モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」金光教篇②

 次に天孫降臨以前に、高天原から大国主命の処へ使者として派遣せられた天若日子(あめのわかひこ)という神があります。此の神は高天原への反逆ということで日本神典では悪神として嫌われていますがそれに対しては大きな謎があります。天孫降臨の時、高天原では大国主命に国ゆずりの交渉をするために天菩比命を使者として派遣したにも拘らず、天菩比命は3年経っても高天原へ帰られなかったので、高天原では再び天若日子命を大国主命の処へ派遣したことになっています。天若日子命は大国主命の娘下照媛(したてるひめ)と結婚し出雲の国を自分のものにしようとして、8年経っても高天原へ帰ろうとせず、そのために高天原の神々は天若日子命が大国主命の処へ使者として行ったにも拘わらず8年も帰って来ないのは何故かという理由を問わせるために名鳴女という雉を使者として遣わしたことになっています。しかるに天若日子命は名鳴女を弓矢で射殺したために高天原の神々から反逆罪に問われ殺されたことになっているのであります。

 この事について私は大きな疑問を持たざるを得ないのであります。高天原から大国主命の処へ使者として派遣される程の人物であれば相当立派な人であると考えられます。その使者が2人までも大国主命の処へ派遣されたきり高天原へ帰らなかったということは、大国主命側の謀略に掛って監禁せられた可能性も考えられるのであります。初めに使者となった天菩比命は使者の役目を果たさなかった理由で特に罪を問われたことはないようであり、その子孫を名乗る家は野見宿弥の出た土師氏、菅原道真の出た菅原氏、長州の毛利氏、加賀百万石の前田氏などがあります。しかし天若日子命の方は反逆者として殺されその子孫のことは全く伝えられてはいないのであります。では天若日子命はそれほど邪悪な人だったのでありましょうか。この点については疑問が多いのであります。

 昭和53年3月29日、私は妻と子供と一緒に讃岐の金刀比羅宮へ参拝しました。金刀比羅宮の祭神は大物主神でありますが、大国主神を祀っているという説もあります。また金刀比羅宮には沢山の小さな社があり多くの神々が祀ってありました。そうして私が金刀比羅宮へ参拝して数日後、4月4日の早朝、夢に美しい女神が現われ琴を弾きながら「私の愛したあの人は心のやさしい人でした。今でも好きですあの人が。」と歌謡曲星影のワルツの旋律で歌われたのでありました。その美しい女神は大国主命の娘下照媛でありました。そうして下照媛が「私が愛したあの人」と歌われた男性は天若日子命だったのであります。
 
 古事記では、天若日子命が下照媛と結婚し出雲国を自分のものにしようとした、と書いてありますが、実際にはそんなことが出来る訳はないのであります。何故なら、天若日子命が出雲の国を奪ってもいずれは高天原の神に滅ぽされることは明らかであるからであります。故に古事記は何か深い訳があって天若日子命のことを殊更に悪く書いているのだと考えられるのであります。真相は天若日子命が下照媛に恋をしたのではなく、下照媛の方が高天原から使者として派遣されて来た天若日子命の立派な人物であるのを一目見て恋をしてしまい、父の大国主命を動かして天若日子命が高天原へ帰れない様にした上で押掛け女房という様な形で無理に結婚を迫ったものだと私は思うのであります。しかしそのために天若日子命は高天原からは叛逆者と見られ不名誉な一生を終ったのみでなく、長く悪神として日本の歴史に残されることになったものと考えられるのであります。しかし天若日子命の不幸になった原因は大国主命の娘下照媛の恋にあったと考えられるのであります。
 
 下照媛の霊が夢に現われて「私の愛したあの人は心のやさしい人でした。今でも好きです、あの人が。」と歌われたのは、自己の恋の故に天若日子命を不幸にし長く汚名を着せることになったことに対する自責の念から、天若日子命は歴史で語られている様な悪人ではなかったということを私に訴えようとせられたものと思うのであります。「私の愛したあの人は」という言葉の中に下照媛が積極的に天若日子命に恋をしてしまったことが表わされているのであり、天若日子命は妻子のあった方であるにも拘わらず、大国主命の処へ監禁同様にせられて下照媛と無理に結婚させられてしまったものと思われます。
 しかし、天若日子命は自己の不運をあきらめていつか下照媛を愛する様になったのでありましょう。「私の愛したあの人は心のやさしい人でした。今でも好きですあの人が」の言葉の中に下照媛のひたむきな恋と天若日子命の心情と、下照媛の永遠の愛がせつせつとして語られている、と私は思うのであります。
 
日本の古代史の中には大きな嘘や誤りが沢山あります。そうしてそれは皇室や藤原氏物部氏などの支配階級の人々が自分達の悪事を隠したり他の家の人々を殊更に陥し入れる目的でわざとでっちあげたり除去して、真実を抹殺したと考えられる部分も多いのであります。自分達の都合で勝手に歴史を書き変えた方はそれで良いかも知れませんが、無実の罪を着せられたり、歴史に嘘を書かれたり、祖先の神を祀る神社を壊されたり、祖先の神を祀ることを禁じられたり、特殊部落の様な地位に堕されて、子孫代々不当な迫害に苦しめられる様になった人々の悲しみや怒りは長く消えることはないのであります。その様なことで皇室や上流階級の人々には大きな罪や穢れがあり、それを清算しない限りやがて必らず大きな不幸に見舞われる日が来るのであります。皇室や上流階級の人々はそんなことは遠い昔、祖先の人々がしたことであって子孫の自分達の知ったことではないと言うでありましょう。しかし遠い昔、罪なくして罪を着せられ長い間苦難の中に生き続けている人々が今も猶、沢山いるという現実をよく覚らねばならないのであります。
 
 私は出雲大社の近くに天若日子命を祀る阿須伎神社のあるのを知り、昭和50年5月3日、出雲大社に参拝し、更に出雲大社前から一畑電鉄の電車に乗って遥堪(ようかん)という駅で下車し阿須伎神杜を訪ねてみたのであります。それは小さな神社でありましたが何か心に感じるものがあり、しぱらくして神社を辞し元来た道を電車の駅に向って引き返したのであります。その途中、遥堪町という地名について遥かに堪え忍ぶという様な意味ではないかと考えたのであります。
 
天若日子命は日本の歴史では長く叛逆者、悪神として嫌われてきましたが、それが事実であるか、それとも大国主命一族の謀略に依って犠牲とせられたものか、天児屋根命等のために陥れられたものか、そのようなことを明らかにする文書はありません。しかし天若日子命を祀る神社が今も存在していることは子孫の人々か、身寄りの人々が神社を建てて祀るようになったものと思われるのであります。そうして遥堪という不思議な地名が天若日子命に着せられた汚名がいつの日にか雪がれる日の来ることを念じながら遥かに堪え忍びながら待つ、というように考えてみますと、遠い昔に何か恐るべき不幸な出来事があったことも想像されるのであります。
 
 そうして一畑電鉄の遥堪の駅に着いて帰りの電車を待ちながらその謎について考えていた時、私は「若宮」という神示を聞いたのであります。その意味は、天若日子命の子孫は若宮という姓を名乗るものであるという意味か、それともいつか将来機会があったら若宮の姓で家名を再興してほしい、という天若日子命の依頼ではないかとも思えるのであります。