モ ナ ド の 夢

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「宇宙の真理」金光教篇④

 さて金光教の教義の最重要な点は日柄、方位、家相などの吉凶を言うのは迷信であると説いていることにあります。しかし日柄、方位、家相などが迷信であるというのは単純に迷信であると言って否定しているのではないのであり、その迷信にも迷信の裏付けがあるというのが金光教の主張であり立場であると言えるのであります。即ち金光教の起源は金神信仰にあると言わねばならないのであります。金光教の祭神である天地金之神は昔は金神と呼ばれて非常に恐ろしい神であると思われていたのであります。また金神に様々な崇りをせられて不幸になった多くの人があったのも事実でありました。
 
 では金神とは一体どんな神なのでありましようか。金神が恐ろしい神であると人々に思われる様になったそもそもの原因には非常に深い理由があると思われます。それは既に述べた如く天孫降臨の時代にまで遡って考えてみなければならないのであります。天照大神の孫に当られる壇々杵尊が日向の高干穂の峰にお降りになって以来、所謂天津神の系統の人々と天孫降臨以前から日本に住んでいた国津神の系統の人々との間に様々な争いがあったことは歴史的にも明らかに示されています。
 
 天孫降臨の目的そのものは豊葦原の瑞穂の国を平和で豊かな国にするという立派な理想であったのですが、悪いことには天孫民族系の人々や天孫民族だと言って素性を偽った人々が、天孫降臨の理想に反して国津神系の人々に対して様々な罪を犯したことがしばしばあったのであります。そうして天孫系の人々の不当な行為に怒って反抗した国津神系の人々は領土を奪われたり財産を没収されたり、人間としての自由や権利を奮われたり、祖先の神神を祀る神社を壊されたり、祖先の神を祀ることを禁じられたり、甚だしい場合には一族を皆殺しにせられたという様なこともしばしばあったと思えるのであります。そのために鎮まり給うべき神社を失ない、祀るべき子孫や氏子を失なわれた神は罪を犯した天孫系の人々に対して様々な崇りをせられる様になったのであります。金光教の祭神である金神もその様な神の一柱に当られる神であって、家相学等に出てくる金神というのは中国人がでっちあげた迷信の神であり仮空の神であるに過ぎず、金光教の祭神である金神は中国の迷信の神ではなく、日本の古来からの神であると私は断定するのであります。

 金光教祖は、安政5年月9月23日に、天照大神と金神との間に行われたという不思議な物語を書き残している。その日、金神は天照大神に「天照皇太神様、戌の年、氏子を私に下されませ」と乞われ、天照皇太神も「はい、あげましょう」と承知せられたそうである。もともと神の世界では、天津神国津神との間には何の敵対関係もなかったと考えられる。しかしその当時の日本人の多くは、天照大神を尊びその氏子は多くあるのに、金神を祀る神社も氏子として祀り尊んでくれる人もなく、そのための金神は曲神、悪神と呼ばれ、日本各地を、自らを賤しみ畏れ嫌う人々に祟りをして廻られたのである。金神が、人々に祟りをする悪神として恐れられるようになったのは、そのような理由に依るものと思われるのであります。
 
 要するに天照大神と金神との間には何の争いもなかったのに後世の人々が何かの理由で金神を祀ることを禁じ、金神を悪神ということにしてしまったのであります。それ故に金神は、新しい時代の到来と共に御自身が神として人間の世界にその徳を顕現せられるために、それ迄天照大神の氏子であった金光教祖を天照大神から貰い受けられ、金神の第1の氏子とせられたというものであります。それ迄、金神は非常に気難しい恐ろしい神として世間の人々から嫌われ恐れられていたのであります。しかし金光教祖はその金神に真心を以って仕え、また誠心誠意金神を祀ることに依って金神の信頼を得て、それ迄人間に様々な崇りをする悪神と恐れられていた金神を人間に多くの幸福を与えられる愛と恵みの神に変えられたのでありました。金光教祖も当時金神に依って様々な崇りをせられ、多くの災難に遭い、自身もまた九死に一生の病気に苦しんでいたのであります。その時教祖は「自分が神からこれ程多くの難を与えられるのは神に対してよくないことをしたからである」ということを覚って、更に「これ程大きな災難を与えられる程の力をお持ちになるならば真心を持ってお仕えすれば、ひとしおのおかげも授けて下さるに違いない」と信じられて自己の不行跡を金神にひたすらにお侘びし心から金神に仕え祈られたのでありました。その教祖の真心を深く感じとられた金神はそれ以来教祖を通して愛と恵みの神として世に出られたのでありました。金神は多くの人々に崇りをせられた神でありますが、しかしそれは金神が人間を苦しめたり不幸にしたりして楽しまれたり喜ばれたりしたということではないのであります。多くの人々に崇りをして恐れられ嫌われることは金神にとっても大きな悲しみであったのであり、金光教が開かれて金神が恐ろしい神から愛と恵みの神として世に出られる様になったことをもっともお喜びになったのは他ならぬ金神御自身なのであります。
 
 さて日本神道はもとより、仏教でもユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でもゾロアスター教でも悪魔邪神の存在が説かれています。神の世界に正神のみでなく、悪魔や邪神が存在するとすれば私達はその悪魔邪神の崇りからいかにすれば逃れることが出来るのでありましようか。また悪魔の正体は一体何なのでありましょうか。また悪魔はいつの時代から存在する様になったのでありましようか。この様なことについて充分納得出来る様な説明をしている宗教家はいないと考えられるのであります。悪魔邪神はやがて神に依って滅ぼされると考える宗教もあります。しかし霊魂不滅の法則が真理であるとすれば悪魔邪神の霊も永遠に不滅であると考えねばならないのであります。宇宙学では神が悪魔邪神邪霊を抹殺せられると説いていますが、抹殺とはどの様な意味かということについて詳しいことは何も説いてはいないのであります。また悪魔邪神邪霊を抹殺してしまえば悪魔は存在しなくなるというのであれば、神は何故宇宙の平和を乱す悪魔の存在を放置して居られるのかという問題に直面するのであります。この点に宇宙学の大きな謎や疑問が存在すると言えるのであります。
 
 悪魔邪神の正体は何か、悪魔邪神はいつの時代から存在する様になったのか、悪魔邪神は何故存在するのかという様な謎を解いた人は今迄存在しないと私は思うのであります。この大きな謎を解くことの出来る1つの鍵が金光教の中に見出だされるのであります。悪魔邪神と呼ばれる神の中にも様々な系統のものが存在します。宇宙学で説く様な悪魔邪神もあれば、もっと別の系統の悪魔邪神も当然存在すると言えるのであります。しかし多くの悪魔邪神の中には本来は悪魔邪神でないのに人間が悪魔邪神にしてしまった神も多いと考えられるのであります。

 宇宙は1つであり宇宙を支配し給う神は唯一の神でありますが、1つの宇宙が無数の部分に分かれている様に、1つの神の世界は無数の神の世界に分かれているのであります。故に、絶対的には神は1つでありますが、相対的には神は無数であるとも言えるのであります。それは天理教で説いている様に、天理王命という唯一の神の守護の理が十柱の神の守護の理として現れるのと似ているのであり、太陽も神であり、月も神であり、地球も神であり、全ては尊い存在であるにも拘わらず、人間は太陽丈を尊んで月や地球を尊ぶことを知らなかったりして、誤った信仰している場合が多いのであります。地上においても、水も神であり土も神であり、山も神であり海も神と言えるのでありますが、多くの人々は或る神だけを尊んで他の神を卑しんだりするために神の怒りに触れ祟りを受けることも多いのであります。例えば天照大神を信じ尊んでいる人は天照大神から祟りを受けることはありませんが、金神を卑しんだり金神に無礼な事をすれば金神の祟りを受けるのであります。地上には多くの神が存在するわけでありますが、多くの神々の中で或る神々ばかりを信じ尊び他の神を卑しんだり粗末にしたりするから、信じ尊んだ神から祟りを受けることはなくても、卑しみ粗末にした神からは祟りを受けなければならなくなるのであります。

 金神の祟りということは太古の昔から存在したわけではないのであります。天孫降臨以前には金神を祀る社もあり氏子もあったものと思われるのであります、天孫降臨以後、いつの頃からか人々は金神を祀らないようになり天照大神ばかりを尊んで金神を粗末にするようになったために金神の祟りを受けるようになったものと考えられるのであります。そうして金神は中国の暦や家相学の迷信の神である金神と結びつけられて、長い間多くの人々から恐れられてきたのであります。昔は「さわらぬ神に崇りなし」と言って恐ろしい神には触れない様にするのが一番安全であると思い込む様になったのであります。そうして昔の人々は金神と聞けぱ恐ろしい神と思い、金神除けとか金神封じと言って金神を避けようとか相手にすまいという態度ばかり取り続けて来たのであり、そのために一層金神の怒りを買い崇りを受ける様になったのであります。その事に気付いた金光教祖は金神除けをすることをやめて、真心から金神を信じ尊び祀ろうと努力したのであります。そうして遂に金神は人々に崇りをする悪神から、愛と恵みの神に変られた訳であります。この事は何を意味するかと言うと、本来悪神ではなかった神を人間が誤った心を以って悪神に変えてしまったのであり、人間が愚かで穢れているために神を悪魔に変えて自から崇りを受けて苦しんだのだと言えるのであります。

 明治維新以来出現した新興宗教の中には金神と同じ様な立場の神も多いのであり、それらの神々は天照大神の支配せられる時代が終わると共に、再び世に出ようとせられたのであります。しかし金光教にしても過去に様々な迫害を受けた訳でありますが、天理教大本教ひとのみち教団は更に激しい弾圧を受けたのであり、その弾圧は最終的には皇室の力に依ってなされたことになるのであります。しかも元を辿ればそれらの神々は天孫降臨の時以来皇室や上流階級の人々のために滅ぼされた神々であり、天照大神が日本を支配して居られる間、言わば地下に潜った様な状態で潜んで居られたのであり、天照大神の時代が終わると共に再び世に出ようとせられたのであります。それらの宗教が皇室や天皇制に好意を持たず、むしろ天皇制に反対の立場をとっているのも長い間の怨みがあるからであります。故に日本皇室の方々が日本歴史の誤りを覚り、全ての国民の利益や幸福のために努力しようとせられない限り、天星制そのものの存在すらどうなって行くか解らないのであります。

 金光教は日柄、方位、家相などを迷信として否定していますが、金光教の本質は迷信の打破そのものにあるのではなく、人間が神を粗末にするから神の崇りを受けねばならないのであり、人間が誠心から神を信じ尊ぶならば神もまた人間を愛し人間に多くの恵みを与えられるのだ、ということを強調する点にあると言えるのであります。故にもともと悪魔邪神というものは存在しないのであり、人間自身が愚かであるが故に神に対して罪を犯し崇りを受けねばならなくなるのであり、人間が神を悪魔同様にしているのだということを説いているのだと言えるのであります。この点が金光教が他の宗教と大きく違う点であり、同じく岡山県に生まれた黒住教と正反対の立場にあると言えるのであります。
 
 金光教が日柄、方位、家相などの全てを迷信だと説いているのは事実なのであります。日柄の吉凶など本来ないのであります。晴れた日もあれば曇った日もあり、雨の降る日もあれぱ風の吹く日もあるのが自然な天候なのであって、晴れた目が吉という訳でもなければ雨の日が凶という訳でもないのであります。吉凶の区別もないのに、人間が日柄に吉凶の区別をするから何かと不便を自分で作り出しているのであります。大安といえば結婚式に良い日だと言い、仏滅といえば結婚式には大凶の日だと言いますが、日柄に大安や仏滅などの区別は存在しないのであります。陰陽五行、十干十二支などはすべて昔の中国人がでっちあげた迷信なのであります。三隣亡、八方塞がり、友引なども全く信ずる価値のないものであります。また厄年とか丙午(ひのえうま)とか五黄の寅などというものを気にするのも愚かなことであります。方位にしても「うしとら」「ひつじさる」などの方角は鬼門、裏鬼門と称して悪い方角であるかの様に言われていますが、それらは全て迷信であり正しい根拠は何もないのであります。私が金光教の信仰を通じて得たのは、人間が神を悪魔に変えたのであるということと迷信の打破についてでありました。