モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」神の摂理篇①

 人間は神の力に依って生かされている。故に神の力を知り、神の意志を知らねば幸福にはなれないのである。神とは大自然であり、神の摂理とは大自然の摂理である。故に大自然の中に棲む人間の摂理もまた大自然の摂理と同じなのである。人間にとって生きることが尊い様に死ぬることも尊いのである。働くことが尊い様に休息することも尊いのである。学ぶことが尊い様に遊ぶことも尊いのである。信ずることが尊い様に疑うことも尊いのであり愛することも必要であり憎むことも必要である。生かすことも必要であり殺すことも必要である。正直も必要であり偽りも必要であり拾うことも必要であり捨てることも必要である。生産することも必要であり消費することも必要である。統合することも必要であり分割することも必要である。建設することも必要であり破壊することも必要である。進むことも必要であり退くことも必要である。

 健康であることが素晴らしい様に病むことも素晴らしいのである。覚ることが素晴らしい様に迷うことも素晴らしいのである。解脱が素晴らしい様に苦悩も素晴らしいのである。歓ぶことが素晴らしい様に悲しむことも素晴らしいのである。豊かであることが素晴らしい様に貧しいことも素晴らしいのである。博識であることが素晴らしい様に無知であること集晴らしいのである。美しいことが素晴らしい様に醜いことも素晴らしいのである。覚えることが素晴らしい様に忘れることも素晴らしいのである。会うことが素晴らしい様に別れることも素晴らしいのである。得ることが素晴らしい様に失なうことも素晴らしいのである。

 有限なるものもあり無限なるものもある。永遠なるものもあり刹那のものもある。陽がありて陰があり、動がありて静がある。直がありて曲があり速がありて遅がある。主がありて客があり正がありて副がある。全体がありて部分があり、根本がありて末端がある。真がありて偽があり実がありて虚がある。絶対がありて相対があり実相がありて真如がある。発展がありて衰退があり進化がありて退化がある。生死も正邪善悪も、喜怒哀楽も賢愚も美醜も、貧富も強弱も幸不幸も運不運も、森羅万象も人生の諸相も全ては神の賜である。全ては神の愛である。全ては神の恵みである。全ては神の徳である。全ては神の力である。全ては神の御心である。全ては神の御業である。全ては神の掟である。全ては神の摂理である。故に愚かな人間の知恵を以って何事をも安易に判断してはならないのである。神の摂理を知り、神の摂理に従って生きることに依って初めて人間は神と一体と成り得るのである。人間よ自然と共にあれ。人間よ神と一体であれ。そうすれば必ず人生に輝かしい未来が訪れて来るのである。                                                                                                                                      昭和42年10月29日
                                                                                                      


 この文章は私が当時我が家に祀っていた土の神、埴安彦神と埴安媛神よりの霊感を得て書いたものであります。既に述べている如く日本神典である吉事記や日本書紀に於いては「糞よりなりませる神名は埴安彦神妹埴安媛神」と記されています。この事が後世に到る迄埴安彦神、埴安媛神に対して多くの誤解を生ずる原因ともなっているのであります。埴安の神とは決して人間の排泄した糞を神格化して勿体ぶっているものではないのであります。埴とは土のことであります。故に埴安彦神、埴安媛神とは岩石の神とか金属の神とか、火の神とか水の神等に対する土壌の神なのであります。よく農村では地神様と称して土の神を祀っていますが土の神こそ埴安彦神、埴安媛神なのであります。故にこの神は日本神道では山の神や海の神や火の神や水の神や風の神などと共に尊い神なのであります。然るに此の神のことを日本神典では殆んど語られてはおらず、此の神を祀る神社も無いということは神道、ひいて日本歴史上に於ける大きな謎なのであります。
 
 恐らく神武天皇東征以前には大和地方の何処かに埴安彦神を祀る神社が在り、埴安彦神を祖神として祀っていた豪族も存在していたものと考えられますが、恐らく此の一族は神武天皇の軍と戦って敗れたために氏神である埴安彦神を祀る神社を破壊せられ神を祀ることすら禁じられて庶民に落とされて今日に至っているものと考えられるのであります。そうして大和地方に多く存在すると言われる特殊部落の人々の中に埴安彦神を祖神として祀っていた豪族の子孫に当たる人々が存在するのではないかと思うのであります。日本神典に埴安彦神、埴安媛神のことが殆んど述べられておらず祀る神社も存在しない理由は其処にあると想像されるのであります。そうして皇道大本の霊界物語の中で埴安彦神が宣伝使として活躍している事実は埴安彦神の一族が国常立尊などと共に日本歴史上から抹殺されたことを裏付けるものと考えられるのであります。その様なことから私は埴安彦神、埴安媛神を我が家で祀る様になったのであります。

 

 次に「神の摂理」について解説を加えたいと思います。
 
 
 ◎人間は神の力に依って生かされている。故に神の力を知り神の意志を知らねば幸福にはなれないのである。
 
 多くの人々は人間は自分達の力に依って生きていると考えています。しかしそれは誤りであります。人間は神の愛に依って此の世に生まれさせられ、神の恵みに依って生かされているのであります。故に人間は神の力の偉大さを知り、更に人間を此の世にまれさせられ、生かして下さって居られる神の御心を知り、神の御心に従う以外には決して幸福にはなれないのであります。神のカの偉大さを知り、神の御心を知り、神の愛や恵みに感謝して生きる時本当に幸福な人生を送ることが出来る様になるのであります。

 
 
  ◎神とは大自然であり、神の摂理とは大自然の摂理である。故に大自然の中に棲む人間の摂理もまた大自然の摂理と同じなのである。
 
 私達が神と呼んでいるものは私達の周囲に存在する大自然そのものなのであって、霊魂や物質を除いて超自然的な神は存在しないのであります。大自然こそ神そのものであり、大自然の摂理こそ神の摂理なのであります。故に大自然を神として祀り、大自然の中に生まれ、大自然の恵みに依って生かされている人間が大自然の摂理に反して良い筈はないのであります。人間の摂理は自然の摂理と同じなのであって、大自然の摂理に従うことに依ってのみ人間は真実の幸福を求め得るのであります。


 
 ◎人間にとって生きることが尊い様に死ぬることも尊いのである。

 人間にとって生きることが尊いということは死ぬることは尊くないという意味ではないのであります。生きることが尊いように死ぬることも尊いという意味であります。生きることが楽しいということは死ぬることが恐ろしく悲しいということであってはならないのであります。生きることも死ぬることも共に尊い大自然の摂理なのであります。故に生きることも死ぬることも共に尊いのであり、生きることが尊い以上に死ぬることも尊いのであり、死ぬることが尊くないならば生きることも尊くないのであります。何故ならば生きることと死ぬることとは常に表裏一体の関係にあり、生なき処に死はなく、死なき処に生もないからであります。
 
 しかし私達は長い人生の後にしばしの休息を求め、未来に再び人間に生まれ変わり新しい人生に新しい希望や幸福を求めて生きて行くのであります。故に生まれ変わるために死ぬるのであって死ぬるために生まれるのではないのであります。生きることこそ主たる目的であり、死は生をより素晴らしいものにするための補助的な手段であり方法なのであって、生も死も共に尊いけれども死よりは生の方がもっと尊いのであります。故に生を尊ぶことが死を疎かにすることであってはならず、死を尊ぶということは生を疎かにすることであってはならないのであります。死を恐れることが生を尊ぶことでもなく、生を粗末にすることが死を尊ぶことでもないのであります。故に低級で愚劣で自堕落な一生を送ることも、冒険やスリルを求めて生命を粗末にすることも、死に憧れたり、死を賛美したり、生きることに絶望して死を求めたりすることも全て誤っているのであります。限りある、得難い人生を力一杯有意義に生き抜いて天寿を全うし、再び生まれ変わる希望や歓びを持って安らかに死んで行くことこそ生を尊び死をも尊ぶことになるのであります。

 


 ◎働くことが尊い様に休息することも尊いのである。

 働くことは尊い人生の務めであります。しかし人間の肉体の能力には限界があり、何時迄も働き続けることは出来ないのであります。故に或る限度迄働いた後に適当な休息を取り、疲労を回復し、鋭気を養って次の仕事に備えるのであります。しかし世の中には働くことが嫌で休息することばかり望み休養や休日を楽しみに嫌々働いている人も多いのであります。働くことは人生にとって尊い修行の時なのであります。故に厭々働いては修行にはならないのであります。喜んで働き楽しく有意義に働く様に心掛けるのが正しいのであります。働くことは修行のためであり自分自身が豊かになり幸福になり賢明になるために働くのであって、美味しいものを食べたいから働くとか物見遊山、旅行、芝居見物等を楽しみたいから働くというのは誤っているのであります。そうして力一杯有意義に働くために休息するのであって、働くことが主であり休息することは従であって、働くことも休息することも共に尊いと言っても働くことの方が休息することより尊いのであります。働くことに意義や歓びや幸福を見出だして楽しく働き、休息にも意義や歓びを見付けることに依って人生は一層楽しくなるのであります。



 ◎学ぶことが尊い様に遊ぶことも尊いのである。

 私達が賢明になり幸福な人生を送るためには様々な真理を学ばねばなりません。しかし肉体の能力に限界があり休息が必要である様に、頭脳にも限界があり休息が必要であります。故に学問に精進しながら時々健全な遊びを楽しむということは有意義なことであります。しかし義務教育だから仕方なく学校へ行き、勉強しなければ卒業出来ないから仕方なく勉強するというのでは真理を覚れることはないのであります。真理を学ぶということは人間として生まれて来た以上当然の義務であり、しかも自分自身の利益や幸福や進歩向上の為であります。自己が学んだ真理は全て自己の為に役立つものであります。故に自分自身の為に喜んで学ぶべきであり、他人に勧められ、押し付けられて仕方なく勉強するのは誤っているのであります。厭々ながら勉強し遊ぶ時には思い切り楽しく遊ぷというのでは修行にはならず真理は覚れないのであります。学ぶことに歓びを見出して楽しく勉強し、遊ぶ時にも意義を見出して高級な趣味や遊びを通じて真理を覚る様に努カするならばいつも楽しみながら真理を学ぶことが出来、賢明になり幸福になり進歩向上して行けるのであります。



 
 ◎信ずることが尊い様に疑うことも尊いのである。

 私達が神を信じ学問や真理を信じ、人を信じ自己を信じあらゆるものを信じて生きていけるということは真に有難く尊いことであります。私達は信じることが出来るから安心して生きていけるのであります。信じることの出来るものがなければ心の拠り処とするものがないのであり、頼るものがないのであります。故に信ずるものを持ち、信じ合えるものを持つことは人生にとって真に素晴らしいのであります。しかし信ずることが幾ら尊いといっても何でも信じてしまえば良いとは限らないのであります。無いものを有ると信じ、偽物を本物と信じ、嘘を本当と信じ、悪を善と信じたりしていては賢明になることも出来ず、幸福になることも出来ず、進歩向上することも出来ないのであります。物事の真実を充分見究めて有るものは有ると信じ、無いものは無いと信じ、本物は本物と信じ偽物は偽物と信ずるのが正しいのであります。

 しかし世の中には有るのか無いのか、本当か嘘か、本物か偽物か、善か悪か容易に判断できないこともしばしばあります。その様な場合に何でも簡単に信じてしまう人もあれば、判らないものは何でも疑ってしまう人もよくあります。信ずることは肯定することであり、疑うことは否定することでもあります。しかし有るか無いかはっきり判らないものを有ると肯定し信ずることも、無いと否定し疑うことも共に誤っているのであります。正しい判断力と理性を以って真実を見究め肯定出来るものは肯定し、否定すべきものは否定するのが正しいのであります。世の中には見え透いた嘘を本当と信じてすぐ他人に騙されて後悔する人もあり、何でも疑うばかりして真実をも信じようとしない人もよくあります。しかしそれはどちらも誤っているのであります。信じなければならないことをも疑い、信じてはならないものをも信ずるのは共に誤りであります。
 
 さて未知の人と交際する様な場合に信用してよいのかどうか判らないこともあります。その様な場合に、人を見たら泥棒と思えという主義で先ず疑ってかかる人がよくあります。しかしその様な態度は誤っているのであり穢れているのであります。先ず疑ってみて後から本物であることが判ったら信用しようというのは正しくはないのであります。先ず信じてみて若し正しくなければ信ずることを止める方が尊いのであります。神や宗教に接する場合でも先ず疑って疑い抜いてその挙句どうしても疑い切れなくなって仕方なく信じようという人もありますが、その様な人にはまともな信仰は出来ないのであります。世の中には様々な宗祭あり、どの宗教にも多くの信者が居るということは其処に何か信ずるに足るものがあるからだと考え、その真理を求めて謙虚な心で教えをを学ぽうと努力すれば必ず何か尊い真理を得ることも出来自分自身が賢明になり幸福になれるのであります。しかし初めから人を見たら泥棒や悪人であると思い、宗教を見たら邪教であると思ったり否定したりしていれば何の利益も得られないのであります。故に信ずることも尊く、疑うことも尊いのであって、しかも疑うことよりも信ずることの方が尊いと言わねばならないのであります。



 
 ◎愛することも必要であり憎むことも必要である。

 愛するということは美しく尊いことであり喜ばしいことでありますが、憎むということは恐ろしく悲しいことであります。愛するということは幸福なことでありますが憎むということは不幸なことであります。では何故人間は憎まねばならないのでありましょうか。憎しみは愛の裏返しの表現であり、愛することや愛されることが出来ないから憎んだり憎まれたりしなければならないのであります。故に憎むことは悪いことであるから絶対に憎んではならないと言う丈では憎しみの心を無くすることは容易には出来ないのであります。世の中から憎しみが無くなり皆が愛し合える様になることは素晴らしいのであります。しかし憎しみを無くしようと思うならば憎しみの原因そのものを無くしなければならないのであります。愛する者は愛され憎む者は憎まれるのは宇宙の真理であります。しかし憎んでいなくても憎まれることはしばしばあります。それは憎んでいなくても愛していないからであるとも言えるのであります。例えば甲は乙を憎んでいる訳でなくても乙を愛している訳でもないと言うことはよくあります。甲は憎しみの心を持っているのではなく、悪意を持ってしているのではなくとも甲のすることが乙に非常に悪いことであったり困ることであったり迷惑することであったりすれば、乙の怒りや憎しみを受ける原因となるのであります。
 
 人間はよく自分が他人に迷惑を掛けたり苦しめたりしていながらその事に気付いていないことがあります。そうして他人の怒りや怨みに遭って初めて自己の誤りに気付く場合も多いのであります。故に怒りや怨みや憎しみは相手に対して「あなたは私に対して悪いことや迷惑なことをしている」ということを知らせる意志表示である場合も多いのであります。
 政治家が国民の意志を無視して悪い政治ばかりしていても国民が黙っていれば政治家が反省することはないのであります。国民の怒りや怨みや憎しみに遭って初めて自己の政治の誤りを覚る場合も多いのであります。故に皆が心から信じ合い理解し合い愛し合える社会には憎しみは無いといえるのであります。他人の怒りや憎しみに遭わねば自己が他人に犯している罪や誤りに気付くことが出来ないのは愚かな人であります。憎むという事も憎まれるという事も決して良いことではないのであります。故に憎み合うことの無い社会を創ろうと思うならば皆が愛し合うように努力しなければならないのであります。

 他人を怒ったり恨んだり憎んだりしている人々に恨みや憎しみの心を持つことは悪いことだから止めなさいと言うだけでは効果はないのであります。他人の怒りや恨みや憎しみを受けるような行為をすることを止めさせねばならないのであります。他人を憎んでいるのでなくても知らず知らずのうちに他人を苦しめたり困らせたりしている人は沢山居ます。その様な誤りを無くさなければ怒りや憎しみを無くすことは出来ないのであります。皆が他人の気持ちや立場を認め合い、皆の利益や幸福の為に協力し合うならば怒りも怨みも憎しみも無くなるのであります。怒ったり怨んだり憎んだりすることは決して楽しいことでもなく幸福なことでもないのであります。故に怒ったり怨んだり憎んだりしない様に心掛けると共に他人から怨まれたり憎まれたりすることのない様に心掛け、皆を愛し、皆から愛される人間になる様に努力しなければならないのであります。


 
 
 
 ◎生かすことも必要であり殺すことも必要である。
 
 生命は尊く、生かすということも尊い務めであります。しかし生かすことの出来ない場合や殺さねぱならない場合も多いのであります。世の中には生かすことに依って相手を一層不幸にする場合もあり、生かすことが無益なこともあり、生かしてはならないこともあります。生きるに耐えない不具の身に生まれて来た子供達や大きな災難や事故の為にまともに生きて行くことの出来なくなった人を無理に生かそうとすることは本人の利益や幸福にもならず、家族や社会の利益や幸福にもならない場合もしばしぱあります。人間として生きることに何の利益も幸福も意義も見出だすことの出来ない人にとっては自然死や安楽死の機会を得て、不幸な現世を終って霊界に帰り新しい心や肉体を得て希望や幸福に満ちた生を送るために1日も早く生まれ変わる機会を得る方が幸福なのであります。
 
 また私達が生きるためには多くの動物や植物を殺して食べねばならないのであって、釈迦の如く一切の生き物を殺してはならないというのは誤りであります。しかし鳥や魚は人間に食べられることに依って成仏するのであるから殺して食べてやることは鳥や魚に対する人間の親切であるかの様に考える人もありますがそれも大きな誤りであります。私達が生きるために動物や植物を殺して食べることは神から許されていることではありますが、私達が自由勝手に好きな丈動植物を殺して食べる権利を与えられていると考えるのは誤りであります。必要以上に多くの生命を奪ったり残酷な殺し方をしたりしてはならないのであり、殺すことよりも生かすことを考える方が正しいのであります。



 
 ◎正直も必要であり偽りも必要である。
 
 私達は常に正直に生きる様に心掛けねばならないのであります。嘘をつくということは正しいことではなく、嘘をつかねばならないということは悲しむべきことであり不幸なことであります。日常生活にはしばしば嘘をつかねばならないことがあります。例えば泥棒が入って金品を出せと脅した様な場合に例え有っても無いと言って嘘をつくのは正当防衛として認められることであり、また返すつもりもない人が金品を貸してくれと言った様な場合に無いと言って断わるのは罪ではないのであります。或いはまた政府が悪い政治ばかりして国民から不当な税金を取り汚職や無駄使いばかりしている様な国家に於いては、国民が所得を誤魔化し脱税しようとするのは止むを得ないとも言えるのであります。要するに誰かが地位や権力や財力や暴力や悪意等で不当な要求をしたりする様な場合には自己の利益や権利を守るために嘘をつくのは仕方のないことであります。
 
 しかし正直な人や善意の人を騎すことは罪であります。また本当のことを教えれば相手の人を不幸にしたり傷付けたりするという場合に止むなく嘘をつかねばならないのは仕方ないことと言えるのであります。しかしその様な場合でも嘘をつく方が正しいとか立派であると考えるのは誤りであります。自己の正当な権利を守るために、或いは他人を不幸にしないために止むなく嘘をつくのだということを忘れてはならないのであります。例え泥棒に対してでも詐欺師に対してでも悪人に対してでも嘘をつくということは正しいことではなく立派なことでもないのであり、例えどんな場合でも正直である方が正しく立派なのであり、仕方なく嘘をつかねばならないということは悲しむべきことであり、不幸なことであります。故に自己が正直に生きるように心掛けると共に、また自己の愚かさの故に他人に嘘をつかすことの無いように努めるべきであります。自己が嘘をつくことが良くないことであるように他人に嘘をつかせることも良くないことであります。誰も騙すことがなく、誰も騙されることがなく、皆が正直に暮らせる社会が正しい社会なのであります。



 
 ◎拾うことも必要であり捨てることも必要である。
 
 拾うということは誰かが落としたものを拾うという意味ではないのであります。世の中には皆が無用無益と考えて見捨てて省みない物が沢山あります。その様な物を見つけて何か役に立つものに変えようと努力することによって無益なものを有益なものに変えることが出来、私達の生活をより豊かにすることが出来るのであります。
 その反面に皆が欲や虚栄や無知のために持っていても何の利益にもならず、損になるばかりのものも多いのであります。例えば日本刀の如きものは昔、人間が殺し合いばかりしていた時代には必要でありましたが今の平和な時代には何の必要もないものであります。何の必要もなく何の役にも立たないのに名刀だと言って国宝とか重要文化財と称して大切にすることは愚かなことであります。人間が愚かで邪悪で穢れていたからこそ人を殺すための刀が必要だったのであります。今の時代に日本刀の如きものは何の価値もないのであります。1振100万円の名刀よりも1丁1,000円の菜切包丁の方がどれ程人間の役に立っているか判らないのであります。

 国宝とか重要文化財と称している物の中には邪悪で穢れたものや無用無益なものが非常に多いのであります。その様なものを守る為に多くの費用や労カや設備等を無駄使いすることは誤っているのであります。故にその様なものにつまらぬ未練を持つことを止めて綺麗さっぱりと捨て去った方が得なのであります。しかし捨てることよりは拾うことの方が尊いのであり、他人が捨てて省みないものを拾って役立てようとすることが尊い様に、捨てようとする前にもう一度役に立てる途を考えようとすることも尊いのであります。


 

 ◎生産することも必要であり消費することも必要である。
 
 私達が働いて何物かを生産することも必要でありますが、また生活の為にそれらを消費することも必要なのであります。生産の目的は消費するためであります。故に消費する必要のない物や消費出来ないものを生産することは無駄なことであり、生産しないで消費丈しようとすることは愚かなことであります。必要なものや価値あるものを生産しようと努力する処に働く歓びや希望があり、苦労して作ったものを自己の為に、或いは世の為人の為に役立て消費する処に有難さや幸福感があると言えるのであります。しかし幾ら生産することが必要であるといっても戦争の為の武器弾薬を生産したり、人を堕落させる為の道具や商品を生産したり、他人を苦しめたり不幸にしたりする様な道具や商品等を生産することは現代の法律では罪にならなくても神の前には罪になるのであります。また消費することは必要なことでありますが、自分は働かないで生活しようとしたり、必要以上に無駄で贅沢な消費生活を送ることは罪悪であり、必要以上に沢山生産することは無駄なことであり、消費を美徳と考えることも誤っているのであります。人間の利益や幸福や進歩向上の為に必要な財貨を必要な丈生産し、尊い財貨を自他の利益や幸福や進歩向上のために役立てるのが正しい経済なのであります。