モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」 人生の道篇②

 次に「教えの道」について簡単に解説したいと思います。

 言葉で説くのも教えであり力で説くのも教えである。智恵で説くのも教えであり、愛で説くのも教えである。情熱で説くのも教えであり理性で説くのも教えである。人を教え導くための目的は1つであろうとも方法は無数である。教える人の立場に応じ、教えられる人の立場に応じ,或は場所や時の相違に応じて最も適した方法で教えを説けばよいのである。
                                         昭和44年7月29日朝


 一般には言葉を以って神の教えや真理を説くのが順序であります。しかし幾ら多くの言葉を以って説得しても相手に通じないことも多いのであります。その様な場合に体や力を以って教えを説いてもよいのであります。力を以って教えを説くとは日蓮宗で言う折伏とか或いは腕力や暴力で相手を承知させることではないのであります。働くことが嫌で仕方のない人に働くことの尊さや必要を説いても、命令しても何の効果もないかも知れません。しかし私達がそんな人を咎めたり怒ったり命令したりしても効果があるとは限りません。それよりも私達自身が楽しく働いて見せ働くことの楽しさや尊さや歓びを身を以って示すならば働くことの嫌な人も何時か少しづつでも見習う様になることもあり得るのであります。故に口先や言葉文で説くのが正しいのではなく体を使い力を以って即ち実践を通して真理を説くことも必要なのであります。
 様々な学問や知識や真理を求めている人にとっては智恵を以って教えを説くことは効果があります。しかし幾ら智恵があっても幸福になれるとは限らないのであります。豊かな知識を持っていても愛に飢えている人も沢山あります。その様な人は愛を以って教えを説く方が効果があり正しいのであります。情熱が多くの人々を動かす時もあれぱ、理性を以って真理を語り合うことを求める人々もあります。故に或る人には情熱を以って教えを説き、或る人には理牲を以って説けばよいのであります。
 

 ○ 人を教え導くための目的は1つであろうとも方法は無数である。教える人の立場に応じ、教えられる人の立場に応じ、或いは場所や時の相違に応じて最も適した方法で教えを説けばよいのである。

 人を教え導くのは健康になれる様に、幸福になれる様に、賢明になれる様に、進歩向上出来る様に念願するからであります。故に相手の人が何を求めているか、何を必要としているかということも考えねばならず、相手の人に理解出来ることや実行出来ることでなくてはならないのであります。故に教える人の立場や教えられる人の立場や時や処の相違に応じて最も適当な方法を以って相手の人に最も理解し易く実行し易い様に教え導く様に努力すればよいのであります。




 次に「人生訓」について簡単な解説をしたいと思います。
 
 ○ 生きる心のない人生は無意味である
 
 世の中には生きていても仕方がないとか生きることがいやになったとか、早く死にたいなどと言う人がよくいます。その様な心では何十年生きても人生は無意味であります。人間は幸福を求めるために生まれさせられ生かされているのであります。しかし幸福を求めるためには修行して真理を学ばねばならないのであります。故に先ず生きることの尊い意義を覚り、生きることに歓びや幸福や希望を持って力強く楽しく生き抜いて行こうという意志を持たねばならないのであります。人生は得難いのであり、得難い人生を無意味に無自覚で過ごしてはならないのであります。折角神から与えられた尊い人生を疎かにして、生きているのが嫌になったとか、早く死にたいというのは神に対して大きな罪になるのであります。
 

 ○ 覚りのない人生は空虚である
 
 人生は学んだり働いたり修行したりしてその体験を通じて宇宙の真理を覚り賢明になり高級になり進歩向上するために存在するのであります。漠然と勉強し漠然と働き、食べて遊んで寝て一生を終わってはならないのであります。勉強を通じて真理を覚り、勤労を通じて真理を覚り、修行を通じて真理を覚り、少しでも賢明になり高級になり幸福になる様に努力することが充実した有意簑な人生なのであり、一生何も覚らず慢然と生きることは空しい人生なのであります。


 ○ 幸福でない人生は暗闇である
 
 人生は幸福を求めるために存在するのであります。故に幸福でない人生など本来存在すべきではないのであります。神の定められた宇宙の法則を守って正しい人生を送りさえすれば皆が幸福に暮らせる様に神が仕組んで下さっておられるのであります。然るに不幸な人生を送っている人は宇宙の法則を知らずに誤った人生を送っているか、宇宙の法則を知っていながら敢えて宇宙の法則に叛いて邪悪な人生を送っているかのいずれかであります。故に不幸な人生を送っている人は目己の犯している誤りや罪を反省し宇宙の法則に従った正しい生活を送りさえすれぱ必ず幸福になれるのであります。
 

 ○ 目標のない人生に生甲斐はない
 
 人生には何か正しいしっかりした目標が必要であります。何の目標もなく毎日を何となく過ごしていては進歩向上もなけれぱ生甲斐もないのであります。正しい目標を持ち、目標に向って努力しながら一歩一歩近づいて行く処に素晴らしい人生の生甲斐や希望があると言えるのであります。


 ○ 感謝の心のない人に平安はない
 
 神の愛や大自然の恵みや人の好意などに感謝することの出来る人は幸福なのであります。感謝するということは信じ尊び喜んで受け入れることが出来るからであります。しかし感謝の心のない人は信じ尊ぶことも喜んで受け入れることも出来ないからであります。故に感謝の念のない人は心の拠り処とするものがなく平和や安らぎを得る道がないのであります。心から有難いと思えるのは、信じ切れるものや頼り切れるものや心に受け容れ拠り処とするものがあるからであります。


 
 ○ 感激を知らない人に素晴らしい歓びはない
 
 大自然雄大な景色を見て偉大であると思い、美しい音楽を聞いて素晴らしいと思い、美しい絵や彫刻を見て素晴らしいと思い、美しい詩を読んで素晴らしいと思い、神の教えを聞いて素晴らしいと思うことの出来る人は何時も素晴らしい歓びを得ることの出来る人であります。感激を知ることの出来る人は心が純粋であり感受性が豊かであるからであります。美しいものを有りの儘に美しいと思い、雄大なるものを雄大であると思い、清らかなものを清らかであると思い尊いものを尊いと思うことが出来るのはその人の心が純粋であるからであります。大自然の美しさや荘厳さに感激し音楽や文学や芸術等の素晴らしさに感激し、人の美しい心や立派な行為や素晴らしい言葉や麗しい愛情等に感動し尊い教えや真理を聴いて感動することの出来る人は非常に幸福な人なのであります。素晴らしい感激や感動を覚えることの出釆るのはその人の心の感受性が強く純粋であり素直であり、広く豊かであり詩的芸術的であり高貴であるからであります。その様な人の一生こ素晴らしい歓びに満ち溢れた幸福な人生なのであります。
 その反面に何を見ても聞いても何に触れてもどんな人に接しても美しいとか偉大なとか尊いとか有難いとか素晴らしいとかいう感じを持つことの出来ない人々があります。その様な人々は心の感受性が弱く不純であり不正直であり非芸術的であり狭く貧しく賎しいのであります。故に感激を覚えることの出来ない人は小さな低級な歓びを持つことは出来ても素晴らしい人生の歓びを感ずることは出来ないのであります。しかしその様な人々も感受性を強め純粋で素直で広く豊かで芸術的で高貴な心の持主になる様に常に修養に努めるならば素晴らしい感激や感動を知ることが出来る様になるのであります。



 ○ 満足を知らない人は常に貧しい
 
 与えられたものに感謝し満足し喜びを感ずることの出来る人は豊かなのであります。質素な食物を頂いても美味しいと思い、有難いと思い、感謝し満足し喜んで暮らすことの出釆る人は豊かであり幸福であると言えるのであります。どんなに美昧しいものを食べてもそれを当り前と思い有難いとも思わず、もっと美味しいものを食べて見たいと思う人は感謝の心がなく満足感がなく歓びがなく貧しく不幸であると言えるのであります。沢山の財産を持ち財産を死蔵しながらもっと沢山の財産が欲しいと思って同業者を倒し労働者の職を奪い他人の生活や幸福を犠牲にして財産の畜積を図る人は満足を知らない餓鬼であり貧しい愚かな人であると言わねぱならないのであります。



 ○ 反省のない人には改善はない

 人間は完全無欠ではないのであり日常の行為の中で誤りや失敗がしばしばあるのも寧ろ当然のことであります。故に自己の行為について後から色々と反省して見て、誤っていたと思うことは改め、再び誤りを繰り返さない様に努力することに依って自己はより欠点や短所の少ない高級な人間になって行けるのであります。


 
 ○ 努力のない人に進歩はない

 どんなに立派な目標を持っても、真理を求める心があって努力しようとしなければ得るものもなく進歩も無いのであります。正しい目標を持ち目標に向って努力する処に進歩があると言えるのであります。



 ○ 根本を知ることが大切である
 
 私達の周囲には是非知らねばならないことと知る必要のないこと、しなければならないこととする必要のないこと、急ぐことと急がないこと、重要なことと重要でないことなどの差別があります。その様なことを適確に判断し処理することは非常に重要なことであります。其のためには何が一番重要なのか、何が根本であるのかということを正しく判断しなければならないのであります。根本を知らずに枝葉ばかりに拘ってはならないのであります。



 ○ 無理は損失である
 
 何事をするにも無理をして得になることはないのであります。機械を能力以上に使用すれば故障を起し易く、肉体を無理に使えぱ病気になり易く、営業に無理をすれば倒産の危険もあります。どんな事でも無理は損失になるのであります。



 ○ 危険を知らないのは愚である
 
 私達にとって生命は掛替えのない尊い大切なものであります。生命を尊ぶということは生命の安全を守るということでもなければならないのであります。酒を飲んで自動車を運転したり無謀運転をしたりすることは危険を知らない愚かな行為であります。欲や金儲けのために敢えて危険なことをしたり、地位や名声を得るために危険なことをしたり、冒険やスリルを求めて尊い生命を危険に曝すことは愚かなことであると覚らねばならないのであります。
 


 ○ 可能の限界を知れ

 「精神一到何事か成らざらん」という言葉がありますが、幾ら強がりを言っても努力しても不可能なことは無数にあります。「余の辞書に不可能という字は無い」という様な大言を吐くことは誤っているのであります。何事にも可能と不可能の限界があります。心意気丈で何でも出来ると思うのは愚かな人であり、可能の限界を知るのが賢明な人なのであります。



 ○ 病気と災難は自己の責任である
 
 病気や災難に遭うのは全て心の誤りや生活の誤りが原因であります。故に病気や災難は全て自己の責任なのであって他人を怒ったり怨んだり不運を嘆いたりするのは誤りであります。まして病気になっても他人が見舞に来てくれないとか、災難に遭っても同情してくれないと言って怒ったり怨んだりすることも誤っているのであります。病気になったり災難に遭ったりするのは自己の心の誤りや生活の誤りが原因であることを覚り反省し、心を改め生活を改めるのが賢明な生き方であります。



 ○ 想い出をいつ迄も辿るべきではない
 
 過去の美しく楽しい想い出を持つことは幸せなことであります。しかし人間はしばしば過去の不快な、嫌な、悲しい、苦しかった想い出をたどって怨みや憎しみの念を起したり悲しんだり嘆いたり怒ったりすることもあれば、過去の栄光ばかり想い出して現在の不幸を悲しんだり、過去を他人に誇ったりすることがよくあります。しかし過去の栄光を自慢しても過去の不幸を思い出しても利益になることは何1つないのでありその様なことはしない方がよいのであります。



 ○ 空想は時閻の浪費である
 
 世間にはよく宝くじが当ったらこんなことがしたいとか自己が億万長者になったら豪華な家を建てたり海外旅行をしたり美術館を建てたり慈善事業を起したりしよう等ととりとめもない空想に耽る人がいます。宝くじを買って楽しむ等は僅かな出資で大きな楽しい夢が見られて結構だと言う様な人も沢山いますがその様な考えは誤っているのであります。空想を楽しむのにお金も労力も要らずただだからこんな安い楽しみはないなどと思うのは愚かな考えであります。空想を楽しんだ後に残るのは現実との相違に対する空しさ丈であります。故に空想に耽って何1つ得るものはないのであります。しかし空想は貴重な時間を浪費すること丈は確かであります。人生にはしなければならないことが無数にあります。故に何1つ得る処のない空想に時間を浪費することは大きな損失なのであります。貴重な時間は幸福になるために、賢明になるために有効に活かして使うのが尊い修行なのであります。



 ○ 愚かな人の真似をしてはならない
 
 愚かな人がすることを真似れば自己も愚かな人間になるばかりであります。例えば職場で給料が安くて仕事がきついから働くのが馬鹿らしい等と言って何時も不平不満ばかり言い仕事を怠けたり出鱈目ばかりする人がいます。その様な人を見て他人が不平不満ばかり言って怠けているのに真面目に働くのは損だと思って真似る人もよくあります。不平不満や悪口や愚痴ばかり並べたり、怠けたり手を抜いたり低級なことをするのは愚かな人であります。愚かな人の真似をすれば自分も愚かな人間になるのであります。他人が愚かなことや誤ったことをしているのを真似てはならないのであります。例え皆が誤ったことをしていても自分は正しいことをし、誤ったことをしている愚かな人を嗜めたり指導したりするのが賢明で高級な人なのであります。人間は自己より賢明で高級な人のすることを真似て進歩向上して行くのが正しいのであります。
 

 
 ○ 悪事を倣ってはならない
 
 他人が嘘をついたり誤魔化したり、物を盗んだり様々な不正行為をしているのを見て、うまいことをやっていると思って真似る人がよく居ます。テレビや小説等の犯罪行為を参考にして犯罪を実行する人もいますが真に低級愚劣で誤った行為であります。正しいことや高級なことを倣うのが修行であり進歩向上であって悪事を倣って悪に上達するのは退歩であり堕落であることを知らねばならないのであります。



 ○ 安易な同情は立派な行為ではない
 
 他人が困っているいるとか苦しんでいるのを見るとすぐ同情して助けようとする人がよくあります。しかし安易な同情と援助はしばしば有難迷惑やおせっかいになることも多いのであります。人間は様々な困難や悩みや苦しみや悲しみ等を体験しそれに耐えたり乗り超えたりしながら修行をし進歩して行くのであります。故に安易な同情と援助はしばしば他人の修行や進歩向上の妨げとなるのであります。また病気や災難は自己の心の誤りや生活の誤りから起るのであります。然るに病気や災難で悩んだり苦しんだりしている人に対して、「あなたの様な真面目で正直で善良な人が病気や災難に遭い苦しむのは本当に運が悪いからでしょうね」とか「あなたの様な良い人がこんな不幸に遭うのは世の中に神も仏もないからだと思います。」という様なことを言って慰めたりする人もありますがそれは誤っているのであります。 

 人間は運不運で病気になったり災難に遭ったりするのでもなければ神仏が存在しないから不幸や災難に苦しまねばならないというものでもないのであります。神の教えに叛いて誤った生活を送るから病気や災難に遭い苦しまねばならないのであります。病気の人に薬や金品を恵み与えたり、災難で困っている人に金品を与えたりすれば一時的には救われるでありましょう。しかし病気や災難に遭う人の心の誤りや生活の誤りを諭し改めさせないならば不幸の原因が無くならず再び不幸に遭わねばならないのであります。故に不幸の原因を無くしないで安易な同情や援助をすることは正しいとは言えないのであります。



 ○ 人を喜ばせることが正しいとは限らない

 他人を喜ばせて今日は良いことをした気持ちが良い、と一人満足する人がよくあります。しかし例えば酒の好きな人に酒を沢山飲ませて幾ら感謝されてもその様な行為は相手の人を本当に幸福にするものではないのであります。他人の健康や幸福や進歩向上の為に役立つ様な事をして喜ばれるのは本当に良いことであり立派な行為であります。しかし愚かな他人に酒を沢山飲ませたり、低級な見せ物を見物させたり、穢れた金品を贈ったりして他人を幾ら喜ばせても、結果的には相手の健康を害したり相手を堕落させたり、罪を犯させたりすることも多いのであります。故にその様な行為で他人を喜ばせることは決して正しいことではなく誤りであり罪であります。他人の健康や幸福や進歩向上の為に役立つ様なことをして喜ぱれる行為が正しいのであります。



 ○ 遊蕩に依って道を覚ることは出来ない
 
 世間にはよく若い頃から放蕩ばかりして世の中の酸いも甘いも良く知った物判りの良い苦労人だという人がいます。しかし幾ら遊蕩に耽っても自己を穢し低級にし堕落させるばかりで何の進歩にもならず、遊蕩に依って尊い真理を覚ることは出来ないのであります。遊蕩に耽ってみて他人が遊蕩に耽る気持ちが判る等というのは愚かな考えであります。遊蕩に耽って遊蕩の愚かさや空しさや誤りを知るのは低級愚劣な人間なのであります。



 ○ 奉仕の心のない仕事は立派なものではない
 
 金銭財産、地位権力名声等を得るのを目的として働くのであればどんな職業も立派な、高級な、尊い職業であるとは言えないのであります。働くことは尊いことであります。しかし収入を得たり地位や名声を求めるために働くのであれば単なる労働者に過ぎないのであります。共産党社会党の人々がいう処の労働者に成り下ってはならないのであります。自己の修行と進歩向上と社会への奉仕のために喜んで働くことの出来る人は労働者ではなく修行者であり求道者であります。学校の教員であっても医者や看護婦であっても、神官や僧侶や布教師であっても役人であっても政治家であっても自己の収入や地位や名声を得るのが目的であり、修行や奉仕の心に無い人は単なる労働者であるに過ぎず教育家とか聖職者とか公僕とか芸術家とか指導者等と呼べるものではないのであります。



 ○ 偉人の言動が全て正しいとは限らない

 偉人の言った事やした事を何でも正しいと思い立派なことだと思って真似たり模範にしたりすることは決して良い事ではないのであります。釈迦やイエス孔子の説いた教えにも多くの誤りがあります。まして多くの偉人英雄等と呼ばれた人々の言動には嘘や矛盾や誤りや穢れも多いのであります。故に私達は偉人の言動を何でも手本にしたり真似たりすることはやめて自己の理性や良識を持って正しい行動をとる様に心掛けねばならないのであります。



 ○ 悪人の言動の全てが悪であるとは限らない
 
 正邪善悪は相対的なものであって善人と思われていた人が悪人であったり悪人であると思われていた人が善人であったりする例もよくあります。そうして善人の言動の全てが正しいのではなく誤りも沢山ある様に悪人と言われている人々の言動の全てが悪であるとは限らないのであり、泥棒にも三分の理があるという様に悪人の言動にも正当なことがあることは認めねばならないのであり、例え悪人の行為でも正しいことは正しいと認めるべきであります。



 ○ 情熱は行動の原動力である

 情熱や心意気こそ私達の活動力の源泉であります。情熱のない人程寂しいものはないのであります。如何に理想や目標はあってもそれを実現に移して行こうという情熱がなければ何もする気にはならないのであります。情熱を以って理想の実現のために努力して行こうとする処に素晴らしい生甲斐や歓びがあると言えるのであります。情熱が無ければ努力する気も起らず、苦労に耐えることも出来ず、困難を乗り超えることも出来ず素晴らしい生甲斐や歓びを得ることも出来ないのであります。しかし情熱の赴くままに猪突猛進することは非常に危険であり慎まねばならないことであります。



 ○ 理性は正しい進路を知る羅針盤である

 私達が何事をするにも、これはして良いことであるかどうか、今何をすべきであるか、どの様な方法ですれば良いかという様なことを正しく判断して実行する様に心掛けなければ必ず大きな失敗や誤りや損失や不幸を招く原因となります。私達に情熱がなけれぱ何も出来ません。しかし正しい目標もなく、判断力もないままに情熱丈で猪突猛進することは危険であり理性を以って正しい目標を定め、正しい判断を下しながら努力を続けるならぱ安全確実に目的を達成出来るのであります。



 ○ 自由のない平和に幸福はない
 
 人間にとって自由が如何に大切なものであり素晴らしいものであるかということを知らない人は愚かな人であります。自由のない平和や安全は牢獄の中での平和や安全と同じなのであり、其処に真実の幸福はないのであります。例えば徳川時代に約300年に亘って表面的には平和な時代が続きましたが、下級武士や多数の百姓町人達に平和を楽しむ歓びがあったと言えるでありましょうか。階級に依る差別、幕府や大名の苛酷な年貢の取り立て、武士の横暴、幕府の様々な禁制等が如何に国民の自由を束縛し幸福を奪ったでありましょうか。私達は自由のない平和に人間として生きる希望も歓びも幸福もないことをよく覚らねばならないのであります。



 ○ 愛は正邪善悪や理非曲直や権利義務を超越する
 
 人生に於いて正邪善悪や理非曲直や権利義務を明らかにしそれを尊重することは必要であります。しかし信賞必罰とか勧善懲悪という言葉がある様に、正しい者には賞を与え罪を犯した者は罰を与えたり、善を勧め悪を懲らしめさえすれば世の中が良くなり皆が正しい人間になり、皆が幸福になれるかと言うと絶対にそうではないのであります。正しい者や善人を表賞したり賞金を与えたりすれば皆が善行に励み正しい人間になるだろうと思うのは愚かな思想家や政治家の迷いであり戯言でしかないのであります。善行をした者を褒めたり賞を与えたりすれば、賞を貰いたさに偽善行為をする者が増加します。また賞を呉れなけれぱ善行はしないという心を起させます。正しいことをするのも社会のために奉仕するのも自己の修行のためであり、自分自身の幸福や進歩向上のためであり、褒めて貰いたさに、賞を貰いたさに善行をするのは愚かで低級で穢れた人々のすることであります。また賞品でも呉れなければ善行も社会奉仕もしたくないという心にさせることは国民の心を汚し堕落させることであります。また罪を犯した者を罰することばかり考えれば人に知れない様に隠れて悪事をする様になりむしろ悪を蔓延らせることにもなるのであります。
 
 更に真面目に正しく生きて行こうと努力しても社会制度が誤っているために正しい者が損をし、真面目な者が罪を犯さねば生きて行くことが出来ない場合も多いのであり、その様な社会の矛盾や誤りを改めようとしないで罪を犯した者を罰するならぱ国民の怨みや反感を買うばかりでなく神の怒りに遭わねばならなくなるのであります。故に信賞必罰主義や勧善懲悪主義そのものが誤っているのであり、その様なやり方で皆が幸福になれる正しい政治など出来る訳はないのであります。正邪善悪、理非曲直、権利義務等の観念に拘っている人々は小さな人物であり低級な人物であると言えるのであります。正邪善悪、理非曲直、権利義務等を超越して全ての人々の利益や幸福や進歩向上を念願し誠心を以ってそのために努力するのは人間の愛の心なのであります。




 ○ 栄光への道は苦難の道である

 輝かしい栄光を夢みて努力する人は沢山います。しかし栄光は求めれば得られるものではないのであります。栄光を求めて努力することは寧ろ誤っているのであります。苦しみや悩みに耐えて努力しさえすれば誰にでも栄光が得られる訳でもないのであります。毎日を倦まず弛まず正しい努力を続けておりさえすれば皆が特別の苦しみや悩みを体験しなくても確実に幸福になり高級になれるのであります。あらゆる苦難に耐えてでも栄光を求めたいと思うのは欲であり愚かな考え方であります。苦難の果てに輝かしい栄光を得てもそれは一時の歓びであり夢でしかないのであります。あらゆる苦労や困難に耐えて理想の実現のために努力することは尊いことであり正しいことであります。しかし栄光を求めて苦難の中に生きることは決して楽しく幸福な人生であるとは言えないのであり誰にでも奨められることではないのであります。



 ○ 常に真実を見窮めよ

 人間は常に真実を知り真実を拠り処とし真実の人生に真実の幸福を求めて生きて行くのが正しいのであります。そのためには常に真実を見窮め真実を知る様に努カしなければならないのであります。虚偽を求め虚飾や虚栄の人生を送ってはならないのであります。虚偽の生活の中に真実の幸福や進歩向上はないのであります。常に真実を求め、真実を拠り処として真実の人生に生きて行くことが真実の幸福や進歩向上を求めることの出来る正しい途なのであります。



 ○ 常にまことの心で生きよ

 まことは真でもあり誠でもあります。世の中には権謀術策を用いることを得意とする人もあり、お世辞や胡麻摺りや誤魔化しの上手な人もあります。権謀術策を用いお世辞や誤魔化しを好む人は低級な人であります。その様なことから本当の利益や幸福や平和は得られないのであります。口で世界平和を唱えながら軍備の拡張に努力している人々は虚偽の人であり邪悪な人であり誠心の無い人であります。心から皆の利益を願う人は私利私欲を図ったり、必要以上に沢山の財産を貯えたり、同業者を倒産させたり、他人の正業を奪ったり他人の名誉を傷付けたりはしないものであります。心から他人に幸福を願う人は他人が病気になる様な悪い食物を作って売ったり、他人を低級にしたり堕落させたりする様な娯楽や趣味を普及させたり小説を書いたり絵を画いたり音楽を聞かせたりはしないものであります。現代の社会には余りにも誠心が欠乏しているのでかります。政治家も実業家も教育者各宗教家も一般民衆も多くの人々が誠心を失っているのであります。そのために誤った穢れた政治が行なわれ、人々の健康を害したり心を堕落させたりする様な商品が氾濫したり、穢れた音楽や文学や芸術などが社会に持て囃されたり、邪悪で穢れた行為が社会で支持されたりするのであります。心から皆の利益や幸福や進歩向上を念願し、どの様にすればそれが実現出来るかを考え、正しいと思ったことを実践して行くのが誠の心であり、誠の人生であると言えるのであります。
 
 多くの人々は主観的には他人の利益や幸福や進歩向上を念願しています。しかし現実には自己の利益を優先して他人の利益を無視し、自己の幸福ばかりを求めて他人の幸福を害する様なことを平気でしながらそれを正しいと信じているのであります。誠の心とは頭で他人の幸福を念願し、口先で他人の幸福を祈ったり他人の幸福を祝福したりする心ではないのであります。自己の言葉や行動や職業などが本当に皆の利益や幸福や進歩向上や平和などのために役立っているか否かということをよく反省し、頭の中や口先ぱかりでなく、家庭や職場や社会などあらゆる場所での行勤を改めて本当に皆のために奉仕するのが誠の心なのであります。




 次に「人生讃歌」について解説したいと思います。私がこの詩を得た昭和42年頃、私は罪とか悪とか穢れという様なことについてよく考えておりました。世の中には盗みや詐欺や殺傷などの犯罪がありますが、その様な罪悪とは全く違った意味での罪とかけがれとかいうものも沢山ありす。例えば近親相姦、近親結婚、一夫多妻制、一妻多夫制、集団婚、乱婚、父系制、母系制などの結婚制度とか結婚の形式、離婚、再婚、婚前交渉、婚外性交、或は配偶者外の性交、ホモ、レスビアン、サディズムマゾヒズムフェティシズムなどと呼ばれる行為が果して正しいのか誤りであるのか、罪穢れであるのかという様なことについて深い関心を持って研究していたのであります。その様な行為を罪悪とか穢れと称して否定し去ることは容易であります。しかしそれらを社会から根絶することが出来るかと言うとそれは困難なのであります。それが罪悪であり穢れであるならば何故多くの人々が敢えてそれを求めたり実行したり楽しんだりするのでありましょうか。その様な問題を解決することも出来ないのに悪であるとか穢れであると言って簡単に否定し弾圧を加えたり刑罰を加えたりしても世の中が浄化されることもなけれぱ皆が幸福になれるものでもないのであります。それらの行為をあるがままに正しく見窮め正しい判断を下すことが必要であります。
 
 例えば近親相姦、近親結婚という行為は邪悪で厭らしい汚らわしい行為であると断定出来るでありましょうか。近親相姦と近親結婚とは多少その意味に相違があると言えます。即ち近親相姦というのは単に近親者同志の性行為を指すのに対して近親結婚とは近親者同志の正式の結婚を指すと考えられるのであります。近親相姦、近親結婚の中で特に倫理道徳戒律などの面で厳しく批判されているのは父娘、母息子、兄妹、姉弟の間でありましょう。生物学的、遺伝学的、優生学的には近親結婚は確かに不利であると考えられます。それは劣性の子孫が生まれて来る確実性が強いからであります。その点で近親結婚は不利であると言えるのでありますが、特に罪悪であるとか穢れであるとは断定出来ないのであります。日本の古代史を研究して見ますと兄妹、姉弟の結婚も行なわれていたことが明らかであり、特に異母兄妹、異母姉弟などの結婚は公然と認められていたことは明らかであります。古代エジプトの女王クレオパトラは弟と結婚していたのも事実でありその様な例は世界各国にあります。優生学的な面から見れぱあまり奨励すべきことではありませんが近親結婚を罪悪であるとか穢れであると言うのは行き過ぎであります。
 
 さて旧約聖書の創世記にはアブラハムの甥のロトと2人の娘のことが書かれています。それを次に引用してみます。

「主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、ソドムとゴモラの方、および低地の全面を眺めると、その地の煙炎が、かまどの煙の様に立ち上っていた。こうして神が低地の町々をこぼたれた時、即ちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。
 ロトはゾアルを出て上り、2人の娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼は2人の娘と共に、ほら穴の中に住んだ。時に姉が妹に言った。「わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちの所に来る男はいません。さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう。」彼女たちはその夜、父に酒を飲ませ、姉が入って父と共に寝た。ロトは娘が寝たのも、起きたのも知らなかった。あくる日、姉は妹に言った。「わたしは昨夜、父と寝ました。わたしたちは今夜もまた父に酒を飲ませましょう。そしてあなたがはいって共に寝なさい。わたしたちは父によって子を残しましょう。」彼らはその夜もまた父に酒を飲ませ、妹が行って父と共に寝た。ロトは娘の寝たのも、起きたのも知らなかった。こうしてロトの2人の娘たちは父によってはらんだ。姉娘は子を生み、その名をモアブと名付けた。妹もまた子を生んで、その名をベニアンミと名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。

 聖書にはこの様に述べていますが、ロトの娘達の行為が正しいことか誤ったことかについては何も述べてはいないのであります。この様な場合のロトの娘達の行為は正しいのであり、賞賛されてもよい行為であります。例えば天災地変とか戦争などで多くの人々が死滅し、生き残った少数の男女に適当な結婚の相手を他に求めることが不可能であるという様な事態が起ったならば、例え父と娘であろうと兄と妹であろうと結婚して子孫を残す様に努力するのが正しいのであります。故に近親結婚は決して奨励すべきことではないとしても時と場合によっては正しいと認められねばならないのであります。
 
 また結婚は通常一夫一婦制が正常であると言えますが、一夫多妻制や一妻多夫制が誤りであるとは言えないのであります。社会にはしばしば結婚適齢期の男女の比率に大きな相違を生ずる例がありそのために一夫一婦の結婚制度では結婚出来ない男性や女性が沢山出来ることもあるのであります。結婚生活は人生にとって尊い修行であり、恋愛や性愛の歓びを得ることは人生にとって大きな幸福や希望なのであります。故に結婚適齢期の男女の数に差があって結婚出来ない男女が出来ることは不幸なことであり、恋人を得るために競い合って殺し合ったり傷付け合ったりすることも不幸であり、結婚の相手を得られず一生寂しく過ごさねばならないことも不幸であります。故にその様な場合に1人の男性が2人の女性と結婚したり、1人の女性が2人の男性と結婚したりすることも認められるのが当然なのであります。その場合に1人の男性と2人の女性、或いは1人の女性と2人の男性がお互に心から信頼し合い鵠力し合って良き家庭を創る様に努力しなければならないことは言う迄もないことであります。そうしてお互に心から信じ合い愛し合い尊敬し合うことが出来るならば、1人の異性に捧げる愛も2人の異性に捧げる愛も共に美しく清らかで尊い愛であることに変わりはないのであります。
 
 次に同性愛も一方的に悪いとか汚らわしい行為と言えないことも多いのであります。例えば男性霊が女性の肉体を持って生まれて来たり、女性霊が男性の肉体を持って生まれて来たりする場合も多く、その様な場合肉体は男性であっても心が女性であるために女性と愛し合うことが出来ず、男性と愛し合いたいと思う場合もあり、肉体は女性であっても心が男性であるために男性と愛し合うことが出来ず女性と愛し合いたいと思う場合もあるのであります。このような場合同性愛は必ずしも罪とか穢れというものではないのであり、心は男性であっても女性として生まれて来た人は女性としての人生の修行に励む様に心掛け、心は女性であっても男性として生まれて来た人は男性としての人生の修行に励む様に心懸けるのが正しいと言えるのであります。
 
 また社会は男性と女性が共存するのが当然であるのに学校とか職場とか軍隊とか修道院などで男女を隔離してしまうために異性と接することが出来ず、異性の代りを求めて同性愛が生まれたりすることもあるのであり、この様なことは男女の接触を阻止するという自然の摂理に反した制度がその反動としての同性愛を生むとも言えるのであり、男女を隔離して自然な接触を阻止すること自体が自然の摂理に叛く誤った行為であると言えるのであります。

 また婚前性交とか配偶者外の異性との性交を必ずしも誤りとか穢れとは言えないのであります。経済的、家庭的、社会的な理由で結婚式を挙げることが出来ない場合もしばしば有り得ます。結婚は男女が心から信じ合い愛し合って1つの家庭を創ろうと約束すればそれで成立すると考えればよいのであり、結婚式場で親族や友人知人を沢山集めて盛大な結婚式をしなければ結婚は成立しないと考える方が誤っているのであります。結婚する意志なくして性行為のみを楽しみたいという人は論外であるとし、結婚式を挙行しなければ結婚は成立しないという考えは誤りであります。ただ結婚する2人がお互の両親や兄弟姉妹とか周囲の人々の了解を得なければならないことは当然であると言えましょう。故に結婚式を済ませていないから夫婦として愛し合ってはならないと断定するのは正しいとは言えないのであります。
 
 また配偶者以外の異性との性交を必ずしも厭らしい穢れた行為と考えるべきではないのであります。例えばエスキモーの人々は嘗て旅人に妻を貸すという習慣があったのであり、それは極地で人口密度が非常に低く血縁の比較的濃い人々との間でしか結婚相手を求めることが出来なかったエスキモー人達にとっては旅人に妻を貸すことに依って妻が妊娠すれば血縁の遠い人の子を生むことも出来、血の濃くなり過ぎるのを防ぎ優生学的に良い結果を得ることも出来るのであり、民族の退化を防ぐための必要手段であったとも言えるのであります。
 またローレンス文学の有名な作品「チャタレー夫人の恋人」にある様に夫が性的不能者であってしかも愛する妻の子供が欲しいために自分以外の男性と愛し合ってでも妻に子供を生んで欲しいと言う希望があるならぱ、妻が未の承諾を得て夫以外の男性の子供を生むということは厭らしい穢れた行為と言うべきものではないのであります。また妻が不妊症であって夫と他の女性との間にでも子供が欲しいと思い、妻の合意の上で別の女性と夫との間に生まれた子供を我が子として育てるという例もありその様な行為を誤った行為とか厭らしい行為と言うのは誤りであります。
 
 また離婚や再婚を認めない社会もあれば離婚や再婚を汚らわしい行為と考える社会もありますが、それは誤っているのであります。人間の社会が誤っているのであり、人間同士も不完全でありますから愛し合って結婚しても幸福な結婚生活を送ることが出来なくなる例も多いのであります。相性や性格や優生学的な面での不適合などが判り幸福な結婚生活を続けることが不可能であると考えられる場合はお互によく話し合って円満に離婚し良い配偶者を求めて再婚するのが正しいと言えるのであります。尤も個人の我儘で簡単に離婚するのほ決して良いことではありませんが、不幸な結婚生活を一生続けるということは正しいことではないのであります。人生は幸福を求めるためにあり、進歩向上のためにあります。故に不幸な結婚生活を一生続けるとか、進歩のない結婚生活を長く続けることは誤っているのであります。
 
 次にサディズムマゾヒズムフェティシズム、ヌーディズムなども社会では厭らしい穢れた恥ずべき行為である様に思われていますが、必ずしもそうとは言えないこともあるのであります。太古人間が野蛮未開であった頃には裸体や裸足で山野を走り廻っていたでありましょう。その様な時には肉体に負傷することも多かったと思われます。しかししばしば負傷することが多ければ傷の回復力や自然治癒力などが強化されるでありましょうし、負傷することが少なくなれば傷の回復力や自然治癒力などは次等に低下すると思われるのであります。人間の肉体は使わなければ弱くなると言います。若し人間が非常に高度の文明を創造し高度の文化生活を送る様になり、動物や害虫や病原菌などの危険から全く隔離され、事故その他の負傷なども全くなくなり病気や負傷をすることが全くなくなって安全で平和な生活を送ることが出来る様になり、何十世代、何百世代を経過する様になると病気に対する抵抗力や負傷に対する回復力や自然治癒力は次第に弱くなって行き肉体は弱体化して行くでありましよう。病気や負傷などに対する自然治癒力や抵抗力は遺伝に依って長く子孫に伝えられて行くものと考えられます。従って人類が長い世代に亘って病気や負傷などを体験することがなくなれば、抵抗力や回復力や自然治癒力は次第に必要なくなり肉体は弱体化し抵抗力や回復力や治癒力は次第に遺伝されなくなり失われて行くものと思われます。それでは人間は退化して行く心配も起って来るのであります。世間にはよく生水や生ま物を食べたり飲んだりする丈で下痢を起すという様な人もいます。その様な人は何でも煮たり焼いたりしなければ食べない習慣を付けるから生水を飲んだ丈で下痢をするのであり、生水を飲む習憤を付けていれば下痢をしなくなるものであります。
 
 また人間が食物の調理加工をして軟らかい食物を食べる習慣を長い世代続けて行けば歯が小さく弱くなり顎の骨や筋肉も弱くもなり口も小さくなり退化して行くのであります。その様な肉体の或る部分の弱体化、退化が人間にとって果して良いことかどうかということはよく考えてみなければならないことであると言えるのであります。人間が高度に文化的な生活をし、自然から離れた生活をする様になる程精神的肉体的な抵抗力や回復力や治癒力などは弱くなり退化して行くことは避けられないと言えるのであります。
 
 マゾヒズムの人々は全身を縄で縛られたり鞭で打たれたり様々な苦痛に耐えることに喜びを感じるのでありますが、しばしば鞭で打たれている人々は皮膚が傷付いても早く治るとも言います。それは様々な肉体的な苦痛に喜んで耐える人は傷に対する治癒力や抵抗力や回復力が強化されるからであると言えるのであります。サディズムマゾヒズムフェティシズムなどは案外、文化人とか知識人と呼ばれる人々の中に多いと思われますが、その様な行為は人間が文化的になり過ぎて弱くなり退化していくのを防ぐ為の高度な手段として考えてみると重要な意義を持ってくると言えるのであります。ヌーディズムなども文化的になり過ぎて精神的肉体的両面で弱くなり勝ちな人間が自然に還って裸体の生活をし膚を日光や風や水に曝すということは病気に対する抵抗力を強め健康を増進させることに役立つのであります。

 地球人類は宗教の戒律や法律や倫理道徳や礼儀作法などを作って皆の幸福や秩序を維持しようとして逆にそれらのものに縛られて心の自由を失い、悩んだり苦しんだり争ったりしなければならなくなったのであります。地球人が長い間正義であると考え続けて来たことが必ずしも正義ではなく、良風美俗、美風と考えて守り続けて来たことが必ずしも正義でもなく良風美俗でもなく美風でもないことを私達はよく覚らねばならないのであります。
 
 人類数干年の歴史は実に誤りや矛盾に満ちているのであります。そうして正義でないことを正義と断定し多くの人々に強制し、それに反対する人々を残酷な刑罰に処したりした例は数え切れない程多いのであります。例えば愚かなローマ法皇キリスト教聖職者のために魔女狩りなどという全く無謀な行為が長期間続けられ魔女裁判に依って罪のない女性の多くが火で焼き殺されたり水中に投げ込まれて殺されたりしたのであり、天動説の誤りを正し地動説を唱えたために罪人として焼き殺されたりした科学者もあったのであります。その様な行為がローマ法皇の名の下に正義として実施せられたのであります。しかしキリスト教が正義でもなくローマ法皇が正義の人であった訳でもない如く、魔女裁判で火刑に処せられた多くの女性が罪人であったのでもなく、ローマ法皇に依って火刑にせられた科学者が罪人でもなかったのであります。
 
 私達は現代文明の誤りや矛盾を改めねばならないのであります。しかし過去に罪人でもないのに罪人にせられて残酷に殺されたり、社会から迫害を受けて不幸な一生を送った人々は殺され損で永久に罪人の汚名を着せられたまま終わらねばならないのでありましょうか。そうして罪なき者を罪人として殺したローマ法皇キリスト教聖職者達はその誤りや罪を問われることなく天国へ行けると言うのでありましょうか。決してそうではないのであります。過去に罪人でないのに罪人の汚名を着せられ殺されたり迫害されたりした人々の汚名は漱がれそれらの人々の霊は新しい時代に生まれ変わって幸福な人生を送る機会を得ることも出来るのであります。そうして正義でないものを正義として押し付け、罪人でない者に罪人の汚名を着せて殺したり迫害したりしたローマ法皇キリスト教聖職者達が霊界や永遠の世界の歴史の中で審かれねばならない時が来たのであります。それが本当の最後の審判なのであります。キリスト教イスラム教やモルモン教で説いている様な最後の審判が行なわれると考えたら大間違いであります。最後の蕃判は霊界、人間界の両面に於いて過去数干年の人類の歴史の全てを通じて蕃判が行なわれるのであり、故人の霊も現在生きている人々も全てが審かれるのであります。そうして過去に誤れる宗教や法律や倫理道徳や礼儀作法などで人を審いたり迫害を加えたりした宗教家も神官も僧侶も政治家も裁判官も全てが審かれねばならない時が来たのであります。

 私達が毒と思っている物でも用い方に依っては人間の役に立つものも沢山あります。また人間のためには何の役にも立たないと考えている物でも実際には無くてはならないものも多いのであります。悪と思っている行為が善であったり、善であると考えていることが悪であったりすることも多い様に、長い間人間が厭らしいことと考えて来たことや穢らわしいと思い続けて来たことや恥ずかしい行為と信じ続けて来たことなどが本当は厭らしいことではなく穢らわしいことでもなく恥ずべき行為でもなく、当然の行為であり必要なことであると言える場合も多いのであります。故に私達は過去の観念を絶対的に正しいと信ずることは止めねばならないのであります。人間が誤った心で悪でないものを悪と考え、厭らしくないことを厭らしいと考え、穢らわしくないことを穢らわしいと考えたりして多くの人々を殺したり迫害を加えたり罪人の汚名を着せたり名誉を傷つけたりしたために、神や霊の世界からの怒りを受けて苦しんだり悩んだりしなければならなくなったのであります。

 宇宙にはプラスの世界とマイナスの世界があります。人間が悪とか穢れとか罪とか厭らしいとか恥ずかしいと考えている行為はマイナスの世界に属しているのであり、プラスの世界の真理丈では正しい社会を建設することも幸福な人生を送ることも出来ないのであります。マイナスの世界にも尊い真理があります。故にマイナスの世界の真理を活かし役立てることが出来なけれぱ正しい社会を建設することも幸福な人生を送ることも出来ないのであります。
 さて天の徳はプラスの徳であり大地の徳はマイナスの徳であります。火の徳はプラスの徳であり水の徳はマイナスの徳であります。私は国常立尊分霊として大地の徳、水の徳、月の徳などのマイナスの徳を持って生まれて来たのであります。そのためにマイナスの世界の真理や法則が特に私の心の中に生きているのであり、マイナスの世界即ち陰や罪や穢れや貧困などの世界を支配して居られる神々とも心が通じ合うものがあると言えるのであります。人類滅亡の危機の原因の一部は地球人類がマイナスの世界の真理や法則を無視し、マイナスの世界を支配せられる多くの神々を悪魔邪神として憎んだり卑しんだりし、マイナスの徳を自己表現するために生まれて来た人を悪人や罪人として殺したり迫害を加えたり名誉を傷付けたりするため神の怒りを買い救い難い危機を招いてしまったとも言えるのであります。また動物の世界にもマイナスの徳を顕現するために生まれて来たものも多いのであります。然るに人間はマイナスの世界の徳を持つ動物や植物をも卑しんだり苛めたり絶滅させる様なことをしばしば繰り返してきたのであります。そのためにマイナスの世界の神々は地球人類が飽く迄この誤りを覚らず改めようともしないならば地球を滅亡させることも敢えて辞さない程怒っておられるのであります。
 
 プラスの世界の真理丈で理想の世界を建設することは出来ず、マイナスの世界の真理丈で理想の世界を建設することも出来ないのであります。私はプラスの世界の真理をも信じ尊ぶと共にマイナスの世界の真理をも信じ尊んで来たのであります。そのためにマイナスの世界を支配し給う神々も私を信頼し私を助けて下さったのであります。そうして私が金光教下石井教会で得た「思えば天孫降臨の高き理想を受け継ぎて大行進の行く彼方遮るものぞ絶えてなし」の詩の如く、長い間天皇制に反対し、天皇制打倒を叫び、皇室に反抗して来られた多くの神々も、悪魔邪神と呼ばれて人々から恐れられ憎まれ卑しまれて来た多くの神々も、私に対しては「あなたが国常立尊分霊として皆の利益と幸福の約束せられる理想の世界を建設するために努力して下さるならば私達もまたあなたのため心から協力しよう」ということを約束して下さったのであります。




 次に「人生讃歌」の意味について簡単に説明します。

 
 1. 大いなる大いなる天地の恵みよ 誰か知る誰か知るその恵みを 神の御徳よ人の愛よ 尽くるなき尽くるなきその恵みよ
 
 天地の恵みは真に偉大であります。しかし尊く偉大なる神の恵みを本当に知っている人は非常に少ないのであります。人間が気付くことも出来ず覚ることも出来ない偉大なる神の恵みを知ることの出来る人は少ないのであります。多くの神々の御徳や神の顕現として此の世に生まれて来ている人々の愛は真に尊いのであります。尽きることのない尊い天地の恵みを知り、感謝し喜んで生きて行くことの出来る人は余りにも少ないのであります。しかも尊い天地の恵みに感謝しないのみならず、神の愛や恵みを否定したり軽蔑したり卑しんだり笑ったり疎かにしたりする人の方が多いのであります。


 
  2. かげりなきかげりなき神の光よ 誰か見ん誰か見んその光を 新しき光輝きぬ 仰ぎ見ん仰ぎ見んその光を

  神の光は世界中の隅々迄満ち亘っているのであります。世界中を隈なく翳りなく照らし続けている尊い神の光を見ることの出来ない人が沢山居ます。それは誤れる過去観念や偏見を持っているために心が盲目となっているために神の光を見ることが出来ないのであります。新しい時代が訪れ、新しい光が世界中に輝き旦っています。しかし心の正しい清らかな人々のみがその輝かしい神の光を仰ぎ見ることが出来るのであります。


 
 3. かぎりなきかぎりなきこの歓びよ 生きて行く生きて行くこの歓びよ ああ我神と共にあり とこしえにとこしえに共にあり

  人生の歓びは求めても求めても尽きることのない限りない歓びであります。人間として生きて行くことの出来る歓びこそ何物にも喩えられず較べることの出来ない程素晴らしい歓びなのであります。自己は神と共にあり、永遠に神と共に在り神と共に生き続けることが出来、限りなき歓びを求めることが出来るのであります。

 
 4. はてしなきはてしなき宇宙のひろさよ 絶ゆるなき絶ゆるなき時の流れよ あめつちの生命人の生命 一つなり一つなりとことわに

 宇宙は何処迄行っても果てしない無限の広さを持つ世界なのであります。そうして宇宙は永遠に存在し続けるのであって時の流れもまた絶ゆることなく永遠に続いて行くのであります。そうして天地の生命が無限であり永遠である様に人生もまた無限であり永遠なのであります。天地の生命も人の生命も1つになって永遠に生き続けて行くのであります。



 5. はるかなるはるかな真理のかなたよ 究めなん究めなん真理の世界を 未知の世界に進み行かん 一すじの一すじの道を求めて
 
 宇宙の真理は無限であり、真理の世界は無限に広く、真理の彼岸は無限の彼方に存在するのであります。私たちは無限の彼方にある真理の世界に真理を求め真理を窮めるために限りない努力を続けて行かねばならないのであります。しかし私達が無限の真理を求めるためには常に未知の世界に新しい真理を求めて進み行かねばならないのであります。そこに真理を求める者の不安や恐れや悩みや迷いが生じて来ることもありますが、その代りに真理を探求する者のみが知る人生最大の歓びが存在するのであります。そうして私達が無限の真理を求めて努カするのは幸福になり賢明になり進歩向上して行くことの出来る唯一筋の道を求めるためなのであります。


 
  6. ことほがんことほがん我が人生を 讃えなん讃えなんこの歓びを ああしあわせを求めつつ 生き行かん生き行かんいつまでも
 
 大いに祝福しようではありませんかこの素晴らしい人生を、そうして大いに讃え大いに謳歌しようではありませんかこの素晴らしい人生の歓びを。そうして限りない幸せを求めながら何時迄も何時迄も生き続けて行こうではありませんか。


 
  7. 生き難き生き難きこの人の世に うるわしきうるわしき生命を受けて 尊きつとめを終わりなば 帰りなん帰りなん神の御許へ
 
 人間としてこの世に生まれて来ることは容易に求め得ない尊い機会なのであり、麗しい心と肉体を持って人間として生まれて来られたことは何物にも代え難い歓びなのであります。そうして人間としての幸福を求めつつ、また自己に与えられた尊い使命を果しつつ生甲斐や歓びに満ちた人生を送り、天寿を全うして生命の終わる時が来たならば心安らかに、また再び人間に生まれ変って来る希望を抱きながら神の御許へ帰って行けばよいのであります。


 この詩を得た頃私は悪とか罪とか穢れとかいう人が最も厭がる世界に尊い真理を求めていたのであります。そのことが「未知の世界に進み行かん一すじの一すじの道を求めて」の言葉を以って表現せられているのであります。善とか正義とか愛とか友情とか誠とか和となどという様なプラスの世界に真理を求めるのも人間の幸福や平和を求めるためである様に、私が悪や罪や穢れという様なマイナスの世界に真理を求め、多くの人々が厭らしいこと、穢らわしいこと、恥ずべきことと考えている近親相姦、近親結婚、一夫多妻制、一妻多夫制、乱婚、婚外性交、ホモ、レスビアン、異性願望、離婚と再婚、サディズムマゾヒズムフェティシズム、ヌーディズムなどという未知の世界について、それが果たして罪悪であるのか、厭らしい、穢らわしい、恥ずべき行為であるのかという様なことに就いて多くの研究をし続けて来たのも結局は皆が幸福になり進歩向上して行くことの出来る唯一筋の道を求めるためであったのであります。
 
 そうして私の使命は天孫降臨天皇制の確立の陰に滅ぼされたり迫害を受けたりして天皇制に反対し天皇制打倒を図って来られた多くの神々の帰順を図り挙国一致の体制を整えて新しい日本を建設し日本をして世界の中心の国、世界の模範の国と呼ぶに相応しい理想の国とし以って全世界の全ての国々を指導し、全ての民族の人々と心から信頼し合い協力し合いながら全人類の理想である皆の利益と幸福と永遠の平和の約束せられる1つの世界を建設することにあると言わねばならないのであります。

 悪魔邪神と呼ばれる神々を滅亡させることが神の本意とせられる処ではないのであります。正邪善悪、理非曲直を超越して全ての幸福や繁栄や共存共栄を図ることが神の真意であると言わねばならないのであります。そのためには人間が愚かな故に誤って悪魔邪神として排斥して来た多くの神々や、人間の犯した罪のために人間を苦しめたり崇りをせられている多くの神々の帰順を求めねばならないのであります。そうして全ての神々を信じ尊び、全ての神々の徳を社会の中に顕現するために生まれて来た全ての人々が皆自由に平等に自己の持って生まれた神徳や個性を世の中のために自己表現し、皆が信頼し合い、協力し合い、尊敬し合いながらお互いの利益や幸福や繁栄や進歩向上を図って行ける理想の社会を建設しなければならないのであります。それ以外には地球人類滅亡の危機を救うことも新文明を創造し理想の新世界を建設することも出来ないのであります。この人生讃歌は私が悪や穢れとして世の人々が恐れたり厭がったり卑しんだりしているマイナスの世界に真理を求めて悪や穢れの世界を支配し給う神より霊感を得て作ったものなのであります。