ進んでいると気付いたならぱためらうことなく元の道へ引き返し再出発することであります。退くということは後退するということが目的ではなく、誤った方向へ進むことを止めて正しい方向へ向かって前進することが目的なのであります。故に後退だけして正しい道へ再出発しなければ何にもならないのであります。



 
 ◎健康であることが素晴らしいように病むことも素晴らしいのである。
 
 健康であるということは幸福なことであり素晴らしいことであります。しかし病気になるということは決して楽しい事でもなければ幸福な事でもないのであります。しかし人間が生きていく為には大自然の摂理や法則を覚らねばならないにも拘らず、地球人類は大自然の摂理を充分に覚ってはいないのであります。その為に知らず知らずの裡に大自然の摂理に反した生活を送り、その結果として様々な病気にかかったり事故災難に遭ったりして不幸になるのであります。故に健康で幸福な生活を送っているということは大自然の摂理に従った正しい生活を送っているということであり、病気や事故災難に遭って不幸な生活を送っているということは大自然の摂理に反した誤った生活を送っているという警告であると言えるのであります。故に病気や災難に遭ったことを悲しんだりばかりしたり絶望したりすることは誤っているのであります。病気や災難に遭ったならば、これは自分が自然の法則に反した誤った生活を送っていることに対する神の警告であるということを卒直に覚って反省し誤った生活を改めさえすれば必ず病気も治り、幸福になれるのであります。故に病気や災難に遭っても自己の誤りを認めず、反省しようとも改めようともしないのは誤りであり、徒に悩んだり悲しんだり絶望したりするのも誤りであります。誤った生活を反省し改め正しい生活を実践すれば健康になり幸福になれるのであります。



 
 ◎覚ることが素晴らしい様に迷うことも素晴らしいのである。
 
 真理を覚ることは真に素晴らしいことであります。しかし誰でもすぐ簡単に真理を覚れるというものではないのであります。何が正しいのか判らずに迷うこともあれば、誤ったことを正しいと信じて様々な失敗をしたり不幸になったりすることもあります。その様な迷いや誤りや失敗を体験し乍ら次第に真理を覚って賢明になって行くのであります。自分で学び自分で修行し自分で迷い自分で失敗を体験したりしながら真理を覚っていく処に素晴らしい学問の歓びや修行の歓びがあると言わねばならないのであります。人生には迷うことはしばしばあります。しかしその迷いを通じて真理を探究し賢明になり幸福になり進歩向上して行くのであり、其処に真理を探究する者の最大の歓びがあると言えるのであります。



 
 ◎解脱が素晴らしい様に苦悩も素晴らしいのである。
 
 人間にとって様々な悩みや迷いや苦しみから解放されることは真に素晴らしいことであります。しかし解脱の歓びは苦悩があるからであると言えるのであります。様々な煩悩に苦しめられ乍ら真理を求めて修行を続けた後に真理を覚り、煩悩の炎を消し去って清々しい解脱の境地に到達出来ることは非常に大きな歓びなのであります。苦悩や迷いというものが全くなければ解脱の歓びはないとも言えるのであります。正と邪、善と悪、プラスとマイナス、真と偽、絶対と相対、実相と真如という様な二元の世界の中に真理を求め修行するからこそ様々な迷いや悩みや苦しみを体験しなければならないのであり、長い苦しみの末に正邪善悪もプラスマイナスも真偽も絶対と相対も実相と真如も全てを超越し得た時何ものにも囚われず、何ものにも束縛されず、何物にも拘らない自由自在の解脱の境地に到達出来るのであります。



 
 ◎歓ぶことが素晴らしい様に悲しむことも素晴らしいのである。
 
 人生にとって死や別れは当然起こるべきことではありますが、肉親の死に接すれば悲しいと思い、肉親や親しい友と別れねばならないことは悲しいのが真実なのであります。別れを惜しみ悲しむのも美しく自然な人間の情なのであります。しかし悲しみの中にも新しい歓びを見出だし、様々な悲しみがあるからこそ様々な歓びがあることを覚って悲しみを乗り越えて明るく楽しく生きて行こうと努力する処に本当の歓びに満ちた人生があると言えるのであります。



 
 ◎豊かであることが素晴らしい様に貧しいことも素晴らしいのである。
 
 豊かな富に恵まれて何不自由なく楽しい生活を送ることが出来れば幸福であります。そうして生活に必要な丈の金銭も財産も充分得られず何時も不自由な貧しい生活を送らねばならないことは不幸なことであります。しかし生まれながらにして巨万の富を与えられ豊かな生活に慣れて来た人は富の本当の尊さや有難さを知ることが出来ず、富に感謝することや富を大切にすることや富を活かして用いることを知らない場合が多いのであります。それらの人々にとっては巨万の富を他人に誇ることは出来ても富を消費することの本当の歓びを覚ることは出来ないのであります。そうして例え貧しくても、一生懸命働いて得た僅かな富を大切にし、僅かな富でも与えられたことを神に感謝し、与えられたものに満足し、それを消費させて頂くことに喜びを感じ、富を自他の利益や幸福のために有効に役立てようと心掛けることは素晴らしい修行なのであり、その様な人は本当は豊かで幸福な人であると言えるのであります。

 そうして巨万の富を所有しても富の有難さ尊さを知らず、、富を消費する歓びを知らず、富を自他の利益や幸福の為に活かして用いることを知らず、富を持つことを感謝することも満足することも知らず、徒らに巨万の富を死蔵したり、無駄遣いしたり他人を不幸にするようなことに使用したりすることは愚かなことであり不幸なことであり罪なことであります。豊かであるか貧しいかということは所有する財産の多少によって決めるべきことではないのであります。富を持つことを感謝し与えられたものに満足し、富を消費することに喜びを感じ、富を大切にして自他の利益や幸福の為に活かして用い、何時も楽しく幸福に暮らすことの出来る人は賢明で高級な人であり豊かな人であります。如何に巨万の富を所有していても、富を持つことを感謝せず、満足することも出来ず、富を消費する歓びを知らず、富を自他の為に活かして用いることを知らず、巨万の富を空しく死蔵したり、無駄遣いしたり他人を不幸にする為に用いたりする人は、低級で愚かで貧しい人であると言わねぱならないのであります。豊かな富を所有しても富を持つことを誇らず、富を無駄使いせず、富を大切にして世の為人の為に役立てることの出来る人は本当に賢明で高級で豊かで幸福な人であると言えるのであります。



 
 
 ◎博識であることが素晴らしい様に無知であることも素晴らしいのである。
 
 豊富な知識を持っているということは確かに素晴らしいことであると言えます。しかし自己が持っている知識が正しいものでなく邪悪なものや低級なものや誤ったものであったならば決して賢明であるとは言えず博識であるとも言えないのであります。また豊かな知識を持っていても自分自身が幸福な人生を送ることが出来ず、賢明で高級な人間になれないのであれば単なる物知りでしかないのであります。豊かな学問知識は持たずとも常に正しく清らかな人生を送り自分自身の進歩向上のために努力し、また世の為人の為に奉仕の生活を送ることの出来る人は賢明で高級な人であります。しかし無知や無学を自慢し学問や知識を卑しむ人は本当に愚かで救い難い人であります。正しく清らかな心で真理を学び豊かな学問や知識を皆の進歩向上や幸福のために役立てようと努力する人が本当の知識人であり智者なのであります。



 
 ◎美しいことが素晴らしい様に醜いことも素晴らしいのである。
 
 美しいことは確かに幸福なことであり醜いことは不幸なことであります。しかしまた美しい人が必ずしも幸福であるとは限らず、醜いことが必ずしも不幸であるとも限らないのであります。それは美の基準というものが絶対のものではないからであります。人生の幸福そのものは肉体の美しさに依って決まるものではないのであります。もっとも美しいということは就職や結婚その他で有利な点が多々あります。しかし美しさ丈を自慢しそれを利用して幸福を得ようとすることは誤っているのであります。全で最も大切なのは心の修行なのであって、容姿の美しさを得意としている様な人は心の修行が出来ません。俳優とかタレントとかいう様な容姿の美しいことを売りものにする職業の人達は芸は上手でも心が穢れますから人生の修行が出来ず進歩向上が出来ないのであります。美しくなくても常に美しくなろうと努力し、賢明で高級な人間になろうと努力する人は確実に進歩向上して行けるのであります。

 そうして美しいということも美しくないということも現世限りのものであつて、来世に迄持ち越されるものではないのであります。容姿が美しいことを得意にして心の修行をしなければ来世は低級で穢れた心に相応しい肉体しか得られないでありましょう。また現世には容姿が美しくなくても、正しく清らかな人生を送り、心の美化や浄化に励むならば来世は美しく清らかな心に相応しい肉体を与えられるでありましょう。
 故に容姿の美しいことを自慢して心の美化や浄化を怠ってはならないのであり、容姿の美しくないことを悲観して美しくなる為の努力を怠ってはならないのであります。心も美しく容姿も美しくなる様に常に進歩向上の努力を続けて行くならぱ生まれ変わりを繰り返す度に次第に美しい心や肉体の持ち主へと進化して行けるのであります。



 ◎出会うことが素晴らしいように別れることも素晴らしいのである。
 
 懐かしい友や尊敬する人や新しい友に巡り合えるということは楽しく喜ばしいことであります。そうして多くの親しい友を持つということは素晴らしいことではありますが、多数の人々と親しく交際するということは実際には困難なのであります。故に本当に親しく交際することの出来る人は少数であると言えるのであります。しかし人間が一生少数の人々丈と親しくしていたのでは知識も狭くなり、楽しい事も少なくなり新しい修行も出来にくくなるのであります。故に古く親しい友と別れて新しい人を友とし新しい知識や幸福を求め新しい修行に励んで行くこともまた素晴らしいのであります




 ◎得ることが素晴らしい様に失うことも素晴らしいのである。
 
 金銭や財産を得ることも、知識を得ることも、良い職を得ることも有難いことであります。しかし金銭も財産も消費する為のものであり、得たものを消費して役立てることに依って失われるのであり、失われるからまた新しい金銭や財産を得るのであります。私達は古いものを失うことに依って新しいものを得、1つのものを失うことに依って別のものを得るのであります。故に得ることぱかり考えて、消費することや失うことを嫌がってはならないのであります。必要があるから与えられるのであり、失われるから次の新しいものが与えられるのであります。



 
 ◎有限なるものもあり無限なるものもある。永遠なるものもあり刹那のものもある。陽がありて陰があり、動がありて静がある。直がありて曲があり、速がありて遅がある、主がありて客があり正がありて副がある。全体がありて部分があり根本がありて末端がある。真がありて偽があり実がありて虚がある。絶対がありて相対があり実相がありて真如がある。発展がありて衰退があり進化がありて退化がある。
 
  宇宙は1つであって無数であり、宇宙の真理もまた1つであって無数なのであります。そうして宇宙の真理は全てプラスとマイナスの二元に別れているのであります。有限と無限、永遠と瞬間、陽と陰、動と静、直と曲、速と遅、主と客、正と副、全体と部分、根本と末端、真と偽、実と虚、絶対と相対、実相と真如、発展と衰退、進化と退化という様な相反する2つの法則が様々に影響し合って森羅万象を動かしているのであります。故に私達が二元の真理の一方丈を受け入れ一方を拒否しようとしたり、一方丈を尊び一方を疎かにしたりすれば決して賢明になることも幸福になることも出来ないのであります。相反する二元の法則を共に尊ぶことに依って賢明になり幸福になり進歩向上して行けるのであります。




 ◎生死、正邪善悪も、喜怒哀楽も賢愚も美醜も、貧富も強弱も幸不幸、運不運も、森羅万象も人生の諸相も全ては神の賜であり全ては神の愛である。全ては神の恵みである。全ては神の徳であり全ては神の力であり全ては神の愛である。全ては神の御業である。全ては神の淀である。全ては神の摂理である。故に愚かな人間の智恵を以って何事をも安易に判断してはならないのである。神の摂理を知り、神の摂理に従って生きることに依って初めて人間は神と一体となり得るのである。人間よ自然と共にあれ。人間よ神主体であれ、そうすれば必ず人生に輝かしい未来が訪れて来るのである。

 生死も正邪善悪も喜怒哀楽も賢愚美醜も貧富強弱も幸不幸も運不運も自然に存在するあらゆる事物も現象も人生のあらゆる出来事も、全ては神が与えられたものであり神の賜であると言わねばならないのであります。生と死が神の定められた宇宙の法則であることは既に何度も述べた通りであります。そうして正邪善悪もまた神の賜であると言わねばならないのであります。神は本来世の中に盗人や殺人犯や詐欺師や遊び人等をお造りにはならないのであります。しかしそれでは盗人は全て悪魔に騙されてそうなったのか、自分自身が邪悪で穢れているから盗人になったのかというと必ずしもそうとは限らないのであります。神が人間を修行の為に盗人に生まれ変わらせられることも有り得るのであります。他人の財産を盗むということは決して正しいことでもなければ本人にとっても楽しい幸福な事でもないのであります。しかし社会制度が誤っている為に必要もないのに広大な土地や巨万の富を占有して贅沢な生活をする人が居る反面、耕す土地も無く仕事も無く住む家も無く何の財産も無い人も居ます。その様な人が働きたくても働くことが出来ず生きることが出来ない為に仕方無く豊かな財産を持つ人から盗んで食べねばならないとすれば、それは社会そのものが悪いのであって盗まねば生きていくことの出来ない人だけが悪いとは言えないのであります。
 
 しかし政治家や役人や警官や裁判官等の人々は盗んだ人を罪人として罰しても、自分達の政治の誤りを反省しようとはしないのであり、巨万の富を占有している人々の罪を認めようとはしないのであります。社会の上に立つ人々は生きる為に止む無く罪を犯さねばならない人々の悩みや悲しみや苦しみを理解しようとはせず、自分達は正しい立派な人間だと信じているのであります。その様な人々に自己の考え方の誤りを覚らせ、そうして生きる為に止む無く罪を犯さねばならない人々の立場を理解させる為には、罪人に生まれさせて罪人の立場になって物事を考えてみる機会を与えるしか方法はないのであります。自己が他人の物を盗まねば生きていけない立場に立たされて初めて罪を犯す人の気持ちや苦しみが理解できるようになると言えるのであります。故に現世に於いて富豪や警官や裁判官として自己は正しいと信じ、罪を犯した人を裁いたり罰したり笑ったり迫害した人々が、来世に罪を犯さねば生きて行けない人に生まれ変わらされて反省させられることは当然あり得るのであります。

 また豊かな財産を持って貧しい人に施しをして自分は立派な人間だと自惚れ、現世にこれ程人助けをしたのだから来世はもっと幸福な人間に生まれ変わることが出来ると思っていると、来世は乞食に生まれ変わらされて豊かな人に施しを受けねばならないことがどんなに悲しいことであるかということを覚らされることもあり得るのであります。故に神から善人に生まれさせられて修行する人もあれば悪人に生まれさせられて修行させられる人もあると言えるのであります。また喜びや怒りや哀しみや楽しみを与えられるのも神であり喜怒哀楽を通じて修行し真理を覚り進歩向上して行くのであります。
 
 また賢明な人間に生まれるのも愚かな人間に生まれるのも、美しい人に生まれるのも醜い人に生まれるのも神の御心であります。神は決してえこ贔屓や気まぐれや面白半分で賢愚美醜の差別を付けられるのではないのであります。全ての人にその人の過去世迄の修行と進歩向上の程度に応じてそれに相応しい両親や家系や職業等を選んで生まれ変わらせられるのであります。故に自己が現世に於いて心から正しい修行に励み正しく清らかな心になり賢明で高級な人間になる様に努力するならば来世は現世よりももっと賢明で高級な人間に生まれ変わることが出来るのであります。また現世にまともな修行もせず低級で愚劣な人生を送るならば来世はやはり低級で愚劣な人間にしか生まれ変わることは出来ないのであります。現世に美しい容姿を持って生まれて来た人は過去にそれ丈の修行をしてきたからであり、現世に醜い容姿を持って生まれてきた人は前世にそれ丈の修行しか出来ていなかったからだとも言えるのであります。
 
 現世に貧しい家庭に生まれて来た人は貧しい立場で修行する機会を与えられているのであり、豊かな家庭に生まれた人は豊かな立場で修行する機会を与えられているのであります。しかし世の中には豊かな家に生まれた人は前世に功徳を積んだお蔭で現世は豊かな財産を与えられ人の羨む様な豊かな生活の機会を与えられたのだと考える人もありますが、それは誤っているのであります。豊かな家庭に生まれた人は神から一生贅沢な生活を楽しみなさいと許され保証せられたのだというのは大きな誤りであります。豊かな家庭に生まれた人は豊かな富を活かして自分自身と世の中の皆の利益や幸福を図って修行する機会を与えられているのであって、豊かな財産を他人に誇ったり、私利私欲を図り栄耀栄華を楽しむ為に与えられているのではないのであり、その様な一生を送れば罪悪になるのであります。貧しい家庭に生まれた人は貧しい生活の中にあっても楽しく豊かに幸福に暮らすための修行をさせられている人もあれば、前世に豊かな財産を持ちながら栄耀栄華を楽しみ私利私欲ばかりを図ったために現世は反省の為に貧しい境遇に堕とされている人もあると言えるのであります。
 
 健康で強い体力を持って生まれて来た人も虚弱な体を持って生まれてきた人もそれぞれの過去世に相応しい体を与えられているのであってそれは自分自身の修行の賜であると言えるのであります。幸福な人生に生まれて来たのも、不幸な人生に生まれて来たのも、幸運に恵まれているのも不運に付き纏われているのも、全てはその人自身に相応しいものを神が与えておられるのであって、全てが神の賜であると言わねばならないのでありまます。
 
 宇宙間に存在する全ての事物も現象も、人間自身の上に起こってくる全ての現象も、全てがそのもの自体やその人自身に応じてそれに相応しいものを神が与えられるのであり、神の賜であると言えるのであります。しかし全てのものは神の愛なのであります。善人に生まれさせられるのも悪人に生まれさせられるのも、賢い人間に生まれさせられるのも愚かな人間に生まれさせられるのも、豊かな家庭に生まれさせられるのも貧しい家庭に生まれさせられるのも、全ては人間を愛し給う神の御心なのであります。そうして全ては神の恵みであり、全ては神の徳であり、全ては神の御力に依るものであり、全ては神の御力に依って決められることであり、全ては神がなされる御業であり全ては神の世界の掟であり、全ては神の定められた宇宙の大真理、宇宙の大法則、大自然の摂理そのものであると言えるのであります。

 故に愚かで浅はかな人間の知恵で、神の与えて下さった賜を安易に良い加減に解釈したり判断したりしてはならないのであります。自己が優れた頭脳を持つ人間に生まれたのをいいことに学問、知識を独占し私利私欲を図ってはならないのであります。自己の容姿が美しいことを自慢して他人を軽蔑したり、心の修行を怠ったりしてはならないのであります。自己が豊かな富を得ても富を死蔵したり私利私欲の為に用いたり、栄耀栄華を誇ったり無駄使いや浪費をしてはならないのであります。自己が強い体力を持っても弱い者を苛めるために力を用いてはならないのであります。自己が幸福な生活に恵まれても自分丈の幸福に満足してはならないのであります。また自己が愚かに生まれついたことや、醜いことや貧しいことや虚弱であることを怨んだり呪ったり怒ったり不平不満を言ったり他人を羨やんだりしてはならないのであります。自己に与えられた智恵や美貌や富や力を自己をも含めた皆の利益や幸福や進歩向上の為に活かして用いる様に心掛けることが尊い人生の修行であり、自己に与えられた使命であることを覚らねぱならないのであります。また自己の不幸に絶望したり不平不満を言ったりすることなく与えられた運命を感謝し、愚かであっても賢明になろうと努力し、醜くとも美しくなろうと努力し、貧しくとも豊かになろうと努力し、虚弱であろうとも健康になろうと努力して行く処に本当の希望や生甲斐や幸福や進歩向上があると言えるのであります。

 宇宙学では「与えられたことに感謝し与えられなかったことに感謝せよ」と説かれています。喜びを与えられたならそれに感謝し、悲しみを与えられても感謝することが出来るならば、必ず素晴らしい境地に到達し得るのであります。楽しみを与えられるのも神の愛であり苦しみを与えられるのも神の愛であります。愚かで浅はかな人間の智恵を以って神の御心を批判してはならないのであります。豊かな富を与えられるのも、僅かの富しか与えられないのも神の御心であり神の愛であります。良いものを与えられるのも悪いものを与えられるのも神の愛なのであります。故に与えられたことにも感謝し与えられなかったことにも感謝して全てを神の御心のままに生きて行く時、人間は大自然と一体、神と一体と成れるのであります。人間が本当に神と一体に成り得た時、人生のあらゆる悩みや苦しみや悲しみや不幸は消滅し、希望や歓びや生甲斐に満ちた輝かしい人生が訪れて来るのであります。