モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」 霊に依る病気や不幸

 病気には霊が原因となって起る病気と、物理的、生物学的なことが原因となって起る病気との2通りがあることは既に述べた通りであります。霊が原因となって起る病気とは、故人や死んだ動物霊や悪魔などが人間の心に取り憑いて様々な病気にすることであります。しかし現代医学は霊魂の存在を否定していますから、霊が人間に取り憑いて病気にさせるということは理解出来ないのであります。しかし人間に邪霊が取り憑いて様々な病気にしたり、不幸にしたりする例は多いのであります。では霊は誰にでも、何時でも取り憑いて悪いことをするかというと必ずしもそうではないのであります。霊に取り憑かれて病気になる例は沢山ありますが、最も単純な例は動物達を虐待して殺した様な場合、殺された動物の霊が怨んで取り憑き病気にしたり事故や災難に遭わせて苦しめるという様な場合であります。

 普通肉食動物は草食動物を殺して食べますが、そこには怨みや憎しみの念はないのであります。人間が魚や鳥や獣を殺して食べる場合も一々怨まれたりしたのでは魚も鳥も食べられないことになります。通常野生動物の世界では強い肉食動物が弱い草食動物を殺して食べるのは自然の摂理であって罪ではないのであります。人間の場合も食べるために動物を殺すということ自体は罪にもならず怨まれる原因ともならないのであります。しかし人間はしばしば非常に残酷な方法で動物を殺したり、必要以上に多くの動物を殺したり、食べるつもりもないのに殺したり、興味本位で殺したりする場合がしばしばあります。その様な行為は生命を創造せられた神に対しても罪になると共に、動物に対しても罪になるのであります。そのために殺した人が殺された動物の霊に怨まれて肉体に取り憑かれ苦しめられる場合も多いのであります。

 例え食べるために殺すのであっても動物達に殊更に恐ろしい思いをさせたり苦しい思いをさせたりしてはならないのであります。世間では魚釣りが好きでしばしば釣りをするけれども釣った魚を食べるつもりもない人がよく居ます。食べる気がないのに釣り、他人にあげたり、死んだ魚を捨てたりすることは大きな罪であります。1匹の小魚と言えども尊い生命を持ち修行の為に生まれて来ているのであります。然るに食べるつもりもないのに趣味で魚を釣るようなことは生命を余りに粗末にしているのであります。趣味や面白半分に魚を釣り、自分は食べたくないから他人にあげるという人が居ますが、それも誤っているのであります。漁師は売るために魚を釣ってもそれは生活のためであります。故に趣味や楽しみで釣るのとは訳が違うのであります。食べる気がないのに魚を釣り、捨てるのは惜しいから他人にあげようと思い、誰も貰い手がいなければ捨てるという様なことは大きな誤りであり罪であります。
 
 もっと悪いのは川へ薬を流して近くの魚を全滅させて捕る方法であります。よくデリス根などという毒を流して魚を捕る人が居ますがこれは特に恐ろしい罪であります。川に住む魚貝類の中には人間の食用にならないものも沢山います。故に食べない魚や食べられない魚は捕るべきではなく、捕れても逃がしてやるべきであります。しかしデリス根などを流すと食べられない魚も稚魚も全てを殺し尽してしまうのであり無用な殺生をすることにもなるのであります。川に強烈な電気を流したりするのも同じであります。故にその様なことをした人は犯した罪の故に原因不明の病気になったり精神異常になったりすることも多いのであります。故に趣味で魚を釣ったり、必要もないのに殺したりする様なことは慎しまねばならないのであります。また魚を食べるにしても非常に残酷な方法で料理をしたりしてはならないのであります。
 
 さて次に蛇を見るとすぐ石を投げたり棒で叩いたりして殺す様な人がいます。蛇が人間に襲って来る場合は自衛のために殺すのは正当だと言えますが、人間を襲うつもりもなく、人間の姿を見て逃げようとする蛇を苛めたり殺したりするのは罪であります。人間から見ると蛇の姿は恐ろしく厭な感じがする場合が多いと言えますが、蛇は人間にとっては寧ろ有益な動物であり、もっと愛情や理解を以って大切にしてやるべき動物であると言えるのであります。人間は見かけの姿や形丈でいい加減な判断をしてはならないのであります。よく蛇の霊に取り憑かれたという話がありますが、考えてみるとそれは平素人間が蛇を恐ろしいとか厭だとか考えて蛇を苛めたり殺したりしている心の反映であると言えるのであります。人間が愛情を持って接すれぱ相手も愛情を以って応えて呉れるのであり、人間が僧しみの心を持って接すれぱ相手も憎しみの心を以って応えるのであります。

 万物の霊長である人間は万物の長でありますから全てのものの良き主とならねばならないのであります。例えば毒蛇は人間を殺したりしますが、彼等は決して人間に怨みや憎しみの心を持って噛み付くのではないのであります。毒蛇と言えども生きるために、生命を守るために、食べるために他の動物を襲うのであって怨みや憎しみの故に襲うのではないのであります。故に私達も毒蛇に対して怨みや憎しみの心を持って接してはならないのであります。人間が怨みや憎しみの心で接するから相手も憎しみの心で応える丈であって、毒蛇であっても人間に噛みつく以外には天敵として人間の為に役立っている場合も多いと考えられるのであります。

 また犬や猫を見ると石を投げ付けたり、蹴飛ばしたりする人もあり、虫を見ると踏み潰したり、気に食わない動物を見るとすぐ苛めたり殺したりする人が沢山います。何の罪もないものを正当な理由無くして苛めたり殺したりすることは大きな罪であります。只1匹の蛇を殺したから蛇の霊に取り憑かれて苦しめられるとか、猫を殺したために猫の霊に取り憑かれて苦しめられるとは限りません。殺した蛇や猫の霊に取り憑かれなくても、理由も無いのに殺した罪は罪として残るのでありそれが原因となって病気になったり不幸になったりすることは有り得るのであります。
 
 以上述べた様に動物に取り憑かれて病気になったり、不幸になったりするのは人間が動物を虐待したり、殺す必要もないのに殺したり、趣味や娯楽で殺したりすることが原因となって起ることが多いのであります。また故人の霊が取り憑いて病気にしたり、事故災難を起したりすることもよくあります。それは殺されたり、騙されたり貴重な物を奪われたり、名誉を傷付けられたりした怨みを晴す目的で加害者に取り憑いて苦しめる場合もあれば、殺されたり、不幸な出来事で死んだり、難病などで苦しんで死んだりした人の霊が自己の家族や子孫に取り憑いて救いを求めようとする場合もあります。しかし多くの人々は霊のことが判らないから平気で人を殺したりするのであります。邪魔者は殺しさえすれば全て片が付くという様な考えこそ愚かで誤っているのであります。邪魔者は殺しさえすればよい、秘密を知られたら殺して証拠を消してしまえばよいという様な考え方は全く浅はかで救い難いと言わねばならないのであります。
 
 また犯罪人は死刑にしてしまえばそれでよいという考え方も誤っているのであります。人間の場合殺された人の霊が直接、殺した人の肉体に取り憑いて恨みを晴らそうとする場合もあれば、子孫に恨みを晴らしてもらおうとする場合もあり、来世生まれ変わって恨みを晴らそうとする場合もあります。故に人を殺したら必ず怨霊の祟りを受けるとは限らないのであります。しかし現実に怨霊が取り憑いて苦しめることがあるのは事実であります。故に人を殺したり人の財産を奪ったり、名誉を傷付けたりして怨みを買う様なことはしてはならないのであります。
 
 次に生前の怨みを晴らすために加害者に取り憑くのと違って自己の生前の悩みや苦しみが死後も消えないために、家族や子孫に取り憑いて救いを求めようとする霊も沢山あると考えられます。その様な霊たちは生前誤った宗教を正しいと信じていたためににその迷いから覚めることが出来ず苦しまねぱならないという場合もあり、非常に悶え苦しんで死んだために死後も生前の苦しみが忘れられず何時迄も苦しんでいるという場合もあり、死に就いての正しい知識を持たずに死んだために死後苦しまねばならない場合も多いのであります。故にその様な霊は読経とか供養という様な在り来たりの方法では容易に救われないのであります。しかし霊界で迷い苦しんで居る祖先霊が救いを求めて子孫に取り憑くということは、有り得るとしても全面的に信ずることは危険であると私は思うのであります。それは祖先の名を騙って人間を騙し苦しめようとしている邪霊が存在するからであります。一般には人間が殺したり、苛めたりした動物の霊や殺されたり苦しめられたりした人の霊が取り憑いて苦しめたりするのだと考えられていますが、人間に取り憑いた霊というのはそんなものばかりではないのであります。霊界には悪魔・邪神・邪霊と呼ばれている非常に悪賢く強大な霊力を持つ霊が多数存在するのであります。それらの邪霊は人間を騙そうとしてあらゆる手段を使って取り憑いて来るのであります。

 

このことに就いて或る例を以って説明したいと思うのであります。たま出版刊行、関口栄氏著「火の洗礼」第1章「兇悪世相と悪霊の暗躍」の中の68頁から次の様な事が書かれています。

 「ある時、父親に抱き抱えられる様にして、道場に来た娘さんがいました。青ざめてこけた頬、衰弱し切った骨と皮の体付き、両手を力なく下げた姿はまさに柳の下の幽霊そのままです。父親が言うには「3人の医者を付けていますが3人ともあと2,3日の命と言います。今更命を助けてくれとは申しません。手かざしをして頂くと、息を引きとるにも楽だし、本人の魂も救われると聞いて伺ったのです。」それならということで手かざしをしました。
 その日はそれで帰って翌日、手をかざしていると24才の時、結核で亡くなった長女の霊というのが出て来ました。か細い声で語ったのは、次の様な話でした。死んで霊界に行ったが、位牌がないので食事が出来なかった。ひもじくて我慢出来ないから止むなく上の妹に憑かっていたら、妹は同じ結核で24才で死んだ。仕方ないので今度は次の妹に憑かった。そしたらその妹も同じように死んでしまった。妹では分かって貰えないと、次に母親に憑かったけれどやはり死なれ、とうとうこうして末の妹に頼っている。「だけど妹もこんなになって、私はどうしたらいいのかわかりません」とさめざめと涙を流すのです。人の肉体に憑くのは神の掟を犯す大罪だし、このままでは妹さんも死んでしまう。位牌を作って上げるから、早く出て待ってなさいと諭されて長女の霊は離脱しました。すると娘さんは1日2日と持ち、5日目には急に食欲も出てきた。そして段々体力も回復し、1ケ月後には元の元気な姿に戻ったのです。こういう訳で位牌・仏壇というのは単なる形式ではありません。御先祖は位牌を通して子孫の供えた食物の気を吸い、幽界での修行をしているのです。ですから位牌がないと先祖は苦しくてたまらず、仕方なく子孫に憑依して様々な戒告現象まで起こします。」
 
 この文を読むと大抵の人は成程尤もだと思うでありましよう。しかしこの様な事とを簡単に信用してはならないと思うのであります。大体この話が事実あったのかどうか、それは私達の如く外部の者には確認して見る方法がありませんので一応関口栄氏を信用するしか方法がないと思います。しかしこの文章の中には矛盾と考えられることが色々あります。それは24才の時結核で亡くなつた長女の霊が、死んで霊界に行ったが位牌がないので食事が出来ずひもじくて我慢できないから妹に取り憑いたということであります。人間は生きるために食物を食べるのであります。だから死んだら最早何も食べたり飲んだりする必要はないのであります。生きて活動するために血や肉や骨になる食物やエネルギーになる食物が必要なのであります。しかし死んで肉体を離れた霊は最早何も食べたり飲んだりする必要はないのであります。故に死んで霊界に行ったが位牌がないので食事が出来ずひもじくて我慢が出来ないという長女の霊の言葉には何か嘘か誤りがあると考えねばならないのです。
 
  関口栄氏の書いていることが本当であるならば、この長女の霊は2人の妹と母親との3人に取り憑いて殺したことになります。しかも更に3人目の妹に取り憑いて殺そうとしているのであります。殺意があって殺すのではなくても、取り憑いていれば次々と死んでいくことは判り切っているのであります。それが判っていながら肉親の妹2人と母親を殺し最後に残った末の妹まで殺すということが故人の霊に出来るでしょうか。しかも人間が人間を殺すのが罪悪である様に霊が生きた人間に取り憑いて殺すことも罪悪であることに相違はないのであります。それにも拘わらず長女の霊が肉親の妹や母を3人迄殺したとすれば非常に大きな罪を犯したことになるのであります。更にこの一家の父親も母親も何故長女の位牌を作らなかったのでしようか。長女の位牌を作らなかったために妹2人と母親迄殺されたというのであれぱ妹2人と母親の位牌は作ったのでありましようか。妹2人と母親の位牌も作らなかったのであれぱ彼女達の霊も位牌がないから食事が出来ずひもじくて我慢出来ない筈であります。この父親が長女の位牌は作らなかったのに2人の妹と母親の位牌は作って丁寧に供養したというのであれぱ何となく理解出来ないと私は思うのであります。長女の霊が2人の妹と母親迄殺したというのに、長女の霊に殺された妹2人の霊も母親の霊も出て来ないのは何故でしょうか。霊界で迷ったり苦しんだりしているのは長女の霊丈で、妹2人の霊と母親の霊は成仏して霊界で安らかに暮らしているとでも言うのでありましょうか。考えれば考える程この話は矛盾が多くなって来るのであります。

 故人の霊にお茶や御飯を供えて上げないと霊はあの世で腹を空かせて苦しむというのは仏教の僧侶達がよく言いそうなことであります。しかし釈迦も弟子達も霊魂のことや霊界のことに就いては正しいことは何も説いてはいないのであります。故に仏教などまともに信用する訳には行かないのであります。位牌がないから食事が出来ず霊が腹を空かせて苦しむという様なことは仏教的な狭い宇笛観に囚われているから考えられるのであります。ではキリスト教イスラーム教やゾロアスター教などの如く故人の為の仏壇も位牌も作らない宗教の信者はどうなるのでありましょう。キリスト教徒は故人の霊に食物を供える習憤は持っていません。ではキリスト教徒やイスラーム教徒の死者の霊は霊界で何時も空腹で苦しんでいるとでも言うのでありましようか。若し関口栄氏が仏教徒、或いは日本人丈は死後位牌を作り食物を供えて貰わねば空腹で苦しまねぱならないが、外国人や他の宗教の信者は位牌がなくても、食物を供えて貰えなくて苦しむことはないのだと言うのであれば明らかに嘘であります。仏教徒が非科学的で無知であるから故人の為に食物を供えたりするのであります。故人の為に位牌を作らなかったり、食物を供えなかったりすれば、故人の霊が空腹で苦しむというのであればキリスト教徒やイスラーム教徒の死者は皆霊界で空腹に苦しみ、子孫に取り憑く筈であります。また人間の霊が位牌や供物がなけれぱ空腹で苦しむのであれぱ動物霊も同じであると考えねばならないのであります。大体故人の霊のために食物を供えるという習慣は昔文化の程度が低く、死後の世界で生前と同じ様な生活が続くという様な誤った考え方が正しいと信じられていた頃に出来たものであって、科学的根拠は何もないのであります。生前の世界と死後の世界とは全くその様相が違うのであります。死後の世界に現世と同じ様な生活が存在すると考えることは全く誤っているのであります。その様な意味でこの話には信じ難い矛盾を感じるのであります。

 関口栄氏の話にはもっと変ったものもあります。「火の洗礼」第1章の53頁以降に次の様な文章があります。

 「ひどいムチ打ち症で、曇った日や雨が降ると辛くて仕方がないんです。こういうのも手かざしで治るものなんでしょうか?」そう言って訪ねて来た青年がありました。大阪市内で電気器具店を経営しているYさん(27歳)です。「ご心配はいりませんよ。しぱらく通って御覧なさい、分かりますから。それより、交通事故というのはほとんど霊のせいですからね、そっちの方の解消が大事なんですよ」道場の責任者がそう返事しますと「どういうものか、事故ばかり起こすんです。このムチ打ち症は2年前だけど、その前も大きいのを2度やってます。」彼は小さい事故は始終やっているし、大きいのだけでも3度あったといいます。1回目は19才の時オートバイで起こした事故でした。六甲山のハイウェイを飛ばしていた時です。登り坂を飛ばして上ったら、右曲りのカーブから不意に自動車が現われた。慌ててブレーキをかけながら避けようとしたら、ブレーキが利かないのです。そのままガードレールに激突、体は放り出されて崖下へ転落しました。気が付いた時は、茂った葉と木の枝の間に体が引っ掛かっていた。崖の途中にあった木のおかげで、かすり傷だけで命拾いしたのです。オートバイは前の部分ががたがたになっていました。あの時何故急にブレーキが利かなくなったのか、今でも解らないそうです。
 
 2回目は22歳の時、夕暮れの土砂降りの雨の中を乗用車で走っていた時です。前方に不意に見えた人影に驚いて、慌ててハンドルを切った。その拍子に電柱に車体をぶつけ、勢いで歩道を歩いていた2人の男を跳ね飛ばしました。幸いに死者や重傷者は出ませんでしたが、相手の治療費やら車の修繕費で大変な出費だったそうです。3度目は今のムチ打ち症になった事故で、店の附近の交叉点で起こったのてす。余り広くない交差点で車の通りも少なかったので、青信号と見てそのまま直進しました。途端に右側からトラックが猛スピードで突っ込んで来たのです。咄嗟にハンドルを左に切ったが、後部トランクに強い衝激を受け、数m飛ばされて横転しました。車中から助け出されて幸い外傷は無かったものの、運ばれた病院で全身ギブスのまま1ケ月の入院です。ギブスの取れた後も、首が動かず痛みのため3ケ月ほど通院しました。そして2年たった今でも、季節の変り目や天気加減で、激しく痛み吐き気までするということです。
 
 Yさんが手かざしを受けるようになって、10日ほど経った頃です。彼の合掌していた両手が急にクネクネと妙な動きを始めました。顔は怒ったように強張り何とも無気味な感じです。歪めた口の辺りが、何か言いたげに痙攣します。
 「あなた様は蛇の御霊とお見受けしましたが、何かこのYさんに怨みでもあるんですか?」そう尋ねると、待っていたように大きく頷く。やがて押し殺したような凄味のある声で「こいつを殺してやるのだ…」いろいろ尋ねてみると、それはYさんに殺された蛇の霊で、彼を殺すために何回も事故を仕組んだということです。オートバイのブレーキを利かなくしたり、雨の中で事故を起こさせたりしたとのこと。3回目の時は、赤信号だったのを青信号に見させた、というのですから霊は何を仕組むか分かりません。後でYさんに訊いてみると、中学3年の時、学校の帰り道に見付けた蛇を殺したそうです。1m位の蛇で、頭に大きい石をぶつけたらのた打ち回った。その尻尾を掴んで友達を脅し、暫くして木の幹に叩き付けて殺したのです。嬲り殺しの苦しみを味わった蛇は、Yさんを交通事故で体をぐしゃぐしゃにして殺し、怨みを晴らそうとしていたのでした。Yさんのムチ打ち症は間もなく治りましたが、彼は蛇霊に済まないと自分の非を詑び続けました。その甲斐あって、霊も漸く納得し離脱してくれたので、以来、Yさんは1度も事故を起こさなくなったのでした。
 
 
 
 この様な事実が果して有ったかどうか甚だ疑問であります。しかし一応有ったとして考えて見る他ないと思います。大抵の人はこの文章を読めば成程そんなこともあるだろうと考えると思います。しかし私はこの話の中に信じ難い矛盾が数々あると思うのであります。先ず彼が中学3年の時蛇を殺したというのは事実かも知れません。そうすると殺された蛇がY青年を怨んだとしても別に不思議ではないと言えます。しかしY青年が道場で関口氏の手かざしを受ける様になってから、取り憑いていた蛇が現われて関口氏の問に答えて「こいつを殺してやるのだ」と言ったというのが果して真実でありましょうか。蛇の霊も人間の言葉を聞いたり話したりする能力があると言うのでありましょうか。人間でも習ったことのないことは判らないのが普通であります。生前幾ら勉強しても判らなかったことが死後判ったり、生前全く学んだことのない事でも霊になったら容易に判る様になると言えるでありましょうか。少くとも生きた蛇に人間の言葉など理解出来るものではないのであります。尤も長年人間に飼育されれば蛇にでも或る程度の言葉は理解出来る様になると考えられますが、それにも限度があります。人間に取り憑いた蛇の霊が人間の言葉を話すということ自体が全く矛盾しているのであります。生きている蛇には人間の言葉が判らないのに死んだ蛇の霊には人間の言葉が理解出来たり話したり出来るという様なことは生命の世界の法則や霊魂の世界の法則から考えてみても全く信用出来ないのであります。この点を関口栄氏は何と説明するのでありましょうか。更にもっと大きな矛盾はY青年の交通事故は全て蛇の霊が怨みを晴らすために仕組んだものだということであります。

 蛇の霊は人間に較べれば非常に程度が低く機械の知識とか物理や化学の知識など持っている訳はないのであります。然るに蛇の霊がオートバイのブレーキを利かなくしたとか交叉点の赤信号を青信号に見せたとかいう様なことが現実に出来る訳はないのであります。蛇の霊的能力で出来る限界は頭痛や腹痛を起させるとか恐怖心を与えて精神異常にする位迄であろうと思うのであります。この様な点から考えて、私はY青年に取り憑いて交通事故を起させた霊は蛇の霊ではなく、機械や物理に関して相当高度の知識を持った邪霊であると考えるのであります。如何に怨みを晴らすためとはいってもこの様なことは蛇の霊に出来ることではないと言わねばならないのであります。Y青年に取り憑いた霊は蛇の霊ではないと思うのであります。しかしこの霊はY青年が蛇を殺したことをよく知っているために、うまく蛇の霊だと言って騙しているのであって、何度も交通事故に遭わせて苦しめておきながら、それを全て蛇の霊の仕業にして誤魔化しているのだと考えられるのであります。少なくともY青年の話が事実であるとするならばこのように考えなければ全く辻褄が合わないのであります。先の24歳で結核で死んだ娘の話にしても不可解な点が多いのであります。本当にその娘の霊であったのか、それともその家庭の事情をよく知っている邪霊が長女の霊に化けて2人の娘や母親を殺して知らぬ顔で誤魔化しているのかその点は関口氏には判らなかったのだと考えられるのであります。
 
 これは審神能力の有無の問題になって来るのであります。関口氏には審神能力がないからこんな矛盾だらけのことでも霊の言ったことはすぐ信用してしまうのであります。一見尤もらしい話の奥に隠された恐るべき矛盾を見抜くものは理性と良識しかないのであります。関口氏は交通事故はほとんど憑依霊に依るものだと言っていますが、例え霊がいたずらをしなくても居眠り運転や飲酒運転をすれぱ誰でも事故を起す可能性はあるのであります。故に交通事故にしても物理的な原因で起る場合もあれば霊が原因で起る場合もあると言えるのであります。その様な点に関口栄氏や彼の師岡田光玉氏の説の矛盾があると言えるのであります。

 人間に邪霊が憑依して様々ないたずらをするのは事実であります。しかしそれは動物霊とか故人の霊に限ったものではないのであります。動物霊や人霊以上にもっと悪賢く強大な力を持った邪霊の大集団が存在することを知らねばならないのであります。それは世間で悪魔邪神と呼ばれている恐るべき邪霊なのであります。関口氏は現代人のほとんど全てが憑依霊に取り憑かれていると言っています。その事自体は必ずしも嘘ではないのであります、しかし憑依している霊が動物霊や故人の霊ばかりであると考えたら大間違いであります。生前私達と何か繋がりのあった動物や人の霊が取り憑くと言うのであれば問題は簡単に解決出来るのでありますが、実際には過去に私達には何の関係もなかった無数の邪霊が人間に取り憑いて騙したり苦しめたりしようとして隙を窺っているのであります。その様な霊は容易に人間の前に正体を現わさないのであります。故に殆んどの人には邪霊の存在は判らないのであります。“手かざし”などで簡単に姿を現わす様な霊は小者であり取るに足らぬものであります。また僧侶や祈棲師などの祈祷で出て来る様な霊も小者であって彼等は人間を巧く騙すためにわざと姿を現わしているのであります。
 
 すでに述べたY青年の例の如く、蛇の霊が人間の言葉を話したり、オートバイのブレーキを利かなくしたり、交通信号の赤を青に見せたり、雨の日に事故を起させたりする程高度の霊的能力を持っている筈はないのであります。Y青年が過去に蛇を嬲り殺しにしたことを知っていて、巧く蛇の霊に化けて酷い目に遭わせたのは非常に悪賢く強い霊力のある邪霊であると言えます。そうして関口氏に審神能力のないのをいいことにして蛇の霊だと言って騙し、霊魂とか霊の世界はこの様なものだという誤った観念を植え付けるのが彼等邪霊の本当の目的だと言えるのであります。故にはっきり言えば岡田光玉氏や関口栄氏の背後に神と称して憑いている霊は悪魔邪神と呼ぶべき邪霊なのであり、彼等の手かざしに依って出て来る霊は全て岡田氏や関口氏の背後霊の仲間であり、手かざしは邪霊仲間の八百長だと言えるのであります。邪霊達はこの様なインチキな方法で巧く人間を騙して、霊魂や霊界のことに就いて誤った観念を持たせようとしているのであります。これは手かざしに依って憑依霊は去り病気や災難や不幸は消滅すると多くの人々に信じ込ませるために邪霊達が八百長をやっているのであって、本当に恐ろしい邪霊は手かざしや祈榛などで姿を現わすものではないのであります。

 本来生きた人間に取り憑いて様々ないたずらをすることは神が禁じられている大罪なのであって、少々の怨みがあるとか気に喰わないことがあるとかいう様な理由で容易に人間に取り憑いたり出来る筈はないのであります。何故ならば過去に殺された怨みを晴らすために、加害者に取り憑いて殺せば、殺した霊も殺人罪を犯したことになり審かれねばならないからであります。人を殺せば殺した人は必ず神の審きを受けます。故に殺された方は復讐などしようと思わず神が審かれるのを見ていればよいのであります。しかし殺された怨みで相手を殺せば自己も罪を犯したことになるのでありますから損であります。故に少し判断力のある霊ならそんなことをする筈はないのであります。しかし人間には霊界のことはよく判らないのであります。故に人間の無知に付け込んで邪霊が暗躍し巧く騙すということになるのであります。

 では邪霊はどの様にして人間に取り憑きいたずらをするのでありましょうか。私が常に述べている様に人間は霊魂と物質との結合に依って此の世に生まれて来るのであります。霊魂は人間の心となり、物質は人間の肉体となります。そうして人間は霊魂の世界と物質の世界との影響を受けて生活しているのであります。飲食物を摂取するのも、呼吸をするのも肉体が物質との繋がりを必要としているからであります。そうして良い食物は健康増進のために役立ちますが悪い食物は健康を害し病気にしたり中毒死させたりします。

 霊魂の世界についてもそれと同じことが言えるのであります。私達の肉体が成長して行くためには飲食物を通じて様々な栄養分を摂取しなければならないように、私達が賢明になり高級になっていくためには霊の世界から様々な真理や知識を求めねばならないのであります。そうして私達のが選ぶ食物の種類によって私達の健康状態が左右される様に、私達が霊の世界に求めるものの種類に依って私達の心の状態は大きく変って来るのであります。私達が心から真理や正義や愛を求めるならば、私達は必ず真理や正義や愛を得るでありましよう。しかし私達が快楽や安逸遊堕を求めるならば私達はそれらのものを得るでありましょう。要するに肉体が飲食物や気候風土や環境などの影響に依って変化する様に、精神もまた信仰や学問や思想や趣味などの精神的環境に依って変化するのであります。そうして人間に様々な真理や学問や思想などを与えるのは霊であります。また人間に正しい真理や学問や思想などを与えられるのは神とか正霊と呼ばれる霊であり、人間に嘘や誤りや矛盾の道理や学問や思想などを与えるのが悪魔邪神などと呼ばれる邪霊なのであります。私達の心が常に正しく清らかで無欲で愛情深く、賢明で高級であるならば、心は自ずから神や正霊と繋がっているのであります。しかし心が邪悪で穢れ乱れ、欲深く、愛情がなく、低級で愚劣であるならば、心は自ずから悪魔邪神に通じ、悪魔邪神の影響下にあり、支配せられていると言えるのであります。故に人間の心次第で神に通ずるこをあれば悪魔に通ずることもあると言えるのであります。

 そうして神の最高の自己顕現は人間であると言えますが、悪魔の最高の自己顕現もまた人間なのであります。神の力も悪魔の力も共に人間を通じて此の世の中に具現せられて行くのであります。また花には蜜を求めて蜂や蝶が集まり、汚物には自ずから蝿が集まって来る様に心の正しく清らかな人には自ずから神や正霊が宿り、心の邪悪で穢れた人には自ずから悪魔や邪霊が宿るのであります。故に人間自身が心の修行に依って正しく清らかな心になれば招かずと神の霊は宿りますが、穢れた心でいくら呼んでも招いても神の霊は宿らないのであります
 
 心が邪悪で穢れていれば必ず邪霊が宿っているのであり、心を洗い清めない限り邪霊が去ることはないのであります。汚物にたかる蝿は幾ら追い払っても後から幾らでもたかって来ます。心の穢れた人に邪霊がたかって来るのも汚物に蝿がたかるのと同じなのであります。故に心の穢れた人が祈饒師などに幾ら祈濤して貰っても取り憑いた邪霊が去ることはないのであります。手かざしとか浄霊という様な方法で邪霊が去ると考えたら大間違いであります。手かざしや浄霊などで去って行く霊は小物であり、人間を騙すためにわざと憑いたり離れたりして見せているのであって、本物の邪霊は容易に正体など見せるものでもなければ、祈祷や手かざしや浄霊などで簡単に離れて行くものではないのであります。
 また元々穢れた心に神の霊が宿ることはないのであり、心を洗い清めないで祈梼や手かざしや浄霊などで一時的に霊が離れても、汚物にたかる蝿と同じで、穢れた心には後から後から幾らでも別の邪霊がたかって取り憑くのであります。故に心を洗い清めずして邪霊を追放する方法もなけれぱ、神に通ずる方法もないことを覚らねばならないのであります。

 本当に邪悪で強大な邪霊は人間に取り憑いていることを容易に覚られる様な下手なことはしないものであります。誰にも知られない様に取り憑き、誰にも知られない様にいたずらをしているのであります。宗教家などの前に姿を現わしてわざわざ自己の悪事をぶちまける様なことは滅多にするものではないのであります。小物の邪霊は普通の人間に取り憑いて、人を殺させたり、泥棒をさせたり、詐歎をさせたり、他人と争いをさせたり、自殺をさせたり、事故を起させたりする様な小さな仕事をして喜んでいます。しかし大物の邪霊は宗教家に取り憑いて誤った教えを拡めさせたり、政治家に取り憑いて誤った政治をさせたり大戦争をさせたりし、企業家に取り憑いて産業や経済を混乱させたり荒廃させたりし、或いは芸術家や文学者などに取り憑いて人の心を退廃させたり堕落させたりする様な大きな悪事を働いているのであります。
 
 現代の地球の文明即ち宗教も思想も学問も芸術も政治も経済も教育も技術も全て悪魔邪神邪霊によって作らされたものであります。故に現代文明を正しいと信じている限り地球人類は滅亡して行く他はないのであります。地球人1人1人が邪霊に心を支配せられて誤ったことをさせられている様に、地球人全体が巨大な邪霊の集団に依って心を支配せられ思うままに動かされているのであります。故に地球人1人1人が心を洗い清める様に努力すると共に、地球人全体が心の浄化を図り、地球の霊界現界の両面に亘って完全な浄化を図らねば地球人類滅亡の危機を避けることは出来ないのであります。
 
 さて人間に取り憑いた霊が人間の肉体を支配して病気にしたり事故を起こさせたり、殺人、泥棒、詐欺等をさせたりする場合もあれば、間接に人間の心を支配してその人自身の意志で病気にさせたり、事故を起こさせたり、罪を犯させたりする方法と2通りがあります。では邪霊が直接人間の肉体を支配するというのはどのようなことかと言うと、簡単に言えば人間の肉体を乗っ取ることであります。肉体はその人の霊が修行するために与えられているのであって、霊と肉体とは1つであって、自分の心が自分の肉体を支配する権利を持っているのであります。喩えれば霊を人間とすれば肉体はその人の専用の乗用車の如きものであります。しかしうっかり油断をしていると自己専用の乗用車を他人に盗まれることもあります。肉体を乗っ取られるのもそれと同じ様なものであります。人間が大酒を飲んだり、麻薬を注射したり、その他精神が混乱状態になる様なことをすると、その虚に乗じて邪霊が取り憑き、肉体を勝手に使ったりすることもよくあることであります。他人の肉体に取り憑いて勝手なことをするのは全て邪霊であります。故に他人の肉体を乗っ取った邪霊は絶対に良いことやまともなことはしないのであり、必ず犯罪や自殺や事故などの悪いことや不幸なことをさせて楽しむのであります。肉体を乗っ取られた時は、その肉体を使っているのは邪霊でありますから、本人の霊には判らないのであります。犯罪や事故を起した後、邪霊が逃げて本人の霊が元の肉体に帰っても、肉体を乗っ取られている間に自己の肉体がしたことは大抵本人には記憶がなくて判らないのはそのためであります。自己の霊が自己の肉体を使って行動したことは記憶として残りますが、他の霊が肉体を乗っ取って勝手なことをした場合は本人の霊がしたことでないために記憶に残らないのであります。
 
 そのために人を殺しても泥棒をしても事故を起しても、その時のことは何も覚えていない、何も知らないというのは事実なのであります。では邪霊に肉体を乗っ取られている間に邪霊が起した事故や犯罪は一体誰の責任になるのかということになります。勿論他人の肉体を乗っ取ること自体が罪なのであり、他人の肉体を乗っ取って犯罪などを起すことは更に大きな罪であります。ではその様な場合の罪や責任は全て邪霊にあると言えるかというと決してそうではないのであります。
 全ての人にとって肉体は一生の間修行のために使わねぱならないものであり何よりも尊いものであります。その何より尊い肉体を自己の心の不注意から邪霊に使われ事故や犯罪を起されて自己も不幸になり多くの人をも不幸にするということは自己の重大な過失であり責任であると言わねばならないのであります。故に何時も強く正しく邪霊に心を支配されることのない様に正しい人生を送る様に心掛けねばならないのであります。
 
 邪霊に肉体を乗っ取られた場合は、肉体は邪霊の思うままに自由に使われますからもっとも不幸な状態になります。その様なことをすれぱ邪霊自身も大きな罪を犯すことになりますから、邪霊の方も何時でもそんなことをするとは限りません。邪霊が最もよく使う手は人間の肉体を乗っ取ってしまうことでなく、人間に取り憑いて心を支配することであります。例えば自家用車を運転している人の横に無理矢理に乗り込む様なものであります。そうして自家用車を運転している人を強迫して、あっちへ行けとかこっちへ行け、と言って誤った方へ行かせたり、運転者を巧く誤魔化して、あっちへ行った方がよいとかこっちへ行った方がよい、と騙して違った方角へ行かせる様な方法もとれるのであります。よく犯罪や事故などを起した人がその時自分はそんなことをしようとも思わず、したくないと思っているのに何者かに強制せられて無理にさせられた様な気がするという例があります。その様な場合は取り憑いている霊に強迫されて無理にしたくないことをさせられたと言えるのであります。実際に事故や犯罪は人間に取り憑いた邪霊がその人の心を支配し強迫して起させる例も非常に多いのであります。しかし邪霊が人間に取り憑いて心を支配し強迫して事故や犯罪を起させるためには、その人の霊よりも邪霊の方が悪賢く霊力が強くなければ出来ないことであります。そうしてまた人間に取り憑いて心を支配したり強迫したりすることは重い罪になることでもあり、何時でも誰にでも出来るとは限らないのであります。即ち心を支配し強制しようとしても人間の霊力が邪霊よりも強けれぱ反発されたり拒否されたり、警戒されたりして失敗することもあるからであります。
 
 故に人間の肉体を乗っ取って悪事を働いたり、人間に取り憑いて心を支配し強迫して事故や犯罪を起させるよりも、人間に取り憑いても巧くおだてたり、喜ばせたり、誤魔化したりして誤ったことをさせる方が容易であり効果的であります。例えば酒が飲みたいとか、博打をしてみたいとか、浮気をしたいとか、金銭や財産が欲しいとか、名声や地位や権力などが欲しいという様な欲望を持たせる様に仕向けてから、徐々に悪い道や誤った方向へ誘惑していけば多くの人間は案外簡単に邪霊の罠に嵌まるのであります。そうして次第に抜き差しならぬ状態に引き込まれて不幸になっていくのであります。
 その様な例の他に、酒の好きな邪霊が人間に取り憑いてやたらと酒を飲ますというようなこともあります。このような場合酒を飲みたいばかりに邪霊が人間の肉体を乗っ取って酒を飲んでいるという場合もあり、その様な場合はその肉体の主である本人の霊は酒が好きな訳でもないのに無意識的に酒を飲まされているとも言えます。それとは違って人間を誘惑して酒を飲ませて堕落させたり失敗させたりする目的で酒を飲ます霊もあります。世間には酒を幾ら飲んでも事故や犯罪を起こさなければよいとか、酒を飲んで病気になっても早く死んでも自分が満足すればそれでよいという様な非常に誤った考えを持った人が沢山あります。酒を飲んで大きな事故や災難や犯罪を起さなくても、酒は人間の理性を曇らせ心を穢すのであります。故に心の清らかな人は酒を飲まないのであります。酒が人間の理性を失わせたり心を穢れさせることをよく知っているからこそ、邪霊はよく人間を誘惑して何かにつけて酒を飲まそうとするのであります、
 
 その他金銭や地位や権力や名声や博打や性行為や、其他あらゆる亨楽などにしても、邪霊自身がその様なことをして楽しみたいために人間に取り憑いて肉体を思うままに使用して欲望を満足させるという場合もあれば、人間を堕落させたり、失敗させたり・不幸にさせたりして楽しみたいために肉体に取り憑いて心を誘惑する場合も多いのであります。
 また酒を沢山飲めば健康を害することは判り切っており、甘い菓子などを沢山食べても健康を害することはよく判っていることであります。また犯罪を起せば何時か捕えられて刑罰を受けねばならず、博打をすれば何時か財産を失って路頭に迷わねばならないことにもなります。故に理性や良識のある人間はそんなに無茶なことはしない筈であります。しかし邪霊はそんことは一向お構いなしに好き勝手なことをして楽しむのであります。例えば酒飲みに取り憑いて好きな丈酒を飲ませて楽しみ、本人の肉体が病気になったり死んだりすれば、早速その肉体から抜け出して別の人間の肉体に取り憑き、また好きな丈飲めばよいのであります。人間は1度肉体を失うと来世生まれ変る迄人間としての生活は出来ませんが、邪霊は生きた人間の肉体に取り憑いたり乗っ取ったりするのですから1人の肉体が病気になったり死んだりすればまた別の人の肉体に取り憑いて同じことを繰り返すのであります。博打であれば自己の財産を失ってしまえば幾ら好きでも出来ませんが、邪霊は或る人に取り憑いて博打をさせ、財産をすってんてんに失なってそれ以上出来なくなれば、別の人の肉体に取り憑いて財産のある丈博打をさせたりするのであります。犯罪にしても同じことであります。或る人に犯罪を起させて、その人が警察に捕まり刑務所に入れられて、次の犯罪が出来なくなればまた別の人に取り憑いて犯罪を起させるのであります。その点が自分の肉体を持って生きて行かねばならない人間と、人間の肉体を乗っ取ったり取り換えたりして何度でも悪事を重ねる悪魔との根本的に違う点であります。しかしその様な悪事が何時迄も許される訳はないのであります。罪を犯した人間が審かれる日が来る様に、人間に取り憑いて悪事の限りを尽し、或いは人間をそそのかしたり騙したりして悪事をさせて来た邪霊達もやがて審かれねばならない日が来ます。それは最後の蕃判なのであります。
 
 さて邪霊が人間に取り憑いて病気にさせるといっても人間がそれ程簡単に病気にされるとは限らないのであります。故に人間を病気にするには様々な手段を使わねばならないのであります。例えば人間に取り憑いて全く訳の判らぬことや出鱈目や無茶や不可解なことばかり喋らしたりすれば周囲の人々には邪霊の姿は見えませんから、てっきり発狂したと思い、早速精神病院へ入院させるということになります。しかし元来邪霊が心を支配して無理矢理に無茶なことをさせているのでありますから医者に判る筈はないのであります。故にその様な患者に幾ら薬を飲ませても治療を施しても容易に治る訳はないのであります。精神病院へ入院させられますと頭脳の働きを鈍くさせる様な強烈な薬を飲ませたり、電気ショックという様な野蛮で残酷な治療などをしますので邪霊も取り憑いているのが厭になって離れることもあります。そうすると一応精神は正常になりますから薬や治療の効果で治ったと思って退院させます。そうするとまた邪霊が面白がって取り憑き、様々ないたずらをし、再び精神病院へ入院させるという結果になります。こうして何度でも入院と退院を繰り返す人もあれば、どうせ退院してもまた再発して入院するからという理由で一生精神病院へ閉じ込められる患者も多いのであります。霊が原因で起る精神病は薬や治療では治りません。根本的に邪霊を追放しなけれぱ完治しないのであります。しかし邪霊を取り除くには心の修行をして邪霊が憑いて居れない様にするしか方法はないのであり、加持祈祷やまじない等で冶すのは祁霊とぐるになっている宗教家のインチキであり八百長であると言えるのであります。

 其の他、邪霊が人間を病気にさせようと思えば大酒を飲ませたり、無闇やたらに煙草を吸わせたり、無茶な大食いをさせたり、偏食ばかりさせたり、健康上悪いものばかり好んで食べるようにさせたり、あらゆる手段を用いるのであります。故にこのような場合も医者や薬では容易に治りません。余程強い意志と信念を持って心の修行に励み、誤った生活を改め正しい生活を実践する様に努力するならば邪霊は非常に恐ろしく厄介なもののように考えられますが、考え方に依れば全く恐ろしくも何ともない代物だとも言えるのであります。それは蝿やゴキブリなどは不潔な場所や汚物のある場所などに喜んで集って来ますが、清潔な場所は棲み難くて逃げて行く様に、邪霊も心の穢れた人には喜んで取り憑きますが、心の清らかな人には取り憑いていても面白くもなく、苦しいばかりでありますから自分から逃げ出して行くのであります。故に何時も心の修行に努め正しく清らかな心で生活していれば邪霊に取り憑かれたり、いたずらをされたりすることはないのであります。
 
 さて邪霊が憑くのは邪霊の好む様な憑き易い体質があるとも言えるのであります。例えば肉類は人間の食物として相応しいないのであります。肉類を多食していると霊が穢れてくるのであります。そのために肉食人種などは邪霊に取り憑かれ易いと言えるのであります。酒を飲むことも煙草を吸うことも霊が穢れるのであり、白米や白砂糖や白パンなど過度な精白せられた栄養価の乏しい食品を多く食べることも、脳の働きを悪くし邪霊に付け込まれ易い体質になるのであります。肉類を沢山食べると兎角競争心や征服欲が強くなったり、自尊心が強くなったり、怒り易くなったりします。その様な状態は邪霊が取り憑くのに非常に好都合なのであります。また塩辛いものばかり沢山食べていると兎角いらいらしたり怒りっぽくなったりすると言います。更に白米や白砂糖や白パンなどミネラルやヴィタミンの欠乏した食品を沢山食べているとカルシュウム分の欠乏などにより、兎角陰気な気分になり易く、心配不安や取り越し苦労等することが多くなり、邪霊に取り憑かれ易くなると言えるのであります。人間の心の状態によつて、取り憑く霊の種類は変って来るとも言えるのであります。故に正しく健全な食生活を送るということは邪霊に取り憑れない体質や精神状態を作るという意味で非常に重要であると言えるのであります。しかし食生活を改めさえすれば邪霊に取り憑かれにくくなると言えるものではないのであります。正しい食生活を送りつつ正しい心の修行に励むことが邪霊を追放し、邪霊に取り憑かれない様にすることの出来る只1つの正しい方法であると言えるのであります。