モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」生長の家篇③

 ◎川の水が常に流れ続けて止まない如く 人間の血液もまた体内を流れ続けて止むことはない。

 川の水が常に流れ続けている様に人間の血液もまた常に体内を流れ続けています。そうして川の水が空中の酸素と混じり合って常に浄化作用を営んでいる様に人間の血液もまた呼吸に依って酸素を吸収し浄化作用を営んでいるのであります。川の水が汚染されれば私達の健康や生命迄が危険に曝されると共に大自然もまた荒廃の危険に曝されるのであります。 それと同じ様に人間の体内を流れ続けている血液が汚れてくれば身体の各部分の健康状態が悪化し様々な病気の原因となるのであります。川の水の流量が多くなり過ぎれば洪水となって様々な被害が発生する様に人間も血圧が高くなり過ぎれぱ病気になり、川の水の流量が減少し過ぎれば干害等の被害が起こる様に血圧が低くなり過ぎたり貧血などになれば健康を害することになるのであります。川の水が川から海へ、海から空へ、空から陸へと循環を続けている様に、人間の血液も体内を循環し続けているのであります。川の水が人間の社会生活を支えているように、血液は人間の生命を支えているのであります。このように川水の流れも同じ大自然の摂理法則に従って常に循環し続けているのであります。
 

 
◎そよ風が囁く如く人間も囁き、嵐が怒号するが如く人間もまた怒号する。
 
木の葉や草の葉をそよがせて静かに吹いて来る風は、さながら大自然が私達に何かを囁き、語りかけている様でもあります。また人間が静かに優しく囁く様はさながら優しいそよ風の囁きにも似ているのであります。嵐が轟々と吹き荒ぶ有様はさながら大自然が怒り狂って怒号している様であり、人間が怒り狂って叫んでいる様はさながら嵐が怒り狂って怒号している様にも似ているのであります。暖かい愛や友情に満ちた人の言葉はさながら暖かい春風のように聞く人の心を暖かく包んでくれるのであり大きな歓びや希望を与えてくれるのであります。真理を語る人の言葉や詩情豊かな人の言葉はさながら若葉の上を超えて吹いて来るかぐわしい薫風の様に人の心を浄化し純化し爽やかにしてくれるのであります。人々に様々な悩みや苦しみを与える人の言葉はさながら灼けつく様な大地を渡って吹き寄せて来る炎天下の熱風にも似ているのであります。様々な不幸や災難に悩み苦しんでいる時に語りかけられる慰めや労わりや愛や友情の言葉は熱さに苦しんでいる時に吹いて来る一陣の涼風にも似ているのであります。人の心に様々な悲しみや恐れを呼び起こさせる人の言葉はさながら草木の葉を枯らし尽くそうとする木枯らしにも似ているのであります。他人を憎み非難し攻撃する人の言葉はさながら厳冬の寒風にも似ているのであります。この様に言葉は人の心の表現であり、言葉は風の徳の表現であると言えるのであります。故に人間の様々な言葉は様々な風の心や姿を表現しているものと言えるのであります。
 

 
◎万物に個性と徳とがある如く人間それぞれに個性と徳がある。

 万物の全てにそれぞれの個性があり、全てにそれぞれの徳があります。火には火の個性があり、水には水の個性があり、風には風の個性があり、土には土の個性があります。金には柔らかくて美しくて錆びない徳があり、鉄は硬くて強い徳があり、アルミニュウムは軽くて便利な徳があります。火は熱いという徳があり、氷は冷たいという徳があり、水は燃えない徳があり、油は燃える徳があります。全ての原素にはそれぞれ個有の性質があり、あらゆる生物にもそれぞれ個有の性格や徳性があります。そうしてそれと同じ様に全ての人々にそれぞれの個性があり、それぞれ独自の知識や才能や技術や力などの徳があります。
 
 万物の個性を知ろうと努めるのが科学であり、万物の徳を人間の利益や幸福の為に役立てようと努めるのが産業経済であり技術であります。万物の個性や徳を信じ、愛し、尊ぷのは宗教や信仰であり、万物の個性や徳を賛美し浄化し純化するのは文学や音楽や芸術であります。またそれと同じ様に万人それぞれに個性と徳があります。皆が自己の個性や徳を知ろうと努力するのが学問であり修行であり信仰であります。そうして自己の個性や徳を活かし伸ぱそうと努カする処に進歩向上があり生甲斐や歓びがあります。そうして他人の個性や徳を見付け、隠された個性を引き出し、伸ばして行こうとするのが教育であり指導であります。万物にも人間にも良い意味の個性や徳もあれば悪い意味の個性や徳もあります。万物の良い方の個性や徳を活かし役立てるならば健康や幸福や繁栄や進歩向上の為に役立ちます。しかし万物の悪い方の個性や徳を用いるならぱ病気や不幸や事故災難や公害や天災地変等を招く危険もあります。故に私達は万物の個性や徳の良い面を活かして健康や幸福や進歩向上や繁栄の為に役立てると共に、万物の個性や徳の悪い面を用いて病気や不幸や事故災難や公害や天災地変等を引き起こすことのない様に注意しなければならないのであります。
 
 また人間の個性や徳にも良い面と悪い面即ち長所と短所があります。長所を伸ぱし短所を無くするとか、短所をも補って長所に変える努力をするのが正しい教育や指導であり、正しい修行であります。しかし長所を伸ばすことばかり考えて短所を無くしたり改めたりする努力をしなければ長所と短所の差が激しくなり非常に優れた面と非常に劣った面を併せ持つ人間になって様々な失敗や不幸を引き起こすことになるでありましよう。またその反対に短所を無くするための努力や短所を改め伸ばすための努力ぱかりして長所を活かし長所を伸ばすための努力をしないならば欠点が無い代わりに取り柄の無い人間になる危険もあります。また短所を無視して長所ぱかりを褒めたりおだて上げたりすれぱその人を増長させ慢心させる危険があり、長所を無視して短所ぱかりを取り上げて厳しく叱ったり責めたりすれば、その人の進歩向上を妨げ心をいじけさせて希望を失なわせ消極的にしてやる気を無くさせてしまう危険もあります。故に万物の長所を活かし役立て短所を無くする様に努力するのが正しい科学であり技術であり産業経済であると言えるのであり、人間の個性や徳の長所を活かして伸ばす様に心掛け短所を改めたり活かしたりする様に心掛けるのが正しい修行であり正しい教育や指導であると言えるのであります。
 



 ◎花にそれぞれの美しさがある如く人間にもそれぞれ別の美しさがある。
 
 花に無数の種類があり、どの花にもそれぞれ別の美しさがあるように、人間にも各人それぞれに変わった美しさや良さがあります。私達が花の色や形や香りや大きさなどの相違によってそれぞれに変わった美しさを見出し、それぞれの花を愛するが如く、私達は人間皆に備わった様々な個性や特にそれぞれ別の美しさや良さを見出して、全てを尊び、全てを愛し、全てを活かすように心掛けねばならないのであります。
 



 ◎万物が人間に自己の心と姿とを表そうとするが如く、人間もまた万物の中に自己の心と姿を見出そうとする。

 「神の最高の自己顕現は人間である」ということを別の言葉で言い表せば「万物の最高の自己顕現は人間である」とも言えるのであります。万物は人間に生まれてきて自己の心や姿を人間の心や姿、個性や徳という様な形で社会の中に顕現するのであります。逆の立場から言えば、人間の心や姿は万物の心や姿の現われであり、自己の心や姿は万物のいずれかの中に見出すことが出来るのであります。人間の性格を火の性、水の性、木の性、金の性、土の性等というのはその一例に過ぎないのであります。其の他人間は様々な動物や植物の徳等をも顕現するのであり、それが全ての人々の職業等にも深い関係を及ぽしているのであります。火に親しみを持つ人、水に親しみを持つ人、土に親しみを持つ人、山に親しみを持つ人、海に親しみを持つ人、動物に親しみを持つ人、太陽に親しみを持つ人という様な好みの相違等の全てがその人の持って生まれた性に依って支配されるのであります。故に万物や人間同志の相性等も自己の持って生まれた個性や徳と深い関係を有するのであります。例えば、火の性の人と火の性の人同志は性格が似ているために親しみ易く仲良くし易い面があります。水の性の人同志も風の性同志の人も同じであります。そうして火の性の人と水の性の人とは陽と陰が求め合うという点では相性が良い場合もありますが、相反する性格の故に対立し合うことも多いのであります。
 
 例えぱ、織田信長の火の性と武田信玄の火の性とは火の性同志の対立であり、織田信長今川義元との対決は火と水の性の対立であり、織田信長豊臣秀吉を深く信頼したのは信長の火の性と秀吉の風の性が良く結び合ったからであり、信長の勢力拡張には秀吉の風の徳が大きく役立っているのであります。その反面、明智光秀は水の性の人であり織田信長が光秀の才能を重く用いている間は火の性と水の性とが助け合って光秀は織田家のために大いに活躍した訳でありますが、信長の性格は光秀の性格と正反対であり相容れることが出来なくなったために遂に対決し、火の性の信長が水の性の光秀に破れることになったのであります。そうして風の徳の秀吉の力が強大になると共に織田氏に代って天下を支配する様になったのは、喩えて言えば、風は火の勢いを強くすることがある反面、火が弱けれぱ吹き消してしまうのと同じであると言えるのであります。そうして織田家の為に最後迄尽くそうとしたのは信長と同じ火の性の柴田勝家であったと言えるのであります。この様に人間の個性や徳は相性等の面でも様々な影響を及ぼすのであります。


 

 ◎大自然が人間の最良の友である如く、人間もまた大自然の最良の友である。
 
 山も丘も谷も川も野原も池も湖も海も島も、そうして其処に生存する無数の動物も植物も或いは空に輝く太陽も月も無数の星も覚りを拓いた人間にとっては最良の友なのであります。そうして大自然を知り、大自然を愛し、大自然に親しむ人々は大自然にとっても最良の友なのであります。古来、花鳥風月を友とすると言いますが森羅万象の全てが友なのであります。
 



 ◎大自然が神である如く人間もまた神であり、人間が神である如く大自然もまた神である。
 
 大自然尊い愛と恵みに依って生かされている私達にとっては大自然は偉大な神であります。しかし大自然が偉大であるのは大自然の偉大さを知る人間が存在するからであります。故に人間を生み育てた大自然尊い神である様に大自然を父母として生まれ育った人間もまた尊い大自然の子であり神の子なのであり、大自然尊い神である様に、大自然の子であり、大自然の偉大さ尊さを知っている人間もまた尊い神なのであります。
 



 ◎人間が大自然の恵みに依って生きる如く大自然もまた人間の愛に依って活きるのである。
 
 人間は大自然の限りなく大きな愛や恵みに依って生まれ育ち生活しているのであります。大自然こそ生命の源泉であり、大自然こそ生活の根源なのであります。この偉大な大自然の愛と恵みに恩返しをすることが人間の大自然に対する最も大きな愛なのであります。では私達がどの様にすれば大自然に恩返し出来るのでありましょうか。大自然にとっては地上に住む動物も植物も全てが愛する我が子なのであります。そうしてこの大自然の中により多くの生物が住み幸福に暮らせるようになることが生物を生み育てている大自然の最も大きな愛であり報恩なのであります。
 
 生物にとって恵み深い大自然も時として大雨に依る大洪水や日照に依る大旱魃や大雪や大暴風や地震や火災や山崩れや津波等に依って多くの生命を脅かしたり多くの生命を奪ったりすることがあります。しかし生命を脅かしたり生命を奪ったりすることは決して大自然の本意ではないのであります。また砂漠や荒地や高地や局地等の様に生物の生存に適当でない広大な土地も存在しております。故に人類が洪水の調節や荒地の改良や砂漠の緑化や気候の改良や天災の予防などのために努力し多くの生物達が楽しく生活することのできる豊かな生命の世界を建設することが大自然に対する最も大きな愛なのであります。
 
 長い歴史を通じて地球人類は大自然の摂理法則に叛いて多くの生物を絶滅させ、大自然を荒廃させて、その挙句の果に地球滅亡の危機も招いてしまったのであります。大自然の法則に叛くことは大きな罪であります。そうして大自然の法則に叛いて真実の利益も幸福も平和も繁栄も求めることは出来ないのであります。大自然を征服し支配しようとすることは誤っているのであります。大自然を愛し大自然の繁栄を図ることが同時に人間自身の真実の利益や幸福や繁栄を図る最善の方法なのであります。
 



 ◎大自然は真理の大法則に従ってしかも自由自在であり、自由自在であってしかも一歩も道を踏みはずすことがない。
 
 大自然に於いては森羅万象の悉くが宇宙の大法則に従っているのであって、天体の運行も、火の燃焼も、水の流れも、風のそよぎも、物質の化学変化も、生物の生活も全ての事実や現象が宇宙の大真理、大法則のままであり、1つとしてその法則に従っていないものはないのであります。しかも森羅万象の全てが宇宙の大法則に忠実に従っていながら全てが自由自在に存在し、自由自在に運行し、自由自在に干変万化し、離合集散を繰り返しているのであります。全てのものが1つの大真理に従っていてしかも自由自在に存在し自由自在に行動しているのであり、自由自在に存在し、自由自在に行動していながら真理の大法則に些かも反することがなく神の定められた正しい道を踏み外すことがないのが大自然なのであります。
 人間もまた真理を覚り真理に従って正しい道を歩まねぱならないのであります。しかし真理を覚るということは真理に束縛されるということではないのであります。宇宙の法則に心の自由を束縛され行動を制限されるのではないのであります。宇宙の法則を知って何の束縛も制限も受けず自己の思うがままに自由自在に行動していながら、しかも宇宙の法則に叛くことはなく正しい道を一歩も踏み外すことがないのが本当の覚りの境地に到達した人の生き方であります。
 



 ◎それは大自然が真理と一体であるからである。大自然は真理と共にあり、真理は大自然と共にある。
 
 大自然と真理とは一体なのであって別個の存在ではないのであります。真理というものが何処かにあって、更に大自然というものが別に存在しているのではないのであります。私達が日常見慣れている大自然其のものが真理の姿其のものであり、私達が日常接している大自然の中に真理が存在するのであります。真理とは私達の知らない何処かに存在するものでもなければ、大自然の何処か、例えば宝石が地中の何処かに埋もれている様に隠れて存在しているものでもないのであります。アイザック・ニュートンが林檎の実の落つるを見て万有引力の法則を発見し、アルキメデスが風呂に入って湯の溢るるを見てアルキメデスの原理を発見した様に、私達の周囲に見ることの出来る森羅万象の悉くが真理の現われ其のものなのであります。故に私達が曇りの無い心の眼で見るならぱ、天体の運行にも、水の流れにも、物体の運動にも、物質の化学変化にも、生物の生長にも、私達が見慣れているあらゆることの中に偉大な真理を発見することが出来るのであります。