モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」人生の道篇①

「人生讃歌」

めぐり合う春を心に画きつつ つもるみ雪の下に生き抜く
                     
日々を若き希望に生きて行け 苦しみ多き我が身なるとも 今日もまた若き身をとて無理をすな かけがえのなき生命なりせば
                   
世の中のすべては空し生きて行く この歓びを覚らざりせぱ 苦しみを逃れんとする途はなし 只歓びに換ゆる道あり
                    
朝夕に神の恵みに感謝しつ 生き行く日々ぞ楽しかりけり 天の徳地の徳火の徳水の徳 一つになりて生命とぞなる

他人(ひと)の罪を許す心ぞ有難き 許すは自己(おの)が許さるるなり 許さるる人にはなるな何事も 罪を犯さぬ人にこそなれ
              
暮れて行く今日の一日をしみじみと 神に感謝し庭にたたずむ
                
天地(あめつち)の神の御徳を知りてこそ 人の誠の道は立つなり 有りと言い無しと思うも迷いなり 有りは無しなり無しは有りなり
               
神仏を祀り祈るは易くとも 誠の道を踏むは難し          

埴安の神の御徳そのままに 奇しき生命の花を咲かせん 汲み取れど汲み取れどなを湧き出ずる 神の泉の深く尊き
                                 
                                             昭和45年5月10日 早朝


 
 「無欲の人生」
 
 人間が一番豊かである時は倉庫を空しくしている時である
 
 人間が一番賢明である時は智を空しくしている時である
 
 人間が一番幸福である時は心を空しくしている時である


 
 
 「勤労讃歌」
 
 ●身は綾絹に包まれて あまたの人にかしづかれ 為す業(わざ)もなく生きて行く 人の生涯ぞ空しけれ
 
 ●共に苦労を忍びつつ 共に悩みを分かちつつ 汗とほこりにまみれつつ 働く人ぞ尊けれ
 
 ●金殿大玉楼に 富と名誉に埋もれて 法と兵とに守られて 生き行く人ぞ愚かなり
 
 ●我賛美せん 野良に川辺に海山に 自然の恵みに囲まれて 生きて働く歓びを
 

 
 「教えの道」
 
 言葉で説くのも教えであり力で説くのも教えである。智恵で説くのも教えであり、愛で説くのも教えである。情熱で説くのも教えであり理性で説くのも教えである。人を教え導くための目的は1つであろうとも方法は無数である。教える人の立場に応じ、教えられる人の立場に応じ、或いは場所や時の相違に応じて最も適した方法で教えを説けばよいのである。
                                     
                                                                                                       昭和44年7月29日朝


 
 「我が道」
 
 ●言うてせんないものならば 誰に語らん打明けん 一人の胸に秘め置きて 来たる時節を待つのみぞ

 ●もはや我には親もなし 兄弟(はらから)もなし妻もなし 理想の道をひたすらに 唯一人にて進むのみ

 ●雨降らぱ降れ風よ吹け 嵐よ猛れ雷よ鳴れ 我が道途をば祝いつる 神の手向けと知るのみぞ
                                      
                                            昭和45年6月25日





 「人生訓」

 ●生きる心のない人生は無意味である

 ●覚りのない人生は空虚である

 ●幸福でない人生は暗闇である

 ●目標のない人生に生甲斐はない

 ●感謝の心のない人に平安はない

 ●感激を知らない人に素晴らしい歓びはない

 ●満足を知らない人は常に貧しい

 ●反省の無い人には改善は無い

 ●努力のない人に進歩はない

 ●根本を知ることが大切である

 ●無理は損失である

 ●危険を知らないのは愚かである

 ●可能の限界を知れ

 ●病気と災難は自己の責任である

 ●想い出をいつ迄も辿るべきではない

 ●空想は時間の浪費である

 ●愚かな人の真似をしてはならない

 ●悪事を倣ってはならない

 ●安易な同情は立派な行為ではない

 ●人を喜ばせることが正しいとは限らない

 ●遊蕩に依って道を覚ることは出来ない

 ●奉仕の心のない仕事は立派なものではない

 ●偉人の言動が全て正しいとは限らない

 ●悪人の言動の全てが悪であるとは限らない

 ●情熱は行動の原動力である

 ●理性は正しい進路を知る羅針盤である

 ●自由のない平和に幸福はない

 ●真実でない平等に平和はない

 ●愛は正邪善悪や理非曲直や権利義務を超越する

 ●栄光への道は苦難の道である

 ●常に真実を見窮めよ

 ●常にまことの心で生きよ
      
                                              昭和49年3月8日





 「人生讃歌」

 大いなる大いなる天地の恵みよ 誰か知る誰か知るその恵みを 神の御徳よ人の愛よ 尽くるなき尽くるなきその恵みを
 
 かげりなきかげりなき神の光よ 誰か見ん誰か見んその光を 新しき光輝きぬ 仰ぎ見ん仰ぎ見んその光を
 
 かぎりなきかぎりなきこの歓びよ 生きて行く生きて行くこの歓びよ ああわれ神と共にあり とこしえにとこしえに共にあり
 
 はてしなきはてしなき宇宙の広さよ 絶ゆるなき絶ゆるなき時の流れよ あめつちの生命人の生命 一つなり一つなりとことわに

 はるかなるはるかなる真理のかなたよ 究めなん究めなん真理の世界を 未知の世界に進み行かん 一すじの一すじの道を求めて

 ことほがんことほがん我が人生を 讃えなん讃えなんこの歓びを ああしあわせを求めつつ 生き行かん生き行かんいつ迄も

 生き難き生き難きこの人の世に うるわしきうるわしき 生命を受けて 尊きつとめを終わりなば 帰りなん帰りなん神の御許へ
                                            
                                                  昭和42年12月26日




 前述の如く、金光教の信仰を通じて私は悪魔邪神と呼ばれている多くの神々のあることについて深い関心を持つ様になったのであります。そうして金光教祖が嘗ては悪神と呼ばれて恐れられていた金神に誠心誠意仕えることに依って、恐ろしい崇りをすると言われていた金神を愛と恵みの神に変えられた如く、悪魔とか邪神と呼ばれて恐れ嫌われている多くの神々もまた私達が真心を以って信じ尊んで行くならぱ何時か私達の為に尊い神となって加護して下さる様になるであろうと信ずる様になったのであります。そうして私は日本神道に於いて遠く神代の昔から邪神として嫌われて来た天若日子(あめのわかひこ)神や天探女(あまさぐめ)と呼ばれていた女神や、日本神道では祀る神社がないと思われる土の神埴安彦神、埴安媛神などを祀る様になったのであります。
 
 そうした或る日、私は夢の中で深い山奥へ分け入って行くと非常に恐ろしくまた寂しそうな場所へ行き着き1人の女性に出会ったのでありました。その時私が「金神様の御招介です」と述べると、その恐ろしそうな女性は私に対する敵意や警戒心を解いて迎えて下さったのであります。その夢の中で出会った女性の霊が今迄日本神道で邪神として嫌われて来た天探女神でありました。天探女というのは特定の女神ではなく一般的な名称ではありますが私の前に現われた女神は天若日子神と繋がりのある女神でありました。そうして夢の中での出会いを始まりとしてこの女神と私との霊的な交流が続けられたのであります。その様なことが縁となって私は悪魔邪榔と呼ばれて嫌われていた神々と交流する様にもなり、悪とか罪とか穢れというものは一体何であろうか、或いは悪は本当に悪であり罪は本当に罪であり、穢れは本当に穢れであろうかと考える様にもなったのであります。そうして悪や穢れとは一体何かという様なことについて色々勉強しながら得たのがこの章に収めた和歌や詩や文章なのであります。次にそれらの和歌や詩について解説を加えてみようと思います。
 


 
 ●めぐり会う春を心に画きつつ 積るみ雪の下に生き抜く

 この歌は何気なく読めばやがて巡って来る春の歓びを心に画きつつ降り積もった雪の下で生き抜いて行きますという意味であります。しかしこの歌にはもっと深い意味が含まれているのであります。神霊界では天探女神は共産主義の守護神とも言われています。嘗てナポレオンのモスコー遠征やヒトラーのモスコー遠征等に反撃を加えロシヤを守った蔭の力はこの女神だったのであります。雪に対しては私達はしばしば冷たさや恐ろしさや死を思い浮かべがちでありますが寒帯地方や極地に住む人々や動植物達にとっては雪は寧ろ寒さを防ぐ役に立っている場合も多いのであります。エスキモー人達は雪の家を作って住むこともありエスキモー犬達は雪の穴を堀って寒さを防いで眠ったりする例もある様に雪は北方の人々にとっては寧ろ生活上の役に立っているとも言えるのであります。そうしてナポレオンやヒトラーの大軍からロシヤを守ったのはロシヤ人自身でもあると共に厳しい寒さや大雪でもあったのであります。邪神として嫌われ神霊界からも追放された女神は遂に神を否定する共産主義者の守護神と成られたのであります。しかし無神論共産主義者を幾ら加護しても彼等から信じられることもなく尊ばれることもなく1人の氏子を持たれることも出来ないのであります。神としてこれ程悲しく寂しく味気無いことはないのであります。そうしてこの女神と私とが霊的に深い絆で結ぱれたことに依って女神は私を通じて新しい希望を持たれる様になったのであります。
 
 私が嘗て新自由主義経済学の研究に没頭して居た頃には私は共産主義に関心を持つとか理解しようという気持ちは全く無かったのでありました。しかし天理教一燈園の思想を通じて私は新しい立場から共産主義について考えてみる機会を得たのでありました。そうして私はマルクス主義が正当な一面を有しながらも大きな矛盾を含んでいること、共産主義が絶対的にマルクス・レーニン主義でなければならないとか、弁証法唯物論無神論と結び付かねばならないと考えること自体が誤っているのであり、全く新しい共産主義が出現してもよい時代が到来しているという結論に到達したのであります。それは唯物論共産主義に対する唯心論共産主義であり、無神論共産主義に対する有神論共産主義とも言えるものであります。現代の共産主義が嘗てのソヴィエト・ロシヤや中国の多数の農民や労働者の解放救済に大きな功績のあったことは認めねばならないのであります。しかし共産主義がソヴィエトや中国の民衆から最も尊い心の自由、心の幸福を奪い去ったという事実をも認めねばならないのであります。心の自由の尊重せられる共産主義、神を信じ神と共にある新しい共産主義の出現こそソヴィエトや中国の人々に真実の幸福をもたらすものであると思うのであります。
 
「めぐり合う春を心に画きつつ積もるみ雪の下に生き抜く」とは女神が私に対して「あなたの御力に依って新しい共産主義が出現し世の人々が皆幸福に暮らせる日の来ることを、そうして私自身もまた世の人々から恐れ嫌われることなく人々に信じられ尊ばれる立派な神として世に出られる日の来ることを心から希望しその日を楽しみに侍っています」という意味なのであります。



 ●日々を若き希望に生きて行け 苦しみ多き我が身なるとも
 
 ●今日もまた若き身をとて無理をすな かけがえのなき生命なりせば

 私がこの歌を得た頃、私は身体の調子があまり良くなかったのでありました。しかし私は病気や災難等は自己の罪や穢れから起って来るものであると信じて居りましたので、その当時私の身体の調子が良くないのは私自身に何か気付かない罪や穢れがあるからではなかろうかと思い、6月12日の夜就寝前、神棚の前に座って天探女神に「私の身体具合が良くないのは私の罪穢れの故でしょうか」とお尋ねしたのであります。その夜明け方に夢うつつ状態の時女神の霊が現われて2つの歌を与えて下さったのであります。
 
「日々を若き希望に生きて行けくるしみ多き我が身なるとも」の歌は「毎日を若々しい希望を持って生き抜いて行きなさい。例えどんなに苦しみの多い我が身であろうともその苦しみを乗り超えて」という意味であります。次の「今日もまた若き身をとて無理をすなかけがえのなき生命なりせば」は「毎日侮日を若さにまかせて無理をしてはいけません。かけがえのない尊い生命を大切にして下さい」という意味であり「かけがえのなき生命なりせぱ」の意味は「あなた自身にとってかけがえのない大切な生命です」という意味であると共に女神にとっても「あなたの生命は私にとってもかけがえのない大切な生命です」という意味なのであります。

 この2つの歌を得たことは私にとって何物にも代え難い程大きな歓びでありました。世の人々からは悪魔邪神と呼ばれて恐れられ嫌われて居られる女神も、私丈は信じ尊んで下さって居られることを知ると共に、その頃私の身体の具合が余り良くなかったのは私自身の罪や穢れの故ではなく、私が無理をして身体を使い過ぎていることが判ったからであります。その頃私は会社の仕事が終わって家に帰ると様々な勉強や論文の作成の為に夜遅く迄努力し、日曜日もゆっくりと身体を休めるということは殆んどなかったのであります。しかしその様な私の苦労は決して無駄ではなかったのであります。


 

 ●世の中のすべては空し生きて行く この歓びを覚らざりせば
 
 人生には様々な希望や生甲斐や幸福があります。私達にとって勉強することも働くことも修業することも遊ぶことも全てが素晴らしいのであります。しかし私達が生きて行く歓びを覚って初めて全てのことが希望や生甲斐や幸福と感じられるのであり、生きる希望のない人や早く死にたいと思っている様な人にとっては働くことも学ぷことも尊い教えを聞くことも全てが煩わしく空しいものであると言わねばならないのであります。人生の尊い意義や有難さや生きることの素晴らしさや歓びを覚って初めて世の中の全てのものが私達にとって素晴らしく偉大なものとなって来るのであります。


 

 ●苦しみを逃れんとする途はなし 只歓びに換ゆる道あり
 
 人生には様々な苦しみや悩みや悲しみや恐怖等があります。しかしそれらの苦しみを逃れて何の苦しみも無い人生を送ることは出来ないのであります。私たちが真理を覚ることによってのみあらゆる苦しみや悩みや悲しみ等を喜びや希望や生甲斐に変えることが出来るのであり其処に初めて苦しみの無い幸福な人生を送る道が得られるのであります。


 
 
 ●朝夕に神の恵みに感謝しつ 生き行く日々ぞ楽しかりけり
 
 私達の周囲に存在するものの全てが神であり私達は神の子として此の地上の神の国に生まれさせられ神の恵みに依って生かされているのであります。そのことを覚って朝夕に神の恵みや神の愛に感謝しながら生きて行く時、何の恐ろしさも不安も悲しみも不平不満もない楽しく幸福な毎日を送ることが出来るのであります。



 
 ●天の徳地の徳火の徳水の徳一つになりて生命とぞなる

 天の徳や地の徳や火の徳や水の徳或いは風の徳や土の徳等万物や万象のあらゆる徳や力が1つに融け合って生命となっているのであり、それ故に生命は万物の徳の結晶であり尊い存在であると言わねばならないのであります。


 
 ●他人の罪を許す心ぞ有難き 許すは自己が許さるるなり
 
 他人の罪を許すということは何かしら馬鹿らしいとか損であるとか愚かなことである様に思う人もよくあります。しかし他人の罪を許す心になれることは有難いことであります。イエス・キリストが「全ての人間は罪の子である」と説いている様に人間は誰もが大きいか小さいかは別として知らず知らずの裡に様々な罪を犯しているのであります。故に他人の罪を厳しく審き罰しようと皆が考えるならば自分自身もまた審かれ罰せられねばならなくなるのであります。他人の罪を審く者は自分も審かれねばならなくなるのであります。他人の罪を許す人は自己もまた許されるのであります。
 


 ●許さるる人にはなるな何事も罪を犯さぬ人にこそなれ

 他人の罪を許す心は尊いものであり罪を許されるということは有難いことであります。しかし罪が許されるから何度罪を重ねてもよいとか、自己が他人の罪を許したのだから自己も当然罪を許されるべきであると考える様になると、罪を許すという善意や愛が逆に犯罪を奨励する様な結果になる危険を生ずることにもなるのであります。故に自己が他人の罪を許す暖かい心は持っても、罪を犯して他人に許される様なことを期待する様な浅ましい穢れた心を持ってはならないのであり、皆が罪を犯さない正しく清らかで賢明な人間になる様に心掛けねぱならないのであります。



 
 ●天地の神の御徳を知りてこそ人の誠の道は立つなり

 世の中にはよく神の存在を否定したり、神の有難さ尊さを知らなかったりして、只法律や倫理道徳などを最高最善、絶対的な社会生活の規範であると考えて、自分は法律や道徳を守っているから絶対に正しい善良な人間であると自負している人々が沢山あります。しかしその様な考え方は決して正しくないのであります。如何に法律や道徳に忠実であっても神の存在を知らず神の尊さを知らずして本当に正しい賢明な人間には成れないのであります。神を信じ神の尊さを知り、神の愛や恵みに感謝し、神の定められた宇宙の法則を守って正しい人生を送ることが誠心のこもった正しい人生なのであります。
 


 
 ●有りと言い無しと思うも迷いなり有りは無しなり無しは有りなり

 私達はよくこれは有であるとか無であるとか言って断定しようとします。しかし世の中の全てのものは有と無の結合に依って成り立ち存在しているのであります。故に全てのものは有でもあり無でもあるという2面の性格を有しているのであって、これは有である、これは無であると断定しようと思うことが迷いであり誤りであると言えるのであります。
 


 
 ●神仏を祀り祈るは易くとも誠の道を踏むは難し
 
 家の中に神棚や仏壇を設けて神仏を祀ったり祈ったり、お供えをしたり祝詞やお経を熱心に読んだり、神社や寺院へ毎日お参りをしたりする位のことはその気になれば誰にでも容易に出来ることであります。しかし自己が本当に心から神の存在を信じ切り、心から神を尊び神の教えを正しく守って立派な人間に成る様に修行の道を歩むことは決して容易なことではないのであります。世の中には神仏が有るか無いか良く知らないけれども漠然と神仏を祀っている人もあり、お参りやお供えをすればおかげがあるかも知れないと思ってしている人も多いのであります。しかし神の教えを実践して正しい人生を送り神の子に相応しい高級な人間に成る様に心の修行に励むことは難しいのであり、そのような人は少ないのであります。
 埴安の神とは土の神のことであり大地は動植物の死体や汚物をも受け入れつつそれを浄化し尊い生命を育てているのであり、それと同じ様に邪悪なる者も善なる者も全てを受け入れ浄化しながら全ての人々が仲良く楽しく幸福に暮らして行くことの出来る美しく清らかな神の世界を此の地上に建設して行こうという意味であります。



 ●汲み取れど汲み取れどなお湧き出ずる神の泉の深く尊き

 神の愛や恵みは限りなく豊かであり私達が真理を学び実践すればする程増々賢明になり幸福に成れるのであって、神の恵みや神の徳は私達が幾ら沢山頂いても尽きることなく無限に湧き出て来るのであります。





 次に「無欲の人生」について簡単に解説致します。

 ●人間が一番豊かである時は倉庫を空しくしている時である
 
 地球人は大きな倉庫に沢山の財産を貯蔵し沢山の預貯金や有価証券や書画骨董などを沢山持って驕り昂ぶった贅沢な生活を送っている人を豊かな人であると思っています。しかしあらゆる物品も金銭も全て人の為に使用され役立てられて初めてそれ自体の徳を発揮出来るのであって、倉庫に貯蔵されている間は富としての徳は活かされてはいないのであります。私達が安定した豊かな生活を送る為には或る程度の財貨を貯蔵する必要はあります。しかしそれには自ずから限度があり幾らでも沢山貯えればよいというものではないのであります。
 
 全ての富は人間の利益や幸福や進歩向上の為に使用されるために存在するのであります。故に富を沢山持つ人が豊かなのではなく富を活かすことの出来る人が本当に豊かな人であると言えるのであります。倉庫に富を貯えていることは富の持つ徳を殺しているのであり、富の持つ徳を殺すことは罪や穢れになることであります。イエス・キリストが「地上に宝を貯えず、天国に宝を貯えよ」と説いているのも余った富は世の為人の為に役立てよと言うことであり、そうすれぱ富が必要になった時は神が与えようということであります。倉庫に沢山の財産を貯えなければ安心して生活出来ない人は心の貧しい人であり、富を活かすことの出来ない愚かで低級な人であります。例え貧しくても富の貯えはなくても、与えられたものに感謝し満足し富を自他の幸福の為に役立てることの出来る人が豊かで高級な人なのであります。




 ●人間が一番賢明である時は智を空しくしている時である
 
 世間には高い学歴を持ち豊かな学問知識や技術を持っていてもそれを自分丈の利益や幸福の為に利用している人が沢山います。そうして自己の智恵を金銭や地位や権力や名声を得る為の手段に用いている人が沢山います。しかしそれは誤った行為であり穢れた行為であり愚かなことであります。自己の学問や理論や技術や知識を自分丈の利益の為に役立てようとする人々がいる反面、他人の持つ理論や技術を盗み悪用して不当な利益を得ようとする人がいます。学問や理論や技術を独占して私利私欲を図ることは愚かなことでありますが、他人の学問や理論や技術を盗み悪用して私利私欲を図ろうとすることも誤りであります。また東大とか京大という様な学閥を作りその学校を卒業した人が集まり官公庁等の地位を独占したり学界を支配したりすることは法律上では何の罪にもならなくても神の前には大きな罪になるのであります。
 
 自己の持つ学問や理論や知識や技術を多くの人に教え指導する様に心掛けるならば皆が賢明になり高級に成れるのであります。皆が賢明になり高級になって協力し合えば文化の発展は一層著しいものになるのであります。愚かな者ばかりが幾ら沢山集まって協力しても高い文化を創造することはできないのであります。学問や理論や技術を独占して自己の智を誇る人は決して賢明な人ではなく愚かな人であります。自己が研究して得た理論や技術を1人でも多くの人々に広め皆が賢明になり高級に成れる様に奉仕することの出来る人が本当に賢明な人なのであります。




 ●人間が一番幸福な時は心を空しくしている時である

 人間は様々な欲望や野望を持ちそれを達成しようとして努力します。しかしいつも欲望で心が満たされている時は決して幸福な時ではないのであります。邪悪で低級で穢れた欲望を持ちそれを達成させて満足している人は沢山ありますがその様な人は罪を犯しているのであって決して幸福な人であるとは言えないのであります。では健康になりたい幸福になりたい賢明に成りたい人助けがしたい等と思うことは正しい欲望であると言えるでありましょうか。

 健康になりたい幸福になりたい賢明になりたいと幾ら考えても正しい努力をしなければ健康にも幸福にも賢明にもなれないのであります。健康になりたいと思わなくても自然の摂理に従った正しい生活を送りさえすれば健康になれるのであります。世の中には様々な目標を持って努力し目標を達成して慢心しいい加減な人生を送る人もあれぱ、達成出来る筈のない目標を立てて努力し達成出来ないことを悩んだり苦しんだり絶望したりして不幸な人生を送る人もあります。邪悪なことや誤ったことをしたいという欲望を持つことは悪いことでありますが、正しいことでも出来ないことを無理に達成したいと思うのは欲であります。不平不満や疑い迷いや欲の心を持って生きることは決して幸福ではないのであります。正しいことでもその人の力では出来ない様な無理や無茶は神は決してさせられないのであります。故に目己に不可能なことを無理にしようとして思い悩んだり迷ったり苦しんだりすることは正しくないのであります。神が与えて下さったことに感謝し満足して、心に不平不満や疑い迷いや欲を持たずに日々の修行に努力しさえすれば自ずから幸福になり賢明になり進歩向上出来るのであります。
 
 次の勤労讃歌には特に深い意味はありません。高貴な身分に生まれ美衣美食に飽き多くの人々にかしづかれ働くことも知らずに虚飾と虚栄の人生を送ることは愚かなことであり空しい人生であります。そうして多くの人々と共に苦労を忍び、悩みを分かちながら汗を流し埃にまみれて働く処に尊い人生の修行や進歩向上があり生甲斐や希望や歓びがあると言えるのであります。そうして豪壮華麗な宮殿や邸宅に住み、富と名誉に埋もれて、法律や軍隊や警察の力に守られて多くの国民と懸け離れた生活を送り、多くの国民の不幸や苦しみや悩みや悲しみも知らずに自分達丈の幸福や平和や繁栄を楽しむ様なことは愚かなことであります。田畑に川辺に海や山に大自然の恵みに囲まれて力一杯楽しく働くことこそ素晴らしい幸福な人生であると言えるのであります。