モ ナ ド の 夢

モ ナ ド の 夢

「宇宙の真理」天理教篇④  

 次に「かしこねのみこと」と「たいしよく天のみこと」とが「二つ一つの理」に依って繋がる神とせられています。「かしこねのみこと」は男性的道具神格、天では坤(ひつじさる)の方に集まる星、人体では息吹き分け、世界では風の守護、「たいしょく天のみこと」は女性的道具神格、天では艮(うしとら)の方に集まる星、人体では出産の時親と子の胎縁を切り、出直しの時息を引き取る世話、世界では切ること一切の守護と教えられています。「かしこねのみこと」は天では坤の方に集まる星、「たいしょく天のみこと」は天では艮の方に集まる星というのはこじつけであって重要な意味はないと思いますので省略致します。
 
 「かしこねのみこと」の徳は人体では息吹き分け、世界では風の守護であります。人間の呼吸も大自然に於ける風や気流も共に空気の作用であります。そうして私達が言葉を話したり歌を唱ったり出来るのも空気が存在するからであります。若し地上に空気が無くなれば一切の風も気流も無くなり、それと共にあらゆる音も無くなってしまいます。「かしこねのみこと」の守護の理が息吹き分けということは、人間が息をするのは言う迄もなく空気中の酸素を採り入れて肺の中で血液を浄化し体内で発生した炭酸ガスを体外へ排出するためでありますが、それと同時に私達は息を吐き出す時にその息の力を利用して言葉を話したり、歌を唱ったり出来るからであります。私達にとって呼吸が如何に大切であるかということは今更言う迄もありませんが、呼吸と共に言葉を話すということも非常に素晴らしいことであります。人間が言葉を用いることができなければどれ程日常生活が不便でありましょうか。例えば唖の人は手真似や身振りや筆談等によって意志を通じ合うこともできます。しかし意志を表現したり意志を通じ合ったりするのに言葉ほど便利なものはないのであります。手真似や身振りで意志を通じ合うには明るい場所でお互いに向き合ってそのことに熱中しなければなりません。暗い所や壁を隔てた時や後ろに居る人や仕事中の人などと手真似や身振りで意志を通じ合うことはできません。人間が意志を表現したり意志を通じ合う方法として言葉ほど便利でよくその目的を果たせるものは無いのであります。その言葉を利用できるのは空気のお陰であります。
 
 更に大自然に於ける風や気流もまた人間の為に多くの恵みを与えています。若し地球上に風や気流が全く起こらなくなれば地上のあらゆる生物は恐らく生存出来なくなるでありましょう。例えば地上の空気が太陽に依って熱せられれぱ暖まった空気は上昇してその周囲から冷たい空気が押し寄せます。その結果、空気の対流が起こり温暖な空気と寒冷な空気とが混合して気温を調節する訳でありますが、風が起こらなければ地球上には各地に熱い空気の固まりや冷たい空気の固まりが出来て、熱帯地方は一層暑く、寒帯地方は一層寒くなり非常に生活しにくくなるでありましょう。それは更に昼間と夜間の温度差、地域や季節に依る温度差などを一層激しくするでありましょう。それがひいては地上の動植物の生存に大きな悪影響を及ぽすことになるでありましょう。
 
 また風が空気の混合作用を営むことも重要であります。例えば動物は空気中の酸素を呼吸して炭酸ガスを排出し、植物は空気中の炭酸ガスを吸収して酸素を空中に排出しています。そうして動物と植物との協力に依って生命の序続が可能になっている訳でありますが、若し酸素の多く含まれた空気と炭酸ガスの多く含まれた空気とが容易に混合しなかったならば人間の都市文明は全く存在出来得ないでありましょう。森林や草原や海洋に於いては常に動物と植物とが共存して生活しています。しかし人間の作った巨大な都市に於いては植物の数が余りにも少なく、その上、工業に依って人間が火を使用して大量の酸素を消費し、反対に大量の炭酸ガスや亜硫酸ガス等を放出していることは誰もがよく知っていることでありますが、若し風や気流が無かったならば都市文明はすぐ破滅に陥るでありましょう。大工業都市等に於いて冬期の風の弱い日に煤煙が長く都市上空に立ち込めて、イギリスのロンドンに於いて過去によく起こったスモッグの様な害が起こる例はしばしばあります。その様な被害が過去に案外少なくて済んだのは風と気流に依る空気の拡散と混合が常に起こっているからであります。人間にとって風はしばしば台風や旋風等の暴風となって多くの被害を与えています。しかしそれら暴風の被害に較べれば風から人間が受けている恩恵の方が遥かに大きいのであります。

 更に空気はあらゆる音の源泉であるということであります。「かしこね」の「ね」は音であり、あらゆる音を表わす言葉であると説かれていますが風と音とは全く切り離すことは出来ない訳であります。音は人間にとって言葉として重要な役割を果たすと共に音楽として人間に大きな歓びを与えています。しかし日常生活に於いて音というものが果たしている役割は非常に大きいのであります。私達は声色に依って誰であるかを判断したり、声の大きさに依って人の居る距離を推定したりします。また鳴き声に依って動物や鳥や虫等の区別を知ることも出来ます。音色や音の高低や強弱や調子などに依ってそれが何であるかを区別したりそれぞれの現象や距離等を推定することも出来ます。工場等では音の相違に依って機械の動きや速度や調子などを知ることも出来ます。この様な様々な守護の理が「かしこねのみこと」の息吹き分け、風の守護の理であります。
 
 「たいしよく天のみこと」は人体では出産の時親と子の胎縁を切り、出直しの時息を引き取る世話と説かれていますが、出産の時親と子の胎縁を切るということは、臍の緒に依って繋がっている母と胎児との繋がりを切ることに依って胎児を母から独立させると共に、精神的にも母と子とは別々の意志や個性を持つ別個の人間に切り離すことであります。人間には一生の間には何度も縁を切らねばならないこともあります。学佼を卒業するのも学校との縁を切ることであり、職場を退職するのも職場との縁を切ることであり、所属団体を脱退するのも縁を切ることであり、死ぬるということは家族や友人知人などと縁を切り、人間世界と縁を切ることであります。
 
 出直しの時息を引き取る世話というのは死ぬることは先ず呼吸の停止から始まるからであります。故に息を引き取ることが死を意味するのであり、死に依って人間は現世に肉体的精神的両面で別れを告げるのであります。人間の肉体は息を引き取ることに依って現世との縁を切ることが出来ますが、霊魂はしばしば現世との縁を切り得ないことがあります。それは世間でよく言う、死んでも死に切れないという状態であり、霊魂が此の世に様々な執着を持つことから幽霊とか亡霊となって現れたりするのであります。故に人間は心と肉体との両面に於いて此の世との一切の縁を切らねば安らかに死ぬることは出来ないのであります。霊魂が肉体の死後にも此の世に執着を持って亡霊となることも不幸なことでありますが、世間にはそれと反対に所謂植物人間と呼ばれて、心の働きは何1つ出来ず、ただ肉体だけが生存しているという場合もありますがそれも不幸なことであります。心が此の世との縁を切ることが出来ないのも、肉体が此の世との縁を切ることが出来ないのも共に不幸なことであります。世間にはよく死神という恐ろしい不気味な神が居て人間を死の世界に引っ張り込むのだというように思っている人も居るようでありますが、実際にはその様な不気味で恐ろしい神は存在しないのであります。人間を此の世に生ませられる神も尊く、人間に死ぬる機会を与え息を引き取り神の世界へ帰る機会を与える神も、有難く尊い神であることを覚らねぱならないのであります。
 
 また「切ること一切の守護」ということは刃物や機械で物体を切断することでもあり、更に文化的な面から言えば、多くの学問や理論が1つの学問や理論から分離独立発展して行くのも切り離す徳に依るものであります。この様に「たいしよく天のみこと」の切ること一切の守護の理は霊的な面から物質的な面、更に人間の生命や家庭的、社会的な縁、其の他あらゆる事柄に及んでいるのであります。
 さて次に「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」が「二つ一つの理」に依って繋がる神であります。「いざなぎのみこと」は男性的雛形神格、天では牽牛星、人体では男雛形種の理「いざなみのみこと」は女性的雛形神格、天では織女星、人体では女雛形苗代の理と教えられています。ここでも「いざなぎのみこと」の天では牽牛星、「いざなみのみこと」の天では織女星というのは何となく不可解でありこじつけであろうと思われますので省略致します。ここでは重要なのは「いざなぎのみこと」の男雛形種の理、「いざなみのみこと」の女雛形苗代の理であると言えます。男性と女性との相違は肉体的相違、即ち男性性器は凸形、女性性器は凹形で陽と陰とを現わしている点が代表的であると言えますが、もっと別の面から見れば男性は種の理、女性は苗代の理という点にあると言えるのであります。

 天理教のみかぐら歌には「地と天とをかたどりて夫婦をこしらへきたるでな これがこの世の始め出し」という歌がありますが、男性は天の徳を女性は地の徳を持って生まれて来ているのであります。地上のあらゆる生物は天の徳と地の徳の結合に依って生まれて来ているのであります。そうして天の徳は種に喩えられ、地の徳は苗代に喩えられるのであります。これで十柱の神と守護の理については簡単ではありますが説明を終わりたいと思います。
 
 天理教では理は神であると教えています。理とは天の理であり、道理であり、神の理であると言えます。しかし理そのものが神であると考えることは正しくはないと私は思います。天の理そのものを世界に具現しているのは神であります。理とは法則のことであり、法則を天地や人間の世界に顕現させているのは宇宙の意志、即ち神霊であります。故に理は神であるということはその理と共にある霊が神であるという意味であろうと思うのであります。理は神であるという意味は新約聖書の「ヨハネに依る福音書」の初まりにある「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」というのと同じ様な意味であると私は思うのであります。また天理教に十柱の神があるということは天理教多神教であるという訳ではないのであります。しかしまた天理教ユダヤ教キリスト教の様な一神教でもないのであります。天理王命という神があって、別に十柱の神が存在するのではないのであります。十柱の神は天理王命の部分的表現であり、部分的な守護の理を分担していると言えるのであります。十柱の神がそれぞれの役割を分担しながら助け合って天理王命という1つの神の働きをしていると言えるのであります。
 
 そうして十柱の神の守護の理が様々に結び合わされて天地や人間を動かしているのであります。天理教の十柱の神の中には日本神話の神もありますが、日本神話には関係ない神名もあります。「くもよみのみこと」「たいしょく天のみこと」は天理教で作られた神名であると言えるのであります。天理王命という神名そのものが日本神典にない神名であります。天理王とは元は転輪王であったと言われていますが、転輪王と言えば仏教にも通じる面があります。天理教が出直しを説いていることは仏教とも似ているのであり、天理王命は仏教、ヒンドゥー教とも繋がりがある神であると考えられるのであります。「くもよみのみこと」は月よみのみことをもじった名前であり「たいしよく天のみこと」とは恐らく仏教の帝釈天から取った神名であろうと考えます。神名は人間が作るものであるとも言えるのであり、天理教では天理王命がお筆先を通じて神名を示されたものと思いますが、神名にあまり拘る必要はないと思います。
 
 しかし天理教で説いている天の理そのものは現代科学に無い素晴らしいものが有ると言えます。ユダヤ教キリスト教では創造主が天地や動植物や人間を創造したと説いてはいますが、宇宙の法則は何も説いていないのであります。西洋の天文学や物理学や化学や生物学等が宗教とまったく無関係である点にヨーロッパ文明の不完全さや矛盾があると言えるのであります。天地、大自然を神と見做し、天地自然に起こるあらゆる現象其のものを神の定められた道理法則と説き、神の御業と説いていることは実に素晴らしい真理であると言えます。私達が日常何とも思わず見過ごしている現象の全てが神の定められた宇宙の法則そのものであり、神が働いておられる神の御業そのものであり、神が人間を活かし幸福にするため努力しておられる守護の理であるということは事実なのであります。

 しかし多くの人々は大自然そのものが神の世界であり、大自然の摂理そのものが神の定められた宇宙の法則であり、自然現象そのものが神の御業であることを覚ることが出来ないのであります。では天理教の信者の人々はそれらのことを充分理解し覚っているかと言うと必ずしもそうとは考えられないのであります。天理教では十柱の神の十全の守護と説いていますが神の世界はそれ丈のものではないのであります。天理教で説かれている真理は宇宙の真理の一部に過ぎないのであり、天理教に欠けているものも多く、矛盾も多く含まれているのであります。人間の祖先は「どじょう」であるという様な教えは教団幹部の人々も必らずしも正しいと信じている訳ではないと思います。ヨーロッパの進化論や生物が著しく優れている点については卒直に認めるぺきであります。しかし天理教本部の中山真柱を始め教団幹部の人々は「人間の祖先がどじょうであるというのは現代の進化論や生物学などから見れば正しくないとも考えられるが、神が説かれた教えであるから現代の我々には知ることの出来ない深い意味が隠されているのかも知れない。我々は後世の人々に依ってこの謎が解ける様になる迄大切に教えを守り伝えて行こうではないか」といった様な考え方を持っているのであります。
 
 神の教えだから何でも正しいと盲目的に信じてしまう処に人間の弱さや信仰の誤りがあると言わねばならないのであります。現代の進化論や生物学には偉大な真理も含まれていますが重大な矛盾や欠点も含まれているのであります。それは私が何度も述べて来た如く、生命の進化は肉体的進化と共に精神的進化即ち霊魂の進化と共にあるということであり、生物の活動は肉体に宿っている霊魂の意志に依るものであり、霊魂と肉体との一致協力に依って全ての生物は生活して行けるのだという点であります。その点で現代生物学や進化論は大きな矛盾や欠点を持っていますが、天理教にも偉大な真理が含まれている反面重大な矛盾や欠点も含まれているのであります。故に天理教団の人々はそのことに気付かねばならないのであります。ヨーロッパの進化論や生物学や物理学と天理教とを比較してみる時、そのどちらにも偉大な真理が含まれている反面、どちらにも大きな矛眉や欠点があるということが歴然として判るはずであり、宇宙は霊魂と物質との世界であって、唯心論に徹しても唯物論に徹しても真理を覚ることは出来ないのであります。